【 はじめに 】
本稿の目的は、アニメ版『淡島百景』を原作漫画と対照してその異同を確認し、それを通じてアニメ版がいかに独自の試みを加えているかを明らかにすることである。あらかじめ先取りして概要を説明しておくと、このアニメ版は、シナリオ構成や台詞、さらには画面レイアウトに関しては、ほぼそのまま原作の表現を流用している。しかし、アニメ版による新たなカットや、色彩的な表現、そして音声演出による意味づけといったディテールを通じて、アニメ版独自の解釈と豊かさが生み出されていることも確かである。本稿は、第一義的には、そうしたアニメ版スタッフによる創造性がどのようなものであるかを、少しでも明らかにすることを目指している。またさらにこの比較作業を通じて、原作とアニメ版の両方の媒体的な特質についても一定の示唆を見出すことを試みたい。
以下、原作とアニメ版を比較しつつ物語を整理していくが、本稿では原作とアニメ版は基本的に一体のものとして扱う。つまり、別個独自の作品ではなく、一方の描写が他方の描写を素直に補完しうるものとして扱い、双方を統一的に解釈するアプローチである。もっとも、こうした姿勢には疑問もあり、とりわけ現代のメディアミックス戦略の下では創作物の自立性を脅かす困難な問題を抱えていることも確かなのだが、この作品に関して言えば、双方の描写が台詞のディテールに至るまで酷似しているため、分離的解釈よりも統合的解釈の方が適切であると想定している。
【 第1話「田畑若菜と竹原王子/竹原絹枝と上田良子」 】
この第1話は、原作漫画第1巻の第1話と第2話を、ほぼそのまま踏襲している。最初のサブタイトルからしてすでに、舞台上の「王子」としての側面と、個人としての「絹枝」の側面のような多面的な現れがあることを提示している。
脚本は中西やすひろ氏、絵コンテは浅香守生監督、演出は内野宮晃希氏。
(00:00-)アバン。トラックの扉を開いて、暗闇が明るくなるカットは、アニメ版の追加表現。原作では、引越スタッフが荷物を運んでいるロングショットからいきなり始まっている。光が入ってくる明暗のコントラストも、扉を開く動きを表現するのも、アニメ版(つまりフルカラーの動画媒体)ならではのアドヴァンテージを活用したものと言えるだろう。その後も、スタッフ数人の荷下ろしアニメーションが追加されている。
原作では、引越業者はおそらく月島運送。トラックのコンテナ面に「...運送」と大書されていたが、アニメ版は文字無し。壁を保護する養生シートや、玄関先の額縁(?)なども、アニメ版では省略。
田畑がトラックの窓から顔を斜めに出しているカットは、レイアウトは原作とほぼ同じだが、「トラックの窓枠の追加(原作はキャラだけが描かれている)」、「首を伸ばすアニメーション」、「運転手に向き直るカットの追加」などがある。このように「背景部分も描写して、状況を写実的にする」、「漫画のコマとコマの間を埋める細かなカット追加」、「動きを表現するアニメーション」が、今後も丁寧に補充されている。トラックのフロントガラスには、木の影が差しており、また、トラックの周囲の桜の木々から、花びらがわずかに舞ってきている。植物の表現が出てくるのは、これが最初。ベタに捉えるなら、木の影は「必ずしも光だけではない今後」、桜は「今後の希望」と捉えて問題あるまい。
運送会社どうしの順番待ちは、高校を出たばかりの田畑にとってはほとんど初めての不平等の体験だろう。そしてそれは、歌劇団の構造でもある。自分の先にもすでに多数の才能が犇めいており、自分は空席が出るまで待たされる(どうしてもそうした側面が出てくる)。
木製の窓枠に映る時間経過は、アニメ版独自。このチョイスはいかにも示唆的だ。電灯はおそらく「これから輝く存在=これから役者を目指す学生たち」、そして窓枠は「現時点ではそれを囲い込んで閉じ込めている学校制度」、日中から夕方への時間経過は「学校を舞台とした時間の流れ」、さらには、もしかしたら「歌劇団を外から眺める視座の存在」や「内外の距離感」なども暗示されているかもしれない。
