2026/06/06

2026年6月の雑記

 2026年6月の雑記。

 06/22(Mon)

 【 現代エンタメにおける悲劇の欠落 】
 現代日本のエンタメ(とりわけサブカル系)が、強迫的なまでにハッピーエンドを志向(要求)しがちなのは、もったいないと感じている。歴史的に見ても、フィクションにおける悲劇のカタルシスの意義は、古典古代からずっと高く評価されてきたし、受け手もそれを虚構の中の出来事として享受してきたのだが……。
 例えば、すれ違いによってカップルが結ばれずにそれぞれ自死してしまう『ロミオとジュリエット』が20年代のエンタメ作品として作られる(翻案リメイクされる)ことは、うーん、残念ながら、ほとんど想像できない。史実ベースの歴史物だけは例外だけど、それ以外のオリジナル創作で、悲劇を志向するものはいよいよ少なくなっているように思う。例えば『Uボート』のような歴史もの(史実戦争もの)では、結末は無常観と親和的なビターエンド/バッドエンドになりがちなのだが、これは特殊事情と言うべきかもしれない。

 1) 私見では、これはおそらく皮相的で迎合的な商業主義の産物であり、結果的に創作と感性の振れ幅を狭くしてしまっている。しかし、それだけでもないかもしれない。

 2) 00年代初頭の、いわゆる「泣きゲー」(という誤ったジャンル認識)が大きな禍根を残した。それらは、一方では、障害者などの社会的困難を戯画的に誇張した感動ポルノという邪悪な側面があった。keyの脚本家が闘病ノンフィクションを読み漁って参考にしたというのは、その酷薄かつ無責任な欲望の所在をよく示している。またその一方で、影の濃いメランコリーの雰囲気にリードされる、いわゆる「鬱ゲー」アプローチも、90年代末の世紀末的ムードの延長上にあってそのパラダイムに絡めて取られており、そのポテンシャルを活かしきれないまま、ジャンルを沈滞させてしまった。これももったいない。

 3) コンテンツの長さも、おそらく影響している。2~3時間の舞台演劇であれば、悲劇の結末にしばし浸ってからスッキリと切り替えて劇場を後にすることができただろう。しかし、長大なゲームを何十時間もプレイした結末が、主人公の死などの不幸な形になるというのは、心理的なインパクトが大きく異なる。
 ただし、ゲームでもデニム皇帝の暗殺EDのような例はあったし、連載漫画『デビルマン』や『ザ・ムーン』が人類全滅エンドだったり、通年アニメ『Vガンダム』で味方側キャラクターがほぼ全滅していたりと、悲劇寄りのタイトルも昔は一定数存在した。世紀の替わる頃に、なにか決定的に雰囲気が変わってしまったように感じる。
 また、メディアミックスを含めて物語世界を大きく展開していく際に、人の死を描いてしまうとそのキャラはもう登場できなくなるし、悲劇的な事件があるとその後の展開に大きな影響を及ぼしてしまうので、そうした要素は扱いづらいというのも、まあ、分からないではない……ただの商業主義的都合に過ぎない、とも思うけど。

 4) 社会的要因? 不況下のリアルな経済的-社会的困難が続く中では、「物語の中でまで不幸を見たくない」と感じる人が増えるのは、十分あり得ることだろう。しかし、そうした悲劇嫌悪のネガティヴな声がSNS空間では過剰に増幅されやすいという状況が、問題をさらにややこしく解決困難なものする。

 今世紀の有名なタイトルにも、露悪的な残虐イベントを含む作品はある。しかしそれらも、SNS空間では「未読/未見の人にショックを体験させたい」という陰湿なDV的欲望のネタとして消費されるばかりで、苦味のある劇的感興をじっくり味わおうという精神的姿勢が存在する余地がきわめて小さい。悲劇の醍醐味というは、そんなびっくり箱の衝撃ではないのに……。
 また、NTRもののように、不幸描写が――あるいは、不幸描写までもが――しばしば性的な要素と結びつけられるようになったのも、それらを表立って扱おうとする際の妨げになっているかもしれない。
 むしろ、腰を据えて丁寧に描かれる長編コンテンツの方が、人間性の機微に触れるビターな物語を効果的に描き出せる力があるのだが、「ハッピーエンドにしました」「ハッピーエンドになりますから大丈夫です」といった言説ばかりが広まっているのを、いささか悲しい思いで見ている。
 もちろん、昔でも悲劇寄りの作品がマジョリティだったというわけではない。しかし、近年の動向は「ハッピーエンドでなければいけない(そうでなければ売れない、そうでなければ読まない)」というところまで極端に偏ってしまっていることに問題がある。

 見方を変えれば、80年代から90年代くらい(?)までは、終盤には悲惨なカタストロフが発生して、それをなんとか生き延びてちょっとだけ未来の希望を見て終わる……といったようなスタイルがそれなりに多かったと思う。それはそれでちょっと特殊なスタイルの作劇だったかもしれないが、近年のタイトルでもこういう展開があると、「おお、来た来た、懐かしいなあ!」と嬉しくなってしまったりする。
 アニメ映画『ナウシカ』(1984)から『もののけ姫』(1997)の影響も大きかっただろうけど、ゲームのFFシリーズも頻繁にこの演出を取り入れてきた。最近の漫画などでもたまにそういう気分を感じさせる作品はある。アニメだと、2025年の『ある魔女が死ぬまで』(大津波)や『九龍ジェネリックロマンス』(街全体が崩壊)、『全修。』(虚構世界の危機)などは一応これに当てはまる。主人公が瀕死になって精神世界をさまよい始めたりするのはちょっとシラけるけど、まあ、そういう展開になるのも仕方ない。


 個別の問題はともかくとして、あくまで一般論として思うことなのだけど、最近の日本人はパロディ表現に対して厳しすぎるんじゃないかなあ。侵害性の高いコピー商品でもないかぎり、パロディとか、物真似シーンとか、ちょっとしたギャグ演出とか、風刺的な言及とかは、もっと広く、もっと自由に表現できる方が、創作世界の豊かさにとって好ましいと思うんだけど……。
 00年代くらいからだろうか、いわゆる「大人の事情」と称して企業側の利害を忖度しなければならないという意識がぼんやりと強まっていったのが、転換期だったのかもしれない。そこからは一貫して、利益や権利の囲い込みが進んでいった。メディアミックスビジネスの伸張もそれを後押しした……というか、まさにそれのためにパロディの自由は失われていったのかもしれない(※その一方で、二次創作同人だけは許容されて、今では即売会という場所的限定すら取り払ってオンライン販売が行われるようになっている)。
 例えば、ゲーム『巫女みこナース』のOPムービーにガンダムキャラもどきのような絵がチラッと出てくるくらいは、ネタとして笑って済む話であって、それが咎められるような社会は抑圧的にすぎると思う。また、『全修。』のように、既存アニメの有名シーンをパロディ的に描いた作品も、まさにそうしたパスティーシュを通じて、アニメ史の広がりと重み――それはアニメーター主人公に掛かる重みでもある――を視聴者の目に強烈に印象づけた。そうした絶大な効果を持つ場合もある。パロディ元の作者たちに一々許諾を取らなくても、そういった自由な表現の余地がある方が、文化的発展にとっても、我々受け手の楽しみにとっても、良い状況になるだろう(※あの作品はたぶん内々に連絡して、業界的な義理を通してはいただろうけど)。しかし、『僕らのいきなり同棲計画!』のように、綾波&惣流そのままのキャラクターをただ拝借してベッドシーンを描いているだけの作品では、非難の度合いが高まるのは妥当だろう。明確な線引きは難しいけれど、できるだけ緩く、寛容側に傾けておく方が良いのではないかなあ。
 ちなみに、海外では著作権の保護形態(保護範囲)そのものが異なるので、また別問題になるのだけど、それでもアニメのスクショそのものを切り出してグッズにして販売したりするのは、個人的には、ファン活動の範囲を超えた海賊版行為だと思う。
 もちろん、パロディはパロディで、「面白いか」「作品としてどのように組み込んでいるか」といった視点でそのクオリティが厳しい吟味に晒されるのは当然だ。むしろパロディは、そうした評価のハードルが上がりがちなのが、その安易な導入を抑止する防壁として作用しているとも考えられる。拙劣なパロディは、その拙劣さによって当の自作の出来を落とすし、またパロディ元のファンをも憤激させるだろう。言い換えれば、「パロディを使うなら、上手くやれ、面白くやれ」というのは、結果的にパロディ元作品の価値を守ることにもつながるだろう。受け手としても、「パロディだから駄目」という大上段の論法ではなく、「下手だから駄目」(パロディとして面白くないから駄目)というアプローチをする方が、はるかに健全だし、作品受容(作品のディテールをきちんと見てそれを解釈する姿勢)としても望ましい。


