2026/08/17

『天幕のジャードゥーガル』原作漫画とアニメ版の比較対照:第5話

 第5話「蛇のまだらは外側に 人のまだらは内側に」

 原作漫画の第9話と第10話を扱っている。時代は1229年のオゴタイ即位直後からの動きを扱っている。
 サブタイトルは、モンゴルの俚諺であるらしい。
 脚本はふたたび加藤還一。絵コンテは笹木信作。90年代ジブリでアニメーターを務め、その後多数の作品で絵コンテの仕事をしているようだ。演出の石郷岡範和は、2010年代から活躍中。


 (00:00-)前話の繰り返しから、チャガタイのところへ潜入させるという話まで。1229年の秋以降だろう。

 (03:00-)Aパートでは、シラとともに潜入を図る。台詞は原作からさらに肉付けされて、シラの側の事情も窺い知れるような発言もある。作画面では、馬の手綱を繋留所に結わえるところのアニメーションなど、細部もかなり丁寧に作っている。「大丈夫だろ、神様が望むなら」と、宗教的なバックグラウンドへの示唆を増やしているのも、このアニメ版のアレンジである。また、「愛想良く笑うことしか取り柄のない、つまらない奴隷です」と、第1話から繰り返されるファーティマの特徴を、アニメ版はここでも念押ししているが、少々くどいかもしれない。モブ女性の「似てない……」という台詞も、アニメ版の追加。言い換えれば、それ以外はおおむね原作どおりの進行であり、コマ絵とコマ絵の間のアニメーションを緻密化することに集中しているようだ。奴隷たちの天幕で、「もしかしたら私たち、いつかすれ違うことがあったかもしれませんね」と、トゥース時代を思い起こすくだりもアニメ版独自のアレンジである。ドレゲネ配下の男性カダクがいう「ラクダと言うと、ヤギと言う」は、どうやらモンゴルに実在することわざであるらしい(※アニメ版で追加された台詞)。彼に乗せられて馬の背中で運ばれていくシーンは、非常に躍動感のあるアニメーションになっている。
 ドレゲネのテントに入る。アニメ版のドレゲネは、暗い天幕の中で灯火の逆光に照らされて、息を荒げて落ち着きなく身をよじりながら主人公を責める。アニメ画面ならではの空間的な奥行きと明暗のグラデーションが、この場面の不安定な緊張感をいっそう強めている。なお、細かな話だが、漫画原作のカダクについては「侍従」という言葉が使われているが、アニメ版はシンプルに「家来」と呼んでいる。
 
 (13:40-)ドレゲネから解放された主人公は、帰路でチャガタイとオゴタイの行軍に遭遇する。アニメ版では、騎行する二人の両脇を、松明を掲げた配下たちが立ち並んでおり、その後のシーンでは威圧的な照明としても機能することになる。また、アニメ版は、チャガタイの台詞に「酔わずにいられるか、可愛い弟が晴れて皇帝となったんだ。こんなにめでたいことはない」という言葉を付け加えている。チャガタイの女性蔑視的な発言に対して、主人公が無言のうちに怒りで鼻息を荒げるのも、アニメ版の臨場感溢れる音声演出(※原作漫画では、硬直した横顔のコマだけ)。
 「あなた様には、おわかりにならないでしょうね」の箇所は、原作でも大ゴマを使って不気味にもふてぶてしく描いている。それに対してアニメ版のファーティマは、兵士たちに囲まれて一人佇みつつ、俯いた姿からゆっくりと顔を上げ、緑に輝く両眼で皇兄を見つめてこの言葉を口にする。そしてそれを横から見ていたドレゲネも、髪飾りをチリンと慣らすほどに動揺し、一瞬のフラッシュバック――次の第6話に関わる――とともに目を瞠らせてファーティマを見つめる。
 ドレゲネの機転を利かせた介入によって場の緊張状態はひとまず解決され、例の白い満月の下をオゴタイたちは静かに帰っていく。満月にパンアップ(ティルト)してから、ふたたびカメラが地面に向けられると、そこはドレゲネの天幕になっているという面白いカットつなぎもある。ドレゲネのテントでの会話でも、アニメ版は手の込んだ演出を施しており、暗い屋内での弱い灯火や、格子壁越しに二人を捉えるカメラワーク、前後の奥行きを強調するレイアウト、そして入り口の垂れ幕の奥に輝く赤い灯火などによって、この二人の隠微な密談のムードが引き立てられている。ドレゲネ役の小清水亜美も、苛立たしげな素振りの奥に燃える情念を、その芝居の声の中へ巧みに滲ませていく。