2026/08/18

2026年8月の雑記

 2026年8月の雑記。

 08/15(Sat)

 この夏アニメはずいぶん凸凹が大きくて、荒れ模様な感じなのかな。中堅クラスのタイトルに意欲作がたくさんあって多士済々なのだが、その一方で予想外の大ハズレも大量に出ているようだ。
 前者は、正統派少女漫画+特撮怪獣の『キャラメリゼ』を筆頭に、滋味豊かなオリジナルアニメ『さよならララ』、ユニークな絵柄で中世モンゴルの風土文物を情感豊かに描いている政治的復讐ものの『ジャードゥーガル』など、アニメ史全体の中でも珍しいであろう突出した個性を備えた作品がいくつも表れている。さらに、中国風世界をフィーチャーした近年の代表作の一つ『ふつつかな悪女』や、『攻殻』リメイク、映像を丁寧に作り込んでいる現代異能バトル『BLACK TORCH』、昭和30年代の美少女サーカス団という題材の選び方が非常に面白い『グロウアップショウ』もある。
 後者は、原作やコンセプト(素材)は良いのに、アニメ版演出が大失敗しているパターンが多い。こういうのは悲しい。ありがちな、「凡庸な原作を低予算でイージーに仕上げた」のならば諦めもつくのだが、ポテンシャルを活かせなかったケースはあまりにももったいない。


 ちょっと驚いた話。動詞「まぐわう」の未然形は、「まぐわわない」になるんだな……。「味わう」「賑わう」と同じ活用類型なので、文法上は確かにこうなるのだが、とある本で目にして、「……え? 『わわ』になるんだっけ? いや、合ってる。そうか、そうなんだな……」と。


 さて、せっかくだから今期も、『ジャードゥーガル』について原作との比較精読をやってみる。とはいえ、心情のドラマというよりは政治劇としての側面が強いので、あっさり軽めに書くつもり。そして、たぶん途中までで止める(※最終話まで律儀にやる必要は無いだろう)。
 第1話のコメンタリーは4700字、第2話は2500字と、幸いにも『淡島』のときの半分くらいの文字数でコンパクトに収まっている。第3話は1600字(累計8800字)。第4話は2000字、第5話も1600字、そして中盤のクライマックスの第6話も2100文字、第7話はわずか1300字、第8話は2500字(累計17700字)。このくらいなら手間も軽いなあ。

 とはいえ、この作品はそんなに好きではないんだよね……。例えば、知(科学)の位置づけがぶれているように見えるし、明らかに余計なシーンも散見される(※今後のための布石かもしれないけど……)。人々の出会い方もかなり恣意的で、露骨にご都合主義的だ。この漫画家の他の作品も、史実に追われてグダグダになっていたりレイアウトがあんまりきれいではなかったりする。特に『スムバト』は、第1巻を買って読んだら物凄くがっかりした。だから、そこまで評価されるほどのクリエイターではないと思っているのだが、しかしそれでもこういう意欲的なモティーフに取り組んでくれているのはありがたいし、ネタの着目の仕方も面白いのは確かだ。


 本職声優の価値は、台詞の解釈を掘り下げて、それを最善の形で伝わるように喋ってくれるスキルに存する。その意味で、素人(有名人など)がただ声を出すのとは別次元の――そもそも比較の俎上に乗せられないほどの――創造的な活動だ。
 もちろん、素人でも、音響監督から手取り足取りあやされて、台詞の意味づけを発声に乗るようにすることは可能だ。あるいは、私たち一般人が、アニメなどの物真似をしてそれっぽく喋ることも、ある程度はできるだろう。しかし本職声優たちは、そうした解釈の深みをゼロから自力で作り出すことができるし、監督たちが事前に想像/想定した以上の優れたアウトプットを作り出すこともできる。決定的に違うのはその点だ。
 そしてこれは、素人(有名人)がしゃしゃり出てきてアニメに声を当てることを強く非難しなければいけない理由でもある。「きれいな声」とか「存在感がある」とか「キャラに合っている」とか「リアルっぽい」といった的外れな正当化が図られる場合もあるが、視聴覚媒体としてのアニメ作品において、作品の形姿をもっと――最も――優れたものにするうえで重要なのは、台詞の解釈とその効果的な具体化(表現力)だ。この点を無視して「声優の価値」や「素人の声優挑戦の当否」を論じるのは、私見ではすべてナンセンスだ。
 (現実には、残念ながらプロの人気声優の中にも、言葉のニュアンスを掘り下げられない大根役者は少なからず存在するのだが、それはまた別の問題。)


 花言葉ネタは、いつも眉唾で見ている。ちゃんとした典拠も正統性も無いことが多いし、一つの花に対して複数の言葉が当てられている中で恣意的に選ぶこともできてしまう。なので、ご都合妄想トークになってしまう。
 もちろん、歴史的に特定の花に特定のイメージが被せられることはある(「オリーブ=平和」とか)。しかしそれは、「花言葉」という曖昧なカテゴリーとは無関係に扱う方がマシだろう。例えば「スイセン=narcissus(ナルキッソス)=自己愛」などは、ただ文字通りなだけだったりするし。また、日本国内のコンテクストで見ても、和歌などの歴史的-文化的な意味づけがほとんど反映されておらず、忌憚なく言えば「近代にでっち上げられた権威/マナー」のようなきわめて疑わしい形で流通してしまっている。
 先月の『淡島』記事でも、個々の花言葉への言及は完全に封じている。「たぶん絵コンテ/演出の人は花言葉を意識したんだろうなあ」という絵もあったが、そういう考慮を入れなくても十分に作品読解は成立するので。

漫画雑話(2026年8月)

 2026年8月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●続刊等。
 mmk『となりの席のヤツがそういう目で見てくる』第6巻(86-102話)。花火祭からビーチ遊びへ。おおまかに言えば、「からかい」系の眼鏡女子と犬系な美形男子の恋愛未満なライトフェティッシュシチュエーションコメディなのだが、頭身高めのキャラクター造形なので色っぽいムードがあるし、二人それぞれの視点を使い分ける(対比させる)ことでトリッキーなドラマを作り出しているのも良い。

 松井優征『逃げ上手』第26巻(224-232話)。本質的に「終わり」のない史実ものなのに、意外にも、ここに来て物語の締め括りがドラマティックに盛り上がってきた(※途中はかなりダルい巻もあった)。次巻で完結とのこと。結局、最後まで付き合ってきたなあ。
 大関詠詞『~スローライフの夢を見るか?』第5巻(29-35話)。異世界冒険者ものだが、躍動感のある情熱的な筆致が面白い。ただ、ページ単位でレイアウトが決まりすぎていて、ページをまたいだつながりが弱い(あまり意識されていない)ように感じる。例えば左右のページでまったく雰囲気が違っているのは、少々ぎこちなく見えてしまう。。この作品はまだましなのだけど、気の利かない作品だと、どのページも「1コマ目が大きな決めゴマで、その下にストーリーコマが続く」形が延々連なっている場合がある。あるいは、左右のページでコマの密度が大きく異なっている場合も、かなり異様に映る。オンラインの縦読みならまだしも、見開きで読むとそうしたぎこちなさはかなり目立つ。
 鴻巣覚『うさぎはかく語りき』第3巻(14-20話)。架空の東京地下街を占拠したウサギ型エイリアンたちとのバトルもの。kawaiiウサ耳美少女キャラたち+意外性のある心理描写の掘り下げ+殺伐とした異能バトルという取り合わせの感触が面白い。
 石沢庸介『第七王子』第24巻(196-201話)。スタンピード編の最終盤で、いつも以上に凄まじい。超魔法バトルものとして、魔術ギミックのアイデアの豊富さ、ネーミングセンスの卓抜さ、そしてそれらを組み合わせるテクニカルな作劇、各キャラクターの特徴づけの明晰さとそれら全員をストーリーの中でそれぞれ機能させる手腕、しかもかれらの心情的なデリカシーもきちんと掘り下げる誠実さ、さらにゴージャスな魔術バトルの視覚表現の鮮烈さ(しかもオンライン連載ではフルカラーだ)、等々。現代エンタメ系漫画家の最高峰の一人だろう。

アニメ雑記(2026年8月)

 2026年8月の新作アニメ感想(※だいたい第5話以降)。
 『キャラメリゼ』(現時点での評価は80点)、『クレバテスII』(70点)、『グロウアップショウ』(70点)、『さよならララ』(80点)、『対あり』(65-70点)、『ジャードゥーガル』(85点)、『透明な夜』(75点)、『BLACK TORCH』(70点)の8本を視聴継続している。『手札が多め』(70点)は、精読はせずに流し見程度に付き合っていく。『ふつつかな悪女』(70点)は後追いで視聴したが、継続するかどうかは迷っている。『ダンシング』は、演出(構成)が下手すぎるのでおしまい。


●『乙女怪獣キャラメリゼ』
 第5話。進級した春と、新しい友人。怪獣化ノルマは序盤であっさりとこなしつつ、メイクによる自己承認を語る。主人公が抱えている問題を、外面に症状が現れる身体的コンプレックスだと明言するのはたいへん悲しくつらい。
 今回の新キャラ(ギャル)を演じているのは、白石氏。彼女をゴリラキャラとして戯画的に描きすぎているのは、本作のコンセプトに照らしていささか問題無しとはしないが、まあぎりぎり許容範囲内か。

 第6話。正統派な少女漫画テーマを真正面から描いている。前半パートのSD主人公も、動きの勢いを表現するうえで上手く作用しているし、キスを巡る演出もこの作品らしく個性的なシーンに作り上げている。作品コンセプトと、それを形にする演出と、それらを下支えする安定感のある作画の三者がきちんと噛み合っている。

 第7話。今回は花火大会。ユニークな設定を投入することで、ベタなネタにも新たな面白味を作り出していて、なかなか上手い。真に迫った情緒と、コメディらしい堂々とした開き直りのバランスも面白いし、映像作りとしてもロマンティックなシーンを非常に効果的なレイアウトで見せている。
 そして最後に、まさかのメトロン星人ネタ。というか、サブタイトルからして「狙われた街」→「狙われた新汰」と、パロディになっている。
 それにしても、黒セーラー服から普通の夏服になってしまった点だけは惜しまれる……。


