2026/06/29

『淡島百景』原作漫画とアニメ版の比較対照:第1話

 【 はじめに 】
 本稿の目的は、アニメ版『淡島百景』を原作漫画と対照してその異同を確認し、それを通じてアニメ版がいかに独自の試みを加えているかを明らかにすることである。
 あらかじめ先取りして概要を説明しておくと、このアニメ版は、シナリオ構成や台詞、さらには画面レイアウトに関しては、ほぼそのまま原作の表現を流用している。しかし、アニメ版による新たなカットや、色彩的な表現、そして音声演出による意味づけといったディテールを通じて、アニメ版独自の解釈と豊かさが生み出されていることも確かである。
 本稿は、第一義的には、そうしたアニメ版スタッフによる創造性がどのようなものであるかを、少しでも明らかにすることを目指している。またさらにこの比較作業を通じて、原作とアニメ版の両方の媒体的な特質についても一定の示唆を見出すことを試みたい。文章それ自体は具体的な異同を指摘しながら、そこから引き出せる作品解釈を私なりに述べるというコメンタリー形式になる。


 以下、原作とアニメ版を比較しつつ物語を整理していくが、本稿では原作とアニメ版は基本的に一体のものとして扱う。つまり、別個独自の作品ではなく、一方の描写が他方の描写を素直に補完しうるものとして扱い、双方を統一的に解釈するアプローチである。もっとも、こうした姿勢には疑問もあり、とりわけ現代のメディアミックス戦略の下では創作物の自律性を脅かす困難な問題を抱えていることも確かなのだが、この作品に関して言えば、双方の描写が台詞のディテールに至るまで酷似しているため、分離的解釈よりも統合的解釈の方が適切であると想定している。 
 なお、クリエイター等の人名は基本的に敬称略とする。キャラクターの名前に関しては、原則として名字で記載するが、親子などで紛れのある場合には、適宜、下の名前やフルネームを使う。芸名についても同様。


 第1話「田畑若菜と竹原王子/竹原絹枝と上田良子」

 この第1話は、原作漫画第1巻の第1話と第2話を、ほぼそのまま踏襲している。最初のサブタイトルからしてすでに、舞台上の「王子」としての側面と、個人としての「絹枝」の側面のような多面的な現れがあることを提示している。
 脚本は中西やすひろ、絵コンテは浅香守生監督、演出は内野宮晃希。

 (00:00-)アバン。トラックの扉を開いて、暗闇が明るくなるカットは、アニメ版の追加表現。原作では、引越スタッフが荷物を運んでいるロングショットからいきなり始まっている。光が入ってくる明暗のコントラストも、扉を開く動きを表現するのも、アニメ版(つまりフルカラーの動画媒体)ならではのアドヴァンテージを活用したものと言えるだろう。その後も、スタッフ数人の荷下ろしアニメーションが追加されている。 
 原作では、引越業者はおそらく月島運送。トラックのコンテナ面に「...運送」と大書されていたが、アニメ版は文字無し。壁を保護する養生シートや、玄関先の額縁(?)なども、アニメ版では省略。
 田畑がトラックの窓から顔を斜めに出しているカットは、レイアウトは原作とほぼ同じだが、トラックの窓枠の追加(原作はキャラだけが描かれている)、田畑が窓から首を伸ばすアニメーション、田畑が運転手に向き直るカットの追加などがある。このように「背景部分も描写して、状況を写実的にする」、「漫画のコマとコマの間を埋める細かなカット追加」、「動きを表現するアニメーション」が、今後も丁寧に補充されている。トラックのフロントガラスには木の影が差しており、また、トラックの周囲の桜の木々から花びらがわずかに舞ってきている。植物の表現が出てくるのは、これが最初。ベタに捉えるなら、木の影は「必ずしも光だけではない今後」、桜は「今後の希望」と捉えて問題あるまい。
 運送会社どうしの順番待ちは、中学を出たばかりの田畑にとってはほとんど初めての不平等の体験だろう。そしてそれは、歌劇団の構造そのものでもある。自分の先にもすでに多数の才能が犇めいており、自分は空席が出るまで待たされる(不可避的にそうした側面がある)。

 木製の窓枠に映る時間経過は、アニメ版独自。このチョイスはいかにも示唆的だ。電灯はおそらく「これから輝く存在=これから役者を目指す学生たち」、そして窓枠は「現時点ではそれを囲い込んで閉じ込めている学校制度」、日中から夕方への時間経過は「学校を舞台とした時間の流れ」、さらには、もしかしたら「歌劇団を外から眺める視座の存在」や「内外の距離感」なども暗示されているかもしれない。 

 柔らかなピアノの劇伴(BGM)に導かれて、受付で手続をする。入寮届と入寮時確認書はアニメ版独自。同時に、古そうな木製の受付台や、古風なセロテープ、白い電話機などもフレームインしている。受付のカットは、アニメ版では左右まで広く描かれており、下駄箱や掲示板も見える。受付の横には、青々とした植木が置かれている。植木は、原作では田畑と逆側に置かれつつ端に見切れているが、アニメ版では田畑に寄り添うような位置になっている。 
 寮内を歩く田畑。踊り場の窓は、原作ではほぼフレームアウトしていて閉塞感があったが、アニメ版では夕日で明るく輝いている。『Wuthering Heights(嵐が丘)』と『Romeo and Juliet』のポスターはアニメ版独自。第1話の導入らしく、いかにも定番なタイトルに思えるが、もしかしたら宝塚関連では特有のコンテクストがあるのかもしれない。『嵐が丘』のポスターは、黒ベタの人物を中心に置いたモノクロで、それに対して『ロミオ』は男役が娘役を背後から抱きかかえようとしているロマンティックな構図になっている。これも淡島に内包された明暗の二重性表現と考えられるだろうか。 

