2026/07/02

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第5話

 第5話「大久保あさ美/浅香みどりと浅上レオ」

 大久保のエピソードは、原作漫画の3巻14-16話(50ページ強)。浅香の方は、4巻21話の比較的短いストーリーである(わずか16ページ)。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテは渡邉こと乃、演出は田部伸一。田部氏は第10話の演出も担当する。原作漫画の構成に則しつつも、効果的な視聴覚演出が盛り込まれている。


 【 Aパート:「大久保あさ美」 】
 (00:00-)アバンタイトルは、第1話でも田畑の視点から触れられていた、共同浴場のシーンから始まる。アニメ版では、かなり激しく落涙している。メインタイトルは、青くゆらめく湯船のアニメーション(この水面のカットも、例によってアニメ版独自で、このエピソードの中で繰り返し現れるライトモティーフである)。彼女の浴場嫌悪は、全ての意味があらかじめ他人の手によって誂えられている場への、すでに他人の身体で充填されてしまった場への、そして逃れようもなく他人の体温から影響されねばならない息苦しい場への反発だ――少なくとも表面上は。しかし、この青く清らかな水面は、彼女自身の内発的なパワーによって新たな意味で塗り替えることができるかもしれない。

 (01:50-)「大久保あさ美」一人のサブタイトルのイラストは、原作漫画の中編(15話)の扉絵と、本編中のコマ(3巻13頁)を組み合わせたものである。
 大東先輩の机の前のコルクボードには、淡島関係とおぼしきポストカードと並んで、実家の犬の写真も貼られている(アニメ版独自)。このことからも、人なつっこく情愛豊かな人柄が見て取れる。

 (02:40-)大久保自身の回想が始まる。電線を張り巡らせた空や、水道の蛇口は、大久保家が「宗教の家」であることが周囲に噂として知れ渡っているという趣旨だろうか。それなりの規模の比較的マイナーな宗教のようではあるが、搾取的なカルトであるかどうかは分からないので、「カルト」云々はもしかしたら、思春期にありがちな強迫的妄想にすぎなかったのかもしれない。カレンダーは、日曜日が右端にあるという、やや珍しいレイアウト。

 (03:10-)さらに時間は遡る。母親に駄々をこねる少女あさ美の姿は、可愛らしくアニメーションしているが、全体としては原作漫画のレイアウトや表情を踏襲している。滴り落ちた水滴の波紋も、送電線演出がくりかえし使われるのも、噂の広がりに対する、大久保の恐怖を示唆する(とりわけ盥はアニメ版独自)。こうした環境下で、小学校(おかっぱ)から中学校時代(お下げ)へと彼女は成長していく。漫画版では、消沈して佇む彼女の一枚絵だったものが、アニメ版では後ろ姿のクラスメートたちがどんどん消えていくという、大久保の喪失恐怖を視覚的に強調している。

