2026/05/11

2026年5月の雑記

 2026年5月の雑記。

 05/11(Mon)
 ファイルーズあい氏の芝居ぶりに感じていた既視感は、ああ、一色ヒカル氏だったのか。あの表現力の抜群の振れ幅。表面張力の強いスタッカートの鮮やかな生命感。腹の奥から舌の先端まで通じているような鋭敏さと迫力と存在感。そして台詞のポテンシャルを最大限に引き出すような細部の精密さとニュアンスの彩りの豊かさ。


 今期アニメは不作だと思っていたけど、じめじめじっとり路線に良作が多いので、そこそこ良い感じになってきた。『淡島百景』は多面的なエピソードを展開していく広がりの中で物語世界の見え方が安定してきたし、『上伊那』も(ストーリーは散らかっているが)映像的な楽しさは随一だし、『自称悪役』も傍観者的なスタンスの中に悲劇的な鬱屈が滲み出てきた。それに対して『カナン様』のほとんど不条理めいたスラップスティックが、ちょうど良い箸休めになっている。『鑑定士』は、4-5話がひどすぎたので切ることにしたけど、もうちょっと金元ヴォイスを聴いていたかったという気持ちもある。


 「オタク」の精神文化、その変遷、一般社会との関係について。このブログで何度か語ってきた話も含むけど、あらためて私なりに、展望を整理し直してみる。

 80年代までの世代は、私から見れば、いわば「オタクの原風景」のようなものだ。つまり、いわゆる「オタク」が文化集団としてのアイデンティティを獲得する前の段階だ。言い換えれば、孤立して自分なりの関心を突き詰めるマニアたちが、ロールモデルとしてあった。男性的分野で言えば、SFマニアや鉄道マニアなどがその典型だった。漫画読者は比較的マージナルだったというのも、おそらく確かだろう。ただし、その段階では趣味の「知」はオープンなものではなく、プライドを賭した競争的なものだったり(「SFを1000冊読め」)、社会性を欠いた収集癖だったり(マイナービデオ収集)したようだ。この時代には、大学サークルやパソコン通信などのメディアはすでに存在したが、あまり組織化されてはいなかったようだし、彼ら自身も記録をろくに残していない。
 一般社会からは、マイナー趣味に没頭する人々は奇異の目で見られていた。「珍奇な資料を紙袋に提げた、身嗜みに気を遣っていない長髪バンダナの男性」といったステレオタイプ的イメージは、80年代のうちには確立されていたと思われる。昭和的な同調圧力、体育会系なマチズモ、「不良」集団による暴力性の優位、前近代的な階層思考、等の下で、そうしたインドア系マイナー趣味の人々は格好の「いじめ」対象として攻撃を受けていた。ただしこれは、当時の日本社会の差別性のごく一部であり、セクハラの日常的行使、女性の社会進出に対する偏見、その他マイノリティに対する嘲笑(同性愛者がどのような扱いを受けてきたか)、あからさまな地域差別や出自差別の残存など、激しくも悲惨な攻撃性の一部として、インドア派蔑視も当然のように行われていた(もちろん、それら個々の属性が被った問題は矮小化されてはならないが)。ともあれ、こういったマニア趣味蔑視もまた、多くのマイクロ・アグレッションにありがちなように、歴史にはほとんど書き残されずにいた。この状況は90年代半ばあたりまでは続き、例の事件も影響もあっ、マスメディアを通じた(主としてネガティヴな)露出も増えていった。

 風向きが変化してきたのは、おそらく90年代後半以降だろう。まず、一般社会との関わりで見ると、「日常生活」「イメージ」「社会-経済的プレゼンス」の3点のそれぞれに大きな変動があった。
 1) 日常生活における「迫害」の弱まり。男女雇用機会均等法の導入、福祉社会から新自由主義的競争への変質、バブル崩壊や金融危機(山一證券)、さらに震災や大規模テロ(1995年=平成7年)といったカタストロフ的事件を通じて、それまでの日本社会の通念的モデルは急激に不安定化し、文化的にも自由化、多様化していった。そうした中で、マイナー趣味に対する一般社会からの圧力も薄れていった。
 2) マニア/オタクに対するイメージも、伝統的な趣味(SFや鉄道、歴史、ミリタリー)から、「漫画やアニメの愛好者」へと変化した。さらに、スーパーファミコン(1990)やPlayStation(1994)などの家庭用ゲーム機の普及も、インドア系趣味に対する世間の認知を和らげる一因になったかもしれない。
 3) さらに、『エヴァンゲリオン』(1995)が「社会現象」を引き起こしたことに象徴されるように、オタク発の文化やコンテンツが一般社会に浸透し露出することが、ごく普通のことになっていった。

