2026/07/02

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第6話

 第6話「淡島怪談」

 初めての、人物名以外のサブタイトルである。この回と、そしてもちろん最終回が、淡島を巡る無数の人々が行き交うプラットフォームであることは論を俟たない。
 脚本はメインの中西やすひろ、絵コンテ&演出は内野宮晃希。内野宮氏は、第1話の演出も担当している。


 【 はじめに 】
 この話数は、多数のキャラクターと暗示的な台詞とミステリアスな演出により、ひときわ晦渋なエピソードになっているので、最初に私なりの見通しを提示しておく。
 淡島には悪しき「亡霊」がいる。その実態は、他者に対する羨望や嫉妬と、それによって喚起されてしまう陰湿な攻撃性である。それはどのようなコミュニティにも発生する可能性のある「よくあるタイプ」の事象だが、淡島のような小さく閉鎖的な学校では高い頻度で起きてしまいがちだし、内部競争に晒されている思春期の集団であれば尚更だ。害意から他人を呼び止める者は、制度そのものの中に巣くう陳腐な亡霊に取り憑かれたも同然である。淡島は、スターへの憧れや希望を栄養として吸収しつつ、それへの挫折や絶望を振りまいていく邪悪な巨木でもある。
 こうした悪意の「吹きだまり」は、クラスの中だけで発生するのではない。家族からの抑圧や、淡島に来なかった友人との関係がそこに影響してくるのも「よくある」ことだ。何世代にも亘って願望や失望のゆがみが蓄積される吹きだまりもある。「古き遺恨は 新しき不和を招き 血で血を洗う 忌まわしき物語」。
 そうした吹きだまりの澱みに対処するのは難しい。身近に存在する加害について、あるいは「魑魅魍魎が跋扈する」芸能界について、見なかったふり、気づかなかったふりをするのも、消極的な共犯関係になってしまう。だからといって、「こんなはずじゃなかったのに」と自分一人がその場を離脱しても、それは心の中にわだかまりとしてずっと残る。あるいは、自らが亡霊そのものとして淡島のメカニズムの中に囚われてしまうことがあるかもしれない。
 しかし、それを克服できる可能性もある。友人とのわだかまりを解消できた人々もいる。あるいは、舞台における芸術のカタルシスを通じて達成できることがあるかもしれない。「舞台に上がってしまえば そんなことは頭から消えていた」。淡島の内部から風通しを良くする努力が、「罪ほろぼし」になるかもしれない。決意を持って「亡霊」を批判することで、その力を弱めることができるかもしれない。さらに、「なつかしさ」は、非常に難しい感情であるが、もしかしたらそれがわだかまりを解消する一助になってくれる場面もあるかもしれない。


 【 本編コメンタリー 】
 今回は、映像そのままの順番ではなく、多少前後を入れ替えながらコメンタリーをしていく。

 (00:00-)黄昏時の校舎廊下から始まる。空気のティンダル現象によって夕暮れの光線が膜のように可視化されつつ、廊下の壁面に複雑な色合いと非現実的な感触をもたらしている。冬枯れの立木を傍らにしつつ夕日に染まる校舎の外壁とともに、メインタイトルが表示される。

 (01:50-)サブタイトル「淡島怪談」は、無地ホワイトの上に文字だけが乗っている。 アバンタイトルの無名少女と同じように、今度は堀内――今回の物語の外枠を成す一人――が名前を呼ばれて振り向く。呼び止めたのはクラスメートがちょっとした嫌がらせをするためだった。楽譜コピーの重い紙束を渡される堀内には、ここでも立木の枝の影が絡みついている。このアニメ版では、学校の七不思議のイメージが、傾斜したフィルムのように流され、それを思いながら歩く堀内の姿も、壁に映った影の方にカメラが向けられている始末である。しかし幸いにも、誠実に高みを目指す堀内が辿り着いた今回の終着点は、好人物な男性教師で済んだのだが。堀内も田畑の同期生であり、この年次にも衝突や迫害は、「なかったわけではありません 大事にならなかったというだけで」と田畑が正直に告白せざるを得ない状況だったようだ。

