第10話「長谷川慎爾と夏木詩子/城芙美子の娘/伊吹桂子と岡部絵美」
「長谷川慎爾と夏木詩子」は原作第5巻27話のエピソード、「城芙美子の娘」は同28話、そして「伊吹桂子と岡部絵美」は第29話からの終盤エピソードに入っていく。
脚本は中西やすひろ。絵コンテは渡邉こと乃。演出は田部伸一。全体としては原作漫画に寄り添っているが、「長谷川慎爾と夏木詩子」では花の象徴性演出が活用され、「城芙美子の娘」では大胆なレタリング演出、そして「伊吹桂子と岡部絵美」では水の超現実的なイメージがまとわりついて、アニメ媒体ならではの表現空間を創出している。
(00:00-)アバンタイトルは、色とりどりのポピーの花畑の柔らかなフェードインから始まる(アニメ版独自)。和名はヒナゲシだが、ここでは虞美人草というクラシカルな呼称に、夏木詩子のイメージを重ねておこう。どこかのホテルか歴史的建造物でのインタヴュー。上からのロングショットは、重厚さよりもむしろ明るく寛いだ開放感を志向している。ここでさっそくメインタイトルからOPへ。
【 Aパート:「長谷川慎爾と夏木詩子」 】
(01:40-)インタヴュワーは田畑。歌劇団引退後にライター業を始めたばかりと思われ(20代前半?)、受け答えはいささか生硬である。時代設定は、2010年代前半だろうか。原作漫画の縦長コマの左右をアニメの画面に合わせて描き足しつつ、さらにコマの間を埋めるカットや背景の描き込みの中に、さまざまなニュアンスを追加している。熟成発酵されて深い彩りを湛えている紅茶、江戸紫色のソファと、周囲の調度品、そしてインタヴューを受けている長谷川の服装も含め、総じて彩度低めの空間全体が、彼の懐古談のトーンに合っている。
(02:20-)サブタイトルの一枚絵は、原作とほぼ同じポーズ。
19歳の長谷川が脚本業を提案されたのは、1970年代半ば(昭和後期)くらいだろうか。詩子はおそらく40代半ば。トップスターとして活躍したわりには、ごく普通の木造住宅で両親(=長谷川の祖父母)と同居しているのがちょっと面白い。TVのデザインなども時代を感じさせる(アニメ版独自の小道具表現)。湯飲みでお茶を飲む所作から、現代で紅茶を含む場面へとマッチカットで戻ってくるのもアニメ版のアレンジ。先程のポピーの花壇は、このインタヴューの庭のもののようだ。
(03:30-)憧れるように上方を見上げて、長谷川の述懐は続く。桜の庭で水やりをする詩子も、瓦屋根にオーパーラップしてシーツをはためかせる「お茶目」な姿なども、大半はアニメ版での追加である。長谷川の鷹揚な皮肉に対して、原作漫画の田畑は目を細めて愛想笑いをするだけだったが、アニメ版では黒目からハイライトを消して反応に困っている。
木造校舎も、いかにも時代がかっている。長谷川自身がそれだけ長い時間を積み重ねてきたということでもあるし、彼の語りが遠い昔話であるという示唆でもあるだろう。長谷川の小中学生時代は、1960年代前半あたりだろうか。当時のことなので、もちろん紙(原稿用紙)に鉛筆、そしてストーブの上にはヤカンが乗っている。アニメ版の原稿用紙カットを見るに、「長谷川真爾」は本名のようだ。
モノローグの途中に、アニメ版では、詩子がTVで何かの舞台芸術の放送を楽しそうに見ているカットと、それを背後から長谷川少年が見つめる姿が挿入されている。これも原作の主題を的確に反映した構図であり、詩子は一貫してステージ上で演じる世界に専心していること、そして長谷川がその姿に近づけない距離感を持っていることを、効果的に表現するコンテである。また、アニメ版では、長谷川がどこかの大学の演劇文芸科に進んだことを示しており、さらに「母の幻影」を語るカットでは、真っ白なユリの花々をオーバーラップさせている。妖艶なユリ、大きく華麗なポピー、そしてお茶目な芝居を爽やかに彩るモクセイ(?)の花々はいずれも、アニメ版が詩子の多様な魅力を際立たせるように描き込んでいる。劇伴も、穏やかなピアノでこの場面の雰囲気を支えている。
