2026/06/06

2026年6月の雑記

 2026年6月の雑記。

 06/22(Mon)

 【 現代エンタメにおける悲劇の欠落 】
 現代日本のエンタメ(とりわけサブカル系)が、強迫的なまでにハッピーエンドを志向(要求)しがちなのは、もったいないと感じている。歴史的に見ても、フィクションにおける悲劇のカタルシスの意義は、古典古代からずっと高く評価されてきたし、受け手もそれを虚構の中の出来事として享受してきたのだが……。例えば、すれ違いによってカップルが結ばれずにそれぞれ自死してしまう『ロミオとジュリエット』が20年代のエンタメ作品として作られる(翻案リメイクされる)ことは、うーん、残念ながら、ほとんど想像できない。史実ベースの歴史物だけは例外だけど、それ以外のオリジナル創作で、悲劇を志向するものはいよいよ少なくなっているように思う。

 1) 私見では、これはおそらく皮相的で迎合的な商業主義の産物であり、結果的に創作と感性の振れ幅を狭くしてしまっている。しかし、それだけでもないかもしれない。
 2) 00年代初頭の、いわゆる「泣きゲー」(という誤ったジャンル認識)が大きな禍根を残した。それらは、一方では、障害者などの社会的困難を戯画的に誇張した感動ポルノという邪悪な側面があった。keyの脚本家が闘病ノンフィクションを読み漁って参考にしたというのは、その酷薄かつ無責任な欲望の所在をよく示している。またその一方で、影の濃いメランコリーの雰囲気にリードされる、いわゆる「鬱ゲー」アプローチも、90年代末の世紀末的ムードの延長上にあってそのパラダイムに絡めて取られており、そのポテンシャルを活かしきれなかった。
 3) コンテンツの長さも、おそらく影響している。2~3時間の舞台演劇であれば、悲劇の結末にしばし浸ってからスッキリと切り替えて劇場を後にすることができただろう。しかし、長大なゲームを何十時間もプレイした結末が、主人公の死などの不幸な形になるというのは、心理的なインパクトが大きく異なる。ただし、ゲームでもデニム皇帝の暗殺とかがあったし、連載漫画『デビルマン』や『ザ・ムーン』が人類全滅エンドだったり、通年アニメ『Vガンダム』で味方側キャラクターがほぼ全滅してたりと、悲劇寄りのタイトルも昔は一定数存在した。世紀の替わる頃に、なにか決定的に雰囲気が変わってしまったように感じる。また、メディアミックスを含めて物語世界を大きく展開していく際に、人の死を描いてしまうとそのキャラはもう登場できなくなるし、悲劇的な事件があるとその後の展開に大きな影響を及ぼしてしまうので、そうした要素は扱いづらいというのも、まあ、分からないではない……ただの商業主義的都合に過ぎない、とも思うけど。
 4) 社会的要因? 不況下のリアルな経済的-社会的困難が続く中では、「物語の中でまで不幸を見たくない」と感じる人が増えるのは、十分あり得ることだろう。しかし、そうした悲劇嫌悪のネガティヴな声がSNS空間では過剰に増幅されやすいという状況が、問題をさらにややこしく解決困難なものする。

 今世紀の有名なタイトルにも、露悪的な残虐イベントを含む作品はある。しかしそれらも、SNS空間では「未読/未見の人にショックを体験させたい」という陰湿なDV的欲望のネタとして消費されるばかりで、苦味のある劇的感興をじっくり味わおうという精神的姿勢が存在する余地がきわめて小さい。悲劇の醍醐味というは、そんなびっくり箱の衝撃ではないのに……。
 また、NTRもののように、不幸描写が――あるいは、不幸描写までもが――しばしば性的な要素と結びつけられるようになったのも、それらを表立って扱おうとする際の妨げになっているかもしれない。
 むしろ、腰を据えて丁寧に描かれる長編コンテンツの方が、人間性の機微に触れるビターな物語を効果的に描き出せる力があるのだが、「ハッピーエンドにしました」「ハッピーエンドになりますから大丈夫です」といった言説ばかりが広まっているのを、いささか悲しい思いで見ている。
 もちろん、昔でも悲劇寄りの作品がマジョリティだったというわけではない。しかし、近年の動向は「ハッピーエンドでなければいけない(そうでなければ売れない、そうでなければ読まない)」というところまで極端に偏ってしまっていることに問題がある。