柔らかなピアノの劇伴(BGM)に導かれて、受付で手続をする。入寮届と入寮時確認書はアニメ版独自。同時に、古そうな木製の受付台や、古風なセロテープ、白い電話機などもフレームインしている。受付のカットは、アニメ版では左右まで広く描かれており、下駄箱や掲示板も見える。受付の横には、青々とした植木が置かれている。植木は、原作では田畑と逆側に置かれつつ端に見切れているが、アニメ版では田畑に寄り添うような位置になっている。
寮内を歩く田畑。踊り場の窓は、原作ではほぼフレームアウトしていて閉塞感があったが、アニメ版では夕日で明るく輝いている。『Wuthering Height(嵐が丘)』と『Romeo and Juliet』のポスターはアニメ版独自。第1話の導入らしく、いかにも定番なタイトルに思えるが、もしかしたら宝塚関連では特有のコンテクストがあるのかもしれない。『嵐が丘』のポスターは、黒ベタの人物を中心に置いたモノクロで、それに対して『ロミオ』は男役が娘役を背後から抱きかかえようとしているロマンティックな構図になっている。これも淡島に内包された明暗の二重性表現と考えられるだろうか。
玄関口で立ち止まる田畑。玄関の上には大きな「桜梅桃李」の額縁が掲げられており、壁にも「清く 正しく 美しく」の小さな額縁がある。これらもアニメ版独自。
「桜梅桃李」は、花にも様々な美しさがあるように、人の生き方にも様々な良きありようがあるという意味合いで使われる。まさにこれから本作が強調していくように、歌劇スターとして生きる人生の他にも、ライターになったり、教育者になったり、あるいは淡島歌劇との関わりを止めた生き方を選ぶことになった場合でも、そこには当人が作り出していく価値があることを、あまりにも明瞭に示唆している。ちなみに、兵庫県内で宝塚市に隣接する西宮市の有名私立校「甲陽学院」は、桜梅桃李を建学の理念にしているとのこと。宝塚に親しんでいるスタッフであれば、このあたりの知識も持ち合わせていた可能性は高い。
「清く 正しく 美しく」の方は、宝塚の校訓そのもの。「桜梅桃李」よりも小さいのはいささか皮肉めいている。
玄関口の丸くて大きな電球を見上げる田畑。彼女は結局、自ら舞台で輝くスターにはならず、それを見上げるライターの側になる。しかし彼女自身にも、玄関口からの優しく明るい陽光が当たっている。彼女の傍らには、さきほどの緑の植木がはっきりと映っている。
玄関口から戸外の光を見つめる田畑。ここでタイトル「淡島百景」がじわりとオーバーラップしてきて、わずかにティルト(=画面が縦に動く)しつつ、オープニング映像につながる。木製の下駄箱や夕日のレトロ感に染まりつつも、明るい世界を見つめ、しかしその戸外の風景はまだぼんやりとしか見えない。複雑な味わいのあるカット。
【 オープニング 】
(01:30-)主題歌は、Hana Hopeによる「blue hour」。オープニング映像は、当然ながらアニメ版で新規に作られた、完全に独自のパートである。言い換えれば、アニメ版スタッフがこの翻案作品で何を見せようとしているのかが、このOP映像で明示されていると考えてよい。
輝く海にオーバーラップしてくるのは、制服姿の岡部絵美の横向きの姿。この姿は、漫画第1巻のカバーイラストを下敷きにしていると思われる。彼女の姿は強い風に吹かれてなびきつつ、窓枠と重なり、さらに背景が寮の室内に切り替わるとともに彼女の姿は半透明の黒い影になってしまい、そして消滅する。入れ替わるように伊吹桂子が、輝く窓外を見つめる小さな後ろ姿が室内に現れる。このシークエンスは、本編のストーリーに照らして見ればあまりにもストレートな描写だ。
ユリ科の花々の影とともに画面がトランジションして、田畑とザワちゃんたちの記念写真を一瞬映し、瑞々しい若葉を挟んで、今度は田畑がゆっくり歩き去って行く後ろ姿に真っ黒な桜吹雪が横から被さってくる。さらに、黒い桜吹雪を残したまま、三つ編みの小野田幸恵がこちらに振り向く瞬間を、顔だけをフレームアウトさせつつ大きく映す、ミステリアスで劇的なカットに移る。このつながりはよく分からないが、田畑がのちに淡島のいじめの暗部に取り組むことになるという点では合っている。小野田の姿が、明るい青空のバックグラウンド上に描かれているのが、かえって物悲しい。