 (05:00-)梨を包丁で真っ二つにするカットは、意味がよく分からない。後で言及されるように、大久保は中学受験をして、おそらく進学校に通っていたので、一般的な進学コース(おそらく系列高校に持ち上がり進学できる)ではなく淡島受験を目指すのは、彼女にとっては思いきった一大転機の決断だったということだろうか。ほとんど逃避のような動機から淡島を目指した大久保が、そのまれに見る歌唱の才能をもって、後にスターとして大成することになろうとは、なかなか数奇な巡り合わせである。
 電柱と電線のカットによって、宗教団体内部の情報ネットワークの暗喩が執拗に繰り返され、そして彼女の淡島受験までもが「先生」からの合格祈願の御札によって先回りされてしまう。このシーンでも、壁のカレンダーがフレームインしている。おそらく両親はとても勤勉な性格であり、そしてそれは信仰活動にも発揮されているのだろう。彼女の心は、真っ黒に濁った水に浸されるイメージに囚われる。アニメ版が導入したこれらの小道具演出とともに追い詰められていくが、孤独な枯れ葉は幸いにも大空へ舞い上げられ、大久保は淡島歌劇学校に合格する。
 ただし両親は、発表現場には同行してくれず、「先生」への感謝と報告を優先する。アニメ版が、桜の校庭にひとり小さく佇む大久保のカットを用意したのは、あまりにも適切なコンテワークである。桜の花びらは素っ気ない落下軌道を取り、ふたたび彼女は黒い沼に絡め取られる。こうしたディテールの追加もアニメ版の繊細な映像処理である(漫画では黒ベタのモノローグ)。
 偶然にも、幼い頃に宗教団体内部の演劇イベントをしていた旧友と、淡島で再会する。熊谷のカットが緑豊かな木々を背景に描かれていることから、この時点で熊谷自身には何の害意も下心も無かったのだろう。しかし熊谷の存在は、大久保にとってアンビヴァレントなものとなる。一方では、両親の信仰を気にしていなかった、「平和だった」時代の交友関係そのものであり、しかもおそらくは最初の演劇体験を共有した仲間であり、しかし他方で、淡島に入ってまでも追いかけてくる宗教の影でもある。それは大久保にとっての不幸になってしまった。アニメ版のコンテがくりかえし映す送電線は、いまや明らかに不穏な曇り空の下で、積雪に冷たく強張っている。表面上は熊谷の会話に付き合うが、大久保の目はハイライト(瞳の輝き)を失っている。

 (08:50-)施錠された窓の下で、美しい星々を遠く臨みながら電話する大久保。窓枠を強調したカットは、これもアニメ版オリジナルである。足下から横顔、仰角、俯瞰と目まぐるしく不安定に位置を変えるカメラが、大久保の激発を捉える。大久保が立っているのは、牢屋のような格子枠によって囲まれて真っ暗なものしか見えないただの行き止まりの袋小路であると、アニメの絵コンテは、いやが上にも念押しする(この場面は、漫画では黒く滲んだ網掛けで表現されている)。
 視聴者にとっての救いとすべきは、この話数のコンテが同時に、かすかなユーモアの気配をも伴っているという事実である。長縄まりあによる芝居も、悲壮感にひたすら墜落していくのではなく、どこか優しくて冷静なブレーキを掛けているように聞こえる。同室の大東先輩の楽観的で享楽的なムードも、大きな助けになっている。
 ここまで大久保のきわめて私的な心の物語が、広々とした校舎の廊下ではなく、もっぱら寮内の木造廊下や浴場前で展開されているのも特徴的である。まだ授業が始まってもいない、おそらくまだ入寮初日の出来事だということでもあるが、彼女が淡島の校舎のパブリックな人間関係に入る以前の、実家との関係という身内の問題だけにいまだ囚われているためでもある。

 (11:20-)しかしそれでも、大久保はいずれ校舎廊下という生徒どうしの社会の場に出ざるを得ない。複雑に折れ曲がった螺旋階段の踊り場で、お互いに制服をまとって、外からの光に照らされながら、あらためて熊谷と話し合う。この踊り場は原作漫画の中でも描かれているが、アニメ版でも様々な場面に活用されていく。屈折した場所。見通しのない場所。上ったり下りたりする場所。途中で立ち止まる場所。自分の方向を変える場所。廊下というアリーナに対する隠れ家。等々。
 大久保の泣き顔が、青く三分割されるのは、原作漫画のコマ組みレイアウトを再現している。ただし、漫画では時間継起とともに自分の心を決めて、上がっていく運動を示していたが、アニメ版ではむしろ心の分裂のように見えてしまう。この箇所は、演出が的を捉えそこなったように見える。
 そして、絡み合った電線のイメージを最後にもう一度映して、そのはるか上を行く雲の流れを示唆したところで、二人の会話は終わり、大久保はようやく視線を前に向ける。

