2019/03/31

2019年3月の雑記

  2019年3月の雑記。(→4月2月

EXQ「渡辺曜(2nd)」。例によってエッチング眼鏡を着用させている。「今月の一枚」コーナーとしてひとまずこれを掲載しておくが、他に良いものが出来たら適宜差し替えていく。


  03/30(Sat)

  杏子氏のサイン会……行きたかったな。いろいろと立場もおありだろうに、こうした企画を応諾してきちんと仕事をされる姿勢には、敬意を抱いている。


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  ああ、確かに……。一ユーザーとしても、このキャラクターは「これぞ萌花ちょこ」「The萌花ちょこキャラ」「萌花ちょこ氏の代表作」という印象を持っている。

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  「1時間200ワード」ということは、「1分に3クリック分以上」のペース、要するにほぼ全ての台詞が一発OKで、ワードとワードの間で手間取ることも無く、するすると円滑に収録されているということになる。それだけの集中力とクオリティのある方なのだなあと、あらためて敬服する。

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  おそらく『BUNNYBLACK2』のメリルのこと(※松永氏から役を引き継いだ)。そういうところにもきちんと気を遣われているのか。そして、実際に形作られた芝居は実に素晴らしいもので、当時の私はキャスト交替で悲しい思いをしていた松永ファンだったのだが、そのまま即座に萌花ちょこファンになったものだった。まさに芝居の実力で、前作ファンを説得しきったということだ。


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  こちらは最近のあさみ氏。本職声優なので動画での発声も安定しているし、モデラーとしても十分なスキルがおありなので作品の出来映えも良いし、エフェクト的な塗り足し(影付け)なので動画としてもコンパクトにまとまっている(5分半)。ちなみに、イラストもいけるという多才な方。


  自分の(オタクとしての)代表作か……うーん、ろくなものが無いので恥ずかしい。

  アダルトゲーム分野の特殊な突き詰めプレイというと、いつぞや拝見した「あてな2号の最強化」は素晴らしいものだった。
1)独自性のあるコンセプトの着想、
2)下準備としてのシステム面の詳細な調査、
3)目的に即したプレイ計画の立案、そして
4)地道で正確な実践(&柔軟な軌道修正)、
といった要素を兼備している。ただ単に時間をかけて育成すればいいというものではない。
  私の場合は『ブラウン通り』『巣作りドラゴン』『アウトベジタブルズ』『悪魔娘』のスコアアタックに挑戦したことがあるけど、いずれも中途半端なものだった。むしろ『DAISOUNAN』の姫と二人で遭難生活1000日や『BB2』の白フィリアネLv99の方が、私らしいと思う。ダークスLv1クリアに挑戦したのは、『BB』シリーズのどの作品だったか。


  lightは、いささか付き合いにくいブランドではあったけれど、面白い作品をたくさん作ってくれていたからね……。木村氏や青山氏、美月氏、波奈束氏を主演起用されたのもありがたかった。惜しまれるニュースだが、優秀なクリエイターたちが他の場所で活躍されることを願いたい。



  03/28(Thu)

  オタクショッピングをすると、心の皺が伸びる思いがする。ストレスや抑鬱傾向をいくらか解消してくれる。もちろん、散財でストレスを解消するのはけっして健全なことではないし、結局のところ対症療法(≒その場しのぎ)にすぎないのだが、しかし当座の負荷や痛苦を和らげられる手段を持っているかどうかは大きな違いだ。問題の原因それ自体については、別途きちんと対処を考えていけばよい。

  ストレスの掛かる行動は、「やらないと決める(※決断するならばできるだけ早く)」か、「やらずに済ませる方法を探る(※ただし、引きずりすぎたり、回避模索にストレスが掛かったりしてはいけない)」か、あるいはせめて「ストレスの少ない仕方でやる(※まあ仕方ない)」か、いずれかの対処をとりたい。ストレス要因にまっすぐぶつかるのは危ないので。


  下らない作品やつまらない娯楽、それ自体が素晴らしいという話ではない。それらの作品の客観的価値を一々直接的に称揚する必要は無い。そうではなくて、そんな下らない作品やしよーもない趣味ですら存在していられるような自由、多様性、豊かさ、そういった余地が存在すること、そんな様々なアイデアが着想されて実際に試されていることが素晴らしいのだ。
  1) とりわけ芸術作品のような非実用品は、実際に作ってみなければ、どのような性質(または品質)のものになるかが分からないし、それを実際に公表して世に問うてみなければその意義が認識できないという性格が強い。実用品であれば、あらかじめ用途を想定し、特定の機能を設計し、そのパフォーマンスを実験室の中だけで測定することが比較的容易だが、アートや娯楽作品の場合は、なかなかそうはいかない。
  2) また、実用品に致命的な欠陥があった場合には危険な事態(怪我や破壊)をもたらす虞があるが、アートには基本的にそういうことは生じない(※グロテスク表現による精神的ショックや差別表現による社会的ダメージのような各論的問題が無いわけではないが、それらはアートに必然的に備わった危険などではないから、ここでは問題にならない)。
  3) さらに、趣味分野における個人個人の活動は、「まだ上手くなくてもまず実践してみる、そうした中で技術的にも上達するし様々な見識も備わっていく」という性質がある。この点では、公教育のように正統な学習手段が用意されている活動とは異なるし、学術論文のように最初から隙なく精密に著されているべき仕事とも異なる。
  こういった一連の事情からして、「面白いかもしれないし、それともつまらないと判明するかもしれないような、様々な作品が、大量かつ多様に制作され、自由に公表されている(そして実際には、面白い作品もつまらない作品も大量に世に現れている)」というのは、人間社会としては健全な状態であり、望ましい状態だと言うべきだ。
  もちろん、ある人にとってのその「下らない作品」が、別の人にとってはかけがえのない一本であるという側面もある。また、一般的にはまったく愚劣と見做されるであろう作品が、ある個人にとっては味わい尽くせぬ無限の魅力を湛えているということだってあり得るし、実際にそういうことは無数に生じているだろう(※想像しやすい例としては、いわゆるエログロナンセンス系のコンテンツ、例えばエキセントリックな趣向の性表現について、そういう事態が生じうる)。


  『ウテナ』を再視聴しているのだけど、第一部のクライマックス(第10~12話)は、やはりおぞましくも感動的だ。篠原さん、本当に良い友人だなあと思う(※後に「黒薔薇」編のエピソードでも、ウテナがついに剣を振るわない相手が彼女だった)。音楽的表現も素晴らしい。


  フィクションのキャラクターの、年を重ねた姿はわりと好き。例えば「高校生キャラクターが、エピローグで心身ともに成熟した大人になっているシーン」とか、「中学生キャラクターが、二十歳くらいになった時をイメージしたファンアート」とか、「あるキャラクターの、美しい白髪になった老境の姿を幻視する」とか、「主人公の死に際の有様までを夢見た邯鄲の夢」とか、そういう類の。キャラクター造形の落差と連続性の絶妙の混じり合いが面白いし、その間にキャラクターが辿った人生の様々な出来事をかすかに暗示するロマンティックな香りは魅力的だし、その幻想的な圧縮の大胆さも刺激的だ。そのキャラクターが精神的人格的に成長した(より優れた状態になった)という嬉しさもある。さすがに現実の個人についてそういう想像をするのは失礼に当たるけれど、虚構存在の人生はいかようにも造れてしまうものだし。
  ゲームだと、上述のようにエピローグでそういうシーンが描かれるのはよくあることだし、また、ループものは構造上、そういう表現を扱いやすい。前者は例えば『悪魔娘の看板料理』で、幼いサシィアーネが立派な大商人になったエンディング。後者は例えば『蒼色輪廻』で、主人公がヒロインに看取られる幸福な老衰死のエンディング。あるキャラクターが、続編タイトルに再登場して、「ああ、こんな大人になったんだなあ」とか「ああ、こいつは全然変わってないなあ」という感慨を持つのも――ベタに乗せられすぎだとは思うが――これはこれで楽しい。さらに『アステリズム』では、作中で実際に三つの年代にわたってメインヒロインとの関わりが描かれる。『よつのは』は、過去の思い出に遡るという順序になる。
  ストーリー中では、「成人キャラクターが魔法や発明品によって幼児化する」というパターンは多いが、逆に「一気に加齢する」というものはなかなか見かけない。まあ、人生経験抜きに単純に身体年齢だけを老化させてもちっとも面白くはないわけだが。
  当然ながら、年を取ったことをネガティヴな意味で笑いものにする手合いはNG。特に女性キャラクターや、さらには実在の女性に対してすら、そういうことをやらかす悲しい人たちが存在するのだというのは私も分かっているけど。


