2026/08/18

2026年8月の雑記

 2026年8月の雑記。


 08/26(Wed)

 アニメ版『カムイさん』第8話で、ドリアードを演じている「桔梗」氏って誰だろう? 芝居を聴くかぎりでは、さぞや名のある声優さんであろうと思われ、声色だけでいうと海原エレナ氏に近い感じだけど、うーん、よく分からない。
 後藤麻衣氏が演じているのは、緑色ロングでビジネススーツ姿の鬼キャラ。


 【 和風ファンタジーのメモ 】
 和風ファンタジーの話は、以前にも書いたけど、1)現代ファンタジー、2)過去(近代以前)の史実ベースの伝奇、3)架空の和風世界のファンタジー、どれも存在する。
 1) 現代日本+異能ものは、少年漫画のドル箱と言ってもよいくらい大量にある(『デビルマン』以来の現代異能バトルもの)。一々挙げるまでもない。
 2) 歴史上の過去+超自然的要素は、忍者ものと陰陽師ものを初めとして、これまた大量に存在する。漫画(漫画化)だと『火の鳥』『百億の昼と千億の夜』から、今世紀に入っては『バジリスク』『鬼人幻燈火抄』『太陽と月の鋼』など。近年でも、女性向けジャンルに多数存在する(特に明治大正時代の異種族ロマンスや耽美オカルト、例えば『花燭の花嫁』『岩元先輩ノ推薦』など)。例えば九尾狐キャラも、数え切れないほど存在する。
 3) 架空の和風世界ファンタジーも、いわゆる「東方」世界の典型として頻繁に描かれる。完全に和風世界だけのタイトルでも、近年の『石神戦記』『竜送りのイサギ』など、人気作もいろいろ出ている。『辺境の薬師』にも、長大な和風国家パートがあった。アニメ分野では『陰陽廻天 Re:バース』『神統記』は、序盤で視聴を止めてしまったので中身は知らないけど。

 ゲーム分野でも、『大神』『SEKIRO』など、近時の人気タイトルにもいろいろある。海外製の『Ghost of Tsushima』にも、呪術という超自然的要素があるようだ(※未プレイ)。遡っても、『天外魔境』や『サクラ大戦』のようにシリーズ化したタイトルもある。むしろ00年代の沈滞(?)から和風ジャンルが大いに復興していると言ってもよいかもしれない。
 美少女PCゲームでも、『恋姫』『アトラク=ナクア』『うたわれるもの』の頃から始まって、『顔のない月』『九十九の奏』や『美少女万華鏡』『Nightmare』『神楽』シリーズのような大量の伝奇系タイトルがあり、現代異能バトルものの本格派『斬死刃留』や、幕末ファンタジー『機関幕末異聞 ラストキャバリエ』、過去転移ものの『戦国天使ジブリール』、日露戦争っぽいファンタジー世界の『亡国の戦姫』まで存在する。

 というわけで、SNSの垂れ流しで雑語りする前に、まずは事実(実例)をちゃんと渉猟してから展望に向かうべきなのだが……。モンスターはいなくてもいいけど、出そうと思えば妖怪(monster)はいくらでも出せるし。
 SNSの人たちは、本当にただ「点」(=ほんの少数の実例)を挙げるばかりの刹那的な話題乗りに浸かってしまっているのがなあ……。実例をつなげていくつかの分類をして、それらの特質の解釈を深めて、全体的な歴史展望と方法論的な枠組を結びつけるところまで行くのが本来は望ましい。つまり、点を繋げていくつもの線を作り、それらに厚みを与えて層を作り、さらに分野横断的な把握と経時的推移の視野を組み合わせた面を作り、そこから改めて個別作品を照射するための道具立ても作る(※私の上記の短い文章も、実例を挙げつつカテゴリー分類をして、それらに歴史的な広がりを与えるところまではなんとか述べている。ここからグループごとの系統立った分析に取り組もうとすると、書くべきことが十倍に膨れ上がってしまうので、手を出せていないけど)。


