2016/08/30

芝居の「型」

  芝居の「型」について。雑感。


  声優の芝居に、キャラクター類型ごとの「型」が出来てしまっているというのはそれなりに確かだろうけれど、それを「コピー」呼ばわりするのは一面的に過ぎるのではないかなあ。

  1)芝居に限らず、おそらくほぼすべての創作分野が、それぞれ大量の「型」を持っている。そのような共通了解を形成するほどの蓄積がなされており、それが新たな表現に際しての有益な手掛かりになっているというのは、一定以上に成熟した分野であればどこでも生じることだろう。むしろ、そうした蓄積をみずからの芝居にフィードバックする姿勢を否定することは、「ゼロからのピュアな創造」のような疑わしい主張に接近してしまいかねない。

  2)そうした型が、そこからの逸脱の許されない規範になってしまったり、あるいは新たなイマジネーションを縛りつける制約になってしまうならば、それはもちろん問題だ。しかし、少なくとも声優の芝居に関して、そんなことは生じているだろうか? 似たような設定のキャラクターでも、声優Aと声優Bが演じる場合では、まるで違ったキャラクターとして聞こえるではないか。あるいは、同一の声優が似たような設定のキャラクターを演じていてすら、それぞれ異なった世界が現れるではないか。またさらに、似たような設定と思われるキャラクターの芝居でも、5年前、10年前、20年前のそれは、現在私たちが聴くような芝居とはまったく違っているではないか。「芝居の幅が狭くなる」という懸念は、杞憂ではないか。

  3)そもそも、芝居において重要なのは、演じる側においても聴く側においても、一人一人のキャラクターの、あるいは一台詞一台詞の、そうしたデリカシーを掴まえることであって、一聴して明らかに違って聞こえるように芝居のヴァリエーションを増やし続けることではないだろう。

  4)型が出来ることは、悪いことなのだろうか? 型を型として認識できるほど明瞭なものになっているということは、それだけ「そのタイプのキャラクターをどう表現したらそれらしくなるか」の技術が進展してきたということに他ならない。個人単位でも、ある一人の声優が、ある一定のキャラクター類型に対して――あるいは、一つのキャラクター類型を新たに自ら見出して/作り上げて――「このキャラはこう演じるのだ」という理想の核心を掴むことができたなら、そうして「得意なキャラ」を持つことが出来たなら、それは役者としてたいへん素晴らしいことではないのか。そしてそれは、個々の役者の問題だけでなく、「役者」全体についても、役を演じるという営み全体についても、成り立つ話だろう。そして、確立された「型」は、プロとしての表現力を持った役者にとっては、自らの芝居の幅を狭める拘束としてではなく、自らのの芝居を展開していくための手掛かり(あるいはせいぜい参照項)として有益に働きうるだろう。

  5)型にはまったキャラクターが出来ているとしても、それは役者のみの責任ではない。それをもたらすに至った土台乃至前提としての脚本/設定/属性の共有、あるいは受け手のカテゴリー的認識(の怠惰さ)にも責任があるだろう。



  要するに、多くの役者たちの試行錯誤がきちんと参照されることによって、さまざまなキャラクターの「型」が集団的に形成されていることは、良いか悪いかで言えば明確に「良い」あり方だろう。しかもそれは、固定化するのではなく、不断に発展し、変化し、多様化し、豊かに説得力を増し続けている。あるいは、もっと原理的に言えば、それが「型」に嵌まっているかどうか、他のキャラクターと似通っているかどうかといったことは、そもそも問題ではない。重要なのは、その都度その都度、現に生成しつつあるキャラクターを、どれほど生きた形で演じられるかだろう。「型通りだが説得力のある芝居」と「ユニークだが説得力に欠ける芝居」があったとして、優れているのは前者だろう。もちろん、後者が無意味ということではなく、後者のような挑戦はキャラクターの型をさらに深めていく大きな機縁となり得るが、しかし前者もまたそうした深化に十分寄与するのだし、芝居の価値はあくまでその場の説得力に掛かっているという原則は揺るがない。