 90年代の激変は、「オタク」内部の次元でも起きていた。一言で言えば、孤立したマニアから、オンラインで社交する知的な集団として組織化されていったと考えられる。Windows95/98機のセールスとともにインターネットが広く普及していき、さらに理系大学院生たちを中心とした「ホームページ」群によって、様々な趣味に関するオープンな情報提供が積極的に展開されていった。そこでは、幅広い視点から対等に議論することが良しとされ、プライドの高いマッチョ権威主義者は非常に少なかった……まあ、分野や集団によるだろうけど(※なお、当時は、ポータルサイトとしてのYahooが主流で、カタログ化された検索おすすめサイトがピックアップされて、優れたサイトに注目が集まった)。例の用語法を使うなら、オタク第一世代から第二世代への移行が生じた。
 趣味の対象についても、現代的な二次元系の趣味(アニメ、漫画、ゲーム、ライトノヴェル)に多数の人が引き寄せられていった。深夜アニメ枠の拡大は90年代末に始まり、『少年ガンガン』(1991-)、『Gファンタジー』(1993-)、『電撃大王』(1994-)、『少年エース』(1994-)といったポップ志向の新たな漫画雑誌が創刊される一方で、『YKアワーズ』(1993)や『YMアッパーズ』(1998)のようなディープ寄りの雑誌も現れてきた。この流れは00年代の『きらら』系(本誌2002年、キャラット2003年、MAX2004年)の「萌え四コマ」勃興あたりまで続いていく。それらと平行して、「コミックマーケット」に代表される同人誌即売会の裾野も爆発的に広がり、文化的な豊かさと社会的な交流密度が確保されていった(※即売会は、オンラインの友人どうしがオフラインで定期的に会える機会として相互補完的に機能し、また、クリエイターの人材発掘の場にもなった)。
 いわゆる「サブカル」との溝も、この時期にはすでに生まれていた。図式的に対比するなら、ヴィレッジ・ヴァンガード的なサブカル系カルチャーが「現実社会との対比を意識しつつ、階層主義な秘儀性≒マニア性を維持し、文化的側面に集中した」のに対して、第二世代型のオタク文化は「創作世界のエンタメ性に専心し、メジャーな商業コンテンツを受け入れ、オープンな知的交流を目指した」と言
えるだろう。サブカルとの「対立」の発生を00年代以降に見出す者もいるが、私見では、この温度差の違いは90年代のうちにすでに顕在化していた。内容的にも、サブカル分野がしばしば「鬼畜」系や「自殺マニュアル」やいわゆる「ファッションロ○コン」のような前時代的で攻撃性に満ちた悪趣味を弄んだのに対して、オタク側はそういったリアルな悲惨から距離を取って美しい世界を目指した。もっとも、そのスタンスが非-社会性を超えてさらに現代の反-社会性にまでつながっているのかもしれないが。
 典型的なのは18禁のPC美少女ゲーム分野で、元々はマニアックなパソコン趣味の延長上に発生していた領域だが、Win95/98の普及とともに当時の「オタク」たちの間に大きく普及し、そしてネット上のレヴューサイトや攻略サイトも多数作られて、幅広い議論のアリーナが成立していた。さらに、感想投稿&情報登録を行える巨大なデータベースサイト「Erogamescape」(2001-)が公開され、そこではユーザーたちがオンラインで自由に様々な内容を投稿しつつ、詳細な情報をオープンに共有できる場が成立していた。
 美少女ゲームや、当時のハーレム系ノヴェル/アニメ(あかほりさとる)とともに、可憐で美しい架空若年女性キャラクターたち、すなわち「萌えキャラ」を堂々と前面に押し出すことが、オタク界隈で常態化していったのも、この時期だった。
 (※余談ながら。美少女ゲームにも『はじるす』『はじいしゃ』のようなロ○コン系タイトルはあったけど、あれはむしろ例外的だったから目立ったのであって、実際にはロ○メインのタイトルは非常に少なく、けっして主流にはならなかった。全体としては、わりと保守的で無難なキャラ属性が人気だったのは、後述の処女性問題にも反映されている)。