●『クレバテスII』
 第5話。学園が二重世界であることが明示されたが、物語としてはアリシアの脱出行くらいしか進展が無い。しかしその割に、黒幕に関しては察しが良すぎる(話を急ぎすぎている)し、説明的なモノローグ過多も相変わらず。映像面では、力感のある激しいバトル表現や個性的なグロテスク描写が目を引く。

 第6話。バトルシーンの連続は、絵としての迫力はあるし樹木のモンスター的伸張などのアニメーションも手が込んでいるが、ストーリーとしては歯切れが悪いまま。


●『グロウアップショウ』
 第5話。調子が上がってきた。雨のしっとりした情緒と、木造家屋のノスタルジックな雰囲気、双子キャラのバックグラウンドを掘り下げる優しい物語、そして洒落っ気のあるユーモラスな演出。今回の絵コンテも、亀井幹太監督自身による。
 今回の悪役キャラを演じているのは生天目氏。

 昭和30年代のサーカス団というのは、確かに上手いシチュエーションだと腑に落ちてきた。つまり、
 1) 美少女ものを、ノスタルジー世界とレトロ原色デザインと取り合わせる新奇性。00年代風の256色ヴィヴィッドカラーでもなく、20年代風の暗い中間色でもない。セピア色寄りの統一感を持ちつつ、色彩的な賑やかさも確保している。上手いチョイスだと思う。
 2) 戦後復興期の、ひたすら自由で、無邪気にポジティヴでいられる雰囲気(※もちろんこれは昭和を後から美化したイメージなのだが、フィクションとしてはこのくらいのアレンジは十分あり)。
 3) サーカスは、キャラクターの全身運動の魅力を前面に押し出せる。現代のステージアイドルものと、相通じるところもありつつ、パフォーマンスのスタイルはまったく異なっているので独自性を打ち出せるし、「サーカス」それ自体としても、広くイメージが共有されているので受け入れられやすい。
 ただし、これまでのところ、そういうパフォーマンス動画としての面白味は、あまり作り出せていない。ブランコ芸も単純な動きだし、マジックも突飛な超自然的現象になってしまっている(※これはアニメ媒体ならではの問題でもある。アニメは「何でも描ける」というのが当然の前提であるため、どんなにアクロバティックなサーカス芸を披露しても、それをリアルな凄味として感じ取るのが難しい)。

 第6話は、主人公の以前の知り合いが訪問し、それぞれの過去が次第に掘り下げられていく。ひまわりサーカスの成り立ちについても、怪しげな布石の描写がいくつも出てきている。しかし映像それ自体としては、止め絵で長尺を保たせるなど、省力作画になっている。ところどころにユーモラスな演出もあるのだが、それだけで興味を持続させるのは難しい。絵コンテは今回も亀井監督自身による。

 第7話。この作品も、過去回想で主人公の動機付けを掘り下げる(※他の作品もしばしばこの手法を使っている)。話の道筋が明確になったおかげもあって、映像の流れも非常にきれいになっている。演技を見守る人々の間に漂うその場の空気も、しっとりと伝わってくる。


●『さよならララ』
 第5話。ケーキ店「アンデケン」で働き始める。密度感のある屋内俯瞰レイアウトは、今回も効果的に使われている。実在のお店(近江八幡市)を使っているためもあり、スタッフの名字は市内または近隣の地名から取られているようだ。キャストは、さすがに滋賀出身オンリーとはいかず、京都出身者や大阪出身者もいる(※実際、滋賀県内には京都や大阪の出身者も多数生活している筈だし、このくらいの混在はむしろリアルだろう)。
 アルバイトを通じて、人間の集団生活に触れる主人公。その風景が、写真現像のシーンでじんわりと形を成していくところがたいへん印象的。写真だけでなく、自家用車のルームミラーに主人公の姿が映り込んでいるというテクニカルなカットもあり、バイト先のスタッフたちが彼女をそっと見守っている視線もそっと描写されており、今回はとりわけ視界(視線)の存在が強調されている。一見素朴なようでいて、作りはかなりしたたかで、しかもテーマそのものは(今のところ)ストレートというバランスも興味深い。
 ララの履歴書の書体もやたら凝っている。前衛書か何かのような幾何学的な面白さがある。

 第6話は、姉リサの視点からの回想、そしてCパートでは王子(?)が登場。蛍光グリーンの妖しい色合いや、夕暮れの鮮やかなグラデーションなど、色彩的な豊かさが素晴らしい。灯火に羽虫が集まっている様子なども、雰囲気が良く出ている。

 第7話。茉里の思いきりのよい突き飛ばしに笑ってしまったが、そこからジェットコースター的にどんどん状況が変化していく。過去との二重写しに、ルカの意外な不器用さと真摯さ、ちょっと肩透かしな観光地利用、そして滋賀の街中を歩く手触りの実感に至るまで。最後のカットは、靴に付いた泡かな?
 細かい話だけど、SNSメッセージの画面上での見せ方も面白かった。こういうレイアウトは、いかにもありそうな発想ではあるけれど、類例はどのくらいあるのだろうか。
 今回の突き落としシーンは、湖畔の街を舞台にしたことが作劇上機能した初めての機会……か?


●『対ありでした』
 第5話。関東旅行の中で、友人たちとしっとりとした情緒と情熱を共有するという、一種の思春期日常ものとしての側面を出したエピソード。たまにはこういう雰囲気も良い。

 第6話。なぜか井畑監督が脚本+絵コンテ+演出を担当し、そのうえ王雀孫氏が脚本協力しているという不思議な編成。システム談義から、格ゲーに向き合うスタンス、新キャラ、イベントの雰囲気と盛りだくさん。久野氏の小癪キャラもなかなかの味わい。映像面でも、流れる髪のアニメーションや、引き締まったレイアウトなど、なかなか良い感じ。
 登壇者「フランベルジュ」は、現実にe-Sports実況で活躍している人物がここで声当てをしているらしい。作中の音声それ自体は、まあ、あれでよいと思うけれど、こういうのはあまり嬉しい話ではない。


●『手札が多めのビクトリア』
 第5話は、投獄された青年を救出するだけの話……なのだが、やけに映像の出来が良くて、じっくり見入ってしまう(絵コンテはヤマサキオサム氏、演出は渡辺正彦氏)。冒頭の立橋の影のシーンから、屋内灯火の光源表現(ライティング)、効果的なロングショット構図、そして作画に関しても乗馬のアニメーションや背景美術など、きれいに出来ている。主演の安済氏も、変装時の雰囲気の変化や繊細なモノローグなど、台本上のシチュエーションやニュアンスを巧みに反映させている。
 さらに、魔女のコスチュームを楽しむノンナや、お姫様コスプレで恥じらう主人公、さらに独自言語での演劇と、風変わりなうえに興味深いシーンもある(※言語設定にも独自のスタッフが付いている:造語制作=三井秀樹氏)。

 第6話は、思わせぶりだが非常に雑な内容に見える。コンテはおかしなカットつなぎで空回りしているし、黒ベタ演出(レターボックス)も上手くいっていない。ただし、乗馬の作画だけはやけに出来が良いし、印象的な絵もあるのだけど……。今回の絵コンテの松園氏は、80年代以来のベテランのようだが、キャリアの如何にかかわらず、良くないものは良くない。後輩が護衛に追われているシーンとか、主人公が一人で馬車を見送っている場面とか、映像としての状況把握そのものが破綻している。ひどい。
 シナリオも散漫で、一応は「少女の保護者であることが、主人公自身の日常の支えになっている」というラインに沿っているのだが、短くて余計なシーンを入れまくるせいで非常に雑然とした印象を受ける。それ以外もいろいろとイージーな展開が多い。とりわけケーキ店と男爵夫妻のあたりは、説明不足でつながりが成り立っていない。バーの店長が変装のことまで知っていたのもおかしい。原作小説では適切な経緯説明があったのかもしれないが、このアニメ版で視聴するかぎりでは、あまりにも筋の通らない箇所が多すぎる。これはおそらくアニメ版の脚本家が悪い。
 暗い過去を持つ主人公が、ミニマルな日常生活を希求して、そしてそれが故にこそ隙を作ってしまうという作劇は、気分としてはよく分かるのだけど……。そして、捨てられた少女に、自分自身の過去を投影して、「工作員として育てられて、幸せな思春期を得られなかった自分の代わりに、この子に日常の幸福を保障してあげよう」という心情の動きも、苦みのある情趣があるのだけど……。他人に頼らず自立して(≒孤独に)生きようとしているのに、周囲の善良な人間関係に絡め取られてしまうというも、面白くはあるのだけど……。だけどねえ……。

 第7話。自分なりの自立性を保つために、せつなくも静かな別離をもって物語を切り上げた……って、これでエンディングなのか? 今回は光源演出がたいへん濃密に施されており、室内灯のかぼそい明かりとその周囲の暗がり、そして戸外でも時間帯に応じた色調の変化など、「(明暗の)対比」、「(暗がりによる)包囲」、「(影のエッジの)鋭さ」、「(時間的推移の)流転」と様々なニュアンスを映像に与えている。今回の絵コンテは大畑清隆氏。この方も80年代からのキャリアのあるベテラン演出家のようだ。演出は村田尚樹氏。こちらも00年代からの演出畑のエキスパートの模様。
 ストーリー面でも、「まあ、あれだけ暴れていればバレるよね」というのを、きちんと筋の通った形で整理し直して、物語の見通しに説得力を与えている。マイルズが逃亡元組織の人間ではなく現王国側の監視員だったというのはちょっと驚き。
 主演の安済知佳氏は、抑制を利かせつつも内心の葛藤を滲ませる名演。ノンナ役の若山氏も、「幼いけれど物事が良く見えている、機転の利く少女」のキャラクター造形を鮮やかに表出している。そして「団長」役の阿座上氏も、配慮に満ちた誠実な人柄の語り口を繊細に演じている。
 ……で、はたして次回はあるの? 最後の部分ではノンナが全然出てこなかったので、擬似母娘のドラマとしては宙吊りのままになってしまうので、そのあたりも含めてまだ描かれるべきことを残しているとは思うのだが……。ノンナ発熱の描写も、このままだと非常に中途半端なシーンだし。原作小説も、ここからまだ続いているので、まさか最終回ではないと思うが、それにしてはきれいすぎる終わり方だ。主人公が基本的には他人を手助けすることのできる善良な人物として描かれているため、こうした(一歩間違えば悲劇に溺れるナルシスティックな感傷になりかねない)ビターに別れにも、嫌味がなく、素直にその決意を受け止めることができる。
 モノクロの止め絵演出は、80年代以前からある、わりとレトロな表現(たぶん昔のスポ根アニメなどで使われていただろう)。画面分割演出も、典型的にはロボットアニメのコクピットなどで使われていたが、今作のような広い黒ベタ面(レターボックス演出)は、90年代以降の実験主義あたりが出発点だろうか?