 玄関口で立ち止まる田畑。玄関の上には大きな「桜梅桃李」の額縁が掲げられており、壁にも「清く 正しく 美しく」の小さな額縁がある。これらもアニメ版独自。 
 「桜梅桃李」は、花にも様々な美しさがあるように、人の生き方にも様々な良きありようがあるという意味合いで使われる。まさにこれから本作が強調していくように、歌劇スターとして生きる人生の他にも、ライターになったり、教育者になったり、あるいは淡島歌劇との関わりを止めた生き方を選ぶことになった場合でも、そこには当人が作り出していく価値があることを、あまりにも明瞭に示唆している。ちなみに、兵庫県内で宝塚市に隣接する西宮市の有名私立校「甲陽学院」は、桜梅桃李を建学の理念にしているとのこと。宝塚に親しんでいるスタッフであれば、このあたりの知識も持ち合わせていた可能性は高い。 
 「清く 正しく 美しく」の方は、宝塚の校訓そのもの。「桜梅桃李」よりも小さく描かれているのはいささか皮肉めいている。
 玄関口の丸くて大きな電球を見上げる田畑。彼女は結局、自ら舞台で輝くスターにはならず、それを見上げるライターの側になる。しかし彼女自身にも、玄関口からの優しく明るい陽光が当たっている。彼女の傍らには、さきほどの緑の植木がはっきりと映っている。 
 玄関口から戸外の光を見つめる田畑。ここでタイトル「淡島百景」がじわりとオーバーラップしてきて、わずかにティルト(=画面が縦に動く)しつつ、オープニング映像につながる。木製の下駄箱や夕日のレトロ感に染まりつつも、明るい世界を見つめ、しかしその戸外の風景はまだぼんやりとしか見えない。複雑な味わいのあるカット。 


 【 オープニング 】
 (01:30-)主題歌は、Hana Hopeによる「blue hour」。オープニング映像は、当然ながらアニメ版で新規に作られた、完全に独自のパートである。言い換えれば、アニメ版スタッフがこの翻案作品で何を見せようとしているのかが、このOP映像で明示されていると考えてよい。 
 輝く海にオーバーラップしてくるのは、制服姿の岡部絵美の横向きの姿。この姿は、漫画第1巻のカバーイラストを下敷きにしていると思われる。彼女の姿は強い風に吹かれてなびきつつ、窓枠と重なり、さらに背景が寮の室内に切り替わるとともに彼女の姿は半透明の黒い影になってしまい、そして消滅する。入れ替わるように伊吹桂子が、輝く窓外を見つめる小さな後ろ姿が室内に現れる。このシークエンスは、本編のストーリーに照らして見ればあまりにもストレートな描写だ。 
 ユリ科の花々の影とともに画面がトランジションして、田畑とザワちゃんたちの記念写真を一瞬映し、瑞々しい若葉を挟んで、今度は田畑がゆっくり歩き去って行く後ろ姿に真っ黒な桜吹雪が横から被さってくる。さらに、黒い桜吹雪を残したまま、三つ編みの小野田幸恵がこちらに振り向く瞬間を、顔だけをフレームアウトさせつつ大きく映す、ミステリアスで劇的なカットに移る。このつながりはよく分からないが、田畑がのちに淡島のいじめの暗部に取り組むことになるという点では合っている。小野田の姿が、明るい青空のバックグラウンド上に描かれているのが、かえって物悲しい。黒い桜吹雪の演出は、のちに本編(終盤のエピソード)でも使われる。
 雨上がりの水たまりを踏んで走る足下のカット。きれいだが、泥の汚れでもある。そして水面の波紋を残しつつ、淡島の海辺の夕暮れ風景(鉄道車内からのカメラ)につながる。生徒も走り、鉄道も走る、躍動感があって気持ちの良い部分。淡島学校の立地はよく分からない。鉄道が通っているから、「島」なわけではない。のちに度々描かれるように、海沿いの、というか小さく穏やかな湾に面した高台にあるようだ。ちなみに、現実の宝塚は内陸部にあるので海は見えない。 
 舞台上に制服姿の女性が堂々と立って、両腕をダイナミックに振っている。田畑のようなショートカットだが、後ろ髪がやや長いので岡部か? 制服姿のまま舞台に立つのは、まさに『淡島百景』が生徒時代の若者たちをフィーチャーしているためだろう。 
 赤色の袖の手と、桔梗色(薄めの紫)のドレスの手が結び合う。おそらく竹原と上田だが、四方木田と山県でもあり(第4話)、さらには「男役と娘役」という宝塚-淡島のシステムの中で活躍するあらゆる役者たちを指すものでもあるだろう。
 さらにいくつもの花々。賑やかに密集したアネモネ(白赤紫)、エレガントなバラの木(薄紫の花)、小雨にしっとりと濡れるキンセンカ(オレンジ)、可憐なアヤメ(紫の花)、控えめに花咲くレンギョウの枝(薄黄色)、華やかだが斉一に揃った無個性なマーガレット(白)、そして大きく派手に咲いたポピー(赤と黄)。それぞれに美しく、またそれぞれに強い特徴のある絵作り。ここまで執拗に強調しているのは、「このアニメでは花に注目して下さい」ということだから、本編では花や植物の表現に注目していく(※花を通じた演出は、浅香守生監督自身がインタヴューで明言している)。花それぞれに、もっと意味づけがあるかもしれないが、花言葉などを安易に参照することは慎みたい。バラのアーチやポピーの花壇は、のちに本編でも使われる。
 湾内の大波とともに、少女の影が真上から落下(水没)していく。背景はすぐに教室に切り替わり、しかし少女はもがき続ける。これも実際には岡部の運命を予告している。
 一転して、舞台照明を振り払うように森の中を駆けていく田畑。しかし再び、金色の劇場の中に辿り着いて自らを誇示する。制服姿のままであることも含めて、先程の岡部の舞台カットとよく似ているが、この意味もよく分からない。
 テトラポッドに腰掛ける竹原は、ちょっと不思議な情景。寂しそうでもあり、何かの憧れを湛えているようでもあり、ちょっと風変わりなシチュエーションでもある。「傍観者」としての側面を示唆したものだろうか。ダンス練習風景の背後で、窓の外に出現する巨大な花は、品種がよく分からない。マリーゴールドの一種か、それともカボチャだろうか。真っ黒な背景とともに、急速にしぼんでいくのもかなり不気味。微速度撮影(タイムラプス)のようなアニメーションは、非常に滑らかなだけにかえって人工的に感じられる。トレーニング中が最も牧歌的に幸せだった「城芙美子の娘」を連想したが、そういう見方で良いのかどうかは不明。 
 再び冒頭の海のカットに戻り、今度はアジサシが海面ぎりぎりから開放的に飛んでいく。清らかな白羽に、頭部だけが黒く、クチバシは鮮やかなオレンジ。海岸などで比較的ポピュラーに見られる渡り鳥で、この種名それ自体にはあまり意味づけは無さそうに思える。 
 人のいない教室を右へパンニング(スクロール)。彩度低めのグリーン系でしっとりと着彩されている(アニメ第4話のアバンでも、同じようなタッチの教室風景が印象深く使われていた)。その暗い教室から一転して、木造の和風建築の明るい曲がり角で、制服の少女が走り込んできて、朗らかにダンスポーズを取る。跳ねた後ろ髪は伊吹を思わせるが、顔は見せないまま。伊吹にも、役者(ダンサー)としての確かな素養と実力があったのだという趣旨だろうか? あるいは、このロングショットでの処理は、やはり「華がない」ことを無情に表現しているのだろうか。 
 再び花々のシークエンス。コンクリートの校舎に掛かった満開の桜。ダリアなどをゴージャスに配した花瓶。舗装道路の隙間に生えたタンポポ。入学の祝福から、舞台上での成功、そして世間に出て生きる人生の成り行きを示唆しているように見える。 
 田畑の上半身のクローズアップは、彩度が極端に低く、漫画の絵のように輪郭が程良く抜けており、背景も純白のまま。そこから田畑が視線を逸らして後ろ向きになり、さらに竹原、上田(中学時代の三つ編み)、大久保(?)、スターとしての竹原、柏原(?)などが順々に静止画で描かれていき、そして最後は学校の廊下のカットで締め括られる。廊下は右側から白く光が差していて明るいが、このカットのいかにも3Dモデリングめいた動画は、ちょっと浮いているようにも感じる。 
 もちろん、主題歌の歌詞にも意味があり、言葉とOP映像の連動もあるが、きりがないのでここでは割愛する。


