2014/10/01

オタク文化の普遍性と限界についてのもやもや

  オタク文化の普遍性と、それゆえの限界について。


  たしかに台湾(人)が日本(人)に対して好意的な傾向があるというのはそれなりに正しいようだし、台湾のポップカルチャーがある面では日本のオタク文化から摂取してオタク文化やオタクっぽい表象を展開させているのは確かだが、しかしだからといって、私たち日本人がいつまでも「日本(文化)をリスペクトしてくれている」云々と言い続けるのは良いことなのだろうか。つまり、いつまでも「私たちの文化に付き従っている後発文化」呼ばわりするのは、ほとんど宗主国的思い上がりに等しく、もうさすがに失礼に当たるのではないか。オタク的感性は、べつに日本人に固有のものではなく、ユニヴァーサルなものであり得ると思うし、そしてユニヴァーサルなオタク的美学への対等の参加者たちとして台湾の人々を遇するべきではないのか。台湾の彼等だって、彼等自身がそれらを好きだからやっているのであって、けっして日本のために萌えイラストを使っているわけではあるまい。そして諸々のオタク的趣味も、けっして日本人(あるいは日本文化)だけのものではないし、日本人にしか出来ないというものでもないし、オタク趣味に関して日本人の価値観だけが――そして日本人でありさえすれば自動的に他人種/他国人よりも――偉い(優越的である)ということもあり得ないし、オタク趣味に関して日本人が他人種/他国人に対して傲慢に振舞う資格があるわけでもない。

  ふりかえって、「オタクのDNA」「オタクは日本人のDNAに固有」「オタクになるのはDNA的必然」のような表現も、限定された場での明確な冗談としてならまだしも、そうしたフレーズがごく普通の発想として普及した現状は、文言上はもはやオカルト人種論そのものになっており、かなり危なっかしく見える。実際、「日本人だからオタクが分かる筈(つまり、理解できなければ日本人ではない)」とか「アメリカ人にはオタクが分からない(つまり、日本人ではないのだから理解が及ばないに違いない)」といった偏見はすでに生まれている。これらは、言うまでもなく、人種差別に典型的な発想の仕方である。

  私見では、オタク文化やオタク文化的ヴィジュアルイメージは、ユニヴァーサル(普遍的)なものだ。言い換えれば、いかなる政治的イデオロギーに対しても、内容上必然的に直結するような要素は持たない。例えば、「ジャパニズム」という右派的-排外主義的傾向の雑誌があるのだが、そこでは表紙イラストに典型的な萌えキャライラストを使用している(――なにしろ、『モルダヴァイト』や『あるぺじお』で原画を務めたゆきうさぎ氏だ。美少女ゲーマーにとっても、知らない名前ではない。この方自身の政治的立場が実際にどのようなものであるのかはともかくとして)。しかし、巫女キャラ萌えが必然的にそうした政治的立場を意味したり帰結したりするわけではないだろう(――そうした表象は、高橋留美子を経由することによって、現実の「伝統」からは一旦切断された、自律的な美学になっているのだといった議論を、どこだったかで目にした憶えがある)。巫女キャラヒロインズの『神楽』シリーズをプレイすることは、特定の政治的立場への賛成票乃至反対票を意味するわけではなく、そのゲームをプレイしつつそれと同時に、不当な排外主義に対しては「知らんがな」と言うことは論理的に矛盾無く遂行可能だし、「その排外主義は政治的に不当である」と述べることもできる。賛成することも論理必然的には排除されないが。もしかしたら巫女萌えが、「右派(政治的保守)ならば必ず巫女萌えである」という必要条件になっているかもしれないとしても、その場合でも、その逆は成立しない。このような意味で、オタク的文化に属する事象は、そのほとんどが、基本的には、政治的社会的なイデオロギーや立場選択から中立的であると考えている(――例外としては、例えば実在の政治家を萌えキャラ化したような場合に、その元ネタの人物の政治的姿勢がオタク的フィルターによって完全に濾過乃至脱臭されるという保証は無い。関係者がいまだ存命であるような近い過去の大量虐殺を指導した人物を、ただ萌えキャラ化しただけでそれらの事実から完全に切断されると考える無邪気さは、政治的デリカシーの欠如を問われる可能性はある)。

