2026年8月の雑記。
2026/08/18
アニメ雑記(2026年8月)
2026年8月の新作アニメ感想(※だいたい第5~8話あたり)。
『キャラメリゼ』(現時点での評価は80点)、『クレバテスII』(70点)、『グロウアップショウ』(70点)、『さよならララ』(85点)、『ジャードゥーガル』(80点)、『透明な夜』(75点)、『BLACK TORCH』(70点)の7本を視聴継続している。『手札が多め』(70点)は第9話できれいに完結した。『ふつつかな悪女』(70点)は後追いで視聴開始。『ダンシング』は、演出(構成)が下手すぎるのでおしまい。『対あり』も、耐えがたい問題発言があるため、視聴を止めた。
2026/08/17
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第10話
第10話「知恵」
前話の続き(原作第19話の末尾)から、20-21話の全体と、第22話(4巻9頁まで)の最初までを描いている。時代はひきつづき1232年の秋。
サブタイトルは、モンゴルの活動が軍事(武力)から統治(知恵)へと移行しつつあることを示唆し、また同時に、幼き主人公がムハンマドから受け取った「知識の価値」を思い出したことにも掛けている。
脚本は佐藤寿昭(第3、6、8話も担当)。今回の絵コンテ&演出&レイアウトは、前場健次(本作では初参加。他作品では作画監督レベルの仕事も多数引き受けている)。そして「絵コンテ協力」として藤倉拓也もクレジットされている(第1-2話を担当)。大筋は原作漫画とほぼ同一だが、この回では台詞レベルでの状況説明の補充や、画面レイアウトの刷新による印象的な絵作りなど、アニメ翻案版ならではの創意が良く発揮されている。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第9話
第9話「天(テングリ)」
前話の続きから、原作漫画の第18-19話をほぼそのまま描いている。時代はひきつづき1232年初頭から(※作中では明示されていないが、史実では同年10月にトルイが死去している)。
サブタイトルは、天命を問う儀式――今回2度挙行されている――に掛けている。
脚本は井上美緒(第4、7話も担当)。絵コンテ&演出は松永浩太郎(第6話の演出も担当)。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第8話
第8話「大カトゥン ボラクチン」
原作漫画の第15話の続き(3巻22頁)から17話の終わりまで。時代はひきつづき1230年から、翌1231年に金国侵攻が開始された頃まで。
サブタイトルは、今回の実質的なメインキャラクターを指している。
脚本は佐藤寿昭(担当話数はこれで3つ目)。絵コンテ&演出は村越麻海。本作の制作会社サイエンスSARUの社内クリエイターで、キャリアは比較的若いものの、いくつかの作品で作画監督も務めている。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第7話
第7話「兄弟」
原作漫画の第13話の途中(2巻131頁以下)から、第15話の途中(3巻22頁)まで。時代はひきつづき1229年から、翌1230年まで。
サブタイトルは、今回描かれるチャガタイ-オゴタイ-トルイたちの状況をストレートに示唆している。
脚本は井上美緒(第4話も担当した)。絵コンテは安部祐二郎とNicholas McKergowの連名。安部氏は第3話も担当している。McKergow氏は若手のアニメーターで、ネットにはオーストラリア出身との情報もある。演出も安部氏。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第6話
第6話「メルゲンの民」
原作漫画の第11話から、第13話の途中(2巻133頁)までを描いている。時代設定は1229年だが、後述のように1204年頃の出来事を回顧している。
サブタイトルは、メルキト族の異名(あるいは名前の由来)の「メルゲン(=弓の名手)の民」から取っている。
脚本は佐藤寿昭(3話、8話も担当)。絵コンテは安藤雅司。複数のジブリ作品で作画監督を務めた実力派で、主に劇場アニメ制作で活躍しており、クール制TVアニメでの仕事はかなり珍しいようだ。しかしその力量は、この話数でもシャーマンの踊りで発揮されている。演出の松永浩太郎は、他の作品でも演出家としての仕事が中心のようだ。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第5話
第5話「蛇のまだらは外側に 人のまだらは内側に」
原作漫画の第9話と第10話を扱っている。時代は1229年のオゴタイ即位直後からの動きを扱っている。
サブタイトルは、モンゴルの俚諺であるらしい。
脚本はふたたび加藤還一。絵コンテは笹木信作。90年代ジブリでアニメーターを務め、その後多数の作品で絵コンテの仕事をしているようだ。演出の石郷岡範和は、2010年代から活躍中。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第4話
第4話「炉の主(オッチギン)」
原作漫画第7話の途中(1巻166頁)から、第8話の終わりまで(単行本第2巻)。1221年秋のモンゴル本拠地から、1229年の第二代皇帝即位までをカヴァーしている。
サブタイトルはもちろん、当主となるべき末弟の地位のことだが、その「オッチギン」が即位しなかったという意外性にもつながっている。
