2026年6月の新作アニメ感想。第8~9話あたりから、最終話まで。
●『淡島百景』
第8話。新たな世代の同期の友人たち3人を通じて、思春期の交友関係のありがちな軋みを――ただし過去の話という体裁で距離を取って――描いている。ミーハーキャラの小鳥遊を初めとして、今回はやや明るくもミニマルな路線。劇伴も、沈鬱な台詞と不釣り合いなほどに朗らかな曲調を押し出してくる。この演出は、学内の陰湿な空気を振り払って「風通し」を良くすることへの希望が描かれていると見るべきだろう。
ただし、コンテはあまり上手くない。不可解に角度のズレた切り返しショットのせいでキャラクター間の位置関係に戸惑うし、廊下などの露骨な3Dモデリングも浮いている。
第9話。これまでのエピソードで出てきたキャラクターたちを、第1話の田畑若菜を軸に再配置して緩やかに見晴らす、滋味のある話数。ミシンやピアノなど、ちょっとしたシーンがきれいにアニメーションしているのも心地良い。本作としては珍しく演劇シーンを映しているが、そこもシンプルで引き締まったステージ演出として描かれている。
ピアノを弾きながらやたら元気に目立っていたキャラクター(柳原)は、中村カンナ氏が演じている。『悪食令嬢』のメルフィエラの役者さんなのか、ちょっと意外だ。
アニメ版が完結したら、人間関係や登場回などを整理したい。今のところ、台詞も含めてほとんど原作どおりなのだけど、わずかにアニメ版独自の追加表現もあるので、それらも参照しておきたい。
EDのダンスだけは、毎回どうにも居心地が悪い。あんまりきれいではないし、楽曲に合わせている感じも乏しいし、途中で波に流されるところも微苦笑を誘われてしまうし……。
第10話。母/祖母世代を強く意識する3人のエピソードが連なる。
役者として大成した母親への憧れと距離感を持ち続けた息子の物語は、一見すると牧歌的で穏やかな懐古談の体裁を取っているが、手の届かない断絶も暗示されている。
母親に見守られつつ挫折し、しかし執着し続けている自分を明確に意識している娘は、意識できているようでいてしかし、母親たち周囲のシステム(事務所)によって人格形成されてしまった悲劇と言うこともできる(※彼女がずっとレッスンスクールのガラス看板の裏側に居続けている映像は、明らかにこの解釈を示唆している。これは原作漫画には無い、アニメ版独自に強調した演出だ)。ダンス練習の長尺アニメーションは躍動感があるだけに物悲しい。この二つはいずれも、既存キャラとの関わりの無い単独エピソード。
そして祖母へのコンプレックスから、祖母の面影に重ね合わせてしまったクラスメートへの嫉妬と敵意を抱えてしまった伊吹の悔恨が再び描かれる。超現実的でシンボリックな映像表現にも説得力がある。絵コンテは渡邉こと乃氏、演出は田部伸一氏。
今回はキャストにもビッグネームが並んでいる。引退したトップ俳優は井上喜久子氏、息子役は関俊彦氏。その妻を演じている竹内氏は、ここ十年ほど、サブキャラやモブキャラばかりで大量の出演実績があるという、ちょっと不思議な方。事務所の母親は園崎氏。伊吹役の恒松あゆみ氏は、吹き替え畑の声優さんだが、堅固なテンポのモノローグの中に繊細な感情を織り込んでいる。
ストーリー上も、そして原作のストックを見ても、次回(第11回)が最終回になるのかな? 新規エピソードで第12話を作るのかもしれないけど。
●『上伊那』
第9話。うーん、下手だなあ。絵の動かし方が拙劣で、注目させなくてもよい不必要なところを動かしたり、その一方で悪目立ちするキャラ停止があったりする。レイアウトも無理があって、頭頂部だけを映したり、かと思えば片目のどアップで長々と間をつないだりしている(そんなのでは、見つめ合いのニュアンスは作れていない)。背景作画もばっさり省略されていて味気ないし、風景の美しさも無い。今回の絵コンテ&演出&作監の方は、有名なクリエイターらしいけど、これでは評価できない。例えば首の太さや長さのおかしな絵も散見されて、個々のカットそのものも変だし、コンテのレベルでも取捨選択を間違えている。
