2026/08/16

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第1話

 第1話「天にあるもの 地にあるもの」

 原作漫画には、各話タイトルは存在しない。このアニメ版第1話のサブタイトルは、原作で主人公が学んでいるクルアーン「天にあるもの 地にあるもの すべては アッラーに属す」(単行本1巻30頁、同36頁)から取られている。アニメ第1話(第1幕)の内容は、原作漫画の第1話から、第2話の途中(1巻60頁あたり)までを翻案している。
 今回の脚本は、シリーズ構成の加藤還一(敬称略、以下同様)。絵コンテ&演出はAbel Gongora監督、さらに演出補佐として藤倉拓也がクレジットされている。加藤氏は第2、5話も担当しており、藤倉氏は第2話でも演出担当している(山田総監督と連名)。


 (00:00-)レイアウトはおおむね原作漫画に寄せているが、松明の炎を映して、天幕外の草原と星空へつなげるのはアニメ版独自。アニメ版は、空間的な広がりや色彩的な豊かさを強調する傾向にある。主人公がめくっている書物のディテールも原作由来。ナレーション(モノローグ)は、主人公=関根明良自身による。
 時代設定は西暦1213年。主人公はおそらく、この時点で「小さな子」と言われるくらいなので、まだ10歳にもなっていない年齢だろう。それゆえ出生年は1204~1208年頃(9歳から5歳の間)と思われる。wikipediaやpixiv事典では1208年頃と指定しているが、ソースの解釈に問題があるため参考にならない。史実の彼女については、生年不明らしい。

 主人公が脱走している長大なクレジットシーンは、アニメ版独自。彼女が奔走するキャラクターであることを示しつつ、同時にこのペルシャの街の生活感を描写する役割を担っていると考えられる。BGMの朗唱の歌声もモスクの建物も、その地の地域文化を強く印象づけている(※残念ながら歌詞の内容は分からない)。シタラの鮮やかな深紅の外衣は、単行本カバーイラストに依拠しているが、もちろんそれ以外はアニメ版独自の色彩設計である。主人公以外の市民たちはおおむね低彩度で描かれることによって、彼女の存在が映像的に際立ったものになっている。 
 それに続くバザールエリアの風景も、原作では一コマで簡素に描かれているだけだが、アニメ版では、ファーティマ奥様たちが奴隷商会に向かうシーンとして位置づけつつ、ディテール豊かにアニメーションさせている(ファーティマ奥様たちの会話もアニメ版独自)。
 奴隷女性たちを紹介する商人との会話も、時間を掛けてより詳細な説明になっている。原作では「この女なんか掃除の天才です」くらいだが、アニメ版では料理得意、裁縫上手、口達者で話し相手に適任といった個別の紹介をしている。ファーティマの「亡くなった夫の遺品整理も終わってなくて」や、「名前がお星様なんて、素敵ね」といった補足説明の台詞も、アニメ版でフォローされている。奴隷商人は、原作では「タージル」だが、アニメ版では「アフマドさん」と呼びかけられている。名前変更の理由は不明。モブ奴隷の「アニース」という名前もアニメ版独自(これ以外にも、サブキャラに名前を与えている箇所がある)。
 作画に関しては、原作のコマ絵のレイアウトを踏襲したカットもあるが、ごく一部に留まる。基本的には、アニメ映像として自立した流れを持つように、アニメ独自の絵コンテで、キャラクターの所作の振り付けも表情豊かに作られている。例えば、時間経過について、原作漫画ではコマの間の大きな空白だけで表現しているところを、アニメ版では馬車の車輪、都市の遠景、建物の外観のカットによって状況の推移を視覚的に描写している。媒体に応じて表現の仕方が変化するのは、もちろん当然のことであるが。

