2014/10/15

『片恋いの月』の演出様式についての雑感

  『片恋いの月』の演出様式についての雑感。再プレイ時のメモ。


  思い切って『片恋いの月』再プレイを始めてみた。AVGの再プレイはほとんどしないのだが、久しぶりにプレイしてみると『巫女さん細腕繁盛記』(2004)、『片恋い』(2007)、『恋色空模様』(2010)でずいぶん演出スタイルが変化していることにあらためて気付かされた。


  【テキストボックス】
  例えば、テキストボックスそれ自体も、わりと頻繁に動く。大声の時には(フキダシ型)テキストボックス全体がふわっと拡大するし、主人公が心中の邪念を追い払おうとする時にはテキストボックスがぶるぶると左右に揺れる。驚きの台詞では、テキストボックスがぴょこんと跳ね上がるし、走って退出する際にはテキストボックスがスライドしてフレームアウトしていく。『恋色』以降では用いられなくなった演出だが、とりわけ主人公――すなわち基本的には画面内に登場しない存在――の振り付けを表現するうえでこれが活用されている。この作品の主人公は純朴な性格の持ち主で、いろいろな場所を走り回ったりするキャラクターであるため、こうした代替的な身振り演出を導入することには、脚本やキャラクター設定との関係でも十分に意味のある様式選択であったことが分かる。他方で『恋色』では主人公はもっぱら思惟する存在であり、また『祝福の鐘の音』では会話中心であったため、運動表現やジェスチャー表現をことさらに表現する必要が無くなっていた。

  その他にも、立ち絵の動きに追従してテキストボックスも動くのだが、これはその後の緑茶作品にはあっただろうか? 例えば「いただきます」の挨拶の時に、立ち絵がいったん軽く沈み込み、それに合わせてテキストボックスも下方移動するのだが、あらためてプレイすると、テキストボックスを立ち絵に一々追従させるのはいささか律儀すぎるように感じられる。


  【 トランジション 】
  場所移動表現も、変わっている。『恋色』以降では、その都度のシーンの場所指定や場所移動表現は、背景画像の変化やテキスト上での言及(モノローグ)によって賄われていたが、『片恋い』では、連続性のあるシーンの中で場所移動をする際には、校舎全景(の俯瞰図)から移動先の地点へとクローズアップしていくというワンクッションを置いている。『恋色』以降の緑茶演出が、場所移動表現に関してはアニメ相当の標準的なスタイルに向かっているのに対して、『片恋い』の時点ではむしろクラシカルな移動先選択AVGの香りを漂わせる演出を保持しているのは、なかなか興味深い(――実際、『片恋い』に次ぐ『マジカライド』[2008]の頃までは、FDや特典ミニゲームなどでACTやPZLなどの非AVG作品を継続的にリリースしているブランドだったのだ)。

  あるいは、場所移動の際に、15並べのように複数の背景画像が連結スライドしていくという処理もある。AVGの画像表示構造を堂々と示す、大胆に割り切った演出法だろう(――ちなみに、これと同じ見せ方はLittiewlicthの『ピリオド』も実行していた筈だ)。


  【 立ち絵振り付け 】
  立ち絵振り付けについては、ループ運動が多用されているところも本作の特徴と言えるだろう。例えば喜びを表現するのに、立ち絵が横長楕円形の軌跡でくるくる動く――クリックするまでずっとそれを反復する――のだが、このようにその運動の全体を認識するのに一定時間の待ちを要する継続的な立ち絵運動を用いるのは、その後の緑茶演出ではかなり珍しい。『祝福の鐘の音』では、ダンス(練習)のシーンで∞字型の立ち絵ループ運動があったが、あれは単一クリック内の動きではなく、複数クリックに跨がるロングスパンの演出だった。全体としていえば、『片恋い』時代には、立ち絵振り付けの名技的演出がクリック単位ではっきりと分節化されていたのに対して、その後のタイトル(特に『恋色』以降)では、クリック進行と融合した、よりいっそう自然なゲーム演出が目指されているように思う。

  立ち絵に大きな(連続的な様々な)動きをさせる際に、立ち絵をいったん切る(いったん消去してから、また別の振り付けをさせる)のも、この作品に特有のものかもしれない。その後の作品では、一クリック単位の一続きの運動であれば、基本的に全ての場合に、一つの連続的な(移動or拡縮)変化として表現されていたと思う。これはもしかしたら技術的事情に由来するのかもしれないが。

