第3話「伊吹桂子と日柳夏子/山路ルリ子と日柳夏子」
シナリオは、原作第1巻第4話の後半部分から、第2巻第7-9話の伊吹家関連エピソードをまとめている。5話と6話は後回しになったが、シナリオ上の影響の小さいエピソードなので、問題無い。
脚本は中西やすひろ、絵コンテは「銀さん」、演出は森洸貴。銀さんは第9話のコンテも担当する。この回はふたたび、原作漫画のコマからの模倣が非常に多い。
【 Aパート:「伊吹桂子と日柳夏子」 】
(00:00-)今回は、アバンタイトル無しでOPから始まる。OP冒頭部分のカットだけは毎回変わるが、今回は、黒い山越しに湾内が見えて、さらにその奥に向かいの半島(?)の山々が見えるという立体的な一枚。奥の山の上には入道雲が噴出しており、壮大さと、距離の遠さ、そして激動の予感を匂わせる。原作1巻111頁のコマをベースにしている。
田畑が地元土産を持ってきたのは、原作第11話(アニメ版第4話)で、夏休みに田畑が10日ほど帰省していたためだろう。田畑の土産物「焼きまんじゅう」は、彼女の出身地である群馬の郷土料理であるらしい。この商品名は、アニメ版独自の微笑ましいディテール追加。「偉大な恩師です」という台詞は、田畑が引用する言葉としてではなく、TV画面の中のインタヴューで直接喋らせている。
職員室は、花瓶も何も無い無機的な空間として描かれており、伊吹は孤独なまま、そこに留まっている(※夏期休暇なので閑散としているのだが、そのタイミングを描いていることに意味がある)。伊吹の眼鏡も、カットによってはわずかに度入りの段差が描かれている。田畑と母親の様子は、アニメ版での追加カット。ここでも、漫画原作のデフォルメ絵をそのまま反映させてしまっている箇所があるし、身体を揺らす波状エフェクトなど、不必要なコミカル化が少々鼻につく。伊吹の縦長のカットは、アニメ版では足下から顔へと上にスクロールする形で表現されている。
(01:50-)この回のサブタイトル一枚絵は、アニメ版独自。若い伊吹と、老いた祖母夏子(よし子)が、互いに目を反らしている(顔を背けている)。陰鬱なピアノ劇伴とともに、桂子のモノローグは過去へと飛んでいく。
祖母が桂子に、心ない言葉を投げつけるシーンは、アニメ版では桂子の肩越しに夏子を遠く描くことで、その冷たい距離感を示唆している。広々としたリビングルームは、スター夏子の社会的成功の成果でもあるだろう。夏子は高齢で安楽椅子に座っているが、彼女の背後は明るい全面ガラスで、その奥には庭木の茂った緑が見える。この時点での夏子は、依然として強者であり成功者なのだ。それに対して桂子の背中は、その光の反対側で、暗い影となっている。桂子の背後にあるのは、絵に描かれた人工的な花々のみ。このレイアウトと背景ディテールはアニメ版の追加表現だが、これまた演出意図は明快である。
しかし次のシーンでは、夏子の権勢はついに衰えて、暗いベッドに横たわっている。サイドボードには小さな花々の花瓶が置かれており、カーテンの隙間からわずかな光が差し込んでいるのが、夏子にいまだ残っている抵抗力を暗示しているが、いくつかの花びらが落ちており、限界が近いことをも示している(このカットも、アニメ版が付け加えた演出である)。
桂子が夏子に話しかける様子は、アニメ版ではベッドの装飾越しのカットにアレンジされており、夏子の頭部から生えた黒い枝が桂子に絡まっていくかのように見せている。漫画原作では黒ベタ背景での隠微な復讐――ついに訪れた昏い逆襲機会――のシーンだったものが、アニメ版では、この攻撃にもかかわらず、桂子は依然として祖母夏子の呪いに囚われたままでいるかのようだ。
ここから、「人ひとりの人生を壊して」以降のくだりは、漫画版では黒ベタ一色のモノローグ進行になっていたシークエンスだが、アニメ版では追加の作画とともに独自の意味づけを増やしていく。夏子の骨壺と、いまだ消えないの蝋燭の火。桂子の横顔を、その背後から依然として睨み続けているかのような夏子の写真と、その視線を遮ろうとするかのような桂子の動き。椅子の夏子がフェードアウトしていくのに対して、人工的な花(デスク・ライト)を挟んでいまだに影に飲まれたままでいる桂子の姿。ひと気のない学園廊下。青々とした戸外の緑に手が届かない、教室内からの視野。上演後のもの寂しいステージ。これらの示唆するところは明らかだろう。