 (04:50-)ファーティマ宅にて。インテリアはおおむね原作をベースにしているが、アニメ版は壁のターコイズブルーからカーペットの柄、そして窓から射す光の表現まで、様々な追加をしている。シタラが逃走を図って迷路のような屋内を駆け回るシーンも、アニメ版ではたっぷり尺を取って躍動感豊かに描いている。音響面でも、イラン音楽と思われるエスニックBGMが彩っている。
 ムハンマド少年との出会い。漫画原作では、少年から「髪も隠さずに」と言われるが、アニメ版では被り物を落としてしまった頭部全体が剥き出しになっている。ここで少年が金属製のアストロラーベ(天体観測等に使われた機器)を手にしているのも、アニメ版独自の追加要素。このあたりも、台詞回しは7-8割ほどは原作のままだが、細部の変更や台詞の加除などが施されている。噴水の流れるみずみずしい効果音も、この出会いのうるわしさを演出している(※原作漫画ではただの池)。 
 映像的な細部に言及するときりがないが、例えばここで少年に手を引かれて屋上に向かう場面では、原作では比較的小さなコマで引っ張られるだけだが、アニメ版はダイナミックなズーミングで描くことによって、主人公が新たな世界へと導かれる大きな変化であることを強調するように演出している。屋上からの広々とした風景カットや、レンズフレアを模した太陽の輝きの演出を入れているのも、同じ表現効果を目指したものと捉えられるだろう。

 (11:20-)働き始めたシタラ。原作では「夏」というキャプションが付されている。鼻歌のBGMとともに、亡母に髪を結ってもらった思い出のカットから、この邸宅での日常生活を描いていくくだりは、アニメ版の追加表現(食器洗い、ナン作り、イスラム教の礼拝、そして少年とともに星空を見上げ、伯父様から経典を学ぶ)。穏やかな中近東風のBGMとともに、少年と会話する。シタラが少年をやんわりとからかう口調なども含めて、アニメ版は音響的なニュアンスも掘り下げている(※これらはあまりに繊細でしかも膨大なので、本稿では一々取り上げることができないが)。
 ムハンマド少年がバラの花弁を手に取り、それが空に舞っていくシーンは原作と同じだが、アニメ版ではOP映像の中でふたたび印象的に描いて、知の高みを求める彼の美しさと、その少年一家との思い出を彼女が引きずっていることを示唆している。落ちた花弁を主人公が拾うカットは、アニメ版独自の追加。「ムハンマド様には追いつけないのよね」と、盥水に手を荒々しく突っ込むカットも同じく。

 (15:40-)ムハンマド少年の出立。主人公に向けて、「これからも学ぶことをやめないでね」と温かい応援の言葉が掛けられるのも、アニメ版の追加台詞。なお、細かな違いだが、「二人が顔を合わせたのは 生涯これが最後となる」のナレーション(モノローグ)のくだりで、原作は夜景の市街地として描いているが、アニメ版は日中の風景として作画しつつ、2羽の鳥が戯れるように飛んでいくカットとして作劇している。

 (17:00-)時代は1221年頃(※原作漫画もアニメ版も、「8年後」と明示している)。原作では、ここから第2話に入る。主人公は13歳から17歳くらいだろうか。ムハンマドからの手紙は、主人公シタラの声での読み上げから、途中でムハンマド自身の声に移行し、再びシタラ自身の声に戻ってくる。アニメ版の書庫シーンは、その暗さや蝋燭の明かりなど、明暗が強調されている。知(科学)が、世界の見え方を明るく照らすことが示唆されているようだ……とはいえ、後のシタラにとっては、こうした知識は偏執の対象になったり、謀略の道具になったりするのだが。アニメ版では、奥様の台詞「どれも『原論』にある普遍的な知識から導き出されたのよ」をせっかく追加しているのに、シタラはムハンマドの盥落下を思い出すばかりである(※原作漫画では、いわゆる宇宙猫のコマとして描いている)。
 威圧的に粛々と連打されるパーカッションは、モンゴル帝国を象徴する劇伴として今後も多用される。最後の「天への祈りの報いは、慈悲ではなく炎のみ~」のナレーション(モノローグ)も、アニメ版独自。そして、まさに炎を示唆するように、モンゴル軍の襲撃シーンは鮮やかなオレンジ色の風景として描かれる(※原作漫画でも、夕焼け雲とおぼしき描写はある。原作では初めての、左右見開きの大ゴマである)。モンゴル語の会話は、アニメ版の音声では実際にモンゴル語で収録されているとのこと。漫画では、二重フキダシによって他言語であることを表現している。