 観光地などの風景写真に、キャラクターがそこにいるかのようにイラストを描き込むのはかなり好き。ファンタジーキャラの現パロだとなお良し。


 ガールプラモの発売年表の更新は、もう止めてしまってもいいかなあ。理由はいくつかある。
 1) ガールプラモ分野の出現と初期の発展過程の20年史については、私の力の及ぶかぎり、ひとまずは記録することができた。完璧ではないにせよ、アウトラインを把握するための資料としては、それなりに役立つ筈だ。
 2) 現状ではもはや、極端に新しいムーヴメントが現れてくることは無さそうだから、ジャンル的発展史の観察&記録をこれ以上続ける意義は見出しにくくなっている。
 3) ブランド間のコラボや周辺的なミキシング用パーツなど、商品形態が複雑化してきたので、それらの見通しを提示するのは、単純な時系列リストの形では困難になってきた。
 4) 新作キットの数が増えすぎて、もはや一つのリストだけでは見通しが利かなくなってきた。ブランドごと、時期ごとの各論も、個別の記事としていろいろ書いてきたし。
 5) プレバンや布服販売、あるいは半-公式のレジンパーツのように、限定販売品や予約商品が激増したため、リリース情報の記録を残す意義が薄れてきた。……いや、むしろ情報を残すべき価値が高まってきたとも言えるのだけど、一般には買えない商品までトレースしていくのは不毛感がある。

 こういった同時代の記録は、後世のために誰かがやっておくべき作業であり、そして、一研究者兼趣味人としては、ひとまず歴史に対する義理は果たしたと言ってよいだろう。日本の「オタク」たちはどんどん刹那的で消費志向になっており、こうしたアーカイヴ化の営為が誰かによって引き継がれることはもう期待できないが、それはもう仕方ない。まあ、当面は私の労力を割けるかぎり、新作情報の更新を続けるけどね……。もうちっとだけ続くんじゃ(フラグ)。


 さて、『淡島』の私的なコメンタリーに着手してみた。……長い。長すぎた(第1話だけで17600字)。資料が揃っていて、書くべき方向性も決まっていれば、トップスピードで一日3万字くらいは行けるが、いや、それでもさすがに疲れた……。まあ、web検索やページ内検索などで、面白そうなところだけ適当につまんでいってくれたら十分、というつもりでいる。
 第2話以降はどうしようかな……。ざっと見たところ、原作漫画のレイアウトから多少離れた自由なコンテの回もあって、それはそれでとても良いことなのだけど記事としては書きにくい。それに、ひとまず解釈のアプローチと注目できるポイントは提示しきったので、これ以上は同じような話を繰り返すマンネリになってしまいかねない。うーん。
 
 というわけで、第2話の途中まで概要執筆してみた。時速2400文字(おばか)。
 これはこれで面白い知的営為ではあるのだけど、やはり時間を取りすぎる。このペースだと、ざっと70時間は掛かる計算になる。それはまずい……。
 最終的に、第2話のコメンタリーは9300字でまとまった。第1話の半分だね!
 第3話の分は、5300字。このペースならば、なんとかなりそう。
 第4話も、5300字。第5話は4400字。

 ……こうして心の電波を放出するのは楽しいよね。ともあれ、創作物のどこが、なぜ、どのように優れているかをきちんと言語化してそれを共有可能にするのはとても重要なことなのだが、なかなかやってくれる人はいないし、私も出来ているとは言いがたい。今回の投稿群が、ちょっとでもそうしたことに目を向けるきっかけになったら嬉しいし、こうしたアプローチは現代のメディアミックス優位状況ではとりわけ大きな有効性があるだろう。
 もちろん、こうした演出の細部について、読者/視聴者が無意識のままでも効果は発揮されている。そして、そのくらいの浸透力と説得力のある演出は、「上手い」と言うべきだ。俗に、派手にして面白がらせることばかりを演出と呼ぶ向きもあるが、それはべつに演出のコア部分ではない。陰影表現とか、色彩的な変化とか、レイアウトによる意味づけとか、そういったものによって画面のニュアンスを視聴者に感得させるのは優れたコンテワークの成果だ。だから、視聴者は、「なんかよく分からないけど、良かった!」という感想でも、まあ、ひとまずは構わない。少なくとも、画面をしっかり注視しているかぎりは。「ながら見」とか倍速視聴では、ストーリーの大筋は捉えられても、そこから零れるものが多すぎて、結局のところ芸術体験としてはナンセンスになってしまう。

 第6話は6800字でなんとか書ききった(累計48700字)。文字数よりも、掛かった時間も方が問題かな。映像の再視聴チェックも含めて4時間ほど掛かってしまったので。
 第7話は、かなり控えめに3600字(累計52300字)。全12話ぶんは、7月いっぱい掛けても無理だと思っていたけど、案外スムーズに完成できるかも……だったらいいなあ(終盤の大変さから目を逸らしつつ)。
 第8話もコンパクトに4100字。累計56400字なり。
 第9話は5500字。累計61900字。最終的には10万字以内でまとまりそう。10万字というのは、だいたい新書一冊分くらいなので、まあまあコンパクトな数字。しかし、このブログでこれまで書いてきた連続記事では、「CGワーク」が9万字、「ガールプラモ史」が最終的にたぶん6万字くらいなので、今回のはほぼ最長規模になっている。
 第10話は7400字(累計69300字)。これまで一日2話ずつ、予定通りのペースで進めてこられた。日曜日のうちに完成させられたらいいな……。(不穏なフラグ) 技術的には、文学部(英文学科とか仏文、独文とか)あるいは映像学専攻のまともな学生であればたいてい誰でも語れるくらいの内容……というか、やっていることは本当に素朴なアプローチなのだが。
 第11話は5900字(累計75200字)。原作の黒ベタ進行を、アニメの新規カットで補っている箇所がいくつかあるので、解説の文字数が増えることを懸念していたが、わりと穏当な規模で収まってくれた。
 第12話は3600字(78800字)。なんとか完成させられた。

 さて、ここで初回視聴時の私自身の感想を読み返してみましょう……眼鏡度入りの話しかしていないな、このバカ(わたし)は……。まあ、初回は映像のテンポに集中していて、映像のディテールまではなかなか意識が及ばないという言い訳はあるけれど、不明を恥じるほかない。




 06/16(Tue)

 【 エルフ雑感(あるいは、異種族キャラの発展史) 】
 いわゆる「エルフの森が焼かれる」云々というのは近年(10年代末?)新たに作り出されたミーム乃至アイデアだと思うが、いったい何処から、何故こんなに広まったのだろうか。

