2026/05/11

2026年5月の雑記

 2026年5月の雑記。

 05/29(Fri)

 今月は延々ゲームをしていて、それ以外は生産性に乏しかった。いや、漫画等も普段どおりのペースで読んでいるのだが……読んでいるつもりなのだが、またもや未読が20冊ほど溜まってきている。


 イエサブ模型コンテストの参加ネタは、「ギィ」か「グライフェン(バラクーダ)」のどちらかになりそう。前者は、ネイルシールを使ったカジュアルな装飾がほどほどにキャッチーなアレンジになっていて、見た目の面白さと技術的な実験性を提供できるだろう。後者はベタだが、箱入りレイアウトを深海風の簡易ジオラマに作れば、コンテストの趣旨にも合致するだろう。




 05/18(Mon)

 最近、アニメ系のwebラジオをいくつか聴いてみたけど、出演声優たちが各回の内容について具体的に掘り下げた話をしていたり、お互いの役についての演技論を語ったりしているのが、わりと新鮮
に感じる。それどころか、オーディションに関する内幕話も――例えば、どのキャラでオーディションを受けたかなどを――堂々と話題にしているのに、びっくりさせられる。

 昔の世代(80年代生まれ以前?)は、「未熟な役者が偉そうに芝居論を語るべきではない」とか、「芝居そのもので聞き手を納得させるべきであって、後からの説明でフォローするのは逃げだ」といった気風が強かったようで、フリートークやwebラジオでも、作品のディテールや自身の芝居やについては禁欲的であるというのが普通だった(※それでも沢城氏とかは「キャラクターが歩くときのテンポと呼吸まで想像しながら役を作っています」などと、芝居のデリカシーに触れる話もしていた)。あるいは、webラジオで演技論になるときも、「こういうことを聞いちゃっていいのか分からないんですけど……」と控えめに断ってから、芝居のアプローチの話に入っていくくらいだった。……いや、私が聴いてきたのはごく一部だから、それに当てはまらない例も少なくないだろうけど(※「胃~之煮」のように親密な役者同士のプライヴェートラジオでは、時折そういう話題に踏み込んだりしていた)。

 最近では、例えば『上伊那ぼたん』のアフタートークでも、「この場面があのシーンにつながるんだよね」とか、「この状況での、このキャラの心情は~」といったようなことを、衒いもなく躊躇もなく、どんどん語っている。時代が変わった、世代が変わった、ということなのだろうけど、また同時に、本気で芝居のことを考えている役者たちが正当にも頭角を現してきているということでもある(※10年代あたりは、通り一遍で薄っぺらいコメントをするだけのアイドル声優が多かったので……)。

 (※ちなみに「音泉」サイトは絶対に開かない。リスナーからのセクハラメールや、出演声優を馬鹿にするメールをぶっ通しでラジオ採用しているようなところなので。)


 現代の商業主義的な「消費するのが良いオタクだ」というイデオロギーや、「グッズを買い集めることでファンとしての自己表現をする」(※とりわけ女性向けに顕著)のような風潮にはうんざりしている。しかしその一方で、大昔(80年代以前?)のマニアたちの間に存在した、「ただ消費するしか能のない奴らには何の価値もない、優れたものを創作し発信していなければ趣味人に値しない」というマッチョなエリート主義思考も(※現在でも明らかにそういう発想に立脚している有名クリエイターはいる)、それはそれで私はまったく受け付けなかった。
 その中間の、程良いところにいたかったのだが、それは歴史的に見ても90年代後半から00年代前半、つまりM事件のトラウマをようやく脱した時期から、アイドルグループが進出してきた時期までの、ごく短い端境期にすぎなかった。


 既存キャラをプラモデル化することの長所と短所。
 近年、漫画やアニメのキャラクターを可動ガールプラモとして商品化する傾向が、いよいよ強まっている。しかし根本的には、キャラクター性を押し出すグッズとしても、ファンアイテムとしても、プラモデル化には大きなミスマッチがあるように思える。具体的には:
 1) 物理的に。15cm級の小さなサイズで、魅力に欠ける(※大スケールのキットも存在するが、かなりの少数派で、しかも固定ポーズ)。競合グッズとして、迫力のある完成品フィギュアや、手軽なバッジ/アクスタが溢れている。
 2) キャラクター性について。プラモデルとして立体化したキットは、元デザインにあまり似ていない(※とりわけKotobukiyaは、どんなキャラもKotobukiya顔になってしまう。まあ、ブラックマジシャンガールなどの例外もあるけど)。また、可動確保のためにジョイントが剥き出しになっているのが通例で、キャラクターのシルエットの美しさを素直に享受するのがやや難しい。さらに、パーツ成形の都合上、ディテール再現も不十分なことがある。
 3) 市場的に。製造までに時間が掛かりすぎるため、旬を逃す。言い換えれば、よほど人気を読まなければセールスが失敗に終わるリスクが高い。さらに、販路も大きく限定され、価格も比較的高い。プライズフィギュアや小物グッズであれば、アニメ放映や大型イベントなどに合わせた機動的な製造販売ができる。
 というわけで、キャラクターグッズとしては不利な要因が多すぎる。模型メーカー視点では、「既存キャラの方が売れる」という判断になるのも分かるけど、消費者(ファン)側の視点で言うと、「中途半端な造形だし、高額だし、なかなか買えないし、組み立ても大変」という扱いにくい代物になる。

