2026/09/17

2026年9月の雑記

 2026年9月の雑記。

 09/21(Mon)

 たまたま「コエトワ」というラジオ番組を見つけて聴いてみたら、物凄い内容だった。
 プロのアナウンサーと音声心理学の研究者が組んで、ゲスト声優たちと声の表現について語る番組のようだがが、プロ声優たちがここまで率直かつ繊細に演技論の秘奥を語られるのは珍しいかも。

 例えば黒沢ともよ氏ゲスト回では、芝居と身体性の関わり(例えば少年音声)についての深い洞察が語られるし、( https://www.youtube.com/watch?v=Xfht68PHWnc )

 中村繪里子氏は役者としてのバックグラウンドから発声のアプローチまで、ひたすら饒舌に語り尽くしている。( https://www.youtube.com/watch?v=FBJhgJJMrxM )
 さらに後半では、音声台詞の細部のチューニングがどのようにコントロールされているかを役者本人が精密に分析してみせるという、見事な実例紹介も聴ける。( https://www.youtube.com/watch?v=lJW5jYd6f4w )

 上坂すみれ氏の出演回では、音声芝居の聴こえ方とその機能性について、「他言語で喋るときはその文化のステレオタイプイメージに左右されるのではないか」、「ロシア語で喋ると激しそうに聞こえるが、実は音響それ自体はそれほどでもない」などの話が出ている。 ( https://www.youtube.com/watch?v=WFpjld8BZY8 )

 折笠富美子氏については、実演とその波形分析がたいへん興味深いが、さらに達観と苦闘の間にある人間観にまで対話の垂鉛を下ろしていく。( https://www.youtube.com/watch?v=QiIXSqguyPM )

 福山潤氏についても、それぞれの台詞についてどのようなニュアンスと音響的効果を目指して技術的コントロールをしているかが存分に語られている。( https://www.youtube.com/watch?v=897-g04QS_Q )
 我々がごく普通に使う「キャラクター」についても、想定される体格と発声まで構築していることや、芝居をリアル(リアリスティック)にするか、それとも視聴覚表現の中での面白味を追求するかといったことまで語られている。( https://www.youtube.com/watch?v=Ek2mw6UiMpA )

 それぞれ60分×2回セットで、一人の声優さんについて丸々2時間じっくり芝居談義を掘り下げていくのが凄い。MCの吉田尚記氏(本職アナウンサー)も、プログラム全体のクリアな見通しと、打てば響くような鋭敏な受け答え、そして役者業についても深い理解と知識があり、ゲスト声優それぞれの特質に沿った語りを巧みに引き出していく。

 声優たちについて普段耳にすることの多いのは、特定のコンテンツの宣伝番組だったり、あるいは声優自身を売り出すためのトークだったりして、そういう場面では演技論がテクニカルに掘り下げられることはかなり少ない(※もっとも、近年の若手声優では、「このキャラについて、どのように考えて演じたか」を率直に語られる方も出てきている。以前は、「私は役者としてまだ未熟なので、演技論を語れるほど偉くはない」というスタンスの方がほとんどだった)。
 そうした状況に対して、(webラジオではない)このラジオ放送という媒体では、宣伝目的に縛られずに役者論や芝居論を正面から扱える貴重な機会になっているようだ。そしてMCの吉田氏の深い洞察力と会話スキルのおかげもある。


 わあい現パロだいすき学パロだいすき。
 『逃げ上手』は、少年漫画に特有の平板な図式的描写が多くて、あんまり好きではなかったが、私としては珍しく最終27巻まで付き合い続けることになった。……しかし、まさか最後の最後で、現代世界にキャラを移し替えた「現代パロディ=現パロ」の長大なおまけエピソードを入れてくれるとは、まるで予想できなかった(※多くの場合、学生として描かれるので、「学園パロディ=学パロ」とも呼ばれる)。
 もっとも、北畠顕家や斯波家長くんのシーンでところどころ、「これは現代で言えば」「彼が現代人だったら」という描写を入れていたことだし、わりとすんなり受け入れられるネタでもあった。というわけで、現パロのおかげ……というわけでもないけれど、全体を通しての読後感はなかなか気持ちよいものになった。

2026/09/16

アニメ雑記(2026年9月)

 2026年9月の新作アニメ感想(※だいたい第9話以降)。
 『キャラメリゼ』(現時点での評価は80点)、『クレバテスII』(65点)、『グロウアップショウ』(80点)、『さよならララ』(85点)、『手札が多め』(70点、全9話で完結)、『ジャードゥーガル』(85点)、『透明な夜』(65点)、『ふつつかな悪女』(75点)、『BLACK TORCH』(70点)の9本を視聴。


●『乙女怪獣キャラメリゼ』
 第9話。終盤に向けて、周囲の状況が動き始めたが、ここに来て重要そうな新キャラを2人も追加とは……。目撃者の少年は「米山」。そして俳優の「桂木」は、良い声だと思ったら山村響氏が演じていた。主人公カップルもそれぞれに変化があって、ずいぶん忙しい。演出面でも、爆発する水面の作画から、妹怪獣の巨大感と迫力を存分に見せるレイアウトまで、アニメ&特撮史のノウハウの蓄積を的確に活用していて見応えがある。
 初々しい恋愛感情と、平成少女漫画風のデフォルメ絵、そして怪獣スペクタクルが混じり合っていて、たいへん面白いのだが、同時にその満載っぷりに疲労感もある。

 第10話は、タイトル通りの破局エピソード。少女漫画としては正統派なのに、物語進行のスピード感と視覚表現のユニークさとキャラづけの尖りっぷりを絶妙にコントロールしているおかげで、ドラマティックな流れに引き込まれる。大都市の夜景の硬質かつ刹那的な雰囲気もストーリーにマッチしている。

 第11話。赤い怪獣が市街地で大暴れし、そして二人はお互いへの気持ちを再確認する。Aパートは怪獣特撮のノウハウを活用した外連味のある巨大感&重量感の演出が素晴らしいし、後半は少女の叫びと怪獣の咆哮をオーバーラップさせつつの怪獣バトルが悲しくもドラマティックな迫力に満ちている。脚本進行は少々凸凹しているように感じるが、クライマックスシーンのパワーで押し切っているし、思い出の場所が破壊されていく悲哀も、怪獣もの+恋愛ものならではの武器を最大限に活かしている。劇伴も、メインテーマのアレンジで情趣を添えている。上手い。

 第12話。おお、すごい、堂々たる正統派のフィナーレだ。おそらくアニメ版オリジナルのアレンジで、お互いの思いがきちんと向き合った、きれいなハッピーエンドで締め括られている。中盤の内面世界表現も秀逸だし(劇伴が不気味にゆがむのも実に良い)、物語冒頭のトラウマ体験を乗り越えるように、怪獣ハンドで手を取り合うカットを最後に持ってくるところも上手い。(※あの不埒な母親とその後輩の問題行動は結局放置されてしまったが、まあ仕方ない。)


●『クレバテスII』
 第9話。展開が粗雑かつ唐突なので、まるで面白くない。本がいきなり勢揃いするし、ループ回廊のトリックもゲームか何かのように作為的だし、しかも鏡の世界では画面がぼやけていて非常に見づらいし、説明過多のモノローグも相変わらず。人形たちとのバトルシーンだけはよく動いていたが、それ以外には見どころが無い。トップダウンの設定羅列と、現場のアニメーション表現に二極化してしまって、それらをつなぐべきドラマ作りが致命的に欠如しているせいで、ひたすら散漫に見える。
 関根氏の(事実上の)二役芝居は、さすがの出来映え。モンゴル舞台のアニメよりもよほど魔女らしく振舞っている。

 第10話。おそらく原作の大筋をパッチワークで繋いでいるだけで、設定の説明に汲々としてドラマとしての面白味がまるで無いし、個々のキャラクターの行動原理も実感できない。個別のシーンとしては、最強の父親との対決や、成長した赤子など、ポテンシャルはあるのだが。映像(作画)そのものは悪くないのだが、シナリオ(シリーズ構成)が致命的に失敗しているのだろう。言い換えれば、一クールのアニメに収めるのに無理があったと思われる。
 関根明良氏の芝居は、すでに強キャラの格(オーラ)まで身につけているのが凄い。いや、デビューから十年以上で、そろそろ中堅クラスのキャリアではあるのだが。数年前のタイトルでは、まだ元気なだけで今一つかなと感じたものだが、『第七王子』では力演にしっかりした芯が入っていて感心した覚えがある。しかし、ここまでの力量を発揮されるとは……目が曇っていた、ならぬ、私の耳が至らなかったと反省すべきだ。

 第11話は、幻影の中での両親との再会。ベタなシチュエーションなだけに、制作の堅実さが上手く引き出されて印象的なエピソードになっている……が、全12話の中で見るとここだけ浮きすぎているかもしれない。母親役は坂本真綾氏。

 第12話は、赤竜の過去回想。元々の勇者たちは、現代世界から引っ張ってこられた存在とのことだが、うーん。竜と勇者の間の情趣のある関係は面白いが、やはり適当なシーンのツギハギにしか見えない。
 勇者ライト役の濱田氏は、声優ではなく俳優とのこと。しかし、芝居そのものはわりとまっとうで(特殊なキャラクターという事情もあるが)、アフタートーク番組によれば収録も他のプロ声優たちとの共同収録だったらしい。


●『グロウアップショウ』
 第10話。いきなり本格的なスポ根トーナメント大会編に突入してしまったが、これでいいのだろうか。ペアの川澄桜翔が、ここのところずっと「意見を合わせて素直に尽くしてくれる、都合良く理解あるパートナー」のままだったのも、いささか機械的でもどかしい。彼女自身の意志も出しているのだが、主人公を持ち上げてサポートする側面が目立ちすぎる。
 莫大な作画コストの掛かるサーカスシーンは割り切って止め絵連発でやり過ごし、その一方で日常会話の小気味良いテンポと柔らかなデリカシーへと注力しているのは、これはこれで正解の判断だろう。夕暮れ時のシーンも多いのに、それがむしろ底光りする力強さとして感じられるのは上手い。サーカス演技の表現は、へたな3Dに頼るよりはマシだが、しかし説明的で無難なレイアウトに終始していたのはもったいない。一枚絵としての魅力を打ち出せるような構図も出せたのでは……。
 今回も『オズの魔法使い』の本が小道具として置かれていた。とりわけOPで、黄色い道路や踵3回などをモティーフ的に示唆しているのだが、今のところ本作のストーリーとの関連性ははっきりしない。故郷から離れた主人公の放浪の物語ではあるけれど……。

