2026/06/06

2026年6月の雑記

 2026年6月の雑記。

 06/16(Tue)

 いわゆる「エルフの森が焼かれる」云々というのは近年(10年代末?)新たに作り出されたミーム乃至アイデアだと思うが、いったい何処から、何故こんなに広まったのだろうか。

 80年代以前。洋風ファンタジー世界像は、当初は『指輪物語』以来の複雑で多元的な社会として構想されていたと言えるだろう。この時点でひとまず、それぞれの種族が固有の文化(精神的価値、生活形態、技術的知識など)を持った存在として現れた。
 90年代~00年代までの日本サブカルチャーでは、多種族間のマイルドな平和的共存を基調としていたように見受けられる。ただしそれは、基本的には人間中心主義的な描写であり、異種族キャラクターたちは「人間社会にとっては周縁的存在」、「知性が乏しく、劣等かつ非社会的存在」、「せいぜいのところゲストキャラ」にとどまっていたことの裏面でもある。例えばSLG「オウガバトル」シリーズでも、フェアリーやリザードマン、ホークマン、ゴブリン、ゴーゴンといった異種族たちは、戦闘時のユニットとしては登場するが、社会集団としての側面はあまり描かれていない。
 00年代後半。異種族キャラクターがフィーチャーされて魅力的に描かれるようになったのは、00年代後半の美少女ゲーム分野の「モンスター娘」ブームまでは、ほとんど存在しなかった(※ただしエルフ族を除く。また、格闘ゲーム『Vampire』シリーズなど、個性的な挑戦事例も存在した)。20年代の現在では信じられないだろうが、比較的オーソドックスな「獣人ヒロイン」や「悪魔キャラ」ですら、当時はかなりマイナーな、あるいはイロモノなキャラクター属性であり、「天使族」キャラクターすら、ろくに形成されていなヵった。ソフトハウスキャラ、Eushully、Escu:de、alicesoft、NinetailといったSLG系美少女ゲームメーカーは積極的に異種族ヒロインたちを登場させていたが、恋愛系ADVでは異種族ヒロインはきわめて稀だった。
 10年代以降は、キャラクター志向の二次元文化の爆発的拡大とともに、異種族の知的生命体たちも独自の個性と主体性を備えたキャラクターとして描かれる頻度が高まっていった。エルフキャラだけでなく、悪魔キャラ、吸血鬼キャラ、獣人キャラ、さらには額に角の生えた鬼キャラなども二次元文化に定着し、ゲームやイラストに頻繁に登場するようになった。異世界ハーレム系ネット小説も、この趨勢を後押しした一要因だろう(※ちなみに、エルフの標準的な体格イメージが、スレンダーからグラマラスへとシフトしていった悲劇も、おそらくこの時期の出来事だ)。
 10年代後半。こうして、異種族キャラクターたちが普及するとともに、あらためてかれらの文化的造形や社会性が精緻化されていった。文化面に関しては、ドワーフやオークなど、古典的なイメージがほぼ踏襲されたが、多種族共存世界における相互関係については、掘り下げの余地が大きかったようだ。すなわち、経済的交流、差別的関係、種族間対立、民族紛争、そして「民族国家」どうしの対立および戦争などが、作劇の道具立てとして活用されていく。
 さて、ここでようやく「エルフの森」の話に戻る。フィクションの洋風ファンタジー世界における社会関係や技術水準に関する認識がリアリスティックに深められていく中で、長命で自然志向のエルフたちは、「原始的とも言える生活形態を持っている閉鎖的な少数民族」という側面が否応なく目立っていっただろう。そしてそれは、「脆弱な小規模社会集団が、強大な文明国家と接触したならば、一方的に収奪されるだろう」という思考に向かうのは、無理ならぬことだろう。また、異世界系ネット小説では、たしかこの頃に、奴隷制描写を取り入れるものが増えていた。人間族どうしの奴隷化から一歩進んで異種族を奴隷として描くとき、「動物のように扱われる獣人族」と並んで「可憐さゆえに悲劇性を強調できるエルフ」が、好適な対象となったことは自然な流れだろう(※ひどい話だけどね!)。
 こうして、異世界社会のイメージが精緻化されていくプロセスと歩調を合わせて、「迫害される少数民族としてのエルフ」像が広まって行ったのではないかと、個人的に推測している。どこかにマイルストーン的な作品があったのかもしれないが、寡聞にして聞き及ばない。

