第2話「岡部絵美と小野田幸恵/伊吹桂子と田畑若菜」
原作漫画の順序どおり、第1巻の第3話から第4話の途中(第1巻109頁)まで。
脚本は中西やすひろ、絵コンテ&演出は渡邉こと乃。中西氏は、シリーズ構成を務めつつ大部分の話数を担当しており、それを補うように4話、7話、9話の比較的脇筋寄りのエピソードを綾奈ゆにこが担当している。綾奈氏は、同じく志村氏原作のアニメ化『青い花』(2009)でも、いくつかの話数を担当している。
渡邉氏は12話のうち計5話について、絵コンテ(時には演出も)担当している。
【 アバンタイトル 】
(00:00-)原作では黒一面のページの上に白いモノローグが浮いている形だったが、アニメ版では、幻想的な桜吹雪の奥に佇む岡部の後ろ姿が、先取りして描かれている。ただし、その周囲の状況が見えるのは後になる。
サブタイトルの一枚絵は、例によって原作どおりのレイアウト。ここでも顔を見せない後ろ向きの棒立ち姿で、彼女たちの内面が推し量れないような見せ方になっている。この話数では、こうした後ろ姿のレイアウトが頻出する。原作にも印象的な背面ショットが描かれるが、アニメ版はそれを意識的に増量している。
前回言及されていた、竹原の叔母(竹原悦子=浦上悦子)の中学校時代から始まる。年代はおそらく1960年代後半であり、黒電話やレトロデザインな冷蔵庫が目を引く。電話シーンは、漫画では1コマだけだったが、アニメでは4カットに分けて賑やかに描いている。悦子の外見はかなり幼く見えてしまうが、設定から考えて、おそらく中学3年生か高校1年生だろう。会話の内容からして、悦子と岡部はともに淡島を受験したが、初回(=中3)は二人とも不合格で、悦子は断念したが、岡部は2年目に挑戦しようとしているようだ。二人は中学校のうちに友人になって、進学以降も連絡を取り合っているのだろう。
横顔を見せないまま、廊下を一人闊歩していく岡部の中学時代。クラスメートたちが憧れのまなざしで見守る中を、まるで劇場の花道を行くかのように廊下の真ん中を歩いて行く。そして、みたび後ろ姿を映しつつ、タイトル「淡島百景」の文字が入る。画面左側からは、窓越しの白い光が降り注いでいる。後ろ姿のカットはアニメ版で追加されたもの。
廊下もまた、しばしば生徒たちが行き交う重要な「舞台」となっている。教師によって管理された教室でもなく、純然たる私生活の家庭でもない。クラスメートどうしの間で、自分がどのようなものかを見せ合うアリーナであり、場合によってはそこで迫害が行われたりする。とりわけ歌劇学校の廊下は、その性質が顕著になる。もちろん家庭は家庭で、彼女たちの動機形成に関わる重要な場所なので、別途注目していく必要があるだろう。
【 Aパート:「岡部絵美と小野田幸恵」 】
OPを挟んでAパート(02:20-)。赤い花(コスモス)を、これまた後ろ側(萼の側)から映しているという不思議なレイアウトから始まる(アニメ版独自。ただ、このカットの意味づけはよく分からない。シンプルに、淡島への道へ進まなかった悦子からの視点ということだろうか)。絵美の淡島合格を喜ぶ悦子のシーンも、原作からかなり絵を増やしている。この回のコンテは、原作から離れて比較的自由に構成されている。
この時点でも悦子の外見はやや幼く見えるので、岡部は16歳くらい(2年目の挑戦?)で比較的早期に淡島音楽学校に入学したのではないかと思われる。木造住宅の竹原家は柔らかく明かりが灯っており、両親に見守られて幸せで穏やかな暖色の空間であり続けているが、花瓶や植木は一切存在せず、新聞や給湯器や蛇口がクローズアップされるという、徹頭徹尾世俗的な生活の場である(※給湯器と蛇口は、アニメ版の追加的描写。こんなところでいきなり洗面台の蛇口を大写しにするのは、意図的でないわけがない)。