 第11話。トーナメントの過程は思いきり省略しつつ、チキンラーメンCMという唐突な奇手で誤魔化しきっているという力技。決勝戦を前にした、じんわりとした不透明感と落ち着かない高揚感と切迫した焦燥感の混じり合った雰囲気が良い。台詞のやりとりも、リズミカルにタイミングを詰めていて、引き締まった気持ちよさがある。主演の野田氏も、特に前半パートでは気合いの乗った良い芝居をしている。ただし、後半(Bパート)の演出はやや落ちる。
 追記:チキンラーメンCMは、このアニメの中で作り直したのではなく、本家の映像をそのまま駄々流しているだけのようだ。それでいてあの長尺では、ギャグじゃなくてただの無策だったということになってしまう。本作と日清に対する評価が下がった。

 第12話。Aパートは効果音や単色背景を活用してコミカル&リズミカルな映像進行を楽しませ、さらにしっとりとした会話シーンを経由しつつ、後半パートでは華やかなサーカス演出を展開する。第1話から布石として示唆されていた『オズの魔法使い』も、ここでようやくドラマの中で効果を発揮している。
 本作それ自体がまるでサーカス公演のように、昭和レトロ風景から主人公の顔芸から、魔法のような奇術から、シリアスドラマまで、様々な要素を取り込みながら全体としてはまとまりのある全体像を形成しつつある。この終盤に来てあらためて評価が上がってきた。動画は相変わらず、あまり動いていないが、なんとか間を保たせようと様々な技巧が凝らされており、その微笑ましさも味わいになっている。

 第13話。クライマックスはどちらの団も華麗な新たな大技を披露しつつ(※素人目にも説得力のある見せ方だ)、対決のドラマはいつものしっとりした濃い夕暮れの中で締め括り、また父親関連のネタなどもきれいに掬い上げながら、コミカルさと開放的な雰囲気をきちんと維持してエンディングを迎えた。動画表現については中の上くらいの水準だったが、鮮やかな単色背景や賑やかな音声カブり表現などの演出がそれをしっかり補って映像全体を魅力あるものにしてきた。釘宮氏の凄味のある芝居も、関根氏の緊張感に満ちた力演も素晴らしい(※団長麻利亜は、釘宮氏クラスの本物が演じてくれないとドラマが成り立たないくらいの難しい役だったし、実際に釘宮氏はそれに応えてくれた)。あえて言えば、団員たちのキャラ立ちがやや弱かったきらいはあるものの、オリジナル作品としては十分な出来だと思う。


●『さよならララ』
 第10話。様々なところで断絶や喪失が起きていく。絵コンテ/脚本のレベルでも、各シーンは飛び飛びの急展開に構成されており、劇伴もこの破綻寸前の状況を反映している(とりわけ車椅子で湖畔へ向かうシーンは、音響がズタズタに寸断されている)。
 ハスの花とヘリの回転翼をオーバーラップさせる演出の意図は不明。あまり関係は無さそうに思えるが、やけに思わせぶりな二重写しになっている。

 第11話。グレイスの過去とその真意を茉里に見せるが、それは同時に(おそらく第二の母親との)死別をも突きつけている。

 第12話。映像的な派手さはあえて抑えつつも、一瞬の動きや水面のゆらめきなどを丁寧に作画していて、説得力がある。真のプリンセス形態のララも、異形めいた美しさの表現が素晴らしい。
 ストーリーとしては、前世紀のアニメのように悲劇的なカタストロフの暗示を通じて、最後は主人公の自立と新天地への引越しを描いて締め括っている。
 そして主演の菱川氏も、突き詰められた真情の叫びの芝居が素晴らしい。姉リサを演じる津田美波氏も、苦みのある台詞を巧みに表現している。
 結局のところ、「愛」の話はよく分からない。父親から押しつけられていたのは、旧弊的な家族制度のための生贄になれというものだったし、その一方でララが目指していた(異性ルカとの)愛情関係は終始空転し続けていたし、彼女が200年間抱え込んでいたものはむしろトラウマと絡み合った憎しみの剣だった。さらに、同居の茉里に対する意識はどちらかと言えば友情に近いものだったように見えるし、擬似的な母親グレイスからせっつかれていたのも、たぶんララ自身のためにはなっていない(グレイスが失敗したロマンスの完成を、ララに願望投影していたのだろうか)。だから、そうしたものをいったん全て振り捨てて自分の「足」で自立したうえで、あらためて彼女は自力で自分自身のためのものを(再)発見して掴んでいくだろうという形で捉えるならば、つまりアンデルセン的人魚のやり直しのドラマとして捉えるならば、筋は通ると思う。


●『天幕のジャードゥーガル』
 第11話は、トルイ死後の様々な整理。一方でボラクチンは、知識を得てそれを謀略に活用し、それに対して主人公ファーティマは、今のところは知識を利用される側としてもがきつつ、復讐心の燃料ばかりを集めているかのようだ。映像面では、いつも通り、空間性や陰影表現、そして時間帯の設定による視覚的ニュアンスなどを巧みに取り込んでいる。一見すると屋内での会話劇やモノローグばかりのようだが、実際にはカット数も動画枚数も多いようで、非常に充実している。
 次回(原作漫画25幕)で、私たちの復讐はこれからだと締め括るのかな。これだと、「奴隷ちゃん」が天幕の魔女ボラクチンに圧倒されるだけで終わってしまい、ファーティマの物語としては序章にすぎないようなものだけど、まあ仕方ない。
 6年前のボラクチンが、まるっきりインドア派趣味人として描かれているのが微笑ましい。外見的魅力には自信が無く、賑やかな場所も苦手で、自宅に籠もって調べものと実験に専心し、そしてそれをパートナー男性から賞賛されて舞い上がり、独力で彼の幸福のために陰から尽力する……うーん。

 第12話。主人公の行動は――あえて言うが――明らかに愚かであり、彼女自身の個人的な目的に反するような振舞いすらしてきた。彼女の奉じる「科学」観それ自体にも致命的な誤りがあることが、後世の我々の目に見えているだけでなく、13世紀当時ですら、その場で即座に相対化されてしまうほど脆弱なものだ。しかし彼女の言動は数奇な巡り合わせによって、いくつもの反-第一皇后派閥を作り出し、帝国の分裂の萌芽を生み出した(第一皇后の企図は、トルイ暗殺までは成功したものの、それ以降はソルコクタニの家族愛やドレゲネ一派の復讐心を取り込むことはできず、結局は失敗に終わった)。
 アニメオリジナルのエピローグでも示唆されるとおり、巨大で多元的な帝国の中に、モンゴル土着のシャーマニズム的世界観と、様々な被征服地の異教者たち(主人公が言及するクルアーン)が同居する状況から軋みが生まれることが、主人公個人の存在(ミクロレベル)と、主人公の故郷の接収(マクロレベル)の双方によって表現されている。そうした歴史の皮肉を、広大な草原とその深い闇夜のイメージとともに、このアニメ版は巧みに描き直している。


●『透明な夜に駆ける君と』
 第9話。前回に比べれば、ずいぶんましになった。難病の友人のために、ただの大学1回生に出来ることは、本当に限られている。その上で、せめて彼女を見守ろうとしたり、勇気づけるためにイベントの話を持ちかけたりするのは、まあ、明らかにぎこちなく、あまりにも拙劣な振舞いではあれど、フィクションの作劇としてはなんとか受け入れられる。
 とはいえ、シナリオが作為的にすぎる弊は散見される。医師が余命の見込みを含めた機微情報まで第三者に駄々漏らししてしまっているし(※せめて母親の口から言わせておけば良かったのに)、点字を少し判読するだけで半日掛けていたりするし(※わざわざ日差しの入射角度の高速変化まで描いているのはアニメ版固有の失敗だろう)、あの透明マスクは衛生上NGでしょとか(※マウスシールド。アニメで口パクをさせたいがための処置だと思うけど……)、病室の覗き見はさすがに擁護困難だし、なまじ映像化してしまったせいで状況のいびつさが露呈しているところもある(※明らかに苦しそうなのに放置したまま、横で子供たちの相手をしていたり……)。
 早見沙織氏の芝居は、さすが。最後の痛々しい台詞も、心に刺さる。

 第10話。お互いの信頼関係をなんとか再構築して、いくらか前向きに進み始めた。ただし、映像的には面白味に欠ける。ショートカットのヒロインは可愛いけど。

 第11話。終盤のドラマティックな花火イベント。構成はいかにもダルいけれど、ハートマークの打ち上げ花火を交わしあってからの告白への流れはきれいにまとまっている。
 
 第12話。結局のところ、捻りのない難病ものではあったし、脚本にも粗が見えるが、最終回は力の入った作画&演出&芝居で、丁寧に描ききったので、読後感はわりと良かった。線香花火の玉を触れ合わせて一つにするところも、ベタながらシンボリックな視覚的イメージをきちんと作り出している。娘「咲良」役は水希凜氏。2022年デビューの若手のようだ。
 第1話からのゆったりした進行や、ちょっとレトロな大学生の青春描写はわりと物珍しくて面白かったので、第7話以降の強引な方向転換とそれ以降の難病悲劇の釣瓶打ちが無ければ……と惜しまれる。
 病気の描写が総じて粗雑(というか、ほとんど中身がない)だったり、時系列に無理があったり(例えば18歳の死病から20歳すぎに回復して、21歳で結婚し、翌22歳ですぐに出産、そしてその娘が23歳で結婚した直後に小春が逝去し、さらにそのわずか3年後には主人公もいきなり末期ガンになっているというスピード感。原作では、大学在学中の出産だったらしいが、それはそれで小春の体調が心配になる)、ツッコミたいところは多かったけど……まあ、大目に見よう。
 小春が記憶喪失のふりをしていた件も、そこまでの作者の手つきが粗すぎたせいで、個々の台詞や描写を真面目に受け取って解釈できるところまでは行けなかった。疾病描写や病院内の描写などにおかしなところがありすぎたので、記憶喪失に関わる部分も「ただ単に飛び飛びでぎこちない描写」なのか、それとも彼女の真意を慎重に捉えるべきか」が判断できなくなっていた。要するに、読者(視聴者)が作者(作り手)に対して信用を置けないと、具体的な描写を真剣に受け止めることができなくなり、こうした「フリをする」ギミックも効果を失ってしまう。つまり、「あー、はい、そうですか」というだけで終わってしまう。
 ポータブルレコーダーに小春がこれまでの人生の幸せを吹き込んでいたのも、いかにも「泣かせる」ための演出であざとすぎる。そもそも夫婦として同居で暮らしていたのだからそういうことはパートナー直接伝えられる機会はいくらでもあった筈なので、そういう「死後に残されていた録音」などという作為的な情景をわざわざ設定して描いてみせるふてぶてしさには、忌憚なく言えばシラける。とはいえそれでも、録音音声の形で流れる早見氏の切々たる芝居の説得力がそれをひっくり返して、劇的で痛切で幸せな真情吐露のシーンとして成立させているのもまた確かなのだが……。