 【 Aパート:「田畑若菜と竹原王子」 】
 以下の言及は、特に断りのないかぎり、アニメ版独自の描写に関するものである。

 (03:00-)主題歌の最後の一音とともに、本編(Aパート)が開始する。玄関の「淡島合宿所」のカットはアニメ版で追加されているが、設定そのものは漫画原作に由来する(4巻28頁で描かれている)。
 上品な歩みで田畑に近づいてくるのは竹原(※足下のアニメーションはアニメ版での追加)。このあたりの画面レイアウトは、ほぼ漫画そのまま。ただし、漫画ではほぼ白背景のまま進行したが、アニメ版では竹原の背後のポスターなどが追加されている。媒体の違いに応じて、表現のあり方もチューニングしなければいけない。漫画では、竹原が頭を傾けて自己紹介するコマだったが、アニメ版の竹原は、まず正面から折り目正しく一礼してから、柔らかに顔を傾けてあらためてフレンドリーに挨拶する。漫画のコマとコマの間で省略されている動きを、アニメのコンテが的確に補間している。ただ、ここで竹原がずっと挨拶台詞を喋ってくれているのに、田畑がずっと固まったままなのは、映像演出のためというよりは、原作漫画の進行に合わせたせいのように見受けられる(※台詞もまったく同じ)。このあたりは、漫画に対して「忠実」でありすぎたがゆえの弊害だと言わざるを得ない。
 二人が挨拶している背後をモブ生徒が行きすぎるのは、アニメ版のユーモラスな追加要素。電灯、踊り場の窓、瑞々しい植木なども、ひきつづき丁寧に描かれている。位置関係としては、田畑と向き合った竹原の背後に大きな電灯と窓辺の明かりがあり、二人の将来の明るさを保証しているかのようだ。
 しかし、それに続くカットでは、暗い夕暮れの戸外から、窓の内側にいる竹原たちが小さく見上げられる。満開の桜によって祝福されているとはいえ、建物の古びた重苦しさや、階段を登っていく二人の心細さなどが感じられる。新入生の田畑を待つように、竹原が振り返って優しく見守っているカットも美しい。これらも全てアニメ版独自のもの。
 ここでサブタイトル表示:「田畑若菜と竹原王子」。二人が並んだ絵は、原作漫画の扉絵と同じ構図(※これ以降も同様)。竹原については、「田畑若菜と竹原絹枝」「竹原王子と上田良子」でも良かったような……。このサブタイトルも原作そのままなのだが、あえて好意的に解釈するならば、この最初のエピソードで、「竹原はすでに王子様のように頼もしい先輩である」、「王子=男役が存在するシステムについての物語であることはすでに自明である」、「竹原は王子=男役として大成するであろうことが確信されている」といった捉え方ができるようになるし、また、次の「竹原絹枝と上田良子」では、竹原のパーソナルでプライヴェートな側面が描かれるであろうことが視聴者の心で準備できるだろう。

 (03:50-)寮の部屋。原作漫画でも、窓からの光(窓枠の影)がわずかに描かれていたが、アニメ版では窓全体が煌々と輝いている。室内のディテールは、椅子の形が多少異なっていたり、窓の位置がズレていたりするくらいで、基本的には同じ。田畑が室内を見て回る様子は、アニメ版で追加されている。天井灯を点したことで、ここに新たな住人が入って、生きた場所になったことを実感させる。点灯したのは竹原で、彼女の気配りと優しさが表現されており、また、この二人の関係が良好なものになることを予感させる。窓外では一片の桜の花びらが舞って、田畑を喜ばせている。木管に導かれたレトロで牧歌的な劇伴が、この場面の幸せなムードを引き立てている。