 (02:50-)堀内が呼び止められたのは寒々とした冬の廊下だったが、次のシーンはさらに奇妙な映像になる。鮮やかなオレンジ色の夕焼けの空気から、低彩度に冷めたローズダストの残照に、そして錆びたようなグリーンの床の硬質な色合い、日暮れの濁りきった蘇芳色、そして再び日没直前の深い輝きに照らされた教室が、またもや枯れ木立の影にその都度まとわりつかれている。原作漫画では、「コトン」という一音の奇妙さだけだったシーンが、アニメ版の色彩と陰影によって不気味さを増している。ただし、後半のシーンで見られるように、この学生は『ロミオ』公演のためのピアノを、一人で必死に練習している。芸道に心を傾けていれば、亡霊の手が近づいてきても、襲われたり取り込まれたりすることは無いのだろうか。

 (03:20-)さらに夜の校舎窓にも、黒い悪意の枝が近づいている。田畑と村上が、文化祭のための衣裳作りをしている。アニメ版では背後にも3人のキャラクターが追加されているが、そこで「やーめーてー!」と叫んだのは大久保 。田畑たちとは仲良くなっているようだ。原作漫画では、大久保のエピソードの方が後なのだが、アニメ版はここで人間関係のフォローを行っている。ロッカー前でのメイド服の着付けもアニメ版オリジナルだが、これも天井から覗き見るような構図で描かれている。さらに体育館のステージ上で竹原たちが読み合わせ練習をしているシーンも追加されている。
 ちなみに、竹原の同期生には大東(大久保と同室の、屈託のない先輩)もおり、エンドクレジットによればこの話数のどこかに登場していたようだ。最初の「よくあるタイプの怪談だねぇ?」あたりだろうか。

 (03:40-)一転してカメラは淡島の「外」へ移動する。上田良子は、華やかな花瓶の絵と、緞帳のようなカーテンの間に自らも挟まれながら、竹原と電話でしめやかに会話する。華々しくも理想的な『ロミオとジュリエット』を実現したことのある元パートナーに対して、竹原は躊躇いながら、別の『ロミオ』を見せようと提案し、上田もそれに対して曖昧な形でしか返事ができない。竹原の中には、「さみしさ」または「同情」があり、上田の中にも嫉妬や憧れがある。ここに亡霊の生まれてしまう余地はあるのだろうか?

 (04:30-)茶髪の生徒も、学外からの呪いを受けている。体育館の2階部分に立っている3人は(原作どおりの描写だが)、彼女たちが実力不相応の不安定な位置にいることを暗示するかのようである。あるいは、竹原たちのように自ら何かを作り出そうとする努力をせずに、無責任な観客側の立場に収まってしまっているかのようだ(※後で触れられるように、彼女自身には大きな才能があるようなのだが……)。体育館の照明の影になった彼女たちは、亡霊になってしまいそうな危うさもある。
 人物相関図にも示されているとおり、この生徒の母親は、昔の伊吹の取り巻きの一人であり、その当時の屈折した思いが、娘とのぎくしゃくした関係にまで影響を引きずっている。しかしその母親(住吉)の悔恨は、誠意なのだろうか、それともいびつに亡霊化した執着なのだろうか、あるいは虚しい心残りにすぎないのだろうか。

 (05:30-)ふたたび堀内。窓ガラスに映った彼女の全身を、窓外の枯れ木立が覆い尽くしている(※この回の枯れ木立描写は、ほぼ全てがアニメ版固有の演出である)。虐めのために呼び止めるクラスメートたちは、もはや影絵になってしまっている。「ここは吹きだまりだ 夢と 希望と 絶望と 妬みと 嫉みと 羨望と」。階段の踊り場では、光の入射角をどんなに変えて照らそうとしても、どうしても光の届かない暗部の領域はあまりにも広い(アニメ版独自のショット)。そこからは走って逃げるしかないのだろうか?
 
 (05:50-)夕方の一見明るく開けた通路にも、木立の枝々が手を伸ばしている。体育館では、もう2年目の終盤だというのに、歌劇学校を辞めるという生徒がいる。どうやら友人関係や家族関係の悩みで、よほど落ち込んでいたようだ。竹原の世代である。亡霊の声は、竹原をも呼び止める。彼女は聞こえなかったという、あるいは、聞こえなかったふりをする。もっと言えば、聞かなかったふりをすることで、傍観者となり、消極的な共犯関係にコミットしてしまったのかもしれない。この生徒が辞めていく事情は、おそらく、すぐ後で語られる住吉と同じようなものだ。そうしたことが今も反復されている。