●『ふつつかな悪女』
 第9話。人を救うために駆けていく主人公、そして入れ替わった二人がついに対面(再会)して協力しあう展開と、ドラマティックな盛り上がりの回になっている。キャラクターの所作も細やかでなめらかに動いているし、劇伴の付け方も良い。ただし脚本や状況設定には粗もあるが、許容範囲内。
 そして莉莉は今回も、純真で誠実で微ツンデレで、そして主人公のために可能な限りを尽くそうとする子でした。

 第10話は大騒動。一方では、当事者不在のシーンで入れ替わりのことが明かされ、またその一方で、二人のもとに黒幕が押しかけてきて大暴れする。
 逃げ場のない状況に引っ張り込まれた慧月は、内心の屈折を吐露しつついまだに古典的ツンデレ素振りを手放さないという、いわば「弱った強気キャラ」というユニークなキャラクター路線を走っており、これはこれで最新モードのツンデレ造形として評価できる。ツンデレキャラというのは強がりを愛でるべきものだが、その強がりに明確な理由――ここでは病弱化やコンプレックス――を与えてみせたのは確かに上手いし、説得力がある。演じているのは、えーと、石見氏の方なのかな。病み上がりの体調を反映するように力なく震える声色ともたつく喋りは、その中に切羽詰まった真情を含ませていて聴きごたえがある。キャラクター設定としても、むしろ慧月の方が典型的な少女漫画主人公らしく、「不遇な出自だが、特異な資質を見込まれて、後宮に招かれるが、周囲からは受け入れられず苦労する」という古典的なシンデレラ型キャラクターになっているのも面白い。
 その一方で茅野氏の悪役芝居は、たしかに上手いけれど、逆上キャラのキレっぷりが85%を超えない冷静さの範囲内にとどまっていて、ちょっともったいない。そのぶん、醜悪にゆがむ表情の作画がそのエキセントリックな雰囲気を存分に表現しているので、必要なものはしっかり盛り込まれているのだけど。

 第11話。おそらくこれで最終話。本筋の人間関係は、キャラクターの性格表現を存分に活かして気持ちよく締め括ったが、その一方で金の黒幕は放置、さらにエピローグで新キャラの顔見せを連発するという中途半端さは、視聴体験の余韻をいささか損なっている。
 クラシカルな「入れ替わり」ネタを、中国後宮もののシチュエーションで展開し、そこで道教に近い魔術的世界を前景化して陰謀ドラマ(呪いと情念の物語)に落とし込み、その一方でやたら見事にキャラ立ちしたメイン二人の関係形成の味わいを浸透させていくという、贅沢さとバランス感覚のあるユニークなアプローチの作品と言える。これは人気が出るのも納得できる。


●『BLACK TORCH』
 第9話。えっ、今から修行パートに入るの? しかも祖父キャラによる長台詞の説明もしつこい。とはいえ、バトルパートは上手く描けているし、頭身高めの異能バトルものという個性もある。主人公が力を制御して、もう一度敵組織と戦って黒猫と再会(救出)するくらいで完結だろうか?
 作品のデザインそれ自体は、面白いところもあるのだが……、今一つ掘り下げが足りないのが惜しまれる。例えば、異能バトルに現代的なメカ要素のフレーバーを入れているけれど、ストーリーとしてはあまり機能していないし、怪異存在と人類の対立構造にしても、味方側の過去の動機付けにしても、ありがちなものばかりだ。教科書的にクリアカットに整理して描かれているので、作者自身の能力は高いと思うのだが……。要するに、単体で見ても浅いのが問題で、ましてや異能バトルもののジャンルの中で見るとありきたりに見えてしまうだろう。もったいない。

 第10話は、白蛇の魔物たちとの修行、そしてラスボス側も動き出す。白蛇「吹雪」役は福原綾香氏。映像的には、今回も充実している。バトルシーンの力感、時間を止めた世界の演出、木漏れ日のエフェクト、色っぽい女性キャラの見せ方、グロテスクな凶行のおぞましい光景、そして静かな躊躇と後悔の時間まで、とても良く描けている。

 第11話は、ラスボス側の過去回想と、ラストバトルへの突入。空中浮遊バトルはいささか強引だが、あくまで次回のクライマックスへ向けての溜めだと考えておこう。

 第12話は、ふたたび二人が力を合わせてラスボスとの戦いに決着を付ける。現代異能バトルの基本線をきれいになぞりつつ、キャラデザや趣向の作り方にはオリジナリティもあって(やや大人びた作画や、近代的な装備の使用、そして今回はラスボスの白鎧風の最終形態が面白い)、後味は良い。ラストバトルも、ベタではあるがきちんと盛り上げて、怪異空間での高速戦闘から決戦後の余韻のあるモノローグまで、なかなか充実している(馬引圭監督と100studioの名前は、覚えておく価値がある)。主演の上田氏も、終盤戦闘の激しいシチュエーションから最後の「独り言」に至るまで、堅固な存在感と語りの気持ちよさ、そして台詞の細部まで掬い上げる説得力が素晴らしい。黒猫の怪異と相方の人間の間の、口の悪いやりとりがお互いの信頼関係を滲ませて、そのことがラスボスにも伝わった(そしてそれがラスボスの心情のカタルシスに、そして決着の足がかりになった)という意味でも、この主演芝居が作劇上果たした役割はきわめて大きい。
 黒猫キャラの作画は、最後まで絶妙だった。「えっ、なんでこんなに動物作画が上手いんだ」と、毎回驚かされていた。しなやかな身体の動きがきれいだし、頭部(顔)の造形も、リアルな猫に寄せながら同時にちゃんと絵で表情の芝居をさせている。

2026/09/15

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第12話

 第12話「いつもと変わらない草原」

 原作第24-25幕(単行本第4巻所収)の全体。さらにエピローグ部分では、第26幕の内容にも触れている。時代はひきつづき1232年の秋。
 サブタイトル「いつもと変わらない草原」は、作中の「以前と何も変わらない いつもの草原」から取っている。
 脚本は、シリーズ構成も務めている加藤還一(第1、5、11、12話を担当)。絵コンテの「ちな」は、本作には初参加。演出は中村亮介とちなの連名(中村もこの最終話が初参加)。
 今回もストーリーの大筋は原作に即しているが、シーン構成のアレンジ、映像的な独自演出、台詞周りの整理、そして印象的な独自シーンの追加など、最終話に相応しく手の込んだ調整が施されている。

2026/09/06

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第11話

 第11話「不器用な石」

 原作漫画の第22幕の途中から、24幕の最初(4巻53頁)まで。時代はひきつづき1232年の秋以降と考えられる。ボラクチンの回想シーンは、1226年から始まって最新時点まで進んでいく。
 サブタイトル「不器用な石」は、原作由来の台詞から取っている。ボラクチンにおいては、輝く宝石にはなり得ない(と自己規定している)が、そこに新たな角度から有用なポテンシャルを見出す能力として。主人公ファーティマについては、モンゴルの政局に右往左往しつつ転がっていく小さな石のような存在として(※す彼女は使者の役目すら果たせていないが、その言動が想定外の影響をもたらしている)。そしてソルコクタニは、取引に使われる単なる道具としての宝石になりかけていたが、その役割を振り払おうとする意志を示したという意味で。今回フィーチャーされている三人の女性の生き方を、それぞれに示唆するサブタイトルである。
 脚本は加藤還一(第1-2、5話も担当)。絵コンテは、愛敬亮太(初)と山田総監督、Gongora監督の三者が名を連ねている。演出は井分詢也(初)。愛敬氏は『mono』(2025)で監督経験あり、井分氏は近年のいくつかの作品で原画や演出の実績があるようだ。
 今回は細かな追加カットが多いが、エンディングムービーを潰して(クレジットを本編に重ねて)までたっぷり描ききっているので、これらのアレンジは映像上、大きな意味のある描写として扱われていると考えるべきだろう(※ただの尺調整だったら、こうはしなかった筈だ)。

2026/08/18

2026年8月の雑記

 2026年8月の雑記。

漫画雑話(2026年8月)

 2026年8月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

アニメ雑記(2026年8月)

 2026年8月の新作アニメ感想(※だいたい第5~8話あたり)。
 『キャラメリゼ』(現時点での評価は80点)、『クレバテスII』(70点)、『グロウアップショウ』(70点)、『さよならララ』(85点)、『ジャードゥーガル』(80点)、『透明な夜』(75点)、『BLACK TORCH』(70点)の7本を視聴継続している。『手札が多め』(70点)は第9話できれいに完結した。『ふつつかな悪女』(70点)は後追いで視聴開始。『ダンシング』は、演出(構成)が下手すぎるのでおしまい。『対あり』も、耐えがたい問題発言があるため、視聴を止めた。

2026/08/17

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第10話

 第10話「知恵」

 前話の続き(原作第19話の末尾)から、20-21話の全体と、第22話(4巻9頁まで)の最初までを描いている。時代はひきつづき1232年の秋。
 サブタイトルは、モンゴルの活動が軍事(武力)から統治(知恵)へと移行しつつあることを示唆し、また同時に、幼き主人公がムハンマドから受け取った「知識の価値」を思い出したことにも掛けている。
 脚本は佐藤寿昭(第3、6、8話も担当)。今回の絵コンテ&演出&レイアウトは、前場健次(本作では初参加。他作品では作画監督レベルの仕事も多数引き受けている)。そして「絵コンテ協力」として藤倉拓也もクレジットされている(第1-2話を担当)。大筋は原作漫画とほぼ同一だが、この回では台詞レベルでの状況説明の補充や、画面レイアウトの刷新による印象的な絵作りなど、アニメ翻案版ならではの創意が良く発揮されている。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第9話