(03:30-)さらに時間は進み、悦子はおそらく高校3年生になっている。しかし、暗雲の一枚絵を挟んで、大学生(18歳)になった悦子が1年生公演を観劇に行くと、岡部の姿は無い。ここで「1年生」というのは、現実の宝塚歌劇に即して言えば、音楽学校を卒業して「研究科(=正規の劇団員)」に入ったばかりの1年目の団員のことを指している(17~20歳)。仮説的に、時系列としてはおそらく以下のような経緯を辿ったかと推測される。
| 年齢 | 悦子 | 岡部 |
| 15歳まで(中学) | 同級生。岡部と友人になった。 | 同級生(転校してきた)。 |
| 16歳? | 淡島受験したが不合格で、通常の高校へ進学した。岡部とは連絡を取り合っている。 | 淡島に入学した。しかし秋頃に伊吹たちと揉めて、年度末の春先に退学した。 |
| 17歳? | 高校生。 | 広島の親戚のところで働いている。 |
| 18歳? | 大学進学した。 | 同上。 |
| 25歳頃? | 就職。浦上某と結婚。2児出産。 | 病室の小野田を訪問。久保田某と結婚。 |
| 50歳頃? | 岡部の葬儀に出る。姪の絹枝の淡島受験を後押しする。 | 逝去。 |
無言で帰宅する悦子。アニメ版では、とぼとぼと家路に向かう後ろ姿をカメラが追っていく。岡部は、旧友への連絡をすることもなく、退学していた。母親の台詞は、「絵美ちゃん、ずっと前に辞めちゃったんじゃってよ。淡島[=卒業後の歌劇団に]入る前に合宿所辞めたんじゃって」と、原作から一部変更されている。悦子の母親がそれを知っていたのは、母親世代のネットワークだろうか。
岡部の親戚がいるという広島は、のちに悦子の姪の竹原絹枝の出身地にもなるのだが、この符合はよく分からない。作中の人間関係としてのつながりは無い筈だが、あえて固有名詞を出していることに鑑みれば、岡部は絹枝に匹敵する人物だという示唆かもしれない。広島は、久保田一族のいる土地でもあるので、広島在住中に地元結婚したのだろう。
悦子が階段を登るカットも、原作では斜めのレイアウトだったのが、アニメ版では正面(真後ろ)からの構図にアレンジされている。言い換えれば、「目の前から去っていく」動きがくりかえし強調される。
(05:00-)さらに時代は大きくジャンプする。年代は、アニメ版の設定ではおそらく2000年代初頭(※第1話の3年前)。悦子や岡部は50歳ほどになっていると考えられる。
複雑によじれた電線がキャラクターの内面の惑乱を象徴するのは、現代アニメでもしばしば見られる演出である。原作にも類似のコマが存在するが、アニメ版では電線のねじれや絡み合いが強調されており、雨の表現も重く激しくなっているように感じられる。そして悦子は、浦上姓の男性と結婚し、2児を生んでいる(絹枝にとっては従兄弟たちに当たる)。
アジサイの季節に、岡部の葬儀がある。岡部の遺影は、目元こそ描かれていないものの、整った正面写真であることが見て取れる(※漫画原作は顎のあたりまでしか描いていないが、アニメ版は顔全体がひとまず見えるレイアウトになっている)。清らかな白バラの献花も、漫画版同様。このあたりも、漫画版の物語進行を忠実になぞっているが、絵コンテはかなり自由に、独自に構成されている。それにしても、岡部の夫(久保田某)について、眼鏡のレンズ屈折による輪郭ズレが正確に描かれているのには驚かされる。
見事に咲いたアジサイの生け垣に見守られるようにして、岡部の夫と悦子が立ち話をする。原作でもアジサイの葉っぱなどがわずかに描かれていたが、アニメ版では青や紫のアジサイが大量に描き込まれ、雨に濡れた道路にまで映り込んで、神秘的な雰囲気を作り出している。第1話の大久保の歌唱シーンと同様に、ここでも薄青色は、世俗を超えた絶対的な美しさのシンボルとして扱われているように見受けられる。あるいは、岡部=アジサイの存在が、悦子と岡部夫の関わりをつないでいるという示唆だろうか?