 見方を変えれば、90年代くらい(?)まででは、終盤に悲惨なカタストロフが発生して、それをなんとか生き延びてちょっとだけ未来の希望を見て終わる……といったようなスタイルがそれなりに多かったと思う。それはそれで珍しいスタイルの作劇だったかもしれないが、近年のタイトルでもこういう展開があると、「おお、来た来た、懐かしいなあ!」と嬉しくなってしまったりする。
 アニメ映画『ナウシカ』(1984)から『もののけ姫』(1997)の影響も大きかっただろうけど、ゲームのFFシリーズも頻繁にこの演出を取り入れてきた。最近の漫画などでもたまにそういう気分を感じさせる作品はある。アニメだと、2025年の『ある魔女が死ぬまで』(大津波)や『九龍ジェネリックロマンス』(街全体が崩壊する)、『全修。』(虚構世界の崩壊)などは一応これに当てはまる。
 主人公が瀕死になって精神世界をさまよい始めたりするのはちょっとシラけるけど、まあ、そういう展開になるのも仕方ない。

2026/06/05

漫画雑話(2026年6月)

 2026年6月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。

●新規作品。
 檸羽(ねう)『悪役令嬢ってのはこうやるのよ』第1巻(双葉社、原作あり、1-5話)。いまいち。カオミン氏デザインをベースにしていることもあってキャラデザはなかなか魅力的だが、疫病解決など、アイデアがどれもありきたり。仇役がどれも愚かなのが退屈させる。
 男性向けだと敵対者は「倒し甲斐(乗り越え甲斐)のある、立派な強大な存在」として描かれることが多いのに対して、女性向けだと「心ゆくまで叩き潰せる、醜くて愚かで無価値な小物のゴミ」として描かれる。前者は前者で問題がある(例えば悪いことをしているキャラクターも格好良くなりすぎる)けれど、後者も、美醜と好悪だけを基準にした格差主義と、異物(というか自分よりも「下」の存在)に対する攻撃性の発露を全肯定している気持ち悪さがある。この作品でも、主人公と対立する「ヒロイン」側の人物たちが愚かな社会的粗相によってどんどん自滅していくので、なんともカタルシスが無い。
 いわゆる「私のためにキモい奴らを殴ってくれるヤ○ザ様or公爵様」のアプローチも、反転させると「俺のために醜いあの女どもをいじめてくれる元気ギャルちゃんor高嶺の花お嬢様」になるのだが、たぶん大多数の男性はそういうキャラクター(関係)を悍ましく感じるだろう。うーん。いや、もしかして、ありなのか? 「モテない僕を愚かなギャルたちから護りつつ尽くしてくれる強気な幼馴染」のようなものも、うーん、それほど露骨ではないにせよ、あったかもしれない。まあ、どちらも私は嫌だけど。
 鯨川リョウ『教生カンケイ』第1巻(秋田書店、1-6話)。鯨川氏の新連載。両親から愛されていないと感じている一人暮らしの男子高校生のところに、だらしない女性教師が転がり込んでくるコメディ。主人公の心情描写にはシリアス要素もあるが、ヒロインの方はひたすら滅茶苦茶な生活をしている。この漫画家さんらしいキャラクター造形の尖った切れ味や、闊達自在で「お行儀良くしない」コミカル演出は健在。
 あきときたいき『オヤサイリベリオン』第1巻(小学館、1-6話)。野菜擬人化(?)キャラクターたちの物語。ナス族を虐殺する根菜たちと、それに対するナス主人公の復讐のドラマ。作画はレイアウトも良いし、力感のある動きもよく描けていて素晴らしいし、目玉が飛び出る(物理)くらいのグロ描写もあるのだが、シナリオとキャラデザが陳腐なのがもったいない。また、シリアスなようでいて中途半端にメタジョークを挟んでくるのも、個人的に好みから外れる(※焼死したナスキャラを「焼き茄子」と呼んだり)。野山を進むシーンの細やかな所作など、良いところも多いのだが……。擬人化キャラたちの凄惨なバトルという観点では『どく・どく・もり・もり』の後追いのようなアプローチだが、現時点ではとても比較にならない。作者はこれまでいくつもの連載経験があり、絵作りそれ自体はかなり高い水準なのだが……つくづくもったいない。