 しかしそれでも、ユーザー各自が、机の上で好きなキャラクターに自由なポーズを取らせることが出来るという実在感の手応えは、やはり絶大だろう。また、造形に関しても、昨年末あたりから(?)、元キャラの雰囲気にそれぞれ上手く合わせたキットが出てくるようになってきたと思う。ディテールの再現性と購入価格は、どうしてもトレードオフになりがちなので、グッスマやKotobukiyaのように8000円台や9000円台の高額キット傾向になるのも、まあ、やむを得ないけれど。
 販路や価格や購入機会の問題は、一時期のコロナ品薄苦境を経た現在では、家電量販店やオンラインショッピングがかなりカヴァーして、買いやすくなってきたとは思う。しかし、BANDAIのfigure-riseシリーズですら、既存キャラクターのプラモデル化でビッグセールスを生み出すことには苦労しているように見受けられる(※まあ、『DRAGON BALL』キットとか『仮面ライダー』キットとかは、良く売れているのかもしれないけど……店頭在庫がずっと残っているし、ちゃんと売れているのかどうかは素人目には分からない)。
 模型趣味それ自体も、10年代以降のSNS社会では、目を瞠るような完成写真やキャッチーな一枚がどんどんアップロードされていくので、モデラー以外の一般人への露出機会が激増した。こうした環境も、模型分野にとっては、まあ、どちらかと言えば追い風になっている筈なので、まだまだガールプラモの市場拡大の余地はあると思う(※2024年頃には、ガールプラモ市場はもうピークに達して飽和したかと思っていたけど、2026年現在の目で見ると、まだもう少しは伸ばせそうなんだよね……)。

 個人的には、FAGのような「元キャラ(元ネタ)の造形に縛られない、自由なアレンジ(つまり女体化アプローチ)」+「メカガールなので、機械的な関節部が露出していても構わない」というのが、最もスマートな解決だと、いまだに思っている。AoshimaのVFGシリーズも、その点では上手いバランスの企画だと言える。
 とはいえ、2010年代風の女体化路線はさすがに飽きられてきているだろう。それ以外の様々な道を模索しているのが、ファンタジー路線の「アルカナディア」だったり、現実寄り(?)の学生キャラシリーズ「創彩少女庭園」だったり、動かして遊ぶことに特化させた「メガロマリア」だったりするわけで、大きな目で見れば、Kotobukiyaの一連の試みは理解できる。

 定価9800円で買った「ボルチモア」も、箱絵(原作イラスト)の凜々しさを、プラモの顔は全然表現できていなかったからなあ……。いや、物理的に「猿真似で似せろ」という話ではなくて、そのキャラらしさの雰囲気をキープしてほしいという話であり、また、ガールプラモの顔立ちはややもすると画一的になりがちだよねという話でもある。


 かなり気が早いけど、夏アニメの暫定メモ。視聴意欲(視聴する可能性)をおおまかにパーセンテージで。70%以上は赤文字ハイライト。上記リンク先では、現時点で73タイトルが記載されている(※特撮なども含む。五十音順)。