雨上がりの水たまりを踏んで走る足下のカット。きれいだが、泥の汚れでもある。そして水面の波紋を残しつつ、淡島の海辺の夕暮れ風景(鉄道車内からのカメラ)につながる。生徒も走り、鉄道も走る、躍動感があって気持ちの良い部分。淡島学校の立地はよく分からない。鉄道が通っているから、「島」なわけではない。のちに度々描かれるように、海沿いの、というか小さく穏やかな湾に面した高台にあるようだ。ちなみに、現実の宝塚は内陸部にある。
舞台上に制服姿の女性が堂々と立って、両腕をダイナミックに振っている。田畑のようなショートカットだが、後ろ髪がやや長いので岡部か? 制服姿のまま舞台に立つのは、まさに『淡島百景』が生徒時代の若者たちをフィーチャーしているためだろう。
赤色の袖の手と、桔梗色(薄めの紫)のドレスの手が結び合う。おそらく竹原と上田だが、四方木田と山県かもしれない(※後で再検討します)。
さらにいくつもの花々。賑やかに密集したアネモネ(白赤紫)、エレガントなバラの木(薄紫の花)、小雨にしっとりと濡れるキンセンカ(オレンジ)、可憐なアヤメ(紫の花)、控えめに花咲くレンギョウの枝(薄黄色)、華やかだが斉一に揃った無個性なマーガレット(白)、そして大きく派手に咲いたポピー(赤と黄)。それぞれに美しく、またそれぞれに強い特徴のある絵作り。ここまで執拗に強調しているのは、「このアニメでは花に注目して下さい」ということだから、本編では花や植物の表現に注目していく。花それぞれに、もっと意味づけがあるかもしれないが、花言葉などを安易に参照することは慎みたい。
湾内の大波とともに、少女の影が真上から落下(水没)していく。背景はすぐに教室に切り替わり、しかし少女はもがき続ける。髪型からして、これも岡部のように見えるが、特定する必要は無いかもしれない。
一転して、舞台照明を振り払うように森の中を駆けていく田畑。しかし再び、金色の劇場の中に辿り着いて自らを誇示する。制服姿のままであることも含めて、先程の岡部の舞台カットとよく似ているが、この意味もよく分からない。
テトラポッドに腰掛ける竹原は、ちょっと不思議な情景。寂しそうでもあり、何かの憧れを湛えているようでもあり、ちょっと風変わりなシチュエーションでもある。ダンス練習風景の背後で、窓の外に出現する巨大な花は、品種がよく分からない。マリーゴールドの一種か、それともカボチャだろうか。真っ黒な背景とともに、急速にしぼんでいくのもかなり不気味。微速度撮影(タイムラプス)のようなアニメーションは、非常に滑らかなだけにかえって人工的に感じられる。トレーニング中が最も牧歌的に幸せだった「城芙美子の娘」を連想したが、そういう見方で良いのかどうかは不明。
再び冒頭の海のカットに戻り、今度はアジサシが海面ぎりぎりから開放的に飛んでいく。清らかな白羽に、頭部だけが黒く、クチバシは鮮やかなオレンジ。海岸などで比較的ポピュラーに見られる渡り鳥で、この種名それ自体にはあまり意味づけは無さそうに思える。
人のいない教室を右へパンニング(スクロール)。彩度低めのグリーン系でしっとりと着彩されている(第xx話のアバンでも、同じようなタッチの教室風景が印象深く使われていた)。その暗い教室から一転して、木造の和風建築の明るい曲がり角で、制服の少女が走り込んできて、朗らかにダンスポーズを取る。跳ねた後ろ髪は伊吹を思わせるが、顔は見せないまま。伊吹にも、役者(ダンサー)としての確かな素養と実力があったのだという趣旨だろうか? あるいは、このロングショットでの処理は、やはり「華がない」ことを無情に表現しているのだろうか。
再び花々のシークエンス。コンクリートの校舎に掛かった満開の桜。ダリアなどをゴージャスに配した花瓶。舗装道路の隙間に生えたタンポポ。入学の祝福から、舞台上での成功、そして世間に出て生きる人生の成り行きを示唆しているように見える。
田畑の上半身のクローズアップは、彩度が極端に低く、漫画の絵のように輪郭が程良く抜けており、背景も純白のまま。そこから田畑が視線を逸らして後ろ向きになり、さらに竹原、上田(中学時代の三つ編み)、大久保(?)、スターとしての竹原、小清水(または柏原?)などが順々に静止画で描かれていき、そして最後は学校の廊下のカットで締め括られる。廊下は右側から白く光が差していて明るいが、このカットのいかにも3Dモデリングめいた動画は、ちょっと浮いているようにも感じる。