 美少女ゲーム分野でも、90年代から『Dearest Vampire』(タイトルどおり吸血鬼ヒロインなどが登場する)や、『恋姫』(elf作品、龍族ヒロインなどいろいろ)、『とらいあんぐるハート』シリーズ(これも吸血種や幽霊ヒロインがいる)など、異種族ヒロインをフィーチャーした作品はいくつか存在した。80年代以来のSLG/ファンタジーの雰囲気がいまだ強い時代だったせいもあるだろう。
 しかし00年代に入ると、現代世界の学園恋愛系とダーク系に二分されて、ファンタジー要素はいささか希薄になっていく。ファンタジー要素を含むタイトルは、SLG系の活発な創造性を別とすれば、Triangle『魔法戦士』シリーズやcolors『魔法少女アイ』シリーズに代表されるような変身ヒロインものか、メランコリー系(または伝奇系)の現代和風幻想もの――90年代の『アトラク=ナクア』から00年代の『顔のない月』『腐り姫』『夏神楽』など――が主流で、なかなか異種族ヒロインを出すには至らなかった。ただし、サキュバス(淫魔)キャラだけは定期的に登場していた。
 00年代半ばになって、ようやくポップでライトな異種族ヒロインが普及していく。魔法少女もの(『ウィズ アニバーサリィー』)から、色っぽい吸血鬼ヒロイン(『です☆めた』『宵待姫』)、そしてとりわけUNiSONSHIFT(『WAGA魔々かぷりちお』『Chu×Chuアイドる』)がこの路線を強力に牽引した。『とり×とり』(2006)は、異種族ヒロインだらけの作品という意味でも、ハロウィンネタを取り込んだ作品という意味でも、先駆的な作品だった。アトリエかぐやも、『マジカルウィッチアカデミー』(2005)でこのジャンルに進出してきた。
 そして00年代後半になると、凝った設定のファンタジー世界を舞台にしたタイトルが増えていく。ただし、素朴に古典的なファンタジーを踏襲するのではなく、意識的なパロディ作品として作られることも多かった。ケモ耳ヒロインも、流行するようになったのは案外遅くて、たしかこの時期からだったと思う。さらに00年代末には、先述の「モンスター娘」への挑戦が本格的に始まる。
 ……と、だいたいこんなふうにして、00年代の様々な動向が、10年代以降の流れを準備していたと言えるだろう。エルフヒロインも、2004年頃までは非常に少なくて、2005年あたりからようやく一般化していった。『ぱすてるチャイム』(1998)から、『プリンセス小夜曲』(2005)、そして『姫騎士アンジェリカ』(2007)……あっ、「グラマラスなエルフ」像はこの作品の影響が大きかったのかも。


 最近では、「アニメ化」のニュースをかなりシラけた目で見るようになっている。結局のところ、新しいものが生まれるわけではないので。関連グッズはどうでもよいし、アニメ映像それ自体も、動画向けに単純化された絵になってしまって原作のタッチの個性が失われるし、漫画のコマの猿真似コピペのような低品質なコンテも頻出している。ストーリー面で見ても、原作をなぞるばかりのものが多いし、ほんの12話(漫画にして3~5冊)でぶつ切りにされてしまうのが通例だ。原作者もアニメ版制作に多大な時間を取られて原作進行が停滞するという本末転倒な事態も起きる。
 良いこともあるのは認める。端的に言えば、その作品にお金が入ってくるということだ。例えば、原作が重版されたりもするし、原作連載が継続される見込みも高まり、そして優れたクリエイターの懐が潤う。作品に色と音が付き、卓越した声優が秀逸な台本に沿って演じるのを楽しめるというありがたい機会にもなる。でも……なあ……ただそれだけのことで、アニメ化だアニメ化だと大騒ぎされるのにはもう飽きている。
 アニメ分野それ自体としても、メディアミックス優位でお金に振り回されていく中で、売れるコンテンツの2期や3期が延々制作される一方で、オリジナルアニメが激減しているのはたいへん悲しい風景だ。
 個人的にも、原作(小説や漫画)のテンポや雰囲気が好きだからこそ、アニメ版は観たくないという気分になることは多い。ある作品のファンであっても、その関連コンテンツに一々付き合うべき義理があるわけではない。ましてや、他人の商売に付き合う必要は無い。もちろん、優れた作品が正当に注目を集め、そして優れた成果を出したクリエイターが経済的にもまっとうなリターンを得られるのは良いことなのだけど、しかしそれでも、アニメ界隈のあれこれは過剰に商業主義化しているように見受けられる。「アニメ化」の情報が、我々読者/視聴者の側にとってそんなに喜ぶべきことなのかは、立ち止まってその都度再考すべきだと思う。