小野田からの手紙によれば、岡部の住所は広島市南区吉野川町とある。南区は実在するが、吉野川町は架空地名である。花瓶の花(ツバキとシャクヤク)を背にしつつ、悦子が手紙を受け取る。この花々も、美しくも早世した岡部への示唆だろうか? 岡部自身の死因について、ここでは何も述べられていないが、のちの描写によれば病死とのこと。岡部夫の善良な雰囲気や物語終盤の描写からして、家庭環境は平穏かつ幸福なものであっただろうと察せられる。掛け軸は、藍色の紙に金泥で経文か何かを書いたものだが、出典は不明。
(07:10-)ここからは、過去の淡島時代(学校1年目)の岡部の視点になる。冒頭の岡部の後ろ姿がふたたび、そして今度は明らかに桜の季節に学校の門を出ようとする場面として描かれる(原作では桜のエフェクトのみ)。ここからの回想シーンは全体として、かなり漫画原作のコマに合わせたコンテになっているが、それでもアニメ版独自の演出的洗練も随所に見出される。
学園を出ようとする岡部の前は、きれいに門が開けて、白く明るい空間が広がっている。それに対して、学園の敷地内は、桜や緑の低木に満ちてはいるが、鉄柵に囲われた世界でもある(背景の柵と低木はアニメ版で追加されている)。キャラクターの表情を語るのは難しいが、原作漫画の岡部は、小野田の「ごめんなさい」を聞いても、無表情に見つめ返しているだけだが、アニメ版の同じカットでは、風に髪を煽られつつ、憂悶のニュアンスからわずかに怒ったような表情へと変化させている。
(08:40-)淡島学校での、伊吹たちの初登場。伊吹を中心に、お下げの住吉と、ヘアピンをしている押上、その後ろに小野田も、取り巻きとして付き従っている。アニメ版では、不遜に踏みしめる足下からフレームインしてきて、さらに廊下の端の窓ガラスを覆い隠すようにその姿を現すという凝った登場の仕方をしている。岡部の待遇について、アニメ公式サイトの人物紹介では「特待生として入学」とある。ただし、特待生というのは、基本的には学費免除にすぎず、学内での優遇措置があるわけではないが、それでも敵視されるきっかけにはなったのだろう。廊下に佇む岡部の後ろ姿は、アニメ版の追加カットだが、その前後はほぼ漫画版に準拠している。
ネコヤナギのカットは、時間経過を示すエスタブリッシングショット(3月頃を表している)。現実の宝塚歌劇で考えると、音楽学校の教育期間は2年間である。なので、おそらく1年目の秋の事件(後述)をきっかけに虐めが発生し、それが急速に激化して、そして1年目の終わり(3月頃)に致命的な決裂が生じて岡部は退学したと思われる。しかしこれはあくまで「淡島」という独自のシステムの物語なので、原作者やアニメ版スタッフがどのように想定して作劇されているかは分からない。ともあれ、水平を失って斜めに傾いた窓枠の影はアニメ版独自の演出だが、状況の決定的な破綻と、それでもなお維持されている学校の枠――あるいは、まさにその閉鎖性こそが生徒間の衝突と迫害をもたらした遠因であること――を示唆しているかのようだ。
狼狽した小野田が岡部の部屋を訪れており、岡部もここで初めて憤激の感情を露わにしている。このあたりは、全体の進行はほぼ漫画のままだが、身体の振り付けのアニメーションが拡充され、また、映像的な流れが整理されている。小野田が岡部の肩を掴んで思い込みの強い言葉をぶつけ、それに対して岡部が小野田の肩に手を置いて彼女を気遣う。窓側に立っている岡部は、依然として力強い光に照らされているのだが、驚きとともにその手がだらりと脱力した時、彼女はすでに学校の外の広い海に向かおうとしていた(海辺のカットはアニメ版独自。海もまた、様々な象徴とともに用いられていくだろう)。程なくして、岡部が退学する。後の話数でも言及するが、本作ではキャラクター同士の身体的な接触/近接の描写はきわめて珍しく、その一つがこの小野田のヒステリックな振舞いのシーンである。