●『天幕のジャードゥーガル』
 第6話は、小清水氏のモノローグ(ナレーション)でリードされる、ドレゲネの長大な回想。前回にも増して凄みのある、名匠小清水氏の芝居。心情のデリケートな移ろいと、その底にわだかまる暗いパッションを、あくまで芸術的な品位と緊張感を持って演じている。映像表現としても、神託の踊りのプリミティヴな迫力とミステリアスな陶酔の演出は息をのむ出来映えだ……って、老族長の役は石田彰氏だ!!! 後半の悲劇的なシーンも、駆け回る馬たちのアニメーションが切迫感とを煽る。妖しいカーマイン色のオーロラも、流血の過去と復讐の密約を効果的に演出しつつ、双方を結びつけている(※このオーロラは、実際にモンゴルで発生することがあるらしい)。原画/動画も潤沢に投入されているようで、中盤のクライマックスに相応しい密度と劇的な動きを表現しきっている。
 少女「クラン」役は水瀬氏。ちょうど『ダンシング』第5話でも少女役として出演していたが、なるほど、こういう芝居が得意な方なのかな。岩の上から「よっ」と跳び降りるときの台詞など、実にあざとい。
 関根氏は、ラジオトークを聴くかぎりでは声の細いしゃべり方のようだ。だから役柄の適性としては、静かなモノローグに感情を乗せていく方が合っているのだろう(※本作しかり、『クレバテスII』の姫しかり)。それに対し、パワフルなキャラクターを演じるときは、「悪くはないけれどちょっと薄い」という印象になりがちになる(※『第七王子』の中華系元気キャラや、『キャラメリゼ』の怪獣マニアキャラなど)。

 第7話は、一転して世界史的な大きな動きに目を向ける。対外的には中国(金国)への侵攻、対内的には産業(交易)振興と、オゴタイたちの支配-統治構想が展開される。劇伴の付け方(映像と音響のマッチング)が上手いのは、いったいどうやっているのだろうか。

 第8話。皇后ボラクチンを相手取って、いよいよ本格的な謀略劇が展開されていく。プロットそのものはご都合的要素もあるのだが、冷え冷えとした緊張感の演出が素晴らしい。ボラクチン役の「くじら」氏も、なかなか心の底を見せないしたたかなキャラクターの分厚さを巧みに表現している。色彩的にも、老皇后ボラクチンのシーンは彩度をかなり低く着彩されており、それが彼女の落ち着きぶりと捉えがたいミステリアスさを視聴者に感じさせる。絵柄そのものは記号的なのに、キャラクターの人格造形はけっして記号的ではなく、それぞれにバックグラウンド(人生経験)の厚みや、自立的で強靱な意志に基づいた言動の手応えがあるのも良い。
 皇后に付き添ってる女性(モゲ)は、袂や長髪を元気よく振り回しながら賑やかに動き回っている。このアニメーション表現も、含みに満ちた会話劇の緊張感を一時的に緩和して映像的な抑揚を与えることに寄与している。このキャラクターに限らず、動画媒体ならではの繊細な振り付けが、キャラクターの内面の動きや物語上のニュアンスを巧みに表現している。このあたりも上手い。今回の絵コンテ&演出は、若手(たぶん)クリエイターの村越麻海氏。本作への参加はこれが初めて(?)だが、これまでに2本の監督作品がある。
 その一方で、主人公側のドレゲネは早々におまけ扱いになってしまっているようだ。主人公の策謀の踏み台だということでもあり、また、その気弱な姿はファーティマ陣営の脆弱さ、政治的駆け引きの未熟さ、視野の狭さ、知識の乏しさ、経験の浅さを示唆するようでもある。ボラクチンたちの気宇壮大な世界構想や鋭敏きわまりない理解力を見せつけられたにもかかわらず、ファーティマが彼女を与しやすしと見くびってしまっている迂闊さにも、それが表れている。
 原作漫画を掘り出してきたが、この時点で単行本第3巻の中程あたりまで来ている。漫画では比較的小さなコマにキャラクターの全身を詰め込んでいたが、アニメ版では草原の広大さや、テント内の明暗、そして衣装の色彩感など、背景を含めた画面全体のバランスよい広がりがあって、作品の雰囲気を開放的なものにしている。盥の水を地面に流したところに星空が映り、そしてその星空が別の場面へとつながる幻想的なカットつなぎも、アニメ版独自の演出。


●『透明な夜に~』
 第5話。とても良い回。前半はヒロイン側から、彼女の白い視界をアニメーションとして描写している。見た目の説得力もあるし、それでいて観葉植物や食事がぼんやりとイメージで描かれるデリケートさもあるし、男性主人公との距離感やもどかしさも視聴者によく伝わる。もちろん、恋愛関係についての、「霧のような先の見えなさ」の演出でもあるだろう。アニメ(作画映像)媒体ならではの表現力を、テーマに即して活用している素晴らしい成功例。
 後半パートでは、恋愛を意識した二人の間の、躊躇逡巡しつつ迂遠ながら気持ちを伝えようとする会話のレトリックも上手くハマっている。いつものテラスでのレイアウトも、奥行きの立体感をほどよく強調しつつ、まるで開放的な小部屋で上演される舞台演劇のような、引き締まった緊張感と静かなテンポがある。ひらけた場所でもあるのだが、同時にコンクリ壁やフェンスに囲まれたひそやかな親密空間でもあり(しかも同時に、檻としての側面もある)、さらに周囲のオブジェクトが状況の複雑さをも示唆している。非常に興味深いロケーション設定。フェンスの影が、曇り空(日没)とともに静かに消えていくグラデーションもなかなか暗示的。
 さらに、OP/EDが新規制作されている。OPは完全新規だし、EDもキャラクターの動きが追加されている。今回の絵コンテは海野なまこ氏、演出は木村権祐氏。

 第6話。あっ……『めぞん一刻』以来の古典的なキスシーンだ……。ウブな大学生らしい、初々しいラブストーリーが微笑ましい(※大学生らしい迂闊さも垣間見えるが、それはそれで仕方ない)。作画のレベルでも、喋りに合わせたキャラクターの表情変化を豊かに描いている。今回のサブタイトルは、事前表示では前回とまったく同じ「打ち上げ花火」だったので何かのエラーか、「前編/後編」の脱落か何かを疑ったが、本編の末尾では「空白のテラス席」という正式なサブタイトルが表示された。うん、確かにこれは、ドラマの大きな転回を予示してしまうので、視聴前には出しにくいタイトルだ。
 「善良だがしたたかな早見沙織キャラの、掌の上で転がされる」のは、楽しいよね……。


●『ふつつかな悪女』
 思い立って第1話から視聴してみたら、かなり面白かった。継続していこう。
 山崎みつえ監督は、昨年の『全修。』もディレクションされていたのでクオリティ面では十分信用できる。主要キャストは今一つ薄味だが、けっして悪くはない。菱川氏の不機嫌女官キャラも、良い味を出している(特に第3話の芝居は、抜群の迫力がある)。映像面でも、振り返りなどの際に見せる瞬間的な表情などに、キャラクターの魅力が発揮されている。
 ただし、根本的にはエンタメドラマの域を出ない。キャラクターの心情表現も、真に迫った深みは感じられない。「何事も根性だぞ」という台詞に代表されるようなイージーさもある。
 うーん、どうしようかな……。楽しいエンタメ作品として非常に堅実に作られているし、シリアス要素の塩梅も程良いバランスだし、菱川氏の芝居をじっくり聴き込める機会でもある。しかしその一方で、徹頭徹尾エンタメであって、心情的なドラマの深みがあるわけではなさそうだし、絵作りも整ってはいるがそれほど凄いわけでもない。原作からして評価の高い作品で、アニメ版の配信サイトの視聴数を見ても高い人気で安定しているようだから、私が手を出さなくても正当に歴史に残るだろう。うーん……。
 第1話の最後に登場する莉莉(りーりー)は、あからさまに不機嫌に振舞っているが、どことなく不器用で善良そうでもあって、「あっ、これは可愛げが出てくるキャラだ」と一目で察せられる。さらに声が菱川氏とあっては、もう間違いない。要するに、洋風の「不機嫌メイド(不遜メイド)」という人気キャラ属性の中華ヴァージョンなので、ほんの少しブーストするだけで魅力が開花する位置にある。
 メイン2人に関しても、「悪役キャラの中に転生してしまう」という類型をアレンジして、衝突入れ替わりというこれまた古典的なネタと絡めることでドラマの手がかりを一気に増やした。これも非常に上手い。

 第5話は祭事の踊り。それぞれの振り付けのアニメーションがきちんと個性を造形しており、なおかつ舞踊としての魅力も十分に表現している(※柄物+長袖でクルクル旋回する胡旋舞を、よくもまあ見事に作画したものだ)。絵コンテ&演出は、副監督の野呂純恵氏(※山崎監督の前作『全修。』でも、いくつかの話数で演出を担当していたクリエイター)。

 第6話。相変わらず、ちょっと強引な展開もあるのだが、音響面まで含めたドラマティックな見せ方の気持ちよさも非常に良く出来ている。ストーリー面では、朱姫のバックグラウンドが掘り下げられており、また呪具(?)による策謀も示唆されつつある。
 病弱少女が危篤状態なのに、ライバル(主人公)が見舞いについて行くか行かないかをダラダラ言い争っているのは、さすがに作劇に問題がある。これまででも、小屋の前にいきなり(即日?)きれいな畑が完成していて作物がすでに実っているというのもかなり無茶だったが(※一応、隣の庭からの影響で生育が速められていたという説明はあった)、あれは翌日だろうが一週間後だろうが構わない話だった。それに対して今回のは、まさに寸刻を争う場面で余計な長談義をしている――しかも演出上は、主人公の明るい頑張りを強調するためというねじれっぷりもある――のが、いかにもまずい。薬を差し入れようとするも、よく分からない経緯になっているし(※薬を飲ませるだけなら、弓を引いて本人が見舞いに行く必要はないし、侍女たちが薬を飲ませてくれるならば弓を引く必要は無かったし、実際に弓を引いている最中に好転してしまったし、そして神弓の効果は呪いの悪夢からの救い出しという予想外の形になった)。皇帝も、真面目なようでいて、どこか凡愚っぽいんだよなあ……。