 80年代以前。洋風ファンタジー世界像は、当初は『指輪物語』以来の複雑で多元的な社会として構想されていたと言えるだろう。この時点でひとまず、それぞれの種族が固有の文化(精神的価値、生活形態、技術的知識など)を持った存在として現れた。
 90年代~00年代までの日本サブカルチャーでは、多種族間のマイルドな平和的共存を基調としていたように見受けられる。ただしそれは、基本的には人間中心主義的な描写であり、異種族キャラクターたちは「人間社会にとっては周縁的存在」、「知性が乏しく、劣等かつ非社会的存在」、「せいぜいのところゲストキャラ」にとどまっていたことの裏面でもある。例えばSLG「オウガバトル」シリーズでも、フェアリーやリザードマン、ホークマン、ゴブリン、ゴーゴンといった異種族たちは、戦闘時のユニットとしては登場するが、社会集団としての側面はあまり描かれていない。
 00年代後半。異種族キャラクターがフィーチャーされて魅力的に描かれるようになったのは、00年代後半の美少女ゲーム分野の「モンスター娘」ブームまでは、ほとんど存在しなかった(※ただしエルフ族を除く。また、格闘ゲーム『Vampire』シリーズなど、個性的な挑戦事例も存在した)。20年代の現在では信じられないだろうが、比較的オーソドックスな「獣人ヒロイン」や「悪魔キャラ」ですら、当時はかなりマイナーな、あるいはイロモノなキャラクター属性であり、「天使族」キャラクターすら、ろくに形成されていなヵった。ソフトハウスキャラ、Eushully、Escu:de、alicesoft、NinetailといったSLG系美少女ゲームメーカーは積極的に異種族ヒロインたちを登場させていたが、恋愛系ADVでは異種族ヒロインはきわめて稀だった。
 10年代以降は、キャラクター志向の二次元文化の爆発的拡大とともに、異種族の知的生命体たちも独自の個性と主体性を備えたキャラクターとして描かれる頻度が高まっていった。エルフキャラだけでなく、悪魔キャラ、吸血鬼キャラ、獣人キャラ、さらには額に角の生えた鬼キャラなども二次元文化に定着し、ゲームやイラストに頻繁に登場するようになった。異世界ハーレム系ネット小説も、この趨勢を後押しした一要因だろう(※ちなみに、エルフの標準的な体格イメージが、スレンダーからグラマラスへとシフトしていった悲劇も、おそらくこの時期の出来事だ)。
 10年代後半。こうして、異種族キャラクターたちが普及するとともに、あらためてかれらの文化的造形や社会性が精緻化されていった。文化面に関しては、ドワーフやオークなど、古典的なイメージがほぼ踏襲されたが、多種族共存世界における相互関係については、掘り下げの余地が大きかったようだ。すなわち、経済的交流、差別的関係、種族間対立、民族紛争、そして「民族国家」どうしの対立および戦争などが、作劇の道具立てとして活用されていく。
 さて、ここでようやく「エルフの森」の話に戻る。フィクションの洋風ファンタジー世界における社会関係や技術水準に関する認識がリアリスティックに深められていく中で、長命で自然志向のエルフたちは、「原始的とも言える生活形態を持っている閉鎖的な少数民族」という側面が否応なく目立っていっただろう。そしてそれは、「脆弱な小規模社会集団が、強大な文明国家と接触したならば、一方的に収奪されるだろう」という思考に向かうのは、無理ならぬことだろう。また、異世界系ネット小説では、たしかこの頃に、奴隷制描写を取り入れるものが増えていた。人間族どうしの奴隷化から一歩進んで異種族を奴隷として描くとき、「動物のように扱われる獣人族」と並んで「可憐さゆえに悲劇性を強調できるエルフ」が、好適な対象となったことは自然な流れだろう(※ひどい話だけどね!)。
 こうして、異世界社会のイメージが精緻化されていくプロセスと歩調を合わせて、「迫害される少数民族としてのエルフ」像が広まって行ったのではないかと、個人的に推測している。どこかにマイルストーン的な作品があったのかもしれないが、寡聞にして聞き及ばない。

 美少女ゲーム分野でも、90年代から『Dearest Vampire』(タイトルどおり吸血鬼ヒロインなどが登場する)や、『恋姫』(elf作品、龍族ヒロインなどいろいろ)、『とらいあんぐるハート』シリーズ(これも吸血種や幽霊ヒロインがいる)など、異種族ヒロインをフィーチャーした作品はいくつか存在した。80年代以来のSLG/ファンタジーの雰囲気がいまだ強い時代だったせいもあるだろう。
 しかし00年代に入ると、現代世界の学園恋愛系とダーク系に二分されて、ファンタジー要素はいささか希薄になっていく。ファンタジー要素を含むタイトルは、SLG系の活発な創造性を別とすれば、Triangle『魔法戦士』シリーズやcolors『魔法少女アイ』シリーズに代表されるような変身ヒロインものか、メランコリー系(または伝奇系)の現代和風幻想もの――90年代の『アトラク=ナクア』から00年代の『顔のない月』『腐り姫』『夏神楽』など――が主流で、なかなか異種族ヒロインを出すには至らなかった。ただし、サキュバス(淫魔)キャラだけは定期的に登場していた。
 00年代半ばになって、ようやくポップでライトな異種族ヒロインが普及していく。魔法少女もの(『ウィズ アニバーサリィー』)から、色っぽい吸血鬼ヒロイン(『です☆めた』『宵待姫』)、そしてとりわけUNiSONSHIFT(『WAGA魔々かぷりちお』『Chu×Chuアイドる』)がこの路線を強力に牽引した。『とり×とり』(2006)は、異種族ヒロインだらけの作品という意味でも、ハロウィンネタを取り込んだ作品という意味でも、先駆的な作品だった。アトリエかぐやも、『マジカルウィッチアカデミー』(2005)でこのジャンルに進出してきた。
 そして00年代後半になると、凝った設定のファンタジー世界を舞台にしたタイトルが増えていく。ただし、素朴に古典的なファンタジーを踏襲するのではなく、意識的なパロディ作品として作られることも多かった。ケモ耳ヒロインも、流行するようになったのは案外遅くて、たしかこの時期からだったと思う。さらに00年代末には、先述の「モンスター娘」への挑戦が本格的に始まる。
 ……と、だいたいこんなふうにして、00年代の様々な動向が、10年代以降の流れを準備していたと言えるだろう。エルフヒロインも、2004年頃までは非常に少なくて、2005年あたりからようやく一般化していった。『ぱすてるチャイム』(1998)から、『プリンセス小夜曲』(2005)、そして『姫騎士アンジェリカ』(2007)……あっ、「グラマラスなエルフ」像はこの作品の影響が大きかったのかも。


 最近では、「アニメ化」のニュースをかなりシラけた目で見るようになっている。結局のところ、新しいものが生まれるわけではないので。関連グッズはどうでもよいし、アニメ映像それ自体も、動画向けに単純化された絵になってしまって原作のタッチの個性が失われるし、漫画のコマの猿真似コピペのような低品質なコンテも頻出している。ストーリー面で見ても、原作をなぞるばかりのものが多いし、ほんの12話(漫画にして3~5冊)でぶつ切りにされてしまうのが通例だ。原作者もアニメ版制作に多大な時間を取られて原作進行が停滞するという本末転倒な事態も起きる。
 良いこともあるのは認める。端的に言えば、その作品にお金が入ってくるということだ。例えば、原作が重版されたりもするし、原作連載が継続される見込みも高まり、そして優れたクリエイターの懐が潤う。作品に色と音が付き、卓越した声優が秀逸な台本に沿って演じるのを楽しめるというありがたい機会にもなる。でも……なあ……ただそれだけのことで、アニメ化だアニメ化だと大騒ぎされるのにはもう飽きている。
 アニメ分野それ自体としても、メディアミックス優位でお金に振り回されていく中で、売れるコンテンツの2期や3期が延々制作される一方で、オリジナルアニメが激減しているのはたいへん悲しい風景だ。
 個人的にも、原作(小説や漫画)のテンポや雰囲気が好きだからこそ、アニメ版は観たくないという気分になることは多い。ある作品のファンであっても、その関連コンテンツに一々付き合うべき義理があるわけではない。ましてや、他人の商売に付き合う必要は無い。もちろん、優れた作品が正当に注目を集め、そして優れた成果を出したクリエイターが経済的にもまっとうなリターンを得られるのは良いことなのだけど、しかしそれでも、アニメ界隈のあれこれは過剰に商業主義化しているように見受けられる。「アニメ化」の情報が、我々読者/視聴者の側にとってそんなに喜ぶべきことなのかは、立ち止まってその都度再考すべきだと思う。


 先月発売の漫画新刊も、ようやくほぼ消化できた。このブログは、読んだ記録であるとともに発売時期の記録でもあるので、先月の本は先月用のページに加筆していくことにする。