(06:00-)帰宅する長谷川。元気に走って出て行くのは、長谷川の娘(詩子の孫)。おそらく20代半ばくらいの年齢だろう。モブキャラにしてはずいぶん可愛らしく描かれている。長谷川の父が亡くなったことを語る場面(黒ベタのコマ)では、旧宅とその庭先のカットを、アニメ版が追加している。建物は雨戸が閉ざされて、もはや長谷川はその中を窺い知ることはできないし、庭に生い茂る雑草も、そこに存在した詩子夫婦の生活を近づきがたいものにしている。
つれ合いを亡くした詩子は、小綺麗だが無個性な長谷川の家に同居している。その小さな庭先を手入れするかつてのトップスターは、依然として色とりどりの花に囲まれている。ネモフィラ、バラ、デルフィニウムなどが見て取れ(おおむね6月の花である)、そして最後に大輪の紫キキョウが映される(アニメ版独自の強調)のは、年を経てもなおスターとしての芯を持っている詩子の姿の喩えであろう。
【 Bパート:「城芙美子の娘」 】
(07:40-)本人の名前ではなく「○○の娘」としたサブタイトルは、皮肉でもあるが、冒頭のミスリードとしても機能しているし、彼女の境遇の苦さの表れでもある。淡島受験に合格した森久保沙織が駆け寄ったのは、滝本由加里。ここでサブタイトルが入る。原作には扉絵が無かったので、アニメ版は独自。校庭の満開の桜の下で、肩を落とす滝本。
(08:10-)アニメ版の受験票によれば、二人は200x年の生まれ。なので、これを正式設定として考慮するなら、沙羅や柳原たちと前後するくらいの、作中で最も若い世代になる筈である。どちらも住所は和歌山県と判読できる。滝本の「古宮市」は三重県に隣接する「新宮市」、森久保の「喜ノ河市」は大阪に近い「紀の川市」であろうが、地理的に離れすぎていることもあり、作品解釈に取り込む意味は無さそうだ。
この受験票には「滝本」とあり、原作漫画でも「滝本」であるが、アニメのクレジットでは「瀧本」表記になっている。本稿では「滝本」表記としておく。
(08:40-)原作漫画がクールに突き放したトーンに終始していたのに対して、アニメ版はほとんど表現主義的なスタイルで、彼女が囚われた桎梏を露悪的なまでに強調する。ガラス窓に大書された「城芙美子」のレッスンスクールの文字は、滝本が「城芙美子」という巨大な看板の後ろで踊っていたにすぎないことを、視聴者の前にまざまざと突きつける。
壁のポスターは、城芙美子の過去の代表的な主演ポスターかと思われる。「あの日に戻れたら 私は何を 選ぶだろう」というフレーズもアニメ版独自で、今回のエピソードの結末の苦さを先取りしているかのようである。舞台人最盛期の母親が、娘の練習を常に見つめている。アニメ第3話で祖母夏子の大判写真が孫の桂子を睨み続けていたのと同じような演出である。
なお、ポスターには、「縦浜市民センターメインホール」「淡島市予約センター」などの文字も見える。「淡島市」という自治体が存在するようだ。「縦浜」は横浜だろう。「哀深紅」(I think?)という男役俳優は、ここで名前が出ているだけの存在。
