2014/03/16

よけいなはなし

  ゲームとは無関係な話だが、つい勢いで。


  「(自然)科学は結果さえ正しければ良い」ではない。

  もちろん、結果(新発明なり数学的証明なり何なり)が実在することは重要だが、それだけではなく、論文を適切な書法で書くことも軽視されてはならない。これは様々な観点からそう言えることで、けっして「研究者たちの内部的なマナー(礼儀作法)」や単なる「外面上の体裁」の問題に還元されるものではない。ここではさしあたり、参照指示(の欠如)や実験手順の安易なコピペを念頭に置いて、おおまかに私見を述べていくことにする。

  上記のようなプラグマティックな(素朴な「結果」志向の)立場でも納得できそうな論拠のいくつかを適当に挙げるなら、一つには「正しい論文の書き方とは、当該結果を適切に伝えるための手順でもある」と言うことができる。その結果が確実に存在するのだということ、そしてそれがいかにしてなされるのかを正確に伝えること。そのような適正性を保持するために著者に対して課される手続的ルールだ。そのような厳密さから逸脱することは、さらには、(今回疑われているように)「実際には行っていない実験を、さも行ったかのように捏造する」という余地を、つまり結果自体の存否を偽ることの余地を、致命的に広げてしまうことにもなる。

  そしてこれは、当然ながら、著者がどのような情報を利用(参照)して自身の議論を構成したのかを第三者(読者)に対して明らかにするものである。何を利用したかを明示することは、それ自体「論証」行為の重要な一部分を構成するのみならず、自身の論拠を幅広い検証に服しうるようにすることでもある。そしてまた、論文の中のどの部分が本人(当該論文の著者)によって証明された主張であるのか、それとも他の論文によってすでに示されたことであるのかを、読者が正確に識別できるようにするためのルールでもある。つまり、著者の議論を構成しあるいはその前提となっている他の論文や研究成果は、著者が用いた資料に他ならず、そしてそれゆえ、それらに対する参照指示を漏れなく記述することは、当該論文の内容の正しさを審らかにするevidenceの一部であって、実験環境や実験データを記述するのと同様に必要なものだと言ってよい。それが無ければ、論文の内容を他人が検証する際にも困難が生じる。追試にもコストは掛かるのだし、追試を適切/効率的/合目的的に構成するためにも、その論文が正しく――つまり、上記のとおり、その内容を第三者が正しく評価することができるような書き方で――書かれている必要がある。盗用(出典を記載しない無断の引き写し)は、内容を正しく評価できないようにしてしまう行為だ。さらに、特に文系諸学にとっては、註などで先行研究(の存在)をきちんと紹介整理することは、当該テーマに関する学問的蓄積を忘失させず蓄積を蓄積として保持し続けるためにも、意味がある。

  さらにいえば、第三者による追試という活動が継続的に行われるためには、一般的に論文というものが「(今回のような極端な例外が絶対的には排除されないとしても、通常は)信頼され得るもの」でなければならない。論文というものが、間違っているかもしれないがまずは適当に仮説をもっともらしく発表してみるものでしかないならば、毎年大量に公表される論文群の中から、どれが正しいかを再検証するコストが、学界全体として、そして社会全体として、ほとんど非現実的なほど膨大なものになる。要するに、研究の「蓄積」と「応用」というものが非常に困難になる。これは人文/社会科学においても自然科学においても同様に致命的なものだし、そして科学の蓄積及び発展の恩恵を受けるべき社会全体としても、耐えがたい損失を意味する。そして、この点で、「結果の再現性確保」と「論文の様式性確保」とは――さしあたりは別個の問題と捉えられていたものであるが――相互に関連する問題である、あるいはより具体的には、後者は前者のための前提であるということになる。というのも、再現性が幅広く検証されてその確からしさを高めるためには、当該論文自体が追試される価値のある内容であることを他の研究者たちに対して説得しうるだけの信頼性を持っている必要があるからだ。

  特に博士論文について言えば、これらの論拠に加えて、しばしば述べられているとおり、教育的側面もある。自分が得た結果や結論を、他人がしかるべく利用(検証)できるような形で正確に説明することができるか、つまり、完全に自立した研究者としてやっていけるかを証明するための一種の資格審査の機会でもある以上、それが出来ていないようではNGだと言うほかない。これは、論文審査に限らず、自分の知的能力を対外的に証明するための機会や、そのための訓練として課される機会について、幅広く妥当する。例えば、学生のレポートで、その文面が課題の趣旨に合致していたとしてもコピペでは許されないというのは、このためでもある。

  その他、当事者のインセンティヴ(名誉という心理的側面や、特許等の権利的側面乃至経済的側面)については、だいたい想像できるであろうからここでは詳しく説明しない。そもそも他人の成果を自分の成果として偽ることが不正であるというごく一般的な道徳問題としての側面も、詳述するには及ばないだろう。