 先月発売の漫画新刊も、ようやくほぼ消化できた。このブログは、読んだ記録であるとともに発売時期の記録でもあるので、先月の本は先月用のページに加筆していくことにする。


 いわゆる「チェーホフの銃」原則を引き合いに出す人がいまだにいるけど、あれは古いセオリー、というか、そもそも主張の妥当性すら欠いているんじゃないかなあ。
 創作作品は、ストーリーだけに意味があるのではなく、美術的な側面や全体的なムードにも表現性がある。なので、小道具がどこかで使われるかどうか(物語上の機能を持つかどうか)に拘泥するのは、視野が狭いと思う。ちなみに、ここ三十年来のオタクたちの悪癖で、目について気になったものを何でもかんでも「伏線」「ネタ仕込み」だと思い込んで勝手に期待するのも、それと同じ問題を抱えている。
 場所とコストと上映時間の限られる舞台演劇――しかも比較的小規模な――であれば、観客の気を散らさないように余計な要素を省いて本筋に集中させることには意味があったかもしれない。しかし、映画2本分以上の長尺で展開される週間アニメや、延々連載されて話がどう転ぶかも分からない漫画作品(※作者自身も、途中で話の展開を変えたりするだろう)では、そのような決め打ち的な受容(読解)姿勢は不適切だし、ましてやそれを規範として作品の良否を評価するのは的外れになるだろう。


 象のSNSでは、とりわけ政治に関しては、できるかぎりマイルドな語りをするように努めている。
 ミクロレベルでも、結局のところ、国民はお互いに1票ずつを持っている対等な相手であって、それを一方的に貶したり罵倒したりしても何の成果にもつながらない。
 マクロレベルでも、国民が党派的な敵味方思考に慣らされて分断されていること自体が、「権力に対する健全な監視」の意識を弱めてしまっていることに危機感がある。
 さらにプロセスレベルでも、相手を冷静かつ公平に説得するという姿勢――つまり民主的な熟議――を回復しなければいけないという考えがある。

 もちろん、妥協するという話ではない。譲歩してはいけない基準については、筋を通してきちんと主張する。ただ、「これが分からないお前はバカだ」などという喧嘩腰になるのは無意味だという話だ。
 また、相手と肩を組む必要も無い。政治の目的は、仲良くなることではなく、ひとまずは公平なルールについて1億人がお互いに合意形成できるようにすることだ(※不公正なものにならないように、議論するのだ)。
 さらに、これは相手による。公職者など責任のある者に対しては、厳しく追及してよい。放置すればするほど害悪が膨れ上がるからだ。また、腰巾着のデマゴーグや商売目的の煽動屋に対しても同様だ。しかし、悪意ではなさそうな一般人に対しては、対等な市民どうしとして、冷静、慎重、公正なコミュニケーションの仕方で説得していくべきだろう。というか、そうでなければ、「あらゆる個人の尊厳を重んじる」という大前提が崩れてしまう。「いくらでもバカにしてよい愚かなネ○ウ○」のようなカテゴリーを作ってしまうことは、それ自体、社会の最低限の公正さを自ら手放しているに等しい。だから、対立党派の支持者たちにどんなに腹が立っても、あるいはその愚かさがどんなにもどかしく思えても、そこはなんとか我慢して対話を目指すようにしている。
 ただしこのブログは、SNSとは違って基本的にマイナーなモノローグの場なので、説得目的のソフトな語り口よりも、正しい理路をきれいに示す(書き残す)ことを目的にしている。

2026/06/05

漫画雑話(2026年6月)

