2026年6月の雑記。
06/16(Tue)
いわゆる「エルフの森が焼かれる」云々というのは近年(10年代末?)新たに作り出されたミーム乃至アイデアだと思うが、いったい何処から、何故こんなに広まったのだろうか。
80年代以前。洋風ファンタジー世界像は、当初は『指輪物語』以来の複雑で多元的な社会として構想されていたと言えるだろう。この時点でひとまず、それぞれの種族が固有の文化(精神的価値、生活形態、技術的知識など)を持った存在として現れた。
90年代~00年代までの日本サブカルチャーでは、多種族間のマイルドな平和的共存を基調としていたように見受けられる。ただしそれは、基本的には人間中心主義的な描写であり、異種族キャラクターたちは「人間社会にとっては周縁的存在」、「知性が乏しく、劣等かつ非社会的存在」、「せいぜいのところゲストキャラ」にとどまっていたことの裏面でもある。例えばSLG「オウガバトル」シリーズでも、フェアリーやリザードマン、ホークマン、ゴブリン、ゴーゴンといった異種族たちは、戦闘時のユニットとしては登場するが、社会集団としての側面はあまり描かれていない。
00年代後半。異種族キャラクターがフィーチャーされて魅力的に描かれるようになったのは、00年代後半の美少女ゲーム分野の「モンスター娘」ブームまでは、ほとんど存在しなかった(※ただしエルフ族を除く。また、格闘ゲーム『Vampire』シリーズなど、個性的な挑戦事例も存在した)。20年代の現在では信じられないだろうが、比較的オーソドックスな「獣人ヒロイン」や「悪魔キャラ」ですら、当時はかなりマイナーな、あるいはイロモノなキャラクター属性であり、「天使族」キャラクターすら、ろくに形成されていなヵった。ソフトハウスキャラ、Eushully、Escu:de、alicesoft、NinetailといったSLG系美少女ゲームメーカーは積極的に異種族ヒロインたちを登場させていたが、恋愛系ADVでは異種族ヒロインはきわめて稀だった。
10年代以降は、キャラクター志向の二次元文化の爆発的拡大とともに、異種族の知的生命体たちも独自の個性と主体性を備えたキャラクターとして描かれる頻度が高まっていった。エルフキャラだけでなく、悪魔キャラ、吸血鬼キャラ、獣人キャラ、さらには額に角の生えた鬼キャラなども二次元文化に定着し、ゲームやイラストに頻繁に登場するようになった。異世界ハーレム系ネット小説も、この趨勢を後押しした一要因だろう(※ちなみに、エルフの標準的な体格イメージが、スレンダーからグラマラスへとシフトしていった悲劇も、おそらくこの時期の出来事だ)。
10年代後半。こうして、異種族キャラクターたちが普及するとともに、あらためてかれらの文化的造形や社会性が精緻化されていった。文化面に関しては、ドワーフやオークなど、古典的なイメージがほぼ踏襲されたが、多種族共存世界における相互関係については、掘り下げの余地が大きかったようだ。すなわち、経済的交流、差別的関係、種族間対立、民族紛争、そして「民族国家」どうしの対立および戦争などが、作劇の道具立てとして活用されていく。
さて、ここでようやく「エルフの森」の話に戻る。フィクションの洋風ファンタジー世界における社会関係や技術水準に関する認識がリアリスティックに深められていく中で、長命で自然志向のエルフたちは、「原始的とも言える生活形態を持っている閉鎖的な少数民族」という側面が否応なく目立っていっただろう。そしてそれは、「脆弱な小規模社会集団が、強大な文明国家と接触したならば、一方的に収奪されるだろう」という思考に向かうのは、無理ならぬことだろう。また、異世界系ネット小説では、たしかこの頃に、奴隷制描写を取り入れるものが増えていた。人間族どうしの奴隷化から一歩進んで異種族を奴隷として描くとき、「動物のように扱われる獣人族」と並んで「可憐さゆえに悲劇性を強調できるエルフ」が、好適な対象となったことは自然な流れだろう(※ひどい話だけどね!)。