心を落ち着けられないままに浮遊する小野田の姿は、原作と同じポーズだが、アニメ版では鈍い青色に染められている。その懊悩は、彼女の幼き日の最初の最もうるわしい記憶にまで遡りつつ、そしてその思い出をも自らの破壊してしまうほどの後悔と、そして「呪い」となって彼女自身を傷つける。この幼時回想はいささか唐突に思えるが、後述のように、小野田と悦子を重ね合わせるための布石として解釈できるかもしれない。
(12:20-)そして時間はふたたび、岡部の葬儀に立ち戻る。悦子の視点。雨はいよいよ激しくなっている(アニメ版の描写)。岡部との関わりについて後悔を抱いているのは、悦子も小野田と同様であった。岡部が放射していた天性の魅力に憧れ、そして岡部と親しくなろうとし(悦子は友人になったが、小野田は恋い焦がれただけで終わった)、そして岡部の輝きが失われるのを見たくないという思いに囚われ(悦子は連絡を取らないという形で、小野田は暴走的に愁訴するという形で)、そして二人とも最終的に岡部を失った。ただし、のちのエピソードで示されるように、岡部の側にも彼女たちに対する特有の感情があったのだが。ともあれ、岡部の葬儀には、多くの参列者があったし(アニメ版で明確に描写された)、その遺影は美しい献花に囲まれている(アニメ版が念押ししている)。
「絵美ちゃんに会いに行くべきじゃった」以下の一連の台詞は、50代の悦子ではなく、おそらく18歳頃の悦子の言葉として演じられている。これは、年齢を超えた悦子自身の心からの言葉として解釈することもできるし、あるいは。18歳の頃に会いに行くべきだったという悔恨の表現でもあるかもしれない。音声芝居のニュアンスを通じた意味づけの変化は、のちに伊吹桂子についても、第11話できわめて深刻な形で再び現れることになる。
(13:10-)時代を行き来するこのエピソードは、ここで岡部の視点に入る。穏やかで美しく瑞々しい海辺の風景とともに、小野田の病院のシーンを映す。アニメでは「伊藤診療所」という名前を新たに設けているが、特別な意味は無さそうだ。小野田の手紙を読んだ岡部が、病院を訪れた日のシーンになる(※外見からしておそらく20代後半から30代)。小野田はおそらく不治の病で、若くして死を間近にしている。
病室を訪れた岡部は、原作ではカーテンに囲まれたまま、ベッドの小野田と密やかな会話を交わす。それに対してアニメ版は、カーテンを引いて明るい窓外へ向けてその場を開き、そして逆光に照らされながら――しかし多少ズレた位置から――小野田に語りかける。窓外には清らかな水色の海辺と、近くの岸壁のうるおいのある緑が見えるのだが、小野田の顔はカーテンの影に隠れたままでいる(※窓外のカットは漫画版にも存在するが、しかしそのコマ組みでは、海浜風景の豊かな世界は、小野田が握りしめていた最後の希望であったかのように位置づけられている)。ゆるやかに、しかしどこか落ち着かない仕方で揺らぐカーテン。小野田の顔を白いカーテンで隠したまま、さらにカーテンに窓枠の十文字の影を投影させるのは、彼女に迫っている死の予感として露骨すぎるほどだ。
(15:10-)50代の悦子が想う岡部、30代の岡部が訪れた小野田、そして10代後半の小野田が音楽学校で初めて見た岡部のシーンへと、回想は再度遡る。古風な窓枠の奥に閉じ込められて見えるのは、新入生の小野田と岡部たち(窓枠とその影が、アニメ版ではここでも強調されている)。しかしその一方で、そこには桜の祝福も確かに存在している。神秘的な劇伴も、そのシーンの特権的な瞬間を引き立てる。いつものように廊下の中央を、堂々と、静かに、そして花道を歩くかのように劇的に近づいてくる岡部(これもアニメ版独自の印象的なカットだ)。絵コンテの妙で、小野田が岡部に声を掛けようとしているのが、次の瞬間には伊吹が、岡部の最初の友人になっている。
