2014/03/25

創作表現とリアリティについてのあれこれ

  創作物の中の表現が、現実に即していることは、はたして必要なのか。
  その他、媒体との関係や、「オリジナリティ」についても少々。


  2014/03/25

  創作表現は現実に従わなくてよいというのは一つの原則論だが、しかし現実的運行に反する表現は、受け手に対して違和感を与える可能性があるというのも当然のことだ。それは、「現実的に」、つまり現実感覚に即しているか乖離しているかは、当該創作物の価値の全てを決定するものではないが、少なくとも受け手に対する効果には事実上影響する。だから、受け手の側で実在の物事と関連づけて認識されるであろうような創作物表現は、「芸術的価値」(例えば楽理上の創意や造形美の追求)と「受け手に対する説得性」(納得できるようなものにするか、それとも不自然さを印象づけはしないか)との間でバランスをとる(とられる)ことが間々あるだろう。

  例えば弓道の構えをイラストで描く場合も、もちろんレイアウトの美のみを追求してもかまわないのだが、ただしここでは、1)弓道人口は意外に(?)多い――弓道連盟登録者だけで12万人以上もいるとのこと――こと、そして2)彼等にとっては自分自身の身体的実感と密接に関わる問題であるため「不自然」な構えに対しては心理的な反発が強まってしまうこと、3)和弓と道着を用いた「弓道」というと、実在の弓道以外の確立された文化現象を想像するのが困難であること、主にこれら3点の事情からして、(商業)創作表現に際しては注意を要するポイントの一つなのだと考えて慎重にしておくのが良いのかもしれない。

  受け手の経験とは無関係なものを描いている場合(例:例えばSF的未来世界のごとき)や、十分強固に独自の共通理解が形成されている場合(例えば、歴史上の西洋中世社会とはまったく異なる、西洋中世"風"のファンタジー世界)であれば、こうしたことは問題にならないのだが。また、他方で、社会的公正や権利侵害が問題になるような場合――例えば実在個人に対する名誉毀損的内容を含む表現を考えてもらえばよい――にも、「不利益を影響範囲が少数であればバランス考慮次第で無視してよい」ということにはならない。権利とはそもそも、功利主義的最大化などによって押しつぶされてはならないものを保護するためにあるものだからだ。それ以外の様々な現実的諸考慮についても、とりわけ社会的「責任」という観点では、「創作表現だから」というエクスキューズだけであらゆる責任を免れるということは無い。

  いずれにせよ、これ以外の事柄についても、科学的事実や歴史的事実あるいは常識的共通了解に反する描写は、「作者は自分が何を描いているかを(描いている対象の意味や、扱っている対象領域の基本的知識)を、分かっていないのではないか」と疑わせ、そして作者及び作品に対する信頼を失う可能性がある。それでは、「ただ単に知識問題として分かっていないのか、知識問題としては分かっているが特定の目的のためにそれから意図的に逸脱しているのか」についての判断に際して、当該作品の意義を適切に救(掬)い出すにはどうすればよいか。私見では、知識問題の次元での「正しさ」を検討するのは構わないとしても、そこから無理解を推定するのではなく、そこに知識問題としての正しさの確保以外のなんらかの創作的意義が存在するという可能性を、まずは最大限探求すべきである。


  なお、ここから分かるように、「創作表現で扱うには、経験者でなければいけないのか」という問題――私見では仮象問題に過ぎない――も、一概には言えない。「殺人を経験した者でなければミステリを描いてはいけないのか」、これは明らかにNOだが、その理由は、道徳的にそうであるためでもあるが、「(少なくとも現代日本では)ほとんどの人は殺人を経験したことは無いし、そして現実的な殺人描写を求めているわけでもない」からでもある。もちろん、現実の経験を持っていることが、事実上、表現の方向性や緻密さにおいて有利になるということはあり得るが。同様に、「銃を(もちろん試し撃ちでも)撃ったことを~」、「宇宙遊泳を~」、「異能バトルを~」などについても、経験は必須ではない。しかし、対象となる行為が現実に一般化しており、かつ、受け手の中にも経験者が大量に存在する場合は、未経験者による理解不足の表現が――それがいかに優れた創造性を発揮していても――創作的価値以外の(あるいは、それ以前の)認識段階で不利な影響を被ってしまうことは、残念ながら、あり得る。例えば、「会社勤め」の様子や、「食べ物」(現代日本人が通常口にする料理)、そして「性行為」など。


  自由度の高いカードイラストと、広報用のイメージイラスト(アイキャッチこそが重要)、アニメ等の設定画(各部の造形の明確性が重要)、アニメセル画(コンテ上の運動性によって規定される側面が大きい)、ゲーム一枚絵(全体の密度感が重要だったりストーリーに合わせて画面を保たせることが重要だったり)、漫画の齣絵(レイアウトから視線誘導まで様々な考慮が関わる)は、それぞれ媒体的特性も使用目的も異なるので、そうした事情を無視したままイラスト一枚だけで安易に「批判」したりするのは、けっして誉められた姿勢ではない。