(04:00-)50代の桂子のモノローグを引きずったまま、ふたたび現在に戻る。職員室で伊吹がチェックしている書類は、学級委員によるクラス日誌のようだ。伊吹が田畑の前で見せる姿は、厳しい中にもわずかな微笑みの気配があるが、その最中にも冷たい横顔のカットインが入る。「雪の女王」のくだりの一連のカットも、原作漫画では黒ベタであり、アニメ版が独自に作画している。その名のとおり、冷酷で孤独なイメージである。原作は原作で、黒ベタのコマを連続させるという異例の演出は、その悔恨の底知れぬ深さを表現している大胆な見せ方なのだが、アニメ媒体でこれをそのまま再現するのは、さすがに間が保たないだろう。雪の女王の印象的なカットも含めて、アニメ版のアレンジも的確な判断である。
夏の入道雲カットを挟んで、田畑はいそいそと退室していく。それに対して伊吹は、青みがかった職員室の片隅で小さく固まったままでおり、太くて暗い窓枠がその姿を囲んでいる(アニメ版独自)。
【 Bパート:「山路ルリ子と日柳夏子」 】
(06:00-)ここから、ルリ子の物語になる。サブタイトルの一枚絵は、原作由来(2巻20頁)。原作の第5-6話をスキップして、第7話に相当するエピソード。桂子と夏子の祖母-孫の関係から、その中間を埋める――埋めることのできなかった――母親の視点になる。ここでは、アニメ版の絵コンテが細かくカットを増やして演出密度を高めている。
幼いルリ子は、母夏子の写真をじっと見上げている。背景には明るい障子窓(アニメ版独自)。ルリ子のふっくらした頬を冷酷に弄ぶアニメーションも、老いたルリ子が車椅子に座って窓外を眺めているカットも、アニメ版の追加要素である(青空の象徴は、ルリ子のエピソードで大きな意味を持つ)。後で確認されるとおり、これは車椅子のルリ子(70代)による回想の物語である。スーツケースを撫でる祖母(夏子の母)の手は、海外公演中の夏子に対する困惑と苛立ちを反映し、また、ルリ子は折り鶴を窓辺に持っていってそれを(=希望を)膨らませる。これらもアニメ版による新規の表現である。
その後も、アニメ版による巧みな演出的アレンジが続く。力強く茂った大樹と、威圧的な夏子の大判写真。夏子は自ら輝きを背負いつつ、娘には目を向けないままでいる(夏子が読んでいる台本は、チェーホフの『桜の園(The Cherry Orchard)』)。重々しい書棚に圧迫されているルリ子。夏子写真の額縁の中に収まってしまっているルリ子の横顔。カーペットによって縁取られた境界。
(07:40-)ルリ子の淡島学校時代はおおむね原作どおりだが、背景の新緑や青空の広さがカラフルに強調されて、ルリ子にとっての淡島は母親から逃れた開放的な世界であることを視聴者に伝えている。彼女を力づけてくれる友人(山本雅子=英雅)も出来た。英雅のステージシーンの一枚は、アニメ版で追加されたもの。
緑豊かな中庭で、伊吹吉彦のインタヴューを受けるルリ子。吉彦の誠実な言葉は偶然にも、ルリ子の内心のわだかまりの急所に触れて、彼女をふたたび広い青空へ連れ出してくれるきっかけとなる(青空をフレームインさせるのもアニメ版コンテの繊細な労作)。そして伊吹との結婚を知らされた英雅は、華やかなトップスターの道を歩んでいる。嬉しげに見送るルリ子と、クールに去っていく英雅のカットはアニメ版での追加。婚姻届の書類もアニメ版で新規作画されているが、文字は読み取れない。ルリ子と夏子が書斎で向き合っているロングショットや、夏子が思わしげに顎に手を当てる所作も、アニメ版のもの。
ここで時代はふたたびルリ子の幼少期に戻る。ここで視点人物は夏子へ切り替わる(※原作漫画では章分けされている箇所)。おそらく1930年代初頭(昭和初期)あたりかと推測される。
夏子はテーブル上の白バラ/黄バラを囲んで、劇団の同僚たちと自慢げな話をしている。高級感のある窓枠の奥には、庭の木々がうっすら見えている。しかし次のシーンは暗い部屋で、姑から陰湿な嫌みを言われている。
緑豊かな湖畔での撮影シーンはアニメ版独自。そして夏子が寛一と出会ったシーンでは、最も高貴で完璧に理想的なものを表す水彩ブルーが出現する。典型的な美男美女のカップルは、この二人と、それから柏原夫妻だけであるが、柏原夫妻はお互いの不倫を暴露される。老いることもなく美しいままに完結するカップルは、この夏子-寛一だけである。二人の背後に広がる瑞々しい林は、原作でも描かれていたが、アニメ版でさらに強調されている。