  以上、要するに、著者が得た結果が本当に正しい(事実である)としても、それを対外的に利用可能(検証可能)な仕方で表すために、そしてそれが社会に対して信頼性を提供するために、さらには社会の側がそれを適切かつ円滑に共有していくために、論文の書法(剽窃や捏造に対する厳重な禁止を含む)を守ることは必要である。研究者世界の「内輪のマナー」などではなく、(文理問わず)研究というものの意義の根幹に関わる条件であり、そして研究の成果が一般社会へともたらされるために必要な条件でもある。例えば、プログラミングであれば他人のコードをコピペしても「動けばいい」(結果が大事だ)と言う人がいるかもしれないが、論文はコードそのもの(結果そのもの)ではなく、コード(結果)の意味と意義を他人に説明するためのテキストなので、その位置付けはまったく異なる。論文の文面などは副次的問題に過ぎず結果が正しいかどうかこそが問題なのだとする人たちは、あたかも物事を神の視点で捉えてしまっているかのように、つまり、学問が実際に蓄積され進展していくために必要な現実的条件の問題から目を背けているかのように、見受けられる。結果が正しいかどうかは後から分かる(後からいずれ分かればいい)というのはあまりにも暢気すぎる。分かるようにするのが論文なのだし、分かるための検証(追試)に費やされる時間的経済的コストは有限なのだから。もしかしたら、分野によっては、あるいは大学によっては、ひょっとすると、論文を非常に軽く――例えば「報告書」とあまり変わらないくらいに――位置づけているところもあるかもしれない。しかし、原則論としては上述のようになる筈だし、とりわけ博士論文は(国際的にも通用させねばならない学位論文の問題なので)最大限厳格に捉えられねばならない。――このように、研究における公平性や相互性あるいは研究者倫理といった理念上の論拠を引き合いに出さずとも、しかるべき論文執筆のルールの必要性及び正当性は十分説明できるだろう。

  実際には、先行研究は尊重しなければならないというのは、これこそは、研究者倫理としてきわめて重要な点の一つだが。これは、先述した学問の「蓄積」にも関わる事柄であり、また同時に「信頼性」にも関わり、そして論文の「意義」をみずから説明することにも関わっている(――だから、序論こそは、これまでの議論状況を整理し当該論文をその中に位置付けるという点で、きわめて重要でありそして独自性が必要になる部分なのだ)。著者自身の主張の依拠する背景的議論が、これまでどのように存在し、そしてどのように評価されてきたかを明示することは、自身の主張の意義を「説明」することと密接に関係する。そして、だから、関連する先行研究に対して広汎かつ正確に言及乃至参照している論文――当然そうあるべきなのだが――は、読者に対して当該論文の信頼性を高める。他方で、「先行研究の存在を知らなかった、つまり、同じような内容の主張が論文としてすでに公表されていることを知らずに(そしてもちろんそれへの参照指示をせずに)同じようなことを書いてしまった」というだけでもアウトだと厳しく指導されている先生方も多い筈。

  主張されている結果が本当にあるのなら多少のコピペがあっても構わないなどと言っている(orいた)人たちは、1)高等教育を受けはしたがその基礎にある重要なものを結局習得できなかったと自白しているに等しいか、2)不幸にして質の低い指導教員(または大学)に当たってしまったか、3)そもそも自分がよく分かっていない事柄について軽々しい発言をしているか、のいずれかでしかないので、ちゃんと言質を取ったうえでこの種の問題に関するその当人の発言の信頼性評価を引き下げておこう。まともな(特に文系の)研究者の論文ならば、引用部分も含めて一字一句自分自身の思考の中で十分に吟味し慎重に構成したうえで書いてるっての。

  今回の不幸な騒動では、優れた見識を持っている研究者の方々(のtwアカウント)を新たに見つけられたことと、分野や組織によっ学問上の流儀も様々に異なるものだという事実を再認識できたことをもって、わずかな慰めとしておきたい(――ただしその一方で、学問的誠実の底が知れた人物や組織もあったが)。渦中の当人については「もう終わり」と見做すのが学者たちの大勢のようだが、W大とR研の両法人については、組織自体の問題としてまだまだ厳しく検証されねばならないだろう(――ただし、指導の任に就いていた大学教員個々人に焦点を当てる局面では、「研究は素晴らしいが(院生への)教育はいいかげん」「研究は素晴らしいが書類仕事はいいかげん(であり、その一つの表れとして論文の不備が多い)」といったような場合は、研究者としての能力評価は非常にアンビヴァレントなものになってしまうと思われるが……)。