青空を全面に反射して屹立するビルは、芙美子の成功を象徴するかのようだが、無人のままで描かれる自宅のリビングを思い出しつつ、憧れの輝きから遠く離れていく阪急電車に乗って、電線のしがらみに覆われた夕暮れの地元に戻ってくる。帰路を歩く二人の後ろ姿にも、アニメ版のコンテはまとわりつく電線や、進路を制限する赤白の反射ポールの列、禁止標識、そして明暗のコントラストを入念に描き込んでいる(※もちろん滝本は、光の中ではなくビルの影を歩いている)。そして彼女たちの姿は心許なげに遠ざかっていく。自宅で泣きはらしている滝本のところに、レッスンスクールの講師が詫びに来るが、芙美子は気にした様子も見せず、そして臆面もなくコネ枠のことを口にする。
(10:40-)以下、原作の黒ベタのモノローグコマに対して、アニメ版は映像的な味付けをさまざまに試みていく。「レッスンスクール」のガラス文字の影で、滝本は踊る。そこは、滝本が閉じ込められた場所であり、そして、文字の反転したグロテスクな世界である。エレベーターの前で硬直して進めずにいるカットも、アニメ版独自である。そしてスクールのオフィス室では、とどめとばかりに「城芙美子」の反転文字がガラス窓に大きくプリントされている。
原作では「先生(ルビ:お母さん)も言ってた」のくだりは、アニメ版の音声では「お母さん」の方を声に出している。「先生」では講師かなえと混同するという事情ゆえと思われる。滝本が芙美子の「お母さん」としての側面に依存しているという解釈をするのは、酷に過ぎるだろう。
(12:20-)滝本は森久保と話す。二人を分けたのは「華」があるか否かであることを、滝本自身、正確に理解している。三叉路で別れた森久保が、自らの道をまっすぐ進んでいくのに対して、滝本は分岐点で立ちすくんだままであり、これから彼女が進むであろう方角(画面の左側)は、影が差して奥行きがまったく見えないままである。しかしそれでも、滝本は逆光の暗い顔のまま、再びレッスンスクールに向かう。「城芙美子」の名前に圧倒されつつ、ダンスの教師と面談する滝本の横顔は、白黒画像から黒一色の線画へ、そして顔をフレームアウトさせて消えていく。
ふたたび健気に、そして孤独にダンス練習をする滝本だが、その姿は後ろ向きのまま終わるが、言葉は決意に満ちている。
【 小括 】
長谷川のエピソードは、卓越した舞台人であった人物が、家庭内に入ったときにどうなるかという例証である。それはただの引退ではなく、家庭にあっても依然として、役者としての芸術精神を持って演じ続けることがあるということを、間接的に仄めかしている。そのありようは、退学後の岡部の姿をどのように受け止めるかについても、光を照射するだろう。この第10話の時点ではまだ明示されていないが、次の第11話以降でその側面をクローズアップしていく上での、重要な布石となっている。
また、息子一家と過ごす詩子の日常風景は、結婚後の岡部の人生の幸せを間接的に描いたものと捉えることもできる(どちらも、庭の花々に水をやる絵によって代表されている)。
さらに長谷川は、夏子「のようになりたかった」と、上田良子とほとんど同じ言葉を発している。長谷川の人生は、上田とは少し違ったヴァリエーションとして位置づけられるかもしれない。
本作で役者業を引退したキャラクターは、どのように振る舞っているか。才能に恵まれなかったルリ子は、おそらく早期に家庭に入り、主婦として過ごした。歌劇学校を卒業しなかった住吉も、世代的におそらく主婦である。上田は、竹原との関係を整理したのち、おそらく沙羅を素直に応援しているだろう。次のエピソードの城芙美子は、役者業については不明だが、レッスンスクールの第一線に立ち続けている。スタートしての資質を示した後に家庭生活がフィーチャーされるのは、詩子と岡部のみである。