 そういえば、新井里美氏は『キルミーベイベー』のモブキャラなどを一手に引き受けていた方でもあるのか。近年では『nine』や『透明男』でも怪演を披露されていたが、『キルミー』の「あっさー」とか「ぬぷん……たぷん……」とかアイキャッチコールとかも、確かにこの声優さんならではのものだ……。何度も視聴していたのに、私の中で同一人物としてイコールで繋がっていなかった。


 例えば、「私がやるんだ」という台詞でも、「これはいずれ私がやることになるんだなあ」という場合と、「私こそがこれをやってやるぞ」という状況では、声優の芝居はまったく別ものになる。それぞれに強調すべきポイントが違っていなければいけない。とりわけ後者では、「私が」の部分に力を入れる(言葉を「立てる」)必要がある。
 しかし、後者の文脈の台詞なのに前者のようにぼんやりと発声するのは、まるで台本が理解できていない失敗演技だ。そういう拙劣な芝居しかできていない声優を、私は「大根」と呼んでいる。出演歴の華やかな人気声優の中にすら、残念ながらそういう手合いが何人もいるし、そういうのはしばしば声優雑誌の常連「アイドル」声優だったりするので、うんざりしている。
 これは声優個々人の問題だけではなくて、音響監督によるディレクション(修正)が利いていないということでもあるし、さらに遡って声優養成所のカリキュラムが有効に機能していないのではないかという疑念もあるし、ダンス練習などで声優たちに多大な時間を消費させるメディアミックス環境の負荷も悪影響を及ぼしている可能性がある。


 秋アニメのメモ。現時点で、85タイトルが掲載されている(※特撮や再放送は除く)。
 「2期」タイトルは17本、さらに3期以上や外伝ものが18本もあり、続編率41.1%は非常に高い。タイトル数は増えているのに……。これは、「当たったタイトルへの依存度が高まっている」とネガティヴに見るべきか、それとも「1期だけのやりっ放しではなく、長期的-計画的なコンテンツ展開が出来るようになってきた」とポジティヴに見るべきか……。
 それに対してオリジナル作品は、今期は『朱色の仮面』『Dark Machine』『バーテックスフォース』『楽楽飯店』の3本かな。

 女性主人公のタイトルは21作(全体の24.7%)。近年としてはおおむね平均的な水準。ただし、狭義の女性向けという観点では、かなり減っている。

 洋風ファンタジー作品14本+異世界転生系11本と、微増。まだまだ多いなあ。
 それに対して前近代中国スタイルのファンタジーは3本、現代日本のファンタジーは4本(プラス、オカルト/ホラー/妖怪ものが3本)。
 SFは11本もある。ただし、近未来ものやライトSFも含むが。歴史ものは2本、魔法少女ものも2本。さらに恋愛(学園ラブコメ)路線は6本、お色気4本、スポーツが5本などもある。まあ、これらはシーズンごとに多少の波があるのは自然なことで、上がった下がったで何かを論じられるほどのものではない。