●『BLACK TORCH』
 第5話。正統派のきちんとした作画で、バトルシーンも空間的な奥行きやスピード感、そして打撃の迫力を巧みに表現している。歯列まで丁寧に描き込んでいるのも、野性的な荒々しさと整った美しさを奇妙に両立させていて面白い。
 黒猫キャラの扱いも上手い。リアリスティックに動物のしなやかな体つきを描きつつ、あざとくもならず、それでいて適切に存在感を発揮している。
 ただし、シナリオに関しては、ベタで掘り下げが浅く、今のところ面白味は乏しい。

 第6話。前回からの続きで、三者三様の回想が展開される。前半のバトルシーンは、冷え冷えとした緊張感や跳ねるような躍動感を上手く表現しているし、後半の真相解示も悲劇的なドラマで描かれ、中盤のクライマックスに相応しいクオリティ。
 そして今回も、上田燿司氏の芝居が良い……実に良い。通常の黒猫状態と、過去時点と、そしてモンスター化の3種類をそれぞれ、深い説得力で演じている。
 しかし、残り6話(たぶん)で、OPに出てくるキャラクターたちが全員登場できるのだろうか? 原作が全5巻で完結しているので、1クールで収められそうなのだが……。もしかして、原作者が元々構想していたシナリオどおりに、アニメオリ込みの2クールで物語をじっくり描ききってくれたりしたら面白いのだが。


『ワールド イズ ダンシング』
 第5話。欠点が露わになってきた。たしかに動画はダイナミックに動かしまくっているのだが、それが効果に結びついておらず、ただ落ち着きのないサーカス芸で終わってしまっている。視聴覚演出としては、シーンごとの重要度やニュアンスの意味づけができていないし、肝心の舞のシーン(Bパート)も面白味や新奇性が見て取れない。うーん。要するに、「作画班は頑張っているのに、脚本構成と演出が致命的に的外れなせいで、チグハグで筋の通らない凡作になってしまっている」という認識。前シーズンの『春夏秋冬』や昨年の『LAZARUS』と同じ轍を踏んでいる。
 構成と演出が失敗しているのは、AパートとBパートの対比にも表れている。Aパートでは、大胆なデフォルメを多用しつつ、超人的な躍動感のある全身運動をこれでもかと見せつけている。そこは素晴らしい。しかし、Bパートの舞台上では、写実志向の――現実的な人体機能の限界に縛られた――舞を描いており、その姿はいかにも精彩を欠く。シナリオ上では、未熟ながらも舞踊の新たな世界を垣間見させるものである筈なのに、それが見えてこないのは、そういった演出の失敗のせいもある。
 うーん……もう切ろうかなあ。濃密な動画表現は素晴らしいのだが、それらが物語とちっとも連動していないので、ナンセンスな空転で終わってしまっているので。絵は面白いだけに、実にもったいない。これは監督(と脚本)が悪い。黒柳監督は、00年代からのキャリアのあるアニメーターで、監督としてもこれが6作目のようだが、うーん。川滿氏は、これまで9本ほどのタイトルに脚本参加しており、シリーズ構成としてはこれが初仕事のようだ。

2026/08/17

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第8話

 第8話「大カトゥン ボラクチン」

 原作漫画の第15話の続き(3巻22頁)から17話の終わりまで。時代はひきつづき1230年から、翌1231年に金国侵攻が開始された頃まで。
 サブタイトルは、今回の実質的なメインキャラクターを指している。
 脚本は佐藤寿昭(担当話数はこれで3つ目)。絵コンテ&演出は村越麻海。本作の制作会社サイエンスSARUの社内クリエイターで、キャリアは比較的若いものの、いくつかの作品で作画監督も務めている。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第7話

 第7話「兄弟」

 原作漫画の第13話の途中(2巻131頁以下)から、第15話の途中(3巻22頁)まで。時代はひきつづき1229年から、翌1230年まで。
 サブタイトルは、今回描かれるチャガタイ-オゴタイ-トルイたちの状況をストレートに示唆している。
 脚本は井上美緒(第4話も担当した)。絵コンテは安部祐二郎とNicholas McKergowの連名。安部氏は第3話も担当している。McKergow氏は若手のアニメーターで、ネットにはオーストラリア出身との情報もある。演出も安部氏。
 

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第6話

 第6話「メルゲンの民」

 原作漫画の第11話から、第13話の途中(2巻133頁)までを描いている。時代設定は1229年だが、後述のように1204年頃の出来事を回顧している。
 サブタイトルは、メルキト族の異名(あるいは名前の由来)の「メルゲン(=弓の名手)の民」から取っている。
 脚本は佐藤寿昭(3話、8話も担当)。絵コンテは安藤雅司。複数のジブリ作品で作画監督を務めた実力派で、主に劇場アニメ制作で活躍しており、クール制TVアニメでの仕事はかなり珍しいようだ。しかしその力量は、この話数でもシャーマンの踊りで発揮されている。演出の松永浩太郎は、他の作品でも演出家としての仕事が中心のようだ。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第5話

 第5話「蛇のまだらは外側に 人のまだらは内側に」

 原作漫画の第9話と第10話を扱っている。時代は1229年のオゴタイ即位直後からの動きを扱っている。
 サブタイトルは、モンゴルの俚諺であるらしい。
 脚本はふたたび加藤還一。絵コンテは笹木信作。90年代ジブリでアニメーターを務め、その後多数の作品で絵コンテの仕事をしているようだ。演出の石郷岡範和は、2010年代から活躍中。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第4話

 第4話「炉の主(オッチギン)」

 原作漫画第7話の途中(1巻166頁)から、第8話の終わりまで(単行本第2巻)。1221年秋のモンゴル本拠地から、1229年の第二代皇帝即位までをカヴァーしている。
 サブタイトルはもちろん、当主となるべき末弟の地位のことだが、その「オッチギン」が即位しなかったという意外性にもつながっている。
 脚本は井上美緒(第7話も担当)。近年でも『不器用な先輩。』(2025)など、いくつかの作品でシリーズ構成を務めているクリエイターである。絵コンテ&演出は霜山朋久(第2話の作画監督も務めている)。90年代からのキャリアがあり、『SANDA』などの監督経験もある。

2026/08/16

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第3話

 第3話「消しえぬ炎」

 原作漫画の第5話の最初から、第7話の冒頭(1巻167頁)まで。1221年の春頃の連行途中から、同年秋にモンゴル本国に到着するまで。
 サブタイトルは、原作134頁の「こんな火で焼き消されるものか」という決意から取られている。
 脚本は佐藤寿昭(6話と8話も担当)。2010年代からのキャリアがあり、『貴族転生』(2025)ではシリーズ構成も務めている。絵コンテ&演出は安部祐二郎(第7話も担当)。『この素晴らしい世界に祝福を!』(第3期)などで監督経験もある。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第2話

 第2話「サファルに咲く薔薇」

 原作漫画の第2話の途中(1巻54頁あたり)から、第4話の終わりまで。1221年頃のモンゴル軍襲来から、モンゴル本国へ連行されていく過程を描く。
 サブタイトルは、原作第2話冒頭のエピソードから取っている。満開を迎えられずに、2月(サファル)に咲きかけたまま終わってしまったバラのイメージが、主人公たちの境遇に重ねられている。
 今回の脚本は、前回に引き続いて加藤還一。絵コンテは山田尚子総監督。演出は山田尚子と藤倉拓也(※藤倉氏も、第1話からの連続)。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第1話

 第1話「天にあるもの 地にあるもの」

 原作漫画には、各話タイトルは存在しない。このアニメ版第1話のサブタイトルは、原作で主人公が学んでいるクルアーン「天にあるもの 地にあるもの すべては アッラーに属す」(単行本1巻30頁、同36頁)から取られている。アニメ第1話(第1幕)の内容は、原作漫画の第1話から、第2話の途中(1巻60頁あたり)までを翻案している。作中の時代設定は西暦1213年から始まり、この話数の中では1221年のモンゴル襲来までを描く。
 今回の脚本は、シリーズ構成の加藤還一(敬称略、以下同様)。絵コンテ&演出はAbel Gongora監督、さらに演出補佐として藤倉拓也がクレジットされている。加藤氏は第2、5話も担当しており、藤倉氏は第2話でも演出担当している(山田総監督と連名)。

2026/07/12

2026年7月の雑記

 2026年7月の雑記。

2026/07/11

漫画雑話(2026年7月)

 2026年7月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

2026/07/06

アニメ雑記(2026年7月)

 2026年7月の新作アニメ感想(※第4話あたりまで)。
 さしあたり『キャラメリゼ』(80点)、『クレバテスII』、『さよならララ』(80点)、『対あり』(70点)、『ジャードゥーガル』(85点)、『透明な夜』(65点)、『BLACK TORCH』(70点)、『ダンシング』(80点)の8本を視聴継続している。とりあえずおおまかに点数も付けてみる。60点台はひとまず合格、70点台は独自の個性があり、80点台は非常に充実した視聴覚表現とコンセプチュアルな特異性がある作品。
 『グロウアップショウ』と『手札が多め』は、精読はせずに流し見程度に付き合っていく。『岩元先輩』『捨てられ聖女』『ブチ切れ』『メビウス・ダスト』は、第1話のクオリティが期待に届かなかったので、残念ながら退却。

2026/07/05

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第12話

 第12話「淡島百景」

 原作の最終話(第31話)に相当。ただし、原作の章題は「岡部絵美と伊吹桂子3」だったところを、アニメ版では上記のとおりメインタイトル=サブタイトルにしている。 脚本は中西やすひろ。絵コンテ&演出は、渡邉こと乃。時間は23:50と、ほんの10秒だけ通常よりも長い(おそらくエンドカードの分)。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第11話

