2018/06/20

00年代アダルトゲームにおける悲劇要素

  00年代のアダルトゲームにおける悲劇的要素の扱われ方について。


  今時「泣きゲー」というワードは通用するのだろうか? そんなものは(アイデアも作品も)消滅して久しいと思っていたので、あるところで目にしてちょっと驚いた。

  実際のところ、「泣きゲー」という言葉からイメージされるような典型的な作品――つまり悲劇によるカタルシスを物語全編の中心に据えた作品――は、昔から非常に少なくて、単独のカテゴリーを立てるほどのものではなかった。key作品や『加奈』など、本当に例外的なごく一部の作品だけだった(※EGScapeのデータベースでも、「泣きゲー」のようなPOVは成立していない。成立し得るだけの作品数がそもそも存在しなかったのだ。POV「心に残るバッドエンド」はあるが、扱う範囲が狭すぎる)。

  ただし、00年代初頭あたりには、大上段の悲劇とまではいかずとも、センチメンタルでメランコリックな要素を含む路線に、多くのブランドが挑戦していた。例えばHOOKSOFTは、今でこそ楽天的で微温的な恋愛AVGの旗手と目されているが、デビュー作『雨あがりの猫たちへ』(2001)はSF要素を交えたムーディな作品であり、第2作『天紡ぐ祝詞』(2002)も、伝奇的趣向のミステリアスな作品だった。

  このブランドに限った話ではない。HOOKSOFT(当時はHOOK)のこの2作品に見られるアプローチ、すなわち「悲哀感を伴ったリリシズム」と「伝奇ベースのドラマ展開」の二つは、多かれ少なかれ、この時期のアダルトゲームの雰囲気を規定していた。これは、アダルトゲーム分野内部においては『ONE』(Tactics、1998)や『痕』(Leaf、1996)に触発された90年代末以来の傾向であったと言えよう。


  さらに、アダルトゲーム以外のオタク系分野にも、この時期には苦い悲劇をストーリーの中心に据えるアプローチがしばしば見出される。家庭用RPG『FINAL FANTASY VII』(1997)あたりが、その一つの頂点(最も有名なものの一つ)であったかと思うが、それ以降も00年代初頭まではそうした悲壮感の味付けはメジャータイトルにも頻繁に現れていた。例えばLN作品では『キノの旅』(単行本は2000年-)の苦みのある傍観者的風刺や、『イリヤの空、UFOの夏』(単行本:2001-2003年)のノスタルジーと無力感の混じり合いなど。あるいは『まほろまてぃっく』(TVアニメ版:2001-2003年)では、本編の大部分は、引退した戦闘アンドロイド「まほろ」との日常コメディが展開されているが、各話の最後に「まほろさんがその機能を停止するまで残り○○日」というテロップが表示され、視聴者は来たるべき主要キャラクターの死をくりかえし念押しされていた。

  雑駁に言えば、00年代前半頃までは、1)オタク界隈におけるデリカシーはキャラ萌えだけでなく物語的要素にも大きく振り向けられていたし、2)その中で、悲劇的展開や苦い結末を受け入れられるタフさも、現在よりもはるかに高かった。さらに、3)人の生死や悲運を扱うベタな感動ストーリーも、この時点ではまだ擦り切れていなかった。


  いや、「タフさ」などといってオタク個々人のメンタリティの問題に還元するのは、説明として適切ではないだろう。例えばアダルトゲーム分野について言えば、悲劇的展開があまり採用されなくなったのは、様々な構造的文化的要因が影響していると考えられるからだ。すなわち:

  1) 00年代前半頃からの脚本長大化に伴って、悲劇ネタ一本だけでは物語の枠組全体を支えきれなくなったこと。

  2) また、脚本長大化に伴って、AVG作品が複雑なフラグシステムを持つことが難しくなったこと。制作技術の問題だけではなく、長大なストーリーでプレイヤーに分岐を試行錯誤させるとプレイヤーの負担が極端に大きくなるためでもある。いずれにせよ、00年代のAVG作品は読み物的性格を強めていった。そして、フラグの試行錯誤によってバッドエンドを回避するという作品コンセプトも困難になった(――『脅迫』『3days』『古色迷宮輪舞曲』は、例外中の例外だ)。

  3) 00年代半ば以降の白箱系では、キャラクター間関係の表現が濃密になっていき、それとともに共同体(サロン)的性格が強まったため、悲劇的展開との相性が悪くなったこと。サロン的性格はとりわけ『巫女さん細腕繁盛記』(すたじお緑茶、2003)が大きなマイルストーンだったし、生活共同体の描写に関してはとりわけ『アッチむいて恋』以降のASa projectが代表的存在だろう。

  4) コメディの復権も、当然ながら悲劇との折り合いは悪い。ういんどみるは設立当初からコメディ展開を全面に押し出していたが、00年代半ば以降の白箱系再編期からは、とりわけゆずソフトWhirlpoolがこの路線を推し進めてきた。

  5) 00年代初頭のうちに、古典的な伝奇ものは急速に退潮していった。カテゴリーとしての伝奇ものは解体され、萌えキャラの味付けとしての「神様ヒロイン」もの(例えば『天神乱漫』『恋神』)と、比較的少数の異能バトルもの(『Dies』『coμ』)とに分裂し、それぞれの路線を進んでいった。萌えキャラコメディとハードボイルド異能バトルのどちらにおいても、受動的で観照的な悲哀感が差し込まれる余地は無かった。

  6) 黒箱系では、一つにはアダルトシーンの徹底的な増強志向があり(例:GuiltyBISHOP)、その中でストーリー上の悲劇的要素が介入できる余地が少なくなっていった。また、受動的な悲劇状況よりももっと破壊的な路線へと先鋭化していったブランドもある(例:SPEEDWAFFLE)。ちなみに伝奇要素に関しては、田舎奇習設定や触手(異種族)ものの体裁で、黒箱系は伝奇ネタを好んで取り上げている(例えば『神楽』シリーズ)。

  7) ピンク系や低価格帯は、よく分からない。アトリエかぐやに代表されるようなピンク系は、総じて性的享楽の安逸を存分に表現してきたジャンルなので、悲劇要素とはほとんど正反対の存在と言ってよいだろう。ロープライスは一概には言えない。単独ヒロインとひたすらイチャイチャするピンク系(思春期恋愛もの)もあれば、挑戦的なバッドエンドを含む女性主人公ものもある。


  他分野でも、それぞれ特有の事情があるだろう。自信を持って断言することはできないが、例えば漫画やLNでは、連載継続が困難になるにつれて、悲劇的展開を入れることが躊躇される傾向があったかもしれない。アニメやゲームも、大規模なメディアミックス展開を仕掛ける都合上、不幸な展開を持ち込んだりそれを引きずったりすることが避けられているかもしれない。また、各分野の技術的進展とともに描写のディテールが全般的に向上したため、安っぽい感動喚起的ストーリーがその表現スタイルにフィットしなくなってきたのかもしれない。あるいはSNSにおける情報伝達および体験共有が広まったため、悲劇的展開によって視聴者を驚かしたり重苦しいシーンを続けたりすることが難しくなったという要因もあるかもしれない。