第9話「天(テングリ)」

 前話の続きから、原作漫画の第18-19話をほぼそのまま描いている。時代はひきつづき1232年初頭から(※作中では明示されていないが、史実では同年10月にトルイが死去している)。
 サブタイトルは、天命を問う儀式――今回2度挙行されている――に掛けている。
 脚本は井上美緒(第4、7話も担当)。絵コンテ&演出は松永浩太郎(第6話の演出も担当)。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第8話

 第8話「大カトゥン ボラクチン」

 原作漫画の第15話の続き(3巻22頁)から17話の終わりまで。時代はひきつづき1230年から、翌1231年に金国侵攻が開始された頃まで。
 サブタイトルは、今回の実質的なメインキャラクターを指している。
 脚本は佐藤寿昭(担当話数はこれで3つ目)。絵コンテ&演出は村越麻海。本作の制作会社サイエンスSARUの社内クリエイターで、キャリアは比較的若いものの、いくつかの作品で作画監督も務めている。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第7話

 第7話「兄弟」

 原作漫画の第13話の途中(2巻131頁以下)から、第15話の途中(3巻22頁)まで。時代はひきつづき1229年から、翌1230年まで。
 サブタイトルは、今回描かれるチャガタイ-オゴタイ-トルイたちの状況をストレートに示唆している。
 脚本は井上美緒(第4話も担当した)。絵コンテは安部祐二郎とNicholas McKergowの連名。安部氏は第3話も担当している。McKergow氏は若手のアニメーターで、ネットにはオーストラリア出身との情報もある。演出も安部氏。
 

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第6話

 第6話「メルゲンの民」

 原作漫画の第11話から、第13話の途中(2巻133頁)までを描いている。時代設定は1229年だが、後述のように1204年頃の出来事を回顧している。
 サブタイトルは、メルキト族の異名(あるいは名前の由来)の「メルゲン(=弓の名手)の民」から取っている。
 脚本は佐藤寿昭(3話、8話も担当)。絵コンテは安藤雅司。複数のジブリ作品で作画監督を務めた実力派で、主に劇場アニメ制作で活躍しており、クール制TVアニメでの仕事はかなり珍しいようだ。しかしその力量は、この話数でもシャーマンの踊りで発揮されている。演出の松永浩太郎は、他の作品でも演出家としての仕事が中心のようだ。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第5話

 第5話「蛇のまだらは外側に 人のまだらは内側に」

 原作漫画の第9話と第10話を扱っている。時代は1229年のオゴタイ即位直後からの動きを扱っている。
 サブタイトルは、モンゴルの俚諺であるらしい。
 脚本はふたたび加藤還一。絵コンテは笹木信作。90年代ジブリでアニメーターを務め、その後多数の作品で絵コンテの仕事をしているようだ。演出の石郷岡範和は、2010年代から活躍中。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第4話

 第4話「炉の主(オッチギン)」

 原作漫画第7話の途中(1巻166頁)から、第8話の終わりまで(単行本第2巻)。1221年秋のモンゴル本拠地から、1229年の第二代皇帝即位までをカヴァーしている。
 サブタイトルはもちろん、当主となるべき末弟の地位のことだが、その「オッチギン」が即位しなかったという意外性にもつながっている。
 脚本は井上美緒(第7話も担当)。近年でも『不器用な先輩。』(2025)など、いくつかの作品でシリーズ構成を務めているクリエイターである。絵コンテ&演出は霜山朋久(第2話の作画監督も務めている)。90年代からのキャリアがあり、『SANDA』などの監督経験もある。

2026/08/16

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第3話

 第3話「消しえぬ炎」

 原作漫画の第5話の最初から、第7話の冒頭(1巻167頁)まで。1221年の春頃の連行途中から、同年秋にモンゴル本国に到着するまで。
 サブタイトルは、原作134頁の「こんな火で焼き消されるものか」という決意から取られている。
 脚本は佐藤寿昭(6話と8話も担当)。2010年代からのキャリアがあり、『貴族転生』(2025)ではシリーズ構成も務めている。絵コンテ&演出は安部祐二郎(第7話も担当)。『この素晴らしい世界に祝福を!』(第3期)などで監督経験もある。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第2話

 第2話「サファルに咲く薔薇」

 原作漫画の第2話の途中(1巻54頁あたり)から、第4話の終わりまで。1221年頃のモンゴル軍襲来から、モンゴル本国へ連行されていく過程を描く。
 サブタイトルは、原作第2話冒頭のエピソードから取っている。満開を迎えられずに、2月(サファル)に咲きかけたまま終わってしまったバラのイメージが、主人公たちの境遇に重ねられている。
 今回の脚本は、前回に引き続いて加藤還一。絵コンテは山田尚子総監督。演出は山田尚子と藤倉拓也(※藤倉氏も、第1話からの連続)。

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第1話

 第1話「天にあるもの 地にあるもの」

 原作漫画には、各話タイトルは存在しない。このアニメ版第1話のサブタイトルは、原作で主人公が学んでいるクルアーン「天にあるもの 地にあるもの すべては アッラーに属す」(単行本1巻30頁、同36頁)から取られている。アニメ第1話(第1幕)の内容は、原作漫画の第1話から、第2話の途中(1巻60頁あたり)までを翻案している。作中の時代設定は西暦1213年から始まり、この話数の中では1221年のモンゴル襲来までを描く。
 今回の脚本は、シリーズ構成の加藤還一(敬称略、以下同様)。絵コンテ&演出はAbel Gongora監督、さらに演出補佐として藤倉拓也がクレジットされている。加藤氏は第2、5話も担当しており、藤倉氏は第2話でも演出担当している(山田総監督と連名)。


 【 はじめに:原作漫画のアニメ版の違いについての総評 】
 このアニメ版の特質について、あらかじめ概観しておく。漫画媒体とアニメ媒体の主要な違いは、レイアウト、色彩表現、音声/音響表現、時間表現(動画表現)、話数編成である。このアニメ版は、大筋では原作漫画の進行に即しつつ、それぞれの局面で創意豊かな掘り下げを試みている。
 レイアウトに関しては、漫画の小さなコマ絵とは対照的に、横幅の広い画面レイアウトを活かして草原の広大さを強調する絵作りが意識されている。縦のカメラワークを利用して、天の高さを表現する場合もある。原作のコマ絵に沿ったレイアウトもあるが、それを超えたアニメ版独自の視覚的再構築が丁寧に為されている。
 色彩表現についても、モノクロ原作は時間帯表現が明示されていないことが多いが(せいぜい昼と夜)、アニメ版では明るい蒼天から、燃えるような夕暮れ、暗い曇天、そして美しい星空や月齢表現などを盛り込んで、個々のシーンの意味づけを深めている。とりわけ太陽光の象徴的表現や、松明の不気味なゆらめき、そしてテント内の明暗のコントラストなども、アニメ版の色彩デザインは丁寧な仕事をしている。イランやモンゴルの民族衣装も、もちろんカラフルに着彩されている。背景作画についても、あえてムラのある着彩を取り入れつつ、キャラと背景の間で一体感のある(それでいてきちんとキャラが立っている)塗りを実現している。こうして画面全体に美的な統一感を作り出しているのも、特筆に値する。
 音声/音響に関しては、声優たちによる個々の台詞の解釈を論じればきりが無いが、主演関根氏の清らかな声色と復讐心の暗い内圧の間の異様なコントラストは現代アニメの中でもたいへんな聴きものである。アニメ版ではナレーションも、主人公役の関根氏が兼任しており、いわば回顧的なモノローグとしての性格も備えている。また、小清水氏の鮮烈な芝居も物語に深い説得力をもたらしている。劇伴についても、民族音楽風音階を利用しているかと思われる非-旋律的なBGMは、時には重々しく威圧的に、また時には軽やかに奏でられる。
 映像媒体ならではのタイミングコントロールや、会話の間(ま)の取り方、そして騎馬アニメーションの躍動感、松明の存在感なども、アニメ版表現の強みである。カメラワークそれ自体は、それほど大きく動かしているわけではないが、上述のように空間的なレイアウトの再構築を通じて、情景ごとの迫真性を作り出している。
 物語進行や台詞は、ほぼ原作のとおりである。ただし、ごくわずかに前後のシーンを入れ替えて整理したり、台詞のディテールをアレンジしたりといった比較的マイナーな変更は大量に存在する。追加シーンもあり、例えば冒頭で主人公がイランの街中を駆け回る長尺のシークエンスは彼女の生育した土地のリアリティを視聴者に印象づける。また、物語中盤の巫者ダイルの祈りは、アニメ版では山頂での踊りをたっぷり描き、中央アジアの精神文化を映像に定着させている。

2026/07/12

2026年7月の雑記

 2026年7月の雑記。

2026/07/11

漫画雑話(2026年7月)

 2026年7月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

2026/07/06

アニメ雑記(2026年7月)

 2026年7月の新作アニメ感想(※第4話あたりまで)。
 さしあたり『キャラメリゼ』(80点)、『クレバテスII』、『さよならララ』(80点)、『対あり』(70点)、『ジャードゥーガル』(85点)、『透明な夜』(65点)、『BLACK TORCH』(70点)、『ダンシング』(80点)の8本を視聴継続している。とりあえずおおまかに点数も付けてみる。60点台はひとまず合格、70点台は独自の個性があり、80点台は非常に充実した視聴覚表現とコンセプチュアルな特異性がある作品。
 『グロウアップショウ』と『手札が多め』は、精読はせずに流し見程度に付き合っていく。『岩元先輩』『捨てられ聖女』『ブチ切れ』『メビウス・ダスト』は、第1話のクオリティが期待に届かなかったので、残念ながら退却。

2026/07/05

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第12話

 第12話「淡島百景」

 原作の最終話(第31話)に相当。ただし、原作の章題は「岡部絵美と伊吹桂子3」だったところを、アニメ版では上記のとおりメインタイトル=サブタイトルにしている。 脚本は中西やすひろ。絵コンテ&演出は、渡邉こと乃。時間は23:50と、ほんの10秒だけ通常よりも長い(おそらくエンドカードの分)。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第11話