 EDとクレジット。
 先輩奴隷の金髪ズムッルドは、ニケライ・ファラナーゼが演じている。まさにイラン系の声優である。もちろん台本の台詞そのものは日本語だが、クリエイターのルーツを反映した配役として興味深い。
 モンゴル語台詞は、日本にいるネイティヴのモンゴル語話者(タレントの雨果、関取の玉鷲一朗と玉正鳳萬平)が担当している。


 【 小括と中間考察:アニメ翻案の意義と技術 】
 全体として、物語の流れはほぼ原作どおりであり、シーン構成の順序もほぼそのままである(※モンゴル軍の登場シーンだけは次回に回された)。しかし、個々の台詞は原作からアレンジされて、比較的自由に加除再編されている。また映像面でも、色彩設計から光源表現、キャラクターの振り付け(運動表現)まで、アニメ版独自の創造性が大きく発揮されている。音声芝居のニュアンスも、主演関根氏の粘つくような情念に満ちたモノローグを初めとして、視聴覚媒体ならではの迫真性を高めている。

 漫画からのアニメ翻案では、残念なことに、こうした媒体の違いを無視して漫画のコマ絵(レイアウト)をそのまま模倣するばかりの作品も一部に存在する。そうした作品では、映像的な流れを無視して、しばしば画面を止めたまま延々と長台詞を喋らせたり、説明台詞過剰なままだったり(つまり、「引き算の演出」をまったくしていない)といった問題を引き起こしている。翻案作品における無思慮な「原作への忠実さ」志向が、アニメ作品の足を引っ張っている悪弊は確かに存在する。
 それに対して、原作の流れを尊重しつつも、映像媒体(視聴覚媒体)としての特質を踏まえつつ、適切な再調整を施して物語の説得力を高めているケースも多い。また、小説や漫画の連載とは異なって、一クール12話単位の構成に組み直すうえでも、脚本(シリーズ構成)の役割は大きい。言い換えれば、原作とアニメ版を比較することによって、アニメ版スタッフがどのような演出的考慮によって翻案作品のクオリティを高めているかを検証することができる。そしてそれは、カラー映像と音響を利用しつつ、原作のポテンシャルを引き出すことにどれほど成功しているかという話でもある。
 筆者は本稿に先立って『淡島百景』についても、アニメ版各話を原作漫画と比較対照しつつ、アニメ版が映像の中でいかなる新たな意味づけを創出し、どのようなニュアンスを掘り下げているかを検討した。作品解釈のための手がかりを得るうえでも、また、映像評価のためのアプローチの一つとしても、こうした精読の手法には一定の有効性があると考えている。

 もちろん、映像演出も、漫画表現も、小説技巧でも、受け手がすべてを意識化しなければならないということではない。アニメを気軽に視聴して、その心地良くチューニングされた映像を楽しむことも、正当な楽しみ方の一つだ。ただし、そうした気持ちよさは、けっしてただ自然に出てくるものではないということも、私たちは理解しておいて良いだろう。絵コンテにおけるレイアウト構築やカメラワーク設計から、脚本レベルでの入念な調整、プロフェッショナルな声優たちの音声収録を通じて深められる台詞の解釈、色彩的な変化や光源表現のコントロール、そして劇伴(BGM)や効果音によって導かれるムードの変化に至るまで、視聴覚的な演出技巧の膨大な積み重ねのうえに、24分間の映像的感動が創出されている。