2026/07/12

2026年7月の雑記

 2026年7月の雑記。


 07/18(Sat)

 ソフトハウスキャラ由来の「Team++」による新作にして最終作とのこと(7/31発売)。
 長く続けてこられたものだなあ……。
 しかし、まことに遺憾ながら、8月は時間を取れるかどうかは分からない。うーん。


 [ https://www.youtube.com/watch?v=pW6iJnLibtQ ](※『マジルミエ』第2期ラジオ)
 声優ファイルーズあい氏の、役ではなくご本人としての喋りを初めて聞いたが、声の圧力が物凄い……。
 もちろん全体のパワーだけでなく、異様なまでに明晰な語り口や、言葉の端々の精密なコントロール、会話への反応の鋭敏さと饒舌さ、表情変化の鮮やかさ、そしてユーモア感覚まで含めて、この40分間について行くだけでへとへとになる。
 裏を返せば、アニメなどでの芝居は、あれでも全体のバランスを考えつつパワーを適切に絞り込んだ成果なんだなあ。そして『悪役令嬢レベル99』では、抑えても抑えきれない迫力が漏れ出てくる旨味が存分に発揮されていたし、『ネガポジアングラー』では我が道を行くキャラクター(そして主人公にとっての目標にもなる)の魅力として結実していた。


 今期のアニメは、派手な流血描写が多いなあ……しかも、わりとリアリスティックに、色の赤さや粘度や、噴出の勢いまではっきり示すように描いている。
 偶然の偏りだと思うけど、いや、もしかしたら私が普段手を出していないジャンルでは、これまでも血飛沫が飛びまくっていたのだろうか?


 異世界系コンテンツで、学園編が使われやすいのも、理解はできるのだけどね……。
 様々なバックグラウンドのキャラクターを大量投入できる。意欲と能力さえあればよい。
 一般的な封建社会ならば会話も許されないような階級間格差も、学内ではほぼ無効化できる。
 学生たちはあくまで一時的で、しかも基本的に対等の関係として自由に描ける。
 学習上の目標設定を明確化させやすい。
 必要に応じて、学校側からどのようにでも行動を規制できる。
 移動範囲がキャンパス内に留まるので、手間が掛からない。
 現実の学校システムを、ある程度参照できるので、制度のディテールを把握して書きやすい。
 学校ごとの特徴を自由に設定できる(魔法学科、貴族学校、等々)。

 ただ、これらはあくまで著者サイドでの長所であって、読者サイドでは往々にしてデメリットへと反転する。例えば、「雑多な新キャラが大量投入される」、「主人公のこれまでの活躍が無にされて、ただの一学生になってしまう」、「学校の恣意的なルール設定のせいで、出来ないことが多い」、「キャンパス内に閉じ込められるので閉塞感が強い」、「既存の学園ものに接近するのでマンネリ感が強い」、等々。


 アニメ制作のプロセスについて、私なりの理解は以下のような感じ。様々な情報を総合しているので、だいたい合っていると思うけど……。アニメ系の専門学校などでは、初歩の知識として教えられている筈。