 00年代半ば以降、この気風は変質していく。「メイド喫茶」での媚びた接待や、『電車男』(2005)に象徴されるようなオタクイメージの世俗化、オタク活動の俗流化。アイドル産業の復興(※AKB48は2005年活動開始)と、「総選挙」や「握手券」に代表されるような過激なまでの商業主義的搾取構造の出現。性的な露出の多いコスプレと、それをローアングルから撮影する集団の公然化(いわゆる「カメコ」。90年代以前からも存在したらしいが、即売会のコスプレ会場や秋葉原の歩行者天国で大きく可視化されるようになった)。実在の道具や車両等にキャラクターイラストをラッピングした「痛○○」のような、美少女キャラクターの公然露出。そしてオンラインでは2chの空気に染まった人々による性差別や国籍差別の噴出。つまり、オタク趣味は、公平でオープンで知的な鑑賞的趣味ではなく、日本人男性がリアルな欲望を満たすための場になっていった。
 アニメや漫画を語る場でも、しばしば投稿者は男性であることがデフォルトとして想定され、女性であることや女性文化を擁護するものは無残な排撃に遭った。中国や韓国に対するヘイト発言も溢れかえった(例えば中国人ヒロインに対しても攻撃の矢が向けられた)。美少女ゲーム分野でも、ヒロインの処女性が、異様なまでに絶対視された。女性声優に対する性的欲望を放言する邪悪な声優オタクたちも、2chやその周辺プラットフォームによって助長されて、現在に至っている。ミリタリー関連でも、いわゆる「萌えミリ」界隈の非倫理的な姿勢には、当時から大きな問題があった(※伝統的なミリオタが良かったとはけっして言わないけど……)。そういった陰惨な負の側面も、私は忘れていない。
 私見では、この時期を分水嶺として、「オタク」は決定的に変質した(第三世代?)。現代のオタクたちには、90年代以前の(被害)体験は無く、この時期に作り出された虚妄の反フェミニズム、反グローバリズムの被害意識をベースにしている。……ただし、このような切断認識は、00年代以前を過度に美化してしまうのかもしれないが。
 この時期には、女性のオタク文化ももちろん広がっていたのだが、戯画化されたBL像や、ナマモノ同人(※実在の男性アイドルなどを性的に描いたファン創作)の閉鎖性、そして少女漫画分野の沈滞などもあって、分離と周縁化が進んでいった。即売会でも女性向けサークルは、ほぼ半数を占めていた筈だが。
 一般社会(一般人)からは、奇異の目で見られることは少なくなっただろう。萌えキャラ(=可愛らしい若年女性キャラクター)をマスコットにするのも、世間的に受け入れられていった(※00年代半ば以降の「ゆるキャラ」ブームと歩調を合わせた流行と言えるだろう)。先駆的とされる『らき☆すた』と鷲宮神社の関わりは、2007年頃からとのことようで、さらに、いわゆる「ご当地萌えキャラクター」路線で、「鉄道むすめ」(2005-)や「温泉むすめ」(2016-)などのコンテンツが量産されていった。それらは、二次元系文化が育んできた「フレンドリーで好意的な印象を与えるイラスト技術」を社会一般にも広めて活用できるようにしたという点では大きな意義があったが、しかし同時に、若年美形女性ばかりをマスコットとして扱うことに慣れさせるという意味では問題があり、それゆえいささか両義的な評価にならざるを得ない。

