2014/03/12

AVGの画面構成と立ち絵の位置表示について

  AVGの画面構成は、登場人物の位置関係を守らなければならないのだろうか。

  1. AVGにおけるカメラ切り返し表現の可能性
  2. 立ち絵の画面配置は、何のためになされるか
  3. 私見
  4. 実例検討


  【 1. AVGにおけるカメラ切り返し表現の可能性 】
  [ tw: 443594262634979328 ]
  プレーンな立ち絵/背景画面を想定するかぎり、たしかにこれは正しい。キャラクター立ち絵は、多くの場合、全員が常に観客の側を向いている。ただし、実際には様々な手段を用いてかなり融通を利かせられる。典型的な手法の一つは、背景画像の写実性(背景画像単体での空間表示の具体性)を一時的に無視できるようにすること。

  1)一例として、対決シーンの背景を雷鳴エフェクト風にすることによって、カメラ切り返し(反転)を可能にした『えむぴぃ』(ぱれっと、2007)を紹介したことがある(cf. 演出技術論Ⅲ-1-2の追記画像)。これならば、カメラの向きが水平方向に同一であるかぎり、任意の角度に振り向けることができる、あるいは角度如何が問題にならないような仕方で立ち絵(再)配置することができる。

  2)もう一つは、背景画像の空間表現の具体性が、想定される位置関係に抵触しない形で、背景画像を拡張利用する方法。これは、一例として『桜花センゴク』(ApRicoT、2010)を取り上げて紹介したことがある(cf. 画像素材の拡張利用について)。これは、背景画像を左右反転表示することで、反対側の視界を(擬似的に)表現したものである。リンク先のテキストでは、同一画像を別ものであるかのように応用する手法の一つとして紹介している――だから写実的には成立していない筈なのに受け手の錯覚によって受け入れられてしまうということがあり得る――が、実際には、人工的な建築物では左右対称の造形は頻繁に現れるので、これを写実的正確性判断の下に置いたとしても十分に成立するようになっている。

  3)カメラを180度反転させるのでなくとも、ある程度の幅を導入するものはある。背景画像の横幅をゲーム画面よりも大きめに制作しておき、左右のパンニング余地を作っておくというものである。千世『六ツ星きらり』(2004)及び『七彩かなた』(2006)で採用した「サイティングシステム」が、典型的に妥当する。とりわけ近年では、ゲームエンジンの多機能化(拡縮柔軟化)と画像の高解像度化(大型化)もあり、背景画像の一部を拡大表示することによって、背景画像全体の中の特定の位置を強調したりそれらの間を移動させたりするという手法が、主に白箱系AVGで普及している。
  (※『七彩かなた』については、【 4. 実例検討 】の項で紹介する。)


  【 2. 立ち絵の画面内配置は、何のためになされるか 】
  ただし、そもそもの問題として、はたして空間的整合性はどれだけ必要なのか、本当に必要なのかという点は、必ずしも自明ではない。実際に、上の方が慎重にも[ tw: 443657272871235585 , 443657951182471168 ]と述べておられるように、立ち絵のスクリプト操作はキャラクターの空間的配置の表現のみのために奉仕するものではなく、会話進行の意味表示のための操作と見做されるものが非常に多い。

  例えば、上記『えむぴぃ』を制作したぱれっとは、各登場人物(の立ち絵)の位置的関係の観念を比較的強く守っており、そしてそのことによってそのゲーム画面を空間表現としてプレイヤーに対して強く説得することに成功している。また、すたじお緑茶は、その場に居合わせているキャラクターたちの立ち絵すべてを、基本的に常時、表示しておくというスタイルを採用しており、プレイヤーはそれを、キャラクター間の(作中世界の実際の位置関係として想定されるところの)位置関係が視覚的に表現されたものとして受け取ることができる(――すたじお緑茶の画面作りについては演出技術論Ⅰ章2節で紹介した)。