こうして、異世界社会のイメージが精緻化されていくプロセスと歩調を合わせて、「迫害される少数民族としてのエルフ」像が広まって行ったのではないかと、個人的に推測している。どこかにマイルストーン的な作品があったのかもしれないが、寡聞にして聞き及ばない。
美少女ゲーム分野でも、90年代から『Dearest Vampire』(タイトルどおり吸血鬼ヒロインなどが登場する)や、『恋姫』(elf作品、龍族ヒロインなどいろいろ)、『とらいあんぐるハート』シリーズ(これも吸血種や幽霊ヒロインがいる)など、異種族ヒロインをフィーチャーした作品はいくつか存在した。80年代以来のSLG/ファンタジーの雰囲気がいまだ強い時代だったせいもあるだろう。
しかし00年代に入ると、現代世界の学園恋愛系とダーク系に二分されて、ファンタジー要素はいささか希薄になっていく。ファンタジー要素を含むタイトルは、SLG系の活発な創造性を別とすれば、Triangle『魔法戦士』シリーズやcolors『魔法少女アイ』シリーズに代表されるような変身ヒロインものか、メランコリー系(または伝奇系)の現代和風幻想もの――90年代の『アトラク=ナクア』から00年代の『顔のない月』『腐り姫』『夏神楽』など――が主流で、なかなか異種族ヒロインを出すには至らなかった。ただし、サキュバス(淫魔)キャラだけは定期的に登場していた。
00年代半ばになって、ようやくポップでライトな異種族ヒロインが普及していく。魔法少女もの(『ウィズ アニバーサリィー』)から、色っぽい吸血鬼ヒロイン(『です☆めた』『宵待姫』)、そしてとりわけUNiSONSHIFT(『WAGA魔々かぷりちお』『Chu×Chuアイドる』)がこの路線を強力に牽引した。『とり×とり』(2006)は、異種族ヒロインだらけの作品という意味でも、ハロウィンネタを取り込んだ作品という意味でも、先駆的な作品だった。アトリエかぐやも、『マジカルウィッチアカデミー』(2005)でこのジャンルに進出してきた。
そして00年代後半になると、凝った設定のファンタジー世界を舞台にしたタイトルが増えていく。ただし、素朴に古典的なファンタジーを踏襲するのではなく、意識的なパロディ作品として作られることも多かった。ケモ耳ヒロインも、流行するようになったのは案外遅くて、たしかこの時期からだったと思う。さらに00年代末には、先述の「モンスター娘」への挑戦が本格的に始まる。
……と、だいたいこんなふうにして、00年代の様々な動向が、10年代以降の流れを準備していたと言えるだろう。エルフヒロインも、2004年頃までは非常に少なくて、2005年あたりからようやく一般化していった。『ぱすてるチャイム』(1998)から、『プリンセス小夜曲』(2005)、そして『姫騎士アンジェリカ』(2007)……あっ、「グラマラスなエルフ」像はこの作品の影響が大きかったのかも。
最近では、「アニメ化」のニュースをかなりシラけた目で見るようになっている。結局のところ、新しいものが生まれるわけではないので。関連グッズはどうでもよいし、アニメ映像それ自体も、動画向けに単純化された絵になってしまって原作のタッチの個性が失われるし、漫画のコマの猿真似コピペのような低品質なコンテも頻出している。ストーリー面で見ても、原作をなぞるばかりのものが多いし、ほんの12話(漫画にして3~5冊)でぶつ切りにされてしまうのが通例だ。原作者もアニメ版制作に多大な時間を取られて原作進行が停滞するという本末転倒な事態も起きる。
良いこともあるのは認める。端的に言えば、その作品にお金が入ってくるということだ。例えば、原作が重版されたりもするし、原作連載が継続される見込みも高まり、そして優れたクリエイターの懐が潤う。作品に色と音が付き、卓越した声優が秀逸な台本に沿って演じるのを楽しめるというありがたい機会にもなる。でも……なあ……ただそれだけのことで、アニメ化だアニメ化だと大騒ぎされるのにはもう飽きている。
アニメ分野それ自体としても、メディアミックス優位でお金に振り回されていく中で、売れるコンテンツの2期や3期が延々制作される一方で、オリジナルアニメが激減しているのはたいへん悲しい風景だ。