滝本のエピソードがここで描かれるのは、よく分からない。「華」のないキャラクターが役者を志望しつつ、才能のある友人と離れていく物語としては、伊吹と重なるところも多い。それゆえ、嫉妬せずに自らの努力を誠実に続けていけば、少なくとも淡島の汚泥に呑み込まれることは無かったかもしれないという別様の可能性として捉えられる余地はある。
また、深刻な状況にもかかわらず、滝本の語り口は諧謔的なムードをまとっており(声優は若手の結川あさき)、また、彼女はコネを拒否して、「城芙美子の娘としてではなく 滝本由加里として」芸道への挑戦を続けることを決意している。その点で、伊吹が祖母の面影から逃れられなかったのとは対照的である。作中の人間関係としては、本筋との関わりが希薄なエピソードだが、作品全体の中核的コンセプトに対してはまっすぐ光を当てて、その多面的な現れを引き出しているのが、本作の構成の特異な――そして卓越した――クオリティである。
【 Cパート:「伊吹桂子と岡部絵美」 】
(14:00-)ここから、最終回に向けての長い物語が本格的に始まる。川沿いの桜並木に続いて、石畳の真ん中を進んでいく足下から、そのまま歩き去っていく岡部と、行き違って振り返る伊吹。おそらく4月の入学時の思い出か、あるいは心象風景だろう。モノローグは、老境の伊吹の声。
つづくサブタイトルの一枚絵は、アニメ版独自。左側には、目を反らしつつ歩く伊吹。右には、歩き去っていく岡部の後ろ姿。二人の向きは正反対であり、そして時とともにどんどん離れていく。
(14:30-)緞帳が上がって、大階段の上で演じ始めるのは伊吹の祖母、夏子(アニメ版独自のカットを含む。階段の形状は宝塚大劇場のロビーに酷似している)。まさに本作のメインストーリーの最初のきっかけを作り出した風景である。ただしこれは、あくまで架空のイメージシーンであるが(なにしろ伊吹の祖母と母親がほぼ同じ年齢感で登場しているので)、いずれにせよ伊吹が祖母への憧れから、美しく華やかなスターになりたいという動機を抱いたことは確かである。
しかし、浮き立つ心は、当の夏子によって踏みにじられる。第3話でも伊吹視点とルリ子視点でくりかえし描かれた場面であり、今回で三度目となる。さらに場所を変えて夏子の書斎でも、ふたたび「華がない」という――ステージ上のスターになるにはむしろこれこそが致命的な――指摘を受ける。サイドボードの上のデスクランプや故・寛一の写真などは、アニメ版独自。夏子は、孫娘の伊吹に目を向けることすらせず、失望の言葉を下に吐き捨てる。
(15:10-)それでも伊吹は、暗闇の中に花の希望をつないで、淡島への入学を果たすのだが、そこでまばゆい光輝をまとって現れるのが岡部である(アニメ版は、窓外の青葉をずっとフレームインさせている)。当初の伊吹は、祖母の理想的なイメージを岡部へと投影しつつ、彼女との間に友好的な関係を育むが、それは伊吹にとっては、祖母の冷淡な眼差しの抑圧をさらに蓄積する時限爆弾でもある。岡部のダンスを見つめる伊吹の顔は、原作そのままのカットであるが、アニメ版はそれを次第にブラックアウトさせて、濁った黒で埋め尽くす。さらにアニメでは、台詞に合わせて魔女のシルエットを伊吹にオーバーラップさせてみせる。
細かい点だが、原作の「彼女(ルビ:魔女)は十分美しい人よ?」を、アニメ版では「魔女は」の方で喋っている。このあたりは、高齢の伊吹のモノローグと、若い伊吹の学校での言葉が交錯し続ける。どちらも恒松あゆみが演じている。アニメ作品では、幼年時代や高齢期の台詞を別の役者に割り振ることも多いが、本作はすべて、同一のキャラクターは同一の役者によって演じられている。役者たちもそれに応えており、登場人物それぞれの一貫性とその変化を精妙に表現している。