これまで面白い演出が出てくることを期待して視聴を続けてきたが、こういう大ハズレの話数も頻出するので、全体としては不満が大きい。残り3話≒1時間を付き合うのも無駄と感じてきたので、もうやめるかも。
第10話。美術館とスタジオ訪問。これまでのシナリオは凸凹していたが、今回の寡黙な失恋のムードでひとまずの結着を見せたと言えるか。細やかな光源変化などの演出が、画面を平板さから救っている(※とはいえ、作為的な思わせぶりの台詞や、視線を外すレイアウト、心象風景の挿入など、無難だがベタな表現も多い)。唐突に「好きな人、いる?」と尋ねて、しかも質問した側がそのまま会話を無視していくという陳腐な思わせぶりは、たしか以前の回でも使われていた。困惑の表現だとしても、あまり成功しているとは言えない。美術館で「補助線(=景嵐)」を受け入れることを断ったくだりも、理解はできるけれど、その場その場の単発のレトリックに終わっているので深みが無い。
Cパートは一発ネタのわりに長すぎるし、A/Bパートとの雰囲気が違いすぎる。ここは余計だったかな。
郡上の失恋をしつこく描きすぎなのでは……。いや、まあ、そういう主題で描いたと理解してもよいのだけど、煙草での(明確な)拒絶 → 後れを取ったことをぼたんから間接的に認識 → 景嵐に傾く → まだ未練のメランコリーというのは、うーん。
第11話。良いところと悪いところが混在している。例えば劇伴をほぼ無くして環境効果音だけで、その場面の緊張感と劇的凝集力を高めている。思考を中断するエスカレーターの行き止まりや、迷いを表す螺旋階段なども、象徴表現というには露骨すぎるが、まあ悪くはない。エスカレーターが前半は登り(つまり気分が高揚していく)、そして帰路では下り(気分も落ち込んでいく)というのも良く出来ている。歩かないエスカレーターと、自らの足で歩くシーンの間の対比でもある(……と思うが、今回の脚本に鑑みて、対比としては上手く機能していない)。エスカレーターシーンのモブ(マネキン)たちはさすがに3D作画だろうか? 冒頭の水彩風のカットから、現実にゆっくりゆっくりと意識が戻ってくる際の精妙なズームアウトも、きわめて珍しい動画表現だ。さらに、キャラクターの匂いに直接言及するのも、アニメとしては少々レアな現象ではある。
その一方で、画面分割演出やコミカルデフォルメは上手くいっていないし。左右を入れ替える切り返しショットもよく分からない(※これらのシーンでは、ぼたん/いぶきの立場を入れ替えるような脚本にはなっていないので、交換させてみせる演出上の意味が無い)。
でも、食事中に相手への断りもなく煙草を吹かし始めるのは、やはりマイナスイメージが……(※もちろんフィクションだから、「断りが不要なくらい会食を繰り返してきた」と解釈することも可能だし、あるいは「相変わらず気の利かないキャラなのだ」という解釈もできるけど)。
●『カナン様』
第9話。まるで漫画のコマを貼り付けて並べたかのような、動きに乏しくてひたすら安っぽい駄目コンテ。ただし、ところどころにユーモア精神の盛り付けが見て取れる。小ダゴン役がやけに切れ味の良い芝居を披露されていると思ったら、なんと、久野美咲氏だった。
第10話。サブタイトルを見て、視聴を止めた。メ○ガ○という侮蔑的な表現は、いくらなんでも放送しちゃ駄目でしょ……。明らかに一線を越えている。そういうのは、えろ同人などのゾーニングの向こうだけでやってくれよ……。
●『自称悪役令嬢』
第9話。思いきった見せ方の、物凄いエピソード。この一話全体を使って、「あり得たかもしれない道筋」(=ピーちゃんが作った幻想の世界)を一息に――そして美しくもロマンティックに――辿って、そして再び大転換にまで持って行く劇的な回になっている。ループものゲームのような味わいもあり、またあるいは幾原監督作品や昨年の『九龍ジェネリックロマンス』のような虚構世界のカタストロフをも連想させるような雰囲気の中で、二人のヒロインが鏡写しの存在であったこともあらためて示唆されていく(※今回のクレジットでは「ヒローニア」の方が主役として上に記載されているのも、なかなか衝撃的だが、同時に説得的でもある)。男性主人公が「人形」であることについては、まだ最終的な説明はないが、このペースならば残り3話できちんとした結着まで描いてくれるだろう。