●カジュアル買い、買い足しなど。
 新島なるい『白銀のキュイジーヌ』第1-2巻(講談社、1-4話/5-11話)。明治時代の外交官邸で西洋料理を作ることになった少女の物語。傲慢毒舌な上司(美形若年男性)の下で働くことになる主人公の「かわいそ可愛い」雰囲気はコミカルで楽しいし、料理描写などもきちんと下調べをして作劇されている。主人公の少女も、どこか妙に色っぽく(えろすではなく、なまめかしい)、濃厚な雰囲気を漂わせている……のだが、えっ、第2巻(新刊)で完結してる! もったいないなあ……。シチュエーションも明確で、目標もはっきりしており、人間関係も見通しが良く、そしてキャラクター造形や台詞のセンスにも独自性があり、漫画的演出もこなれていて充実した内容なのに……。なお、作者はこれが3つめの連載のようだ。次なる連載の機会に期待する。
 俵京平『金のなる森』第2巻(集英社、5-16話、5月刊)。表紙でカジュアル買い。人類が火薬などの近代的技術を発達させて、旧弊的なエルフ族から搾取しはじめている世界(財宝、奴隷化)で、両者の合間を縫って活躍する商売人(?)主人公の物語。オリエンタリズム的な財宝探しロマンの物語類型でもあり、また、近年(再)形成されてきたエルフイメージを梃子として巧みに用いている点でも興味深い。ただし、シナリオ展開はややぎこちなく、トリックもありきたりだが、ドラマティックな展開は楽しめる。ほどほどに肉付きの良い人体描写と、意外に派手なグロシーン、さらに異能フレーバーのある魔法表現と、それらを活用した戦術的側面が混じり合っている贅沢な内容。せっかくなので第1巻も買って読んでおこう。作者は『恋獄の都市』(全5巻)に続く2つめの連載のようだ。
 ささきさ『蒼きバルカナリア』第1巻(秋田書店、4月刊、1-5話)。これまで2作の連載経験のある漫画家による、16世紀ブルガリアを舞台にした物語。衣装、風景、建物、料理などのディテールが濃密に描き込まれており、読みごたえがある。シナリオは少女漫画なりに見通しをシンプルにしているが、ポジティヴな主人公の意志的で活発な行動が、見ていて心地良い。なお、「バルカナリア(balkanaria)」は、「バルカン半島の事物(バルカン文化)」といったような意味のようだ。


●続刊等。
 1) 現代舞台の作品。
 雁木万里『妹は知っている』第7巻(55-63話)。人間関係がいったん確立されたところで、さらにそれを先へ進めていこうとしているようだ。メール投稿職人の兄というキャッチーな部分と、芸能人(妹手)の裏側の何気ない日常という受けの良さそうな側面が、さほど連動しているわけではないのに、上手く両輪としてバランスが取れているのが面白い。
 三都慎司『ミナミザスーパーエボリューション』第3巻(9-12話)。超常能力そのものの開拓はいったん区切りを付けて、同じ能力を持つ他者の出現、そしてそれらと対比的に描かれる青春の日常の輝きが美しい。