 『いびってこない義母と義姉』(65%):アニメとしては珍しい題材なので。ただし、旧来型のホームドラマかもしれない(※原作未読)、監督の井上圭介氏は『アルネの事件簿』でも上手くやっていたので、クオリティには期待してよいだろう。主演声優はほぼ新人。
 『岩元先輩ノ推薦』(65%):原作読者だが、あの濃密な耽美的雰囲気とグロテスクな凄惨美を、はたして映像化できるのだろうか? 監督の川瀬敏文氏はキャリアの長いクリエイターだが……。不安が大きい。
 『うしろの正面カムイさん』(60%):原作読者だが、アニメ化して面白味が増すかどうかは……。メインヒロイン役の碧乃氏は、ほぼ新人のようだ。M・A・Oの声は聴きたくないなあ。制作のゼロジーは、クオリティの波が激しいのでよく分からない。
 『うちの弟どもがすみません』(70%):少女漫画発のホームドラマ型ラブコメ。監督として難波日登志氏が起用されているのがちょっと意外。何か面白いことをやってくれたら嬉しい。キャストはまずまず。
 『乙女怪獣キャラメリゼ』(65%):怪獣もののアニメもたまには良いかな。主演の千賀氏はほぼ新人。大峰氏はこれが初監督。
 『鬼の花嫁』(55%):キャストは良いのだが、シチュエーションがベタすぎて食傷。寺澤百花氏は、『…が多すぎる!』(2024年7-12月)で注目を集めて、それがフィードバックされて起用機会が増えてきた感じ。
 『株式会社マジルミエ』第2期(55%):第1期を引き継ぐならば、ファイルーズ氏主演になる。今のうちに1期を視聴しておくという手も……。
 『クレバテス』2期(70%):うーん、学園編か……。第1期は良かったのだが、あの映像的な個性は、学園ものでは活かしにくいように思う。
 『グロウアップショウ』(75%):オリジナルアニメ。昭和30年代のサーカス団を舞台にしているとのことで、動画表現が重要になってくるが、A-1 Picturesならばひとまず大丈夫かな。監督とキャラデザは、『冴えな(以下略)』の関わりがある。しかしキャストは、これも新人メインで不安がある。
 『攻殻』(50%):原作漫画に絵柄を寄せる必要は無いのになあ……。まったく期待していないが、しかしシリーズ構成として円城塔氏が入っているのが目を引く。
 『これ描いて死ね』(60%):キャストはやけに豪華だが、この原作漫画をアニメ媒体にする意味は、はたしてあるだろうかという疑問もある。実績豊富な赤城博昭氏が監督を務めているし、良い作品になりそうな気もする。
 『さよならララ』(75%):オリジナルアニメ。小出卓史氏は初の監督業だが、まあ大丈夫じゃないかな。しかし、琵琶湖舞台とは珍しい。
 『捨てられ聖女の~』(65%):徳井氏主演で、『ある魔女が~』の濁川敦氏が監督。本気で視聴するかどうかは分からないが、期待しつつひとまずメモだけはしておく。
 『対ありでした。』(65%):格ゲープレイヤーたちのアニメ。キャスティングは、今風の良い感じの顔触れ(※それにしても、この夏は長谷川育美氏の出演作がやけに多いなあ……)。監督の井畑翔太氏は、過去作はどれも観たことが無いので分からないが、動画制作のディオメディアと組んでいることが多く、今回も意思疎通は上手くいくだろう。
 『手札が多めのビクトリア』(75%):安済知佳氏(主演)を毎週聴けるのは良いことだね。阿座上洋平氏もメインキャラ。監督の木村延景氏は、アニメ演出家としてのキャリアは長く、監督経験はこれが2作目になる。
 『転校先の清楚可憐な美少女が~』(60%):ラブコメ枠も一つくらい、候補として入れておこう。徐傳峰氏はこれが初監督作品。映像制作のproject No.9は、『透明男』も手がけていたので、ちょっと応援気分。
 『天は赤い河のほとり』(70%)……えっ??? 原作は超長編ですでに完結しているのだが、どの部分まで、どうやって扱うのだろうか。主演の橘氏は、ほぼ新人。
 『天幕のジャードゥーガル』(65%):原作読者だが、中途半端なところまでアニメ化されてもなあ。主演の関根氏は、悪くはないけれど今一つだし……。山田尚子監督なので、期待はしているけれど。
 『盗掘王』(60%):韓国アニメの吹き替え版。こういう作品もチェックして見識を広げておきたい。ただし、ストーリー(シチュエーション)はちっとも好みではない。
 『透明な夜に駆ける君と、目に見えない恋をした。』(65%):視覚障害者ヒロイン。それ以外の要素はまだ分からない(情報が乏しい)が、ひとまず視聴してみよう。
 『二十世紀電氣目録』(70%):原作は単巻で完結しているようだ。太田稔氏はこれが初監督。京都アニメーション所属の方なのかな。
 『猫と竜』(60%):ストーリー等については、全然興味が無いのだが、キャストの座組がやたら豪華だ……。
 『花織さんは転生しても~』(60%):これも興味はほとんど無いが、シリーズ構成の菅原氏は上手くやってくれると思う。
 『ふつつかな悪女~』(65%):シチュエーションは個性的で面白そうだし、おそらくビッグタイトルとして一定のクオリティを確保してくれそうだが、長い原作の最初のうちだけで終わってしまうのはもったいない。監督は山﨑みつえ氏。古川慎氏がメイン級で出演。制作は動画工房だが、過去作に全然接していないので方向性が分からない。
 『BLACK TORCH』(65%):いかにも集英社らしい、現代世界の和風伝奇もの。原作漫画は全5巻で完結しているので、ストーリー全体をカヴァーできそうだ。上田燿司氏がメイン級で出演。また、主演の鈴木崚汰氏は『望まぬ不死~』のレント君でもある。
 『リリカルなのは EXCEEDS G.B.V.』(55%):『とらハ』はプレイしたけど、『なのは』は未履修。
 『メビウス・ダスト』(70%):タイトルからしても、明らかに何かやってくれそうな気配がある。ただし映像は3Dっぽいところがある。
 『領民0人スタートの~』(60%):キンタ氏キャラデザの褐色肌+角ありヒロインに惹かれる。おそらくいつものアーススタークオリティだろうとは思うけれど、箸休めとして視聴するかも。