 いわゆる「チェーホフの銃」原則を引き合いに出す人がいまだにいるけど、あれは古いセオリー、というか、そもそも主張の妥当性すら欠いているんじゃないかなあ。
 創作作品は、ストーリーだけに意味があるのではなく、美術的な側面や全体的なムードにも表現性がある。なので、小道具がどこかで使われるかどうか(物語上の機能を持つかどうか)に拘泥するのは、視野が狭いと思う。ちなみに、ここ三十年来のオタクたちの悪癖で、目について気になったものを何でもかんでも「伏線」「ネタ仕込み」だと思い込んで勝手に期待するのも、それと同じ問題を抱えている。
 場所とコストと上映時間の限られる舞台演劇――しかも比較的小規模な――であれば、観客の気を散らさないように余計な要素を省いて本筋に集中させることには意味があったかもしれない。しかし、映画2本分以上の長尺で展開される週間アニメや、延々連載されて話がどう転ぶかも分からない漫画作品(※作者自身も、途中で話の展開を変えたりするだろう)では、そのような決め打ち的な受容(読解)姿勢は不適切だし、ましてやそれを規範として作品の良否を評価するのは的外れになるだろう。


 象のSNSでは、とりわけ政治に関しては、できるかぎりマイルドな語りをするように努めている。
 ミクロレベルでも、結局のところ、国民はお互いに1票ずつを持っている対等な相手であって、それを一方的に貶したり罵倒したりしても何の成果にもつながらない。
 マクロレベルでも、国民が党派的な敵味方思考に慣らされて分断されていること自体が、「権力に対する健全な監視」の意識を弱めてしまっていることに危機感がある。
 さらにプロセスレベルでも、相手を冷静かつ公平に説得するという姿勢――つまり民主的な熟議――を回復しなければいけないという考えがある。

 もちろん、妥協するという話ではない。譲歩してはいけない基準については、筋を通してきちんと主張する。ただ、「これが分からないお前はバカだ」などという喧嘩腰になるのは無意味だという話だ。
 また、相手と肩を組む必要も無い。政治の目的は、仲良くなることではなく、ひとまずは公平なルールについて1億人がお互いに合意形成できるようにすることだ(※不公正なものにならないように、議論するのだ)。
 さらに、これは相手による。公職者など責任のある者に対しては、厳しく追及してよい。放置すればするほど害悪が膨れ上がるからだ。また、腰巾着のデマゴーグや商売目的の煽動屋に対しても同様だ。しかし、悪意ではなさそうな一般人に対しては、対等な市民どうしとして、冷静、慎重、公正なコミュニケーションの仕方で説得していくべきだろう。というか、そうでなければ、「あらゆる個人の尊厳を重んじる」という大前提が崩れてしまう。「いくらでもバカにしてよい愚かなネ○ウ○」のようなカテゴリーを作ってしまうことは、それ自体、社会の最低限の公正さを自ら手放しているに等しい。だから、対立党派の支持者たちにどんなに腹が立っても、あるいはその愚かさがどんなにもどかしく思えても、そこはなんとか我慢して対話を目指すようにしている。
 ただしこのブログは、SNSとは違って基本的にマイナーなモノローグの場なので、説得目的のソフトな語り口よりも、正しい理路をきれいに示す(書き残す)ことを目的にしている。


 【 美少女PCゲームの個人的な回顧 】
 美少女PCゲームは、今でもたまに買って多少はプレイしている。20時間くらいできれいに完結するので満足感もあるし、ベッドシーンは割り切って飛ばしてしまう場合もあるので(ごめん)、冗長にもならない。
 しかし、最大の問題はキャストなんだよね……。90年代末からのアダルトゲーム声優界は、他分野に勝るとも劣らぬ多士済々で、だからこそプレイする=芝居を聴く充実感もあった。当時は、まだアニメの枠がきわめて小さく(※深夜枠もまだろくに出来ていなかった)、そうした中で金払いの良いゲーム収録に、才能のある若手声優たちが集まることになった。小規模舞台系の役者が声優として進出してくる場合もあり(金田氏とかね)、強烈な個性のある芝居をする声優たちで溢れかえっていた。
 しかし10年代前半になると、アニメやオンラインゲームに優秀な若手声優が取られていくようになった。かれらとしては、新たな良い仕事の機会が出来たわけだから、それはそれで喜ばしいのだが、面名義を使えないアダルトゲーム業界の仕事は、人材獲得の競争でも不利に働いただろう。そして00年代末頃から、有望な新人があまり現れなくなっていった。さらに、長く続く不況によるセールス悪化は、おそらく予算縮小をもたらし、音声収録に掛けられる費用も減っただろう。そうして、10年代前半のうちに、桃組の激安声優たちや同人声優の退屈な演技が席巻していった。その一方で、90年代からの美少女ゲームを支えてきた実力派声優たちも、30代から40代へと年を重ねて、学園恋愛系ゲームからは引き上げていってしまった。そして私は、この時期から、新作もあまり買わなくなっていった。声とCGと演出があってこその美少女ゲームなのに、素人のようなつまらない芝居を聴くことに耐えられなくなっていった。ゲーム内容の側でも、低価格帯のピンク系タイトル(Softhouse-sealとNornから、アパタイト、ぱちぱちそふとなど)が主流になっていき、システムや演出の新たな挑戦が見出されなくなっていったという事情もある。
 そして2020年にSLG系メーカーのソフトハウスキャラが活動終了した。このブランドには最後まで付き合うつもりで全作品をプレイしてきたが、本当に最後まで行ってしまった。個人的には、このジャンルの柱を失ったようなものだったのだろう(……自分でもまだ整理しきれていないが)。
 それ以降も、同じくSLG系の老舗Escu:deは、創意溢れるゲームシステムと洗練されたUIに、さらに肉感的にアップデートされたCG表現と、意欲的なストーリーを展開し続けており、たいへんありがたく感じつつ、たまに買ってプレイしている。ADV系の新作やロープライスなども、まあ、ちょっとずつは手を出している。こんな感じかな……。


 うーん……。いまだに、「アニメばかり観ているから思考停止してバカになる」(※何の因果関係もない、ただの差別&オカルト的主張)とか、「女性を抑圧してきたのはチーg○」(※歴史上、女性の社会進出を阻んできたのは権力者や上司や父親。どうして社会的地位の弱い男性がそんなパワーを持てると誤認するのか)といったような主張が、比較的知的であるはずの人々の間ですら平然と横行していてガッカリする。批判すべき相手を、責めるべき敵を、もうちょっと正確に把握しようよ……。
 もちろん個別的には、アニメオタク兼排外主義者というのもいるだろうし、あのヒマデマに乗せられたのが主としてネットの二次元趣味クラスターだったことは反省しなければいけないし、いわゆる「もてない」コンプレックスから女性嫌悪/女性差別に走った人もいくらかはいるだろう。しかし、だからといって、総称的にアニメオタク全体や非-恋愛志向的な人々全体を丸ごと悪党集団であるかのように主張するのは、控えめに言ってもカテゴリー認識を誤った的外れであり、文化的な差別行為そのものであり、そして忌憚なく言えば陰謀論的に限りなく等しい無根拠なトンチキ妄想だと言わざるを得ないのよ……。もうちょっと精密かつ公平にものごとを捉えてほしいのだが……。

 もっと言えば、
 ・ある文化領域について、
 ・明らかに知識が不足している(実態を知らない)のに、
 ・決めつけで(十分な根拠も無く、それを調べようともせず、当事者を尊重もしないで)、
 ・否定的な評価を、
 ・しかも政治的-社会的にスティグマタイズするような言辞で、
 ・公言する、
というのは、現代の言論ではかなり最悪クラスの行動なんだよね……。それでも、「広く蔓延した既存の偏見に乗っかって」+「自分が批判したい対象について『こいつらが悪者なんだ』と気持ちよく断言する」というのは、なかなか抵抗しがたい快楽であり、そして身内からは諫止しにくい種類の主張になってしまっているというのも、残念ながら理解できる。いやもちろん、それでは駄目なんだけどね……。既存の差別の多くは、往々にしてこういう社会的な偏見の枠組によってドライヴされてしまうものであり、そうしたトゲを私たちは一つずつ丁寧に抜いていかなければいけない。



 06/08(Mon)