(17:10-)さらに、意図せざる攪乱者が登場する。いや、芸道の場では、もとよりこの種の才能競争は常に不可避的なのだが。小野田の歌唱の素晴らしさは、アニメ版では青空の高みと、劇的なダッチアングル(斜めに傾斜したカメラ)、そしてその周囲で文字通り影が薄くなってしまったクラスメートたちという形で表現されている。歌った後に俯く小野田の姿は、クラスメートたちの冷たい妬みの視線を受けている。弦楽器のソロが重苦しく流れている。
(18:10-)アニメ版はここでいったん、上下を分かつ例の屈折階段を映したのち、秋期合同授業のキャスト発表シーンに入る。アニメ版によれば、演目はシェイクスピア『十二夜』で、主演ヴァイオラが岡部、オーシーノは佐藤某、そしてオリヴィア役が小野田である。廊下での陰口を、小野田は扉の背後で聞いてしまう(アニメ版はその姿を印象的に描いているが、ここでの本題は小野田ではない)。そして岡部が、廊下を堂々と歩いてきて、小野田の芝居を「あなたたちの誰よりも上手」だと断言する。その瞬間、伊吹の中のトラウマが噴出する。辿り着けないほど遠い、理想の具現としての祖母、そして伊吹を値踏みするその残酷な視線。ステージの中央に立つ祖母夏子と、それを客席から見つめる伊吹。
(19:00-)そして岡部が、小野田の才能に嫉妬するしかできない凡庸なクラスメートたち――伊吹を含む――に目もくれずに立ち去ったとき、もはや伊吹は岡部と同じ世界にいることができなくなる。このアニメ版では、立ち去る岡部から、背景ごと青ざめる伊吹、そして「廊下に立ちすくむ伊吹と、その床の裏側(透視)に立って歩き去る岡部」という超現実的なカットを描いている。暗闇の中で天地反転しているのは、もちろん伊吹の方である。
(19:20-)秋のアジサイ――第2話で岡部の葬儀を彩っていた植物――が、花をつけずに雨に濡れているカットも、アニメ版による追加。原作には雨の描写は無いが、アニメ版はここから冷たい水の表現を連続させていく。岡部は、友人の伊吹に何気ない朝の挨拶をするが、伊吹は振り向きもせずに、住吉とともに足早に歩き去る。呪いは移り、今度は岡部の足下が青ざめ、雨天の窓外は真っ暗になる。アニメ版はさらに、足場のないただの透明な水たまりと化した廊下に佇む岡部の後ろ姿を映している。
ここから、原作漫画は6ページ以上に亘って黒ベタコマによる陰惨なナレーション(モノローグ)テキストが続くが、アニメではさすがに真っ黒のままとは行かないので、様々な新規カットを展開している。明るかった校舎風景が暗くフェードしていき、岡部の足取りは、天地反転した無貌匿名のクラスメートたちとはもはや交わらない。それでも岡部は廊下の中央を昂然と歩き続けようとするのだが、逆さ廊下から吊り下がった旧友たちをすり抜けても、廊下の先には暗闇しか見えない。叫んで駆け出す岡部。しかし、いまや岡部の方が、廊下の底、床下の藍色の闇を歩かされている。主犯者が伊吹であることを、岡部は認識しているが、どうしようもない。倒れた岡部は、学校の地盤を完全に離れて、深く深く水没していく(OPにも類似のカットがある)。
(21:30-)現実的な画面に戻って、伊吹によるとどめの、下品なささやき。取り巻きの住吉と押上も、それに同調して笑っている。第2話の描写では、そこには憂い顔の小野田もいたのだが、ここでは彼女の存在は、岡部の目に入っていないようだ。そこからの成り行きは、もはやくりかえし語るまでもない。
(21:50-)現代に戻る。病床の伊吹を映さないまま、「田畑さん あなたは淡島に入って 後悔したことはある?」という一言だけを残して、第10話は終わる。