 (04:10-)BGMは続いているが、いったんここで場面転換している(おそらく入寮日の晩)。共同浴場を紹介するシーンは、アニメ版では他のモブ生徒たちも描かれている。彼女たちの服装はいずれもシンプルな無地で、彩度も低めに描かれている(寮内の規則でもあるのだろうか? 現実の宝塚音楽学校にも厳しい服装規程があるようだ)。モブ下級生が上級生たちに挨拶している背景台詞は、アニメ版オリジナル。掃除当番表も、アニメ版では詳しく描き込まれている(A組とB組がそれぞれ1班~5班に分かれている。この組分けも、現実の宝塚組織を踏襲している)。銭湯のカットは、原作漫画ではトーンの網掛けだったが、アニメ版では浮世絵のような絵柄に変更されている。
 風呂掃除の描写を、人間関係に積もっていく汚れの象徴、あるいは他者との近接接触の逃げようのない生々しさと解釈するブログ記事をお見かけしたが、きわめて的確な捉え方だと思う(cf. ブログ「イマワノキワ」より)。さらには、上級生(本科生)が下級生(予科生)に労働を押しつけている格差構造でもあるが、そちらは視覚的には伝わりにくい。
 泣きじゃくっているのは大久保あさ美(のちに第5話で主役として登場する)。片手を顔に当てる所作のアニメーションが、情感豊かに作画されている。消沈した大久保が孤独に廊下を歩き去っていく後ろ姿もアニメ版独自。ちなみに漫画では、大久保の髪は白抜きだったが、アニメ版では黒髪で描かれている。白抜きなのは竹原も同じだが、アニメ版で彼女だけが特別な金髪になっていたのに、原作読者は驚いたのだろうか?
 廊下で陰口を言っているのは上級生(本科生、つまり竹原の学年)。竹原以外の先輩世代の最初の言葉が、この悪口の釣瓶打ちである。モノローグにもあるとおり、竹原の学年でも、田畑の学年でも、そして本科/予科の間でも、様々な摩擦や衝突、好き嫌いはやはり発生しているようだ。実際、後の田畑が「私の代では…なかったわけではありません/大事にならなかったというだけで」と述懐し、竹原も「まったくなかった訳ではない」(5巻147頁)と述べている。伊吹先生たちは、そうしたことが起こらないように尽力していた筈だが、しかしそれでも、狭く限定されて強いストレスに晒された小集団の中での加害行為は、多かれ少なかれ起きてしまっているのだろう。
 ごはんのカットはアニメ版独自。クラシカルな和食で、ちょっとした息抜きのカットとして作用している。浴場掃除も追加要素。

 (05:30-)おそらくここで、一ヶ月ほど経過して5月になっている。ベランダのシーンも、おおむね漫画のレイアウトそのまま。漫画版の白背景に対して、アニメ版ではきれいな星空の夜景や、室内からの暖かな光源が描き込まれている。眼が黒い丸●●で描かれるのも漫画と同じだが、漫画の場合は小さなコマで軽く描かれていたものが、アニメ版だと全画面の大きな絵にもかかわらずデフォルメ両目をそのまま再現しているので、不格好に見えてしまう。こうした無思慮な原作模倣は、個人的には、アニメ界の悪習だと思うのだが……。髪留めをした友人(村上桃子)は、漫画版では白抜き頭髪だったが、アニメ版では朽葉色くらいの彩度低めのブラウンで着彩されている。しゃべり方は、関西弁のイントネーション(※原作の台詞にも「ゆうてな?」と方言が滲んでいたが、アニメ版では台詞全般が関西弁を明示している。村上を演じている声優の松田利冴は、大阪出身のネイティヴスピーカー)。
 台詞については、原作では「わたしになんか腹たつことあったら」のところが、アニメ版では「わたしになんかあったら」と一部省略されている。言い換えれば、それ以外は完全に原作台詞から引き写している。
 田畑が使っているのは、折り畳み携帯(フィーチャーフォン)。今となっては、時代を感じさせるガジェットだが、漫画の連載開始は2011年なので、当時としてはごく普通のツールだった。ただ、連載期間の長さもあってか、時代設定の難しさも生んでしまっている。アニメ版では、田畑の机上カレンダーに2005年5月とある。時代(世代)を整理すると、おそらく以下のようになる。あくまで「ありうる想定の一つ」にすぎず、確定的な根拠は乏しいが。

山路よし子1890年代~1900年代の生まれか。桂子の祖母。大正時代後期から昭和初期にかけて活躍したと思われる。高齢で亡くなったのは、桂子が若い頃なので1970年代(80歳くらい?)であり、そこから逆算。
山路ルリ子1920年代~1930年代くらいに生まれている。桂子の母親。
伊吹、岡部たち1950年前後の生まれ。物語開始時点で50代(2005年)。最終話時点で70代~80代。
竹原の世代1988年頃の生まれ。xx
田畑の世代1989年頃の生まれ。物語開始時点で16-17歳頃。最終話時点で30代~40歳頃。
柏原の世代1990年頃の生まれ。xx
柳原の世代1997-2003年頃?x最終話時点で20代。
雅楽川の世代 1998-2004年頃?x最終話時点で20代前半。

 だいたいこれで整合性が取れていると思うが、どのくらい正確かは分からない。雅楽川たちの世代も、最終話のあのステージで、20代前半でデビューするとすれば、おおむね妥当な年齢だろう。ただ、現実の宝塚歌劇に合致するように解釈する必要も無いのだが。これはあくまで架空の淡島歌劇の物語なので、現実の宝塚と同じであるか否かは、作品解釈の正しさの基準にはなり得ない。詳しくは別掲の私製年表を参照のこと。

 (06:50-)学校内の日常風景は、レイアウトまで原作漫画を再現している。ただし、古びた階段の踊り場など、間を埋めるカットや、前後の動きまで表すアニメーション(キャラクターの所作)を充実させている。廊下での雑談台詞も、アニメ版で追加されたもの。
 廊下を歩いている最中に、幻想的な歌声に包まれるシーンは、アニメ版のデリケートかつ大胆な着彩によって、そのインパクトが大いに高められている。田畑の右眼へカメラがクローズアップするのも、アニメ版の追加表現で、彼女の心がその音楽に引きつけられていく瞬間を印象深く表現している。歌っているのは大久保(キャストは長縄まりあ)。のちに大成する才能で、ここでも輝かしい光の粒子が舞う中で、自身の表現世界を形にしている。澄んだ青色は、本作では高い芸術的達成を象徴する色として度々使われる。漫画では一コマだけだが、このアニメ版は長尺を使ってこのシーンを描いている。途中で描かれる花はネモフィラ(※実際の花も鮮やかなブルーである)。
 大久保と田畑が、ドアだけを挟んで舞台上にいるかのような演出も、アニメ版独自。のちのエピソードでも現れるように、これは自伝的演劇化と見做すこともできるし、淡島百景の舞台化として見る余地もあるだろうが、ただしここでは、二人の生徒たち(とりわけ大久保)がこれから本物の舞台上に立っていくかもしれない予感に留まっている。
 なお、ここで廊下を歩いている4人のうち、田畑と村上と同行している二人はモブだろうか。アニメ版第4話で外出する際は、田畑、村上、ザワちゃんと、ポニーテールのキャラクター(第2話の長谷川恵子)という、また別の顔触れになっている。
 大久保が歌っているのは「カーロ・ミオ・ベン(Caro mio ben)」。エンドロールにも記載されているとおり。