 本日購入した漫画は……26冊。よし、30冊未満だから大丈夫だね!(何が?)
 漫画(商業単行本)、ゲーム、プラモデルだけは、購入数を家計簿に入れてカウントしている。ただし同人誌は管理しきれないので除外。新書や専門書はあるがまま、買うがままになっている――本来は仕事にも関わる書籍こそは、蔵書管理しなければいけないのだけど。
 さらにゲーム、プラモデル、フィギュアは、Excelリストに一つずつ記録している。メーカーやシリーズ名などの情報も併記して、プレイしたかどうか(組み立てたかどうか)もチェックを入れている。プラモデルは、先日のFIORE「リリィ」(cf. https://urusai.social/@mikoto/116709902035842385 )で397作目になった。今月か7来月のうちには400作品の大台に乗るだろう。プライズフィギュアも、そろそろ300個に届きそう。


 【 キャラクターと多国籍性 】
 日本のゲーム発でおそらく最も有名なキャラクターは、イタリア人の配管工だからね……。こんなふうにして実際の国と、人気キャラの国籍(または文化的紐付け)が異なるのは、わりとあることだし、もちろんあってよい。漫画だと孫悟空くんも、元ネタからして中国系に擬せられる立場ではある。
 まあ、ダルシムやブランカを出してしまった廉では、CAPCOMはインド人やブラジル人に詫びるべきだと思うけど……。

 米国を代表する架空キャラクターといったら……スーパーマン?(外国どころか異星人じゃねえか) クラーク・ケントとしては米国人。トム・ソーヤーも自国人。ロッキーにしてもガンプにしても、一応実在国家の国籍が想定できるキャラクターは大抵アメリカ人になっているだろう。ただし、コルレオーネ一家はもちろんイタリア人だし、レクターはリトアニア生まれらしい。なお、ミッキーやトム&ジェリーは人間ではないので除外。
 英国だと、シェイクスピアのロミオ&ジュリエットはイタリア人だし、ハムレットもデンマーク人。ただしこれらは、元になっている伝承があるので、彼のオリジナルキャラではない。ポップカルチャー寄りとしては、シャーロック・ホームズが一番有名かな(もちろん英国人)。ジェームズ・ボンドも自国人。
 ドイツだと、ゲーテのファウスト博士、ヴィルヘルム・マイスター、ウェルテルあたりは全てドイツ人。
 その他。イタリアのピノキオも自国人。フランスの「星の王子様」には国籍描写無し。カナダの「赤毛のアン」も自国設定。中国だと……ブルース・リーは役者自身であってキャラクターではないが、ほぼ同一視されているだろう。中国は史実と伝承が分厚すぎるし、その一方で権力的規制もあるので、フィクションのキャラクターはなかなか出てこない。韓国とかインドネシアとかブラジルとかロシアとかは、国際的に知られた超有名キャラクターがちょっと思い浮かばない。

 児童文学(童話)のキャラクターは、基本的に自国ものになっていると思う。フォークロア(おとぎ話)由来のキャラクターも、その性質上、当然そうなる。


 [ tw: nonbiri_nouka/status/2063990201597538562 ]
 こういう愚行はやめてほしいなあ……。歌手は、歌唱に関しては素晴らしくても、役を演じることについては基本的にただの素人なので。視聴していても、異様におかしな芝居がいきなり出てきて、クレジットを見るまでもなく即座に気づくのよ……。
 他の作品でも、主題歌の歌手がサブキャラの2-3個だけの台詞を演じる例はいくつか現れているが、唐突にそこだけヌメッと変な芝居が出てきて、ものすごーく浮いて聞こえる。そしてエンドロールで確認すると、歌手が演じていたと判明する。要するに、台詞に意味が伝わっておらず、そこだけ唐突にピントがぼやけた喋りになる。制作サイドとしては「ちょっとしたお遊び、サーヴィス」のつもりかもしれないけど、真剣に音声と映像に集中している視聴者としては、いきなり冷や水を浴びせられたようで、一気にしらけるし、がっかりする。
 しかしそれでも、こういうゲスト出演を喜んでしまうファンが少なからず存在するし、下手な演技に気づいても我慢する視聴者がほとんどだろう――ほんの数個の台詞についてはSNSなどでわざわざリプライで直接文句を言うような人はまず皆無だろう――から、たぶんこの悪習は今後もいろいろなところで出てくるんだろうなあ……。


 【 えろちかこめでい 】
 エロコメ漫画もたまに読むけど、本当に玉石混淆だなあ……。
 一方では、箸にも棒にも掛からないような、下着を描いているという一点にしか意味が見出せないようなヘボ漫画も非常に多い。キャラクター造形はありがちで浅薄だし、コメディ描写も手垢についた強引なラッキース○ベ展開だけで、絵や構図やコマ組みも陳腐……というタイトルもある。そうした作品は、物語も停滞して、ただヒロインキャラを増やしていくだけのマンネリになりやすい。
 その一方で、コメディ漫画のノウハウの蓄積を最大限活かしつつ、アイデアの抜群の切れ味となまめかしい裸体表現の官能性を両立させた傑作も多い。そうした作品では、キャラクターの心情の機微をドラマの梃子にしつつ、そこから密度の高いネタをリズミカルに配置して、説得力のある展開を引き出してくる。お色気表現それ自体にも巧拙があって、漫画演出として「そうなる(お色気状況になる)ことの面白味」を引き出すような流れをきちんと作り、そのうえでレイアウトも抜群に美しく見せる。さらに、けっしてお色気だけに寄りかからず、例えばヒロインたちのファッションも凝っていたり、あるいはお色気ネタだけに限らず、日常描写でも洗練されたユーモア感覚を披露したり、全身の動きをきれいに見せるためのポージングも高いレベルで描かれていたりする。バトル漫画ではいわゆる「インフレ」にも限度があるが、お色気表現の場合は事実上青天井に、どれだけ魅力的に描いてもよいので、表現力の高い漫画家にとってはその実力を存分に叩き込める好適な題材になるのだろう。
 要するに、「下手でもエロネタのキャッチーな魅力で売り出せる余地がある」という側面と、「優れたクリエイターがノウハウの蓄積を活かして高みを極める」というパターンの2種類が併存できてしまう。だから、まあ、ハズレ率が非常に高い危険ジャンルでもあるのだが、時間を掛けてじっくり鑑賞するに堪える秀作もたくさんある。絵のレイアウトの巧みさや、曲線美(肉体美)の存在感。物語展開の自由度の高さから来る、意外性のあるドラマ。そしてエロ「コメディ」の要素でも、ウィットのある艶笑的な台詞回しを楽しませてくれる。他のジャンルでは扱いにくいような、ピーキーなキャラクターも出せる。漫画一般の表現技巧として見ても、本当にびっくりするくらい上手い方もいる。というわけで、読む数は少ないけれど、エロコメ漫画も良いよね!

 「お色気コメディ」というのは、あくまで作品の見せ方の一要素にすぎないので、様々なジャンルと結びついて自由に拡張されうる。『ToLoveる』のような高校+ハーレム+ドタバタがイメージされがちだが(※実際、1970年代くらいからの長い伝統がある)、それ以外にも大学生日常もの(例えば『惰性67%』『ふぉとくら』)、ミニマル日常もの(『玉川さん』『じゅーくぼっくす』)、『○○さんは××する』型のシチュエーションコメディ(多数)、男の娘ものやBL/GLや女性向け(『スカートを脱ぎたい』『彩純ちゃん』『アンドロイドは経験人数に』など多数)、クリエイターもの(『ももいろモンタージュ』『純情エッチング』『早乙女姉妹』)、テクニカルに捻りを利かせた下ネタ(『うしろの正面カムイさん』『魔法少女×敗北裁判』)、現代/和風ファンタジー(『鷹峰さん』『クノイチイノチ』)、西洋風ファンタジー世界(『魔法医レクス』『昨夜もお楽しみ』など多数)、SF(『スーパートリアージ』)、等々。18禁コミックの中にも、コメディ色の強い作家がそれなりにいる。
 お色気要素それ自体も、下着露出が多少(?)頻出するというライト(?)なものから、下ネタトーク中心の作風、さらにはストレートに性行為を示唆するドぎついものまで幅が広く、好みに応じて選べる余地が大きい。
 周辺ジャンルも、例えばコメディ要素が薄くて完全にエロ中心になっている作品や(『カレシがいるのに』『聖なる乙女と』)、ハーレム系異世界冒険者ストーリー(『辺境の薬師』とか。大量にある筈)、素肌露出の多いシリアスバトルもの(『異世界バトルロイヤル』『マダラランブル』)など、充実した広がりがある。