  本作の立ち絵振り付けの特徴。もちろん、2007年当時として極めつけに活発で複雑で大胆な立ち絵スクリプトワークを展開しているのだが、それでも『恋色』と比べると、立ち絵の運動表現に関してはそれほど極端でもない。多人数のキャラクター立ち絵の空間的配置と、登退場表現の精緻化、そして距離感表現に、その労力の大部分が払われている。『恋色』のような、全身立ち絵によってあらゆる運動を表現しつくそうとするかのようなものではない。歩行表現も波形軌跡ではなくストレートな直線的スライド移動だし、多くの場面では立ち絵の代わりにフェイスウィンドウが移動/運動表現を賄っている。ここで重要なのは、アクション表現ではなく、あくまでサロン的空間に仲間がいるということなのだ。立ち絵サイズ変化による距離感表現は、物理的な距離変化を表現するだけでなく、心理的な接近や、演劇的な焦点変化をも的確に表している。そして、本作の演出上の大仕掛けも、まさにこの点に関わっている。キャラクターの消滅という事実を、そのキャラクターの不在(もはや立ち絵としてその場に居合わせていないこと)というあまりにも単純な形で表現することが可能になったのは、逆説的に、それまでその都度のシーンで登場人物たちの存在をすべて立ち絵で賑やかに楽しく表してきたからこそだ(――これについては「黙説」として説明したことがあったが、あの文章はただ単に修辞の問題であるだけでなく、AVG作品において[も]システムがいかに修辞を可能ならしめているか、いかにして可能ならしめているかという、システムの語りだった)。

  立ち絵振り付けは、本作に続く『マジカライド』(2008)と『片恋いの月 えくすとら』(2008)の二作で、よりいっそう派手で濃密でダイナミックなものになっていく。しかし、それらの立ち絵演出の道筋をはっきりと指し示したのは、『巫女さん細腕繁盛記』(2004)と『プリンセス小夜曲』(2005)の活発な顔窓演出であり、そして本作が本格的に導入した全身立ち絵演出だった。全身立ち絵演出にしても、もちろん他社作品にも先行例は存在する――例えば『はるのあしおと』の空間表現や『マブラヴ』シリーズのロボット運動表現――が、それが学園恋愛系タイトルのサロン的会話劇にも通用するということを、高度に洗練された形で実証した本作の独自性もまた、それらと並べて銘記されるべきであろう。


  【 キャラクター表現 】
  ゲーム開始時点で、それより以前からすでに、多くのキャラクターたちとの間に社会関係が成立している。ヒロイン(になる)五人に対しても、一定の関わりとその蓄積がすでに存在するところから、物語がプレイヤーの前に展開されていく。そういう厚み。そういう時間感覚。そういう関係。それらを大切にしているのは、白箱系における緑茶の個性の一つでもある。ゲームの冒頭でいきなりそしてたて続けにヒロインたちと知り合っていくのではなく、すでに(いったん何らかの形で)状況が出来上がっているところから、物語が物語としてふっと開始する。力作『恋色空模様』でも、主人公は転校してすでに一ヶ月ほど経過したところから物語は始まり、しかもヒロインの数人とは知り合っている状態である――そしてそれは共同体的関係を通じてさらに強化されていく――が、それに対して『片恋い』は、一対一の関係について見れば『恋色』以上の密度(親密度)を最初から備えており、そしてそれが学内サークル「民研」というサロンが活性化するにつれてキャラクター間関係が次第に複雑に(つまり一対一関係だけでなく、多人数の間で複合的に)変化していくという順序を辿る。


  【 印象的なシーン 】
  横顔を見せつつ孤独に佇むヒロインを捉えた仰角構図も好きだが、正面からそっと見下ろされる優しみのあるレイアウトも大好きだ。――元を辿れば『水月』の雪さんが典型的だが、その後の美少女ゲームでもこの美意識は密かにしかし連綿と受け継がれている。『片恋い』の場合は、屋上のベンチに寝そべる主人公が、近づいたヒロインをその足元から見上げるというパンニング(ティルト)をも伴っており、しかもワイド画面ならではの余裕のある横幅の中に青空を豊かに収め、さらに傍らのフェンスはあえて微妙に湾曲して描かれることによって空とその世界の広大さを控えめに暗示している。脚本家(このシーンは時野つばき氏だろう)も、この出会いの不思議な穏やかさを丁寧に紡ぎ上げている。原画家うさみょ氏による美少女ゲームの名画の一枚であり、そして、けっして派手ではないが美しく素晴らしいシーンの一つである。

『片恋いの月』 (c)2007 すたじお緑茶
メインヒロイン初瀬香津美との出会いの場面。下から縦二画面分のスクロールをして、心地良く青空をフレームインさせてくる。テキスト表示はフキダシ型で、話者表示がなされないため、この再会の意味は次のシーンまで持ち越される。