 現時点での検討対象は、以下のとおり。
 『彼方から』(期待度55%)。少女漫画由来で、黒沢ともよ氏主演だが、映像が『天は赤い河』並の出来具合だったらつらいかも。原作もそこそこ長いので、最後までは行けないだろうし。ちなみに監督はかなりのベテラン。PVの出来は許容範囲内(中の下)だが、黒沢氏の発声がまるで朗読か何かのように平板なのが意外(※一音一音を押しつけすぎて、ライヴ感が無い)。
 『凶乱令嬢』(50%):漫画版は途中まで読んでいたけど、ちっとも暴れなくて、むしろアイドル活動が主軸になってダレたんだよね……。PVを見てみたけど退屈な出来だった。主演の井上(ほ)氏は、こんなに気の抜けた寝ぼけ芝居をするのか。がっかり。
 『幻想水滸伝』(60%):上手くいったらいいけど……大丈夫なのか? PVもピンと来ない。
 『佐々木とピーちゃん2』(55%):第1期も原作も知らないけど、黒セーラー服少女には惹かれる。福島監督は『ティアムーン』も担当していた。
 『俺にだけ甘い』(60%):キャストは良いけど、たぶん趣味に合わない。ティザーPVの演出も凡庸。
 『紫禁・御猫房』(60%):中国アニメからの吹き替え。PVを見るかぎりでは3Dっぽく、キャラクターのアクションはぬめっと動くばかりできれが無い。
 『ダンデヴァイン』(60%):ヒーローロボット+経営もののようだ。キャストも良い。しかし、今どきこんなネタをやる意味はあるのか?
 『信者ゼロの女神サマ』(65%):ちょっと変わった設定だが、物語展開はどうなるのかなあ。小野監督は『中堅冒険者の日常』などもディレクションしている方なので期待に上乗せ。ただし、PV等はまだ出ていないのに不安感もある。
 『世界最強の魔女』(55%):ファイルーズ氏がレギュラー出演のようだから、ひとまずチェック。PVを見たかぎりでは、テンプレ異世界コメディのようだ。主演の橘(杏)氏は今一つ。ファイルーズ氏、花澤氏、長縄氏が驚き役で叫びまくるようだ。
 『ゾンビさがしてます』(60%):色物枠……かと思いきや、世界崩壊後の緑化した廃棄都市で美少女たちがアドヴェンチャーするというありがちな路線のようだ。主演の根本氏は、ちょっとオーバーアクションが過ぎるので苦手(『瑠璃の宝石』も1話だけで断念した)。ただし、こういうストーリーが好きならば、楽しめるだけの一定のクオリティはありそうだ。
 『Dark Machine』(65%):バーチャロンのようなゲームもの。設定はガバっぽいが、沢城氏や杉山里穂氏が出演。映像はいかにもProduction IG派生型で、背景も含めてきれいにまとまっているのだが、3Dロボットが安っぽい(※ゲーム内のロボットという設定上、仕方ないところもあるのだが、質感も重量感もスピード感も見て取れないのは残念)。
 『TANK CHAIR』(50%):車椅子の殺し屋主人公。アジア的混沌都市の風景はかなり良く描けているが、それだけでは……。作画はおそらくフル3Dで、表情がのっぺりしているが、外連味のあるキャラ設定のおかげで多少緩和されている。
 『聖女であることをひた隠す』(55%):女性向けから。映像のクオリティはぎりぎり保たれているようだが、状況設定が作為的にすぎるし、物語がダレていきそう。漫画版の作者は、『サン王子』の漫画家さんか。
 『転生したら剣でしたII』(70%):第1期も楽しかったし、三木眞一郎氏が主演だし、井澤氏や速水奨氏も出演されるようだ。ただし、ここからはストーリーがちょっとダレるんだよなあ……(※漫画版は一級品のクオリティなのだが)。いっそ死霊編は飛ばしてもいいから、海洋国家クーデター編を丁寧に描いてくれたら嬉しいのだが。
 『とある暗部』(60%):キャストがすごいな! しかしそれだけで視聴するかというと……。このシリーズはほぼ未読/未見だし。
 『惚れ薬を依頼された魔女』(65%):こちらも女性向けの微温的な恋愛もの。小松氏主演。草川監督は、『なのは』シリーズや『幻影太陽』などを手がけている。
 『バーテックスフォース』(70%→50%):同監督の『ストライクウィッチーズ』並の映像になってくれるならば嬉しいが。キャストが素晴らしい。→キャラ作画が3Dなのにガッカリ。現代アニメでも3Dキャラは総じて表情変化が浅いし、振り付けも中途半端にヌメッと流れるので、映像として全然美しくないのよな……。どういうわけか、絵コンテも正面寄りの大人しいレイアウトを続けがちだし。それでいてアクションシーンだけは過剰にぶん回すのでアンバランスになる。
 『未亡人の雪女さん』(--):エロ系なので手は出さないが、北見六花主演だったりする。
 『百妖譜 京師篇』(--):配信が限定されるだろうから、たぶん視聴機会は持てない。
 『ホテル・インヒューマンズ』(50%):せっかくの羊宮氏レギュラーだが、あの第1期の出来では……。
 『マロニエ王国の七人の騎士』(65%):これも少女漫画系。楽しそうではある。佐山監督はベテラン。
 『最強装備と宇宙船持ち』(50%):ジャンクフード枠でチェックしているだけだが、キャストは良いんだよなあ……。ながはま監督はベテランの演出家。
 『野生のラスボス』(70%):第1期は充実した出来だった。小清水氏がひきつづき主演の筈。
 『弱気MAX令嬢』(60%):ストーリーが面白くなりそうならば、視聴してみるかも。
 『楽楽飯店』(65%):オリジナルアニメ。中華料理店の裏でマフィア活動をするようだ。
 『ロメリア戦記』(70%):漫画版が抜群の出来映えなのだが、アニメ版はどうなるかなあ。素人(歌手)をキャストに入れているのにかなり不安が……。白井監督は、3DCGディレクターとして経験豊富なようだが、序盤進行は映像化しても面白味が増すわけではないし。主演の根本優奈氏次第かな。