もちろん、主題歌の歌詞にも意味があり、言葉とOP映像の連動もあるが、きりがないのでここでは割愛する。
【 Aパート:「田畑若菜と竹原王子」 】
以下の言及は、特に断りのないかぎり、アニメ版独自の描写に関するものである。
(03:00-)主題歌の最後の一音とともに、本編(Aパート)が開始する。玄関の「淡島合宿所」のカットはアニメ版で追加されているが、設定そのものは漫画原作に由来する(4巻28頁で描かれている)。
上品な歩みで田畑に近づいてくるのは竹原(※足下のアニメーションはアニメ版での追加)。このあたりの画面レイアウトは、ほぼ漫画そのまま。ただし、漫画ではほぼ白背景のまま進行したが、アニメ版では竹原の背後のポスターなどが追加されている。媒体の違いに応じて、表現のあり方もチューニングしなければいけない。漫画では、竹原が頭を傾けて自己紹介するコマだったが、アニメ版の竹原は、まず正面から折り目正しく一礼してから、柔らかに顔を傾けてあらためてフレンドリーに挨拶する。漫画のコマとコマの間で省略されている動きを、アニメのコンテが的確に補間している。ただ、竹原がずっと挨拶台詞を喋ってくれているのに、田畑がずっと固まったままなのは、映像演出のためというよりは、原作漫画の進行に合わせたためのように見受けられる(※台詞もまったく同じ)。このあたりは、漫画に対して「忠実」でありすぎたがゆえの弊害だと言わざるを得ない。
二人が挨拶している背後をモブ生徒が行きすぎるのは、アニメ版のユーモラスな追加要素。電灯、踊り場の窓、瑞々しい植木なども、ひきつづき丁寧に描かれている。位置関係としては、田畑と向き合った竹原の背後に大きな電灯と窓辺の明かりがあり、二人の将来の明るさを保証しているかのようだ。
しかし、それに続くカットでは、暗い夕暮れの戸外から、窓の内側にいる竹原たちが小さく見上げられる。満開の桜によって祝福されているとはいえ、建物の古びた重苦しさや、階段を登っていく二人の心細さなどが感じられる。新入生の田畑を待つように、竹原が振り返って優しく見守っているカットも美しい。これらも全てアニメ版独自のもの。
ここでサブタイトル表示:「田畑若菜と竹原王子」。竹原については、「田畑若菜と竹原絹枝」「竹原王子と上田良子」でも良かったような……。
(03:50-)寮の部屋。原作漫画でも、窓からの光(窓枠の影)がわずかに描かれていたが、アニメ版では窓全体が煌々と輝いている。室内のディテールは、椅子の形が多少異なっていたり、窓の位置がズレていたりするくらいで、基本的には同じ。田畑が室内を見て回る様子は、アニメ版で追加されている。天井灯を点したことで、ここに新たな住人が入って、生きた場所になったことを実感させる。点灯したのは竹原で、彼女の気配りと優しさが表現されており、また、この二人の関係が良好なものになることを予感させる。窓外では一片の桜の花びらが舞って、田畑を喜ばせている。木管に導かれたレトロで牧歌的な劇伴が、この場面の幸せなムードを引き立てている。
(04:10-)BGMは続いているが、いったんここで場面転換している。共同浴場を紹介するシーンは、アニメ版では他のモブ生徒たちも描かれている。彼女たちの服装はいずれもシンプルな無地で、彩度も低めに描かれている(寮内の規則でもあるのだろうか? 現実の宝塚音楽学校にも厳しい服装規程があるようだ)。モブ下級生が上級生たちに挨拶している背景台詞は、アニメ版オリジナル。掃除当番表も、アニメ版では詳しく描き込まれている(A組とB組がそれぞれ1班~5班に分かれている。この組分けも、現実の宝塚を踏襲している)。銭湯のカットは、原作漫画ではトーンの網掛けだったが、アニメ版では浮世絵のような絵柄に変更されている。
泣きじゃくっているのは大久保あさ美(のちに第5話で主役として登場する)。片手を顔に当てる所作のアニメーションが、情感豊かに作画されている。消沈した大久保が孤独に廊下を歩き去っていく後ろ姿もアニメ版独自。ちなみに漫画では、大久保の髪は白抜きだったが、アニメ版では黒髪で描かれている。白抜きなのは竹原も同じだが、アニメ版で彼女だけが特別な金髪になっていたのに、原作読者は驚いたのだろうか?