  しかし、そのような空間的整合性を画面構成原理の一部として採用していないタイトルや、あるいはそれをあまり重視していないタイトルは多数存在する。例えば、CROSSNET(Favorite)が制作した『ウィズ アニバーサリィー』(2006)及び『はっぴぃ☆マーガレット!』(2007)では、多数のキャラクターが居合わせている場面で、その都度の新たな発言者の立ち絵が画面中央に出てくる一方で、いったん発言を終えて会話の焦点から外れたキャラクターの立ち絵は適宜画面外に消えていくというかたちになっている。ここでは、最大で三人程度の立ち絵が画面内に表示されるが、それらは舞踏会のようにくるくると出入りし、交替しあい、その「想定される空間的位置関係」はまったく定まらないままである。一つのシーンの中で、継続的に会話参加し続けている立ち絵の位置関係はおおむね維持されているが、「先程は立ち絵Aが立ち絵Bの右側にあったが、後では左側に位置するようになる」といったことも生じている。もしもこれを空間的写実表現として理解しようとしたら、彼等はランダムに歩き回りながら会話しているという不思議なことになってしまうだろう。しかし、この表現がプレイヤーに違和感を与えないのは、左右の位置関係がある程度は保持されているためもあるが、その立ち絵の登場/退場の表現が、位置関係を表すためではなく会話進行の意味作用を表すために為されていることがプレイヤーにも理解されているからだろう。例えば、唐突な発言をするキャラクターが画面中央にいきなり出て来るのは、物理的に身体を割り込ませてきたことを表すのではなく、会話進行への介入を視覚的に――比喩的象徴的に――表しているに過ぎない。同様に、他人の発言にツッコミを入れるキャラクターの立ち絵がサイドから出て来つつ発言するのは、横からの接近を意味するだけでなく、ツッコミ発言の心理的状況的作用を視覚化しているものと捉えるべきであろう。
  (※『ウィズ アニバーサリィー』については、【 4. 実例検討 】の項であらためて紹介する。)

  このような意味作用重視の立ち絵操作は、とりわけういんどみるが早くから試みてきたものであるが、立ち絵アクションを導入した白箱系ブランド群も、おおむねこの方向性に立っている。近時の興味深い立ち絵表現の一つとして、『カルマルカ*サークル』(SAGA PLANETS、2013)があった。本作では、例えば立ち絵AとBが表示されている状況で、新たにキャラクターCが発言する時は、AとBの立ち絵が横にスライドして空間を空けつつ、そこにCの立ち絵が出てくる。このような様式化された立ち絵操作においても、もちろん、立ち絵の空間的位置関係を優位に置く必要は無いし、実際にも空間的に想定される位置関係は守られていない。

  さらに、その作品に固有の様式性があらかじめ確立されている場合も、当然ながら立ち絵の表示原理は空間的忠実性要求とはまったく無関係なものになる。典型的には、新たな発言をする者は常に画面右側から(あるいは常に左側から)登場してくるというスタイルを採っているものがある。これについては、以前に『水の旋律』(KID、2005)に言及した別掲記事「AVG表現と『上手/下手』概念」の中で触れたことがある。もちろん、演劇由来の「上手/下手」概念は写実的位置関係表現のための原理ではなく、漫画由来の「イマジナリー・ライン」原理とは相互に衝突することは当然あり得る。しかし、AVG(ゲーム)はAVGであって、演劇でもないし漫画でもない以上、どちらかに従わねばならないということは無い。それら他分野のセンスを利用(応用、借用)することは可能だが、それらに必然的絶対的にそれらに服従せねばならないということは無い。

  最後に、AVG(ゲーム分野)のまったく独自の様式的キャラクター表現の一例を紹介しておこう。『水スペ』(liar-soft、2009)は、非常に特異なテキストボックス三段重ねスタイルを採っており、キャラクター画像はその脇に顔窓で表示されるという形になっている(cf. 演出技術論Ⅲ-2-6)。ここでは、この三段のテキストボックスは、おおまかに、
- 上段には、その会話全体の中心人物主役(とりわけ主役の「川野口ノブ」)が位置する
- 中段には、会話の主要な相手役(副主人公格の山辺弘や、その都度のヒロイン)が位置する
- 下段には、ナレーションや、その場面のゲストキャラクターなどが当てられる
という形で、明確な機能的配分がなされている。これはかなり抽象的機能的なキャラクター(話者)表現方法だが、いずれにせよ、その固有の機能性によって、「キャラクターの視覚表示は、位置関係表示のためではないし、位置関係に拘束される必要も無い」ということをはっきり示している。


  【 3. 私見 】
  そもそもAVGの画面は特定の「視界」なのか――空間表現としてあるいはカメラワークとして、はたして整合性のあるものでなければならないのか?――ということも、再検討されねばならない。私見では、漫画と比べてもAVGのカメラワークには、より大きな自由度があると考えているし、「上手/下手」や「イマジナリーライン」に相当するもの(の有効性)がある程度認められるとしても、それは「文法(基礎)」と「修辞(逸脱)」との関係として慎重に評価されねばならないと考えている。ゲームに限らず、あらゆる創作物の評価に際して重要なのは、文法どおりに書かれているかを採点することではなくて、その特定の作品がどのような手法を――大規模な構成原理としてであれ、あるいは局所的な修辞的逸脱としてであれ――(意識的選択的に)導入しておりそして固有の表現としてどのような成果に結びつけているかを探索することだからだ。