 うーん、無難な続編が多くて、全体的に小粒な感じ。もっと挑戦的な意欲作や闇鍋的なタイトルが出てきてくれると嬉しいのだが……(この夏で言うと『キャラメリゼ』『ジャードゥーガル』『ララ』のような感じで)。

 素晴らしい技量を備えた敬服すべき声優さんたちが、もしも差別的でゲスい作品に出演してしまったらどうするかという無残な踏み絵が、いくつか出てきそうだなあ……。この秋期についても、倫理的にいささか危うく見えるタイトルがあるし……。


 春先から漫画の積みが微妙に溜まっていたのをようやくほぼ解消できt……ん? 部屋の一隅にあるあの土嚢のような単行本の山はいったい何ぞ?(おばか)




 08/15(Sat)

 この夏アニメはずいぶん凸凹が大きくて、荒れ模様な感じなのかな。中堅クラスのタイトルに意欲作がたくさんあって多士済々なのだが、その一方で予想外の大ハズレも大量に出ているようだ。
 前者は、正統派少女漫画+特撮怪獣の『キャラメリゼ』を筆頭に、滋味豊かなオリジナルアニメ『さよならララ』、ユニークな絵柄で中世モンゴルの風土文物を情感豊かに描いている政治的復讐ものの『ジャードゥーガル』など、アニメ史全体の中でも珍しいであろう突出した個性を備えた作品がいくつも表れている。さらに、中国風世界をフィーチャーした近年の代表作の一つ『ふつつかな悪女』や、『攻殻』リメイク、映像を丁寧に作り込んでいる現代異能バトル『BLACK TORCH』、昭和30年代の美少女サーカス団という題材の選び方が非常に面白い『グロウアップショウ』もある。
 後者は、原作やコンセプト(素材)は良いのに、アニメ版演出が大失敗しているパターンが多い。こういうのは悲しい。ありがちな、「凡庸な原作を低予算でイージーに仕上げた」のならば諦めもつくのだが、ポテンシャルを活かせなかったケースはあまりにももったいない。


 ちょっと驚いた話。動詞「まぐわう」の未然形は、「まぐわわない」になるんだな……。「味わう」「賑わう」と同じ活用類型なので、文法上は確かにこうなるのだが、とある本で目にして、「……え? 『わわ』になるんだっけ? いや、合ってる。そうか、そうなんだな……」と。


 さて、せっかくだから今期も、『ジャードゥーガル』について原作との比較精読をやってみる。とはいえ、心情のドラマというよりは政治劇としての側面が強いので、あっさり軽めに書くつもり。そして、たぶん途中までで止める(※最終話まで律儀にやる必要は無いだろう)。
 第1話のコメンタリーは4700字、第2話は2500字と、幸いにも『淡島』のときの半分くらいの文字数でコンパクトに収まっている。第3話は1600字(累計8800字)。第4話は2000字、第5話も1600字、そして中盤のクライマックスの第6話も2100文字、第7話はわずか1300字、第8話は2500字(累計17700字)。このくらいなら手間も軽いなあ。