廊下で陰口を言っているのは上級生(本科生、つまり竹原の学年)。竹原以外の先輩世代の最初の言葉が、この悪口の釣瓶打ちである。モノローグにもあるとおり、竹原の学年でも、田畑の学年でも、そして本科/予科の間でも、様々な摩擦や衝突、好き嫌いはやはり発生しているようだ。実際、のちに田畑が「私の代では…なかったわけではありません/大事にならなかったというだけで」と述懐し、竹原も「まったくなかった訳ではない」(5巻147頁)と述べている。伊吹先生たちは、そうしたことが起こらないように尽力していた筈だが、しかしそれでも、狭く限定されて強いストレスに晒された小集団の中での加害行為は、多かれ少なかれ起きてしまっているのだろう。
ごはんのカットはアニメ版独自。クラシカルな和食で、ちょっとした息抜きのカットとして作用している。浴場掃除も追加要素。
(05:30-)おそらくここで、一ヶ月ほど経過して5月になっている。ベランダのシーンも、おおむね漫画のレイアウトそのまま。漫画版の白背景に対して、アニメ版ではきれいな星空の夜景や、室内からの暖かな光源が描き込まれている。眼が黒い丸●●で描かれるのも漫画と同じだが、漫画の場合は小さなコマで軽く描かれていたものが、アニメ版だと全画面の大きな絵にもかかわらずデフォルメ両目をそのまま再現しているので、不格好に見えてしまう。こうした無思慮な原作模倣は、個人的には、アニメ界の悪習だと思うのだが……。髪留めをした友人(村上桃子)は、漫画版では白抜き頭髪だったが、アニメ版では朽葉色くらいの彩度低めのブラウンで着彩されている。しゃべり方は、関西弁のイントネーション(※原作の台詞にも「ゆうてな?」と方言が滲んでいたが、アニメ版では台詞全般が関西弁を明示している。村上を演じている声優の松田利冴は、大阪出身のネイティヴスピーカー)。
台詞については、原作では「わたしになんか腹たつことあったら」のところが、アニメ版では「わたしになんかあったら」と一部省略されている。言い換えれば、それ以外は完全に原作台詞から引き写している。
田畑が使っているのは、折り畳み携帯(フィーチャーフォン)。今となっては、時代を感じさせるガジェットだが、漫画の連載開始は2011年なので、当時としてはごく普通のツールだった。ただ、連載期間の長さもあってか、時代設定の難しさも生んでしまっている。アニメ版では、田畑の机上カレンダーに2005年5月とあるが、物語の終盤で小鳥遊/藤沢/雅楽川たちがデビューしている時代はそこからプラス25年ほど、つまり2030年代にまでずれ込んでしまう。例えば、以下のような時間経過になる。
| 2005年 | 田畑が淡島に入学(田畑18歳。逆算するとだいたい1987年生まれ。伊吹は、田畑の母親世代で、アニメ版の相関図によれば50代)。原作第1話時点。x |
| 2025年頃? | 田畑が母校で講演するくらいまでライターとして実績を積んでいる(田畑は38歳くらいと想定)。柳原は生徒として聴講(18歳)。伊吹は70代で、この時期に一度入院している。原作第26話(アニメ版第9話)時点。スター揃いの淡島で、あまり若い卒業生が講演に招聘されることは無いだろうから、田畑はどんなに若くても30歳以上のキャリアがある筈。30歳だとしても2017年。 |
| 2035年頃? | 田畑の講演に触発された柳原が、若手の編集者として活躍している。また、柳原たちのすぐ下の学年の雅楽川たちが新作歌劇に現役出演している(柳原28歳、雅楽川27歳、田畑48歳。竹原も48歳くらいで出演したことになる。伊吹は80代で逝去)。原作最終話。ここまでで時代をできるだけ早く(短めに)見積もっても2024年以降と、かなりぎりぎり。2024年だとすると、伊吹は70代で亡くなったことになる。 |
上記の想定から、時代(世代)を整理すると、おそらく以下のようになる。