企画成立。出版社、TV会社、アニメ制作会社などが持ちかけて、製作委員会を作れたら成立。実際には、社内の個人レベルで動き出すこともわりと多いようだ(馴染みのTVプロデューサーとアニメ監督が、「次はあの作品をやりましょうよ」「良さそうですね」といった感じで)。この時点で、企画の予算規模もほぼ決まっているだろう。基本的には、OPムービーにクレジットされているのが中核スタッフと見做してよいだろう。
組織化。現場レベルでは、アニメ制作会社、プロデューサー、ディレクターを中心に、作画監督、脚本家、そして原画/動画スタッフ、作曲家、歌手などを集める(広報、放映、海外交渉なども別途動く)。ただし、監督レベルでも、企画の大枠が固まった後で、雇われディレクターとして投入される場合はあるようだ。放映時期(〆切)なども決めていく。
内容の大枠。監督、脚本家(シリーズ構成)、プロデューサー、原作者などが協議して、まずは全体的な方向性を決める。シナリオについても(どこまで進めるかなど)、これらの協議の中で決める。オリジナル作品の場合は、監督などのコアメンバーの間で方向性を決めていく(※ものによっては、当初のアイデアから大きく変更される場合もある)。必ずしも脚本家がリードするわけではない。キャラデザや衣装ディテールなども、この段階で確定される、各種設定や背景ロケハンなども同様。
各話の制作。各話のコンテ/演出/脚本/作監などが割り振られ、それぞれ作業を進めていく。個々の話数でどのような内容を扱うかも、事前に定められている。各話の内容をコントロールするのが、監督の仕事(シナリオの整合性を確保したりする)。
 脚本:まずは脚本家がシナリオを提出する。ただし、それが確定稿になるわけではなく、それに沿って絵コンテを構成していく中で、台詞を取捨選択したり、脚本家と相談して変更したり、かなり柔軟に処理されるようだ。
 絵コンテ:これは映像の青写真のようなもの。全体進行や画面レイアウトを、24分の尺に収めるように作る(OP/EDを別とすれば21分程度)。絵コンテをベースにして(あるいは絵コンテそのものを精密に作って)、厳密なタイムシートにする。この段階では、手書きのコンテ用紙であることが多いようだ(※よく知らない)。絵コンテで台本が確定した時点で、他言語版への翻訳も進められる筈。
 コンテに沿って、まずは静止画としての原画を、カットごとに作成する。作画監督が全てチェック(必要に応じて修正)して、統一感とクオリティを確保する。この段階では、色のガイドの付いた線画の状態。ものによっては、3Dモデルを利用する場合もある。
 原画をベースにして、それを動画にしていく。つまり、絵の動きをつけるように、枚数を増やしていく。原画は、カットの始めと終わりの絵であることが通例なので、その間の動きを埋める枚数という意味で、動画パートは「中割」とも呼ばれる。動画の滑らかな変化を表現するために、紙の手書きを使うこともまだある……のか? フルデジタル化している制作会社も多いと思うけど。
 線画レベルで映像がひとまず完成したら、それに着彩していく。この段階では、完全にデジタル化されている筈。色彩設計の担当者があらかじめ細かく色を指定して、それに沿って彩色していく。
 背景作画。建物の内装や風景シーンなどは、専門の美術設計が付いたうえで、動画とは分業制作されることが多いようだ。背景専門または背景特化のスタジオもある。
 撮影処理。全体の映像がひとまず出来たところで、最後にCGでエフェクトを付けたり、ぼかしを入れたり、ライティング(光の明暗などの演出)を施したりする。これは、セル撮影に倣って「撮影処理」と呼ばれているようだ。ここまでで映像としてはほぼ完成。現代のデジタル環境では、この撮影処理パートの表現上/演出上のウェイトが増していると思われる。
 映像制作と平行して、BGM(劇伴)や声優の音声芝居も入れる。声優のアフレコ(映像に声を当てて芝居をする)は、早ければタイムシートや線画の段階で行われることもある。声優ラジオの発言でも、多くの場合は原画段階(口パクが判別できるくらいの線画状態)だが、完全に彩色済みの映像にアフレコすることも稀にある、というくらいのようだ。声優の芝居については、基本的には音響監督がコントロールしつつ、監督も収録現場に同席するのが通例のようだ。脚本家は、いたりいなかったり。居合わせていれば、台詞のニュアンスなどについて説明したりフォローしたりすることが可能だが、実際には脚本家無しで音声収録する方が普通のようだ(?)。他言語版の収録も、同様に行われる。
 ダビング。劇伴(BGM)は、作曲家に別途発注されている。「夕方のシーン」「バトルシーン」「ロマンティックなシーン」のような感じの指定だろう。基本的には音響監督が、映像に合わせてBGMや効果音を付ける。音量バランスなども調整する。
 その他、細々した編集を経て、最終的に視聴覚データが完成する。指定された形で放映/配信される。

 だいたいこういったプロセスだと思う。
 ありがちな誤解として、脚本が絶対だとか、監督の意見が絶対だとか、声優が自由なテンポで芝居しているといった捉え方をするオタクを見かけることがあるけれど、さすがにそんなことは無い。 実際には、コアメンバーの間でかなり綿密なやりとりをして調整することが多いようだ。
 制作期間はかなり長い。企画が成立した時点から放映日まで、3~5年は掛かるのが通例のようだ。ものによっては、企画の練り直しなどでさらに延びるし、「あの作品をやりましょうよ」というユルい話から数年間塩漬けになっている場合もあるとのこと。言い換えれば、アニメは他の分野から数年遅れで流行を追っているとも言える。