しかし、ルリ子が生まれたシーンは対照的に彩度を落としてほとんどモノクロの冷たい画面へと一転する(※原作では黒ベタのモノローグコマを含む)。非-全画面の息苦しいカットも出現する。姑(寛一の母親)の影から、さらに月下美人のはかなくも白い花のカットが現れる(アニメ版独自)。もちろんこれが喩えるところは明らかであり、夫の寛一は若くして死病に倒れる(おそらく30代前半)。自宅で伏せっているが、病室を思わせる白カーテンとともに、やつれた姿を見せる。幼いルリ子が黄-赤のヴィヴィッドカラーの服装なのに対して、寛一と夏子はモノクロ寄りの彩度の低い服装で、間近に迫った死に直面している。しかしルリ子にとっては、母親からただ一度抱きしめられたその瞬間こそが、最も尊い青色の体験として残っている。飛んでいくアゲハチョウは、アニメ版独自。本作で描かれる飛翔生物は、これと赤い折鶴とOPのアジサシ(=岡部)くらいなので、ちょっと珍しい――あるいは特別な――演出。最後に、しおれきった月下美人の花をモノクロで映して、ベッドサイドの二人がブラックアウトしていく。
冒頭でも使われた、老いたルリ子が暗い部屋から明るい青空を見つめる窓辺のカットにいったん戻る(このカットはアニメ版独自)。ただし、冒頭では暗い部屋が大きな面積を占めていたのに対して、ここでは窓外の明るい青空が画面の7割方を占める形にトリミングされている。高齢のルリ子(70代=2000年頃=現代と思われる)は車椅子で老人ホームに入っており、その丸顔の容貌は祖母に似てきている。彼女の周囲にあるのは、アジサイを模した簡素な切り紙と、擦り切れた緞帳のような古い赤色カーテンだけである(アニメ版独自)。
そしてルリ子は、今度はみずからの中年時代へと回想を振り向ける(ルリ子40代前半、そして桂子は淡島入学前だろう。1960年代風のレトロなTVが、小道具として時代を示唆する)。このシーンは、Aパートで桂子の体験として語られた場面を、その母親ルリ子の視点から捉え直している。
あらためて、部屋の影に向き合って、単なる襖絵の花々とともにある桂子の姿。戸外の光を浴びている祖母夏子。そして両者の中間にしゃがみ込んでいるルリ子。ルリ子の忠告にもかかわらず、桂子は廊下の影の方へとフレームアウトしていく。
伊吹吉彦(40代半ば)が、膝をついた姿勢で、安楽椅子の夏子に語りかける。このポージングも、夕方の鮮やかなオレンジの色彩感も、そして長い歴史のような影も、アニメ版による追加演出である。夏子邸は、対外的には晴れやかな日中の風景だが、邸内は黄昏の暗さに満ちている。ルリ子は桂子を咎めるが、桂子は暗がりから必死に目を反らし、明るい戸外に向かおうとしている。確かに、そこには彼女なりの希望がある。
そして夏子の葬儀は、一面の百合や菊とともに贅沢に営まれるのだが(アニメ版がそれを強調している)、ルリ子はただ暗然とした表情のまま硬直している。悲しみ悼むこともできず、夏子から解放されたわけでもない(表情の暗さを、アニメ版はまさに青ざめたグラデーションで表現している)。
ふたたび現代(2000年頃)に戻り、桂子(50代)が、ルリ子のための小さな鉢植えを持って、老人ホームを訪れている。花の種類は、可憐で控えめな月見草である(この鉢植えもアニメ版独自)。桂子は、祖母の桎梏から解放されたような笑みを見せるが、その下にはツタ(柵のデザイン)がひそかに絡みついており、またその背中のグリーンのカーテンは、彼女が淡島の演劇の世界にいまだ関わり続けていることも暗示する(これらのディテール描写もアニメ版によるもの)。それとは対照的に、老人ホームで安らぐルリ子は、淡島の芸道世界とはすでに切り離されて、ただ家族の思い出のよすがを反復している(※Aパートの会話で示唆されたように、ルリ子も、DVDに映像が残るくらいには活躍していたようだ)。
最後にもう一度、夏子の静かな末期と、その葬儀の煙が青空に上っていく有様を回顧する。ルリ子の中には、アゲハチョウ(父寛一の思い出)と、赤い折鶴(伊吹との間の幸せな夫婦関係)、そして青空には、母親から抱きしめられた記憶と、母親がくれたかもしれなかった土産物のアクセサリーがある。思い出とともに老境を生きるルリ子の姿は、暗く悲しげではあるが、美しい青空を見つめる心はそこに留め置かれている。
この話数の最初のカット、叙事詩的な風景の一枚を一瞬映して、この4世代に亘る長大なエピソードが閉じられ、エンドロールに移行する。エンドロールは、今回は伊吹桂子(恒松氏)がトップ。今回の主人公とも言うべきルリ子役は、桑島法子が演じている。山路寛一役の津田氏は、特別出演のような位置にクレジットされている。