| 山路よし子 | 1890年代~1900年代の生まれか。大正時代後期から昭和初期にかけて活躍したと思われる。桂子の祖母世代。高齢で亡くなったのは、桂子が若い頃なので1970年代(80歳くらい?)であり、そこから逆算。 | ||
| 山路ルリ子 | 1920年代~1930年代くらいに生まれている。桂子の母親世代。 | ||
| 伊吹、岡部たち | 1950年前後の生まれ。 | 物語開始時点で50代(2005年)。 | 最終話時点で80代(2035年頃?)。 |
| 竹原の世代 | 1986年頃の生まれ。 | x | x |
| 田畑の世代 | 1987年頃の生まれ。 | 物語開始時点で18歳頃。 | 最終話時点で40代? |
| 柏原の世代 | 1988年頃の生まれ。 | x | x |
| 柳原の世代 | 2007年頃?の生まれ。 | x | 最終話時点で20代? |
| 雅楽川の世代 | 2008年頃?の生まれ。 | x | x |
だいたいこれで整合性が取れていると思うが、どのくらい正確かは分からない。雅楽川たちの世代も、20代半ば~後半くらいの年齢で役をもらって最終話のあのステージに立っているとすれば、おおむね妥当な年齢だろう。ただ、現実の宝塚歌劇に合致するように解釈する必要も無いのだが。これはあくまで架空の淡島歌劇の物語なので、現実の宝塚と同じであるか否かは、作品解釈の正しさの基準にはなり得ない。
(06:50-)学校内の日常風景は、レイアウトまで原作漫画を再現している。ただし、古びた階段の踊り場など、間を埋めるカットや、前後の動きまで表すアニメーション(キャラクターの所作)を充実させている。廊下での雑談台詞も、アニメ版で追加されたもの。
廊下を歩いている最中に、幻想的な歌声に包まれるシーンは、アニメ版のデリケートかつ大胆な着彩によって、そのインパクトが大いに高められている。田畑の右眼へカメラがクローズアップするのも、アニメ版の追加表現で、彼女の心がその音楽に引きつけられていく瞬間を印象深く表現している。歌っているのは大久保(キャストは長縄まりあ)。のちに大成する才能で、ここでも輝かしい光の粒子が舞う中で、自身の表現世界を形にしている。漫画では一コマだけだが、このアニメ版は長尺を使ってこのシーンを描いている。大久保と田畑が、ドアだけを挟んで舞台上にいるかのような演出も、アニメ版独自。のちのエピソードでも現れるように、これは自伝的演劇化と見做すこともできるし、淡島百景の舞台化として見る余地もあるだろうが、ただしここでは、二人の生徒たち(とりわけ大久保)がこれから本物の舞台上に立っていくかもしれない予感に留まっている。
なお、ここで廊下を歩いている4人のうち、田畑と村上と同行している二人はモブだろうか。アニメ版第4話で外出する際は、田畑、村上、ザワちゃんと、ポニーテールのキャラクターという、また別の顔触れになっている。
大久保が歌っているのは「カーロ・ミオ・ベン(Caro mio ben)」。エンドロールにも記載されている。
(08:20-)シームレスに、田畑自身の回想から自室シーンにと移行する。カーテンで仕切られた天井を眺める田畑。母と祖母の姿が描かれる。EDムービーでも示唆されているとおり、このアニメ版は、カーテン(または舞台緞帳)という小道具にもしばしばシンボリックな意味合いを投影している。原作漫画でも、背景のカーテンは簡素ながら明確に描写されていたが、アニメ版ではそれをさらに強調するようなカットを導入している。
大久保の歌声に触発された田畑は、自らの初発の動機付けとなった演劇のことを思い出す。鮮やかな深紅の緞帳できらびやかに彩られていたその舞台に対して、現在の田畑は、いまだ暗い寮部屋に寝そべって、無色のカーテンに囲まれているにすぎない。また、そのカーテンは、この寮の共同生活における孤立した心(またはその心を守るための膜)の暗示でもある。仲の良い友人は出来たが、しかし周囲には陰口や、先輩や同級生との間のぎくしゃくした関係の噂などもすでに飛び交っている。