 2) ファンタジー寄り。
 きただりょうま『魁の花巫女』第8巻(67-78話、完結)。結局、方向性のよく分からない作品だった。伝奇ものとしても中途半端だし、異能バトルというにも食い足りず、お色気ハーレムとしてもエンジンが掛からず、視覚的演出についても(かなり良い出来ではあるのだけど)驚きに乏しかった。この漫画家さんは、『μ&i』からずっと読み続けていて、たぶんファンと自称してもよいくらいだけど(※ただし『エグゼロス』は読んでいない)……うーん。
 井山くらげ『後宮茶妃伝』第9巻(47-51話)。お茶関係のネタがヴァラエティ豊かで、読んでいて飽きない(※架空世界の架空茶だが、十分にあり得る話として受け止めることができる)。ストーリーは、後宮の人間関係が安定してきて、政治よりもお茶そのものを楽しむエピソードに集中している。作画に関しても、細く精妙なペンタッチと、くっきりした黒ベタのコントラストを活用しつつ、時にはユーモラスな表情も交えて物語を朗らかに展開している。
 目玉焼き『悪役令嬢の矜持』第4巻(17-21話)。作画を引き継いで新たな漫画家が制作されているが、画風は比較的似ている(寄せている)ので、続けて読んでも大丈夫。第2巻までのクライマックスから、第3巻はスイートな後日談でややダレたが、今巻は新章に入って新たな物語が展開されている。紙面全体の描き込みがべったりと重たいせいで、やや読みづらいが、美術面でもストーリー面でも十分な面白味があるので、引き続き買っていくつもり。
 眼亀『ミズダコちゃん~』第5巻(29-35話)。プールにお祭と、夏のイベントが続く。異種族キャラクターの造形のユニークさと、そのディテールの掘り下げ、そして空間的なレイアウトを意欲的に使ったレイアウトなど、見どころは多いが、同時にサブキャラなどには、チープで品のないところもある。pixivのイラストを見ても、本格派のクリーチャー系趣味で奇想豊かな作品をいくつも描いておられ、創作的な根っこはそちら側にある方なのだろう。
 上田悟司『現実主義勇者の王国再建記』第15巻(73-77話)。ドラゴン編を終えて、雪国編へ。政治的交渉の中で人間性の輝きや技術的卓越を見出していく軍師的な楽しみの作品だが、縦進行を大胆に取り入れた独創的なコマ割は健在だし、ディテールをハンドライトでザクザク描き込んでいく気持ちよさも、洋書で描かれる顔アップの魅力的なニュアンスも素晴らしい。
 恵広史『ゴールデンマン』第9巻(67-74話)。向こうの世界の悪徳企業との大決戦。それぞれにキャラ立てが上手いうえに、ここまでの描写の蓄積もあり、そのうえで各キャラの志操信念に関わる決意やテクニカルな対処の旨味もたっぷり味わえる。なお、9月頃に最終巻(10+11巻)が発売されるとのこと。

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2026/06/04

アニメ雑記(2026年6月)

 2026年6月の新作アニメ感想。第8~9話あたりから、最終話まで。

●『淡島百景』
 第8話。新たな世代の同期の友人たち3人を通じて、思春期の交友関係のありがちな軋みを――ただし過去の話という体裁で距離を取って――描いている。ミーハーキャラの小鳥遊を初めとして、今回はやや明るくもミニマルな路線。劇伴も、沈鬱な台詞と不釣り合いなほどに朗らかな曲調を押し出してくる。この演出は、学内の陰湿な空気を振り払って「風通し」を良くすることへの希望が描かれていると見るべきだろう。
 ただし、コンテはあまり上手くない。不可解に角度のズレた切り返しショットのせいでキャラクター間の位置関係に戸惑うし、廊下などの露骨な3Dモデリングも浮いている。

 第9話。これまでのエピソードで出てきたキャラクターたちを、第1話の田畑若菜を軸に再配置して緩やかに見晴らす、滋味のある話数。ミシンやピアノなど、ちょっとしたシーンがきれいにアニメーションしているのも心地良い。本作としては珍しく演劇シーンを映しているが、そこもシンプルで引き締まったステージ演出として描かれている。
 ピアノを弾きながらやたら元気に目立っていたキャラクター(柳原)は、中村カンナ氏が演じている。『悪食令嬢』のメルフィエラの役者さんなのか、ちょっと意外だ。
 アニメ版が完結したら、人間関係や登場回などを整理したい。今のところ、台詞も含めてほとんど原作どおりなのだけど、わずかにアニメ版独自の追加表現もあるので、それらも参照しておきたい。
 EDのダンスだけは、毎回どうにも居心地が悪い。あんまりきれいではないし、楽曲に合わせている感じも乏しいし、途中で波に流されるところも微苦笑を誘われてしまうし……。