脚本は井上美緒(第7話も担当)。近年でも『不器用な先輩。』(2025)など、いくつかの作品でシリーズ構成を務めているクリエイターである。絵コンテ&演出は霜山朋久(第2話の作画監督も務めている)。90年代からのキャリアがあり、『SANDA』などの監督経験もある。
2026/08/16
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第3話
第3話「消しえぬ炎」
原作漫画の第5話の最初から、第7話の冒頭(1巻167頁)まで。1221年の春頃の連行途中から、同年秋にモンゴル本国に到着するまで。
サブタイトルは、原作134頁の「こんな火で焼き消されるものか」という決意から取られている。
脚本は佐藤寿昭(6話と8話も担当)。2010年代からのキャリアがあり、『貴族転生』(2025)ではシリーズ構成も務めている。絵コンテ&演出は安部祐二郎(第7話も担当)。『この素晴らしい世界に祝福を!』(第3期)などで監督経験もある。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第2話
第2話「サファルに咲く薔薇」
原作漫画の第2話の途中(1巻54頁あたり)から、第4話の終わりまで。1221年頃のモンゴル軍襲来から、モンゴル本国へ連行されていく過程を描く。
サブタイトルは、原作第2話冒頭のエピソードから取っている。満開を迎えられずに、2月(サファル)に咲きかけたまま終わってしまったバラのイメージが、主人公たちの境遇に重ねられている。
今回の脚本は、前回に引き続いて加藤還一。絵コンテは山田尚子総監督。演出は山田尚子と藤倉拓也(※藤倉氏も、第1話からの連続)。
『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第1話
第1話「天にあるもの 地にあるもの」
原作漫画には、各話タイトルは存在しない。このアニメ版第1話のサブタイトルは、原作で主人公が学んでいるクルアーン「天にあるもの 地にあるもの すべては アッラーに属す」(単行本1巻30頁、同36頁)から取られている。アニメ第1話(第1幕)の内容は、原作漫画の第1話から、第2話の途中(1巻60頁あたり)までを翻案している。作中の時代設定は西暦1213年から始まり、この話数の中では1221年のモンゴル襲来までを描く。
今回の脚本は、シリーズ構成の加藤還一(敬称略、以下同様)。絵コンテ&演出はAbel Gongora監督、さらに演出補佐として藤倉拓也がクレジットされている。加藤氏は第2、5話も担当しており、藤倉氏は第2話でも演出担当している(山田総監督と連名)。
【 はじめに:原作漫画のアニメ版の違いについての総評 】
このアニメ版の特質について、あらかじめ概観しておく。漫画媒体とアニメ媒体の主要な違いは、レイアウト、色彩表現、音声/音響表現、時間表現(動画表現)、話数編成である。このアニメ版は、大筋では原作漫画の進行に即しつつ、それぞれの局面で創意豊かな掘り下げを試みている。
レイアウトに関しては、漫画の小さなコマ絵とは対照的に、横幅の広い画面レイアウトを活かして草原の広大さを強調する絵作りが意識されている。縦のカメラワークを利用して、天の高さを表現する場合もある。原作のコマ絵に沿ったレイアウトもあるが、それを超えたアニメ版独自の視覚的再構築が丁寧に為されている。
色彩表現についても、モノクロ原作は時間帯表現が明示されていないことが多いが(せいぜい昼と夜)、アニメ版では明るい蒼天から、燃えるような夕暮れ、暗い曇天、そして美しい星空や月齢表現などを盛り込んで、個々のシーンの意味づけを深めている。とりわけ太陽光の象徴的表現や、松明の不気味なゆらめき、そしてテント内の明暗のコントラストなども、アニメ版の色彩デザインは丁寧な仕事をしている。イランやモンゴルの民族衣装も、もちろんカラフルに着彩されている。背景作画についても、あえてムラのある着彩を取り入れつつ、キャラと背景の間で一体感のある(それでいてきちんとキャラが立っている)塗りを実現している。こうして画面全体に美的な統一感を作り出しているのも、特筆に値する。
音声/音響に関しては、声優たちによる個々の台詞の解釈を論じればきりが無いが、主演関根氏の清らかな声色と復讐心の暗い内圧の間の異様なコントラストは現代アニメの中でもたいへんな聴きものである。アニメ版ではナレーションも、主人公役の関根氏が兼任しており、いわば回顧的なモノローグとしての性格も備えている。また、小清水氏の鮮烈な芝居も物語に深い説得力をもたらしている。劇伴についても、民族音楽風音階を利用しているかと思われる非-旋律的なBGMは、時には重々しく威圧的に、また時には軽やかに奏でられる。
映像媒体ならではのタイミングコントロールや、会話の間(ま)の取り方、そして騎馬アニメーションの躍動感、松明の存在感なども、アニメ版表現の強みである。カメラワークそれ自体は、それほど大きく動かしているわけではないが、上述のように空間的なレイアウトの再構築を通じて、情景ごとの迫真性を作り出している。
物語進行や台詞は、ほぼ原作のとおりである。ただし、ごくわずかに前後のシーンを入れ替えて整理したり、台詞のディテールをアレンジしたりといった比較的マイナーな変更は大量に存在する。追加シーンもあり、例えば冒頭で主人公がイランの街中を駆け回る長尺のシークエンスは彼女の生育した土地のリアリティを視聴者に印象づける。また、物語中盤の巫者ダイルの祈りは、アニメ版では山頂での踊りをたっぷり描き、中央アジアの精神文化を映像に定着させている。
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