2014/03/04

フィクションにとっての高校、大学、会社

  (何度目かの、フィクションにおける高校と大学・再説)


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  この発言のような意見は、(作り手側と受け手側のどちらからも)何度も目にしているが、本当にそうだろうか? 「高校までなら、主人公像やその環境や生活条件を限定乃至特定せずにいられるのだろうか?」「他方で、大学や企業を舞台にしたら、急激にそれが失われてしまうのだろうか?」「もしもそうだとしても、それは不都合だろうか?」という三つの点で、それぞれ疑問がある。

  問題設定として、「限定(特殊化)」が問題なのか「特定(具体化)」が問題なのか、どちらを問うかによっても答えは変わってくる。上記発言は「最大公約数」に喩えていることからも判るように限定性に注目して語っていると思われるが。ここでは、その二つの観点について、上記のような高校像擁護の意見に対する異説を提起する形で、検討してみたい(――なお、上で参照している発言は、特徴的なこと、主人公像との関連づけにおいて説明している。これはこれで興味深いアプローチだが、ここでは主人公像との関係には立ち入らず、さしあたりフィクション表現一般にとっての「高校」「大学」「企業」という次元でのみ扱う)。


  【 限定性の問題 】
  「限定(特殊化)」如何を問う場合、換言すれば内容上の差異の度合いを問題にする観点では、たしかに大多数の高校はそれなりに似たような体制をとっており、またそれらのありがちな様子をモデル的に一般化した「高校」(またはそれに相当する「学園」)の像も、大多数の人々に共有されうるだろう(――実際には女子校や男子校、クラス編成のあり方、授業内容、そして教室の雰囲気に至るまで、無数の相違がある筈だが、それらはここでは捨象されうる)。しかし、そのような一般化された高校像は、どこまで強くフィクションを規定しているのだろうか? そのような、いわば無害化され中立化された高校像は、フィクションにとってはたして必要とされている要素だろうか? そもそもフィクションにおける「高校」描写は、そのような現実の高校(における作り手と受け手各自の現実的経験)と結びついている必要はあるのだろうか? PCゲームにおける「学園もの」が、ありがちで平板な学園像を墨守する姿勢から離脱し、そしてもちろん現実的な高校らしさなどというものを放棄して、むしろ可能なかぎり特徴的でユニークで魅力的な空間として造形することに専心しているという事実に鑑みて、高校描写の「現実らしさ」にはもはや意味は無いと思える。

   他方で「大学」や「企業」についてはどうか。もちろん、現実には、大学毎に、そして学部毎に、カリキュラムもそれに対応した学生生活のリズムも大きく異なる。企業については言うまでもない。しかし、高校と同じようにごく一般的なかたちでモデル的に観念される「大学(大学生生活)」や「企業(社会人生活)」もまた、十分広汎に共有されたイメージとして存在するのではなかろうか。大講義形式の選択授業、研究室またはゼミでの定期的な少人数制研究、奇人変人教員たち、高校よりも自由度の高い学外生活(幅広いサークル活動や、コンビニから家庭教師までのアルバイト活動)、そして就職活動といった大枠は、そのようなキャリアを進む個人(主人公)のイメージしやすさとともに、容易に想像できる筈だ。これは大学に行かなかった人たちでも想像できるだろうし、大学神進学率が十分に高い状況では、そしてとりわけオタクは大学進学者(または進学希望者)の割合が大きいであろうことを考慮すれば、実際の経験としても広汎に共有されているだろう。そして、最後に、高校について述べたのと同じように、そのような広汎に共有された一般的イメージの存否も、そしてそのイメージの現実との近似性如何も、フィクションの舞台としての有効性を左右するものだとは考えにくい。一般企業についても、この事情は大きく変わるものではないだろう。定刻出社、オフィスワーク、営業活動や渉外連絡、出張、上司部下関係、といった要素が使えれば、フィクションの舞台としての「会社」イメージを作り出すのには十分だし、そして必要に応じてどのような要素を追加しても構わない。