 第10話。母/祖母世代を強く意識する3人のエピソードが連なる。
 役者として大成した母親への憧れと距離感を持ち続けた息子の物語は、一見すると牧歌的で穏やかな懐古談の体裁を取っているが、手の届かない断絶も暗示されている。
 母親に見守られつつ挫折し、しかし執着し続けている自分を明確に意識している娘は、意識できているようでいてしかし、母親たち周囲のシステム(事務所)によって人格形成されてしまった悲劇と言うこともできる(※彼女がずっとレッスンスクールのガラス看板の裏側に居続けている映像は、明らかにこの解釈を示唆している。これは原作漫画には無い、アニメ版独自に強調した演出だ)。ダンス練習の長尺アニメーションは躍動感があるだけに物悲しい。この二つはいずれも、既存キャラとの関わりの無い単独エピソード。
 そして祖母へのコンプレックスから、祖母の面影に重ね合わせてしまったクラスメートへの嫉妬と敵意を抱えてしまった伊吹の悔恨が再び描かれる。超現実的でシンボリックな映像表現にも説得力がある。絵コンテは渡邉こと乃氏、演出は田部伸一氏。
 今回はキャストにもビッグネームが並んでいる。引退したトップ俳優は井上喜久子氏、息子役は関俊彦氏。その妻を演じている竹内氏は、ここ十年ほど、サブキャラやモブキャラばかりで大量の出演実績があるという、ちょっと不思議な方。事務所の母親は園崎氏。伊吹役の恒松あゆみ氏は、吹き替え畑の声優さんだが、堅固なテンポのモノローグの中に繊細な感情を織り込んでいる。
 ストーリー上も、そして原作のストックを見ても、次回(第11回)が最終回になるのかな? 新規エピソードで第12話を作るのかもしれないけど。


●『上伊那』
 第9話。うーん、下手だなあ。絵の動かし方が拙劣で、注目させなくてもよい不必要なところを動かしたり、その一方で悪目立ちするキャラ停止があったりする。レイアウトも無理があって、頭頂部だけを映したり、かと思えば片目のどアップで長々と間をつないだりしている(そんなのでは、見つめ合いのニュアンスは作れていない)。背景作画もばっさり省略されていて味気ないし、風景の美しさも無い。今回の絵コンテ&演出&作監の方は、有名なクリエイターらしいけど、これでは評価できない。例えば首の太さや長さのおかしな絵も散見されて、個々のカットそのものも変だし、コンテのレベルでも取捨選択を間違えている。
 これまで面白い演出が出てくることを期待して視聴を続けてきたが、こういう大ハズレの話数も頻出するので、全体としては不満が大きい。残り3話≒1時間を付き合うのも無駄と感じてきたので、もうやめるかも。

 第10話。美術館とスタジオ訪問。これまでのシナリオは凸凹していたが、今回の寡黙な失恋のムードでひとまずの結着を見せたと言えるか。細やかな光源変化などの演出が、画面を平板さから救っている(※とはいえ、作為的な思わせぶりの台詞や、視線を外すレイアウト、心象風景の挿入など、無難だがベタな表現も多い)。唐突に「好きな人、いる?」と尋ねて、しかも質問した側がそのまま会話を無視していくという陳腐な思わせぶりは、たしか以前の回でも使われていた。困惑の表現だとしても、あまり成功しているとは言えない。美術館で「補助線(=景嵐)」を受け入れることを断ったくだりも、理解はできるけれど、その場その場の単発のレトリックに終わっているので深みが無い。
 Cパートは一発ネタのわりに長すぎるし、A/Bパートとの雰囲気が違いすぎる。ここは余計だったかな。
 郡上の失恋をしつこく描きすぎなのでは……。いや、まあ、そういう主題で描いたと理解してもよいのだけど、煙草での(明確な)拒絶 → 後れを取ったことをぼたんから間接的に認識 → 景嵐に傾く → まだ未練のメランコリーというのは、うーん。