  特定の「型」があるとしても、コピーが単なる機械的な反復再現で終わることは無く、人間の表現行為は常にその都度新たなものをもたらしていく、それは信じてよいだろう。もしもそうでなければ、舞台公演は常に初日のみに創造的意義があって、二日目以降は無価値なコピーだということになってしまうが、実際にはもちろんそんなことは無い。同一の役者の一連の舞台公演の間ですら、そうした新たな創造性の契機は豊かに存在するのだから、異なった役者、異なった共演者、異なった時間、異なった脚本、異なった聴衆であれば尚更、その都度の芝居は、その都度まったく異なったものであり、そしてそれぞれまったく異なった価値を持つだろう。

  もちろんこれは、聴衆の側の問題でもある。似たような設定のキャラクターでも、それぞれまったく違っていることを聞き逃してはならないし、あるいはそもそも、まったく別個のものとして誠実に聴かねばならない。役者の側が型に嵌まったルーティン的反復に陥らないように気をつけねばならないのと同様に、聴き手の側も、「ああ、またこんなキャラね、ふんふん」とただ既存の型に当てはめて聴くような皮相的な聴き方をしてはならない。



  美少女ゲームは、アニメと同様に、あるいはアニメよりもさらに激しく、キャラクターの類型化に晒されている。しかし、90年代から00年代初頭のような素朴な「属性」分類の時代は遠く過ぎ去っており、キャラクター設計ははるかに複雑で多面的なものになっている(――ほんの一例として、拙稿「三属性によるキャラクターデザイン」を参照)。「褐色肌」であれ「ツンデレ」であれ「眼鏡」であれ、ある一つの「属性」を持つからといって、似たようなキャラクターになることは最早無い。そして声優の芝居もはるかに多面的なものになっているし、そしてそれとともに、一人一人の声優の個性(を聞き取ることの大切さと難しさ)もよりいっそう大きなものになっているだろう。一つ一つの科白のニュアンスと新しさと美しさを聞き取ることの重要性は言うまでもない。



  型に嵌まることの危険性と不毛さは、私も理解しているつもりだけど。対戦型スポーツでは、一つ憶えの一本調子でいたら当然負けまくるし、格ゲーや囲碁将棋のような対戦型ゲームでも同じことが起きる(――機能性が人工的に設定されるデジタルゲームの場合、判定の強い技だけをひたすら繰り返す「お子様プレイ」でも、低いレベルではそれなりに勝てる場合があるけど)。ACTやSTGでも、いったん構築したパターンで繰り返しプレイしても、試行錯誤と結びついていなければ、惰性的反復で終わってしまい、スコアやタイムは伸びない(――操作の精度を上げていくという側面はあるけど)。攻略パターンを改良するのは、いったん確立した既存のパターンをいったん崩す(逸脱する)というプロセスを辿らざるを得ないので、心理的な難しさがある。

  そもそも、自分の中にはっきりした方法論や評価基準を持っていなかったり、自分自身のアクションを適切に認識して次のアクションにフィードバックしていく能力が無かったりすると、新しいものやより良いものを生み出していくことが出来ない(仮に出来たとしても幸運か偶然にすぎない)。だから、型に嵌まることを怖れるよりも、そうしたスキルを学んでいない未熟な素人状態をこそ怖れるべきだろう。アマチュアならば好きにしていればいいが、自立したプロであるということは、自分で自分の技術や出力を改良していけるということだ。そして、声優であれ何であれ、プロになるための教育とは、やみくもに型を教えることではなく、そうした自立の技術的基礎を確立させることだ、という教育上の議論としてならば、最初の問題、つまり、型に嵌まらないようにすべきだという主張には、首肯できる。(というところまでようやく思考が及んだ。) どんな分野でも、素人というのは往々にして、本当に文字通り、「何をしたらいいのか分からない(ものの見方を知らない)」、「何が良いのかも分からない(対象を評価する物差しを知らない)」、「自分が何をしているのかも分からない(自己評価とフィードバックの仕方を知らない)」ものだからだ。