 とはいえ、この作品はそんなに好きではないんだよね……。例えば、知(科学)の位置づけがぶれているように見えるし、明らかに余計なシーンも散見される(※今後のための布石かもしれないけど……)。人々の出会い方もかなり恣意的で、露骨にご都合主義的だ。この漫画家の他の作品も、史実に追われてグダグダになっていたりレイアウトがあんまりきれいではなかったりする。特に『スムバト』は、第1巻を買って読んだら物凄くがっかりした。だから、そこまで評価されるほどのクリエイターではないと思っているのだが、しかしそれでもこういう意欲的なモティーフに取り組んでくれているのはありがたいし、ネタの着目の仕方も面白いのは確かだ。


 【 プロ声優の本領とは 】
 本職声優の価値は、台詞の解釈を掘り下げて、それを最善の形で伝わるように喋ってくれるスキルに存する。その意味で、素人(有名人など)がただ声を出すのとは別次元の――そもそも比較の俎上に乗せられないほどの――創造的な活動だ。
 もちろん、素人でも、音響監督から手取り足取りあやされて、台詞の意味づけを発声に乗るようにすることは可能だ。あるいは、私たち一般人が、アニメなどの物真似をしてそれっぽく喋ることも、ある程度はできるだろう。しかし本職声優たちは、そうした解釈の深みをゼロから自力で作り出すことができるし、監督たちが事前に想像/想定した以上の優れたアウトプットを作り出すこともできる。決定的に違うのはその点だ。
 そしてこれは、素人(有名人)がしゃしゃり出てきてアニメに声を当てることを強く非難しなければいけない理由でもある。「きれいな声」とか「存在感がある」とか「キャラに合っている」とか「リアルっぽい」といった的外れな正当化が図られる場合もあるが、視聴覚媒体としてのアニメ作品において、作品の形姿をもっと――最も――優れたものにするうえで重要なのは、台詞の解釈とその効果的な具体化(表現力)だ。この点を無視して「声優の価値」や「素人の声優挑戦の当否」を論じるのは、私見ではすべてナンセンスだ。
 (現実には、残念ながらプロの人気声優の中にも、言葉のニュアンスを掘り下げられない大根役者は少なからず存在するのだが、それはまた別の問題。)


 【 花言葉への疑問 】
 花言葉ネタは、いつも眉唾で見ている。ちゃんとした典拠も正統性も無いことが多いし、一つの花に対して複数の言葉が当てられている中で恣意的に選ぶこともできてしまう。なので、ご都合妄想トークになってしまう。
 もちろん、歴史的に特定の花に特定のイメージが被せられることはある(「オリーブ=平和」とか)。しかしそれは、「花言葉」という曖昧なカテゴリーとは無関係に扱う方がマシだろう。例えば「スイセン=narcissus(ナルキッソス)=自己愛」などは、ただ文字通りなだけだったりするし。また、日本国内のコンテクストで見ても、和歌などの歴史的-文化的な意味づけがほとんど反映されておらず、忌憚なく言えば「近代にでっち上げられた権威/マナー」のようなきわめて疑わしい形で流通してしまっている。
 先月の『淡島』記事でも、個々の花言葉への言及は完全に封じている。「たぶん絵コンテ/演出の人は花言葉を意識したんだろうなあ」という絵もあったが、そういう考慮を入れなくても十分に作品読解は成立するので。
 季節や土地柄を示唆する表現としても難しい。もちろん、植生を念頭に置いたディテールや演出もあるけれど、あまり有効ではないので。桜や紅葉、あるいはせいぜい菊や彼岸花くらいのメジャーなものでないと、なかなか投入しにくいだろうし、解釈の手がかりとしても説得力を持ちにくい。
 実際には、制作者たちは適当な花言葉を参照しつつ、どの花を描くかを選別しているという場合も多いだろうけど、しかしそれを解釈(受け手側の活動)に直結させるのは無理がある。