  「アイチョ」の記事も拡充したいのだけど、そちらは「胃~之煮」以上に難しい。というのは:
  1) ゲームメーカーの宣伝番組なので、配慮しなければならない度合いが大きい。
  2) 宣伝的部分とフリートーク部分のバランスを取る必要がある。
  3) 結果的に宣伝的部分をかなり書かなければいけなくなる。作業負担が大きい。
  4) 個々のコーナーがはっきりしているだけに、記事の粗密が露呈しやすい。
  5) 内容がきちんと構成されていて密度が高いので、「ながら聴き」では作業できない。
  6) 名言が多すぎるので、一々書いていたらきりがない。危険なギャルド発言も多い。
  7) 毎回45~50分程度という長時間のコンテンツで、非常にボリュームが大きい。
ざっと思いつくだけでも、このくらいのハードルがある。400時間以上掛かるだろうし、私にはもう無理だと思うので、誰かやってくれないかなあ。



  03/26(Tue)

  DLポイントを買い足しておかねば。Ci-enのSHCファンクラブにしか使っておらず、不足しそうになったら1万円ずつ注ぎ足しているのだが、月額3,000円、年間で36,000円になるわけだから、わりと頻繁に購入の手間が発生する。ラジオは順調に継続されていることだし、いっそ3万円くらい突っ込んでおく方が気楽かも。もしもSHCのコンテンツが終わってしまっても、まあ私もオタクなので、残額の使いどころはなんとでもなるだろう。

 支援者1000人のうち、仮に7%が1000円コースで2%が3000円コースだとしたら、手数料を引いて月額117,000円になる。ラジオが月一回収録と考えても、コンテンツ単体として収支のバランスは取れているだろう。もちろん、これは商業ゲームメーカーの宣伝活動の一環なので、宣伝費のコストを考えれば尚更、十分割に合うものになって…いたらいいなあ。続いてくれたらいいなあ。少なくとも大波氏と萌花ちょこ氏がゲストに来られるまでは続いてほしい。できれば羽高氏と春日氏と青山氏と一条氏と海原氏と芹園氏と青山氏と星咲氏と青山氏も……。


  好きなキャラクター要素(いわゆる「属性」)の話題について、私自身は何が好きだろうかと考えてみたら、まず思いついたのは「褐色肌」と「眼鏡」だった。ただし、この二つは非常に併用されにくいようで、「褐色肌+眼鏡」なキャラクターはなかなか思い浮かばない。キャラクターの魅力というものは、好ましい属性が追加されれば自動的に魅力が加算されるというものではないから、べつに構わないのだけど。とはいえ、あればあったで嬉しいというのも確かだ。
  『BUNNYBLACK』シリーズのメリルさんは、この2要素に加えて「スリム」「小柄」「知性派」「苦労人(補佐役的立場)」「ツリ目」「異種族(魔族)」「松永ヴォイス/萌花ちょこヴォイス」と、文句の付けようのないキャラクターだった。あえて難を挙げるなら、「ファッションセンスが特殊」「出番が少ない」という点だろうか。
  それ以外だと、『恋姫†無双』シリーズの周瑜(南方国家)とか、『SEVEN-BRIDGE』のナンシー(インド系)とか、『シキガミ』の「大江朱・」(鬼)とか……あっ、3人ともかわしまヴォイスだ。『ジンコウガクエン』のキャラメイクでも、眼鏡褐色肌のキャラクターを作って一人で大喜びしていた。『リトルウィッチロマネスク』の建築家マリエラさんも。近作では、『Evenicle II』のヒロイン級にも一人いるようだ(※未プレイ)。

  有名どころだと、『ウテナ』の姫宮さんと、それから、えーと、えーと。

  悔しいのでちょっとweb検索してみたら、近年の作品では例えば:
  [ www.taito.co.jp/prize/item/0000002144 ]
このプライズフィギュアは店頭でも見かけたが、買っていなかった。「褐色肌 眼鏡 キャラクター」や「小麦色 メガネ キャラ」などのキーワードでggl画像検索を開いてみたら、このブログのフィギュア写真が何枚も出てきて、恥ずかしいやら(※不出来な写真を見返したくない)、悲しいやら(※他に情報が乏しいということだから)。たしかに鏑木さんに眼鏡を掛けさせて喜んだりしていたので、申し開きのしようも無い。
  もちろん現実世界では、「浅黒い肌で眼鏡を掛けている」というのはごくありふれた外見的特徴なのだが、日本のオタク系フィクションの領域ではきわめて稀という、興味深い現象だ。「褐色肌」要素は、日焼けによる素朴で健康的なイメージや、(いささか偏見に基づくが)プリミティヴな戸外生活のイメージを反映しがちなのに対して、「眼鏡」はまぎれもなく人工物でもあり、インドア派の知的/美的/文化的な洗練のイメージと結びつきがちなので、相性が良くないと見做されているのだろう。

  肌の色の如何は、日焼けの場合だけでなく、個人の――人種的帰属にも関わりうる――生得的な身体的特徴そのものである場合もあるので、言及する際には一定のデリカシーが求められる。眼鏡も眼鏡で、ファッション的に着用する場合もあるとはいえ、基本的には低視力を補うための一種の医療機器だが、こちらは現実社会における処遇の有利不利にはほとんど関わってこなかったから大丈夫だろう。むしろ現実よりも虚構寄りの領域(オタク界隈)で、十数年前には眼鏡ヒロイン嫌悪が公然と叫ばれていたという陰惨な迫害の歴史があったりする。

  掛け値なしの本音を言えば、最も好ましいキャラ属性は「根谷ヴォイス」「北都ヴォイス」「門脇ヴォイス」「美月ヴォイス」みたいな感じになる。……それってキャラ属性の話か?

  上記のメリルさんの要素を全て反転させたキャラクター像を考えたら、「色白で裸眼で、肉付きが良くて大柄で、頭は良くないがリーダー気質で、タレ目の人間族で、喋りが一本調子、ファッションセンスは良くて、出番が多い」といったものになる。なんだか「無能な貴族キャラ」や「物語序盤のおバカ系悪役キャラ」にありそうな感じだが、「おつむは緩いが人望はある」と考えれば、これはこれで可愛げがあるかもしれない。天然な牛魔王ヒロイン? 性別はどちらでも面白そうだ。

  眼鏡の魅力は自明だからあらためて説明はしないが、褐色肌表現の魅力はと言われたら、「カラーイラストで肌のグラデーションがきれいに出る」、「血色の良さそうな感じや、肉付きの柔らかさなどが見て取りやすい」といったあたりだろうか。白い肌だと、イラストできれいな陰影をつけるのが難しいが、ベースが濃い色の場合は明暗のコントラストやグラデーションの色調がほどよく表現されていると感じる。その他、「魔族キャラの特徴づけになっている」という場合もある。物珍しさという側面があることも否定しない。正直に言えば、キャラクターの浅黒い肌や小麦色の肌にどのような見地から魅力を見出しているのか、自分でもよく分かっていない。
  個人的には、健康美やエキゾティシズムはあまり考えていない。ダークエルフ好きというわけでもない。私自身が小麦色の肌になりたいというわけでもない。部分日焼けのような作為的なコントラストは、あまり好きではない。その一方で、透き通るような白皙の肌というのも、もちろん美しいと思うし、アジア系などのよく見慣れた肌の色のキャラクターも親しみやすい。