 第11話「岡部絵美と伊吹桂子」

 原作は第29話の終わりから、第30話まで。ED後のワンシーンのみ、第31話(最終話)の冒頭を先取りしている。
 脚本は中西やすひろ。絵コンテ&演出は、山村日向。フリーの演出家とのことで、本作への参加はこの話数のみ。例によって、大筋はレイアウトや表情づけまで原作漫画に沿っているが、イメージカットなどをかなり増やしている。とはいえ、アニメーションとしての動き(キャラクターのモーション)などは、あまり付いていない。会話とモノローグを主体とする作品なので、そうした動画演出の重要度は他よりも低いタイトルではあるのだが。

2026/07/04

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第10話

 第10話「長谷川慎爾と夏木詩子/城芙美子の娘/伊吹桂子と岡部絵美」

 「長谷川慎爾と夏木詩子」は原作第5巻27話のエピソード、「城芙美子の娘」は同28話、そして「伊吹桂子と岡部絵美」は第29話からの終盤エピソードに入っていく。
 脚本は中西やすひろ。絵コンテは渡邉こと乃。演出は田部伸一。全体としては原作漫画に寄り添っているが、「長谷川慎爾と夏木詩子」では花の象徴性演出が活用され、「城芙美子の娘」では大胆なレタリング演出、そして「伊吹桂子と岡部絵美」では水の超現実的なイメージがまとわりついて、アニメ媒体ならではの表現空間を創出している。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第9話

 第9話「淡島文化祭/柏原明穂と田畑若菜」

 「文化祭」は、原作第4巻第25-26話で、前話(アニメ第8話)から続く最新世代の物語である。「柏原明穂」は、第3巻末尾の第20話の単発エピソードだが、これを「文化祭」エピソードの中に挿入する形にしている。
 脚本は綾奈ゆにこ。絵コンテ&演出は、いしづかあつこ。とりわけ「柏原明穂」パートでは、彼女のキャラクター性を強調するような演出が多数投入されている。今回は23:55と、通常よりもわずかに長い尺を取っている。

2026/07/03

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第8話

 第8話「小鳥遊紗羅/藤沢江里/雅楽川静香」

 原作第4巻の前半、第22-24話にそれぞれ対応する。同級生どうしの、ひとまとまりのエピソードである。時代設定としては、作中の最も若い世代になる。
 脚本はメインの中西やすひろ、絵コンテは銀さん、演出は増原光幸、DR MOVIE、Hwang Iljinの連名。DR MOVIEは、90年代に創立された韓国アニメ会社である。この回は、原作の黒ベタコマのところを新規作画で埋めるだけでなく、かなり自由に描写を作り直している。原則論としては、アニメ翻案が漫画の絵に縛られるべきではなく、映像は映像として、その媒体の特質に適した形で再構成されるべきだというのが私の個人的な立場だが、この話数については言えば、映像作品の絵コンテとしてあまり上手くいっていないように思う。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第7話

 第7話「山県沙織と武内実花子/武内実花子と山県沙織」

 原作第3巻の後半、第17-19話(「山県沙織と武内実花子」前編、中編、後編)に対応する。事実上ひとまとまりのエピソードである。アニメ第4話(原作第6話)の延長上の物語でもある。相変わらず、他のキャラクターたちとの関係は乏しい。 
 脚本は綾奈ゆにこ、絵コンテ&演出は渡邉こと乃。レイアウトやキャラ絵はかなり原作に寄せているが、小道具を活用したりイメージカットで上手くつないだりして、映像翻案ならではの意味作りをしている。

2026/07/02

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第6話

 第6話「淡島怪談」

 初めての、人物名以外のサブタイトルである。この回と、そしてもちろん最終回が、淡島を巡る無数の人々が行き交うプラットフォームであることは論を俟たない。原作漫画の第2巻第11-13話に相当する。
 脚本はメインの中西やすひろ、絵コンテ&演出は内野宮晃希。内野宮氏は、第1話の演出も担当している。この回も、通常の23:40よりも長い24:40の長尺となっている。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第5話

 第5話「大久保あさ美/浅香みどりと浅上レオ」

 大久保のエピソードは、原作漫画の3巻14-16話(50ページ強)。浅香の方は、4巻21話の比較的短いストーリーである(16ページ)。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテは渡邉こと乃、演出は田部伸一。田部氏は第10話の演出も担当する。原作漫画の構成に則しつつも、効果的な視聴覚演出が盛り込まれている。

2026/07/01

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第4話

 第4話「四方木田かよと山県沙織/田畑若菜と田畑佐江子/柏木拓人と吉村さやか」

 今回は、脇筋のエピソードを集めている。原作漫画ではそれぞれ第6話、第10話、第5話に相当する。比較的くつろいだ内容が多いが、演出的にも色彩感豊かな表現や、舞台シーンのインパクトの強い絵面、さらにはユーモラスなデフォルメに至るまで、個性的な話数になっている。
 脚本は綾奈ゆにこ、絵コンテ&演出は、いしづかあつこ。いしづか氏は、『宇宙よりも遠い場所』などいくつもの作品で監督を務めている。

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第3話

 第3話「伊吹桂子と日柳夏子/山路ルリ子と日柳夏子」

 シナリオは、原作第1巻第4話の後半部分と、第2巻第7-9話の伊吹家関連エピソードをまとめている。5話と6話は後回しになったが、シナリオ上の影響の小さいエピソードなので問題無い。原作漫画では、第7-9話は「山路ルリ子と日柳夏子(前編/中編/後編)」と題されているが、アニメ版は上記のとおり、桂子もフィーチャーするようにサブタイトルを改めている。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテは「銀さん」、演出は森洸貴。銀さんは第9話のコンテも担当する。この回はふたたび、原作漫画のコマからの模倣が非常に多い。なお、この回は24分10秒と長め。

『淡島百景』の妄想年表

 漫画『淡島百景』およびそのアニメ翻案について、人間関係や時間経過が複雑なので、私なりの理解で年表的な見通しを試みた。

2026/06/30

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第2話

 第2話「岡部絵美と小野田幸恵/伊吹桂子と田畑若菜」

 原作漫画の順序どおり、第1巻の第3話から第4話の途中(第1巻109頁)まで。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテ&演出は渡邉こと乃。中西氏は、シリーズ構成を務めつつ大部分の話数を担当しており、それを補うように4話、7話、9話の比較的脇筋寄りのエピソードを綾奈ゆにこが担当している。綾奈氏は、同じく志村氏原作のアニメ化『青い花』(2009)でも、いくつかの話数を担当している。
 渡邉氏は12話のうち計5話について、絵コンテ(時には演出も)担当している。

2026/06/29

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第1話

 【 はじめに 】
 本稿の目的は、アニメ版『淡島百景』を原作漫画と対照してその異同を確認し、それを通じてアニメ版がいかに独自の試みを加えているかを明らかにすることである。
 あらかじめ先取りして概要を説明しておくと、このアニメ版は、シナリオ構成や台詞、さらには画面レイアウトに関しては、ほぼそのまま原作の表現を流用している。しかし、アニメ版による新たなカットや、色彩的な表現、そして音声演出による意味づけといったディテールを通じて、アニメ版独自の解釈と豊かさが生み出されていることも確かである。
 本稿は、第一義的には、そうしたアニメ版スタッフによる創造性がどのようなものであるかを、少しでも明らかにすることを目指している。またさらにこの比較作業を通じて、原作とアニメ版の両方の媒体的な特質についても一定の示唆を見出すことを試みたい。文章それ自体は具体的な異同を指摘しながら、そこから引き出せる作品解釈を私なりに述べるというコメンタリー形式になる。

2026/06/06

2026年6月の雑記

 2026年6月の雑記。

 06/22(Mon)

 【 現代エンタメにおける悲劇の欠落 】
 現代日本のエンタメ(とりわけサブカル系)が、強迫的なまでにハッピーエンドを志向(要求)しがちなのは、もったいないと感じている。歴史的に見ても、フィクションにおける悲劇のカタルシスの意義は、古典古代からずっと高く評価されてきたし、受け手もそれを虚構の中の出来事として享受してきたのだが……。
 例えば、すれ違いによってカップルが結ばれずにそれぞれ自死してしまう『ロミオとジュリエット』が20年代のエンタメ作品として作られる(翻案リメイクされる)ことは、うーん、残念ながら、ほとんど想像できない。史実ベースの歴史物だけは例外だけど、それ以外のオリジナル創作で、悲劇を志向するものはいよいよ少なくなっているように思う。例えば『Uボート』のような歴史もの(史実戦争もの)では、結末は無常観と親和的なビターエンド/バッドエンドになりがちなのだが、これは特殊事情と言うべきかもしれない。

 1) 私見では、これはおそらく皮相的で迎合的な商業主義の産物であり、結果的に創作と感性の振れ幅を狭くしてしまっている。しかし、それだけでもないかもしれない。

 2) 00年代初頭の、いわゆる「泣きゲー」(という誤ったジャンル認識)が大きな禍根を残した。それらは、一方では、障害者などの社会的困難を戯画的に誇張した感動ポルノという邪悪な側面があった。keyの脚本家が闘病ノンフィクションを読み漁って参考にしたというのは、その酷薄かつ無責任な欲望の所在をよく示している。またその一方で、影の濃いメランコリーの雰囲気にリードされる、いわゆる「鬱ゲー」アプローチも、90年代末の世紀末的ムードの延長上にあってそのパラダイムに絡めて取られており、そのポテンシャルを活かしきれないまま、ジャンルを沈滞させてしまった。これももったいない。

 3) コンテンツの長さも、おそらく影響している。2~3時間の舞台演劇であれば、悲劇の結末にしばし浸ってからスッキリと切り替えて劇場を後にすることができただろう。しかし、長大なゲームを何十時間もプレイした結末が、主人公の死などの不幸な形になるというのは、心理的なインパクトが大きく異なる。
 ただし、ゲームでもデニム皇帝の暗殺EDのような例はあったし、連載漫画『デビルマン』や『ザ・ムーン』が人類全滅エンドだったり、通年アニメ『Vガンダム』で味方側キャラクターがほぼ全滅していたりと、悲劇寄りのタイトルも昔は一定数存在した。世紀の替わる頃に、なにか決定的に雰囲気が変わってしまったように感じる。
 また、メディアミックスを含めて物語世界を大きく展開していく際に、人の死を描いてしまうとそのキャラはもう登場できなくなるし、悲劇的な事件があるとその後の展開に大きな影響を及ぼしてしまうので、そうした要素は扱いづらいというのも、まあ、分からないではない……ただの商業主義的都合に過ぎない、とも思うけど。