 第11話「岡部絵美と伊吹桂子」

 原作は第29話の終わりから、第30話まで。ED後のワンシーンのみ、第31話(最終話)の冒頭を先取りしている。
 脚本は中西やすひろ。絵コンテ&演出は、山村日向。フリーの演出家とのことで、本作への参加はこの話数のみ。例によって、大筋はレイアウトや表情づけまで原作漫画に沿っているが、イメージカットなどをかなり増やしている。とはいえ、アニメーションとしての動き(キャラクターのモーション)などは、あまり付いていない。会話とモノローグを主体とする作品なので、そうした動画演出の重要度は他よりも低いタイトルではあるのだが。

2026/07/04

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第10話

 第10話「長谷川慎爾と夏木詩子/城芙美子の娘/伊吹桂子と岡部絵美」

 「長谷川慎爾と夏木詩子」は原作第5巻27話のエピソード、「城芙美子の娘」は同28話、そして「伊吹桂子と岡部絵美」は第29話からの終盤エピソードに入っていく。
 脚本は中西やすひろ。絵コンテは渡邉こと乃。演出は田部伸一。全体としては原作漫画に寄り添っているが、「長谷川慎爾と夏木詩子」では花の象徴性演出が活用され、「城芙美子の娘」では大胆なレタリング演出、そして「伊吹桂子と岡部絵美」では水の超現実的なイメージがまとわりついて、アニメ媒体ならではの表現空間を創出している。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第9話

 第9話「淡島文化祭/柏原明穂と田畑若菜」

 「文化祭」は、原作第4巻第25-26話で、前話(アニメ第8話)から続く最新世代の物語である。「柏原明穂」は、第3巻末尾の第20話の単発エピソードだが、これを「文化祭」エピソードの中に挿入する形にしている。
 脚本は綾奈ゆにこ。絵コンテ&演出は、いしづかあつこ。とりわけ「柏原明穂」パートでは、彼女のキャラクター性を強調するような演出が多数投入されている。今回は23:55と、通常よりもわずかに長い尺を取っている。

2026/07/03

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第8話

 第8話「小鳥遊紗羅/藤沢江里/雅楽川静香」

 原作第4巻の前半、第22-24話にそれぞれ対応する。同級生どうしの、ひとまとまりのエピソードである。時代設定としては、作中の最も若い世代になる。
 脚本はメインの中西やすひろ、絵コンテは銀さん、演出は増原光幸、DR MOVIE、Hwang Iljinの連名。DR MOVIEは、90年代に創立された韓国アニメ会社である。この回は、原作の黒ベタコマのところを新規作画で埋めるだけでなく、かなり自由に描写を作り直している。原則論としては、アニメ翻案が漫画の絵に縛られるべきではなく、映像は映像として、その媒体の特質に適した形で再構成されるべきだというのが私の個人的な立場だが、この話数については言えば、映像作品の絵コンテとしてあまり上手くいっていないように思う。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第7話

 第7話「山県沙織と武内実花子/武内実花子と山県沙織」

 原作第3巻の後半、第17-19話(「山県沙織と武内実花子」前編、中編、後編)に対応する。事実上ひとまとまりのエピソードである。アニメ第4話(原作第6話)の延長上の物語でもある。相変わらず、他のキャラクターたちとの関係は乏しい。 
 脚本は綾奈ゆにこ、絵コンテ&演出は渡邉こと乃。レイアウトやキャラ絵はかなり原作に寄せているが、小道具を活用したりイメージカットで上手くつないだりして、映像翻案ならではの意味作りをしている。

2026/07/02

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第6話

 第6話「淡島怪談」

 初めての、人物名以外のサブタイトルである。この回と、そしてもちろん最終回が、淡島を巡る無数の人々が行き交うプラットフォームであることは論を俟たない。原作漫画の第2巻第11-13話に相当する。
 脚本はメインの中西やすひろ、絵コンテ&演出は内野宮晃希。内野宮氏は、第1話の演出も担当している。この回も、通常の23:40よりも長い24:40の長尺となっている。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第5話

 第5話「大久保あさ美/浅香みどりと浅上レオ」

 大久保のエピソードは、原作漫画の3巻14-16話(50ページ強)。浅香の方は、4巻21話の比較的短いストーリーである(16ページ)。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテは渡邉こと乃、演出は田部伸一。田部氏は第10話の演出も担当する。原作漫画の構成に則しつつも、効果的な視聴覚演出が盛り込まれている。

2026/07/01

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第4話

 第4話「四方木田かよと山県沙織/田畑若菜と田畑佐江子/柏木拓人と吉村さやか」

 今回は、脇筋のエピソードを集めている。原作漫画ではそれぞれ第6話、第10話、第5話に相当する。比較的くつろいだ内容が多いが、演出的にも色彩感豊かな表現や、舞台シーンのインパクトの強い絵面、さらにはユーモラスなデフォルメに至るまで、個性的な話数になっている。
 脚本は綾奈ゆにこ、絵コンテ&演出は、いしづかあつこ。いしづか氏は、『宇宙よりも遠い場所』などいくつもの作品で監督を務めている。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第3話

 第3話「伊吹桂子と日柳夏子/山路ルリ子と日柳夏子」

 シナリオは、原作第1巻第4話の後半部分と、第2巻第7-9話の伊吹家関連エピソードをまとめている。5話と6話は後回しになったが、シナリオ上の影響の小さいエピソードなので問題無い。原作漫画では、第7-9話は「山路ルリ子と日柳夏子(前編/中編/後編)」と題されているが、アニメ版は上記のとおり、桂子もフィーチャーするようにサブタイトルを改めている。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテは「銀さん」、演出は森洸貴。銀さんは第9話のコンテも担当する。この回はふたたび、原作漫画のコマからの模倣が非常に多い。なお、この回は24分10秒と長め。

『淡島百景』の妄想年表

 漫画『淡島百景』およびそのアニメ翻案について、人間関係や時間経過が複雑なので、私なりの理解で年表的な見通しを試みた。

2026/06/30

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第2話

 第2話「岡部絵美と小野田幸恵/伊吹桂子と田畑若菜」

 原作漫画の順序どおり、第1巻の第3話から第4話の途中(第1巻109頁)まで。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテ&演出は渡邉こと乃。中西氏は、シリーズ構成を務めつつ大部分の話数を担当しており、それを補うように4話、7話、9話の比較的脇筋寄りのエピソードを綾奈ゆにこが担当している。綾奈氏は、同じく志村氏原作のアニメ化『青い花』(2009)でも、いくつかの話数を担当している。
 渡邉氏は12話のうち計5話について、絵コンテ(時には演出も)担当している。

2026/06/29

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第1話

 【 はじめに 】
 本稿の目的は、アニメ版『淡島百景』を原作漫画と対照してその異同を確認し、それを通じてアニメ版がいかに独自の試みを加えているかを明らかにすることである。
 あらかじめ先取りして概要を説明しておくと、このアニメ版は、シナリオ構成や台詞、さらには画面レイアウトに関しては、ほぼそのまま原作の表現を流用している。しかし、アニメ版による新たなカットや、色彩的な表現、そして音声演出による意味づけといったディテールを通じて、アニメ版独自の解釈と豊かさが生み出されていることも確かである。
 本稿は、第一義的には、そうしたアニメ版スタッフによる創造性がどのようなものであるかを、少しでも明らかにすることを目指している。またさらにこの比較作業を通じて、原作とアニメ版の両方の媒体的な特質についても一定の示唆を見出すことを試みたい。文章それ自体は具体的な異同を指摘しながら、そこから引き出せる作品解釈を私なりに述べるというコメンタリー形式になる。

2026/06/06

2026年6月の雑記

 2026年6月の雑記。

 06/22(Mon)

 【 現代エンタメにおける悲劇の欠落 】
 現代日本のエンタメ(とりわけサブカル系)が、強迫的なまでにハッピーエンドを志向(要求)しがちなのは、もったいないと感じている。歴史的に見ても、フィクションにおける悲劇のカタルシスの意義は、古典古代からずっと高く評価されてきたし、受け手もそれを虚構の中の出来事として享受してきたのだが……。
 例えば、すれ違いによってカップルが結ばれずにそれぞれ自死してしまう『ロミオとジュリエット』が20年代のエンタメ作品として作られる(翻案リメイクされる)ことは、うーん、残念ながら、ほとんど想像できない。史実ベースの歴史物だけは例外だけど、それ以外のオリジナル創作で、悲劇を志向するものはいよいよ少なくなっているように思う。例えば『Uボート』のような歴史もの(史実戦争もの)では、結末は無常観と親和的なビターエンド/バッドエンドになりがちなのだが、これは特殊事情と言うべきかもしれない。

 1) 私見では、これはおそらく皮相的で迎合的な商業主義の産物であり、結果的に創作と感性の振れ幅を狭くしてしまっている。しかし、それだけでもないかもしれない。

 2) 00年代初頭の、いわゆる「泣きゲー」(という誤ったジャンル認識)が大きな禍根を残した。それらは、一方では、障害者などの社会的困難を戯画的に誇張した感動ポルノという邪悪な側面があった。keyの脚本家が闘病ノンフィクションを読み漁って参考にしたというのは、その酷薄かつ無責任な欲望の所在をよく示している。またその一方で、影の濃いメランコリーの雰囲気にリードされる、いわゆる「鬱ゲー」アプローチも、90年代末の世紀末的ムードの延長上にあってそのパラダイムに絡めて取られており、そのポテンシャルを活かしきれないまま、ジャンルを沈滞させてしまった。これももったいない。

 3) コンテンツの長さも、おそらく影響している。2~3時間の舞台演劇であれば、悲劇の結末にしばし浸ってからスッキリと切り替えて劇場を後にすることができただろう。しかし、長大なゲームを何十時間もプレイした結末が、主人公の死などの不幸な形になるというのは、心理的なインパクトが大きく異なる。
 ただし、ゲームでもデニム皇帝の暗殺EDのような例はあったし、連載漫画『デビルマン』や『ザ・ムーン』が人類全滅エンドだったり、通年アニメ『Vガンダム』で味方側キャラクターがほぼ全滅していたりと、悲劇寄りのタイトルも昔は一定数存在した。世紀の替わる頃に、なにか決定的に雰囲気が変わってしまったように感じる。
 また、メディアミックスを含めて物語世界を大きく展開していく際に、人の死を描いてしまうとそのキャラはもう登場できなくなるし、悲劇的な事件があるとその後の展開に大きな影響を及ぼしてしまうので、そうした要素は扱いづらいというのも、まあ、分からないではない……ただの商業主義的都合に過ぎない、とも思うけど。