 さらに10年代以降は、ソロプレイ志向のオンラインゲームがさらに商業主義化を推し進め(いわゆる「ガチャ」)、メディアミックスの進行も、コンテンツをクリエイターではなく企業の手に握らせる方向に進んだ。さらにSNSの普及は、オタクたちをカオス的集団として束ねつつ、かれらのマジョリティ意識を助長した(※日本におけるtwitterの最初の拡大期は、2009-2011年頃だろう)。いわゆる「推し」様式も、関連グッズの大量購入を通じてファン意識を高めるというカルトまがいの物神崇拝的慣行を強めた。10年代末から現在まで続いているY/V-tuber界隈が、どのような位置に置かれるべきかは、私にはよく分からないが。
 オンラインゲームで「女体化」アプローチが蔓延したように、この時期には、女性キャラクターを性的に扱うことが主流になった。前世紀までの「萌え」とは、女性キャラクターの可憐さや内面造形に対する愛着であって、むしろ性的魅力とは正反対のものだったし、ツンデレキャラも、男性主人公にはコントロールしきれない女性キャラのパワーを反映していた。しかし現代では、女性キャラクターの魅力の判断基準は、徹頭徹尾、セクシュアルなアピールの強さに志向している。その意味では、現代の女性キャラが「萌え」と呼ばれなくなったのは、妥当と言える。アニメ分野でも、SNSで「○○は俺の嫁」という言い回しが00年代半ば(?)以降広まっていたが、これもまた男性的な所有欲ベースの発想に他ならない(※女性文化の側でも、「同○拒否」のような類似の発想は生まれてきた)。

 現代の自認「オタク」たちが、すべて絶対的に悪いというわけではない。むしろかれらは、00年代以降の商業主義的搾取やSNSのメディア煽動に絡め取られてしまった被害者だという側面も、確かにあるだろう。しかし、ここまで素描してきたように、現状の「オタク」界隈に様々な問題があることも確かなので、まずは当事者たちの手で、できるだけましな形にしていってもらいたい……私自身、二次元系趣味を長く嗜んできているけれど、もはや「オタク」と自称することは二度と無いというつもりで、しかし関わりが無いわけでもないので、せめてこうした展望を書き残している。
 それにしても、某地雷氏のように90年代以前の被迫害を丸ごと否認するのも、やはり歪曲が過ぎると思う。2004-2006年頃に、オタクたちのコンプレックスが攻撃性を誘発するようにマネタイズされていったという仮説は、それなりに妥当だと思うけれど。

 「良きオタクは、ちゃんと金を出すオタクだ(≒違法DLはしない)」というくらいならば、理解できるし、私自身もおおむね似たような認識で行動している。長く続いている不況(というレベルではないが)の下で、良いものには適正な金銭的な支払をしなければ、コンテンツが持続できないというのは、否定しようのない事実だし、社会関係一般の問題としては妥当だろう。
 しかし、様々な経緯から、ややこしい要素が入り込んでしまっているのも確かだ。a) 一つは、アイドル産業や課金型オンラインゲームが作り出した、「楽しめる度合いは、支出した金額に比例する」、「たくさんお金を出すことが、ファンとしての価値を証明する」といった悪しき文化風習。
 b) もう一つは、2011年震災の後に生まれた、「お金を使って経済を回そう」という意識。これは、当初は「被災地の物をたくさん買って支援しようね」、「計画停電などの局所的負担も生じているので、余裕のある人が助けようね」といった健全な発想だった。しかしそれが、上記a)の消費第一主義に誤接続されて、ごく一部に「オタクは経済を回しているから偉い」という妄想を生んでしまった。いや、コンテンツ産業が現代日本で比較的大きなプレゼンスを生んでいる生産部門になり得ているのは確かだが、それはべつに他の部門と競争するためではないし、ましてや、その金額が「オタク」たちの文化的価値を担保してくれるわけでもない。その点は、注記しておかなければいけない。