  せっかくだから、眼鏡のことも書いておくか。「知的な印象」や「距離を置いた冷静さの印象」というのが代表的な要素だろう。その他にも、「眼鏡というパーツの人工美が付け加わる」というのもあるし、「顔のあたりがのっぺりせず、引き締まって見える」「顔面に立体感が生まれる」「シルバーやレッドの色彩感が増す」という視覚的な要素もある。また、立体物でも「視線の明確化」という作用が生まれることが多く、そこからさらに、意志的な表情に見えるようになる。そして、キャラクターの内面造形へのイマジネーションを刺激してくれる。
  ちょうどこの一ヶ月、このブログトップに掲載していた眼鏡化「渡辺曜」フィギュアを実例として見てみよう。これを見慣れたうえで、公式サイトの非眼鏡写真を見ると、「のっぺりしている」「立体感が乏しく、平板に感じる」「両目の間が間延びして見える」「視線がぼんやりしている」「どこか物足りない」「何かワンポイントのアクセントが欲しい」「顔が剥き出しで恥ずかしい」と感じる(ということにしておこう)。その落差分の内実が、とりもなおさず、眼鏡によってもたらされていた効用なのだ。

  実のところ、私以外の人々が眼鏡の有無をどう感じるかは分からない。冗談抜きに、このフィギュアは眼鏡化した状態のほうが良いと思うのだが、どのくらい賛同を得られるかは見当が付かない。ちなみに、このキャラクターは原作(アニメ)でも眼鏡を掛けることがあるようだから、フィギュアに眼鏡を掛けさせても失礼には当たらないだろう。


  小林氏の発言を巡って。私が見ている何人もの方々が言及していたので。
  萌えミリ趣向を含めて、趣味分野における評価については以下のように考えている。
  1) 好き嫌いの次元で私見を述べることは、もちろん自由である。趣味のレベルのみでその好悪を判断することは可能だし、そういう美的なレベルでの判断を下してもよい。
  そしてこれは、萌えミリ全体を総称的に(大雑把に)対象として判断するも可能だし、個々の作品に即して判断を下すこともできる。
  ただし、「好き嫌い」の美的乃至情緒的主張の範囲に留まろうとするならば、言い方には一定の限界がある。換言すれば、その範囲を踏み越えた言い方になれば、単なる好き嫌いの表明とは受け取れなくなる。

  2) 善し悪しの価値観を持って、それを公然と提起することも、もちろん自由だ。ミリタリーネタは基本的にノンフィクションの領域であって、そこには実在の人々の生死が含まれているし、実在の社会制度やその運用に対する評価も含まれるのだから、それを扱う際にも、取るべき表現形式や取るべきではない表現形式があるのだという規範的主張を形成することはあり得るし、そうした社会的な問題提起を公言することも、もちろん制約されてはならない。
  ただし、自分一人の好みではなく一般的な妥当要求を伴う主張として提起するのであれば、その主張がちゃんと成立しているか(きちんとした根拠に裏付けられているか)はその人の見識次第だし、それが説得力を持って人々の賛同を得られるかは相手次第だが。いずれにせよ、善し悪しに関する客観的な議論の地平が存在し得るということは認められるべきであって、受け手がそれを好き嫌いの問題に還元してはならない。
  そしてこれも、分野全体に対する概括的な判断として提起することも可能だし、個別作品に即した判断もあり得る。いずれにせよ、社会的な「~であるべき」の規範的主張を提起するならば、その主張は客観的な根拠――つまり個人の主観以外のなんらかの理由――に伴われていることが求められる。

  3) そのうえで、個別的な問題として。一つの萌えミリ作品を取り上げて、侮蔑的と取られるほどの攻撃的な発言を広言するのであれば、その発言の責任を取るべきだ。つまり、「1)好き嫌い=美的観点」の次元の感想を超えていると見做されるのであれば、「2)善し悪し=規範的観点」の次元で、当該作品または萌えミリ全体について、それが何故不当だと考えるかを説明すべきだ。
  4) 自分が表紙を非-萌えスタイルで描き直してやる云々というくだりについては、第一義的には、頼まれてもいないのに「他人の作品を直してやろう」という主張にしか読めないので、非常識な妄言の域を出ない。ただし、もしも、「非難するからには、『おまえがやってみろ』という描き直しの依頼が来たならば、必ずや自分の手でやってみせよう」という姿勢の表明であるならば、自分の発言の責任を引き受けるものと言えるかもしれない。そこまで考えていたかどうかは疑わしいが。仮に皮肉や冗談と取ろうにも、表現が拙劣すぎるし。
  5) 小林氏が斯界のビッグネームであるという点については、どうでもいいと考えている。少なくとも私は彼に、べつになんら権威を認めていない。彼の言葉に説得力があればなるほどと傾聴するし、説得力が無ければそれには取り合わず自分で考えるだけだ。

  ちなみに私は、小林氏の作品は全然読んだことが無いし、彼が作品の内外でこれまでどのような主張をしてきたかもほとんど知らない(つまり、好きでも嫌いでもない)。彼の主張は、世間的な萌え嫌悪やオタク嫌悪とつながるようには見えないので、基本的に無害(コップの中の嵐)だと思うが、いずれにせよ自由に意見交換すればよい。
  私自身の基本的な立場は、萌えミリのアプローチを広汎に認めようとするものだ。個々の作品(フィクションであれ自由研究であれ)のコンセプト次第で、萌えミリの見せ方の巧拙はあるだろうし、それ以外でも、萌え絵を使うTPOのプラグマティックな適不適はあるだろう。
  小林氏については、好き嫌いの主張であれ善し悪しの主張であれ、彼がそう思ったなら何を言おうが構わない(当然だ、彼にも発言の自由がある)が、さしあたり見たかぎりでは彼の主張には何の説明も無く、何の説得力も無く、何の参考にもならなかった。自分ならば「かっこよく」描くなどと述べているのを見ても、軍事ものの社会的側面をシリアスに捉えようという姿勢はまるで見て取れないので、本当にただ「好き嫌い」の話をしただけかもしれないし、であれば尚更、べつに聞く価値の意見では無いように思える。

  私が懸念している点をもう一度述べると、善し悪し(客観的な正不正)の問題である可能性を安易に否定すべきではないということだ。「趣味の世界には個人個人の主観的な好き嫌いがあるだけだ。つまり規範的、社会的、客観的な議論が入ってきてはならない。それゆえ他人の趣味(好き嫌い)には一切口出ししてはならない」などといった、表面を愛想良く取り繕った独善主義に世の中が傾斜しているのは、けっして良いことではないと考えている。他人と理性的な意見交換をしていく中で自分の見識を深めていくのは、趣味分野においても有益なことだ。いやむしろ、それなくしては文化の進展や洗練は無いとすら言ってよい。そうでなければ、「たまたま出現した天才的クリエイターと、その表現をたまたま直感的に理解した受け手」というオカルトめいた密儀的関係しかあり得ないことになってしまう。
  ここ数年で、日本でも「not for me」というフレーズを使う趣味人が出てきていることに、いささか懸念を覚えている。とりわけ日本的な風土では、作品の長所と短所、卓越と欠陥について思考したり議論したりする余地をいよいよ失わせて、単なる「この作品を好きになれないなら去れ!」に陥ってしまうのではないかという懸念だ。


  『悪女装』の『ウテナ』ネタには、まだ誰も言及していないのか。「異性装と同性愛」、「制服デザインがよく似ている」、「メインヒロインの名前は『姫条院アンジュ』」、「学内にバラ園がある」、「公式サイトでは四隅にバラの花が回転している」と、全体としては明らかに『ウテナ』ネタが仕込まれていたのだが。
  ただし、ゲーム本編にはパロディ的気配は一切無く、べつに『ウテナ』ファンに薦められるわけでもない。「ゲスな女装主人公とお嬢様学園」という一捻りしたコンセプトはいかにもHeat-softらしいが、物語後半のアダルトシーンはちょっとダレた憶えがある。