 私のアニメ感想でも「作画」に言及することがあるが、基本的には、「絵そのものにきちんとコストを掛けている」くらいの意味合いで使っている。つまり、線画の精密度、動画のリッチさ、色彩設計の良さあたりを大まかに指している。それに対して、レイアウトの良否、映像的テンポのコントロール、音響表現などは「演出」の次元で捉えている。作画班の頑張りそれ自体は正当に評価されるべきだが、それを映像表現の最終的なアウトプットとしての完成度やインパクトにつなげられるかどうかは、絵コンテや演出の領分になる。


 ……なん……だと……!? アニメ版『カムイさん』で、友永氏と青山氏が共演(?)しているとは……(第3話)。配信サイトでEDクレジットを確認してみたが、他の回でも、桃井氏、かわしま氏、柚木氏、遠野氏とベテラン美少女PCゲーム声優が立て続けに出演されている。まさかこんな機会が得られるとは……。




 07/11(Sat)

 アニメ版『BLACK TORCH』はわりと面白かったが、導入部のプロットは昔ながらのパターンそのままだった。この種の、「現代日本の学生が、妖怪や怪物のバトルにいきなり巻き込まれて、いったんは命を落とすが超自然的存在と融合して、異能のスキルを身につけて戦に身を投じる」というのは、いつ頃から始まったのだろうか。
 さしあたり頭に浮かんだのは『3×3EYES』(1987年開始)と『幽遊白書』(1990)。『デビルマン』(1972)はかなり古い。命を落として生まれ変わるのは、必須ではない(当てはまらない作品も多い)が、特撮『ウルトラマン』(1966)や『仮面ライダー』(1971)の影響があるかもしれない。もちろん、90年代以降(?)の「戦う魔法少女もの」も、これと平行している。00年代以降の美少女PCゲームの変身ヒロインものは、むしろこれらから影響を受けた側だろうか。
 『寄生獣』(1989)も、この流れ内にあるだろう。掲載誌アフタヌーンは、『犬神』(1996)、『エイリアン9』(1998)、『なるたる』(1998)など、似たような趣向の作品をいくつも試みた。

 90年代までの週刊少年ジャンプ連載作品だと、『ウイングマン』(1983)、上記『幽遊白書』、『遊☆戯☆王』(1996)などがおおまかに該当すると思われる(※上記の定式化は、全部の要素が当てはまる必要は無く、いわば理念型的なモデルとして捉えている。だから、高校生ではなかったり、死ななかったりする)。導入部が類似の特徴を持つタイトルは、『コブラ』(1978)、『バオー来訪者』(1984)、『ゴッドサイダー』(1987)など。この雑誌には、該当作は案外少ない。『ヒカルの碁』(1999)や『DEATH NOTE』(2004)にも、このパターンの影響は見て取れる。21世紀では、『武装錬金』(2003)や『呪術廻戦』(2018)のような、かなり典型的なパターンを踏襲するタイトルが現れるが、全体としては少数事例にとどまっている。
 サンデー誌も、2000年以前だと『うしおととら』(1990)と『ARMS』(1997)くらいしかないが、どちらも文化的影響は比較的大きかったようだ。今世紀には『月光条例』(2008)や『境界のRINNE』(2009)など、このジャンルの長期連載を持っている。
 マガジン誌は、前世紀はバンカラやスポーツものが主流だったようだ。このジャンルに当てはまりそうなのは永井豪の『デビルマン』と『凄ノ王』(1979)くらいだろうか?
 チャンピオン誌は、意外なことに、20世紀中は皆無? 今世紀に入ると『幻仔譚じゃのめ』(2008)や『ケルベロス』(2011)、『兄妹(少女探偵と幽霊警官)』(2014)など、和風怪奇系アプローチでこれに類するタイトルがいくつか現れている。

 漫画よりもジュヴナイル小説(ライトノヴェル)の方が、このジャンルの大きな産地であった可能性がある。というのは、「少年」漫画よりも年齢層がやや高く、異能ものに心引かれる中学生以上の読者層と親和的だろうから。また、少年漫画の悪弊として、血統主義を前面に出すことも多く、それが「突然の異能との出会い」とは違った見せ方を志向させているのかもしれない。