  要するに、フィクションの舞台として設定されるというレベルの自由度が与えられているかぎり、高校と大学及び会社とでは、実質的にそれほど深刻な落差は存在しない。そもそも、フィクションはその内容においても木費用においてもノンフィクション(実録)ではない以上、現実を描く必要は無いし、現実に従う必要も無いし、そして読み手の実体験に合致している必要も無い。限定性の観点では、内容的限定の度合いにおいて高校と大学/企業の間に大きな差異は無いし、また限定度合いの相違がフィクションにとっての不利をもたらすということも無い。実際に、PCゲームでも、いわゆる「学園恋愛系」が大学を舞台にすることはきわめて稀だが、黒箱系やSLG系では大学生主人公はそれほど珍しい存在ではない。社会人主人公になると、かなり難しくなるが、けっしていないわけではない(――例えば、つるみく作品はほぼすべて社会人主人公。唯一の例外『逆王道』も、そのタイトルから窺われるとおり、あえて因習的な学園舞台に挑戦したものであると公言されている)。


  【特定性の問題】
  「特定(具体化)」についても検討しておこう。フィクションの舞台として高校なり大学なり企業なりを扱う際に、その制度や生活実態についてどこまで具体的に描写(または説明)しなければならなくなるか、あるいは具体的に描写しようとする際にデメリットが生じないか、という問だ。これは上記の「限定性」の問とも部分的に関連するが、別個の視点として取り上げよう。

  フィクションの中で、高校生活を、あるいは高校に特有の制度(システム)を、詳しく説明する必要はあるだろうか? 現実の大多数の高校にもあるような制度であれば、説明の必要は薄いだろう。しかし、あまり一般的ではない制度(例えば特殊な学科制を持っているとか、その学校に特有の文化的作法があるとかいったもの)は、現実に存在するか否かにかかわらず、その作品の中で、必要な範囲で説明されることになる。だが、その必要性とは何だろうか? それは、読者に対してその現実性を説得する必要性ではなく、まさに当該フィクションを構成するうえでの必要性に他ならない。その意味で、当該作品の舞台に導入された、一般的ではない制度を詳しく説明するコストは、あくまでその作品(の面白さや独自性)を創出するための支出であって、現実の「高校」に起因する問題ではない。そしてこれは、高校だけでなく、大学や企業に関しても事情はまったく同一の筈である。高校であれ、大学であれ、一般企業であれ、その他どのような職業的な場であれ、その作品を成り立たせるために、あるいはその作品を面白くするために、必要な範囲で描写されるだろうし、そして必要が無ければ高校だろうが大学だろうがそれはばっさりと省略される。学園恋愛ものPCゲームでも、「学園」生活の時間の大半を占める筈の、そして学園生の本分である筈の、授業風景すら、ほとんどまったく文字数を割かれずに済まされているではないか。

  描写の具体性に関して、たまに「作者自身が大学生活を経験していないと、うまく描けない(、だから、大卒でないライターからは大学舞台は忌避されている筈だ)」という意見を目にすることがある。これはまったく的外れだろう。キャンパスライフを経験していなくてもそれを描くことはけっして難しくないだろうし、また、たまたま一つの大学のキャンパスライフをほんの数年間経験しただけで万人に対して説得力のある学生生活像を描けるようになるわけではないし、そもそも創作の目的とは読み手の経験に即して違和感の無いように学生生活像を再現することなどではないのだから。


  【 私見 】
  ここまではひとまず消極的に、大学/企業の不利だとされている要素について反論を試みてきた。大学や企業が(若者向け/オタク向け)フィクションの舞台としてあまり用いられていないのは、大学や企業が、高校までと比べて一般性が低くなっていることが理由ではないし、経験者が少なくなっていることが理由でもない(――もちろん、クリエイターたちが、それが理由なのだと信じている[私見では、誤認している]ことによって、採用されなくなっているという可能性はあるが、それを検討するのは本稿の目的ではないし私の能力を超えている)。

  私見では、物語の舞台として採用される頻度の相違は、それらの(現実の、あるいはモデル的に共有されたイメージのレベルでの)環境乃至制度としての様態の相違に由来するものではない。むしろ、1)端的にそこに暮らす主人公の人物造形(とりわけ精神的社会的成熟の度合い)、2)モラトリアムの度合い、3)「初恋」などの素朴さと率直さをできるだけ自然なものにできる年齢設定、などと関連しているのだろうと考えている。また他方で、とりわけ美少女ゲームに関していえば、現実準拠の「高校」なり「大学」なりを引き合いに出さずとも、すでに十分に最適化された多機能な「学園」像が確立されており、ただそれを使えば済むようになっているという事情が大きいと思われる(――例えば『Piaキャロ』シリーズも、『Piaキャロ4』では主人公は学園生設定になっている)。