 同様に、宝石や月齢も、(作り手としても受け手としても)あまり拘泥しても上手くいかないと思う。満月をシンボリックに使うのはよくある手法だが、例えば、満月描写の3日後にまた満月を描いても、べつに構わないと思う。そうした場合の月はあくまで記号なのだし、創作世界=虚構世界において写実的-現実的な真正性を追求しても面白味はなかなか出てこない。ただし、現代ものとか、歴史ものであれば、もちろんディテール考証の一環として、作品の描写の説得力を増すことは十分あり得る。


 アニメ版『カムイさん』は、キャストだけはチェックしているが、第7話でまたもや「同一人物の複数名義による共演」をやらかしていた(今回は桃山氏。第3話では青山氏と友永氏)。
 作品それ自体としては、原作漫画は妖怪ネタの再解釈が切れ味鋭くて楽しいのだが、アニメ版は低予算の12分アニメで、残念ながら面白味は乏しく、けっして積極的に視聴したいタイトルではない。


 【 フィクションにおける障害(者)描写 】
 身体的障害を初めとする様々な社会的困難を、真面目な形で主題化している漫画作品は、もちろん多数存在する。『どんぐりの家』はその最も有名なものの一つだろうけど、その他にも、ざっと思い出せる範囲でも『透明男と人間女』(視覚障害)、岩明均『風子のいる店』(吃音障害)、『僕の妻は発達障害』(共同作者の一人が当事者)、そして新作『香穂ちゃんは顔がわからない』(相貌失認)など、前世紀から現代まで継続的に描かれてきた。私は未読だが、『アスペル・カノジョ』もこうした文脈でしばしば言及される作品だ。身体的条件が社会的不利や偏見に晒されがちという意味では、『133cmの景色』(病気が身体的成長が止まった)もここに含めてよいだろうか。私がよく知らないだけで、おそらくこうしたモティーフの大量に存在する(※さしあたり日本語の簡便なリストとして「障害を扱った作品の一覧」を挙げておく)。
 それ以外にも、現代ものの鬱病描写から、戦災で手足などを失った障害表現、さらには精神的衝動を吸血鬼などの比喩的状況に仮託したものもある。さらに、エンタメ(座頭市のようなアプローチ)、歴史もの(ベートーヴェン)、義足スポーツもの(そういう作品もある)、あるいはいわゆる難病もの(春琴抄など、いささか問題のあるものも多い)なども視野に入ってくる。眼鏡キャラが眼鏡をなくして困るのも、現実で言えば大変な苦境だ。

 障害をフィクションの中で扱うことについて。「現実に当事者が存在する社会的困難であり」+「遺憾ながら、かれらはそれに関して通常よりも大きな不利益やダメージを受けてしまっており」+「それゆえそうした心身の状態を描くときには、当事者の尊厳を重んじ、創作物がかれらに対する追加的加害をしないように努めなければいけない」。もちろん、障害以外の様々な社会的属性(例えば出身地や外見や、食事の好みや趣味や年齢、等々)についても、実在する個々人の尊厳のことは考慮しなければいけないが、現実に不利な立場に置かれてしまいがちな障害者の場合はなおさら、そうした考慮の重要性が高まる。もちろん、もっと積極的に、社会的エンパワーメント目的や、当事者の生活状況を広く知ってほしいという目的で、そうした作品が作られる場合も多いだろう(これもまた、他の社会的属性と同じことだ)。