 最近の「オタク史」議論の中で、美少女ゲーム(アダルトPCゲーム)分野の話がきれいに抜け落ちてしまっているのが、あまりにももったいない。パソコン媒体という観点でも、90年代以降のオンライン空間の趣味化をリードしていたし、攻略情報やレヴュー(それから修正パッチ)をオンラインで共有するという点でも先駆的で、そして現代に連なる「美少女」キャラクターの型を整備し普及させたのも美少女ゲーム原画家たち――コミケットの壁サークル常連たちでもあった――の貢献が絶大だし、さらには「可憐な萌えから性的な魅力へ」の移行を準備したのもアダルトPCゲーム分野だったと言うべきだろう。もっと言えば、主題歌(インディー系の歌手)とOPムービー(デモムービー)の洗練は現代アニメにも大きく影響しているし、読み物アドヴェンチャーの形式はオンラインゲームにも引き継がれている。もちろん、様々なキャラ「属性」を創出し、拡張し、整備し、組み合わせたのも大きい。

 以上、3時間で約6000字。頭の中にすでに枠組が出来ているテーマで、資料もろくに見ず、ネットで年を確認するくらいで書き流すと、だいたいこのくらいの速度かなあ。
 ここまでの文章できちんと言及できなかったのは、模型/フィギュア界隈、TCG産業、コスプレ、特撮、ネットラジオ、MMORPG、インディーゲーム、ライトノヴェル(※10年代以降のネット小説も含む)、それから非-二次元系の様々なホビー(評論、ガジェット、実写映画、ミリタリー、サバゲー、等々)。
 私のような素人の歴史語りはどうしても精密さに欠ける議論になってしまうけれど、しかしそれでも、おおまかな展望(状況の見え方)とか、重要なマイルストーン的作品とか、忘れられてはならない事件とか、そういったものを拾い上げて記録しておくことにはいくらかの意義があるだろう。そういうつもりでこのブログを続けてきている。

2026/05/09

漫画雑話(2026年5月)

 2026年5月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 まだ先月分の新刊も読み切っていないけど、まあ仕方ない。

●新規作品。
 やぶら『ロブレイブ』第1巻(講談社、1-4話)。第1話で、大ネタのどんでん返しと主人公の最終目的をきれいに提示し、2-3話で最初のエピソードを知略バトルで乗り切って、そして第4話ではミドルレベルの目標に挑ませつつ、改めて主人公のバックグラウンドに絡めた衝撃展開を出すといった具合に、いかにも教科書的にきれいな模範的ストーリー運びをしている……少々あからさまなくらいに。とはいえ、小柄(ショタ外見)主人公と、大柄なオーガヒロインという対比はいかにも今風で魅力的だし、虐げられる少数民族(オーガやドワーフなど、人類以外の種族)を解放するというストレートさも好ましい。作画と演出も、きちんと造形されている。ひとまず作者の力量に期待して、付いていこう(これが初の商業連載のようだ。優れた新人がどんどん現れてくるなあ)。


●カジュアル買い、買い足しなど。
 和サン(かのう・さん)『復讐は合法的に』(原作あり、一迅社)は、第2巻が新刊で、表紙の丸眼鏡少女に惹かれて第1巻ともども購入してみた(1-6話/7-12話)。私的な復讐を請け負う弁護士の話で、1冊につき1エピソードくらいでオムニバス的に進むようだ。復讐代行ものとしては、幸いにもそれほど下品ではなく(※露悪的な「スカッと」系はさすがに嫌だ)、また作画と演出も水準は高いのだが、相手を陥れる手段がみみっちいし、それでいてリアルに実行できてしまいそうなネタもあるのがかなりモヤッとする。ちなみに、作者はこれが初の商業連載のようだ。
 ますやまある『白鳥運子(しらとり・かずこ)は31画』(原作あり、講談社)。これも第2巻表紙の眼鏡キャラに興味を持って、第1巻と一緒に購入した(1-5話/6-14話)。画数判断で自分はラッキーだと信じて全力で生きようとしている不幸な女性が、犯罪に巻き込まれる(手を下してしまった)クライムサスペンス。主人公の立ち回りがまずくて状況をしばしば悪化させてしまうスリルも、キャラクター設定によってあらかじめ正当化されている。登場人物たちの激しい表情も、手描き感の強いパワフルな作画も、たいへん魅力的。ただし、次巻で完結するようだ。作者は、くらげバンチなどでいくつかの読み切りを公表しており、これが初連載……って、あっ、あのモデラー女性を描いた「熱帯夜」の作者さんだったのか。