  【 大学生主人公の実例メモ 】
  オタク主人公は大学生の比率が高いように思われるが、それはおそらく、活動の中心が学校制度の中にはないこと、社会的にも経済的にも行動の自由度が大きくなければいけないこと、精神的にも自立した趣味が前景化されること、などの事情があるのだろう。『こみっくパーティー』(1999)、『ふぃぎゅ@メイト』(2006)、『おたマ!』(2012)、『絶対可憐!お嬢様っ』(2009)はいずれも大学生主人公。『らくえん』(2004)、『おたく☆まっしぐら』(2006)は浪人生主人公だったが、これも高校生よりは大学生寄りの位置づけと見ていいだろう。そのほか、オタクもののPCゲームといったら、『私立アキハバラ学園』『アキバ系彼女』『オタカノ』があるが、いずれも未プレイなので分からない。公式サイト等を見ると、『アキハバラ学園』はどうやら学園もののようであり、『アキバ系彼女』は「学園」ではなく「学院」入学者、『オタカノ』の主人公も普通の学園生であるらしい。いろいろ探して、『アキバ戦隊!エンジェレイヴァー』(主人公はショタ?)という作品もあるようだ。

  それに続いて、比較的多いパターンは教育実習生主人公。これは、現実の制度と同一だと想定するかぎり、ほぼ自動的に大学生であることを含意する。例えば『天ツ澪』(2003)、『魔法はあめいろ?』(2004)、『こいらぼ』(2010)、『P/A』(2014)、『ツゴウノイイ彼女』シリーズ(2012-2013)、『さよならを教えて』(2001)など。

  『痕』(1996)、『顔のない月』(2000)、『瀬里奈』(2004)、『ORATORIO』(2004)、『ゆのはな』(2005)、『紅殻町博物誌』(2009)、『狗哭』(2011)、『七人の孕女2』(2014)のように、帰省やフィールドワークのために、大学(院)生の主人公が夏期休暇に田舎を訪れてそこで事件に巻き込まれるというパターンもある。こうした自立性と自由度の高い行動を取れるのは、大学生キャラクターの武器だろう。『他の女の子とHをしているオレを見て興奮する彼女』(2013)は、「交際3年目となる大学生活を、順風満帆に謳歌し」(※getchuより引用)ているカップルの物語だが、こうした設定もいかにも大学生らしい。その他、総じて黒箱系には大学生主人公が比較的多いという印象がある。

  PULLTOP LATTEの2作品、『彼女と俺と恋人と。』(2012)と『恋する夏のラストリゾート』(2013)はどちらも大学生主人公。おそらく単なる偶然ではなく、ブランド(ディレクター:「さえきそれなり」氏)自身の意識的な選択であろう。あっぷりけも、『見上げた空におちていく』(207)と『黄昏のシンセミア』(2010)はともに大学生主人公とのこと。アトリエかぐやも、先に挙げた『瀬里奈』だけでなく、近年でも大学生主人公ものを多数制作している。Liar-soft/raiL-softも、上記『紅殻町』の他に『霞外籠逗留記』(2008)や『水スペ』(2009)も大学生主人公であり、サークル活動や就職活動などが物語に関わっている。

  その他。『罵倒』(2003)、君の想い、その願い』(2003)、『はなきゅ~』(2004)、『ひなたぼっこ』(2004)、『ぷにぷに☆はんどメイド』(2004)、『HEAVEN -Death Game-』(2005)、『南国ドミニオン』(2005)、『SWAN SONG』(2005)、『わんことくらそう』(2006)、『むすめーかー』(2008)、『ファンタジカル』(2008)、『かみのゆ』(2012)、『少女神域∽少女天獄』(2013)等々。珍しい例では、『よつのは』の後日談FD『幼なじみとの暮らし方』(2006)で主人公が大学生になっていた。
  00年代初頭までは、大学生主人公もポピュラーな存在だった。例えば、『同窓会』(1996)、『WHITE ALBUM』(1998)、『加奈』(1999)、『Mi・Da・Ra』(2000)、『いただきじゃんがりあん』(2000)、『univ.』シリーズ(2001/2002)、等々。実例を収集したいならば、さしあたりgetchuなどで検索すれば大量に見つかるだろう。


  このテーマについては、すでに何度か述べてきた。
  PCゲームの舞台としての大学[ hwm2.gyao.ne.jp/serio/games/diary09.html#20081201 ]
  twitter上でのいくつかの発言[tw: 10080218642 , twilog.org/cactus4554/date-100517 ~ 18 ]
  2012年9月19日付雑記[ cactus4554.blogspot.jp/2012/09/diary9.html ]