※追記と整理。歴史的な流れをおおまかに展望すると、
だいたいこんな感じになるかなあ。巨大な先駆者として特撮『ウルトラマン』『ライダー』が存在したが、少年漫画は基本的に血統主義の中に留まっていた。しかし、アフタヌーン系の青年漫画が伝奇(『3×3EYES』)やSF(『寄生獣』)の味付けとともに迫力と説得力のある形で「普通の青年が超常の力を得て戦うようになる」物語を再生させ、それが90年代以降の少年漫画にも波及した。同時期には、女性主人公の「戦う魔法少女」アニメや「戦う変身ヒロインもの」ゲーム(R18を含む)も急成長し、相互に影響を与えた。ただし、作品の数はそれほど多くないのだが、それでも定期的にこのパターンの物語は繰り返し試みられてきた。こんな展望でどうだろうか。
 もちろん、アメコミなどにも同じようなシチュエーションは存在するが、日本国内のサブカルチャーの中で見れば、おそらくこのあたりがおそらくメインストリームになってきた。


 フィクションの中では、「他人のために自己犠牲的に死ぬキャラ(またはシチュエーション)」が大好きなんだけど、さすがにこれは現実社会とわずかでも触れさせたらやばい代物なので、徹底的にフィクションの中だけの趣向として楽しんでいる。いや、「楽しんで」いると言ってよいのかどうかも分からないけど。生命と信念の輝きという意味でも、他者との関わり方という観点でも、究極の形なのだよね……。
 メジャーどころのキャラだと、DQ4のシンシアは、おねショタテイストの身代わりシチュエーションが素晴らしいし、FF5のパロム&ポロムも、「やんちゃで元気&おしとやかでしたたか」という双子のギャップからのさらなる落差が涙を誘う。
 ガンダムシリーズでは、恋愛感情が入ったものは別枠として認識してしまうし、そうでない場合も「大義のための戦場の捨て石」という最も危険なものを美化(消費)することになるので、なかなか扱いが難しい。


 それとはまた別の問題として、「フィクションで(すら)弄んでよいのか」という作品もある。要するに、社会的困難を抱えた人々(経済的、身体的、病理的、精神的、性差別的etc.)をコミカルに漫画にして娯楽のネタにするという、アレとかアレとかアレとかアレとかのこと。
 現在、現実に、数多く存在するそうした人々の生活を、エキゾティシズム的-傍観者的に見て楽しむのは、さすがに倫理的な問題が大きすぎるし、たぶん歴史上ほとんど存在してこなかったのだが、近年の日本の漫画でそうしたコンテンツが人気を博しているのはかなり怖い。どうしてこうなった?
 そういう路線は、昔もあっただろうか? ちょっと思い浮かばない。例えば、謀略で苦難に遭ったモンテ・クリスト伯ならば、明らかに虚構的な個人のドラマとして楽しめる。美大生の風変わりな生活風景を(元)当事者が漫画にするのも、自伝的(自虐的)な貧困生活漫画も、迫害を受けてきたマイノリティ当事者が抵抗の物語として描くのも、ありだろう。
 しかし、近年の「それら」には、そうしたコミットメントが無いままに、フィクションの中に閉じ込めて消費してしまっているように見える。そういう作品は買わないし、観ないようにしている(※まあ、実際に中身を読むか、あるいは少なくとも内容のある正確な紹介を読まなければ、本当に十分な判断はできないけれど。怪しそうなものは避けるようにしている)。
 いつ頃から、何故、こんなジャンルが出てきたのかは分からない。検索したくもないし……。依存症や○○障害や、ネグレクトストリートキッズものは、エンタメのネタとして扱ってよい話ではないよなあ……。


 マウスのミドルクリック(ホイールクリック)の反応が悪くなってきた。同型商品をいくつかまとめ買いしてあった筈だけど、ストックはまだあったかなあ……。(掘り返すのも大変)

 あちらにも書いたけど、この夏期アニメはまさかの黒セーラー服大豊作のシーズンになっている。具体的には『さよならララ』『キャラメリゼ』『対あり』の3作で、いずれもファッション以外の観点でも良く出来ている。ただ、後2者は一発ネタなので途中で失速しそうな懸念もあるが、まあ、せっかくなので可能なかぎり付き合っていくつもり。
 『義母』第1話のモブにも黒セーラー服があったけど、レギュラーキャラではなさそうだし、そもそも作品自体に興味を持てないのでパス。