 (13:10-)夜。大久保は同室のフレンドリーな大東先輩に向けて、初めて自分から、自らの家庭背景を告白する。ネットワークによる一方的で受動的な拡散ではなく、自発的で個人的に、自らのアイデンティティ形成の一端を、他者に向けて開示する。
 階段の踊り場に隠れる必要は、もう無くなっている。宗教活動が記されたキッチンカレンダーではなく、 淡島でのトレーニングのカレンダーが、彼女の前にある。そして歌のレッスンで、堂々と前を見据えた大久保がクラスメートたちの前で発する言葉は、廊下にまで響き渡り、そして(第1話で描かれたように)人々を魅惑する。泣き声を響き渡らせたときとは異なって、水面はもはや濁っておらず、むしろ彼女自身の透徹した歌声とともにあるかのように揺蕩う。
 大久保は田畑たちと、生涯に亘る交友関係を自力で築き上げるだろう。そして、彼女の机に置かれている両親の写真は、もはや彼女の心を怯えさせることは無いだろう(家族写真のカットも、アニメ版オリジナル)。ただし、漫画版では、クマのような可愛らしい耳付きスマホケースを使っていたが、アニメ版では時代設定(2005年)を反映した折り畳み携帯に置き換えられてしまったのは、原作読者としては少しだけ残念かもしれない。


 【 Bパート:「浅香みどりと浅上レオ」 】 
 大久保のエピソードとともに、この浅上のエピソードも、淡島歌劇史上の天才を取り上げている。どちらも当初は思春期的な挫折や葛藤を抱えつつ、最終的には自身の実力と努力によって、大きな成功や確かにアイデンティティを確立することになる。その点で、他のエピソード群とはかなり毛色が異なっている。また、どちらも単一キャラクターのサブタイトルであるという点でも特徴的である。

 (17:00-)アニメ版は、司玲於奈を頌える満開のフラワースタンドから始まり、そして司玲於奈主演のステージを魅力いっぱいに披露する。それ以降の絵コンテは、ほとんど漫画版をなぞっているが、ところどころに動画の振り付けを加えたり、あるいは背景の鉢植えを描き足したりしている。雑誌インタヴューの記事によれば、司玲於奈は「淡島のトップスター」として広く認められた存在である。時代設定としては、おそらく1980年代(竹原や田畑が生まれたあたりの年)かと推測される。
 時代設定の矛盾(?)について。このときの司玲於奈公演のポスター『ME And My Girl』は、2005年に柏木たちが観劇したものとまったく同じデザインである。しかし、同一の公演だとすると、このとき司玲於奈の表現世界に感動した幼い浅上が、翌年にはもう『エリザベート』で主演して田畑の母を感激させていることになってしまう。なので、これらを同一の公演は見做すことはできない。過去の名作を再演するリメイク版ポスターか何かだという理解に留めておこう。詳しくは別掲の年表記事を参照せられたし。

 (19:50-)合格発表日の、校舎に満開の桜が掛かっているカットは、大久保のエピソードのときとまったく同じ絵を使っている。作中の時間にして、おそらく10年以上の懸隔があるのだが、どの時代でも合格発表の雰囲気は変わらないということでもあり、また、見慣れたカットによる一種のノスタルジー感も生まれる(アニメ版独自の絵)。同様に、校舎を斜めに映したカットや、屋上風景、そして階段の踊り場や中央廊下も、年月を経ていつまでも、歌劇学校の生徒たちとともに存在し続けている。
 浅上が新人公演の主演を射止めた『ME And My Girl』は、上記のとおり、まさに司玲於奈の大舞台と同じタイトルである。浅上ヴァージョンのスナイブスン演技は、アニメ版で新規に描かれたカットである。最初は憧れから出発しつつも、「誰の真似でもない わたし自身の芝居をすること」に真摯に向き合った役者は、司玲於奈と並び立つのになんら遜色ないトップスターとして大成した。