SD絵はいまや広汎に普及した表現になっているが、全体的にみるとそれはおそらく状況をコミカルなものとして表すことに強く志向しており、おおげさなアクションを描写すること――つまり外形的な全身運動を誇張(デフォルメ)して描くこと――にはあまり用いられていないように思われる。例えば、登場人物がふざけてみせるシーンや、あるいは(最も典型的には)二人のキャラクターが竜虎図風に睨み合っている風景などでSDは多用されるが、しかしながら、例えばヒロインが不埒な主人公を殴り飛ばしたり壁に叩きつけたりするような、いわば「漫画的」なアクション表現が、美少女ゲームのSD表現にはあまり取り入れられていないのではないかと感じる。
これはさしあたり、統計をとった厳密な話ではないし、また、もちろんそのような派手なアクションSDの実例も存在するのだが。例えば、『はなマルっ!2』(Tinkerbell、2008)にはヒロインが主人公を殴り飛ばすSD表現が、わざわざアニメーション(動画ファイル形式)で使用されていたし、『恋色空模様』シリーズ(すたじお緑茶、2010/2011)でも、シート上でリズムゲーム対戦をするシーンや崖を駆け下りるシーンなどで、これまた静止画ではなくアニメーションで(ただしこちらはおそらくプログラム制御)、華やかで楽しげな運動表現が行われていた。さらに遡れば、90年代の『晴れのちときどき胸さわぎ』(カクテルソフト、1997)の頃から、殴打アニメーションは存在した。『明日の君と逢うために』(Purple software、2007)では、何枚もの簡素なGIFアニメという形式で、ソフトボール対決のシーンをアニメーションSDで表現していた。しかしながら、これらがまさに静止画SDにとどまらずアニメーションにまで踏み込んでいたという事実が、私には示唆的であるように思われる。SDイラストでこのようなアクションを行わせることは、一方では、単なる一般的なSD CGによってではなくアニメーションを付与したSDでこそ行われなければならないとスタッフに判断させたのだという可能性があるし、また他方で、アニメーションを導入するほど意欲的で意識的なスタッフによって着手される時にようやくアクションSDが実現されたのだと考える余地もあるからだ。
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[ www.getchu.com/brandnew/805382/c805382sample15.jpg , sample16.jpg ]
例えば、昨日言及した新作のSDも、立ち絵のみでは表現しにくい特殊な状況を、その場面の特定の雰囲気を強調しつつ表すようなものになっているが、しかしながら、そこには感情の動き(心理的な動き)は描かれていても、人体のダイナミックな物理的な運動を表現することはほとんど目指されていない。唯一まともな動きがあるかのように描かれている上記
後日追記:ファイル番号が差し替えられている模様。
ここで私はべつに、これが問題だと指弾したいわけではない。むしろこの特徴は、美少女ゲームの(あるいはADVの)特有の文化的技術的事情を示唆するものなのだと思われ、興味深い現象だと考えている。美少女ゲームにおける「絵」は、漫画の一齣のようにその場その場で使い捨てにしていけるようなものではない。リソースの限られている2D-AVGでは、一枚絵であれ立ち絵であれ、とにかく絵で表せない状況は黒画面進行や青空画面進行にするしかないし、そのような不格好なシークエンスを回避するためには、用意されたCGが数クリックの間、あるいは数十クリック分の進行の間、その場をキープしていなければならない。そのような要請の下に置かれたCG制作が、SD制作に関してもその場限りの瞬間的な動作表現のみにそのコストを費やすことに消極的になりやすいというのは、考えられる話だろう。
もちろん、それが絶対ではないが。例えば、同じように付随的副次的な画像素材と見做されるであろうカットインCGは、――キャラクター表現に寄り添う必要が無いからか――融通無碍にアクション表現に踏み込んでいる。SDに際してはそれが行えないと断じる理由は、本来は、無い筈である。ここで美少女ゲーム分野におけるSD CGの静止傾向を説明するかもしれないもう一つの理由は、AVG形式のために要求される技術的事情ではなく、まさに美少女ゲーム分野だからこそ想定されるべき事情、すなわち、SDもまたキャラクターの魅力を表現するための重要な機会の一つだと位置づけられているからではなかろうか。キャラクターの顔を隠してしまわず、キャラクターの感情の表現をこそ常に最大限大切にし続けている美少女ゲームが、SD使用に際してもこのような路線を採っていることは、まったく自然なことだと思うし、理に適った判断だと思える。
SD表現のごくおおまかな概観は、演出技術論Ⅳ-4-1-δを参照。