 結局のところ、私の選別基準は、ストーリーやキャラはわりとどうでも良くて、「何か新しい表現世界に挑んでいる」ことを重視している。言い換えれば、原作(漫画)に色と音を付けただけのコピー品には、わざわざ時間を掛ける意味が見出せない。これはおそらく、現代の「忠実」再現志向のマジョリティとはかけ離れたスタンスだろうけど……。
 もちろん、コンテレベルでの美的な創意があるとか、特別に優れた声優陣による充実した芝居が期待できるとか、脚本を原作から丁寧に再構成していてアニメ版独自のきれいな見通しを作り出しているとか、キャラクターの掘り下げがヴィジュアル&台本&音声演技でしっかり行われていて魅力が高められているとか、良い点は良い点として享受する。


 10年代の声優界は、デビュー2年目くらいの新人女性声優が、いきなり主演に抜擢されて2-3本出演したと思ったら、すぐに数年でいなくなるというのが頻繁にあって、寒々しい思いをしてきた。実力にそぐわない主演は、ただの思い出作りのようでもあって不気味だったし……。収録時期から考えて、実際にはデビュー作の評価がフィードバックされる以前から、あらかじめキャストが決まっていた可能性が高く、しかも激しいオーディション競争の中で新人がいきなり主演になるというのはやはり異様だ。もっとも、それを「健全な実験性」とか「キャリアに依存しない風通しの良さ」と見る余地もあるにはあるが、しかし、「デビューからいきなり主演連発 → すぐにサブキャラばかりになる → いつの間にか出演がほぼ皆無になる」というパターンを何度も見ているので、どうにも信用できない。
 20年代は、そういうのがわりと減ってきたと思っていたけど、ここに来てまた、そういういびつなキャスティングが目立ち始めているのが、なんともやるせない。オンラインゲームの収録などで、二次元系の声優の仕事のパイはかなり拡大している筈だけど……。
 その一方で、10年代後半からサブキャラなどで堅実に実績を積み重ねてきた若手声優が、ここ数年で出演数もぐっと増えて、メイン級の配役もいろいろ取るようになってきたというパターンもある。そういう経路であれば、まっとうな評価として納得できるし、実際に競争にサバイバルしてこられただけの表現力も身につけていて聴きごたえがある。

 キャラクターが大量に居並ぶタイトルは、基本的に無視している。「そういうのはSLGでやれ」という気分。

 ファンタジーもので、学園編が倦厭されるのは分かる。
 ・せっかくのファンタジー舞台の自由さを手放して、小さな制度の中に入れてしまう。場所も人間関係も狭く固定されてしまい、指導関係の枠を填められてしまう。
 ・それまでの物語の成り行きや目標設定を離れてしまうことになりやすい。その意味でも、従来のドラマ構造についてきた読者/視聴者にとって、肩透かし(がっかり)になる。
 ・学園描写そのものが日常寄りのありがちな状況なので、独自性を出すのが難しい。「連載のネタに困ったら、学園編を始めてお茶を濁す」というパターンから警戒している人もいるようだ。
 大きな理由はこのあたりかな。



 05/11(Mon)
 ファイルーズあい氏の芝居ぶりに感じていた既視感は、ああ、一色ヒカル氏だったのか。あの表現力の抜群の振れ幅。表面張力の強いスタッカートの鮮やかな生命感。腹の奥から舌の先端まで通じているような鋭敏さと迫力と存在感。そして台詞のポテンシャルを最大限に引き出すような細部の精密さとニュアンスの彩りの豊かさ。