●続刊等。
 石沢庸介『第七王子』第23巻(189-195話)。ボスキャラのベイダー戦と、主人公キャラの復活、さらに兄キャラのグレードアップを描いている。パワフルなバトル描写と、それを支える心情表現の鮮やかさは相変わらず素晴らしい。

2026/05/03

アニメ雑記(2026年4月)

 2026年5月の新作アニメ感想。今のところ、『淡島百景』『上伊那ぼたん』『カナン様』『自称悪役令嬢』を視聴中。『鑑定士』はおしまい。最終的に、普段通りの4本にまで絞れてきたのは、良いのか悪いのか……。


●『淡島百景』
 第4話。今回は、外部からの視点かな(辞職したパートナー、学生の両親、そして男性ファン)。前話の厳しさから一転して温かなエピソードが続き、落差が大きいが、こういうのもありか。作画に関しては、イメージシーンの背景には、なまじのアニメーションよりも大変そうな動画装飾があって驚かされる。


●『上伊那ぼたん』
 第5話。構図遊びがたいへん楽しい。遠近を強調したレイアウト、角度の付いたアングル、そして明暗のコントラスト、等々。今回の絵コンテ&演出は戸澤俊太郎氏。前話(第4話)でも絵コンテを務めていた(前話の演出は牧野秀則氏)。


●『カナン様はあくまでチョロい』
 第5話は、聖女キャラの登場。今どき珍しいほどの勢い任せのスラップスティックのスピード感は、これはこれで楽しい。程良くデフォルメの利いた瞬間的な動画表現や、路上を暴走するシークエンスの大胆なアニメーションなど、見どころも多い。キャラクターの頭のネジの外し方も面白く、カップルの手つなぎを「ファーストホールド」と呼称するなど、台詞回しにも意外性がある。
 聖女「ジャンヌ」役は鈴代氏。視聴中は気づかなかったが、奇抜なキャラクターをクリアカットに造形する手腕はさすが。なお、OP映像を見るに、これからさらに何人も奇人キャラが出てくるようだ。保健室の喫煙者キャラは小林ゆう氏。
 このしよーもないドタバタを釣瓶打ちにする感触は、『キルミーベイベー』をちょっと思い出す。


『鑑定士(仮)』
 第5話。心底つまらない内容になってきた。間(ま)の取り方がおかしくて、声だけでは保たないレベルで映像進行がダレている。半ズボン姿のショタ主人公をたくさん拝めたのは良いんだけど、良いんだけど……そこは良かったんだけど、ね……。


●『自称悪役令嬢な婚約者の観察記録。』
 第5話。男性主人公サイドの心情にフォーカスしつつ、水平から傾斜したカメラや奥行きを強調したレイアウトで、静かな緊張感とひそかな困惑を巧みに視覚化して、二人の運命的な悲恋状況とすれ違いの深刻さを表現している。絵コンテは大宅光子氏、演出は上野謙矢氏。どちらも本作では初の起用。脚本は、これまで全ての話数を井上亜樹子氏が担当されている。最後まで完全単独脚本でやり通すのかな。

2026/04/24

2026年4月の雑記

 2026年4月の雑記。

 04/29(Wed)

 今月は漫画をあんまり買っていないように感じていたけど、最終的にはいつも通りの冊数になっていた。しかし、うーん、強いインパクトのある作品には、あまり出会えなかったかも。その意味では、けっして豊作ではなかった。


 昔話。京都には長く住んでいた。あそこは程良くカオスな土地柄で、大学生として気ままに過ごす分には、相当自由にしていられた。しかし、仰々しい観光地とあからさまな商業施設が並んでいる間に、古びた生活世界がじっとりと広がっていて、そのギャップの中間、つまり「ごく普通の住民の日常的な豊かさ」が感じ取れない都市だった(※市内の狭隘さもあって、自家用車を持つのもわりと難しい環境だった)。
 それに気づいたのは、こちらに引越してきてからのことだった。例えば、子供連れの家族が自動車でカジュアルに訪れて楽しめるような施設が、多彩かつ大量に存在する。そして市民たちは、ゆるやかながらポジティヴな帰属意識と明確なリージョナルアイデンティティを共有している(※その背景には震災体験という不幸もあったのだけど、彼らはそれを精神的に乗り越えてきた)。そういう種類の豊かさは、私にとって非常に目新しい風景だった。
 なにか特別にユニークで物凄いものがあるというわけではないのだが(異人館街とか六甲~有馬とかは確かにあるけど)、市民が尊厳を持って生きていけるような環境が目指されている。この町に移住してからせいぜい十年で、私自身は依然として余所者=傍観者の意識のままだけど、この穏やかな雰囲気はありがたいものだと思う。