演目がシェイクスピアの「十二夜」であることも、アニメ版で設定された。小野田が明るい廊下に出ることができず、扉の影に佇んでいるという描写も、アニメ版で演出的に掘り下げられている(※漫画版は黒ベタ背景だった)。「十二夜」のシナリオは、すれ違いのロマンスだが、このシーンの解釈の補助線としてよいかどうかは分からない。役の振り分けとしては、岡部は男役で、小野田と伊吹は娘役志向だったようだ。
(16:30-)病室を出た岡部は、喫煙所で一服する。喫煙は――喉を痛めるという観点でも、また役者としてのイメージという意味でも――彼女がすでに芝居の道を放棄していることの現れでもあるだろう。立ち上る紫煙は、お焼香の煙のようでもある。原作漫画では、岡部が煙を横に吐き捨てるだけだったが、アニメ版では、線香のように煙が上にたなびくカットを追加することによって、新たな意味づけを与えている。そして煙草の残り火を消すのは、小野田たちとの関わりについて燻っていた思いに、彼女が決着を付けたことを示唆していると捉えてよいだろう。
しかしここで、岡部がたまたま出会った少女は、旧友の悦子のことを思い出させる。少女を見つめる岡部の横顔は優しく、そして画面構成としては、緑豊かな木々の方へ向けられている形になっている(アニメ版の追加的描写)。岡部にとっては、一緒に淡島に行くことができなかった悦子との関わりは、依然としてうるわしい関係として保存されている。表面上は、竹原と上田の関係に似ているが、しかし天真爛漫な悦子に対しては、岡部はそれほど屈託を抱いていないようだ。もちろん、舞台上の姿を悦子に見せることはできなかったのだが、それでも悦子の存在は、日常的な幸福を代表するものとして、今なお岡部の心の中にあったのだろう。しかし、悦子の存在が岡部にどのような影響を与えたかは、ここでは十分には語られないまま、このシーンはいったん切り上げられる(この場面は、のちに最終話で、さらに掘り下げられた形で再演される)。
ちなみに、このおかっぱ頭の少女は、「えっちゃんに似てる」とともに、小野田の幼い頃にもよく似ている。もちろん、単なる偶然ではあるが、この類似は意図的な演出と取ってよいだろうし、換言すれば、小野田も岡部にとってそのような存在になることができたかもしれないという苦い読み方の余地もある。
劇伴は、上記15:10からここまで流れ続けて、これらをひとまとまりの回想として包んでいる。
(17:40-)日没没間際の夕暮れの中、岡部は去っていく。そして、現在(50代)の悦子に視点が戻ってくる。家庭の中に収まっている悦子は、洗濯物を畳むという世俗の仕事をしばし手放していたが、すぐに目の前の日常に意識を戻す。壁に掛けられたカレンダーは、アニメ版では淡島のような海辺の絵が描かれている。彼女の日常の中にも、依然として淡島の美しい世界が、確かに保持されていることの示唆だろう。そして実際に、悦子の姪(竹原絹枝)が淡島を受験しようという話を聞いて、彼女は諸手を挙げて賛成する。つまり、悦子は岡部を身近でサポートすることはできなかったが、今度は絹枝を支援することができたのだ。別の見方をすれば、岡部自身は淡島歌劇での人生を遂げられなかったが、数奇なことに、彼女の友人悦子への影響を通じて、将来の大スター(絹枝=小鳥遊陽)が世に出る重要なきっかけを作ったことになる。ちなみに、「帰ってきんさいよ」「ほいでも」などは、広島弁に見られる特徴である。なので、悦子(竹原家)も、悦子の弟と結婚した女性も、(たまたま?)どちらも広島人だったのだろう。
このシーンのモノローグ「いつか絹枝にも話さんとね」「絵美ちゃんが歌劇学校を目指したのは必然じゃったんよ」も暗示的だ(※この箇所も、声優ユリン千晶は、若いときの悦子として演じている)。この台詞から想像力の翼を羽ばたかせるなら、絹枝は悦子経由で岡部のことを知っており、そして岡部世代に深刻ないじめ事件があったことも、そして伊吹先生たちがその世代であることも、気づくことができていたかもしれない。そこまで知っていたならば、最終話の舞台に彼女自身があえて立つことを決意した理由の一部になっていたかもしれない。……しかし、この断片のみからそうした憶測を広げても、あまり面白い解釈にはならないし、それを支持するような描写も無い。あくまで、岡部のような才能がいたことが、悦子を介して間接的に、絹枝のモチベーションに対しても良い影響を及ぼしただろう、という程度に留めておく方がよさそうだ。