 今期アニメは不作だと思っていたけど、じめじめじっとり路線に良作が多いので、そこそこ良い感じになってきた。『淡島百景』は多面的なエピソードを展開していく広がりの中で物語世界の見え方が安定してきたし、『上伊那』も(ストーリーは散らかっているが)映像的な楽しさは随一だし、『自称悪役』も傍観者的なスタンスの中に悲劇的な鬱屈が滲み出てきた。それに対して『カナン様』のほとんど不条理めいたスラップスティックが、ちょうど良い箸休めになっている。『鑑定士』は、4-5話がひどすぎたので切ることにしたけど、もうちょっと金元ヴォイスを聴いていたかったという気持ちもある。


 「オタク」の精神文化、その変遷、一般社会との関係について。このブログで何度か語ってきた話も含むけど、あらためて私なりに、展望を整理し直してみる。

 80年代までの世代は、私から見れば、いわば「オタクの原風景」のようなものだ。つまり、いわゆる「オタク」が文化集団としてのアイデンティティを獲得する前の段階だ。言い換えれば、孤立して自分なりの関心を突き詰めるマニアたちが、ロールモデルとしてあった。男性的分野で言えば、SFマニアや鉄道マニアなどがその典型だった。漫画読者は比較的マージナルだったというのも、おそらく確かだろう。ただし、その段階では趣味の「知」はオープンなものではなく、プライドを賭した競争的なものだったり(「SFを1000冊読め」)、社会性を欠いた収集癖だったり(マイナービデオ収集)したようだ。この時代には、大学サークルやパソコン通信などのメディアはすでに存在したが、あまり組織化されてはいなかったようだし、彼ら自身も記録をろくに残していない。
 一般社会からは、マイナー趣味に没頭する人々は奇異の目で見られていた。「珍奇な資料を紙袋に提げた、身嗜みに気を遣っていない長髪バンダナの男性」といったステレオタイプ的イメージは、80年代のうちには確立されていたと思われる。昭和的な同調圧力、体育会系なマチズモ、「不良」集団による暴力性の優位、前近代的な階層思考、等の下で、そうしたインドア系マイナー趣味の人々は格好の「いじめ」対象として攻撃を受けていた。ただしこれは、当時の日本社会の差別性のごく一部であり、セクハラの日常的行使、女性の社会進出に対する偏見、その他マイノリティに対する嘲笑(同性愛者がどのような扱いを受けてきたか)、あからさまな地域差別や出自差別の残存など、激しくも悲惨な攻撃性の一部として、インドア派蔑視も当然のように行われていた(もちろん、それら個々の属性が被った問題は矮小化されてはならないが)。ともあれ、こういったマニア趣味蔑視もまた、多くのマイクロ・アグレッションにありがちなように、歴史にはほとんど書き残されずにいた。この状況は90年代半ばあたりまでは続き、例の事件も影響もあっ、マスメディアを通じた(主としてネガティヴな)露出も増えていった。

 風向きが変化してきたのは、おそらく90年代後半以降だろう。まず、一般社会との関わりで見ると、「日常生活」「イメージ」「社会-経済的プレゼンス」の3点のそれぞれに大きな変動があった。
 1) 日常生活における「迫害」の弱まり。男女雇用機会均等法の導入、福祉社会から新自由主義的競争への変質、バブル崩壊や金融危機(山一證券)、さらに震災や大規模テロ(1995年=平成7年)といったカタストロフ的事件を通じて、それまでの日本社会の通念的モデルは急激に不安定化し、文化的にも自由化、多様化していった。そうした中で、マイナー趣味に対する一般社会からの圧力も薄れていった。
 2) マニア/オタクに対するイメージも、伝統的な趣味(SFや鉄道、歴史、ミリタリー)から、「漫画やアニメの愛好者」へと変化した。さらに、スーパーファミコン(1990)やPlayStation(1994)などの家庭用ゲーム機の普及も、インドア系趣味に対する世間の認知を和らげる一因になったかもしれない。
 3) さらに、『エヴァンゲリオン』(1995)が「社会現象」を引き起こしたことに象徴されるように、オタク発の文化やコンテンツが一般社会に浸透し露出することが、ごく普通のことになっていった。