 ただし、障害(者)が物語のコンセプトや本筋とどのような関係に立つかは、依然として両義的な問題に晒される。つまり、「1)積極的-主体的なエンパワーメント」~「2)価値判断には関わらないニュートラルの扱い」~「3)例えば『全盲の武人』のようなナイーヴなエンタメ的利用」~「4)難病感動ものなどの搾取的な扱い」のように、大きなグラデーションがある中で、障害要素がどのように扱われる(べき)かは一概には言えないからだ。
 明示的に作品全体の中心主題になっている場合は、議論の紛れは小さい。しかし、作品の中で従属的要素として扱われる場合には、いささか難しい問題になる。つまり、一方では、他人事としての搾取的な扱いになってしまう可能性がある。しかしその一方で、障害(者)が常にシリアスな主題にならなければいけないというわけでもない。例えば、関西出身のキャラや東北出身のキャラは、その出身に関してとりたてて物語の本筋とは関係がなくても、ごく普通に登場させてよいし、登場している。「元気」属性のキャラも、シャイなキャラも、眼鏡キャラも裸眼キャラもすべて同様だ。男性キャラも女性キャラも、青色が好きなキャラも赤色が好きなキャラも、ガーデニング趣味のキャラも旅行好きなキャラも、どの国籍のキャラも、ストーリー進行との関わりなく描写されてよい。
 しかし、障害キャラだけが、物語にとってその障害が関わるべき必然性を求められるとしたらどうか。それは一面では、障害を安易に扱わないという節制のために機能しうるだろう。しかし同時に、「障害者は、特別な役割が無ければ登場してはいけない」、「この障害は、こういう社会的機能と関係していなければいけない」という作用を持ってしまう。つまり、イメージの押しつけを、社会的なステレオタイプ化を、特別な「意味(有用性)」負担を、そして「理由が無ければ障害者を登場させてはいけないのか」という抑圧を、障害(者)に課してしまうことになる。このようなジレンマも、フィクションにおける障害(者)描写の評価に際しては、慎重に考慮すべきだろう(※もちろん人種や体格などについても、同じ構造が当てはまる)。



 08/13(Thu)

 【 カプセルトイ:趣味性と経済をめぐって 】
 カプセルトイ論議については、「品質」、「商品価格」、「射幸性」という3つの側面があり、それらを区別して論じることで見通しが整理できるだろう。以下、私見ながら。

 1) 品質。300円なり500円なりの価格にしては非常に出来が良く、ちょっとしたアクセサリーとしても楽しいのは確かだ。根付や携帯ストラップといった既存の慣行とも親和的なので、人気が出るのは理解できる。これについて、「射幸性に目をくらませているだけの短絡的なガラクタ」のように語っている人たちを見かけるけど、それはさすがにトイとしての価値や面白味が見えていないように見受けられる。
 ここで重要なのは、カプセルトイの楽しみはギャンブル性(だけ)ではなく、グッズとしての魅力そのものにあるという視点だ。これほどまでに多種多様で選択の余地が大きく、それでいて商品内容が確定しているわけではないという不確定性も伴っているのは、娯楽として優れている。ちなみに、ここでいう「不確定性」は、ギャンブルのことではない。例えば料理趣味が、どんな味わいや見た目に出来上がるかが不確定であるが故に楽しかったり、旅行でどんな体験が出来るかのゆらぎがあったり、プラモデルがどのように完成するかが完全には予見できなかったりするのと同じことだ。

 2) 商品の価格。ショッピングモールなどにカプセルトイコーナーが増加しているのは確かだ。言い換えれば、ワンコインショップ並の低価格商品ばかりが場所を席巻しているということだ。これは、消費者たちの購買力の縮小を反映したものだと捉えるならば、非常に物悲しい風景になる……部分的には確かにそうだろう。DAISOなどの100円ショップが各地に乱立するようになったのは、00年代あたりだっただろうか(?)。そこからさらに悪くなっているのは確かだ。
 ただしそれは、カプセルトイ産業のせいではない(製造会社や出店者の倫理的問題ではない)。あくまで市場の問題であり、経済の問題だ。目の前のカプセルトイだけを憎悪しても、根本の問題は解決されない。その点を見誤ってはいけない。
 また、ランダム数種の中から目当ての対象を引こうと思ったら、数千円くらいはすぐに飛んでいく買い物でもある。一個だけの単価を見て「安い買い物だ」と考えるのは、それ自体、商品の性質を見誤っている(※ただし、これは射幸性に煽られた場合に限った話であって、一概には言えないが。これについては次節で後述)。
 なお、カプセルトイのテナントが相次いでいるのには、出店サイドの事情もあるようだ。つまり、高額な設備投資をしなくても、すぐに店舗運営が始められるらしい。フロアスタッフも極小人数でよい(一人いれば済むし、無人コーナーすらある。まあ、無人店はトラブった時の返金処理が大変だし、基本的に「見えている地雷」だけど)。