 2026年6月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 檸羽(ねう)『悪役令嬢ってのはこうやるのよ』第1巻(双葉社、原作あり、1-5話)。いまいち。カオミン氏デザインをベースにしていることもあってキャラデザはなかなか魅力的だが、疫病解決など、アイデアがどれもありきたり。仇役がどれも愚かなのが退屈させる。
 男性向けだと敵対者は「倒し甲斐(乗り越え甲斐)のある、立派な強大な存在」として描かれることが多いのに対して、女性向けだと「心ゆくまで叩き潰せる、醜くて愚かで無価値な小物のゴミ」として描かれる。前者は前者で問題がある(例えば悪いことをしているキャラクターも格好良くなりすぎる)けれど、後者も、美醜と好悪だけを基準にした格差主義と、異物(というか自分よりも「下」の存在)に対する攻撃性の発露を全肯定している気持ち悪さがある。この作品でも、主人公と対立する「ヒロイン」側の人物たちが愚かな社会的粗相によってどんどん自滅していくので、なんともカタルシスが無い。
 いわゆる「私のためにキモい奴らを殴ってくれるヤ○ザ様or公爵様」のアプローチも、反転させると「俺のために醜いあの女どもをいじめてくれる元気ギャルちゃんor高嶺の花お嬢様」になるのだが、たぶん大多数の男性はそういうキャラクター(関係)を悍ましく感じるだろう。うーん。いや、もしかして、ありなのか? 「モテない僕をギャルたちから護りつつ尽くしてくれる強気な幼馴染」のようなものも、うーん、それほど露骨ではないにせよ、あったかもしれない。まあ、どちらも私は嫌だけど。


●カジュアル買い、買い足しなど。
 新島なるい『白銀のキュイジーヌ』第1-2巻(講談社、1-4話/5-11話)。明治時代の外交官邸で西洋料理を作ることになった少女の物語。傲慢毒舌な上司(美形若年男性)の下で働くことになる主人公の「かわいそ可愛い」雰囲気はコミカルで楽しいし、料理描写などもきちんと下調べをして作劇されている。主人公の少女も、どこか妙に色っぽく(えろすではなく、なまめかしい)、濃厚な雰囲気を漂わせている……のだが、えっ、第2巻(新刊)で完結してる! もったいないなあ……。シチュエーションも明確で、目標もはっきりしており、人間関係も見通しが良く、そしてキャラクター造形や台詞のセンスにも独自性があり、漫画的演出もこなれていて充実した内容なのに……。なお、作者はこれが3つめの連載のようだ。次なる連載の機会に期待する。
 俵京平『金のなる森』第2巻(集英社、5-16話、5月刊)。表紙でカジュアル買い。人類が火薬などの近代的技術を発達させて、旧弊的なエルフ族から搾取しはじめている世界(財宝、奴隷化)で、両者の合間を縫って活躍する商売人(?)主人公の物語。オリエンタリズム的な財宝探しロマンの物語類型でもあり、また、近年(再)形成されてきたエルフイメージを梃子として巧みに用いている点でも興味深い。ただし、シナリオ展開はややぎこちなく、トリックもありきたりだが、ドラマティックな展開は楽しめる。ほどほどに肉付きの良い人体描写と、意外に派手なグロシーン、さらに異能フレーバーのある魔法表現と、それらを活用した戦術的側面が混じり合っている贅沢な内容。せっかくなので第1巻も買って読んでおこう。作者は『恋獄の都市』(全5巻)に続く2つめの連載のようだ。


