2025年7月の雑記。
07/19(Sat)
漫画の未読単行本がかなり増えてきた……(※現時点で30冊くらい)。買ってきた新刊はできるかぎり最速で読むようにしているのだが、毎日2冊のペースで読んでいても毎週20冊買っていたら積みは溜まるよね……。
このブログでは月別メモの体裁を取っているので、その月に発売された作品はその月のうちに読んでコメントをしておきたいのだが、なかなか難しい。
夏アニメも、視聴が遅滞気味。特に『雨と~』は完全に出遅れたので、後でまとめ視聴しよう。『傷だらけ聖女』も、一度も観ないまま落としてしまいそう。
今のところは、『第七王子』(コンテがひどいが最後まで付き合う)、『クレバテス』(岩原氏らしい風変わりなノリだがひとまずついていく)、『陰陽』(不満もあるがオリジナルアニメとして上手く行ってほしい)、『鬼人』(今期も安定)、『nine』(映像としては退屈だが声目当てで)、『インヒューマンズ』(期待を下回る出来で、途中脱落の可能性が高い)。
顧みるに、春クールは粒揃いだったなあ……。切れ味の良いオリジナルSF『ホテル』、完成度の高い現代日常魔法ファンタジー『ある魔女』、堅実で情緒豊かな和風伝奇『鬼人(1期)』、強烈な幻想性に満ちた中華スラムロマンス『九龍』、映像美の突出した現代日常サスペンス『小市民知シリーズ』、そしてアクションがきらびやかなだけの『LAZARUS』。
うーん……「尊厳重視、社会的公正重視の社会運動について、その広報戦術の巧拙を問い、もっとましなやり方を求める」(つまり価値観は肯定しているが、手段の問う)ことが、いよいよ困難になりつつあるのがきつい。そういう批判を、「敵対党派たちが問題をこちらのせいにしてくる責任転嫁」と混同してしまって区別できなくなっている。
つまり、前者の忠言をしてきた人々を、後者の攻撃だと思い込んでただ強硬に反発して議論を終わらせてしまったり、あるいは「敵対者からの責任のなすりつけの一種だ」という決めつけに引き籠もって自省をしないままにやり過ごしてしまうのは、本当にまずいのだが……。そうした姿勢は結局のところ、状況を改良していく手掛かりを内発的にも公共的にも失って、袋小路へ突き進んでいくことになる。
もちろん、「野党が不甲斐ないせいだ」といった類の歪曲的ななすりつけは確かに存在するし、それに対してはきちんと反駁すべきだ。しかし、「(結果責任や価値観に関する)責任転嫁」と、「(言論や広報のありようを巡る)戦術的忠言」を区別することは難しくない筈だ。なのに、後者に対しても――それどころか、具体的な指摘が現れていない場ですら――紋切り型の「あんなのは責任転嫁の、為にする主張だ。聞く耳を持つ必要は無い」というお題目ばかりを繰り返しているは、実に不幸な状況だ。
私自身、個人の尊厳や社会的公正を非常に重視している立場なのだが、そういう私の目から見ても、「何か忠告しても、ただ敵認定されて終わるだけで、話にならないのではないか」という危惧を持ってしまう。そのくらい、「あいつらは何でも左派のせいにしているだけだから、我々に対する批判は無視してよい」という硬直的な論法が浸透しすぎたのは非常にまずい。
まあ、そういう強硬姿勢はSNSの攻撃的な鉄砲玉アカウントたちが主にしていることであって、社会運動全体としては、開かれた言論を受け入れる誠実な方が大半だろうとは思うけれど、それでも、上記のような拒絶的論法(議論を拒絶せんがための詭弁的混同の手法)が蔓延していくのはけっして良いことではないし、個人的にも、もううんざりしている。