 90年代の激変は、「オタク」内部の次元でも起きていた。一言で言えば、孤立したマニアから、オンラインで社交する知的な集団として組織化されていったと考えられる。Windows95/98機のセールスとともにインターネットが広く普及していき、さらに理系大学院生たちを中心とした「ホームページ」群によって、様々な趣味に関するオープンな情報提供が積極的に展開されていった。そこでは、幅広い視点から対等に議論することが良しとされ、プライドの高いマッチョ権威主義者は非常に少なかった……まあ、分野や集団によるだろうけど(※なお、当時は、ポータルサイトとしてのYahooが主流で、カタログ化された検索おすすめサイトがピックアップされて、優れたサイトに注目が集まった)。例の用語法を使うなら、オタク第一世代から第二世代への移行が生じた。
 趣味の対象についても、現代的な二次元系の趣味(アニメ、漫画、ゲーム、ライトノヴェル)に多数の人が引き寄せられていった。深夜アニメ枠の拡大は90年代末に始まり、『少年ガンガン』(1991-)、『Gファンタジー』(1993-)、『電撃大王』(1994-)、『少年エース』(1994-)といったポップ志向の新たな漫画雑誌が創刊される一方で、『YKアワーズ』(1993)や『YMアッパーズ』(1998)のようなディープ寄りの雑誌も現れてきた。この流れは00年代の『きらら』系(本誌2002年、キャラット2003年、MAX2004年)の「萌え四コマ」勃興あたりまで続いていく。それらと平行して、「コミックマーケット」に代表される同人誌即売会の裾野も爆発的に広がり、文化的な豊かさと社会的な交流密度が確保されていった(※即売会は、オンラインの友人どうしがオフラインで定期的に会える機会として相互補完的に機能し、また、クリエイターの人材発掘の場にもなった)。
 いわゆる「サブカル」との溝も、この時期にはすでに生まれていた。図式的に対比するなら、ヴィレッジ・ヴァンガード的なサブカル系カルチャーが「現実社会との対比を意識しつつ、階層主義な秘儀性≒マニア性を維持し、文化的側面に集中した」のに対して、第二世代型のオタク文化は「創作世界のエンタメ性に専心し、メジャーな商業コンテンツを受け入れ、オープンな知的交流を目指した」と言
えるだろう。サブカルとの「対立」の発生を00年代以降に見出す者もいるが、私見では、この温度差の違いは90年代のうちにすでに顕在化していた。内容的にも、サブカル分野がしばしば「鬼畜」系や「自殺マニュアル」やいわゆる「ファッションロ○コン」のような前時代的で攻撃性に満ちた悪趣味を弄んだのに対して、オタク側はそういったリアルな悲惨から距離を取って美しい世界を目指した。もっとも、そのスタンスが非-社会性を超えてさらに現代の反-社会性にまでつながっているのかもしれないが。
 典型的なのは18禁のPC美少女ゲーム分野で、元々はマニアックなパソコン趣味の延長上に発生していた領域だが、Win95/98の普及とともに当時の「オタク」たちの間に大きく普及し、そしてネット上のレヴューサイトや攻略サイトも多数作られて、幅広い議論のアリーナが成立していた。さらに、感想投稿&情報登録を行える巨大なデータベースサイト「Erogamescape」(2001-)が公開され、そこではユーザーたちがオンラインで自由に様々な内容を投稿しつつ、詳細な情報をオープンに共有できる場が成立していた。
 美少女ゲームや、当時のハーレム系ノヴェル/アニメ(あかほりさとる)とともに、可憐で美しい架空若年女性キャラクターたち、すなわち「萌えキャラ」を堂々と前面に押し出すことが、オタク界隈で常態化していったのも、この時期だった。
 (※余談ながら。美少女ゲームにも『はじるす』『はじいしゃ』のようなロ○コン系タイトルはあったけど、あれはむしろ例外的だったから目立ったのであって、実際にはロ○メインのタイトルは非常に少なく、けっして主流にはならなかった。全体としては、わりと保守的で無難なキャラ属性が人気だったのは、後述の処女性問題にも反映されている)。