 4) 社会的要因? 不況下のリアルな経済的-社会的困難が続く中では、「物語の中でまで不幸を見たくない」と感じる人が増えるのは、十分あり得ることだろう。しかし、そうした悲劇嫌悪のネガティヴな声がSNS空間では過剰に増幅されやすいという状況が、問題をさらにややこしく解決困難なものする。

 今世紀の有名なタイトルにも、露悪的な残虐イベントを含む作品はある。しかしそれらも、SNS空間では「未読/未見の人にショックを体験させたい」という陰湿なDV的欲望のネタとして消費されるばかりで、苦味のある劇的感興をじっくり味わおうという精神的姿勢が存在する余地がきわめて小さい。悲劇の醍醐味というは、そんなびっくり箱の衝撃ではないのに……。
 また、NTRもののように、不幸描写が――あるいは、不幸描写までもが――しばしば性的な要素と結びつけられるようになったのも、それらを表立って扱おうとする際の妨げになっているかもしれない。
 むしろ、腰を据えて丁寧に描かれる長編コンテンツの方が、人間性の機微に触れるビターな物語を効果的に描き出せる力があるのだが、「ハッピーエンドにしました」「ハッピーエンドになりますから大丈夫です」といった言説ばかりが広まっているのを、いささか悲しい思いで見ている。
 もちろん、昔でも悲劇寄りの作品がマジョリティだったというわけではない。しかし、近年の動向は「ハッピーエンドでなければいけない(そうでなければ売れない、そうでなければ読まない)」というところまで極端に偏ってしまっていることに問題がある。

 見方を変えれば、80年代から90年代くらい(?)までは、終盤には悲惨なカタストロフが発生して、それをなんとか生き延びてちょっとだけ未来の希望を見て終わる……といったようなスタイルがそれなりに多かったと思う。それはそれでちょっと特殊なスタイルの作劇だったかもしれないが、近年のタイトルでもこういう展開があると、「おお、来た来た、懐かしいなあ!」と嬉しくなってしまったりする。
 アニメ映画『ナウシカ』(1984)から『もののけ姫』(1997)の影響も大きかっただろうけど、ゲームのFFシリーズも頻繁にこの演出を取り入れてきた。最近の漫画などでもたまにそういう気分を感じさせる作品はある。アニメだと、2025年の『ある魔女が死ぬまで』(大津波)や『九龍ジェネリックロマンス』(街全体が崩壊)、『全修。』(虚構世界の危機)などは一応これに当てはまる。主人公が瀕死になって精神世界をさまよい始めたりするのはちょっとシラけるけど、まあ、そういう展開になるのも仕方ない。


 個別の問題はともかくとして、あくまで一般論として思うことなのだけど、最近の日本人はパロディ表現に対して厳しすぎるんじゃないかなあ。侵害性の高いコピー商品でもないかぎり、パロディとか、物真似シーンとか、ちょっとしたギャグ演出とか、風刺的な言及とかは、もっと広く、もっと自由に表現できる方が、創作世界の豊かさにとって好ましいと思うんだけど……。
 00年代くらいからだろうか、いわゆる「大人の事情」と称して企業側の利害を忖度しなければならないという意識がぼんやりと強まっていったのが、転換期だったのかもしれない。そこからは一貫して、利益や権利の囲い込みが進んでいった。メディアミックスビジネスの伸張もそれを後押しした……というか、まさにそれのためにパロディの自由は失われていったのかもしれない(※その一方で、二次創作同人だけは許容されて、今では即売会という場所的限定すら取り払ってオンライン販売が行われるようになっている)。
 例えば、ゲーム『巫女みこナース』のOPムービーにガンダムキャラもどきのような絵がチラッと出てくるくらいは、ネタとして笑って済む話であって、それが咎められるような社会は抑圧的にすぎると思う。また、『全修。』のように、既存アニメの有名シーンをパロディ的に描いた作品も、まさにそうしたパスティーシュを通じて、アニメ史の広がりと重み――それはアニメーター主人公に掛かる重みでもある――を視聴者の目に強烈に印象づけた。そうした絶大な効果を持つ場合もある。パロディ元の作者たちに一々許諾を取らなくても、そういった自由な表現の余地がある方が、文化的発展にとっても、我々受け手の楽しみにとっても、良い状況になるだろう(※あの作品はたぶん内々に連絡して、業界的な義理を通してはいただろうけど)。しかし、『僕らのいきなり同棲計画!』のように、綾波&惣流そのままのキャラクターをただ拝借してベッドシーンを描いているだけの作品では、非難の度合いが高まるのは妥当だろう。明確な線引きは難しいけれど、できるだけ緩く、寛容側に傾けておく方が良いのではないかなあ。
 ちなみに、海外では著作権の保護形態(保護範囲)そのものが異なるので、また別問題になるのだけど、それでもアニメのスクショそのものを切り出してグッズにして販売したりするのは、個人的には、ファン活動の範囲を超えた海賊版行為だと思う。
 もちろん、パロディはパロディで、「面白いか」「作品としてどのように組み込んでいるか」といった視点でそのクオリティが厳しい吟味に晒されるのは当然だ。むしろパロディは、そうした評価のハードルが上がりがちなのが、その安易な導入を抑止する防壁として作用しているとも考えられる。拙劣なパロディは、その拙劣さによって当の自作の出来を落とすし、またパロディ元のファンをも憤激させるだろう。言い換えれば、「パロディを使うなら、上手くやれ、面白くやれ」というのは、結果的にパロディ元作品の価値を守ることにもつながるだろう。受け手としても、「パロディだから駄目」という大上段の論法ではなく、「下手だから駄目」(パロディとして面白くないから駄目)というアプローチをする方が、はるかに健全だし、作品受容(作品のディテールをきちんと見てそれを解釈する姿勢)としても望ましい。


 観光地などの風景写真に、キャラクターがそこにいるかのようにイラストを描き込むのはかなり好き。ファンタジーキャラの現パロだとなお良し。


 ガールプラモの発売年表の更新は、もう止めてしまってもいいかなあ。理由はいくつかある。
 1) ガールプラモ分野の出現と初期の発展過程の20年史については、私の力の及ぶかぎり、ひとまずは記録することができた。完璧ではないにせよ、アウトラインを把握するための資料としては、それなりに役立つ筈だ。
 2) 現状ではもはや、極端に新しいムーヴメントが現れてくることは無さそうだから、ジャンル的発展史の観察&記録をこれ以上続ける意義は見出しにくくなっている。
 3) ブランド間のコラボや周辺的なミキシング用パーツなど、商品形態が複雑化してきたので、それらの見通しを提示するのは、単純な時系列リストの形では困難になってきた。
 4) 新作キットの数が増えすぎて、もはや一つのリストだけでは見通しが利かなくなってきた。ブランドごと、時期ごとの各論も、個別の記事としていろいろ書いてきたし。
 5) プレバンや布服販売、あるいは半-公式のレジンパーツのように、限定販売品や予約商品が激増したため、リリース情報の記録を残す意義が薄れてきた。……いや、むしろ情報を残すべき価値が高まってきたとも言えるのだけど、一般には買えない商品までトレースしていくのは不毛感がある。

 こういった同時代の記録は、後世のために誰かがやっておくべき作業であり、そして、一研究者兼趣味人としては、ひとまず歴史に対する義理は果たしたと言ってよいだろう。日本の「オタク」たちはどんどん刹那的で消費志向になっており、こうしたアーカイヴ化の営為が誰かによって引き継がれることはもう期待できないが、それはもう仕方ない。まあ、当面は私の労力を割けるかぎり、新作情報の更新を続けるけどね……。もうちっとだけ続くんじゃ(フラグ)。


 さて、『淡島』の私的なコメンタリーに着手してみた。……長い。長すぎた(第1話だけで17600字)。資料が揃っていて、書くべき方向性も決まっていれば、トップスピードで一日3万字くらいは行けるが、いや、それでもさすがに疲れた……。まあ、web検索やページ内検索などで、面白そうなところだけ適当につまんでいってくれたら十分、というつもりでいる。
 第2話以降はどうしようかな……。ざっと見たところ、原作漫画のレイアウトから多少離れた自由なコンテの回もあって、それはそれでとても良いことなのだけど記事としては書きにくい。それに、ひとまず解釈のアプローチと注目できるポイントは提示しきったので、これ以上は同じような話を繰り返すマンネリになってしまいかねない。うーん。
 
 というわけで、第2話の途中まで概要執筆してみた。時速2400文字(おばか)。
 これはこれで面白い知的営為ではあるのだけど、やはり時間を取りすぎる。このペースだと、ざっと70時間は掛かる計算になる。それはまずい……。
 最終的に、第2話のコメンタリーは9300字でまとまった。第1話の半分だね!
 第3話の分は、5300字。このペースならば、なんとかなりそう。
 第4話も、5300字。第5話は4400字。

 ……こうして心の電波を放出するのは楽しいよね。ともあれ、創作物のどこが、なぜ、どのように優れているかをきちんと言語化してそれを共有可能にするのはとても重要なことなのだが、なかなかやってくれる人はいないし、私も出来ているとは言いがたい。今回の投稿群が、ちょっとでもそうしたことに目を向けるきっかけになったら嬉しいし、こうしたアプローチは現代のメディアミックス優位状況ではとりわけ大きな有効性があるだろう。
 もちろん、こうした演出の細部について、読者/視聴者が無意識のままでも効果は発揮されている。そして、そのくらいの浸透力と説得力のある演出は、「上手い」と言うべきだ。俗に、派手にして面白がらせることばかりを演出と呼ぶ向きもあるが、それはべつに演出のコア部分ではない。陰影表現とか、色彩的な変化とか、レイアウトによる意味づけとか、そういったものによって画面のニュアンスを視聴者に感得させるのは優れたコンテワークの成果だ。だから、視聴者は、「なんかよく分からないけど、良かった!」という感想でも、まあ、ひとまずは構わない。少なくとも、画面をしっかり注視しているかぎりは。「ながら見」とか倍速視聴では、ストーリーの大筋は捉えられても、そこから零れるものが多すぎて、結局のところ芸術体験としてはナンセンスになってしまう。