 (07:10-)そして教師も、部分的には亡霊と関わりを持ってしまうことがあるかもしれない。光の届かない夜中であれば尚更だ。伊吹の関わるシークエンスは、奇妙にも切り返しショットが多く、彼女のいる位置を不確かなものにしている。
 その一方で、高さと低さを段差で分けてしまう階段、そして高く登っていけるかもしれない階段――つまり淡島という栄光への急坂階段――のイメージの連続が、混迷と不安定さを映像的に印象づける。この市街地の急坂階段は、原作では日中のように明るく作画されているが、アニメ版では暗い夜景として塗り直されている。人々が安らう家々から、階段を登った小さな踊り場(=淡島学校)はわずかに街灯で照らされているが、そこから登っていく先はいよいよ暗く、何も見えない。

 (08:20-)さきほど登場した、「伊福部(住吉)の娘」の実家のワンシーン。おそらく合格が決まった直後、入学前のことだろう。買ったばかりの淡島制服は、まだきれいな新品だ(アニメ版の追加カット)。彼女の祖母は、無邪気に自らの願望を孫娘に押しつけているのだが、孫自身はその身勝手さに(まだ)気づいていない。それに対して母親(=取り巻きの住吉)は、淡島の「吹きだまり」としての側面をみずから経験しており、それゆえ「楽な世界じゃないって」「無理にはすすめないよ」と忠告しようとするのだが、お互いに認識がズレているせいで、その言葉は摩擦の原因になってしまう。娘は、母の言葉を悪意と捉え、「足を引っ張りたいみたい」と感じてしまう。

 (09:00-)さらに回想が、住吉たちの生徒時代まで遡る。ここからは押上視点がベースになる。当時三つ編みだった住吉が、岡部への迫害と、それにつづく伊吹孤立を立て続けに体験したのち、「こんなはずじゃなかったのにな」と、最終的に退学する直前の時期のことだ。例の踊り場階段をひそかな避難所としていた住吉のところに、取り巻き仲間だった押上が訪れる。窓辺にだけは鈍い夕日がようやく射しているが、その周囲は暗いままであり、さらに暗くなるだろう。原作漫画の全体の流れや印象的なコマは、アニメ版にも反映されているが、同時にアニメ映像としての独自の連続性も構築されている。言ってみればサブキャラどうしの会話にすぎないのだが、陰影の濃い背景と、四角く切り取られて輝く窓をアニメ版は丁寧に作画しており、そのコントラストと不均斉さとデリケートさは、このシーンを印象的なものにし、さらには淡島という空間そのものの屈折やいびつさを強く感じさせる。ところで、ここで押上は、岡部の件について「見て見ぬフリだった」と語っているが、伊吹の取り巻きの言葉としてはいささか欺瞞的と感じてしまうのは、読者/視聴者の視点ゆえだろうか。
 (11:40-)現代に戻ると、不器用だった押上は、淡島の教師になっている。そして住吉の娘を通じて、旧友に連絡を取れるようになったという巡り合わせだ(ここでも、原作はスマホだが、アニメ版は時代設定を整理して、折り畳み携帯で描いている)。住吉は、娘が淡島で成功しようとする中でその手が汚れてしまうことを危惧している。文化祭の『ロミオ』公演チケットを指でまさぐりながら、悲劇が再来することを懸念している(チケットの絵もアニメ版独自)。モノローグ「あの場所は 吹きだまりだったのだろうか」も、押上の言葉として扱われている(演じているのは福圓美里)。
 (12:40-)伊吹が一時離席するシーンも、先述のように、絵コンテは騙し絵のような切り返しショットで構成している。時間帯も、夜から日中、そしてまた夜と、目間苦しく変転する(おおむね原作通りではあるのだが、フルカラー映像媒体ではそれがグロテスクなまでに強調されている)。 暗い廊下を歩く押上の姿は、飛び飛びに断絶してアニメーションされる。「なつかしい」という幻聴が響く。原作と同様にアニメ版でも、窓外の木々は深く稠密な影として描かれ、押上に襲いかかってくるかのように包囲している。その密度は、単なる絡まりを超えた、深い澱みのようでもある。深夜の階段踊り場のカットはアニメ版のアレンジ。