●続刊等。
 きただりょうま『魁の花巫女』第8巻(67-78話、完結)。結局、方向性のよく分からない作品だった。伝奇ものとしても中途半端だし、異能バトルというにも食い足りず、お色気ハーレムとしてもエンジンが掛からず、視覚的演出についても(かなり良い出来ではあるのだけど)驚きに乏しかった。この漫画家さんは、『μ&i』からずっと読み続けていて、たぶんファンと自称してもよいくらいだけど(※ただし『エグゼロス』は読んでいない)……うーん。
 井山くらげ『後宮茶妃伝』第9巻(47-51話)。お茶関係のネタがヴァラエティ豊かで、読んでいて飽きない(※架空世界の架空茶だが、十分にあり得る話として受け止めることができる)。ストーリーは、後宮の人間関係が安定してきて、政治よりもお茶そのものを楽しむエピソードに集中している。作画に関しても、細く精妙なペンタッチと、くっきりした黒ベタのコントラストを活用しつつ、時にはユーモラスな表情も交えて物語を朗らかに展開している。
 目玉焼き『悪役令嬢の矜持』第4巻(17-21話)。作画を引き継いで新たな漫画家が制作されているが、画風は比較的似ている(寄せている)ので、続けて読んでも大丈夫。第2巻までのクライマックスから、第3巻はスイートな後日談でややダレたが、今巻は新章に入って新たな物語が展開されている。紙面全体の描き込みがべったりと重たいせいで、やや読みづらいが、美術面でもストーリー面でも十分な面白味があるので、引き続き買っていくつもり。
 眼亀『ミズダコちゃん~』第5巻(29-35話)。プールにお祭と、夏のイベントが続く。異種族キャラクターの造形のユニークさと、そのディテールの掘り下げ、そして空間的なレイアウトを意欲的に使ったレイアウトなど、見どころは多いが、同時にサブキャラなどには、チープで品のないところもある。pixivのイラストを見ても、本格派のクリーチャー系趣味で奇想豊かな作品をいくつも描いておられ、創作的な根っこはそちら側にある方なのだろう。
 雁木万里『妹は知っている』第7巻(55-63話)。人間関係がいったん確立されたところで、さらにそれを先へ進めていこうとしているようだ。メール投稿職人の兄というキャッチーな部分と、芸能人(妹手)の裏側の何気ない日常という受けの良さそうな側面が、さほど連動しているわけではないのに、上手く両輪としてバランスが取れているのが面白い。

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2026/06/04

アニメ雑記(2026年6月)

 2026年6月の新作アニメ感想。第8~9話あたりから、最終話まで。

●『淡島百景』
 第8話。新たな世代の同期の友人たち3人を通じて、思春期の交友関係のありがちな軋みを――ただし過去の話という体裁で距離を取って――描いている。ミーハーキャラの小鳥遊を初めとして、今回はやや明るくもミニマルな路線。劇伴も、沈鬱な台詞と不釣り合いなほどに朗らかな曲調を押し出してくる。この演出は、学内の陰湿な空気を振り払って「風通し」を良くすることへの希望が描かれていると見るべきだろう。
 ただし、コンテはあまり上手くない。不可解に角度のズレた切り返しショットのせいでキャラクター間の位置関係に戸惑うし、廊下などの露骨な3Dモデリングも浮いている。

 第9話。これまでのエピソードで出てきたキャラクターたちを、第1話の田畑若菜を軸に再配置して緩やかに見晴らす、滋味のある話数。ミシンやピアノなど、ちょっとしたシーンがきれいにアニメーションしているのも心地良い。本作としては珍しく演劇シーンを映しているが、そこもシンプルで引き締まったステージ演出として描かれている。
 ピアノを弾きながらやたら元気に目立っていたキャラクター(柳原)は、中村カンナ氏が演じている。『悪食令嬢』のメルフィエラの役者さんなのか、ちょっと意外だ。
 アニメ版が完結したら、人間関係や登場回などを整理したい。今のところ、台詞も含めてほとんど原作どおりなのだけど、わずかにアニメ版独自の追加表現もあるので、それらも参照しておきたい。
 EDのダンスだけは、毎回どうにも居心地が悪い。あんまりきれいではないし、楽曲に合わせている感じも乏しいし、途中で波に流されるところも微苦笑を誘われてしまうし……。