  最近でも、SHCファンクラブのみをフォローしているCi-enユーザーが一定数現れている。どういう方々なのだろうか、ちょっと不思議だ。
  1) 以前からのSHCファンであれば、今頃になってCi-enコンテンツをフォローしはじめるのはかなり遅い。ファンクラブ開始から、すでに半年以上経っているのだし。そういったのんびりしたファンが、こんなに多いとは考えにくい。
  2) ラジオを聴きたいという場合。公開から一週間は、誰でも(登録すら不要で)聴けるので、わざわざアカウントを作ってフォローしなくても済む。「以前から聴くだけは聴いていたが、後からバックナンバーを聴きたくなった」というような方もいるのだろうか。もしもそうならば、「ラジオの内容が面白くて、後からでも聴き返したいくらいだ」と思われているわけだから、非常に良い傾向だと思う。
  3) ラジオ配信を忘れないために。例えば新記事配信のメール通知を得るために登録しておくということは、あり得る。すでにDLsiteアカウントを持っているという場合は、敷居が低い。ただし、それだけの目的でわざわざCi-enアカウントまで作る方がたくさんいるとは考えにくい。
  4) ファンらしく、金銭的支援をしたくなったという場合もあり得る。極端な(?)場合には、例えば二つ目のアカウントを作って3000円×2=6000円を投じたいという人もいるかもしれない。そういう熱心なファンも、もしかしたら何人かはいらっしゃるかもしれない。
  5) 最もシンプルに考えて、新規ファンが増えているというパターンもあるだろう。『魔剣』『大樹』をプレイして興味を持ったとか、あるいはラジオそれ自体に興味を持ったとか、どちらでもよいが、いろいろな可能性を考えて最も説得力があるのは「新規ファンがたくさん来ているのだ」という捉え方だろう。そしてこれは、最も好ましい支援者の増え方でもある。企業のwebラジオというものは、基本的には宣伝活動であり、その効果がきちんと現れているということだからだ。

  ここ1~2ヶ月の新規フォロワーのうち、だいたい10%くらいのアカウントがSHCファンクラブのみをフォローしているユーザーだ。要するに、SHCファンクラブだけのためにわざわざCi-enアカウントを作っているわけだから、有料プランで積極的金銭的に支援をしている比率も高いだろう。同好の士として、嬉しいかぎりだ。

   ゲームメーカーのwebラジオは、1)新作の宣伝や、2)ブランドそれ自体の広報宣伝が中心だが、場合によっては、3)出演声優へのリターンだったり、4)スタッフの趣味だったりという側面を持つ場合もあるようだ。背景事情としては、5)録音スタジオや声優事務所の側がメーカー側に企画を提案するという場合もあるだろう。特に2010年前後には、黄組や桃組が主導したラジオがいろいろあった(※月替わりでいろいろなメーカーとタイアップしていた「らぶ*しゅな」が典型的)。



  03/21(Thu)
  春眠、つらい……。
  春眠、きもちいい……。
  睡眠時間が活動時間を圧迫するのは良くないのだが、しかし微睡みの快楽は抗しがたい。


  ゲームをしたり漫画を読んだりプラモを組んだり音楽を聴いたりといった活動は普段通りにしているのだが、なんとなくこのブログでのアウトプットになっていない。まあ、こんな時期もあるだろう。来年度は忙しくなりそうだから、インプットの方もちょっと心配なのだが。


  【 電車内の画面構成 】
  置換ものはまったくプレイしていないのだけど、そういえば電車内風景はどのようなレイアウトで作られているのだろうか。あまり自由が利かず、上手い見せ方も無さそうなのだが、背景CGをどのように構成して、そのうえで人物をどのように置いているのだろうか。
  白箱系タイトルであれば、
  1) 背景CGは前後まっすぐに見通すのが最も多い。人物立ち絵も真正面に立たせる。
  2) ドア付近を斜めに映すのもそれなりにある。汎用立ち絵でも、一枚絵でも。
  3) ロングシートにヒロインを座らせ、主人公はその前に立っているという位置関係もある。
  4) 一枚絵だと、ボックス席が多いか。多人数をフレームインさせやすい。
  5) 珍しい例としては、窓外を映したり車両の外観を映したりするという抽象的な見せ方も。
  6) 特殊な例としては、融通無碍なアニメーション作品もある。
  いずれにせよ、扱いが難しいので、実際にはプラットフォームでのシーンが多い。電車内のシーンは、しばしば黒背景で飛ばしてしまう。置換ものでも、駅(プラットフォーム)や窓外のシーンから一枚絵へとすぐに移行してしまうのが簡単かと思われる。
  バスの場合は、そもそも乗っている最中を描写しないか、あるいは思い切って一枚絵を使うかのどちらかが多いと思う。

  私は鉄オタ成分は希薄なので、こういう論点は関心を持って考えてきたことが無かったし、スクリーンショットも少ない。ごく簡単な紹介的記事くらいならば、なんとか書けると思うが、上記のとおり置換ものの情報が完全に欠落しているので、非常にアンバランスなものになってしまうだろう。


  PCのキーボードを打鍵しすぎて指が痛い。


  「胃~之煮」改稿は、第11シーズンまで来た(※現在は第13シーズン)。今年の1月に改稿作業を始めて、この3ヶ月で150時間以上、つまり一日平均2時間程度掛けてきたことになる。あるいはいろいろな作業の合間の時間に、あるいは負担にならない範囲で同時進行で、あるいはあれこれの逃避行動として、そして楽しい耳の娯楽として、わりと良い時間を過ごせたと思う。ブログ雑記が減っているのはこれのせいでもあるが、差し引きすれば十分プラスになっている。
  以前の概要記事は、話題になった単語をただ羅列しているだけのような文面で、まるで面白味が無かった。今回は、そういうキーワード的な飛び石を文章らしくしたり、部分的には喋られた言葉をそのまま書き写したりもしている。


  アニメ『サークレット・プリンセス』はいよいよ最終回か。わりとまっとうに剣戟アニメを展開しているし、台詞が増えてきた種﨑氏の厚みのある芝居も感動的だし、なんだかんだで楽しい時間を過ごせている。ありがとう。

  しかし、『3days』のヴァルター・ディートリヒのことをついつい思い出してしまうのは、まあ、むにゃにゃな人がほにゃららだから仕方ない。



  03/18(Mon)

  【 コメディの支配的様式の時代的変遷 】
  中國氏の言及するコメディ像が80年代~90年代の学園エロコメ風なのは、『ハピレス』『DD』の出演者らしくて微笑ましいけれど、やっぱり古いよなとも思う。
  ところで、80~90年代のコメディ観が仮にそういうもの――陽気で品のないお色気ドタバタ――だとして、それ以降の時期の典型的なコメディはどういうものになるだろうか。つまり、各々の時代に特徴的な、それ以外の時代にはあまり見られない、そしてそれ以外の時代には「古い」あるいは「珍しい」と見做されるようなコメディ類型は、どのようなものが挙げられるだろうか。
  00年代前半は、ツンデレネタだろうか。数量としてはそれほど多かったわけでもないが、それ以外の時代にはかなり乏しいだろう。あるいは、ほのぼのコメディも、比較的多かったかと思う。00年代後半は、少なくともアダルトゲームでは、お色気ハプニングがわりとあったように思う。アニメでも、奇人奇行系(つまりキャラクターコメディのはしり)が増えてきた頃かと思う。10年代に入ると、一対一ではなく多人数を巻き込んだコメディになり、さらにはキャラ立てありきのシチュエーション漫才が優勢になっているかと思われる。
  こういう問は、ゲーム(美少女ゲーム)に注目するか、それともアニメを見るか、あるいは漫画のいずれの分野を重視するかによっても見解が異なるだろう。もちろん、10年代でも昔ながらのハーレムエロコメアニメやツンデレヒロインはあるし、90年代以前にもキャラ漫才の作品はあったわけだし、それら以外にもパロネタやシュールギャグ、バイオレンスコメディなどもどの時代にもある。しかし、ごくおおまかに捉えるなら上記のような感じではないかと思う。


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  そういえばアニメ『恋姫†無双』で共演されていたのか。それ以外にも、もしかしたら『夜桜四重奏』(2008年アニメ版)でも出会っていたかもしれない(※同じ回に出演していたかどうかは分からない)し、アニメ『真剣恋』でも共演されていたようだ。それ以外でも、ドラマCDや打ち上げパーティーで顔を合わせる機会があったかもしれない。ゲームでは基本的に個別収録なので共演していても面識は無いという場合が間々あるようだが、アニメ作品だと一斉収録なので知り合いになることも多いのだろう。
  高田氏との関わりは、アニメ『真・恋姫』やアニメ『失われた未来』があるようだ。