「ピーちゃん」役の三波春香氏も、終盤の泣き芝居は短いながらも力演で、今回のドラマティックな展開を締め括るのに相応しい存在感を発揮した。デビューから3年でまだ若手の声優さんだが、今後の活躍に期待したい。
サブキャラたちが全員ピーちゃん顔になったシーンは、見返してみるとかなりグロいな……。
今回の絵コンテは、ロマのフ比嘉氏(第6話も担当されていた)。演出の上野謙矢氏も、第5話以来の起用。
あっ……本作の監督の山元隼一氏は、前年の『前橋ウィッチーズ』の監督でもあるのだが、その『前橋』の主要キャスト5人が全員、本作にも出演されているのか。上記の三波氏に、第5話のモブ生徒3人(本村氏、咲川氏、百瀬氏)、そして第9話のメイド(春日氏)。いずれも『前橋』の時点でデビュー2年目あたりの新人揃いだったという意欲的な起用だが、本作でも経験を積ませているのが微笑ましい。
第10話。前回の劇的なエピソードから一転して、今回はゲームシナリオの説明をコミカルに駆け抜けていく(※劇伴も、おかしみを明確に表出している)。そして、富田氏自身による挿入歌とともに、二人の心が結ばれるシーンを率直に描いていく。
時間経過についてもなかなかユニークな作品だ。幼少期からスタートして、数ヶ月または1年ほどのスキップを適宜挟みながら、二人が成人年齢まで成長してきた過程をきちんと描ききっている。年齢に応じた表現のチューニングを、作画班も声優陣も見事にやりきっている。
この作品の最初のうちは、乙女ゲームものを裏側から見たパロディのような安っぽい作品のような作りだったで(※実際に軽みを前面に出していた)、富田氏のために視聴していたようなものだったが、中盤からここまでの盛り上がりを見せてくれるとは予想できなかった。富田氏を信じてここまでついてきて良かった。
第11話は、後始末とエピローグ。「ヒローニア」が最後に見せた矜恃と情愛の姿は美しく、また、湖畔に佇む二人もきれいなハッピーエンドのシーンになっている。そして男性主人公の背景に関する長大な語りは、内容それ自体は本筋ではないが、物語を静かに柔らかくクールダウンさせていくうえで好ましい効果を発揮している。
音響面では、ヒローニアの非を難じるシーンで、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」(ピアノ版)が延々流れている。既成曲の使用は初めてかな? 曲調と曲名の両方から、ヒロインキャラがヒロインの立場を最終的に手放すことになった、喪失の虚しい悲劇を演出している。
「とうじん王」は闘尽か?闘刃か?刀刃か?濤陣か?あるいは(人的資源を戦争で)蕩尽か?と困惑しながら視聴していたが、なんと、クレジットでは「トージン」だった。アーンネイ=安寧だったのと同様に、たぶんそういった意味合いの含意のあるネーミングだと思われるが。ちなみに、トージン役の寺西氏も、同じ監督の『前橋ウィッチーズ』出演者。そういえば、精霊クロ役の鬼頭氏も『前橋』出演者だった。
Cパートで登場した弟くんは、蛇足になりそうな気配もあるが、最終回まで見届けよう。
二人の生き方が、皮肉にも対照的なものになってしまったというのも味わい深い。「ヒローニア」は、本来は天然でありながらきちんと努力する性格であり、ハッピーエンドに相応しいキャラクターだったのが、ゲーム設定を半端に囓った転生者が中に入ったことにより、他者をNPCとして見下す我が儘キャラになってしまった。それに対して「バーティア」は、本来のゲームキャラとしては、周囲から甘やかされて傲慢になってしまった悪役だったのが、その中に善良で献身的な転生者が入ってきたことで、「一流の」悪役令嬢を目指して自己犠牲的なまでに努力する人柄になり、結果的に悪役から最も遠いキャラクターとして、ヒーローから愛されるようになる。……こんなねじれた転生をさせた神(仮)が悪いのでは?
前回はバーティア役の挿入歌、そして今回はセシル側の挿入歌。たぶん歌詞にも意味が込められているのだろうけど、残念ながら聞き取れない。