 第10話。母/祖母世代を強く意識する3人のエピソードが連なる。
 役者として大成した母親への憧れと距離感を持ち続けた息子の物語は、一見すると牧歌的で穏やかな懐古談の体裁を取っているが、手の届かない断絶も暗示されている。
 母親に見守られつつ挫折し、しかし執着し続けている自分を明確に意識している娘は、意識できているようでいてしかし、母親たち周囲のシステム(事務所)によって人格形成されてしまった悲劇と言うこともできる。ダンス練習のアニメーションは躍動感があるだけに物悲しい。この二つはいずれも、既存キャラとの関わりの無い単独エピソード。
 そして祖母へのコンプレックスから、祖母の面影に重ね合わせてしまったクラスメートへの嫉妬と敵意を抱えてしまった伊吹の悔恨が再び描かれる。超現実的でシンボリックな映像表現にも説得力がある(※絵コンテは渡邉こと乃氏、演出は田部伸一氏)。
 今回はキャストにもビッグネームが並んでいる。引退したトップ俳優は井上喜久子氏、息子役は関俊彦氏。その妻を演じている竹内氏は、ここ十年ほど、サブキャラやモブキャラばかりで大量の出演実績があるという、ちょっと不思議な方。事務所の母親は園崎氏。伊吹役の恒松あゆみ氏は、吹き替え畑の声優さんだが、堅固なテンポのモノローグの中に繊細な感情を織り込んでいる。


●『上伊那』
 第9話。うーん、下手だなあ。絵の動かし方が拙劣で、注目させなくてもよい不必要なところを動かしたり、その一方で悪目立ちするキャラ停止があったりする。レイアウトも無理があって、頭頂部だけを映したり、かと思えば片目のどアップで長々と間をつないだりしている(そんなのでは、見つめ合いのニュアンスは作れていない)。背景作画もばっさり省略されていて味気ないし、風景の美しさも無い。今回の絵コンテ&演出&作監の方は、有名なクリエイターらしいけど、これでは評価できない。例えば首の太さや長さのおかしな絵も散見されて、個々のカットそのものも変だし、コンテのレベルでも取捨選択を間違えている。
 これまで面白い演出が出てくることを期待して視聴を続けてきたが、こういう大ハズレの話数も頻出するので、全体としては不満が大きい。残り3話≒1時間を付き合うのも無駄と感じてきたので、もうやめるかも。

 第10話。美術館とスタジオ訪問。これまでのシナリオは凸凹していたが、今回の寡黙な失恋のムードでひとまずの結着を見せたと言えるか。細やかな光源変化などの演出が、画面を平板さから救っている(※とはいえ、作為的な思わせぶりの台詞や、視線を外すレイアウト、心象風景の挿入など、無難だがベタな表現も多い)。唐突に「好きな人、いる?」と尋ねて、しかも質問した側がそのまま会話を無視していくという陳腐な思わせぶりは、たしか以前の回でも使われていた。困惑の表現だとしても、あまり成功しているとは言えない。美術館で「補助線(=景嵐)」を受け入れることを断ったくだりも、理解はできるけれど、その場その場の単発のレトリックに終わっているので深みが無い。
 Cパートは一発ネタのわりに長すぎるし、A/Bパートとの雰囲気が違いすぎる。ここは余計だったかな。
 郡上の失恋をしつこく描きすぎなのでは……。いや、まあ、そういう主題で描いたと理解してもよいのだけど、煙草での(明確な)拒絶 → 後れを取ったことをぼたんから間接的に認識 → 景嵐に傾く → まだ未練のメランコリーというのは、うーん。


『カナン様』
 第9話。まるで漫画のコマを貼り付けて並べたかのような、動きに乏しくてひたすら安っぽい駄目コンテ。ただし、ところどころにユーモア精神の盛り付けが見て取れる。小ダゴン役がやけに切れ味の良い芝居を披露されていると思ったら、なんと、久野美咲氏だった。

 第10話。サブタイトルを見て、視聴を止めた。メ○ガ○という侮蔑的な表現は、いくらなんでも放送しちゃ駄目でしょ……。明らかに一線を越えている。そういうのは、えろ同人などのゾーニングの向こうだけでやってくれよ……。


●『自称悪役令嬢』
 第9話。思いきった見せ方の、物凄いエピソード。この一話全体を使って、「あり得たかもしれない道筋」(=ピーちゃんが作った幻想の世界)を一息に――そして美しくもロマンティックに――辿って、そして再び大転換にまで持って行く劇的な回になっている。ループものゲームのような味わいもあり、またあるいは幾原監督作品や昨年の『九龍ジェネリックロマンス』のような虚構世界のカタストロフをも連想させるような雰囲気の中で、二人のヒロインが鏡写しの存在であったこともあらためて示唆されていく(※今回のクレジットでは「ヒローニア」の方が主役として上に記載されているのも、なかなか衝撃的だが、同時に説得的でもある)。男性主人公が「人形」であることについては、まだ最終的な説明はないが、このペースならば残り3話できちんとした結着まで描いてくれるだろう。
 「ピーちゃん」役の三波春香氏も、終盤の泣き芝居は短いながらも力演で、今回のドラマティックな展開を締め括るのに相応しい存在感を発揮した。デビューから3年でまだ若手の声優さんだが、今後の活躍に期待したい。
 サブキャラたちが全員ピーちゃん顔になったシーンは、見返してみるとかなりグロいな……。
 今回の絵コンテは、ロマのフ比嘉氏(第6話も担当されていた)。演出の上野謙矢氏も、第5話以来の起用。