  【 RPGのカウンター攻撃に対する不満 】
  RPGのボス戦などで行われているカウンターアタックは、好きではない。
  カウンター攻撃(CA)を行わせる理屈は、それはそれとして一応理解はできる。例えば「能動的な攻撃のみだと、プレイヤーキャラが弱かった時に耐えられない」(換言すれば、カウンター行動の仕組みを理解すれば比較的簡単に倒せるようにもなる)」、あるいは「戦闘に特徴的な仕掛けを組み込む(そしてそれによってプレイヤーの対応力を鍛えもする)」、「CA能力は強敵らしさを演出する(迂闊に攻撃できない、したたかな相手)」、「様々な種類の行動を行わせて、戦闘の単調さを避ける」、「長期戦に不規則性、不確定性要素を増やす(特に100%反撃ではない場合)」、「リアルタイムバトルらしく、行動の時間管理を試す」といったあたりだろうか。
  しかし、せっかくのボス戦なのに、これまで鍛えてきたキャラクターたちが全力で攻撃できなくなるというのは、フラストレーションが溜まる。また、そもそもこちらのアクションに対して100%カウンター攻撃(しかも強力な魔法攻撃を即時カウンター発動したりする)をしてくるというのは、非常に理不尽に感じる。能動的行動がやけにゆっくりしている割にカウンター攻撃は強烈だったりすると尚更だ。要するに、心理的には「こちらの行動を縛る嫌がらせ」だし、戦闘行動の認識としては「不合理」と感じてしまう。
  さらに、ものによっては、味方側の特定キャラクターが事実上役立たずになってしまう場合すらある。例えば魔法攻撃に対して100%カウンターをしてくるボスキャラだと、味方側の魔法使いキャラは攻撃行動に参加できず、補助行動や回復行動しか出来ないという、可哀想なことになる。そうでなくとも、与えるダメージの小さい味方キャラは「攻撃しない方がまし」ということになりやすい。つまり、一定の強さに達しないユニットが、厳しい篩に掛けられて役立たずと見做されてしまう。育成と選別はプレイヤーの戦略のうちだとはいえ、「使えないキャラ」を生み出してしまいやすいカウンターシステムは、けっして良いものではないだろう。
  また、通常攻撃とカウンター攻撃が連続して来ると、場合によっては一ターン全滅という可能性も出てくる。これも、純粋な実力で負けたというよりは、タイミングと攻撃内容の巡り合わせが悪かったという側面が強くなるから、これで敗戦したプレイヤーは不満を持つだろう。
  いずれにせよ、プレイヤーの攻撃行動に過度なリスクを負わせるのは、けっして良いやり方とは思えない。『FF』ではしばしば序盤のボスでカウンターへの対処を学ばされる。リアルタイムならではの要素だと言うことはできるが、カウンターという仕掛けがゲーム(挑戦的行動)として面白いかどうかは別問題だ。

  同様の問題は、撃破時のファイナルアタック(FA)にもある。演出的には「最後の力を振り絞って」とか「最後の悪あがき」とか「最後の瞬間まで気が抜けない」といったようなニュアンスが想定されているのだろうが、これもプレイヤーとしては「嫌がらせ」に取れる。事前に知らなければ単なる初見殺しだし、FAがあることをあらかじめ理解していても敵ボスのHPを一々計算しなければいけない。さらに言えば、FAのようなトラップが頻繁に仕込まれていると、ユーザーは攻略情報を見ながらプレイするという非自律的なプレイスタイルに傾いてしまうだろう。作品全体がパズル要素の強いものであるならば、そういう仕掛けがあってもよいと思うが、そうではない通常のRPGで(しかも台詞も何も無しに)FAを仕込むのは、戦闘の面白さを削いでいると思う。

  カウンター行動は、ゲームのプログラムとしては、非常に有用なものだ。例えば一定ダメージを受けたらそれに対するカウンター行動としてモードチェンジするとか、撃破されたら(HPが0になったら)それに対するカウンターとして断末魔の台詞演出を開始するといったように。そして、ゲームデザイナーがせっかくのカウンター機能をもっと活用したいと考えるのも、まあ、一応は分からなくもない。しかし、その意欲(欲望)は、ユーザーに対する効果という観点できちんと吟味されねばならない。私見では、自制すべきだと思う。私以外のゲーマーたちは、あの鬱陶しくて理不尽なカウンター攻撃をどのように評価しているのだろうか。

  余談ながら、カウンター攻撃を入れると、難易度調整が難しくなると思われる。ボスキャラが能動的行動だけならば、プレイヤー側の戦闘力(攻撃力=ダメージ量、MP量=回復量)と天秤に掛けてちょうど良いくらいに設定すればよいのだが、カウンター攻撃を仕込んでしまうと、プレイヤーの行動の仕方によって戦闘の有利不利が大きく変動してしまうため、「想定されたレベルでの程々の激戦」にチューニングすることが出来なくなる。特に『FF』シリーズはパラメータが桁違いに上昇していくこともあって、個々の戦闘のバランスは大味になりやすい(※実際、簡単なボスと難敵が、大きく分かれる)。

  STGにも、カウンターはある。例えば雑魚敵でも、撃破された瞬間に打ち返し弾を放ってくることがよくある。ただし、これについては私は肯定的だ。何故なら、そもそもSTGは敵弾の誘導と回避をコントロールすることを主目的の一つとしている知的なゲームであり、それゆえ、通常弾と打ち返し弾という二種類の(タイミングや射撃方向の異なる)攻撃に対応させるという形でシステムを複雑化させるのは、積極的な意味があると考えられるからだ。


  そういえば吉田基已氏も眼鏡レンズの屈折を描いている。あまりメカニカルではない画風の漫画家だから、意外に感じる(※これが例えば遠藤浩輝氏であれば、偏執的なまでの写実趣味の一環として理解できるのだが)。吉田氏の場合は、シンプルに眼鏡好きなのかもしれない。


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  行動それ自体はご立派だと思うが、ここで「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言うのは、諺の使い方を間違っているよなあ。まるで「最初に言い出したオレが偉い、後からついてくる奴らは価値が低い」と言っているように見えてしまって、吹き出しそうになった。おそらくは「巧遅は拙速に如かず」とか、「案ずるより産むが易し」とか、「何事もやってみるものだ」とか、「まずは声を上げれば、心ある賛同者が出てくる」とか、「他人任せにせず、まずは気づいた自分が行動してみよう」のようなことを言いたかったのであろうと思われる。
  「先んずれば人を制す」だと、競争的なニュアンスになるから違うか。「先ず隗より始めよ」も、言行一致(または言い出しっぺがやれ)の話だからちょっと違う。


  鴨(合鴨)がおいしい。一般的な家畜肉の中で一番好きかもしれない。魚肉はいろいろあるから別枠としても、少なくとも「食用にされる陸上脊椎動物」の中では大好き。脂味があるけどクドくなくて食べやすく、野性味があるが風味には品があり、弾力的な歯応えがあるが程々にほぐれる。
  ドナルd…こほん。
  [※ちょっときつい話かも※]:ラム肉や鯨肉もいける口。馬肉もたしか食べたことはある。猪肉や鹿肉は記憶に無い(あったかも)。兎肉や犬肉も無い。カエルは子供の頃に唐揚げで。マムシ酒の瓶を見たことはあるが、実際に飲んだことは無い。昆虫食も、子供の頃に親戚のところでイナゴの足を囓ったことがあったりしたかもしれないという程度。甲殻類はアレルギーで食べられなくなった(※幸か不幸か、あまり好きではなかったが)。食にはあまり興味が無いのであまり憶えていないが、味覚上のキャパシティはともかく、私の食文化的行動はわりと保守的だ。
  ひとをくったはなしをするのは得意ではない。かすみをたべられるようになりたい。
  「カガクチョップ(科学的に、ブツ切りにした肉)」。ブツ切りどころかミキサーに掛けてるでしょとか言わない。



  03/15(Fri)