  ……こうして見ると、最近(ここ十年以内)の作品から思い出せるものを挙げただけでも、そこそこの数を読んではいるんだなあ。上で挙げたのはどれも、平均以上の堅実なクオリティとコンセプチュアルなユニークな個性を併せ持った秀作で、この方向性が好きならばどれでもだいたい楽しめる筈。その背後に死屍累々の駄作群も存在するけれど、まあ、それは仕方ない。


 【 加害性のあるキャラクター造形を扱うこと 】
 ガールプラモでは、メガミデバイスのキットでも、キット告知段階で「メ○○キ顔」というフレーズを出していて、「うわあ、まずいなあ」と思ったけど、最終的には引っ込めて別の表現に変えたようだ(※たしか「わるいこ顔」に変えた筈)。まあ、家電量販店などの全年齢エリアの商品パッケージに書いていい表現ではないよね。あのメガミチームのああいう悪ノリ体質にはずっと警戒感を持っているが、この件はぎりぎりでブレーキを利かせてくれて一安堵した。
 同様に地上波放映のアニメでも、「メ○○キ」という侮蔑的スラングは絶対に出してはいけないと考えている。障害者を指す「ガ○○」「池○」などと同じく、特定の社会的/身体的属性を貶めるための差別そのもののジャーゴンなので。現実の他者に対して使ってはならないのはもちろんのこと、フィクションのキャラクターに関する表現としてすら、おおっぴらにそうした観念を用いるべきではないと考えている。
 残念ながらそういう最低限の線引きのできないアニメが現れてしまったが、これはもう駄目だよね……。個人的には、のれんで仕切られたメロブの奥地とか、シュリンクで封緘された漫画単行本の中で使うならば、ギリギリ許容するけれど、しかし地上波放映のように、ゾーニングや事前警告の一切無い場面でぶっ通しに使うのは、さすがに倫理観が壊れすぎていると思う。

 この単語それ自体が、児童を性的+侮辱的に表現するという意味で、今世紀のオタク界隈が生み出した最悪のジャーゴンの一つなのだが……。せめて18禁のゾーニングの中だけに留めておこうよと言いたいが、SNSは――というかtwitterという特定のサーヴィスは――基本的に、何の制限も障壁も無しに全世界に向けてオープンにしてしまう空間であり、まあ、そこで性欲トークを(二次元であれ三次元であれ)しまくっていると、限度が分からなくなっていくんだろうなあ……その挙げ句に、あのスタッフは上記のような言葉を公共の電波に平気で流してしまうようになった。

 キャラクター属性の創出という観点では、例えば90年代~00年代初頭の「ツンデレ」や「ダウナー」は、ひとまず後ろ暗いところの無いキャラクター造形だった。
 しかし、00年代半ば以降に発生した「ヤンデレ」になると、雲行きが怪しくなっていく。10年代の「サー○ラ」も、人間関係の破綻を女性の側に一方的に帰責するもので、明らかに男性視点の女性嫌悪的気分から生まれている(※だからこれを軽率にネタにしたスパイ家族漫画は、一発で嫌いになった)。また、キャラクターというよりはシチュエーションだが、誘拐行為までもが「ハイ○ース」というカジュアルな表現として一部オタク界隈で公然と用いられるようになってしまった(10年代半ば以降?)。さらに10年代末の「メ○○キ」は、QMAシリーズの「グリム・アロエ」と『ボンバーガール』が出発点(または初期の起爆剤)であったようだが、上述のような問題を露呈されているにもかかわらず、SNSなどで無節操に広まってしまった。
 もちろん、こうしたエキセントリックなキャラクター像の創出は、古典的なサディズムやマゾヒズムと同様に、人間精神の限界を突き詰めるというクリエイティヴで実験主義的な文化的側面を伴っていることは確かだ。しかし同時に、そこに性差別や未成年者搾取のような現実的加害性があるならば、やはりそれは一定の範囲で批判に服すべきだし、少なくともTPOの問題にならざるを得ない(※それはロリータ・コンプレックスにも当てはまる)。
 また、全てが悪くなったわけではない。例えば、上記「ダウナー」造形は、10年代末に「ダウナーお姉さん」という形で、新しい革袋に入れられて見事に再興した。これはこれで、キャラクター造形というよりは読者へのフックに近いものだが、漫画やイラストでも様々な作品が作られるきっかけになった。


 【 中国風デザインのキャラクター 】
 アルカナディアの「オルネラ」は12月発売とのこと。遠い……いや、ほんの半年強?
 豪華な中華系ドレス+したたかな商売人+ねっとりした関西弁(京都~船場)というキャラクター類型は、どのあたりから出てきたんだろうか。もちろん個別要素としては、昔から存在していたものだけど、マイルストーン的存在は『サクラ大戦』の李紅蘭かなあ(※チャイナドレス+元気系関西弁+したたかな発明家)。「中国人+商売人」も昔ながらの華僑イメージに連なるものだろうし、「関西人の商売人」というのもありがちなステレオタイプだ。さらに九尾狐の妖しいイメージも付与されつつ、そのあたりがミックスされて、上記のようなキャラクター像に収斂していった感じなのかな。おそらく10年代後半以降の比較的新しいモデルで、『のんびり農家』の同種キャラもたしかその頃に登場した。

 衣装デザインについても時代ごとの変化がある。上記「オルネラ」のように、伝統的な中華服をベースにしつつ、袂部分をまるで振袖のように長く垂らしたミックスデザインは、たぶん近年の男性向けに特有のものだろう。胸元をくつろげているのも含めて、花魁のイメージが混じっているようにも見える。
 ちなみに「オルネラ」では、腕と袂の接続が盛り上がっていて不格好なのが残念。可動を捨てて、周囲を削り落としてシルエットを馴染ませるか、それとも着脱を捨てて、腕部分を抉り込んで袂を埋め込むように処理するか……。首周りのファーは、百均ショップで適当な素材を買ってきて取り替えた方が良いかなあ。

 中華趣味(sinocism)それ自体も、80年代の『Dragon Ball』(1984-)、『らんま1/2』(1987-)、『3×3 EYES』(1987-)から、90年代の『ふしぎ遊戯』(1992-)、『十二国記』(1992-)、『封神演義』(1996-)などを通じて強力に展開されていた。
 00年代以降はやや沈滞したが(『彩雲国』2003-などは存在した)、10年代半ば以降、女性向け漫画の後宮ものや中国メーカーのオンラインゲームなどを通じて再び注目を集めるようになっている(『暁のヨナ』2009-、『薬屋』2011-、『烏に単は~』2012-など)。
 ただし、緩くトレンドとして広がってはいるものの、『薬屋』以降は知名度の高いビッグタイトルがなかなか現れてこないまま、十年来ずっと燻っているジャンルでもある。『ふつつかな悪女』(2020-)がようやく世間的に脚光を浴びつつあるくらい? それ以外だと、『後宮茶妃伝』(2022-)や『暗殺後宮』(2023-)あたりが現役の中堅上位クラスだろうか。中国発のオリジナルアニメがいろいろ進出してきており(『羅小黒』『百妖譜』など)、それらがインパクトを与えてさらに状況が変化していくかもしれない。


 『神楽新風記』シリーズは、方向性がよく分からない……。シリーズとしての統一性や連続性は目指さず、紫に桂香と、人気キャラ(または舞歌のように人気を掘り起こせそうなキャラ)をピックアップするための場なのだろうか?
 個人的には、40本も付き合ってきてさすがに飽きたので、全作購入は昨年でやめたけど、『桂香の章』だけは買っておこう。……妹の初花ちゃんに出番が回ってくるかどうかはあやしいけど。