 (13:20-)またもや伊吹世代の回想に立ち返る。住吉の視点である。1年目の終わり頃、岡部が退学した直後である。噂は即座に広まって、伊吹を孤立させている。因果応報でもあるが、しかし同時に虐めの構造そのものがずっと再演され続けているということでもある。元取り巻きの住吉も声を掛けられずにいる。当事者であれ、傍観者であれ、その静かで匿名的な状況には、濁った共犯関係があると言わざるを得ない。伊吹と押上はもちろん、その世界を離れて何十年も経った住吉も、淡島に関わるたびにその陰惨な側面を思い出さざるを得ない。
 そして住吉は、文化祭という特別公開の日に、淡島の学校にふたたび足を踏み入れる。海岸と緑の岩壁に挟まれた狭い道路は一見すると朗らかだが(アニメ版独自)、同乗している軽薄な母親のせいもあって住吉を居心地悪くさせている。
 淡島の校庭には、冬枯れの大樹が根を張り、枝を大きく広げ、その影を地面にまで伸ばしてこの学校を支配するかのように屹立している(原作では常緑樹のように描かれていたが、アニメ版では落葉状態である)。そして、友人どうしだった押上と再会したとき、「伊福部」ではなく当時の「住吉」に戻る。再会した彼女たちの背景にあるのは、枯れ木ではなく、常緑樹の緑である。懐かしさの感情を受け入れた押上。彼女が両手を伸ばした先には、青空と若葉繁れる木々のイメージがある。

 (15:20-)文化祭が特別な日であるとともに、ステージ上の表現世界も特別な空間である。演じられている『ロミオ』はまさに「古き遺恨は 新しき不和を招き 血で血を洗う 忌まわしき物語」として今回のエピソードに重ね合わされているが、現世代の竹原たちはそれを芸術的な舞台パフォーマンスを通じて力強く昇華する。ただしそれは同時に、無情な行為であるかもしれない。目にも鮮やかな青葉に囲まれて、理想的な幸せの中にいた小学校時代の竹原と上田の姿。
 上演が終わり、竹原の伯母(岡部の友人だった悦子)が感激の言葉を送っている。冬季ではあるが、緑の低木がそこここに茂っており、周囲の木々もここでは深い緑に満たされており、枯れ木はどこにも存在しない。
 (17:20-)観劇に来てくれていた上田とも再会し、二人は手を取り合う。上田は、ためらいなく気遣いのマフラーを掛け、その一方で竹原は、小学校からずっと同じままだった髪型を変えて、ついにスターへと大きく成長しつつある。ただし、二人の間にまったくわだかまりが無いわけではない(錆びた鉄柵やゴミ箱のメッシュ)。さらに、上田の背後には、まだわずかに枯れ木立の執着が残っている。上田の温かな心遣いに包まれながら、広い水面へのデビューを眼前にしている竹原。水面をアジサシが飛ぶ(※湾内風景も、OP由来のアジサシも手を振り伸ばす劇的なモーションも、アニメ版独自)。会話を進めるとともに、アニメ塗りの素朴な現実から、淡彩の画面とともに繊細で柔らかな空気が次第に立ち現れてくるが、しかしその懐かしい思い出を超えて彼女たちは現実に戻る。ロミオとジュリエットの悲恋のように、二人は同じステージに並び立つことを止めて、そして一緒にいないことについてそれぞれがずっと考え続けてきたが、「今日来てよかった」と言えるまでになった(『ロミオ』のイラストを挿入したのはアニメ版独自)。
 「自分を苦しめるのは~」は、上田の台詞、それに続く「吹きだまりの底にあるのは~」は、住吉の声。「はやく楽になりたい」はふたたび上田、そして「楽になりたくて~」は住吉のモノローグ。原作漫画でも二人の台詞が交錯するように構成されているが、アニメ版の音声はそれをさらに明確化している。
 二人だけの世界から、竹原はふたたび社交の場に戻る。後輩との関係も良好である。「なつかしい」は、上田が電話口で漏らした言葉だが、今の竹原たちはもはやそれに引きずられることなく、目の前にある現在の関係をより良いものにしていけるだろう。

 (21:10-)しかし対照的に上の世代は、淡島に執着しつつその吹きだまりにとどまったり、わだかまりを抱えたままであったりする。枯れ木立に画面の半分を覆われて、さらに重苦しいコンクリ柱と無機的な庇に押しつぶされそうなレイアウトで、伊吹と住吉が再会する。彼女たちはもはや取り戻せないものに囚われたままであり、懐かしさもそれを解決することができない。

 (22:40-)暗闇の廊下から呼ぶ声がする。しかし堀内は、透き通るようにきれいな青空と鮮やかな緑の世界に向かっている。亡霊の声から逃げ出すのはスマートな対処とは言いがたいが、この世代のおさげ少女はそれに囚われることは無いだろう。