  AVGと「イマジナリーライン」に関していえば、1)特定の(通常は画面内に登場すらしない、特権化された存在としての)主人公がいること、2)立ち絵は基本的に正面向き(≒主人公向き)ばかりであること、3)単一の固定的に背景画像が存在すること、といった基本性格からして、AVGにはまったく妥当しない原則である。もちろん、立ち絵相互の位置関係(左右の配置)を維持することで混乱を避けられる場面はあるだろうし、背面立ち絵や主人公立ち絵が存在する作品ではIL相当の考慮が有用である場合も少なからず存在するだろうし、そして実作者たちもそうしたことは十分考えてスクリプトを組んでいる筈だ。


  【 4. 実例検討 】

『七彩かなた』 (c)2007 千世
(図1:)主人公を含めて7人が居合わせているシーン。ここから、6つの立ち絵は左右に大きく広がって会話を進めていき、ゲーム画面も主人公の視界を表現するかのように左右パンニングを繰り返していく。それに対応するため、背景画像は拡大表示されて左右の幅を取れるようにする(――図2の背景部分と比較されたし)。
(図2:)ゲーム進行の中で、時折「サイティングシステム」が作動する。主人公が、左右のどちらに注目するかを選択させる場面であり、一種の視覚化された選択肢場面でもある。


『ウィズ アニバーサリィー』
(c)2006 CROSSNET/Favorite
(図1:)ゲーム序盤の、教室内の一シーンである。シャル(中央の女子学生)に対して、横からリオルが声を掛けている場面。状況の中心人物であるシャルは画面中央に大きく表示され、リオルはその脇からやや小さめに登場してくる。

(図2:)新たな登場人物ディアナも会話に参加しつつ、三人は教室の右側(プレイヤーから見て右側:以下同様)へ移動している。背景画像の表示位置が変化していることに注意。本作は、カメラワークに合わせて立ち絵画像や背景画像もスクロール移動することが多く、したがって立ち絵の位置関係は基本的には維持されている。
(図3:)教室の左側から、さらに新たなキャラクター、エンフィが声を掛ける。それに合わせて背景画像もスクロール移動する(――カメラワーク相当の表現。これも瞬間的な切り替えではなく、連続性のあるスクロール処理なので、プレイヤー側でも空間把握はそのまま維持される)。

(図4:)エンフィに声を掛けるリオル。先程までの立ち絵配置と整合するように、両者の位置関係はこのようになっている。プレイヤーは、このさらに右側にシャルとディアナがまだいるという認識で読み進めるだろう。

(図5:)いったんエンフィのみが表示され、主人公と一対一の会話をしばらく行う。この部分が、登場人物の位置関係の認識をいったん消去させる役割を果たしているのだと読むことも一応可能である。

(図6:)シャルとリオルがふたたび会話に参加してくる。図4の時から、リオルとエンフィの位置関係は逆転しているが、これはエンフィが話題の中心にいることを立ち絵配置で表現することを優先したものと思われる。プレイヤーの実感としては、この位置関係の変化におそらく違和感は無い。

(図7:)主人公との会話をやや離れて、シャルとエンフィの会話に焦点が移っている。それに合わせて、画面全体が微妙にズームアウト(縮小表示)している。カメラワークは、写実(または存在の視覚的描写)であるだけでなく、このように心理的な変化をも表現している。

(図8:)さらに、シャルが会話の中心に立つ状況になり、それに合わせてシャルの立ち絵が中央に大きく表示されるようになった。シャルとエンフィの立ち絵の位置が入れ替わっているが、これを物理的な位置移動を表現したものとして受け取る必要は無い。

 『カルマルカ*サークル』
(c)2013 SAGA PLANETS
(図1:)一つのシーンの中で、その都度の意味作用に応じて、キャラクターたちの立ち絵は様々なかたちで表示される。図1は夏目暦が起き出してきた瞬間であり、彼女の立ち絵は背後に小さく表示される。
 (図2:)上記図1から、ニコルがいったん立ち絵消去されて暦が画面中央に出て会話をし、続く数行の主人公モノローグの間は立ち絵がすべて消去され、その後図2の会話が再開される。図1と比べて、暦とニコルは左右が入れ替わっているが、これはニコルが話題の中心にいるためと思われる。
 (図3:)新たな発言者「朝比奈晴」が登場し、画面上ではいったん彼女一人のみが中央表示される。そこから、暦とニコルが再び会話参加するため、画面内に登場してくる。ここでは、背景画像で戸口が画面右側に描かれているためか、画面左側が「上座」に相当する形で処理されることが多い。
 (図4:)その後さらに会話は進行し、多数のキャラクター(の立ち絵)がさまざまに出入りする。実際にはこの部屋には、主人公を含めて7人の登場人物が居合わせている。図4では、暦とニコルの表示位置は再び左右逆転しているが、これもなんら問題ではない。暦の方が先輩であり、部内でも指導的役割を担っているからである。