  作業中に「胃」を聴き返していたが、「Yo」(2015年)の終わりが見えてきた。


  「真大阪」には笑ってしまった。次に新大阪駅に行くのが楽しみになってきた。


  門脇氏主演の『幻影太陽』をまた観たくなってきた。ディスクはどこへやったかな……。
  というわけで、引っ張り出してきた。ピアノ主体の劇伴も良い(※作曲は加藤達也氏)。アニメーションとしても、いわゆる「ぬるっと」動かすタイプではなく、溜めを利かせてキビキビと動くタイプで、リズムと力感のあるアニメになっているのが好ましい。
  東山氏の芝居は今回視聴してなるほどと腑に落ちてきたし、井澤氏のシュレディンガーもさすがのキャラ立ちだニャ。遠藤氏は、文節と文節の間のごく微妙な「間(ま)」が、寡黙さと誠実さ、そして深い説得力を生んでいる。それに対して井上氏は、一つの台詞の全体が大きな呼吸(ブレス)の流れの中にがっちり掴まれている感じ。こちらも興味深い。


  久しぶりのPurple softwareの新作発売は嬉しいのだけど、最近の克氏の絵はヒラメ顔がいよいよきつくなっていて辛い。refeia氏とかも同じで、そういう造形の方が子供らしい愛らしさが生まれるという理屈は理解できるのだが、やりすぎると不気味になってしまう。
  ただし、その一方で、いとうのいぢ氏のは――例えば最初期の『忘レナ草』とか――、スタイリッシュで思い切りの良いデフォルメ感があって好きだった。そのあたりの感覚は微妙なもので、どこがどう違うのかを説明するのは難しい。


  『パンプキン・シザーズ』外伝第2巻のメモ。
  「добро пожаловать」はロシア語の「いらっしゃい」、「дневник」はそのまま「日記」の意味のようだ。「привет там」は「こんにちは」であるらしい。日記の文面は、

 ?????утро добро??
 привет там  При?
 хорошииб??
 бпаг?

  1行目はおそらく「доброе утро(おはようございます)」を繰り返し書いている。同じく2行目も上記「こんにちは」を繰り返している。3行目は、「хороший(ハラショー)」に続いて何かが書いてあるようだ。4行目はどうやら「благодарю(ありがとう)」と書きかけている最中。つまり、どうやらスヌークたんは、日記帳を使って読み書きを練習している。そしてその横に、本当の意味での日記も(おそらくは拙い言葉で)書いているのだろう。



  03/11(Mon)

  今月はクラシック月間になりそう。
  1970年代や60年代の録音や、場合によってはモノラル時代の録音も聴いているが、さすがに現代の録音と比べると、痩せて曇った音質になっている。録音現場で実際に鳴っていたであろう音との懸隔を意識せざるを得ないが、いずれにせよ聴く側としてはもはや実演とはまったく別のカテゴリーの音楽体験として受け止めるしかない。
  現代のスタジオ録音は、録音としての音楽をテクニカルに追求しつつも、聴き手に届けられる音のクオリティは実演に接近しているのだが、その一方で50年前の演奏者たちは、むしろ録音再生されることを今ほどには重視していなかったであろうにもかかわらず、録音再生環境のために、結果的には実演とは切り離された録音芸術そのものとして――つまり別個独自に確立された一カテゴリーとして――聴かれるようになるというのは、いささか逆説的な状況だ。

  一乗寺近辺に住んでいた頃は近所の京都コンサートホールにも足を運んでいたが、最近ではなかなか演奏会に行かなくなってしまった。いや、伏見区の呉竹文化センターまで自転車で行ったりもしていたから、距離の問題ではない。


  LNAF.OA#45(25:45)、「素質はね、あったと思う。やっぱりさ、笑顔で、間(ま)を取ってゆっくり喋るキャラクターはね、危ういラインなんだよ」。「年を経ると、こうね、深みが出ちゃうじゃん。これがまた危ないんですよ」。
  なるほど、そういうものか……。名塚氏の感受性のありようと、役者と役の深まり、そしてそれに対する役者の自己理解と、こういうわずかなコメントからも役者自身の像が立ちのぼってくる。


  頑張って部屋の整理をして、フルプラパッケージなら30本くらいは収納できそうなスペースを空けることができた。さて、ここに何を詰め込もうか。(すでに答は出てるのでは……。)


  FF6の魔導アーマーも逆関節だったのか。
  ざっと思い出せるところでは、マクロスのガウォーク形態やリガードも逆関節の脚部。映画『ロボコップ』のメカもこれだったと思う(web検索して確認:ED-209が確かにそうだった)。



  03/07(Thu)

  ※下ネタ注意。
  [ www.youtube.com/watch?v=mjNT9BOxSFs ](27:25-)
  「脱皮」! 人間が全身脱皮で快感を得る状況を想像して大笑いしてしまった。
  語彙が豊かな人ほど、意外な言葉の組み合わせで誤読を生じてしまうという実例でもある。


  ちょっとした作業と並行しつつ、「胃」記事のリライトは「誤輪」の後半まで来た。
  ただし、「プララジ」も「らぶ*しゅな」も放置したまま。それらの方が優先度を高くすべきなのだけど、前者は気後れしてしまうし、後者は単純に作業量が多いので片手間では書けない。



  03/06(Wed)

  ネットで絵を見て気に入った方が商業(アダルト)漫画単行本を出していると知ったので、その筋のお店に入ってみたけど……どうしてアダルトコミックのカバーはあんなに買いにくいんだ。表紙も裏表紙も露骨なものばかりで、レジに持って行くのが躊躇われ、結局買わなかった。
  以前も書いたように、市場的な理屈は理解できる。つまり、1)性表現を最大の目的としている(と見做される)分野であり、2)短編集が多いのでストーリー要素などをアピールすることが難しいため、「作家個人の人気」と「カバー絵でのアピール」がセールスの決め手になるということだろう。しかし、どぎつく煽情的な表紙イラストは、たしかに性表現目的の読者には好都合だとしても、そうではない層、例えば「作家の絵そのものが気に入った読者」や「全年齢漫画でその作家を知った読者」にとっては非常に買いにくいものになる。双方を両立させるのは難しい。おそらく後者の層は相対的にきわめて小さい(と見做されている)のだろうなあ……。


  さすがと言うべきか、織澤氏キャラの立体化は傑作が多いようだ。ALTERチューア、GSCメリッサ、GSCヒヨリはいずれも、写真で見るだけでも個性と完成度と魅力が窺われる。


  子供時代に模型店に入った時の感覚。艦船模型の巨大な箱は、とんでもない高級品に見え、どこかにいる「本物のプロ」が買うための特別な商品だというイメージを漠然と持っていた。スケールモデルの素っ気ない組立説明書は、作るのに超絶技巧が求められるミステリアスな指示書に見えた。AFV用の人物や小物類などのアクセサリーパーツは、何のための存在なのかも分からず(※ジオラマの観念も無かった)、それら奇妙な商品群にどこか心惹かれつつも、ただ敬遠するしかなかった。箱の中に並んでいる単色のランナー群と、店内に飾ってある完成品とが、まるで結びつかなかった。子供の頃…というか、大学生の頃までは、そんな感覚だったと思う。
  今では、そんな御伽噺めいた幻想の風景はきれいに消え去り、代わりに、即物的なランナーの山から自力で60cmサイズの精密プラモを完成させるスキルが身についた。通俗的な言い方をすれば、要するにこれが「大人になった」ということなのだろう。

  音楽や美術の趣味にも同じようなことがあった。中高生の頃に、書店で専門書の並んでいるコーナーに立ち入った時も、そんな感じだった。個々のCDの、一冊々々の本の具体的な内容理解はまったく伴われていなかったが、それだけに、「文化」というものの息吹を――それだけを――その小さな心で感じ取っていたのかもしれない。



  03/05(Tue)