 (08:20-)シームレスに、田畑自身の回想から自室シーンにと移行する。カーテンで仕切られた天井を眺める田畑。母と大叔母の姿が描かれる。EDムービーでも示唆されているとおり、このアニメ版は、カーテン(または舞台緞帳)という小道具にもしばしばシンボリックな意味合いを投影している。原作漫画でも、背景のカーテンは簡素ながら明確に描写されていたが、アニメ版ではそれをさらに強調するようなカットを導入している。
 大久保の歌声に触発された田畑は、自らの初発の動機付けとなったミュージカルのことを思い出す。鮮やかな深紅の緞帳できらびやかに彩られていたその舞台に対して、現在の田畑は、いまだ無色のカーテンに囲まれて、暗い寮部屋に寝そべっているにすぎない。また、そのカーテンは、この寮の共同生活における孤立した心(またはその心を守るための膜)の暗示でもある。仲の良い友人は出来たが、しかし周囲には陰口や、先輩や同級生との間のぎくしゃくした関係の噂などもすでに飛び交っている寮生活である。
 夜中に、隣のベッドの竹原先輩から声を掛けられるが、しかしお互いにカーテンと通路を挟んだまま、顔を合わせないままの会話が進んでいく。とはいえ、ここで交わされるのは、対立の言葉ではない。競争、困惑、懊悩、躊躇、落胆、そして寂しさ……そういったものがこの歌劇団世界に満ちあふれていることを先輩は示唆し、そしてそれに対する十分な答えを竹原自身もまだ持ち合わせてはいないのだが、しかし竹原先輩は、同室の後輩の前で、自らの友人に関わるきわめてデリケートな話を、カーテン越しにできるかぎり正直に打ち明ける。カーテンでの中の言葉は、この息詰まるような寮生活の中で唯一確保された最もプライヴェートでぎりぎりまで密やかな場所からの、きわめて誠実な本音の言葉を意味するだろう。途中からはBGMも入って、会話への沈潜をさらに促す。そして田畑も、絶対に人目に触れないカーテンの中の暗闇で、率直に落ち込み、驚き、そして考え込むことが許されている。なお、カーテンの中での会話は、のちにアニメ版第11話(原作5巻72頁以下)で、最も深刻な内容が交わされることになる。
 アニメ版では、ここで竹原が上田のことを回想する際に、中学時代の三つ編みのセーラー服姿としてイメージされている(※原作には、この絵は無い)。そしてそのスカーフとおさげは、心の動揺を映し出すかのように、強い風で激しくなびいている。そして竹原自身の後ろ姿も、原作漫画では静かな内省のコマだったのが、アニメ版では強風で髪やスカートが煽られ続けている(※風の効果音も付けられている)。
 そして竹原先輩は、カーテンの内側で劇的に右手を振り上げてみせ(※アニメ版独自)、その一方で田畑は窓外からの柔らかな明かりに照らされつつ、カーテンを越えていくかのように視線を上に向ける(そしてカメラも上にティルトしていく)。
 竹原の台詞「その人のことを考えつづけるうちはここにいるのだ」は、奇妙にもいささか伊吹の生き方とオーバーラップして見える。しかし作品全体を通して見れば、淡島に来たほぼ全ての人に当てはまっているだろう。すなわち、淡島の芸道を目指すきっかけは、自分一人の純粋に自発的な希望というわけではない。スターに憧れたり、親戚の何気ない言葉に乗せられたり、もしくは親のダンススクールの軌道上に乗せられていたり、母親や祖母と同じ道であったり、両親とは違う道を目指したり、あるいは憧れるがゆえにそれを諦めたり……人間関係の中から浮き上がってきた複雑でデリケートな機微の上に、彼女らは淡島を志望してきている。創作の道を選ぼうとするときに、そこに何か純粋で内発的な芸術の初期衝動があるとは限らない。芸道を志す人々と、それらを作り出すシステムの中に、主体性の契機と関係性の契機が常に深く、多層的に、難解に絡み合っているという視点を明確に押し出しているのも、本作の大きな特徴と言える。

 (12:00-)明るい屋上の風景は、原作漫画にも存在するが、アニメ版でも繰り返し映し出される場所になる。錆の浮いた古くさいフェンスに囲われてはいるが、明るい光に満ちた場所でもある。そして柵の外には広く美しい山と海の風景が、憧れのように広がっている。その一方で、屋上の隅には避難ハシゴのための蓋も存在する。原作漫画では記念碑か方位盤のような形状で描かれていたが、アニメ版では明確に避難経路として描き直されている。もちろん、下へ脱出するための逃げ道である。
 最後に、寮内の談話室のような広間を、幽霊のような半透明の生徒たちが行き来するカットがある。これは、原作漫画ではシンプルにほのぼのした一枚絵だったのだが、このアニメ版の描写は、まるで生徒たちの人間関係の捉えどころのない曖昧さや複雑さや浮つきようを示唆するかのような映像になっている。田畑が外出の話をする楽しげな口調との間のギャップもあり、演出的な意図を図りかねるカットになっている。


 【 Bパート:「竹原絹枝と上田良子」 】

 (12:20-)二人が並んでいるサブタイトルのカットは、漫画版の扉絵と同じ構図。
 ストーリーは、竹原たちの小学校時代から始まる。劇伴も、のどかな曲調である。「藤が谷(ふじがや)女学院」は、同じ漫画家の『青い花』にも登場しているとのこと。wikipedia頼みの情報だが、小中高一貫の私立校なので、竹原と上田が高校までずっと一緒でいるのも自然なことなのだろう。建物の外観は、鎌倉文学館をモデルにしているらしいが、あくまで雰囲気程度であって、シルエットやディテールはあまり似ていない。学院は鎌倉にあるらしいが、方言めいた言い回しは出てこない。広島出身の竹原も、すでに周囲と同じような喋り方をしている。
 例によって台詞はほぼ100%原作のままだし、アニメ版の各カットは、元となる漫画のコマを明確に指定できるほどだが、初夏の木々が薄く滲むように広がっているカットから、二人が窓外の純白の光に照らされつつ幸せそうに廊下を歩くカットにつなげるなど、色彩感とニュアンスに満ちた拡充的表現も散見される。セーラー制服は、原作では黒ベタだったが、アニメ版では紺桔梗のような明るめのブルーで描かれている。廊下では、良子が一歩先を歩いているところに、絹枝が小走りで追いつくように描かれており、この時点での二人の関係をアニメ版独自に表現している。