 第11話。良いところと悪いところが混在している。例えば劇伴をほぼ無くして環境効果音だけで、その場面の緊張感と劇的凝集力を高めている。思考を中断するエスカレーターの行き止まりや、迷いを表す螺旋階段なども、象徴表現というには露骨すぎるが、まあ悪くはない。エスカレーターが前半は登り(つまり気分が高揚していく)、そして帰路では下り(気分も落ち込んでいく)というのも良く出来ている。歩かないエスカレーターと、自らの足で歩くシーンの間の対比でもある(……と思うが、今回の脚本に鑑みて、対比としては上手く機能していない)。エスカレーターシーンのモブ(マネキン)たちはさすがに3D作画だろうか? 冒頭の水彩風のカットから、現実にゆっくりゆっくりと意識が戻ってくる際の精妙なズームアウトも、きわめて珍しい動画表現だ。さらに、キャラクターの匂いに直接言及するのも、アニメとしては少々レアな現象ではある。
 その一方で、画面分割演出やコミカルデフォルメは上手くいっていないし。左右を入れ替える切り返しショットもよく分からない(※これらのシーンでは、ぼたん/いぶきの立場を入れ替えるような脚本にはなっていないので、交換させてみせる演出上の意味が無い)。
 でも、食事中に相手への断りもなく煙草を吹かし始めるのは、やはりマイナスイメージが……(※もちろんフィクションだから、「断りが不要なくらい会食を繰り返してきた」と解釈することも可能だし、あるいは「相変わらず気の利かないキャラなのだ」という解釈もできるけど)。


『カナン様』
 第9話。まるで漫画のコマを貼り付けて並べたかのような、動きに乏しくてひたすら安っぽい駄目コンテ。ただし、ところどころにユーモア精神の盛り付けが見て取れる。小ダゴン役がやけに切れ味の良い芝居を披露されていると思ったら、なんと、久野美咲氏だった。

 第10話。サブタイトルを見て、視聴を止めた。メ○ガ○という侮蔑的な表現は、いくらなんでも放送しちゃ駄目でしょ……。明らかに一線を越えている。そういうのは、えろ同人などのゾーニングの向こうだけでやってくれよ……。


●『自称悪役令嬢』
 第9話。思いきった見せ方の、物凄いエピソード。この一話全体を使って、「あり得たかもしれない道筋」(=ピーちゃんが作った幻想の世界)を一息に――そして美しくもロマンティックに――辿って、そして再び大転換にまで持って行く劇的な回になっている。ループものゲームのような味わいもあり、またあるいは幾原監督作品や昨年の『九龍ジェネリックロマンス』のような虚構世界のカタストロフをも連想させるような雰囲気の中で、二人のヒロインが鏡写しの存在であったこともあらためて示唆されていく(※今回のクレジットでは「ヒローニア」の方が主役として上に記載されているのも、なかなか衝撃的だが、同時に説得的でもある)。男性主人公が「人形」であることについては、まだ最終的な説明はないが、このペースならば残り3話できちんとした結着まで描いてくれるだろう。
 「ピーちゃん」役の三波春香氏も、終盤の泣き芝居は短いながらも力演で、今回のドラマティックな展開を締め括るのに相応しい存在感を発揮した。デビューから3年でまだ若手の声優さんだが、今後の活躍に期待したい。
 サブキャラたちが全員ピーちゃん顔になったシーンは、見返してみるとかなりグロいな……。
 今回の絵コンテは、ロマのフ比嘉氏(第6話も担当されていた)。演出の上野謙矢氏も、第5話以来の起用。

 あっ……本作の監督の山元隼一氏は、前年の『前橋ウィッチーズ』の監督でもあるのだが、その『前橋』の主要キャスト5人が全員、本作にも出演されているのか。上記の三波氏に、第5話のモブ生徒3人(本村氏、咲川氏、百瀬氏)、そして第9話のメイド(春日氏)。いずれも『前橋』の時点でデビュー2年目あたりの新人揃いだったという意欲的な起用だが、本作でも経験を積ませているのが微笑ましい。