  しかし、「中立的」ではあるが、プラグマティックに「独立」「無縁」であるとは限らない。上記雑誌の例のように、特定のイデオロギーのために使用されることはあるからだ。そうした実例に対して、それをきっかけにして個人的に好意を持ったりあるいは不快感を覚えたりすることはあるとしても、オタク的感性乃至オタク的創造の非政治性のゆえに、そうした政治的使用に対して肯定乃至否定の立場で内容的(実質的)な評価を下すことは、おそらくきわめて難しい。つまり、(特定の、あるいは一般的に)オタク的表象を特定の政治的場面で使用することが、良いあるいはいけないという実質的結論を、オタク的表象それ自体の内容から引き出すことは、おそらく不可能である。特定のあるいは一般的な政治的社会的場面で使うことが可能であるというかぎりでは、オタク的美学は――他の美学と同様に――無縁のままではあり得ない。

  政治的立場の問題だけではない。もっと即物的な、例えば企業広告の場面などにも、オタク的なものは使用されうるし、実際すでに大量に使用されている。それらは、本来の原作の内容とは完全に無関係であり、そのキャラクターがそんなことを言う筈は無いのに、様々な商品の宣伝のために過去のあるいは最新のキャラクターたちが駆り出されている。ローンの勧誘に、婚活のCMに、マナー広告に、献血の呼びかけに。それらは、例えば現在それらの商品のターゲットになっている世代の人々にとって幼時に慣れ親しんだアニメや漫画のキャラクターであり、その広告を目にした者の中にはそのノスタルジーに惹かれてその広告内容に対して好意的な情緒を抱く者があるかもしれない。しかしただし、たとえば私は昭和の「おそ松くん」やら「ガッチャマン」やらについてはろくに知らない世代だとしても、しかし、もしも伊藤乃絵美が、真辺リカが、渡良瀬準が、桐嶋菫が、春日野穹が、彼女等が登場した作品とは無関係な物事を、彼女等が言う筈のない言葉で推奨してくることがあった時に、私たちはそれらを好意的に受け止めることになるだろうか。それらに対しておぞましさを覚えずにやり過ごすことができるだろうか(――実際、キャラクターたちの出自である作品からは縁遠い商品のCMに、アニメやゲームのキャラクター[ヴォイス]が出演して宣伝口上を述べることは、すでに常態化しているのだが)。そういう時、「彼女はそんなこと言わない」という感想を対外的に正当化する論理を、そのようなキャラクター破壊的流用を禁じる規範的根拠を、残念ながらオタクたちはおそらく持ち得ないだろう。結局のところ、オタク的なものは、特定の世俗的価値観や政治的社会的イデオロギーに依存していないが故に、使おうとすればどんな立場の者にでも何の目的ででも使えてしまうのだ。もちろん、排外主義だけでなく、真面目な内容のテキストの表紙にも使われ得る(いわゆる「涼宮ハルビン」)し、デモのプラカードでも使われ得る(これもハルヒ。実話かどうかよく知らないが)し、あるいは社会的状況の偶然があれば文化継承の機縁(乗り物)にもなり得る(――例えば、先日話題になった記事だが、こんな話があるらしい:スペインでの独立運動に「クレヨンしんちゃん」が使われる深い理由)。私たちとしては、それが悲しい遭遇になったとしても、それでキャラクターを悪く言うべきではないだろう。キャラクターを悪く言う必要は無いし、彼等に言っても仕方ない。あくまで、彼等の絵を用いて為されている主張の、内容それ自体に対して対応するべきだ。献血を呼びかける看板を、そのキャラクターのおかげで目に止めることになったとしても、そのキャラクターに対する好意如何とは独立に、献血に行くかどうかをあらためて現実的に判断すべきだ。

  オタクネタは、いわば「言葉」(あるいは記号)なのだと、あらためて述べてもよいのかもしれない。それらは、原則としてあらゆる場面で転用できるし、そして転用したからといって原作に対するなんらかの立場――例えば好意であれ称賛であれあるいは侮辱であれ――を意味するものでもない。もちろん、往々にして好意的なパロディになったりするし、また逆に意図的に原作に対して侮蔑的な表現へと加工することは可能だが、必然的にそうなるものではない。