 4) 社会的要因? 不況下のリアルな経済的-社会的困難が続く中では、「物語の中でまで不幸を見たくない」と感じる人が増えるのは、十分あり得ることだろう。しかし、そうした悲劇嫌悪のネガティヴな声がSNS空間では過剰に増幅されやすいという状況が、問題をさらにややこしく解決困難なものする。

 今世紀の有名なタイトルにも、露悪的な残虐イベントを含む作品はある。しかしそれらも、SNS空間では「未読/未見の人にショックを体験させたい」という陰湿なDV的欲望のネタとして消費されるばかりで、苦味のある劇的感興をじっくり味わおうという精神的姿勢が存在する余地がきわめて小さい。悲劇の醍醐味というは、そんなびっくり箱の衝撃ではないのに……。
 また、NTRもののように、不幸描写が――あるいは、不幸描写までもが――しばしば性的な要素と結びつけられるようになったのも、それらを表立って扱おうとする際の妨げになっているかもしれない。
 むしろ、腰を据えて丁寧に描かれる長編コンテンツの方が、人間性の機微に触れるビターな物語を効果的に描き出せる力があるのだが、「ハッピーエンドにしました」「ハッピーエンドになりますから大丈夫です」といった言説ばかりが広まっているのを、いささか悲しい思いで見ている。
 もちろん、昔でも悲劇寄りの作品がマジョリティだったというわけではない。しかし、近年の動向は「ハッピーエンドでなければいけない(そうでなければ売れない、そうでなければ読まない)」というところまで極端に偏ってしまっていることに問題がある。

 見方を変えれば、80年代から90年代くらい(?)までは、終盤には悲惨なカタストロフが発生して、それをなんとか生き延びてちょっとだけ未来の希望を見て終わる……といったようなスタイルがそれなりに多かったと思う。それはそれでちょっと特殊なスタイルの作劇だったかもしれないが、近年のタイトルでもこういう展開があると、「おお、来た来た、懐かしいなあ!」と嬉しくなってしまったりする。
 アニメ映画『ナウシカ』(1984)から『もののけ姫』(1997)の影響も大きかっただろうけど、ゲームのFFシリーズも頻繁にこの演出を取り入れてきた。最近の漫画などでもたまにそういう気分を感じさせる作品はある。アニメだと、2025年の『ある魔女が死ぬまで』(大津波)や『九龍ジェネリックロマンス』(街全体が崩壊)、『全修。』(虚構世界の危機)などは一応これに当てはまる。主人公が瀕死になって精神世界をさまよい始めたりするのはちょっとシラけるけど、まあ、そういう展開になるのも仕方ない。


 個別の問題はともかくとして、あくまで一般論として思うことなのだけど、最近の日本人はパロディ表現に対して厳しすぎるんじゃないかなあ。侵害性の高いコピー商品でもないかぎり、パロディとか、物真似シーンとか、ちょっとしたギャグ演出とか、風刺的な言及とかは、もっと広く、もっと自由に表現できる方が、創作世界の豊かさにとって好ましいと思うんだけど……。
 00年代くらいからだろうか、いわゆる「大人の事情」と称して企業側の利害を忖度しなければならないという意識がぼんやりと強まっていったのが、転換期だったのかもしれない。そこからは一貫して、利益や権利の囲い込みが進んでいった。メディアミックスビジネスの伸張もそれを後押しした……というか、まさにそれのためにパロディの自由は失われていったのかもしれない(※その一方で、二次創作同人だけは許容されて、今では即売会という場所的限定すら取り払ってオンライン販売が行われるようになっている)。
 例えば、ゲーム『巫女みこナース』のOPムービーにガンダムキャラもどきのような絵がチラッと出てくるくらいは、ネタとして笑って済む話であって、それが咎められるような社会は抑圧的にすぎると思う。また、『全修。』のように、既存アニメの有名シーンをパロディ的に描いた作品も、まさにそうしたパスティーシュを通じて、アニメ史の広がりと重み――それはアニメーター主人公に掛かる重みでもある――を視聴者の目に強烈に印象づけた。そうした絶大な効果を持つ場合もある。パロディ元の作者たちに一々許諾を取らなくても、そういった自由な表現の余地がある方が、文化的発展にとっても、我々受け手の楽しみにとっても、良い状況になるだろう(※あの作品はたぶん内々に連絡して、業界的な義理を通してはいただろうけど)。しかし、『僕らのいきなり同棲計画!』のように、綾波&惣流そのままのキャラクターをただ拝借してベッドシーンを描いているだけの作品では、非難の度合いが高まるのは妥当だろう。明確な線引きは難しいけれど、できるだけ緩く、寛容側に傾けておく方が良いのではないかなあ。
 ちなみに、海外では著作権の保護形態(保護範囲)そのものが異なるので、また別問題になるのだけど、それでもアニメのスクショそのものを切り出してグッズにして販売したりするのは、個人的には、ファン活動の範囲を超えた海賊版行為だと思う。
 もちろん、パロディはパロディで、「面白いか」「作品としてどのように組み込んでいるか」といった視点でそのクオリティが厳しい吟味に晒されるのは当然だ。むしろパロディは、そうした評価のハードルが上がりがちなのが、その安易な導入を抑止する防壁として作用しているとも考えられる。拙劣なパロディは、その拙劣さによって当の自作の出来を落とすし、またパロディ元のファンをも憤激させるだろう。言い換えれば、「パロディを使うなら、上手くやれ、面白くやれ」というのは、結果的にパロディ元作品の価値を守ることにもつながるだろう。受け手としても、「パロディだから駄目」という大上段の論法ではなく、「下手だから駄目」(パロディとして面白くないから駄目)というアプローチをする方が、はるかに健全だし、作品受容(作品のディテールをきちんと見てそれを解釈する姿勢)としても望ましい。


 観光地などの風景写真に、キャラクターがそこにいるかのようにイラストを描き込むのはかなり好き。ファンタジーキャラの現パロだとなお良し。


 ガールプラモの発売年表の更新は、もう止めてしまってもいいかなあ。理由はいくつかある。
 1) ガールプラモ分野の出現と初期の発展過程の20年史については、私の力の及ぶかぎり、ひとまずは記録することができた。完璧ではないにせよ、アウトラインを把握するための資料としては、それなりに役立つ筈だ。
 2) 現状ではもはや、極端に新しいムーヴメントが現れてくることは無さそうだから、ジャンル的発展史の観察&記録をこれ以上続ける意義は見出しにくくなっている。
 3) ブランド間のコラボや周辺的なミキシング用パーツなど、商品形態が複雑化してきたので、それらの見通しを提示するのは、単純な時系列リストの形では困難になってきた。
 4) 新作キットの数が増えすぎて、もはや一つのリストだけでは見通しが利かなくなってきた。ブランドごと、時期ごとの各論も、個別の記事としていろいろ書いてきたし。
 5) プレバンや布服販売、あるいは半-公式のレジンパーツのように、限定販売品や予約商品が激増したため、リリース情報の記録を残す意義が薄れてきた。……いや、むしろ情報を残すべき価値が高まってきたとも言えるのだけど、一般には買えない商品までトレースしていくのは不毛感がある。

 こういった同時代の記録は、後世のために誰かがやっておくべき作業であり、そして、一研究者兼趣味人としては、ひとまず歴史に対する義理は果たしたと言ってよいだろう。日本の「オタク」たちはどんどん刹那的で消費志向になっており、こうしたアーカイヴ化の営為が誰かによって引き継がれることはもう期待できないが、それはもう仕方ない。まあ、当面は私の労力を割けるかぎり、新作情報の更新を続けるけどね……。もうちっとだけ続くんじゃ(フラグ)。


 さて、『淡島』の私的なコメンタリーに着手してみた。……長い。長すぎた(第1話だけで17600字)。資料が揃っていて、書くべき方向性も決まっていれば、トップスピードで一日3万字くらいは行けるが、いや、それでもさすがに疲れた……。まあ、web検索やページ内検索などで、面白そうなところだけ適当につまんでいってくれたら十分、というつもりでいる。
 第2話以降はどうしようかな……。ざっと見たところ、原作漫画のレイアウトから多少離れた自由なコンテの回もあって、それはそれでとても良いことなのだけど記事としては書きにくい。それに、ひとまず解釈のアプローチと注目できるポイントは提示しきったので、これ以上は同じような話を繰り返すマンネリになってしまいかねない。うーん。
 
 というわけで、第2話の途中まで概要執筆してみた。時速2400文字(おばか)。
 これはこれで面白い知的営為ではあるのだけど、やはり時間を取りすぎる。このペースだと、ざっと70時間は掛かる計算になる。それはまずい……。
 最終的に、第2話のコメンタリーは9300字でまとまった。第1話の半分だね!
 第3話の分は、5300字。このペースならば、なんとかなりそう。
 第4話も、5300字。第5話は4400字。

 ……こうして心の電波を放出するのは楽しいよね。ともあれ、創作物のどこが、なぜ、どのように優れているかをきちんと言語化してそれを共有可能にするのはとても重要なことなのだが、なかなかやってくれる人はいないし、私も出来ているとは言いがたい。今回の投稿群が、ちょっとでもそうしたことに目を向けるきっかけになったら嬉しいし、こうしたアプローチは現代のメディアミックス優位状況ではとりわけ大きな有効性があるだろう。
 もちろん、こうした演出の細部について、読者/視聴者が無意識のままでも効果は発揮されている。そして、そのくらいの浸透力と説得力のある演出は、「上手い」と言うべきだ。俗に、派手にして面白がらせることばかりを演出と呼ぶ向きもあるが、それはべつに演出のコア部分ではない。陰影表現とか、色彩的な変化とか、レイアウトによる意味づけとか、そういったものによって画面のニュアンスを視聴者に感得させるのは優れたコンテワークの成果だ。だから、視聴者は、「なんかよく分からないけど、良かった!」という感想でも、まあ、ひとまずは構わない。少なくとも、画面をしっかり注視しているかぎりは。「ながら見」とか倍速視聴では、ストーリーの大筋は捉えられても、そこから零れるものが多すぎて、結局のところ芸術体験としてはナンセンスになってしまう。