 第6話は6800字でなんとか書ききった(累計48700字)。文字数よりも、掛かった時間も方が問題かな。映像の再視聴チェックも含めて4時間ほど掛かってしまったので。
 第7話は、かなり控えめに3600字(累計52300字)。全12話ぶんは、7月いっぱい掛けても無理だと思っていたけど、案外スムーズに完成できるかも……だったらいいなあ(終盤の大変さから目を逸らしつつ)。
 第8話もコンパクトに4100字。累計56400字なり。
 第9話は5500字。累計61900字。最終的には10万字以内でまとまりそう。10万字というのは、だいたい新書一冊分くらいなので、まあまあコンパクトな数字。しかし、このブログでこれまで書いてきた連続記事では、「CGワーク」が9万字、「ガールプラモ史」が最終的にたぶん6万字くらいなので、今回のはほぼ最長規模になっている。
 第10話は7400字(累計69300字)。これまで一日2話ずつ、予定通りのペースで進めてこられた。日曜日のうちに完成させられたらいいな……。(不穏なフラグ) 技術的には、文学部(英文学科とか仏文、独文とか)あるいは映像学専攻のまともな学生であればたいてい誰でも語れるくらいの内容……というか、やっていることは本当に素朴なアプローチなのだが。
 第11話は5900字(累計75200字)。原作の黒ベタ進行を、アニメの新規カットで補っている箇所がいくつかあるので、解説の文字数が増えることを懸念していたが、わりと穏当な規模で収まってくれた。
 第12話は3600字(78800字)。なんとか完成させられた。

 さて、ここで初回視聴時の私自身の感想を読み返してみましょう……眼鏡度入りの話しかしていないな、このバカ(わたし)は……。まあ、初回は映像のテンポに集中していて、映像のディテールまではなかなか意識が及ばないという言い訳はあるけれど、不明を恥じるほかない。

2026/06/05

漫画雑話(2026年6月)

 2026年6月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 檸羽(ねう)『悪役令嬢ってのはこうやるのよ』第1巻(双葉社、原作あり、1-5話)。いまいち。カオミン氏デザインをベースにしていることもあってキャラデザはなかなか魅力的だが、疫病解決など、アイデアがどれもありきたり。仇役がどれも愚かなのが退屈させる。
 男性向けだと敵対者は「倒し甲斐(乗り越え甲斐)のある、立派な強大な存在」として描かれることが多いのに対して、女性向けだと「心ゆくまで叩き潰せる、醜くて愚かで無価値な小物のゴミ」として描かれる。前者は前者で問題がある(例えば悪いことをしているキャラクターも格好良くなりすぎる)けれど、後者も、美醜と好悪だけを基準にした格差主義と、異物(というか自分よりも「下」の存在)に対する攻撃性の発露を全肯定している気持ち悪さがある。この作品でも、主人公と対立する「ヒロイン」側の人物たちが愚かな社会的粗相によってどんどん自滅していくので、なんともカタルシスが無い。
 いわゆる「私のためにキモい奴らを殴ってくれるヤ○ザ様or公爵様」のアプローチも、反転させると「俺のために醜いあの女どもをいじめてくれる元気ギャルちゃんor高嶺の花お嬢様」になるのだが、たぶん大多数の男性はそういうキャラクター(関係)を悍ましく感じるだろう。うーん。いや、もしかして、ありなのか? 「モテない僕を愚かなギャルたちから護りつつ尽くしてくれる強気な幼馴染」のようなものも、うーん、それほど露骨ではないにせよ、あったかもしれない。まあ、どちらも私は嫌だけど。
 鯨川リョウ『教生カンケイ』第1巻(秋田書店、1-6話)。鯨川氏の新連載。両親から愛されていないと感じている一人暮らしの男子高校生のところに、だらしない女性教師が転がり込んでくるコメディ。主人公の心情描写にはシリアス要素もあるが、ヒロインの方はひたすら滅茶苦茶な生活をしている。この漫画家さんらしいキャラクター造形の尖った切れ味や、闊達自在で「お行儀良くしない」コミカル演出は健在。
 あきときたいき『オヤサイリベリオン』第1巻(小学館、1-6話)。野菜擬人化(?)キャラクターたちの物語。ナス族を虐殺する根菜たちと、それに対するナス主人公の復讐のドラマ。作画はレイアウトも良いし、力感のある動きもよく描けていて素晴らしいし、目玉が飛び出る(物理)くらいのグロ描写もあるのだが、シナリオとキャラデザが陳腐なのがもったいない。また、シリアスなようでいて中途半端にメタジョークを挟んでくるのも、個人的に好みから外れる(※焼死したナスキャラを「焼き茄子」と呼んだり)。野山を進むシーンの細やかな所作など、良いところも多いのだが……。擬人化キャラたちの凄惨なバトルという観点では『どく・どく・もり・もり』の後追いのようなアプローチだが、現時点ではとても比較にならない。作者はこれまでいくつもの連載経験があり、絵作りそれ自体はかなり高い水準なのだが……つくづくもったいない。
 成田芋虫『ヴァージン・キラー忍法帖』第1巻(マッグガーデン、1-8話)。鈍感な男性忍者と、ツンデレな女性忍者の間のラブコメ。予想以上に、かなり面白かった。ヒロイン「紫(むらさき)」が慌てたりドキドキしたり頑張ったりする表情がやたら生き生きしていて、これだけで読みごたえがあるし、二人を見守る首領キャラがいることで、「状況をかき回す」「ツッコミをする」「いわゆる『カップル見守り』役として読者の反応を代弁をする」といった刺激をもたらしている。ラブコメなので、ベタなネタもあるのだが、ネタの密度が高いし、オチの前の溜めも上手く利かせているし、台詞回しや周辺の小ネタなども洒落っ気があって良い。この漫画家さんの作品を読んだのは初めてだが、2010年デビューでこれが3つめの連載(本書で16冊目)という、中堅クラスの十分な実績のあるクリエイターのようだ。


●カジュアル買い、買い足しなど。
 新島なるい『白銀のキュイジーヌ』第1-2巻(講談社、1-4話/5-11話)。明治時代の外交官邸で西洋料理を作ることになった少女の物語。傲慢毒舌な上司(美形若年男性)の下で働くことになる主人公の「かわいそ可愛い」雰囲気はコミカルで楽しいし、料理描写などもきちんと下調べをして作劇されている。主人公の少女も、どこか妙に色っぽく(えろすではなく、なまめかしい)、濃厚な雰囲気を漂わせている……のだが、えっ、第2巻(新刊)で完結してる! もったいないなあ……。シチュエーションも明確で、目標もはっきりしており、人間関係も見通しが良く、そしてキャラクター造形や台詞のセンスにも独自性があり、漫画的演出もこなれていて充実した内容なのに……。なお、作者はこれが3つめの連載のようだ。次なる連載の機会に期待する。
 俵京平『金のなる森』第2巻(集英社、5-16話、5月刊)。表紙でカジュアル買い。人類が火薬などの近代的技術を発達させて、旧弊的なエルフ族から搾取しはじめている世界(財宝、奴隷化)で、両者の合間を縫って活躍する商売人(?)主人公の物語。オリエンタリズム的な財宝探しロマンの物語類型でもあり、また、近年(再)形成されてきたエルフイメージを梃子として巧みに用いている点でも興味深い。ただし、シナリオ展開はややぎこちなく、トリックもありきたりだが、ドラマティックな展開は楽しめる。ほどほどに肉付きの良い人体描写と、意外に派手なグロシーン、さらに異能フレーバーのある魔法表現と、それらを活用した戦術的側面が混じり合っている贅沢な内容。せっかくなので第1巻も買って読んでおこう。作者は『恋獄の都市』(全5巻)に続く2つめの連載のようだ。
 ささきさ『蒼きバルカナリア』第1巻(秋田書店、4月刊、1-5話)。これまで2作の連載経験のある漫画家による、16世紀ブルガリアを舞台にした物語。衣装、風景、建物、料理などのディテールが濃密に描き込まれており、読みごたえがある。シナリオは少女漫画なりに見通しをシンプルにしているが、ポジティヴな主人公の意志的で活発な行動が、見ていて心地良い。なお、「バルカナリア(balkanaria)」は、「バルカン半島の事物(バルカン文化)」といったような意味のようだ。


●続刊等。
 1) 現代舞台の作品。
 雁木万里『妹は知っている』第7巻(55-63話)。人間関係がいったん確立されたところで、さらにそれを先へ進めていこうとしているようだ。メール投稿職人の兄というキャッチーな部分と、芸能人(妹手)の裏側の何気ない日常という受けの良さそうな側面が、さほど連動しているわけではないのに、上手く両輪としてバランスが取れているのが面白い。
 三都慎司『ミナミザスーパーエボリューション』第3巻(9-12話)。超常能力そのものの開拓はいったん区切りを付けて、同じ能力を持つ他者の出現、そしてそれらと対比的に描かれる青春の日常の輝きが美しい。
 仲邑エンジツ『同居人がこの世界のモンじゃない』第2巻(11-20話+web掲載版いろいろ)。うーん、常識外れの突拍子もないキャラクターをほのぼのと描くのは、この作者の得意分野なのだが、この作品では、生々しい性欲表現がちょっと気持ち悪いし、それに引っ張られてネタの幅も狭まっている。倫理観の枠を外してみせる性的なネタも、道満晴明氏だったら突き放したユーモアで流していけただろうに、この作品では押しつけがましい雰囲気になってしまっている。うーん、もったいない。同じ作者の同月刊行『ムジナとミサキ』第2巻(8-14話、完結)も、歯切れの悪いまま終わってしまった。『おぼこい魔女』のようにキャラが上手く当たれば魅力的になるが、そこを外すと構成の弱さと中途半端なお色気が目立ってどんどん崩れていってしまうようだ。もったいない。
 天井フィナンシェ『白紙の上でさようなら』第2巻(6-11話)。漫画家として(再)デビューを目指す女性の物語。第1巻の展開はスムーズで、今巻も良いには良いのだが、図式的にきれいに整理しすぎていて、状況の迫真性や内面の葛藤を感じ取りにくくなっている。この最新刊でも、「分かりやすい抑圧者が出てくる→主人公が黒ベタモノローグで動揺する→ヒーローにきれいに慰められて前向きになる」のパターンを連発しているのは、ちょっと飽きる。うーん、もったいない。画面作りに関しても、やけにカメラの近い構図を連続させていて息苦しい(つまり、コマの8割をキャラクターのアップで埋め尽くしまくっていて、空間的な広がりや風通しの良さが乏しい)。絵そのものは良いのだが、画面構成や視覚的演出が平板(単調)になりがちなのが惜しい。
 イズミダフユキ『夜鷹ふたたび』第2巻(8-16話)。自堕落な元暗殺者の命を狙うコミカル闇社会サスペンス。若者から中高年まで、イズミダ氏はそれぞれに個性的な外見のキャラデザを披露されていてそれだけで面白いし、テクニカルなバトル描写や、キャラクターの表情を思いきり崩してみせる大胆さも含めて、エンタメとして充実した味わいがある。前作の『マダラランブル』も悪くはなかったが、キャラが多すぎたうえに、バトルシーンに傾斜しすぎたため、少々付き合いづらい作品になっていたが、今作はメインキャラを絞り込みつつコメディの比率を高めているおかげで、見通しの良い物語をベースにしてその都度のシーンを楽しんでいける。
 木下いたる『ディノサン』第9巻(44-48話)。高齢のティラノサウルスが亡くなるまで。恐竜の来歴とその(推し量りがたい)内面生活、そして加齢と、その死に立ち会うスタッフたちの姿を誠実を描ききっている。
 雨田青『ミライライフライ(未来来不来)』第3巻(9-12話)。主人公は、サブカル寄りのポップアーティストと交流しつつ彼女のドキュメンタリーを撮影していき、その中で現代中国の若者たちに見えている世界――構造的な苦しさやアイデンティティ形成の問題など、多岐に亘る――をひたすら饒舌に語らせていく。90年代くらいからの同時代的歴史も色濃く反映させつつ、この作品そのものが擬似的なドキュメンタリーのような手応えを作り上げている。