  先月(特に下旬)はあまり生産的に過ごせなかった。今月はダラダラせず、すべきことや、したいことに、どんどん取り組んでいきたい。

  今月中に日本橋に行っておきたい。前回は昨年12月か。
  大学院時代以来、だいたい年に3~4回くらい行っている(3~4ヶ月に一回のペース)。左京区からだと、京阪出町柳~北浜~地下鉄恵美須町(または日本橋)と、経路はわりとシンプル。知人と待ち合わせる時は、京阪京橋で降りて乗り換えていたっけ。
  もちろん毎月行ってもいいのだけど、それだと財布が死ぬし、普段の買い物ならば近所でだいたい用が足りている。しかし、関西の趣都ニッポンバシには定期的に訪れて知識と感性をアップデートしておきたい。


  というわけで今日も可愛いオブジェや楽しい円盤を買って買って買って買って買った。お金は減ったが、満足のいくものが入手できた。(財布は月末まで保つのだろうか……。)


  M1 ABV、かっけー!(子供かよ)
  この車両が好きというよりは、ただ単にマインローラーが好きなのでは……。
  軍用車両だが戦車のような戦闘用のものではなく、用途が明快だが民生用(いわゆる「働く自動車」)ではなく軍用のもので、非日常感があるというのが心の琴線に触れるようだ。戦車回収車や架橋戦車も心惹かれる。
  プラモデルキットも市販されているが、鋤の歯をエッチングパーツで取り付けるらしく、なかなか制作難易度は高そうだ。


  ゲームセンターで久しぶりの格ゲーを遊んできた……が、悲しいくらい腕が落ちていた。ブランクが長ければ、そうなるよね……。もっとも、勝てなかった要因としてはレバー操作(コマンド入力)の問題が大きかったので、STGなどであればちゃんとプレイできていたかもしれない。


  オタショップを巡回すると、活動意欲が刺激されるのが良い。「ああ、このブランドのゲームをまだ積んでいた、早くプレイしよう」といったように具体的な計画が出来てくることもあるし、そうでなくても、店内でたくさんのキットに囲まれるだけで「やっぱり模型制作は楽しいよなあ、帰宅したら何か作ろう」という気持ちが湧いてくる。


  煮干しといい、梅干しといい、アニメとしてはずいぶん変わった食材にご縁のある声優さんだなあ。次は干し芋とか干し柿とか味醂干しとかフカヒレとかスルメとかジャーキーとかが好きなキャラクターを演じられるのだろうか。
  つまり、[tw: 963656979502772224 ]と、[tw: 1100405158171729928 ]の話ね。


  身内で「アオいいよね」を繰り返すだけでは、残らない、広まらない、深まらない。だから、できるかぎり言葉を尽くして語る(べきな)のだ。もちろん実践するのは容易ではないが、怠惰に胡座をかいているのは良くないことだというのは認識しておくべきだろう。



  03/03(Sun)

  [ fieldofdreams.happy.nu/ff6/ ]
  いろいろ読み返していた。2000年頃のオタクテキストの一つの精華だったと思う。
  ポピュラーなゲーム作品へのマニアックな取り組みであり、攻略それ自体は非常に知的な(パズル的な)アプローチでありつつ、攻略には膨大な趣味の時間を投じており、さらにテキストはオタク的なパロディ――当時の同時代のゲームやアニメへの参照――に満ちている。
  この「HMX-2012」氏は東京大のゲームサークルの方だったようだが、大学生が知力と時間を自分の興味関心につぎこんで刺激的な成果を生み出し、それをネットや同人誌で公表することの面白さを、見事に体現していた。その頃ネットを使い始めたばかりの私の目には、そういう美しい存在として映った。機能的な清潔感があって読みやすいレイアウトも印象的だった。
  そして、ゲーマーとしての私が、現在に至るまで自分の第一義的アイデンティティを「攻略者」だと自認している――あるいはそれを目標としている――ことにも、いくぶんは影響しているのかもしれない。ゲームに取り組むのは十分に知的な営みであり得るのだということ。ゲームのシステム面を精密に解きほぐすことによって、その意味作用を明確にするというアプローチ。そして、それを自分なりの視点――例えば「低レベル攻略」なり「演出技法」なり――で再統合してテキストにする活動は、まぎれもなく創造的な自己表現になり得るのだということ。

  ゲーム攻略に関しては、「愚者の館」のFool氏も逸しがたい。ゲーム攻略は、その都度特定の視点(価値観やそれに基づく特定のアプローチ)を持つべきであり、その都度設定された目標をどれだけ達成しているかが、最終的に攻略記事の価値を決めるのだという認識は、この方から触発された。いや、ゲーム攻略以外にも当てはまる話なのだけど、まさにゲーム攻略に際してもそのことが意識されねばならないということに、蒙を啓かれた。
  個別作品の話では、例えば『プリミティブ リンク』(2007)の演出を当時から激賞していたという点でも、ただものではない方だった。里程標的な『白詰草話』(2002)や『Fate/sn』(2004)から何年も経っていたにもかかわらず、残念ながら、当時でもAVG演出の重要性はユーザーたちの間ではまだろくに理解されていなかった。そういう時代だった。現在では、ブランド毎、作品毎の演出の巧拙も、ごく普通の語りとして言及されるようになってきたと思うけど。

  このお二人は、「情報の適正取扱」と「美意識」という点でも、優れた見識を発揮していた。
  前者は、自分のものであれ他人のものであれ、独自に作成された情報成果物は尊重されるべきであるということであり、まっとうな大人であれば当然理解している事柄だが、それはゲーム分野にも適用されるべき事柄だということを、はっきりと言葉にしつつ適切に実践していた。つまり、他人の攻略情報を参照している場合には明示し、また、盗用に対しては非難のアクションを起こしていた。ゲームや攻略ややりこみプレイは、単なる子供の遊びとして軽んじてはいけない。それは人間の創造的な活動であり、攻略記事制作者の権利は社会のまっとうなルールの枠内で正しく尊重され保護されるべきものだ。彼等は、そういった意識を早いうちから明確に認識し表明していた人々に属する。
  後者は、「攻略の美しさ」という視点を持っていたことだ。RPGの特殊な制限プレイで、できるだけきれいにボス敵に勝利すること。あるいは、AVGの攻略プロセスを無駄なく最適化すること。数学的なエレガンスの感性に近いものだが、そうした美意識を持っている攻略人は、昔も今も、けっして多くはない。私自身、そのような美意識を持てればと望んでいるが、実際には「シナリオ攻略ではなくデータ攻略に絞り込む」とか「利便性のためにcsvファイルにして公開する」といった癖の強いアプローチに終始している。

  実のところ、私のこれまでのアウトプットは、彼等のアプローチとはずいぶん違った路線のものばかりだが、それはそれで構わない。彼等から学んだのは、精神的倫理的な姿勢の問題なのだから。重要なのは、ゲームの内容、ゲームの機能、ゲームの表現に対して、知的に(テクニカルに)取り組むという誠実さなのだから。