 第6話は6800字でなんとか書ききった(累計48700字)。文字数よりも、掛かった時間も方が問題かな。映像の再視聴チェックも含めて4時間ほど掛かってしまったので。
 第7話は、かなり控えめに3600字(累計52300字)。全12話ぶんは、7月いっぱい掛けても無理だと思っていたけど、案外スムーズに完成できるかも……だったらいいなあ(終盤の大変さから目を逸らしつつ)。
 第8話もコンパクトに4100字。累計56400字なり。
 第9話は5500字。累計61900字。最終的には10万字以内でまとまりそう。10万字というのは、だいたい新書一冊分くらいなので、まあまあコンパクトな数字。しかし、このブログでこれまで書いてきた連続記事では、「CGワーク」が9万字、「ガールプラモ史」が最終的にたぶん6万字くらいなので、今回のはほぼ最長規模になっている。
 第10話は7400字(累計69300字)。これまで一日2話ずつ、予定通りのペースで進めてこられた。日曜日のうちに完成させられたらいいな……。(不穏なフラグ) 技術的には、文学部(英文学科とか仏文、独文とか)あるいは映像学専攻のまともな学生であればたいてい誰でも語れるくらいの内容……というか、やっていることは本当に素朴なアプローチなのだが。
 第11話は5900字(累計75200字)。原作の黒ベタ進行を、アニメの新規カットで補っている箇所がいくつかあるので、解説の文字数が増えることを懸念していたが、わりと穏当な規模で収まってくれた。
 第12話は3600字(78800字)。なんとか完成させられた。

 さて、ここで初回視聴時の私自身の感想を読み返してみましょう……眼鏡度入りの話しかしていないな、このバカ(わたし)は……。まあ、初回は映像のテンポに集中していて、映像のディテールまではなかなか意識が及ばないという言い訳はあるけれど、不明を恥じるほかない。

2026/06/05

漫画雑話(2026年6月)

 2026年6月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 檸羽(ねう)『悪役令嬢ってのはこうやるのよ』第1巻(双葉社、原作あり、1-5話)。いまいち。カオミン氏デザインをベースにしていることもあってキャラデザはなかなか魅力的だが、疫病解決など、アイデアがどれもありきたり。仇役がどれも愚かなのが退屈させる。
 男性向けだと敵対者は「倒し甲斐(乗り越え甲斐)のある、立派な強大な存在」として描かれることが多いのに対して、女性向けだと「心ゆくまで叩き潰せる、醜くて愚かで無価値な小物のゴミ」として描かれる。前者は前者で問題がある(例えば悪いことをしているキャラクターも格好良くなりすぎる)けれど、後者も、美醜と好悪だけを基準にした格差主義と、異物(というか自分よりも「下」の存在)に対する攻撃性の発露を全肯定している気持ち悪さがある。この作品でも、主人公と対立する「ヒロイン」側の人物たちが愚かな社会的粗相によってどんどん自滅していくので、なんともカタルシスが無い。
 いわゆる「私のためにキモい奴らを殴ってくれるヤ○ザ様or公爵様」のアプローチも、反転させると「俺のために醜いあの女どもをいじめてくれる元気ギャルちゃんor高嶺の花お嬢様」になるのだが、たぶん大多数の男性はそういうキャラクター(関係)を悍ましく感じるだろう。うーん。いや、もしかして、ありなのか? 「モテない僕を愚かなギャルたちから護りつつ尽くしてくれる強気な幼馴染」のようなものも、うーん、それほど露骨ではないにせよ、あったかもしれない。まあ、どちらも私は嫌だけど。
 鯨川リョウ『教生カンケイ』第1巻(秋田書店、1-6話)。鯨川氏の新連載。両親から愛されていないと感じている一人暮らしの男子高校生のところに、だらしない女性教師が転がり込んでくるコメディ。主人公の心情描写にはシリアス要素もあるが、ヒロインの方はひたすら滅茶苦茶な生活をしている。この漫画家さんらしいキャラクター造形の尖った切れ味や、闊達自在で「お行儀良くしない」コミカル演出は健在。
 あきときたいき『オヤサイリベリオン』第1巻(小学館、1-6話)。野菜擬人化(?)キャラクターたちの物語。ナス族を虐殺する根菜たちと、それに対するナス主人公の復讐のドラマ。作画はレイアウトも良いし、力感のある動きもよく描けていて素晴らしいし、目玉が飛び出る(物理)くらいのグロ描写もあるのだが、シナリオとキャラデザが陳腐なのがもったいない。また、シリアスなようでいて中途半端にメタジョークを挟んでくるのも、個人的に好みから外れる(※焼死したナスキャラを「焼き茄子」と呼んだり)。野山を進むシーンの細やかな所作など、良いところも多いのだが……。擬人化キャラたちの凄惨なバトルという観点では『どく・どく・もり・もり』の後追いのようなアプローチだが、現時点ではとても比較にならない。作者はこれまでいくつもの連載経験があり、絵作りそれ自体はかなり高い水準なのだが……つくづくもったいない。
 成田芋虫『ヴァージン・キラー忍法帖』第1巻(マッグガーデン、1-8話)。鈍感な男性忍者と、ツンデレな女性忍者の間のラブコメ。予想以上に、かなり面白かった。ヒロイン「紫(むらさき)」が慌てたりドキドキしたり頑張ったりする表情がやたら生き生きしていて、これだけで読みごたえがあるし、二人を見守る首領キャラがいることで、「状況をかき回す」「ツッコミをする」「いわゆる『カップル見守り』役として読者の反応を代弁をする」といった刺激をもたらしている。ラブコメなので、ベタなネタもあるのだが、ネタの密度が高いし、オチの前の溜めも上手く利かせているし、台詞回しや周辺の小ネタなども洒落っ気があって良い。この漫画家さんの作品を読んだのは初めてだが、2010年デビューでこれが3つめの連載(本書で16冊目)という、中堅クラスの十分な実績のあるクリエイターのようだ。


●カジュアル買い、買い足しなど。
 新島なるい『白銀のキュイジーヌ』第1-2巻(講談社、1-4話/5-11話)。明治時代の外交官邸で西洋料理を作ることになった少女の物語。傲慢毒舌な上司(美形若年男性)の下で働くことになる主人公の「かわいそ可愛い」雰囲気はコミカルで楽しいし、料理描写などもきちんと下調べをして作劇されている。主人公の少女も、どこか妙に色っぽく(えろすではなく、なまめかしい)、濃厚な雰囲気を漂わせている……のだが、えっ、第2巻(新刊)で完結してる! もったいないなあ……。シチュエーションも明確で、目標もはっきりしており、人間関係も見通しが良く、そしてキャラクター造形や台詞のセンスにも独自性があり、漫画的演出もこなれていて充実した内容なのに……。なお、作者はこれが3つめの連載のようだ。次なる連載の機会に期待する。
 俵京平『金のなる森』第2巻(集英社、5-16話、5月刊)。表紙でカジュアル買い。人類が火薬などの近代的技術を発達させて、旧弊的なエルフ族から搾取しはじめている世界(財宝、奴隷化)で、両者の合間を縫って活躍する商売人(?)主人公の物語。オリエンタリズム的な財宝探しロマンの物語類型でもあり、また、近年(再)形成されてきたエルフイメージを梃子として巧みに用いている点でも興味深い。ただし、シナリオ展開はややぎこちなく、トリックもありきたりだが、ドラマティックな展開は楽しめる。ほどほどに肉付きの良い人体描写と、意外に派手なグロシーン、さらに異能フレーバーのある魔法表現と、それらを活用した戦術的側面が混じり合っている贅沢な内容。せっかくなので第1巻も買って読んでおこう。作者は『恋獄の都市』(全5巻)に続く2つめの連載のようだ。
 ささきさ『蒼きバルカナリア』第1巻(秋田書店、4月刊、1-5話)。これまで2作の連載経験のある漫画家による、16世紀ブルガリアを舞台にした物語。衣装、風景、建物、料理などのディテールが濃密に描き込まれており、読みごたえがある。シナリオは少女漫画なりに見通しをシンプルにしているが、ポジティヴな主人公の意志的で活発な行動が、見ていて心地良い。なお、「バルカナリア(balkanaria)」は、「バルカン半島の事物(バルカン文化)」といったような意味のようだ。


●続刊等。
 1) 現代舞台の作品。
 雁木万里『妹は知っている』第7巻(55-63話)。人間関係がいったん確立されたところで、さらにそれを先へ進めていこうとしているようだ。メール投稿職人の兄というキャッチーな部分と、芸能人(妹手)の裏側の何気ない日常という受けの良さそうな側面が、さほど連動しているわけではないのに、上手く両輪としてバランスが取れているのが面白い。
 三都慎司『ミナミザスーパーエボリューション』第3巻(9-12話)。超常能力そのものの開拓はいったん区切りを付けて、同じ能力を持つ他者の出現、そしてそれらと対比的に描かれる青春の日常の輝きが美しい。
 仲邑エンジツ『同居人がこの世界のモンじゃない』第2巻(11-20話+web掲載版いろいろ)。うーん、常識外れの突拍子もないキャラクターをほのぼのと描くのは、この作者の得意分野なのだが、この作品では、生々しい性欲表現がちょっと気持ち悪いし、それに引っ張られてネタの幅も狭まっている。倫理観の枠を外してみせる性的なネタも、道満晴明氏だったら突き放したユーモアで流していけただろうに、この作品では押しつけがましい雰囲気になってしまっている。うーん、もったいない。同じ作者の同月刊行『ムジナとミサキ』第2巻(8-14話、完結)も、歯切れの悪いまま終わってしまった。『おぼこい魔女』のようにキャラが上手く当たれば魅力的になるが、そこを外すと構成の弱さと中途半端なお色気が目立ってどんどん崩れていってしまうようだ。もったいない。
 天井フィナンシェ『白紙の上でさようなら』第2巻(6-11話)。漫画家として(再)デビューを目指す女性の物語。第1巻の展開はスムーズで、今巻も良いには良いのだが、図式的にきれいに整理しすぎていて、状況の迫真性や内面の葛藤を感じ取りにくくなっている。この最新刊でも、「分かりやすい抑圧者が出てくる→主人公が黒ベタモノローグで動揺する→ヒーローにきれいに慰められて前向きになる」のパターンを連発しているのは、ちょっと飽きる。うーん、もったいない。画面作りに関しても、やけにカメラの近い構図を連続させていて息苦しい(つまり、コマの8割をキャラクターのアップで埋め尽くしまくっていて、空間的な広がりや風通しの良さが乏しい)。絵そのものは良いのだが、画面構成や視覚的演出が平板(単調)になりがちなのが惜しい。
 イズミダフユキ『夜鷹ふたたび』第2巻(8-16話)。自堕落な元暗殺者の命を狙うコミカル闇社会サスペンス。若者から中高年まで、イズミダ氏はそれぞれに個性的な外見のキャラデザを披露されていてそれだけで面白いし、テクニカルなバトル描写や、キャラクターの表情を思いきり崩してみせる大胆さも含めて、エンタメとして充実した味わいがある。前作の『マダラランブル』も悪くはなかったが、キャラが多すぎたうえに、バトルシーンに傾斜しすぎたため、少々付き合いづらい作品になっていたが、今作はメインキャラを絞り込みつつコメディの比率を高めているおかげで、見通しの良い物語をベースにしてその都度のシーンを楽しんでいける。
 木下いたる『ディノサン』第9巻(44-48話)。高齢のティラノサウルスが亡くなるまで。恐竜の来歴とその(推し量りがたい)内面生活、そして加齢と、その死に立ち会うスタッフたちの姿を誠実を描ききっている。
 雨田青『ミライライフライ(未来来不来)』第3巻(9-12話)。主人公は、サブカル寄りのポップアーティストと交流しつつ彼女のドキュメンタリーを撮影していき、その中で現代中国の若者たちに見えている世界――構造的な苦しさやアイデンティティ形成の問題など、多岐に亘る――をひたすら饒舌に語らせていく。90年代くらいからの同時代的歴史も色濃く反映させつつ、この作品そのものが擬似的なドキュメンタリーのような手応えを作り上げている。