 2) ファンタジー寄り。
 きただりょうま『魁の花巫女』第8巻(67-78話、完結)。結局、方向性のよく分からない作品だった。伝奇ものとしても中途半端だし、異能バトルというにも食い足りず、お色気ハーレムとしてもエンジンが掛からず、視覚的演出についても(かなり良い出来ではあるのだけど)驚きに乏しかった。この漫画家さんは、『μ&i』からずっと読み続けていて、たぶんファンと自称してもよいくらいだけど(※ただし『エグゼロス』は読んでいない)……うーん。
 井山くらげ『後宮茶妃伝』第9巻(47-51話)。お茶関係のネタがヴァラエティ豊かで、読んでいて飽きない(※架空世界の架空茶だが、十分にあり得る話として受け止めることができる)。ストーリーは、後宮の人間関係が安定してきて、政治よりもお茶そのものを楽しむエピソードに集中している。作画に関しても、細く精妙なペンタッチと、くっきりした黒ベタのコントラストを活用しつつ、時にはユーモラスな表情も交えて物語を朗らかに展開している。
 目玉焼き『悪役令嬢の矜持』第4巻(17-21話)。作画を引き継いで新たな漫画家が制作されているが、画風は比較的似ている(寄せている)ので、続けて読んでも大丈夫。第2巻までのクライマックスから、第3巻はスイートな後日談でややダレたが、今巻は新章に入って新たな物語が展開されている。紙面全体の描き込みがべったりと重たいせいで、やや読みづらいが、美術面でもストーリー面でも十分な面白味があるので、引き続き買っていくつもり。
 眼亀『ミズダコちゃん~』第5巻(29-35話)。プールにお祭と、夏のイベントが続く。異種族キャラクターの造形のユニークさと、そのディテールの掘り下げ、そして空間的なレイアウトを意欲的に使ったレイアウトなど、見どころは多いが、同時にサブキャラなどには、チープで品のないところもある。pixivのイラストを見ても、本格派のクリーチャー系趣味で奇想豊かな作品をいくつも描いておられ、創作的な根っこはそちら側にある方なのだろう。
 上田悟司『現実主義勇者の王国再建記』第15巻(73-77話)。ドラゴン編を終えて、雪国編へ。政治的交渉の中で人間性の輝きや技術的卓越を見出していく軍師的な楽しみの作品だが、縦進行を大胆に取り入れた独創的なコマ割は健在だし、ディテールをハンドライトでザクザク描き込んでいく気持ちよさも、洋書で描かれる顔アップの魅力的なニュアンスも素晴らしい。
 恵広史『ゴールデンマン』第9巻(67-74話)。向こうの世界の悪徳企業との大決戦。それぞれにキャラ立てが上手いうえに、ここまでの描写の蓄積もあり、そのうえで各キャラの志操信念に関わる決意やテクニカルな対処の旨味もたっぷり味わえる。なお、9月頃に最終巻(10+11巻)が発売されるとのこと。

2026/06/04

アニメ雑記(2026年6月)

 2026年6月の新作アニメ感想。第8~9話あたりから、最終話まで。

2026/05/11

2026年5月の雑記

 2026年5月の雑記。

 05/29(Fri)

 今月は延々ゲームをしていて、それ以外は生産性に乏しかった。いや、漫画等も普段どおりのペースで読んでいるのだが……読んでいるつもりなのだが、またもや未読が20冊ほど溜まってきている。


 イエサブ模型コンテストの参加ネタは、「ギィ」か「グライフェン(バラクーダ)」のどちらかになりそう。前者は、ネイルシールを使ったカジュアルな装飾がほどほどにキャッチーなアレンジになっていて、見た目の面白さと技術的な実験性を提供できるだろう。後者はベタだが、箱入りレイアウトを深海風の簡易ジオラマに作れば、コンテストの趣旨にも合致するだろう。

2026/05/09

漫画雑話(2026年5月)

 2026年5月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 まだ先月分の新刊も読み切っていないけど、まあ仕方ない。

2026/05/03

アニメ雑記(2026年5月)

 2026年5月の新作アニメ感想。今のところ、『淡島百景』『上伊那ぼたん』『カナン様』『自称悪役令嬢』を視聴中。『鑑定士』『姫騎士』『楠木邸』は飽きたのでおしまい。最終的に、普段通りの4本にまで絞れてきたのは、良いのか悪いのか……。
 きちんと観ると決めた作品は、各話を複数回視聴して、映像演出と音声のデリカシーをそれぞれ集中して追っていき、スクショも撮りまくるので、多数のタイトルに手を出している余裕は無くなる(※さらに言うと、今期は繰り返し視聴のきつい作品も多いのだけど。キャストが今一つだったり、ストーリーが重苦しすぎたり……)。
 最終的な評価は、『淡島』75~80点、『上伊那』65~70点、『カナン様』60~65点、『自称悪役令嬢』70~75点くらいになりそう。

2026/04/24

2026年4月の雑記

 2026年4月の雑記。

2026/04/23

漫画雑話(2026年4月)

 2026年4月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

2026/04/04

『透明男と人間女』原作漫画とアニメ版の比較

 岩飛猫氏による原作は、背景をターコイズブルーに塗ったユニークな二色漫画で、欄外の作者コメントなども含めて読み応えがあるが、瀬田光穂監督(シリーズ構成と全話脚本も担当)によるアニメ版は、そこからさらに様々なディテールを追加し、また、原作のエピソードを巧みに組み替えることによってクール制のアニメ媒体としてのクオリティを高めている。
 本稿では、アニメ版の各話について、原作の対応箇所とアニメ版の追加要素などを、筆者の気づいた範囲で書き留めておく。もちろん、視聴覚演出や画面レイアウト、色彩設定、音響表現、そして台詞の細部については、違ってくるのが当然なので基本的に省略し、大きな変更点について言及するにとどめる。

2026/04/01

アニメ雑記(2026年4月)

 2026年4月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 さしあたりクオリティ評価を点数としてつけてみる。

2026/03/24

2026年3月の雑記

 2026年3月の雑記。

2026/03/15

2026/03/08

漫画雑話(2026年3月)

 2026年3月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 今月分も、各作品におおまかな評価点をつけてみる。

2026/03/04

アニメ雑記(2026年3月)

 2026年3月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 『アルネ』『違国』『透明男』『29歳』『ヘルモード』の5作を最後まで視聴。

2026/02/10

2026年2月の雑記

 2026年2月の雑記。

2026/02/09

漫画雑話(2026年2月)

 2026年2月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 こちらも試しに、評価点をつけてみる。

2026/02/06

アニメ雑記(2026年2月)

 2026年2月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 『アルネ』『違国』『透明男』『29歳』『ヘルモード』の5作を視聴中。『シャンピニオン』はやめた。

2026/01/07

2026年1月の雑記

 2026年1月の雑記。

 01/26(Mon)

 土曜日のイベントに参加してから、まだ太ももに筋肉痛がある。要するに、低いテーブルのプラモデル作品のために頻繁にしゃがんで撮影していたのは、要するに数時間断続的にスクワット運動をしていたようなものだから、筋肉に負担が掛かるのも当然か……。


 今月の美少女ゲーム新作『諦観のイヴ・ベセル』は、キャストが凄いんだよね。秋野氏主演に、杏子氏メインという贅沢な配役で、それから皆都乃ヨーコ氏というのはたぶん歌謡曲の人、そして和央氏も10年代後半から良い仕事をしてこられた方。さらにサブキャラにも、かわしま氏、一色氏、桜川氏、柚原氏と、2010年前後に輝かしい表現を記録してきた役者さんが並んでいる。何なの、これ……買おう。

 Laplacianもロープライス新作を告知したし、こちらも良いキャストになるだろうと期待している。

2026/01/06

漫画雑話(2026年1月)

 2026年1月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 試しに、評価点をつけてみる。60点以上は、見るべきところがある(60点未満は言及しない)。70点は、十分な美質と個性がある。80点以上は読み応えのある優れた作品。90点は傑作級。特にコメディやお色気ものは評価が難しいし、あくまでおおまかな感触程度にとどまるが。

2026/01/05

アニメ雑話(2026年1月)

 2026年1月の新作アニメ感想(※タイトル五十音順)。
 今回は、試しに総合評価の点数推移もメモしてみる。それぞれ第3話までで『透明男』85点、『違国』85点、『シャンピニオン』80点、『アルネ』80点、『29歳』70点、『ヘルモード』70点。『魔王の娘』『人外教室』『カヤちゃん』『アカウント』は中途離脱。