2026/04/23

漫画雑話(2026年4月)

 2026年4月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 むらたん『修羅幼女』第1-2巻(※2冊同時刊行、ファンギルド、原作あり、1-5話/6-10話)。表紙買いで、「この絵が描けるなら本編も行けるだろう」という期待が当たった。武を追い求めて戦死した剣士男性が、少女の身体に生まれ変わった話。ストイックな精神性のままに、ストーリーはひたすら過酷な戦いを描いているので、一気に通読するのはちょっとつらいが、しかし躍動感のある動きの描写も、レイアウトでの見せ方も非常に上手いし、その一方で小柄キャラのふわっとした長髪の軽みが、良いコントラストになって紙面を引き立てている。漫画家は、『【人形遣い】の成り上がり』(全3巻)に続く2つ目の連載とのこと。さらに『シロナガス島』コミカライズも連載開始予定のようだ。
 遊喜じろう『前世は冷酷皇帝、今世は幼女』第2巻(アルファポリス、原作あり、6-11話。ちなみに昨年刊行の第1巻も買った)。偶然ながら、こちらも似たような趣向。しかし本作では、前世とは正反対に市井の日常を体験したいと主人公が願い、それでいて転生した経緯の謎を含めた因縁がつきまとうという路線になるようだ。身体を乗っ取られた元の少女の意識も、「不幸になる運命から逃がしてくれた」と霊体の形で平和的に同行して、しばしば主人公と会話をする(※他の作品でも見かけたことのある設定だが、上手いやり方だと思う)。視覚的表現に関しても、動きの描写は控えめだが、背景装飾を初めとした美術的な魅力や、返り血を浴びた主人公の凶悪な笑顔など、独自の個性がはっきりと打ち出されている。こちらも良作。作者は『二度と家には帰りません』コミカライズ版の長期連載(最新第9巻)も平行している模様。


●カジュアル買い、買い足しなど。
 丸智之『捕食者系魔法少女』第3巻(ガンガン、12-17話)。昆虫型の巨大モンスターたちを使役できる魔法少女が、現代世界に侵略してきたゴブリン型の異生物に対抗する話。主人公本人の身体能力は一般人並で、戦術志向のドラマ作りにしているアプローチは面白いし、ポケモンに代表されるような使役バトル路線そのものは興味深い。絵と演出も良く出来ている。……のだが、「昆虫たちに指示して頭脳派主人公が戦う」というのは、どうにも子供っぽく感じてしまい、個人的にはあまりノれなかった。なお、衣服が破れて胸部露出するなど、お色気描写も妙に多い。今どき珍しく、主人公キャラはとても薄平べったい、善哉。
 紺吉『若葉ちゃんは分からせたい!』第1-2巻(双葉社、1-10話/11-19話)。高校生女子が、朴念仁な幼馴染との関係を維持していくために、あえて彼の前ではボーイッシュな振舞いをしているというシチュエーションもののラブコメ。従来のありがちな「偽の恋人」ものが、アイデンティティや人間関係を偽ることによって強引に恋愛関係を形成してしまうのとは逆に、本作ではヒロインが自らのアイデンティティを偽ることによって、恋愛を意識させない(苦手意識を持たれない)ように努力するという構造になっているのがユニーク。もちろん、長期的には彼を落としたいと願っているし、その葛藤のモノローグは読者の前に明示される。ヒロインの可愛らしさと元気な魅力の両方を、正面から(文字通り物理的な意味でも)描いているのが気持ちよい。
 コブラサナギ『センパイ、自宅警備員の雇用はいかがですか?』第3巻(マイクロマガジン、11-15話)。なんだか不思議な作品。成人男性が家出少女を住まわせるというベタなシチュエーションなのだが、本筋部分は意欲的なコマ組み演出や強烈な表情描写で深刻な感情を描いている一方で、やけにチープなデフォルメコメディやモタついたコマ組みも混じっている。ちなみにお色気要素は希薄。