 00年代半ば以降、この気風は変質していく。「メイド喫茶」での媚びた接待や、『電車男』(2005)に象徴されるようなオタクイメージの世俗化、オタク活動の俗流化。アイドル産業の復興(※AKB48は2005年活動開始)と、「総選挙」や「握手券」に代表されるような過激なまでの商業主義的搾取構造の出現。性的な露出の多いコスプレと、それをローアングルから撮影する集団の公然化(いわゆる「カメコ」。90年代以前からも存在したらしいが、即売会のコスプレ会場や秋葉原の歩行者天国で大きく可視化されるようになった)。実在の道具や車両等にキャラクターイラストをラッピングした「痛○○」のような、美少女キャラクターの公然露出。そしてオンラインでは2chの空気に染まった人々による性差別や国籍差別の噴出。つまり、オタク趣味は、公平でオープンで知的な鑑賞的趣味ではなく、日本人男性がリアルな欲望を満たすための場になっていった。
 アニメや漫画を語る場でも、しばしば投稿者は男性であることがデフォルトとして想定され、女性であることや女性文化を擁護するものは無残な排撃に遭った。中国や韓国に対するヘイト発言も溢れかえった(例えば中国人ヒロインに対しても攻撃の矢が向けられた)。美少女ゲーム分野でも、ヒロインの処女性が、異様なまでに絶対視された。女性声優に対する性的欲望を放言する邪悪な声優オタクたちも、2chやその周辺プラットフォームによって助長されて、現在に至っている。ミリタリー関連でも、いわゆる「萌えミリ」界隈の非倫理的な姿勢には、当時から大きな問題があった(※伝統的なミリオタが良かったとはけっして言わないけど……)。そういった陰惨な負の側面も、私は忘れていない。
 私見では、この時期を分水嶺として、「オタク」は決定的に変質した(第三世代?)。現代のオタクたちには、90年代以前の(被害)体験は無く、この時期に作り出された虚妄の反フェミニズム、反グローバリズムの被害意識をベースにしている。……ただし、このような切断認識は、00年代以前を過度に美化してしまうのかもしれないが。
 この時期には、女性のオタク文化ももちろん広がっていたのだが、戯画化されたBL像や、ナマモノ同人(※実在の男性アイドルなどを性的に描いたファン創作)の閉鎖性、そして少女漫画分野の沈滞などもあって、分離と周縁化が進んでいった。即売会でも女性向けサークルは、ほぼ半数を占めていた筈だが。
 一般社会(一般人)からは、奇異の目で見られることは少なくなっただろう。萌えキャラ(=可愛らしい若年女性キャラクター)をマスコットにするのも、世間的に受け入れられていった(※00年代半ば以降の「ゆるキャラ」ブームと歩調を合わせた流行と言えるだろう)。先駆的とされる『らき☆すた』と鷲宮神社の関わりは、2007年頃からとのことようで、さらに、いわゆる「ご当地萌えキャラクター」路線で、「鉄道むすめ」(2005-)や「温泉むすめ」(2016-)などのコンテンツが量産されていった。それらは、二次元系文化が育んできた「フレンドリーで好意的な印象を与えるイラスト技術」を社会一般にも広めて活用できるようにしたという点では大きな意義があったが、しかし同時に、若年美形女性ばかりをマスコットとして扱うことに慣れさせるという意味では問題があり、それゆえいささか両義的な評価にならざるを得ない。

 さらに10年代以降は、ソロプレイ志向のオンラインゲームがさらに商業主義化を推し進め(いわゆる「ガチャ」)、メディアミックスの進行も、コンテンツをクリエイターではなく企業の手に握らせる方向に進んだ。さらにSNSの普及は、オタクたちをカオス的集団として束ねつつ、かれらのマジョリティ意識を助長した(※日本におけるtwitterの最初の拡大期は、2009-2011年頃だろう)。いわゆる「推し」様式も、関連グッズの大量購入を通じてファン意識を高めるというカルトまがいの物神崇拝的慣行を強めた。10年代末から現在まで続いているY/V-tuber界隈が、どのような位置に置かれるべきかは、私にはよく分からないが。
 オンラインゲームで「女体化」アプローチが蔓延したように、この時期には、女性キャラクターを性的に扱うことが主流になった。前世紀までの「萌え」とは、女性キャラクターの可憐さや内面造形に対する愛着であって、むしろ性的魅力とは正反対のものだったし、ツンデレキャラも、男性主人公にはコントロールしきれない女性キャラのパワーを反映していた。しかし現代では、女性キャラクターの魅力の判断基準は、徹頭徹尾、セクシュアルなアピールの強さに志向している。その意味では、現代の女性キャラが「萌え」と呼ばれなくなったのは、妥当と言える。アニメ分野でも、SNSで「○○は俺の嫁」という言い回しが00年代半ば(?)以降広まっていたが、これもまた男性的な所有欲ベースの発想に他ならない(※女性文化の側でも、「同○拒否」のような類似の発想は生まれてきた)。

 現代の自認「オタク」たちが、すべて絶対的に悪いというわけではない。むしろかれらは、00年代以降の商業主義的搾取やSNSのメディア煽動に絡め取られてしまった被害者だという側面も、確かにあるだろう。しかし、ここまで素描してきたように、現状の「オタク」界隈に様々な問題があることも確かなので、まずは当事者たちの手で、できるだけましな形にしていってもらいたい……私自身、二次元系趣味を長く嗜んできているけれど、もはや「オタク」と自称することは二度と無いというつもりで、しかし関わりが無いわけでもないので、せめてこうした展望を書き残している。
 それにしても、某地雷氏のように90年代以前の被迫害を丸ごと否認するのも、やはり歪曲が過ぎると思う。2004-2006年頃に、オタクたちのコンプレックスが攻撃性を誘発するようにマネタイズされていったという仮説は、それなりに妥当だと思うけれど。