 (13:00-)次の読み合わせのシーンでも、竹原と上田が内緒話をしているのを窓外から描いたショットなどが追加されている。二人の姿はいまだ窓枠の背後に押し込められており、また、視聴者はあくまで「外から」の視点に過ぎないことも意識させるが、その一方で、外壁に絡まって伸び上がるツタの瑞々しい葉が、彼女たちの健やかな成長を予告しているかのように見える。しかし、演目『ロミオとジュリエット』は、悲しい別離を運命づけられた物語でもある。原作には『ロミオ』の台詞引用は無いが、アニメ版では実際に台本を使った読み合わせの音声がある。
 竹原がロミオに選ばれた瞬間のカットは、漫画では白背景だが、アニメ版では真っ白に輝く窓枠と、その横に静かに垂れるベージュのカーテンが描き込まれている。これから舞台で輝くことの暗示として、アニメ版では今後もこの象徴的演出が執拗に繰り返される。それに続いて、学園内の碧の森を駆けていく開放的なカットも、アニメ版で追加されている。慌てた表情で走る若き竹原と、微笑みながらそれを追いかける上田。上田が追いつくところで、カメラの左右が何度も不自然に切り替わる。二人の立場の互換性(本質的な対等性)と取るべきか、それとも「追う/追われる」の立場がここで入れ替わったと取るべきか。これは原作漫画でも同じで、「よろしくね 竹原王子」と呼びかける最後のコマで一度だけ、左右の入れ替わりがある。
 読み合わせのシーンでは、竹原だけがブロンドで、それ以外のモブ9人は黒髪。これは写実的な表現なのか、それとも記号的な表現なのか、いささか判断に苦しむ。竹原は両親ともに黒髪だし(cf. アニメ第2話)、私立校でも両親が学校に多額の寄付をしているパトロンでないかぎり特別扱いはされない筈なので、自毛が明るい色というわけではないだろう。

 髪色表現についてまとめておく。基本的には黒(漫画では黒ベタ、アニメ版ではダークグレー)。しかし、以下のキャラクターはそれ以外の色で塗られている(※漫画版の登場順。主要キャラのみ。高齢者の白髪は除外。舞台上のみのキャラクターも除外)。

キャラクター原作漫画の色アニメ版の色
竹原絹枝白抜き(毛筋の描線のみ)。金色(ごく明るいライトブラウン)。
村上桃子白抜き。茶色(バフブラウン)。
大久保あさ美白抜き。黒(=標準的なダークグレー)。
柏木拓人(※学外)ドットトーンによる中間色。ダークブラウン(ほぼ黒髪)。
香月泉白抜き。茶色(バフブラウン)。
山県沙織白抜き。入学前からずっと金髪。
絵莉と澤乃井(※学外)白抜き。絵莉はダークブラウン、澤乃井は明るめのブラウン。
かなえ(※講師)白抜き。茶色(バフブラウン)。

 竹原(トップスター)、大久保、香月(娘役トップ)、山県(スター)という成功者たちがしばしば白(アニメ版では金)に描かれており、浅上レオの舞台上の姿も白抜き(アニメでは栗色)で作画されている。それゆえ、傑出した才能を持ったスターであることを識別させる記号として、頭髪色を変えていると考えることができる。ちなみに現実の宝塚では、男役のスターでも金髪にするとは限らない(いくらでも染め変える)。

 (14:20-)雨天の窓辺に立つ竹原。おそらくここで数年ほど時間経過して、二人は中学生になっている。ここをしっとりとした雨天で色濃く描いたのもアニメ版のアレンジ。5月から6月へ時間経過と人生の深まりを示唆したものだろうか。ここでも、アニメ版は窓枠越しのショットを追加し、そして窓外の青々とした木々がフレームインさせつつ、彼女がこのシステムの中で成功していくことを、漫画版以上に強く念押ししている。「ふざけて呼んだのがきっかけだった」のモノローグも、上田(茅野氏)の声。このエピソードは、全体が上田の回想の形を取っており、竹原の内心(台詞)は一切描かれないのだが、その構造がアニメ版の音声表現を通じて、よりいっそう明晰に表出されている。このエピソードの主人公は、あくまで上田良子一人である。しかも、声のトーンからして、おそらく成人後の上田による回顧の物語として位置づけられるだろう。
 次に竹原が、通り過ぎる上田を呼び止めるシーン。竹原は依然として真っ白な窓を背負って光の中にいるが、上田は明るい窓辺を越えて暗い廊下先へ歩いていこうとしている(原作にはこの明暗の対比は無かった)。ほんの一瞬のカットだが、この暗さは異様である――とはいえ、上田の将来はけっして暗くはないので、心理的な葛藤の暗示くらいに留めておいてよいだろう。
 鮮やかな新緑の上に踊る二人はアニメ版の追加カット。木漏れ日の下を歩く二人は原作のコマにもあるが、この薄青から純白への神秘的なグラデーションは、大久保の歌唱シーンでも使われていた色彩であり、このアニメ版では、おそらく最も高貴な芸術的達成のために使われる色である。
 窓に向かってダンスの練習をする場面は、漫画版では、顔だけの会話になっているが、アニメ版の竹原は片手を堂々と振り上げるダイナミックな振り付けを披露している。戯曲台詞の引用もある(※中学校でも再びコンビで『ロミオ』を演じたのだろうか?)。そして、フェードアウトで立ち去る竹原を見送る上田も追加カット。室内にもかかわらずおさげが激しく揺れて、さらに秋枯れの近づいた森の中でしゃがみ込む(秋の森の背景もアニメ版の追加。原作は無地背景)。

 (15:50-)図書室での会話。コンテはほぼ漫画そのままだが、明るい窓を背負った竹原と、図書室の影を追った上田の対比を、アニメ版はここでもしつこく強調している。ここでは劇伴の支えも無く、ただ静かで緊張感に満ちた音声会話のみが続く。細かい話だが、上田のノートはおそらく英語の授業のもの。関係詞の使い分けや、例文: He is a comedian who is the most popular in Japan.などが読み取れる(※英語としてはかなりおかしな文だが、その点はあえて咎めまい)。
 ここでも左右切り返しショットが発生しているが、これも基本的には原作由来。漫画作品をアニメ化する際には、元のレイアウトを維持しつつ、左右の位置関係だけを反転させて描き直すことが多いが、本作ではそうした処理はあまり施されていない。「心理学」のタグの書棚を見せるのも露骨(※原作の作画では、「...学」の部分しか見えない)。竹原の横顔が歌劇学校の看板にオーバーラップするトランジションも、いかにもアニメ版らしい(原作では単純にコマ分割されているだけなので)。
 二人が廊下を歩くシーンも、レイアウトは原作のままだが、アニメ版ではやはり光と影の対比が強烈。歩みを進める竹原と、途中で立ち止まってしまう上田のカットも、動画ならではの表現。