 あっ……本作の監督の山元隼一氏は、前年の『前橋ウィッチーズ』の監督でもあるのだが、その『前橋』の主要キャスト5人が全員、本作にも出演されているのか。上記の三波氏に、第5話のモブ生徒3人(本村氏、咲川氏、百瀬氏)、そして第9話のメイド(春日氏)。いずれも『前橋』の時点でデビュー2年目あたりの新人揃いだったという意欲的な起用だが、本作でも経験を積ませているのが微笑ましい。

 第10話。前回の劇的なエピソードから一転して、今回はゲームシナリオの説明をコミカルに駆け抜けていく(※劇伴も、おかしみを明確に表出している)。そして、富田氏自身による挿入歌とともに、二人の心が結ばれるシーンを率直に描いていく。
 時間経過についてもなかなかユニークな作品だ。幼少期からスタートして、数ヶ月または1年ほどのスキップを適宜挟みながら、二人が成人年齢まで成長してきた過程をきちんと描ききっている。年齢に応じた表現のチューニングを、作画班も声優陣も見事にやりきっている。
 この作品の最初のうちは、乙女ゲームものを裏側から見たパロディのような安っぽい作品のような作りだったで(※実際に軽みを前面に出していた)、富田氏のために視聴していたようなものだったが、中盤からここまでの盛り上がりを見せてくれるとは予想できなかった。富田氏を信じてここまでついてきて良かった。

 第11話は、後始末とエピローグ。「ヒローニア」が最後に見せた矜恃と情愛の姿は美しく、また、湖畔に佇む二人もきれいなハッピーエンドのシーンになっている。そして男性主人公の背景に関する長大な語りは、内容それ自体は本筋ではないが、物語を静かに柔らかくクールダウンさせていくうえで好ましい効果を発揮している。
 音響面では、ヒローニアの非を難じるシーンで、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」(ピアノ版)が延々流れている。既成曲の使用は初めてかな? 曲調と曲名の両方から、ヒロインキャラがヒロインの立場を最終的に手放すことになった、喪失の虚しい悲劇を演出している。
 「とうじん王」は闘尽か?闘刃か?刀刃か?濤陣か?あるいは(人的資源を戦争で)蕩尽か?と困惑しながら視聴していたが、なんと、クレジットでは「トージン」だった。アーンネイ=安寧だったのと同様に、たぶんそういった意味合いの含意のあるネーミングだと思われるが。ちなみに、トージン役の寺西氏も、同じ監督の『前橋ウィッチーズ』出演者。そういえば、精霊クロ役の鬼頭氏も『前橋』出演者だった。
 Cパートで登場した弟くんは、蛇足になりそうな気配もあるが、最終回まで見届けよう。

2026/05/11

2026年5月の雑記

 2026年5月の雑記。

 05/29(Fri)

 今月は延々ゲームをしていて、それ以外は生産性に乏しかった。いや、漫画等も普段どおりのペースで読んでいるのだが……読んでいるつもりなのだが、またもや未読が20冊ほど溜まってきている。


 イエサブ模型コンテストの参加ネタは、「ギィ」か「グライフェン(バラクーダ)」のどちらかになりそう。前者は、ネイルシールを使ったカジュアルな装飾がほどほどにキャッチーなアレンジになっていて、見た目の面白さと技術的な実験性を提供できるだろう。後者はベタだが、箱入りレイアウトを深海風の簡易ジオラマに作れば、コンテストの趣旨にも合致するだろう。

2026/05/09

漫画雑話(2026年5月)

 2026年5月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 まだ先月分の新刊も読み切っていないけど、まあ仕方ない。