夜中に、隣のベッドの竹原先輩から声を掛けられるが、しかしお互いにカーテンと通路を挟んだまま、顔を合わせないままの会話が進んでいく。とはいえ、ここで交わされるのは、対立の言葉ではない。競争、困惑、懊悩、躊躇、落胆、そして寂しさ……そういったものがこの歌劇団世界に満ちあふれていることを先輩は示唆し、そしてそれに対する十分な答えを竹原自身もまだ持ち合わせてはいないのだが、しかし竹原先輩は、同室の後輩の前で、自らの友人に関わるきわめてデリケートな話を、カーテン越しにできるかぎり正直に打ち明ける。カーテンでの中の言葉は、この息詰まるような寮生活の中で唯一確保された、最もプライヴェートでぎりぎりまで密やかな場所からの、きわめて誠実な本音の言葉を意味するだろう。途中からはBGMも入って、会話への沈潜をさらに促す。なお、カーテンの中での会話は、のちにアニメ版第11話で、最も深刻な内容が交わされることになる。そして田畑も、絶対に人目に触れないカーテンの中の暗闇で、率直に落ち込み、驚き、そして考え込むことが許されている。
アニメ版では、ここで竹原が上田のことを回想する際に、中学時代の三つ編みのセーラー服姿としてイメージされている(※原作にはこの絵は無い)。そしてそのスカーフとおさげは、心の動揺を映し出すかのように、強い風で激しくなびいている。そして竹原自身の後ろ姿も、原作漫画では静かな内省のコマだったのが、アニメ版では強風で髪やスカートが煽られ続けている。
そして竹原先輩は、カーテンの内側で劇的に右手を振り上げてみせ(※アニメ版独自)、その一方で田畑は窓外からの柔らかな明かりに照らされつつ、カーテンを越えていくかのように視線を上に向ける(そしてカメラも上にティルトしていく)。
竹原の台詞「その人のことを考えつづけるうちはここにいるのだ」は、奇妙にもいささか伊吹の生き方とオーバーラップして見える。しかし作品全体を通して見れば、淡島に来たほぼ全ての人に当てはまっているだろう。すなわち、淡島の芸道を目指すきっかけは、自分一人の純粋に自発的な希望というわけではない。スターに憧れたり、親戚の何気ない言葉に乗せられたり、もしくは親のダンススクールの軌道上に乗せられていたり、母親や祖母と同じ道であったり、両親とは違う道を目指したり、あるいは憧れるがゆえに諦めたり……人間関係の中から浮き上がってきた複雑でデリケートな機微の上に、淡島を志望してきている。創作の道を選ぼうとするときに、そこに何か純粋で内発的な芸術の初期衝動があるとは限らない。芸道を志す人々と、それらを作り出すシステムの中に、主体性の契機と関係性の契機が常に深く晦渋に絡み合っているという視点を明確に押し出しているのもも、本作の大きな特徴と言える。
(12:00-)明るい屋上の風景は、原作漫画にも存在するが、アニメ版でも繰り返し映し出される場所になる。錆の浮いた古くさいフェンスに囲われてはいるが、明るい光に満ちた場所でもある。そして柵の外には広く美しい山と海の風景が、憧れのように広がっている。その一方で、屋上の隅には避難ハシゴのための蓋も存在する。原作漫画では記念碑か方位盤のような形で描かれていたが、アニメ版では明確に避難経路として描き直されている。もちろん、下へ脱出するための逃げ道である。
最後に、寮内の談話室のような広間を、幽霊のような半透明の生徒たちが行き来するカットがある。これは、原作漫画ではシンプルにほのぼのした一枚絵だったのだが、このアニメ版の描写は、まるで生徒たちの人間関係の捉えどころのない曖昧さや複雑さや浮つきようを示唆するかのような映像になっている。田畑が外出の話をする楽しげな口調との間のギャップもあり、演出的な意図を図りかねるカットになっている。
【 Bパート「竹原絹枝と上田良子」 】
(12:20-)
xxx