 3) 射幸性。個人的には、カプセルトイのメカニズムに対して、ギャンブルの楽しみは感じていない。基本的には、「ランダムの中のどれが出てきても良い(あるいは確率的に我慢できる)と思える場合にだけ回す」くらいの意識だ。もちろんハズレを引いてしまったら悲しいが、それはギャンブルの浮き沈みというよりは、ただ単にランダム性に含まれるネガティヴ要素にすぎない。だから、これを刹那的な賭博性(射幸性)に煽られたシステムのように語っている人たちの意見には、私としてはあまり首肯できない。
 しかし、比較的高額な――といってもせいぜい千数百円だが――のものもあり、当たりがごく少ないものもある。そうした場合には、射幸性の契機が発生している場合もあるだろう。しかし、そうしたことを問題にするならば、カプセルトイよりも邪悪な類似ビジネスはいくつも存在する。例えば、「一番くじ」スタイルのものや、ゲームとしての公正さが疑わしいクレーンゲームや、ランダム性のある「トレーディング」グッズや、オンラインゲームでの「ガ○ャ」システムなど。それらの方がはるかに、消費者の理性を失わせる邪悪なシステムだし、価格や規模も大きいし、倫理的にも「賭博」に近い。
 ちなみに、トレカショップにも類似の問題があるかもしれないけど、私はTCG分野は詳しくないので立ち入った評価はできない。

 歴史の話もすると、カプセルトイそれ自体は、2000年頃にはすでにかなり普及していたよね。店舗内の空いたスペースを有効利用できるもので、商品のあり方としてはそこそこクラシックなものだ。もちろん、それが何百台も大量に並べられているだけの近年の商業空間は確かにグロテスクなのだが、繰り返すように、経済が縮小して所得が減少して、テナントで入ってくれるような新事業が出てこない状況下で、その隙間に入り込んで出店しやすい形態の事業がたまたまカプセルトイだったというだけであって、別のブームになっていた可能性もある(例えば、回転の早いファストフードとか、受けの良い観葉植物とか、時計やジュエルなどのグッズとか、リサイクルショップとか?)。

 というわけで、例のカプセルトイに引っかけたディストピア論は、実態を知らない素人による牽強付会な空論っぽいなあと。


 【 物語を完結させることについて 】
 「最近の作品は、終わらせ方が上手くない、あるいは物語を上手く締め括るノウハウが発達していないなあ」というのを、ぼんやりと感じている。あくまで印象論だし、最近の話に限ったわけでもないだろうけど。
 漫画は、過剰な引き延ばしと不本意な打ち切りの間で、あまりにも多くの作品が失敗し続けてきた。そもそも漫画家としては、飯の種を「終わらせる」ことに消極的だろう。
 ノヴェル分野も同様で、とりわけ10年代以降のネット小説は、結末までの全体展望を欠如したまま続けられていることが多い(※ただし、近年の女性向けでは、エンディングまできちんと構想した中規模作品が増えているようだ)。
 原作付きのアニメも、1クール(12話)の範囲内でできるところまで映像化して、適当なところで物語を放り出してしまうという無責任体制だ。2クール以降を続ける場合も、基本的には同じだ。
 ゲームだけは例外だったが、MMORPG以降のオンラインゲームでは、作品のエンディングというものが本質的に存在しない場合がほとんどだろう。

 そうした状況下で、コンテンツの終わりがいよいよぎこちないものになっているように感じる。一方では、物語を締め括る創作ノウハウの欠如(未発達)。その一方で、作品のディテールが精緻化しているため、筋の通った結末を描く負担がどんどん大きくなっているという事実。
 近年のアニメでも、最終話で満足のいくカタルシスを得られた経験が非常に乏しい。冗長で退屈なハッピーエンドだったり、結末に責任を持たずに曖昧に放り出していたり、かと思えばこれまでの描写を全て取り込もうとして過剰に説明的な最終回になったり……。ビターエンドを嫌ってハッピーエンドに目配せしすぎるのも、迎合しすぎた悪しき風潮だと思っている。