 07/06(Mon)

 「でぼの巣」公式サイトに、『新風記』用のDL「大魔王の迷宮」パッチが出ていたので試してみた。
 100階層のダンジョンで、難易度などの設定はあらかじめ自由に選べる(※難易度に応じてレアアイテムの出現確率などが変化する)とのこと。
 これまで以上の高ステータス装備や強化型のアイテムが大量に出るので、ゲームの難易度やアイテムの意味が激変してしまった。強力な武器防具を求めるなら、ここに行く一択になってしまうのが味気ない。それでいて、中盤までは弱いアイテムばかりなのでダレるし。
 20階ごとにボスキャラが登場し、最後は「大魔王」、つまり妖狐な葉子さんが待ち構えている。ただし、葉子を含めてボスの強さはたいしたことが無い。プレイヤーキャラもレベル60以上まで成長していくが(上限は不明)、雑魚敵もどんどん強くなるので、最終的には一匹撃破するのに4回殴らなければいけないほどになる。これもダレる……。
 新たな罠(?)として「でぼの巣」もあった。入るとアイテム屋があり、ダンジョン内部でもアイテム売買ができるのはありがたい。ただし、店主の「でぼ雀」を間違って攻撃すると怒って連続攻撃を仕掛けてくるのは『風来のシレン』っぽい(あるいは『ゼルダ』の鶏)。

 罠の仕様が変わったせいで、雑魚敵が勝手に「無音領域」の罠を踏んだせいでプレイヤーキャラも補助一切禁止の地獄に巻き込まれてしまったり、雑魚敵が警報を鳴らして敵を量産してしまったりすることがある。おそらく画面内(同じ部屋の中)にいるときだけの現象だが、それでもかなり厄介なことになる。


 宝塚観劇に行ったことは、もちろん複数回あるけど、幸か不幸か、ハマりはしなかったのよな……。私の中に、この種の演劇を楽しめる素地は十分ある筈だし、実際に素晴らしいステージがあるのも分かっているけど。たぶん、スターとかアイドルとかに対する個人崇拝的なメンタリティが私の中に皆無なせいだと思う。
 漫画家やゲームデザイナーや声優についても、無条件に全賭けするような心性はどうしても出てこない。「このクリエイターさんの表現は凄いなあ」とか、「この方の創作姿勢にはつくづく敬服する」といった気持ちはあるのだけど。
 同様に、グッズ集めの物神崇拝(フェティシズム)も無いのは、お財布の観点で助かっている。「床に張られたキャラ広告の顔を踏まないようにする」くらいには、人の心はあるけどね。……人の心?


 『攻殻』アニメ新版は、わりと良さそう? まだ観ていないけれど、原作漫画をベースにしつつ、細部をかなり丁寧に現代化しているらしい。脚本は円城氏なので、ある程度は期待していたけど、どうやら本当に良い仕事をされているようだ。後は、映像(コンテ)の上手さ次第かな。
 絵柄再現についても、原作のノリに合わせたチューニングだと考えるなら、そう悪い選択肢でもない(※絵柄の単なる模倣では無意味だが、しかし、これまでの『攻殻』のしかつめらしい雰囲気を解毒する上では、有効な見せ方になり得ると思う)。
 原典(原点)に立ち返ってもう一度、そのポテンシャルを丁寧に汲み直そうとするのは、それはそれで意義のある活動だ。例えば、クラシックの楽譜を演奏したり、海外の古典小説をあらためて翻訳し直したり、戯曲を現代的に上演したり。それらは知的に誠実で、そして同時に十分に創造的な営みであって、俗流の単なる「原作に忠実(原作模倣)」とはまったく別のものだ。だから、単なる絵柄再現ではなく、元になった作品を精読し直して、現代においてそれを再制作する意義を出していけるならば、良いことだと思うし、原作(コンテンツ)の可能性をさらに引き出すことにもなるだろう。
 視聴予定に入れていなかったけど、どこかで時間を取って観てみようかな。ナメクジが出てくるところまではチェックしてみたい(※下ネタです)。
 キャストは、『ARISE』ともまた違った独自の座組で、残念ながら中國氏(※サイトー役だった)は参加しておられないようだ。