 「良きオタクは、ちゃんと金を出すオタクだ(≒違法DLはしない)」というくらいならば、理解できるし、私自身もおおむね似たような認識で行動している。長く続いている不況(というレベルではないが)の下で、良いものには適正な金銭的な支払をしなければ、コンテンツが持続できないというのは、否定しようのない事実だし、社会関係一般の問題としては妥当だろう。
 しかし、様々な経緯から、ややこしい要素が入り込んでしまっているのも確かだ。a) 一つは、アイドル産業や課金型オンラインゲームが作り出した、「楽しめる度合いは、支出した金額に比例する」、「たくさんお金を出すことが、ファンとしての価値を証明する」といった悪しき文化風習。
 b) もう一つは、2011年震災の後に生まれた、「お金を使って経済を回そう」という意識。これは、当初は「被災地の物をたくさん買って支援しようね」、「計画停電などの局所的負担も生じているので、余裕のある人が助けようね」といった健全な発想だった。しかしそれが、上記a)の消費第一主義に誤接続されて、ごく一部に「オタクは経済を回しているから偉い」という妄想を生んでしまった。いや、コンテンツ産業が現代日本で比較的大きなプレゼンスを生んでいる生産部門になり得ているのは確かだが、それはべつに他の部門と競争するためではないし、ましてや、その金額が「オタク」たちの文化的価値を担保してくれるわけでもない。その点は、注記しておかなければいけない。

 最近の「オタク史」議論の中で、美少女ゲーム(アダルトPCゲーム)分野の話がきれいに抜け落ちてしまっているのが、あまりにももったいない。パソコン媒体という観点でも、90年代以降のオンライン空間の趣味化をリードしていたし、攻略情報やレヴュー(それから修正パッチ)をオンラインで共有するという点でも先駆的で、そして現代に連なる「美少女」キャラクターの型を整備し普及させたのも美少女ゲーム原画家たち――コミケットの壁サークル常連たちでもあった――の貢献が絶大だし、さらには「可憐な萌えから性的な魅力へ」の移行を準備したのもアダルトPCゲーム分野だったと言うべきだろう。もっと言えば、主題歌(インディー系の歌手)とOPムービー(デモムービー)の洗練は現代アニメにも大きく影響しているし、読み物アドヴェンチャーの形式はオンラインゲームにも引き継がれている。もちろん、様々なキャラ「属性」を創出し、拡張し、整備し、組み合わせたのも大きい。

 以上、3時間で約6000字。頭の中にすでに枠組が出来ているテーマで、資料もろくに見ず、ネットで年を確認するくらいで書き流すと、だいたいこのくらいの速度かなあ。
 ここまでの文章できちんと言及できなかったのは、模型/フィギュア界隈、TCG産業、コスプレ、特撮、ネットラジオ、MMORPG、インディーゲーム、ライトノヴェル(※10年代以降のネット小説も含む)、それから非-二次元系の様々なホビー(評論、ガジェット、実写映画、ミリタリー、サバゲー、等々)。
 私のような素人の歴史語りはどうしても精密さに欠ける議論になってしまうけれど、しかしそれでも、おおまかな展望(状況の見え方)とか、重要なマイルストーン的作品とか、忘れられてはならない事件とか、そういったものを拾い上げて記録しておくことにはいくらかの意義があるだろう。そういうつもりでこのブログを続けてきている。


 以前に購入した同人誌の山を整理していたら……ん? これはちょうど先日買って面白かった商業単行本の著者では? なんという偶然……。
 同人誌の方は、即売会会場でのカジュアルな表紙買い(+見本誌パラ読み)、商業単行本はまったく別のテーマでのカジュアル店頭買い(※中身は見ず)だったのだが、こんな符合がまたもや起きるとは。著者名はろくに記憶していなかったのでまったくの偶然だが、しかし潜在的/無意識的に、「好みに合う画風なので、無意識の勘で手に取った」とか、「タイトルの言語感覚なども、琴線に触れる良いセンスを表現していた」といった現象が起きていたかもしれない。
 こういうのは、良い側面と悪い側面があって両義的。つまり、良い点としては、「クリエイター名の知識でチェックしなくても、私自身の美的な趣味嗜好が確立されていて、好みに合うものを識別できている」という可能性。しかし逆に、こうした嗜好選別が働きすぎる(=固定化しすぎる)のも考えもので、カジュアル買いの意義、すなわち「これまで知らなかった新しいセンスに出会う機会」を自ら減らしてしまっているかもしれない。同人サイドでは、「商業フィールドに出てこないクリエイターに出会える」のも目的なので、その観点でもちょっと惜しい。
 今回の場合は、同人誌も良かったし、商業単行本も独自の掘り下げとキャラクター造形の魅力があって、内容面では完全に満足している。これを機にちゃんと名前を記憶したので、今後またどこかで新作を読めることを期待したい。