(19:10-)いくつもの時代と視点をノンリニアに往復してきたこのエピソードは、最後の最後に、夕暮れのバス車内の岡部の横顔を映して締め括る。この時点では、敗者の涙のように見えてしまうかもしれないが、最終話であらためてこのシーンの意味づけに立ち戻ることになるだろう。
直前のシーンの悦子の台詞、「こっから頑張るんじゃけえね」を、あえてこちらにオーバーラップさせているのも示唆的だ。
【 Bパート:「伊吹桂子と田畑若菜」 】
(19:20-)教師伊吹の学生時代の過去をあらかじめ読者に提示したのち、ここで彼女の現在の姿を描き始める。
田畑と仲良く話しているのは、村上桃子(第1話)と、小沢和美(※クレジットでは「ザワちゃん」)、そしてもう一人のポニーテールキャラは長谷川恵子(※外出許可申請書による)。夏服になっているので、6月以降のことだろう。
「オザワ」=ザワちゃんは、名前も含めていかにもトリックスター的なキャラクターに見えるが、本編ではそうした活躍はしない。しかし、彼女にクローズアップしたカットが投入されているなど、愛されるキャラクターではある。ネーミングセンスが「田畑(タバタ)=バタヤン」と似通っているので、村上につけられた渾名なのかもしれない。外出許可申請書によれば4人とも予科A組のクラスメートどうしで、明るい窓辺で楽しく歓談している。じゃんけんをするカットは、アニメ版の追加で、彼女たちの嬉しげな雰囲気を盛り上げている。
「長谷川恵子」は、アニメ版の映像上の書類から範読できるだけで、原作漫画では名前が出ていない。「長谷川」という名字は、のちのアニメ版第10話の長谷川と同じだが、関係の有無は分からない。年齢のうえでは、「慎爾の娘」=恵子である可能性もあるのだが、キャストクレジットではそれぞれ別の声優が演じているので、別人と想定しておこう。実際に親子であったならば、「ライター初心者の田畑が、恵子の伝手で慎爾にインタヴューすることで、その後のキャリアの足がかりを得られた」といった可能性も考えられるのだが、そこまでして人間関係を無理に結びつける必要はあるまい。
(19:50-)田畑と村上が廊下を歩いていくシーンは、漫画版では簡素に作画されていたが、アニメ版ではそのグレー基調の屋内ディテールと、微妙な暗さ、そして古さ、さらには圧迫感のある天井の横板などのせいもあって、見通しの良くない複雑な場所という印象を与える。窓側に突き出ている無骨な柱も、原作には無い。
彼女たちを呼び止める教師の、右手の朱色のペンがやけに目立つ。制服の赤リボンともども、この彩りの乏しい世界にわずかながら生命感をもたらしている。職員室(?)の重々しい引き戸も、ところどころ塗装が剥がれている。こうしたディテールや色彩感も、アニメ媒体ならではの特質である。
しかし、漫画版の小さなコマでかわいらしくデフォルメされたキャラクターまで、アニメの全画面で一々再現しているのは、いきなり軽薄な雰囲気になってしまい、やはり悪目立ちしすぎる。アニメはアニメで画面の美術的な統一感を優先させてほしかったと、個人的には強く感じる。
このあたりは、身体を向き直る所作などをアニメーションさせているくらいで、ほぼ漫画のコマ絵を踏襲したまま、伊吹先生との会話が進んでいく。作画に関しては、ここでも伊吹の眼鏡には度入り表現がある。
職員室を出入りする際の、入り口の田畑を窓の外からロングショットで描くのも、アニメ版での追加カット。会話シーンとの対比で空間的な気持ちよさもありつつ、依然としてガラスの中に閉じ込められていることも示唆しており、さらに田畑のいくぶんの心細さも反映されている。廊下から見える伊吹の後ろ姿は、さらに小さく、十文字の窓枠の背後に押し込められて見える――あるいは、彼女の過去の所業をすでに知っている読者/視聴者にとっては、十字架を背負っているように見えるかもしれない。
