2023/12/28

根無し草

 結局のところ私は、一つのコミュニティの中に居続けることができない気質なのだろう。


 今回、あちらのソーシャルメディアから離脱してしまったのもそうだし、これまでも同じようなことを繰り返してきた。大学サークルも途中でいきなりやめてしまったし、とある漫画家のファンサイトもほんの数年で距離を置くようになってしまったし、twitter.comも2年ほどでやめてしまった。いずれも、とても居心地の良い場所で、たいへんありがたかったのだけど、それでも一つの人間関係に腰を落ち着けそうになると、何故か、それがどうしても耐えがたく感じられてしまう。「自分はこの場所で、このままやっていくのかな?」と思うと、居たたまれなくなり、そしてこのコミュニティから逃げ出してしまう。全身に重たく絡まりつくしがらみそのものが耐えがたくなり、(それがどんなに好ましい人たちのどんなに気持ち良い環境であっても)思いっきり振り払いたくなってしまう。
 そういう場が、けっして、嫌だというわけではないのだ。むしろ逆で、当時の大学サークルも、私がこれまでアカウントを作ってきたSNSも、優秀で誠実で寛容で多様な方々ばかりだし、居心地も良かったのだ。あくまで私自身の気質のせいなのだ。今回の件も、実のところ、その相手の方のせいではない(※私の離脱行動に関しては、その方にはなんら責は無い)。ただ、ちょっとしたきっかけでそれが私の心のトリガーに触れてしまっただけだ。
 何故、そのような行動を取ってしまうのか。自分でも分からない。「気質だ」としか言いようが無い。ほとんど本能的な何かに突き動かされ、どうしても我慢できない全身のゾワゾワと心の内圧の激しさに押されて(もちろん理性的に考えつつも大筋は大して変わらずに)、「私がここに居続けることはもう不可能だ、私の居場所ではない」という結論へ突き進んでしまう。そこにいることが苦痛やストレスになっていたわけではないし、離脱してもなんら気持ち良くなることは無いし、別離の悲しみや後悔に結びつくことも無いのだが(※そこに結びつける回路が無いようだ)、それでも、「ここには、もう居られない」という強烈な意識が湧き上がってきてしまう。

 幸か不幸か、仕事ではそうなってはいない。それはしょせん「仕事の場」であって「人間関係」ではないからだろう。大学院の共同研究室でも、なんとか続けられていた(※そもそも当時は多大なストレスのせいで、それどころではなかったのもあるが)。また、私一人の生活(私生活)では、同じルーティンを繰り返しても苦にならない。他者との間に人間関係が形成されて、自分の位置づけが固まってきそうになると、この衝動が生まれやすいようだ。
 おそらく、結婚生活(をするつもりは無いが)でも、同じことが起きてしまう可能性がある。私自身は、愛情を長続きさせて、お互いに敬意を持ちつつ、相手にとって良きパートナーであることができる性質だと思う。でも、相手に対する敬意や愛情とは別に、他人と同居してコミュニティを何十年も共有し続けることができるかどうか、分からない。いや、さすがに結婚生活からいきなり逃げ出すことは無い……と思いたいが、本当に分からない。プロポーズされるであろう寸前まで行った相手もいたが、そのまま進んでしまわなくて良かったと思う(※そのときは、とある外的事情のせいで別離した)。

 何故なのか。自分でも分かっていない。
 心の自由のため? 多少はあるが、本質的部分からは遠い。たしかに、自分が特定の行動をするように相手から定型的に期待されるのは嫌だし、閉塞感のある人間関係も嫌いだが、それだけならば一応我慢できる。
 人間関係に飽きる? いや、それではない。充実していて豊かで面白い場(サークルなりSNSなり)でも、逃げ出してしまった。むしろ、そういう楽しい場にいる方が、いたたまれなくなる。
 安住の恐怖? 惰性やマンネリへの恐怖? そういう意識も一定程度持っているが、それほど強い衝動に結びついているわけではない。あるコミュニティに全人格を取り込まれてしまうようなのは嫌だが、そんな経験をしたわけではないし、どこかに安住できるなら安住していたいと思っているくらいだ。
 人間関係そのものが苦手? いや、そういうものとも関係は薄い。私自身、けっして世慣れた人間ではないが、人間関係のトラブルが離脱の主原因になるわけではないし、人間関係が大きなストレスになるということも無いと思う。
 優越感や劣等感? ほとんど関係は無いだろう。むしろ、これまで私が参加してきたコミュニティは、どなたも善良で寛容で賢明で、私のことをとても良く扱ってもらってきた。ありがたすぎるくらいだ。個人間の感情的な衝突ではない。
 何かのトラウマでも? いや、何も無い。そんな大きな失敗経験は、何も無い(※むしろ、離脱行動そのものが大きな失敗経験かもしれないが、それでは最初の離脱が説明できないし、二度目以降で反復してしまう理由も説明できない)。
 まるで何かしらの人格障害のようだが、該当するような典型事例は見当たらない。精神的な不安定やストレスが原因ではない。人間関係に疲れているわけでもない。危険を感じるわけでもなく、自殺衝動や自傷衝動のようなものとも違うだろう。躁鬱のような持続的気質でもないし、人間関係に緊張しているわけでもない。孤独を求めるために離脱しているわけでもない。他人の注目を集めたいわけでもないし、他人からのマイナス評価に怯えるわけでもない。かといって、対人関係に最初から興味が無いというわけでもない。対人関係の責任感が無いというわけでもない筈だ(仕事もおおむね真面目にこなしている)。
 部分的には「統合失調型パーソナリティ障害」に当てはまるようにも見えるが、症状の説明全体としては、あまり当てはまらないように思える。俗に「リセット症候群」と呼ぶものもあり、それに該当しそうに見えるが、鬱やストレスが原因というわけではないので、表面上の一致に過ぎないように思える。仕事方面の社会生活を送るぶんには支障を来していないので、何かしらの治療を必要とするわけでもない。
 あえて説明するならば、濃密な人間関係が長期間存続することをあまり信じていなくて、それでピリオドを打ってしまいたいのかもしれない……が、そういう理屈ベースの思考ではなくて、特定の人間関係に深く絡め取られることを忌避したがる感覚なのかもしれない。いや、それにしては過剰反応が過ぎるので、たぶんもっと別の事情があるのだろうけど。

 いずれにしても、決まった人間関係の中に安住することが、どうやら私にはできないのだと考えるべきだろう。どんなに居心地良く恵まれた場所でも、じきに私は何かの拍子で、その場に居続ける自分に耐えられなくなるだろう。
 今回も、けっして大きな衝突があったわけではない。しかし、どうにも心理的に受け入れがたい事態が起きて、そこからほんの数日のうちに、そのSNSで活動を続けていく意欲が完全にゼロになってしまった。その場所が嫌いになったわけではない。だが、その事件の耐えがたさが、その場全体に対する耐えがたさへと一息に直結されてしまったようだ(※さもなくば、例えばブロック機能などでやり過ごすことも可能だった筈だが、最早そんな対処では収まらないところまで私の意識は塗り替えられていた)。そして、耐えがたさというのは、この場合、本当に文字通り、「我慢して現状のまま続けることが不可能」という意味だった。
 というわけで、私に適しているのは、ソーシャルメディア上で活動することではなくて、こうやって孤独なブログでいろいろ書き綴っていくやり方なのだろう。あるいは、もしもどこかのSNSに出ることがあるとしても、壁打ちの投瓶通信が中心で、タイムライン上での交流は避けておくのが良いかもしれない。