●続刊等。

1) 現代もの(シリアス系を含む)。
 遊維『大海に響くコール』第4巻(20-26話、完結)。終盤では、シャチの位置づけを「見て楽しい魅力的な実在」から「象徴的モティーフ」へと引き上げつつ、高校生たちが自分のアイデンティティ確立を求める思春期の物語として、きれいに締め括った。
 小川麻衣子『波のしじまのホリゾント』第5巻(28-34話、完結)。こちらは終盤でも徹底してミニマルな日常の柔らかなデリカシーを描き続け、大袈裟なドラマは避けるというアプローチできれいに一貫させつつ完結した。
 あむ『澱の中』第5巻(31-36話、完結)。凶行と逃避行、そして幻想の終わりまで。愛情と不気味さと依存と社会性の困難と人間の多面性を、強烈な拡大して表現してみせた。
 ガス山タンク『ペンと手錠と事実婚』第7巻(48-55話)。一冊丸々使って、横溝リスペクトな山村因習殺人エピソード。シチュエーションの特異性ゆえか、今回はキャラクター個性は控えめだが(※新婚旅行ネタをちょっと入れた程度)、結構面白かった。トリックそれ自体は、ありがちな[二重底と氷]なのだが、それらを照れずに堂々と使っているのが好印象。
 牛乳麦ご飯『ボーイッシュ彼女が可愛すぎる』第5巻(43-50話)。今回は対比的なサブキャラを登場させたが、ドラマとしてはベタな展開。
 ナツイチ『三咲くんは攻略キャラじゃない』第4巻(31-40話)。初期の恋愛ゲーム準拠のメタネタコメディはチープだったが、キャラクターの内面造形や周囲の環境も掘り下げられてきて、今巻のクライマックスにまで持ってこられたのは幸い。次巻で完結予定とのこと。


2) ファンタジー世界(エンタメ寄り)。
 竹掛竹や『吸血鬼さんはチトラレたい』第3巻(15-23話、完結)。タイトルだけで出オチのような作品だが、ウブで倒錯した吸血鬼ヒロインを中心とする(あまりえろくはない)ハーレム寸前の日常コメディを、マイルドに描ききった。読後感は悪くない。
 柳原満月『魔法少女×敗北裁判』第3巻(case4の完結回から、case5の全体)。えろネタだが、演出の切れ味は良いし、キャッチーなギミック(例えば「人格排泄」ネタ)を大胆に取り込んでいるスレスレっぷりの刺激的で、さらに検事キャラが被告人になるという捻りも入れてきている。
 kakao『辺境の薬師』第12巻(94-101話)。背景作画の質感と空間性を見事に描きつつ、それをコマ組みドラマの中で効果的に表現している手腕は相変わらず。ただし最近は、露骨なえろ展開に傾斜してきた。
 背川昇『どく・どく・もり・もり』第6巻(29-34話)。……あっ、しまった、第5巻を見逃していたようだ。かなり好きな作品なのに(※基本的に店頭でのその場買いだけなので)。
 のゆ『新聞記者ヴィルヘルミナ』第2巻(8-14話)。ジャーナリスト主人公というアプローチは個性的だが、センセーショナリズム報道やスキャンダル炎上など、現代的なネタに引き寄せすぎているようにも感じるし、16世紀ドイツ(※ドイツ風の架空社会)という状況設定の面白味があまり活用できていない。ちょっともったいないなあ。
 緒里たばさ『暗殺後宮』第10巻(50-54話)。前巻から続く労役所編の締め括り。ストーリーとしては、主人公の成長を示唆しつつ、彼との関係のありようが決定的に変化した劇的な部分……なのだけど、いささか肩透かしに感じた。けっして悪くはないのだけど、ちょっと唐突だし、別の布石のための描写が混じっていてすっきりしない。