ふたたび寮の談話室で話し込む田畑たち。別の日なのか、服装が変わっている。時刻は夕方に近づきつつあり、過去世代の話になるにつれて、壁際の暗さがフレームインしてくるし、テーブルの周囲の妙な広さ(空疎感)も強調される。それでも田畑は、植木の緑を背負うように描かれ続けているのだが……(※この植木もアニメ版による加筆)。
最後に夕暮れの廊下を一人歩き去っていく伊吹先生の後ろ姿も、アニメ版で追加されたシーンである。ザワちゃんの台詞「――の、リーダーみたいな。なーんかさ、ありそうでしょ、いかにも」の言葉が、伊吹の姿に重ねられている。窓からの光がはっきりと描かれているが、ティンダル現象によって数条の鋭い光の筋として現れている。夕暮れの暖色の空間ではあるが、後ろ姿の老いた孤独と、光によって突き刺されているかのような痛々しさを見て取ることは十分可能だろう。いったん生徒時代のシーンが再帰し、その引き締まったライトグレーの空間で岡部との対決をフラッシュバックさせたのち、夕暮れの世界にカメラが戻ってくると、そこはすでに無人の廊下になっている。その前の田畑たちの廊下シーンと照らし合わせても、寒色と暖色というよりは、力強い若者世代と懐古的な中高年世代の色彩的対比と捉えてよいだろうか。廊下を歩く足音の強ばった余韻とともに、この回は締め括られる。
【 ED(クレジット) 】
今回も田畑がエンドロールのトップになっているが、今回は田畑の出番は後半のごく一部だけ。ここで察しの良い視聴者は、本作が単なるオムニバスではなく、大きな連続性のあるドラマであろうことに気づいただろう。とはいえ、シナリオ上でも、それが本当に明らかになるのは終盤まで待たなければいけないのだが。
しかし、全話の内容を知った後では、最初から明確に、作品の中核的コンセプトをストレートに扱っていることが分かる。すなわち、淡島歌劇学校のコミュニティが、芸道を目指しつつも激しい競争に晒され、足の引っ張り合いが横行していること。とりわけ伊吹-岡部-小野田たちのように、悲惨な状況も起きていること。しかしその中でも竹原と田畑のように、フェアにお互い尊重する関係を築くことは可能であること。また、淡島に来た人々と、来(られ)なかった人々がおり、それらの関係もしばしば複雑でデリケートな屈折に満ちていること。さらに、淡島の教育システムの内部だけでなく、周囲の家族や友人などの人間関係も、彼女たちの人生を大きく左右していること。
悦子役のユリン千晶も、下妻由幸(悦子の父)も、大室佳奈(悦子の母)も、倉本幸歩(絹枝の母)もすべて広島出身とのこと。さすがに偶然の一致ではあるまいから、広島弁をネイティヴで喋れる役者を起用したものと思われる。もちろん、役者は方言の如何にかかわらず説得力のある芝居をすることにこそ本領があるので、これは遊びの範疇かもしれない。なお、白石兼斗(悦子の息子)は、隣の山口県出身。
クレジットを見てのとおり、バスに乗る岡部を目にした男性(クレジットでは「メガネサラリーマン」「サラリーマン」)は、ただのモブである。のちに彼女と結婚する久保田某(クレジットでは「絵美の夫」)は、花輪英司が演じている。
第2話の主人公とも言うべき悦子は、子供の頃から50代まで様々な年齢で登場するが、ユリン千晶氏はそれを一人で演じきっている。同様に伊吹役の恒松氏も、10代の生徒時代と50代の教師時代を――そしてのちには70代(?)の末期をも――演じている。多彩な年齢を一人で演じきれるのも、役者の高度な技術があってこその成果である。もちろん芝居の醍醐味は、違って聞こえることではなく、変化があってもなおもキャラクターの同一性を視聴者に対して浸透させることであり、そして場面と台本に即して台詞の精密な解釈を表現することであり、そして究極的には作品全体の中でそれぞれの台詞を最善の形で意味づけすることだと言えよう。