個人的にも、原作(小説や漫画)のテンポや雰囲気が好きだからこそ、アニメ版は観たくないという気分になることは多い。ある作品のファンであっても、その関連コンテンツに一々付き合うべき義理があるわけではない。ましてや、他人の商売に付き合う必要は無い。もちろん、優れた作品が正当に注目を集め、そして優れた成果を出したクリエイターが経済的にもまっとうなリターンを得られるのは良いことなのだけど、しかしそれでも、アニメ界隈のあれこれは過剰に商業主義化しているように見受けられる。「アニメ化」の情報が、我々読者/視聴者の側にとってそんなに喜ぶべきことなのかは、立ち止まってその都度再考すべきだと思う。
先月発売の漫画新刊も、ようやくほぼ消化できた。このブログは、読んだ記録であるとともに発売時期の記録でもあるので、先月の本は先月用のページに加筆していくことにする。
いわゆる「チェーホフの銃」原則を引き合いに出す人がいまだにいるけど、あれは古いセオリー、というか、そもそも主張の妥当性すら欠いているんじゃないかなあ。
創作作品は、ストーリーだけに意味があるのではなく、美術的な側面や全体的なムードにも表現性がある。なので、小道具がどこかで使われるかどうか(物語上の機能を持つかどうか)に拘泥するのは、視野が狭いと思う。ちなみに、ここ三十年来のオタクたちの悪癖で、目について気になったものを何でもかんでも「伏線」「ネタ仕込み」だと思い込んで勝手に期待するのも、それと同じ問題を抱えている。
場所とコストと上映時間の限られる舞台演劇――しかも比較的小規模な――であれば、観客の気を散らさないように余計な要素を省いて本筋に集中させることには意味があったかもしれない。しかし、映画2本分以上の長尺で展開される週間アニメや、延々連載されて話がどう転ぶかも分からない漫画作品(※作者自身も、途中で話の展開を変えたりするだろう)では、そのような決め打ち的な受容(読解)姿勢は不適切だし、ましてやそれを規範として作品の良否を評価するのは的外れになるだろう。
象のSNSでは、とりわけ政治に関しては、できるかぎりマイルドな語りをするように努めている。
ミクロレベルでも、結局のところ、国民はお互いに1票ずつを持っている対等な相手であって、それを一方的に貶したり罵倒したりしても何の成果にもつながらない。
マクロレベルでも、国民が党派的な敵味方思考に慣らされて分断されていること自体が、「権力に対する健全な監視」の意識を弱めてしまっていることに危機感がある。
さらにプロセスレベルでも、相手を冷静かつ公平に説得するという姿勢――つまり民主的な熟議――を回復しなければいけないという考えがある。
もちろん、妥協するという話ではない。譲歩してはいけない基準については、筋を通してきちんと主張する。ただ、「これが分からないお前はバカだ」などという喧嘩腰になるのは無意味だという話だ。
また、相手と肩を組む必要も無い。政治の目的は、仲良くなることではなく、ひとまずは公平なルールについて1億人がお互いに合意形成できるようにすることだ(※不公正なものにならないように、議論するのだ)。
さらに、これは相手による。公職者など責任のある者に対しては、厳しく追及してよい。放置すればするほど害悪が膨れ上がるからだ。また、腰巾着のデマゴーグや商売目的の煽動屋に対しても同様だ。しかし、悪意ではなさそうな一般人に対しては、対等な市民どうしとして、冷静、慎重、公正なコミュニケーションの仕方で説得していくべきだろう。というか、そうでなければ、「あらゆる個人の尊厳を重んじる」という大前提が崩れてしまう。「いくらでもバカにしてよい愚かなネ○ウ○」のようなカテゴリーを作ってしまうことは、それ自体、社会の最低限の公正さを自ら手放しているに等しい。だから、対立党派の支持者たちにどんなに腹が立っても、あるいはその愚かさがどんなにもどかしく思えても、そこはなんとか我慢して対話を目指すようにしている。
ただしこのブログは、SNSとは違って基本的にマイナーなモノローグの場なので、説得目的のソフトな語り口よりも、正しい理路をきれいに示す(書き残す)ことを目的にしている。