 (17:30-)秋が深まる。時間経過のカットを入れて丁寧にフォローしているのもアニメ版の配慮。ギターBGMは、ノスタルジー寄りの雰囲気を志向しているが、次第に木管の弦楽器のウェットな劇伴へ移行する。演劇の練習シーンでは、竹原の躍動感あるアニメーションが追加表現。台本に目を落とす上田の沈鬱な表情は、先程の廊下シーンとほとんど同一のレイアウトが反復されている(原作由来)。ミスではないかと思ってしまうほど。
 明るい黄葉の下で、合格を告げる竹原と、それを祝福する上田。竹原の叔母(浦上悦子=えっちゃん)は、次のエピソードで岡部の友人としてすぐに再登場する。おそらく、竹原悦子は浦上と結婚して改姓し、悦子の実弟もまた結婚相手との間に絹枝を儲けたという関係だろう。なお、竹原絹枝と岡部の間には直接の関係は無かったようだ(?)。
 上田の肩に手を置く竹原。ここでもアニメ版は、左右の切り返しを行なっている。佇む竹原の後ろ姿は、Aパートの回想でも出てきたカット。

 (19:10-)現実の宝塚は、中卒(15歳)から高卒(18歳)の間に受験する。竹原は中等部を卒業して淡島に入学し、上田はそのまま「藤が谷」で内部進級したのだろう。そして上田は、藤が谷の高等部でもひきつづき演劇部で活躍している。中等部ではジュリエット(娘役)だった彼女が、高等部では男役になっている。それだけ上田にも優れた資質があったということだし、また、この二人が実際に似通った存在であったということでもあり、そして上田の言葉「あなたのようになりたいと思ってしまうの」(単行本1巻47頁)、「あなたそのものになりたかった」(2巻145頁)を裏付ける事実でもあるだろう。「ごめんなさい」に始まる一連のモノローグは、原作では黒ベタの4コマを連続させているが、アニメ版では断続的なブラックアウトの中で喋るという形を採った。こちらを向いた竹原のカットは、原作(1巻48頁)では縦長のコマだったが、アニメ版では同様のポーズを取りつつも全画面の清澄な一枚絵として描いている。
 上田の容姿(とりわけ髪型)は、小学生の頃からどんどん変化しているが、竹原のスタイルは終始一貫しており、その美意識は微塵も揺らいでいない。この対比によっても、上田の不安定さと脆弱さ(と言えるだろう)、そして竹原の健やかさと強靱さが印象づけられる。
 ちなみに、この演目「鹿鳴館」は、三島由紀夫による実在の戯曲作品と思われる。上田の公演を、竹原が観劇しに来ている場面。web検索したところ、志村氏の『青い花』で、まさにこの「鹿鳴館」公演が描かれていたようで、本作のこのシーンは一種のファンサーヴィス的な側面もあったようだ。原作では落葉の季節のように作画されていたが、アニメ版は緑豊かな中庭風景が色鮮やかに、そしてかなり強めのライティング(光源)で描かれている。アニメ版のこのアレンジは、心情と風景の落差によって皮肉なコントラストを作り出しており、個人的にはかなり好み。中学時代を回顧するフラッシュバックも、アニメ版の得意とする追加表現(※漫画媒体だと、ぎこちないコラージュになってしまいがちな表現なので)。
 あまりにも明るい光の中で、青葉のカットを挟みつつ、二人が手をつなぐ。舞台上での共演シーンは、アニメ版の追加(おそらく『ロミオとジュリエット』の時のものだろう)。ステージライトとともに二人の立ち位置が反転し、原作どおりに両手をつなぐ一枚絵で、このエピソードは締め括られる。

 上田自身も、役者としてのポテンシャルは非常に高かったと思われるが、それと隣り合った竹原が、おそらく本作の中でも抜きん出た別格の偉才であった。上田にも優れた能力があっただけに、竹原の才能と行動力とともに「同じ道を歩」むことができないであろうことを痛感し、嫉妬しようにもすることができず、「あなたのようになりたい」、さらには「あなたそのものになりたかった」という同一化の願望の体裁を取らせた。このように、並び立つ2人の才能が、同じ道を歩み続けることができないという数奇は、その後もくりかえし現れる。四方木田と山県、山県と武内、そして伊吹と岡部、岡部と小野田。それに対して、浅香と浅上や、竹原(小鳥遊)に憧れる雅楽川たちのように、世代が違っていればシンプルな憧れを突き通して幸せな共演機会を得ることもできたのだが(※山県と武内も、長く苦いすれ違いを経て、ダブル共演を果たすことができた)。


 【 エンディング 】
 (22:10-)ED映像も、もちろんアニメ版スタッフの表現意図を――より正確に言えば、目指されているであろう表現効果とその手がかりを――反映しているだろう。
 窓辺にたなびくカーテンがずっと映っている。このカーテンの動画表現も実にきれいで、軽やかさの中に無常さも感じさせる。
 窓とカーテンが、アニメ版のコンテが原作以上に頻繁に強調してきた小道具であることは、すでに見てきたとおりであるが、このEDでもあらためてそれが念押しされている。これらの表現が繰り返されるにつれて視聴者の心の中に、意識的にであれ無意識的にであれ、この演出の意味づけが感じ取られ、形成されていくだろう。窓辺で踊るダンサーの小さな姿は、おそらく岡部をイメージしている(原作第5巻46頁をベースにしている)のだが、このEDの見せ方が成功しているかどうかはよく分からない。
 映像の最後で、画面全体がわずかにセピア色に染まるとともに、窓辺に岡部の姿がフェードインしてくる(※彼女が開いている冊子は、『Vocal Music』とある)。そして顔の表情は一切見せないまま、画面右側へと歩いてフレームアウトする。風は止んで、薄布のカーテンも静かに垂れたまま、静かにホワイトアウトして映像は終わりを迎える。
 フレーム内のダンスの振り付けは、すばる未来をモーションアクターとして作画されている。OSK日本歌劇団出身とのこと。ED曲は、中島美嘉の「光」。もちろん歌詞にも複雑な含意が見出せるが、ここでは論じない。