 第10話。前回の劇的なエピソードから一転して、今回はゲームシナリオの説明をコミカルに駆け抜けていく(※劇伴も、おかしみを明確に表出している)。そして、富田氏自身による挿入歌とともに、二人の心が結ばれるシーンを率直に描いていく。
 時間経過についてもなかなかユニークな作品だ。幼少期からスタートして、数ヶ月または1年ほどのスキップを適宜挟みながら、二人が成人年齢まで成長してきた過程をきちんと描ききっている。年齢に応じた表現のチューニングを、作画班も声優陣も見事にやりきっている。
 この作品の最初のうちは、乙女ゲームものを裏側から見たパロディのような安っぽい作品のような作りだったで(※実際に軽みを前面に出していた)、富田氏のために視聴していたようなものだったが、中盤からここまでの盛り上がりを見せてくれるとは予想できなかった。富田氏を信じてここまでついてきて良かった。

 第11話は、後始末とエピローグ。「ヒローニア」が最後に見せた矜恃と情愛の姿は美しく、また、湖畔に佇む二人もきれいなハッピーエンドのシーンになっている。そして男性主人公の背景に関する長大な語りは、内容それ自体は本筋ではないが、物語を静かに柔らかくクールダウンさせていくうえで好ましい効果を発揮している。
 音響面では、ヒローニアの非を難じるシーンで、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」(ピアノ版)が延々流れている。既成曲の使用は初めてかな? 曲調と曲名の両方から、ヒロインキャラがヒロインの立場を最終的に手放すことになった、喪失の虚しい悲劇を演出している。
 「とうじん王」は闘尽か?闘刃か?刀刃か?濤陣か?あるいは(人的資源を戦争で)蕩尽か?と困惑しながら視聴していたが、なんと、クレジットでは「トージン」だった。アーンネイ=安寧だったのと同様に、たぶんそういった意味合いの含意のあるネーミングだと思われるが。ちなみに、トージン役の寺西氏も、同じ監督の『前橋ウィッチーズ』出演者。そういえば、精霊クロ役の鬼頭氏も『前橋』出演者だった。
 Cパートで登場した弟くんは、蛇足になりそうな気配もあるが、最終回まで見届けよう。
 二人の生き方が、皮肉にも対照的なものになってしまったというのも味わい深い。「ヒローニア」は、本来は天然でありながらきちんと努力する性格であり、ハッピーエンドに相応しいキャラクターだったのが、ゲーム設定を半端に囓った転生者が中に入ったことにより、他者をNPCとして見下す我が儘キャラになってしまった。それに対して「バーティア」は、本来のゲームキャラとしては、周囲から甘やかされて傲慢になってしまった悪役だったのが、その中に善良で献身的な転生者が入ってきたことで、「一流の」悪役令嬢を目指して自己犠牲的なまでに努力する人柄になり、結果的に悪役から最も遠いキャラクターとして、ヒーローから愛されるようになる。……こんなねじれた転生をさせた神(仮)が悪いのでは?
 前回はバーティア役の挿入歌、そして今回はセシル側の挿入歌。たぶん歌詞にも意味が込められているのだろうけど、残念ながら聞き取れない。

2026/05/11

2026年5月の雑記

 2026年5月の雑記。

 05/29(Fri)

 今月は延々ゲームをしていて、それ以外は生産性に乏しかった。いや、漫画等も普段どおりのペースで読んでいるのだが……読んでいるつもりなのだが、またもや未読が20冊ほど溜まってきている。


 イエサブ模型コンテストの参加ネタは、「ギィ」か「グライフェン(バラクーダ)」のどちらかになりそう。前者は、ネイルシールを使ったカジュアルな装飾がほどほどにキャッチーなアレンジになっていて、見た目の面白さと技術的な実験性を提供できるだろう。後者はベタだが、箱入りレイアウトを深海風の簡易ジオラマに作れば、コンテストの趣旨にも合致するだろう。

2026/05/09

漫画雑話(2026年5月)

 2026年5月に読んだ漫画の雑感。主に単行本新刊について。
 まだ先月分の新刊も読み切っていないけど、まあ仕方ない。