 2) ファンタジー寄り。
 きただりょうま『魁の花巫女』第8巻(67-78話、完結)。結局、方向性のよく分からない作品だった。伝奇ものとしても中途半端だし、異能バトルというにも食い足りず、お色気ハーレムとしてもエンジンが掛からず、視覚的演出についても(かなり良い出来ではあるのだけど)驚きに乏しかった。この漫画家さんは、『μ&i』からずっと読み続けていて、たぶんファンと自称してもよいくらいだけど(※ただし『エグゼロス』は読んでいない)……うーん。
 井山くらげ『後宮茶妃伝』第9巻(47-51話)。お茶関係のネタがヴァラエティ豊かで、読んでいて飽きない(※架空世界の架空茶だが、十分にあり得る話として受け止めることができる)。ストーリーは、後宮の人間関係が安定してきて、政治よりもお茶そのものを楽しむエピソードに集中している。作画に関しても、細く精妙なペンタッチと、くっきりした黒ベタのコントラストを活用しつつ、時にはユーモラスな表情も交えて物語を朗らかに展開している。
 目玉焼き『悪役令嬢の矜持』第4巻(17-21話)。作画を引き継いで新たな漫画家が制作されているが、画風は比較的似ている(寄せている)ので、続けて読んでも大丈夫。第2巻までのクライマックスから、第3巻はスイートな後日談でややダレたが、今巻は新章に入って新たな物語が展開されている。紙面全体の描き込みがべったりと重たいせいで、やや読みづらいが、美術面でもストーリー面でも十分な面白味があるので、引き続き買っていくつもり。
 眼亀『ミズダコちゃん~』第5巻(29-35話)。プールにお祭と、夏のイベントが続く。異種族キャラクターの造形のユニークさと、そのディテールの掘り下げ、そして空間的なレイアウトを意欲的に使ったレイアウトなど、見どころは多いが、同時にサブキャラなどには、チープで品のないところもある。pixivのイラストを見ても、本格派のクリーチャー系趣味で奇想豊かな作品をいくつも描いておられ、創作的な根っこはそちら側にある方なのだろう。
 上田悟司『現実主義勇者の王国再建記』第15巻(73-77話)。ドラゴン編を終えて、雪国編へ。政治的交渉の中で人間性の輝きや技術的卓越を見出していく軍師的な楽しみの作品だが、縦進行を大胆に取り入れた独創的なコマ割は健在だし、ディテールをハンドライトでザクザク描き込んでいく気持ちよさも、洋書で描かれる顔アップの魅力的なニュアンスも素晴らしい。
 恵広史『ゴールデンマン』第9巻(67-74話)。向こうの世界の悪徳企業との大決戦。それぞれにキャラ立てが上手いうえに、ここまでの描写の蓄積もあり、そのうえで各キャラの志操信念に関わる決意やテクニカルな対処の旨味もたっぷり味わえる。なお、9月頃に最終巻(10+11巻)が発売されるとのこと。

2026/06/04

アニメ雑記(2026年6月)

 2026年6月の新作アニメ感想。第8~9話あたりから、最終話まで。

2026/05/11

2026年5月の雑記

 2026年5月の雑記。

 05/29(Fri)

 今月は延々ゲームをしていて、それ以外は生産性に乏しかった。いや、漫画等も普段どおりのペースで読んでいるのだが……読んでいるつもりなのだが、またもや未読が20冊ほど溜まってきている。


 イエサブ模型コンテストの参加ネタは、「ギィ」か「グライフェン(バラクーダ)」のどちらかになりそう。前者は、ネイルシールを使ったカジュアルな装飾がほどほどにキャッチーなアレンジになっていて、見た目の面白さと技術的な実験性を提供できるだろう。後者はベタだが、箱入りレイアウトを深海風の簡易ジオラマに作れば、コンテストの趣旨にも合致するだろう。

2026/05/09

漫画雑話(2026年5月)

 2026年5月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 まだ先月分の新刊も読み切っていないけど、まあ仕方ない。

2026/05/03

アニメ雑記(2026年5月)

 2026年5月の新作アニメ感想。今のところ、『淡島百景』『上伊那ぼたん』『カナン様』『自称悪役令嬢』を視聴中。『鑑定士』『姫騎士』『楠木邸』は飽きたのでおしまい。最終的に、普段通りの4本にまで絞れてきたのは、良いのか悪いのか……。
 きちんと観ると決めた作品は、各話を複数回視聴して、映像演出と音声のデリカシーをそれぞれ集中して追っていき、スクショも撮りまくるので、多数のタイトルに手を出している余裕は無くなる(※さらに言うと、今期は繰り返し視聴のきつい作品も多いのだけど。キャストが今一つだったり、ストーリーが重苦しすぎたり……)。
 最終的な評価は、『淡島』75~80点、『上伊那』65~70点、『カナン様』60~65点、『自称悪役令嬢』70~75点くらいになりそう。

2026/04/24

2026年4月の雑記

 2026年4月の雑記。

2026/04/23

漫画雑話(2026年4月)

 2026年4月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

2026/04/04

『透明男と人間女』原作漫画とアニメ版の比較

 岩飛猫氏による原作は、背景をターコイズブルーに塗ったユニークな二色漫画で、欄外の作者コメントなども含めて読み応えがあるが、瀬田光穂監督(シリーズ構成と全話脚本も担当)によるアニメ版は、そこからさらに様々なディテールを追加し、また、原作のエピソードを巧みに組み替えることによってクール制のアニメ媒体としてのクオリティを高めている。
 本稿では、アニメ版の各話について、原作の対応箇所とアニメ版の追加要素などを、筆者の気づいた範囲で書き留めておく。もちろん、視聴覚演出や画面レイアウト、色彩設定、音響表現、そして台詞の細部については、違ってくるのが当然なので基本的に省略し、大きな変更点について言及するにとどめる。

2026/04/01

アニメ雑記(2026年4月)

 2026年4月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 さしあたりクオリティ評価を点数としてつけてみる。

2026/03/24

2026年3月の雑記

 2026年3月の雑記。

2026/03/15

2026/03/08

漫画雑話(2026年3月)

 2026年3月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 今月分も、各作品におおまかな評価点をつけてみる。

2026/03/04

アニメ雑記(2026年3月)

 2026年3月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 『アルネ』『違国』『透明男』『29歳』『ヘルモード』の5作を最後まで視聴。

2026/02/10

2026年2月の雑記

 2026年2月の雑記。

2026/02/09

漫画雑話(2026年2月)

 2026年2月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 こちらも試しに、評価点をつけてみる。

2026/02/06

アニメ雑記(2026年2月)

 2026年2月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 『アルネ』『違国』『透明男』『29歳』『ヘルモード』の5作を視聴中。『シャンピニオン』はやめた。

2026/01/07

2026年1月の雑記

 2026年1月の雑記。

 01/26(Mon)

 土曜日のイベントに参加してから、まだ太ももに筋肉痛がある。要するに、低いテーブルのプラモデル作品のために頻繁にしゃがんで撮影していたのは、要するに数時間断続的にスクワット運動をしていたようなものだから、筋肉に負担が掛かるのも当然か……。


 今月の美少女ゲーム新作『諦観のイヴ・ベセル』は、キャストが凄いんだよね。秋野氏主演に、杏子氏メインという贅沢な配役で、それから皆都乃ヨーコ氏というのはたぶん歌謡曲の人、そして和央氏も10年代後半から良い仕事をしてこられた方。さらにサブキャラにも、かわしま氏、一色氏、桜川氏、柚原氏と、2010年前後に輝かしい表現を記録してきた役者さんが並んでいる。何なの、これ……買おう。

 Laplacianもロープライス新作を告知したし、こちらも良いキャストになるだろうと期待している。

2026/01/06

漫画雑話(2026年1月)

 2026年1月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 試しに、評価点をつけてみる。60点以上は、見るべきところがある(60点未満は言及しない)。70点は、十分な美質と個性がある。80点以上は読み応えのある優れた作品。90点は傑作級。特にコメディやお色気ものは評価が難しいし、あくまでおおまかな感触程度にとどまるが。

2026/01/05

アニメ雑話(2026年1月)

 2026年1月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 今回は、試しに総合評価の点数推移もメモしてみる。それぞれ第3話までで『透明男』85点、『違国』85点、『シャンピニオン』80点、『アルネ』80点、『29歳』70点、『ヘルモード』70点。『魔王の娘』『人外教室』『カヤちゃん』『アカウント』は中途離脱。