  念のために。「パンツではない」というあのエクスキューズは、外部から見ればもちろんしよーもないものであり、その作品にあらかじめコミットしているファン以外の人々を納得させる説得力など持ち合わせていないのだが、しかし、まぎれもなくその作品世界の設定を形成している一部分であり、そのアニメ作品の表現内容(例えばカメラワーク)や製作目的(想定視聴者層)と深く結びついているし、実際にファンの大多数はその建前を、「当該芸術作品の意味作用の一部を成す要素であり、主観的にいえば当該作品の面白さを担保している決定的な設定である」と見做しているだろう。だから、部外者(世間一般の人々)がそれを軽々に笑いものにしてはいけない。もしもそのような態度を取るならば、その者は、芸術、芸術作品、芸術上の表現行為、芸術の創造性および新規性に対する最低限社会的に払うべき敬意を欠いていると見做される。その点は、留意せねばならない。たまたま対世間的な説得力の乏しい珍奇な芸術作品の有様が露出したからといって、それを世間的な常識のみによって判断するのは、端的に芸術作品に対する無理解の愚を犯すものだ。
  ただし、珍奇な内容の作品が、社会のあらゆる場面でその内的原理を押し通すことが許されるということではない。今回のような件に関していえば、「ある一つの芸術作品の表現内容」と「非芸術的な世間一般の見え方」の間の衝突をもたらしたアクターに、第一義的な責任があると言わねばならない。つまり、双方を迂闊に媒介させた当事者(要するに自衛隊広報部門)だ。
  そもそもポスターという媒体は、その絵の背景を受け手に詳しく伝えることができない。今回の件でいえば、「一般人にはそれが何であるかもまるで分からない、何かしらのキャラクター数人の絵」と、「その絵とは無関係な(あるいは少なくとも関連性が明示されていない)、広報上の文字情報」が並んでいるだけだ。ポスターを目にする人々は、その絵が何であるかが分からないし、その絵が由来する芸術作品が何であるかも、いやそれどころか、そもそも既存の特定の芸術作品に由来しているのだという事実すら、知りようがない。知りようがないのだから、当該芸術作品の設定や芸術的意図や商業的意図のことを考慮することもできない。美術館や画廊、あるいはTVや映画館やコンサートホールのような場がわざわざ設けられるのは、芸術作品が芸術作品として適切に鑑賞されるためでもある。芸術作品は、特定の文脈と結びつくことによって初めて、芸術上の意味を発揮する。
  要するに、広報部には芸術上の責任も社会的な責任もある。芸術上の責任とは、芸術作品の取扱いを誤ったという意味であり、社会的な責任というのは、社会一般に対するベタな(文脈特定性の無い単純な)表現として、不適当なものを選択したという意味だ。
  もちろん、申し出に安易に応じたアニメ制作側のスタッフにも、責任はある。芸術作品(が関わる派生的表現物)が、どのような場面で人々の目に晒されてどのように受け取られるであろうかを、作者自身が担保せずして誰がするというのか。この場合、彼等は芸術的には――責任とは呼ばないとしても――きわめて軽率で愚かな行為をしたし、また、社会的にはまったく不適当な判断をしたと言うべきだ。
  最後に要点を反復しておくと: 個々の芸術作品の特徴や意義については、世間的な常識で一方的に判断(介入)してはならず、一定の仕方で尊重すべきであり、そして、そうした文脈に対する尊重が適切に成されるように作者や媒介者は配慮すべきだった。今回の件で、どのような点に問題があったか、そして芸術作品の利用にはどのような要素を考慮すべきであるかを、芸術学の観点で述べるならば、だいたいこのような感じになるのではなかろうか。


  ていーぽいんとかーどをつかっているようなおかたとは、けっこんしたくないですわよ。
  (いや、今後誰とも結婚はしないと思うけど。)



  03/02(Sat)

  イベントCGの差分変化は、Escu:deくらい控えめなのが良い。差分パターンが少ないという単なる「量」の問題ではなくて、変化のさせ方がきちんと取捨選択されているという「質」の次元において評価されるべき事柄だ。
  現今では多くのブランドが、機械的に作られた一枚絵ヴァリエーションを、CG閲覧コーナーに大量に並べている。例えば目元(3種)×口元(3種)×肌の赤面(2種)×脱衣(4種)×汗(2種)を組み合わせれば144種類もの差分変化を作れてしまうわけだが、それらをベタに並べられると興醒めしてしまうことがあるし、本編中でそんなちまちました変化を頻繁に起こされても鬱陶しい。あり得る変化パターンの中から、これぞというものを選び出して、それをじっくりと鑑賞させてくれる方が嬉しい。そしてEscu:deは、そういう美的な取捨選択をきちんと行ってくれている。厳選された差分だからこそ、おかしな組み合わせが出てこなくて一枚一枚が美しいし、そして差分変化がうるさくないからこそ、一回一回の変化が注目すべき出来事として視覚的効果をもたらしてくれる。

  さらに興味深いことには、Escu:deは『あかときっ!』『Re;lord』の両シリーズを制作しているブランドでもある。すなわち、一枚絵の差分変化を組織化し、そしてその組織構造を精妙なフラグ管理とともゲームパートへ取り込み、最終的に脱衣バトルというエンターテインメントに昇華することに成功してきているブランドなのだ。ゲームパート上での脱衣差分変化は、一枚につき1000パターン以上もあったと思う。1)膨大な差分を、2)系統立った変化で、3)ユーザー側に楽しさを提供する手段として、作り上げてくれているのが素晴らしいのだ。


  店頭で見かけた良いフィギュアを買おうかどうか迷って、結局買わずに店を出た。しかし、帰宅してから未練がましく思い返しつつネットで情報収集していたら、「やっぱり買っておけばよかった、今度行ったら必ず買おう」という気持ちになった。
  そう、迷うならば、さっさと買ってしまうのが一番なのだ。買っていれば、今この瞬間にもそのフィギュアを手に取って矯めつ眇めつゆっくり鑑賞していられたのだ。買うのは早ければ早い方が得なのだ。この点、例えば書籍であれば、買ってただ積んでおくだけでは意味が無く、実際に読まなければ効用は発生しないのだが、しかしフィギュアは、特別なことをしたり時間を掛けたりしなくても身近に飾っておくだけで多くのものを得られる。
  迷ったら、迷うくらいなら、買うべきだ。自分の経済観念よりも自分の眼を信じろ。


  [ yumemiru.nexton-net.jp/gbm/ ]
  これは卯衣氏のキャラが主役なのかな。それとも、個々の物語を媒介する案内役(要するに非攻略キャラ)に徹するのだろうか。日野氏が脚本参加していることも含めて、発売を期待して待ちたい。ちなみに日野氏は、似たような趣向の『黒の図書館』にも参加されていた。


  [tw: hujisakiusa/status/1098214539164712962 ]
  いつの間にか、藤咲氏も着ぐるみ声優になっていたようだ。



  03/01(Fri)

  『真昼』『アルフレッド学園』もCi-enプレゼントか。
  過去タイトルのDL販売もずいぶん充実してきていることだし、うちの旧サイトの攻略記事も、参照しやすいように体裁を整えてこちらのブログで(再)公開してもよいかもしれない。もちろん、内容確認のために再プレイするきっかけにもなるし。
  とはいえ、全体的な進行ガイドとしての攻略は、他に良いサイトや市販書籍が存在する(存在した)から私があらためて手掛ける意味は薄い。『葵屋』はほぼAVGだし、『うえはぁす』はデータ系攻略の余地は少ない。逆に『海賊王冠』『真昼』は、データがかなり大きいのでhtml表示には適していない。表計算ソフトなどで柔軟にスクロール&再編集できるような形式にしなければ、うまく扱えないだろう(※元々そういう考慮から、旧サイトではcsv形式でデータを公開していた)。

  ちなみに、ディスク版中古も値下がりしてきているようだ。先頃の日本橋買い出しの際にも見かけたが、『海賊王冠』や『巣作り』でもたしか4000円台や6000円台くらいだったと思う。十年くらい前までは、『巣作り』が中古価格9000円前後、『真昼』は2万円近くにもなっていた。


  [tw: 1101637566770495488 ]
  えっ……「日めくりカレンダー形式」? この人たちはいったいいつの昔話をしているんだ。まさか、もしかして20年前の『同級生』や調教SLGのパラダイムのままだと思い込んでいるんじゃないでしょうね……。鏡氏の言うことがあれなのは昔からだが、この岩崎氏も他人の言葉に安易に寄り掛かる(その危険性に気づいていない)いいかげんな人物なのかな。
  私には90年代以前を正確に展望する能力は無いが、少なくとも00年代の早いうちに、18禁PCアドヴェンチャーゲームは機械的な時間経過表現から解き放たれており、10年代に入っても依然として日付や日数経過は明示しないスタイルが優勢だと思う。例えば「学園祭まであと何日」のような物語の作品ですらカレンダー的な表現は稀で、日にちの感覚をはっきりさせないものが多い。

  上の話とはあまり関係ないが、AVG作品の時間経過表現というと、まさに鏡氏が手掛けた『パンドラの夢』(2001)のことも思い出す。長い長い時間の中でロボットヒロインがゆっくりと機能停止していく描写は、主人公の問いかけに対する応答が次第に弱まり薄れていくというもので、ベタではあるが印象的だった。
  ちなみに、『まほろまてぃっく』(漫画版:1998-2004年/アニメ1期:2001年)と同時期の作品だが、影響関係があるのかどうかは知らない。そちらも、現役引退した戦闘ロボットヒロインが、遠からず機能停止することが明示されているシチュエーションの作品だった。


  (→4月2月