一つだけ具体的な話をすると、「○○党(極右)を支持するのはバカだ」という類の発言をシェアしたり拡散したりするのは、悪手そのものなので、やめた方がよいし、お互いの間で諫めあうべきだと思う。何度でも書いていることだが、そういう一方的な見下しと罵倒は、敵(というか騙された当人)を硬化させるし、中立のマスには倦厭されるし、味方側のブレーキを失って先鋭化していくばかりなので、百害あって一利もない。そうではなくて、必要なのは、冷静で公平な言論によって丁寧に説得して、デマから人々を引き剥がしていくことだろう。そういうことをしないで、攻撃的な罵倒投稿ばかりを拡散させつつ、「これで中立の人々もあいつらの危険性に気づくだろう」という思考停止に胡座をかいている。かえって逆効果になってしまわないかなあ……と常々懸念している。
攻撃性に振り切れた鉄砲玉アカウントって、わりといくつも思いつくでしょ……? ああいうのとは手を切って、もっと誠実な言論をする人々の意見を掬い上げていくのが、戦術的にも良いし、また、あらゆる人の尊厳と自由意志を相互尊重しようという理念とも整合的な姿勢である筈だ。
排外主義を批判する中で、また別種の差別を自分から持ち込んでいる人たちも見かける。
曰く、「生活が上手く行っていない人が、自分よりも下を切り捨てて助かろうと、外国人排除を叫んでいる」という想定を呑み込んでしまっている人たちがいる。しかし、それはおそらく事実に反する。今回の参の字の支持層を見ても分かるように、むしろ生活の安定している保守層こそが、自分たちの生活の品位を守るために、あるいは(イメージ上の)ナショナルアイデンティティのために、「下品で不埒な外国人」を排除したがっているという方が、要因としては大きく影響しているだろう。実際、「外国人に仕事が奪われる危機」よりも、「街の雰囲気が悪くなる」という曖昧な社会イメージを梃子にした差別的主張の方が、圧倒的に多い筈だ。
上記のような想定が含んでいる問題は、外国人差別を語ろうとする一方で、みずから経済的差別を表明してしまっている点にある。その無根拠な想定は、「経済的に貧しい=知性やモラルも低い=愚かな排外主義に走っている」という蔑視と強く結びついている。
排外主義や階級的差別は、むしろ医師や大学教員や大企業社員や公務員といった保守層を大きな母体としているというのは、オウム事件の頃から、あるいは大阪の維の字が進出してきた中でも、はたまた懲戒請求事件に際しても、ずっと言われたきたことではないか。「極右の伸張は、愚かな大衆のせいだ」、「バカだけが(バカだから)カルトに騙される」という思い込みは、それ自体、きわめて差別的で有害な偏見であり、私たちはその誤りをきちんと批判していかなければならない。
……まあ、「どうしてこんな滅茶苦茶な奴等に投票するのか、ちゃんと考えればすぐに分かる筈なのに、どうして分かってくれないのか」と言いたくなる気分は分かるし、それをあまり強く問い詰めるのはそれはそれで無用の分断を生じかねないのだけど、でも、それでも、もっと慎重に行きたいよね……。
ここ十年ほど、ウナギは一切食べていない(※今後とも食べるつもりは無い)が、しかし、「たれ飯で十分」という意見にも賛同しがたい。あの魚のジワッとくる油の甘さがあってこそのあの味わいだったと思うので。スーパーのウナギもどき(※要はカマボコみたいなもの)を食べたこともあるが、やはり本物の柔らかな食感やジューシーな豊かさや特有の風味には到底及ばなかった。いや、もはや味覚の記憶もおぼろげになりつつあるが。
うちの選挙区は、うーん……あり得そうな結果の振れ幅の中では、比較的マシだったかなあ。維参国はギリギリの接戦ながら落とせたし、公>自の得票数も、裏金屋に対する厳しい判断と言えなくもない。いや、それでも、うーん、忸怩たるものはあるし、全国の選挙結果を見ても、とても喜べない状況だが。