 というわけで『神楽新風記:桂香の章』を買ってきた。
 セーブデータ周りの仕様がちょっとだけ変更されている。具体的には、作品間で使えないアイテム(武器種類やステータス強化アイテム、特に「賢精」アイテム)が、自動的に削除されるようになった。
 面倒なのは、HDD交換して旧作をインストールしていない場合。例えば、武器Aを使う作品に、武器Bを使う作品にデータ継承しようとすると、武器AとBがズレているので、武器データは一切継承されない(※おそらくトップダウンで、ズレを判定する仕様になっている)。なので、武器Aを使うタイトルだけをインストールしておいて、そこに武器Bのsvdtをコピーで差し込んでおいて、新作に武器Bを継承する……ということは出来ない。まあ、実際にはなんとでもなるけど。

 システム刷新(というほどではないが)。
 ゲーム内部の新システムとしては、「探索手帖」欄がある。要するに、これまでに入手したアイテムの図鑑のようなもの。敵ユニットに関しては、撃破数も記録されている。
 また、敵キャラやお供ユニットも、罠に掛かるようになった。お供はPCの後ろから付き添うので、プレイヤーが罠を踏むと自動的にお供も罠に掛かるという、ちょっと鬱陶しい仕様になっている。
 「妖術」を使うと、まだ仲間にしていない妖怪もお供として出現する。……以前からこの仕様だっけ? 設定上はおかしな現象だが、プレイヤーの損にはならないので、まあ良しとしよう。
 システム面では、これまで敵キャラが使う吸収では、HP回復していなかった(たぶんバグ)が、今作ではちゃんとHP回復するようになっている。おかげで、ラスボスの人面樹のしぶとさが増している。

 新仕様やゲーム難易度など。
 今回もマップ中は3Dキャラ。人魚を撃破すると、尾びれをピタンと振って倒れるのがちょっと可愛い(?)。一つ目入道が攻撃する筆先の軌跡がなめらかに光っているのもちょっと格好良い。
 新規アイテムとして、「(敵キャラ)の守り」シリーズがある。対応する守りを所持していると、その敵からのダメージを1%軽減するというものらしい。効果が小さすぎて、中ボスの場合ですらほとんど無意味に思えるし、敵の種類が多いのでとてもカヴァーしきれない。その他、様々なアイテムが追加されているようだ。例えば「エネリゲインD」は、必殺技を使えるポイント数を回復させるという代物。状況次第だが、これを使うかどうかでボス戦の戦略が劇的に変わる。
 敵のラインアップに関しては、今作はいやらしい状態異常を使う敵が多く、行動がかなり阻害される。幸いにも、ダメージはあまり大きくないし、全体としてはかなり低い難易度のタイトルだが、レベルが足りていない場合は危険かも。優先しておきたい耐性は、中盤以降は眠り、後半は混乱。裏を返せば、耐性をきちんと確保しておけば、敵が無駄行動を連発してくれるので、難易度はかなり下がる。
 ボス敵については、最初の枕返しはかなり弱いが、2番目の一つ目入道はそこそこパワフルに攻撃してくるので、装備品や混乱耐性がしっかりしていないと落ちるかも。ラスボスの人面樹も、本体は弱めの部類だが、周囲にボムを撒いてダメージをじわじわ蓄積してくるので、早めに撃破しないと押し負ける可能性がある。最強クラスの必殺技「朝の一撃」を習得していれば、それを2発当てるだけでボスHPの5割を抉り取れるので、そうそう負けはしないだろう。
 クリア後のエクストラダンジョンも、今回は無いようだ(もしかして登録者限定になった?)。

 ストーリーやCG。
 ストーリー面では、余所の神社との関係を示唆するテキストがある。『新風記』全体として大きな物語を作っていくのだろうか?(過去作の記述はあまり覚えていない)
 イベントは、ボス(中ボス)に連敗して選択肢を間違えるとバッドエンドという、いつものパターン。
 イベントCGに関しては、かなり肉感的な裸体描写で、ポージングも凝っており、近年の同シリーズでも非常に完成度が高い。しかし、まるでAI絵のように目元のツヤが濃くて、妙に彩度の高い塗りなのが、桂香さんらしからぬ雰囲気になっている。ただし基本的には、絵柄の現代化として肯定されるべき変化だと思う。


 【 趣味活動ものの漫画/アニメについて 】
 A) 「バイクや釣りのように、現実には男性ユーザーがほとんど(9割またはそれ以上)を占めている趣味を、可愛い若年女性にやらせる創作物は、女性の外見だけ都合良く消費するための男性中心的コンテンツである」……分かる。
 B) その一方で、「上記の批判は、実際には女性ユーザーが存在するにもかかわらず、それらを『男性の趣味』と定義してしまうことは、そうした女性ユーザーの存在を無視し、現実においても周縁化させるのを後押ししてしまう(言い換えれば、そこでは男性がマジョリティであるという認識を強化してしまう)」……これも、まあ、分かる。
 では、双方の主張は両立しないのか? それらのジャンルについては賛否どちらか択一しかないのか? それらの意見についてどのような根拠を提起することができるか?両論併記でお茶を濁す論者もいるが、それではまだ不十分だろう。

 私見では、Aの側面を問題視する場合に、その焦点は「女性キャラの描かれ方」に存するのであって、扱われている趣味そのものにはあまり関係が無い。趣味活動系のアニメでも、肉感的な描写や煽情的なレイアウトを採用しているタイトルもあれば、そうではないタイトルもある。
 もちろん、性的表現如何とは別に、「女性」表象を利用している場合にも問題はあり得るし、逆に、ただ単に商業主義や技術的事情による場合もあるだろう(※kawaii女性キャラを描くノウハウは確立されているが、ジェンダーレスに受ける魅力的な男性キャラを造形する知見はまだ蓄積が浅いし、それを上手く作画できないクリエイターも多い)。
 しかし、いずれにせよ、現実に男女比が偏っている趣味活動では、その作為性がグロテスクに目立ってしまう。つまり、趣味活動ものの創作物が批判を浴びやすいのは、いわば外的事情に過ぎないと述べることも一応可能だ。「男性の趣味を、女性キャラにやらせて、それを男性視聴者が楽しむのはキモい」というのは、うん、まあ、分かる。とてもよく分かるし、心情的には賛同するけれど、現状では「異世界でチートハーレム」とか「若くて美形な公爵様から溺愛される」といった都合の良い妄想ジャンルと同レベルの事柄にすぎない。妄想に耽るってのは、そういうものでしょ、という……。
 Bについてはどうか。これは、よほど極端でないかぎり、問題にはならないだろう。つまり、例えば「こんな女性が現実にいる筈が無い」といったような主張を提起するならば、現実にその趣味を楽しんでいる女性を排除する作用を生んでしまう。その点には注意が必要だが、そこまでの主張に至らなければ、Bの方にはあまり問題は無い。だから、Aに対する批判的視座としてBを提起する分には、それなりの妥当性があると言ってよいだろう。女性漫画家や女性アニメ監督による作品であれば尚更だ。
 結局のところ、Aの問題は、倫理的な「問題」とすべきものではないし、Bの反批判についても、ほとんどは杞憂に留まるだろう。

 ちなみに現実では、ソロキャンプは9割以上が男性だが、複数人(家族キャンプを含む)では半々に近づくらしい。そういう状況では、「男性の趣味」と断じるのは適切ではないだろう。麻雀も(※オンライン麻雀を含む)、どうやら2:1くらいの男女比になるようだ。模型趣味は……展示会の参加者を見ても、95%~98%が男性なのだろうなあ。バイクとか釣りとか鉄道とか鉱石採掘とかサバゲーとかミリタリーとかTCGとかは、言うまでもないよねと。
 アルコール趣味やグルメについては、「女性は飲食を楽しむな」という昭和的抑圧があったので、現代ではむしろ女性がそれらを堂々と楽しめるのが良いことだという認識が広まっている。実社会では男女比(またはジェンダー要素)が問題にならない活動、例えば観光旅行や登山(ハイキング)や写真撮影やガーデニングや料理や音楽についても同様。

 こういう趣味活動ものは、海外では「CGDCT(Cute Girls Doing Cute Things)」とも呼称されているが、00年代初頭以来の美少女ゲームが早期の、そして大きな震源地だった。当時は天文部や演劇部がやたら多かったが、男性主人公(とその悪友)を入れる都合上、男女混合で描かれるのが通例だった。
 一般漫画やアニメでは、00年代のいわゆる「日常系」ジャンルが下地を作ったところに、趣味活動ものが出来てきた感じなのかな。『ゆるキャン△』でも2015年の連載開始だから、比較的新しい流行かもしれない。もっとも、『けいおん!』(2007年連載開始)あたりまで遡って捉えることもできるだろうけど、「きらら」系列で見てもあまり連続性を感じない。