 キャストについて、簡単にメモをしておく。
事実上の主演(狂言回し)である田畑を演じているのは、中林新夏。web上の情報によれば2017年デビューでそれなりにキャリアが長いが、アニメでの名前のある役は初めてのようだ。物語の後半では苦い躊躇の場面に直面することになるが、終始朗らかで牧歌的な雰囲気を維持しているのが、本作の救いになっている。
 竹原を演じる大地葉は、現在の若手~中堅世代の声優を代表する実力者の一人と言ってよいが、芝居そのものはきわめて堅実で誠実に造形されている。その意味でも、このキャラクターの位置づけに相応しい。
 上田良子役は、名匠の茅野氏。『青い花』のアニメ版では、このキャラクターには音声が付いていなかったらしい。穏やかで暖かな芝居が特徴的だが、本作ではその表現彫琢の繊細さが発揮されている。

 【 小括 】
 ひとまず第1話を、原作漫画と照合しつつ映像のディテールを仔細に――しかし素朴に――追ってきた。台詞に関しては原作漫画をほぼ100%踏襲しており、またレイアウトも漫画に沿うような形になっている。しかしその一方で、アニメ版の絵コンテ&演出では、ライティング(光源表現)や小道具演出(植物や窓枠やカーテン)、そして色彩表現(季節演出を含む)が意識的に強化されているのが見て取れる。アニメ作品をどのように解釈するか(どのように受け止めることができるか)に際して、これらは大きな手がかりとなる。アニメ作品でも、このような「精読」過程を通じて主題論的な解釈に結びつけていく手法は依然として有効であろうし、原作と比較することのできる翻案アニメにおいてはとりわけ有効なアプローチであろう。

 本稿は、基本的には原作との比較を通じて看取される範囲でのアニメ版の特徴を検討している。それゆえ、アニメーション(実写ではない、現代日本のクール制アニメ)分野における本作の美術的特質そのものについては、ほとんど言及していない。後者については、浅香監督へのインタヴュー映像「【淡島百景】TVアニメ『淡島百景』制作現場の舞台裏に大潜入!【Behind The Scenes】」(5月29日公開、16分)が参考になるだろう。


 【 現実の宝塚歌劇団について 】
 本作の歌劇学校は、明らかに現実の宝塚歌劇をモデルにしている。もちろん本作はあくまで架空の「淡島歌劇」であって、モデル元の宝塚のシステムと一致するとは限らないが、参考までに、本作と関わりのありそうな範囲で、宝塚の体制を整理しておく。
 受験。歌劇学校は、15歳から18歳までの女性に受験資格がある。それゆえ、基本的には中学校卒業で淡島を目指すことになる。一度で合格するとは限らないので、何度も挑戦するという受験者も多い。試験科目はと歌唱、舞踊と面接。入学定員は40人であり、合格倍率は非常に高い(※『淡島』の生徒人数は不明だが、第8話で藤沢が見ている名簿は22人なので、それを正式設定と取ってよいなら、A組とB組の両方を合わせて44名程度と推測される。また、第9話のニュース記事では「毎年数千人の志願者が殺到する"狭き門"」と書かれているので、現実の宝塚とおおむね同じような状況なのだろう。それゆえ、同期でも年齢はかなりバラついている筈である)。
 学校。歌劇学校は、1年生(予科生)と2年生(本科生)の2学年制である。歌劇学校は、兵庫県宝塚市内の宝塚大劇場に隣接した敷地内に所在する(※『淡島』には、そのような描写は見て取れない)。宝塚歌劇の敷地は内陸部の川(武庫川)に面しており、海からは遠い。カリキュラムは声楽やダンスに特化している。年度末の2月には、本科生たちによる卒業公演が催される(1年生も裏方として参加する)。学内での虐めが事件化したことも、これまで複数回あり、問題視されてきた。
 寮生活。全寮制というわけではないが、実際にはほとんどが入寮するらしい(※『淡島』の寮制度は不明だが、外出制限があることを考えると全寮制の可能性もある)。2人部屋だが、必ずしも別学年とは限らず、同期2人で同室になる場合もあるようだ(※『淡島』では、どうやら「2年生と1年生で同室」が徹底されているように見受けられる)。
 卒業後。歌劇学校を卒業したのち、歌劇団に正式入団する。基本的には全員が入団できる。芸名は、入団前にあらかじめ自分で決めているが、劇団側から承認を受ける必要がある。本名のまま活動することは無い。命名に際しては、すでに使われている名前と被ることは御法度のようである。憧れの大スターから漢字や音の一部を拝借する例も多い(※作中の浅上レオのようなケース。宝塚流に従うならば小鳥遊沙羅は、「小鳥遊」以外の芸名にしなければならなかっただろう)。
 歌劇団。母体会社(阪急電鉄)に雇用されるという契約形態。5つの「組」+遊撃的な「専科」に分かれて、各組が定期公演やツアー公演をする。演目は文字通り歌劇(ミュージカル)で、原作のある作品やオリジナル作品が、その都度の演出で上演される。劇団付きの演出家も多数在籍する。なお、『淡島』では、劇団の制度についてはほとんど触れられていない。
 団員の地位。団員は未婚でなければならない(結婚=退団)という前近代的なルールがあるようだ。全ての役を女性団員が演じることもあり、「男役」(=男性キャラの役を演じる団員)と「娘役」(=女性役を演じる団員)のどちらかに特化する。ただし、男役から娘役に転向する例もある。一部の団員は「スター」として扱われ、さらに各組の男役最上位スターが「トップスター」である(※つまり、一般名詞ではなく、特定の制度的地位を指している。同様に娘役の「トップ娘」もいる)。ただし、トップスターに就任した役者は、数年で劇団そのものを退団する慣例になっているとのこと。『淡島』作中では、夏樹詩子、司玲於奈、山県(鏑木)、竹原(小鳥遊)がトップスターになっているほか、香月泉も娘役トップとして言及されている(※浅上もトップスターかもしれない)。山県、香月泉、司玲於奈の退団も、おそらくトップを務めた後の慣例的退団かと推測される。もちろん様々な事情で自発的に退団する場合もある(作中では田畑や四方木田など)。退団後、劇団での芸名を名乗り続けることも、もちろん可能である。