 [tw: DAIKIkougyou/status/2065995737293557963 ]
 竿役ゴブリンと同じようなネタなんだろうけど、うーん、本物のレ○プ男はさすがに笑えないなあ。



 06/05(Fri)

 私の誕生日ではないけれど、65はちょっとしたID設定やパスワードなどに組み込むことがある。なんらかの文字列を手動設定する場面は、現代でもたまにあるので。


 【 模型用ニッパー 】
 ニッパーをどう選ぶか。様々な選別目的がある中で、個人的にはブレードワンニッパー(4000円台)一本だけでやりくりするスタイルに落ち着いた。TAMIYA廉価ニッパーやアルティメットなども、たまに使い分けるけれど。

 ニッパーに求める性質には、いろいろな観点がある。まあ、基本的には「切れ味」なんだけど。
 - ゲートを抉らない。安物ニッパーだと切断面を潰してしまうので、それを避けるために切れ味の良いニッパーを使う。これは3000円以上のものならばほぼクリアできる条件。
 - その派生として、デリケートなパーツを壊さないというのもある。安物だと、ゲートを切った衝撃でパーツ本体まで割れてしまったり、パーツの細い部分が破損してしまったりする。その点でも、スッと切れる鋭利な刃が必要になる場面は多い。典型的なのが、クリアパーツの切り出し(割らないようにする)と、艦船模型の細いマストパーツだが、これが問題になる場面はかなり多い。4000円台のニッパーであれば大丈夫だが、特に危なっかしい部分は5000円台の高級ニッパーを使ってスルリと切り出すこともある(※クリアパーツは硬いので、刃の脆い高級ニッパーは使用を避けるように言われているが、太いゲートを切ったりするのでないかぎり、ほぼ大丈夫な筈。今まで刃が欠けたことは無い)。
 - ゲート切断面をできるかぎりきれいにする。とりわけ「二度切り」の場合。個人的には、これは必要としていない。ニッパーでおおまかに切り出してから、デザインナイフで面を整えるので。なにしろスケールモデルの細密パーツだと、ニッパーの大きさでは処理しきれない。いわゆるアンダーゲートも、入り組んだ場所にゲートが残って、ニッパーでは届かない場合がある。
 - 作業を高速化する。気兼ねなくサクサク切れるのは、切り出し作業を効率化する。これも、一定以上のニッパーならばほぼ問題なく要求を満たす。そして、ニッパーを一々持ち替えるよりも、一つの道具だけで切り続ける方が早い。その意味でも、手に馴染んだミドルレベル一本を使い込むのは理に適っている。
 - 手の負担を減らす。キット一つにつき、1000回前後もゲートカットをすることになる(例えば300パーツ×3ゲート=900回)。太いゲートをバチンバチンと切断する衝撃が、指や手首にも来るのはきつい。なので、大物キットを作るときや長時間作業をするモデラーは、ある程度のクオリティのニッパーを使う方が良い。これも、まあ、3000円以上の中級クラスであれば十分スムーズに切れる。
 - 切断時にパーツを飛ばさない。わりと重要な要素。廉価ニッパーだと、バチンと切った衝撃でパーツが飛び出してしまう危険があるが、刃の鋭いニッパーでさっくり切断するのであれば、そのリスクを劇的に低減できる。まあ、パーツを飛ばすことがゼロとは言わないが、ほぼ皆無になる。
 - 入り組んだ場所にあるゲートを切りたい。これは刃の形状が問題になる。高級ニッパーだと、強度確保のために先端部が短く(太く)なっていて、狭いところに刃を差し込むことができない。そのために先に尖ったニッパーを一つ持っておく意義はある。ただし現実には、上記ブレードワン/アルティメットでも、事実上全てのゲートにちゃんと刃が届く。
 -太いゲートを切りたい。これも、頑丈な廉価ニッパーの出番。大スケール艦船の海外キットなどでは、ゲートがやたら太いものもある。パーツを切り出した後のランナーフレームを小さくするためにバチバチ切ることもある。

 こんな感じかなあ。切断面のきれいさと、作業効率、そして手先の負担を勘案すると、個人的には、通常のパーツ切り出しについては4000円前後のニッパー1本だけでやり通すのが最適解になっている。4000円くらいならば、刃もそれなりに丈夫だし(※実際、ブレードワンを十年使って、刃が欠けたことは無い)。
 もちろん、人によると思うけど。例えば、デザインナイフを使うのはややリスキーなので、可能なかぎりニッパーだけでゲート処理をするという考えもあり得る(※破損を覚悟しつつ、親が子供に買い与える場合など)。

 そういえば、吹き付け塗装用のハンドピースについても、だいたい同じような発想で選んでいる。すなわち、「使い分けはせず、まずは一本だけに習熟する」、さらに、「確かなクオリティの一本にコストを投入する」、そして「長時間作業でも、手が疲れないようにする」、「メンテナンスの手間を省く」。というわけで、TAMIYA製(信頼性)+0.3mm(標準サイズ)+トリガー型(疲れない)+カップ一体型(メンテナンスフリー)をずっと使っている。もう十年以上になるが、この一本だけで破損も無く使い続けられている。
 塗料カップを交換できる(サイズを変えられる)タイプもあるけれど、「接続部に塗料が漏れる」、「重量が変化するので使用感がズレる」といった問題がある。それに、標準サイズのカップと0.3mm口径でも、60cm級の大型艦船模型を景気良くブシャブシャ塗っていくことは十分可能だし。


 【 00年代における「オタク」の変質:創作世界への耽溺から、現実の欲望表出へ 】
 昔話。たしか00年代前半から半ば頃だったと思うけど、リアルな異性への欲求をおおっぴらにする産業が、当時の「オタク」界隈にいくつも登場してきて、あれらは本当に嫌だったんだよね……。メイド喫茶の媚びた接待や、アイドル産業のカルト的な人気商売、そして即売会でのコスプレイヤーのエロ撮影もその頃から顕在化しつつあった(※秋葉原路上でのそれも、たしか2008年の例の事件以前だったので、00年代半ばのことだったと思う)。異性声優への性的な関心や接近は、男女どちら側でも発生しており、10年代のSNS環境以前におそらく00年代の匿名掲示板などですでに存在していた。そういうのは嫌なんだよ……。『電○男』も、おそらくそちら側の路線だろうと感じたので、私はまったく触れていない(まあ、伝聞範囲での知識はあるけど)。
 もちろん、クリエイター個々人への敬意を持ったり、ライヴイベントでの迫力あるパフォーマンスを体験したり、コスプレで自己実現したり、ムードのある本格派のメイド喫茶や執事喫茶を開店したりするのは、とても素晴らしいことだ。でも、創作的なクオリティを伴わないチープな「萌え萌えきゅん」ごっこには何の価値も見出せなかったし、あれを喜ぶ男性オタクたちは趣味人としての最悪の頽落形態だと見做していた。まあ、これはこれで、インドア派&アート志向に向かいすぎた見方なのかもしれないけど。
 20年代後半の現在でも、そうした流れはむしろ強まっている。現代的な名称での「コンセプトカフェ」、そしていよいよ拡大したアイドル搾取産業、そしてエロ目的の「カメコ」たちも集団化したりイベント化したり(2023年の「水着撮影会中止騒動」まで起きた)、そして声優を標的にした欲望投稿も収まっていない。リアルな個人を欲望の対象として利用し傷つける行為が、いまだに「オタク」界隈に蔓延している。
 それに比べれば、架空のキャラクターを使ったゲームや漫画は、幸いにも健全だと言うことができる。もっとも、架空表現の中でも、人種差別的な表現や(例えばエロ同人での「レ○プ役のモブ黒人」とか)、未成年らしきエロイラストをゾーニング無しに公開したりするものは、それはそれで問題があるので、完全にクリーンだと言うわけにもいかないけど。