  「絵が動く(動ける)ようになる」というのはやはり大きな違いで、たとえば、以前のAVG作品にアニメーション導入するのは、AE等による一枚絵のアニメーション追加であれ、e-mote式の立ち絵アニメーション化であれ、たしかに可能性を拡げるものだろう。ただししかし、「動くようになれば、自動的絶対的により良いものになる」というわけではない。絵(静止画)が動くようになるというのは、自動的な価値の上乗せではなく、表現手段が増えた(拡張された)に過ぎず、その拡張された表現余地の中で何をどのように表現していくかこそが重要なのだ。AVG作品のアニメ化などでも、たしかに、これまで静止画のみで存在していたキャラクターたちが生き生きした運動性を獲得して楽しげに動き回るようになるのは、見ていて楽しいし嬉しい。しかしそれは、おそらくは、元の絵「そのもの」が動くようになるという価値を目指しているものではない。そこには元の作品、元のキャラクターとの間のなんらかの縁、つながり、なにかしらの連続性が想定されるのは確かだとしても、やはりゲーム媒体上のキャラがアニメ媒体上のキャラになった時点でそれは不可避的に「別物」になってもいるのだ。そして、そこに見出される連続性の機縁というのは、同じ絵であるということではなく、はたまた同じ声であるということでもない。同一の物語を辿ることでもない。二次創作を営んでいる方々であれば、そのことは少なくとも直感的に十分理解されていると思うが(――これについては、「同作異演の可能性」でも述べた)。

  一例として、アニメ版『ヨスガ』には、PCゲーム版のアダルトシーンと同じ構図、同じレイアウトのものがいくつか含まれていた――どうして地上波アニメ版にアダルトシーンがあるんだ!――が、しかしそれは、その作品でヒロインの弾くヴァイオリンの音色がPCゲーム版と同一音源であるという事実とまったく同程度の、同程度に無意味な事実であり、せいぜいのところ「話のネタ」としての面白さでしかない。他媒体の作品を、別媒体が引き継ぐということの意義は、そのようなところにあるのではない。新たな光を――別の光を――当てることが、媒体的にも、そして創作内在的にも求められる。
  この文章は[tw: rakanka/status/448154299378302976 ]を読みながら、それとは直接には関係が無い話をしている(つもり)。 



  2014/03/27

  【 言葉、意味、権威 】

  [tw: 448797424736157696 ]
  「無断引用」というフレーズが、法律家からは意味不明に見える(であろう)のは、「無断」の意味を固定的に――つまり専門的な意味のみに――捉えているからではないのか。「無断」というのが、「権利者に通知せずに」という意味であれば、たしかに「無断-引用」という表現は法的に意味をなさない奇妙な言い回しでしかないが、一般人(ジャーナリストを含む)の理解する「無断」とは、せいぜい「断り無しに」という、つまり「出所の明示(付記)」程度の行為をも含む広い(あるいは曖昧な)言葉なのではなかろうか。「引用」という言葉についても同様で、一般人が「引用」という場合、それは「法的な要件を満たした正当な引き写し」という厳密な法的意味(だからその場合、「違法な引用」というのは概念矛盾に等しい)に限定されず、「引き写し」一般のことを指しているのがほとんどであるように思われる。むしろ、そう解するのでなければ、「無断引用」という言葉を使っている人たちは正常な(論理的に整合した、有意味な)思考をしていないということになってしまう。上記リンク先記事も、おそらくは「無断引用」という表現を「出典を明記せずに引き写すこと」として読まれるべきものであり、そのような読みから出発すべきであって、言葉の使い方を咎めるところから出発するのは釈然としないものを感じる。

  ここで、釈然としないのは、上記発言者が「無断」及び「引用」という語の意味をあらかじめ特定の仕方で限定してしまっており、その理解(のみ)が正しいのだという考えを議論の前提にしてしまっていることにある。たしかに引用というのは法的な意味づけを伴う行為であり、そしてそれは法的に明確かつ一意に定義されている。しかし、この言葉が社会のさまざまなところで使用される時、本当にその特定の専門的な意味に従わねばならないのだろうか。「引用(引き写し)」という観念は現行の著作権法制が確立される以前からもおそらく存在した筈だし、その確立後も社会の中でさまざまな意味合いで用いられているが、にもかかわらずこの言葉の唯一正しい使い方が法または法律家集団の解釈によって支配されねばならないのだろうか? このような、言語使用に関する専門家優位の想定は、私には承服しがたい。たとえば、「理性」という語の使用は、あらゆる場面において、誰か特定の哲学者が定義したとおりに使わねばならないのだろうか?

  もちろん、公平かつ有意味な、そして相互の誤解が無いような仕方でコミュニケーションを成り立たせるために、その中心的な概念群については特定の厳密な意味で用いられる必要がある、という状況はしばしば存在する。たとえば、医薬品の名称については、致命的な取り違えが生じないように、医学薬学界の支配的な用語法から逸脱してはならないとすることに十分な理由があるだろう。「引用」についても、それが法的社会的に言語化され問題化される場面では、意味の取り違えによる誤解を防止するために、法律家を中心とした権威的な用語法を踏まえて表現されるのが望ましいとされることが多いだろう。しかし、それが絶対的なルールだとは私には思えない。少なくとも、一新聞社の内規程度の表現にまで一々噛み付く必要があるほどのものとは考えられない。むしろ、当事者たちが別様の意味で共通理解しているという可能性を無視してその用語法を批判する姿勢は、「意味の取り違え」そのものの事例であるようにすら映る。「引用」という語の意味を、実定法解釈上の「正確」な定義の下で使うのでなくとも、一般人――ここでは非法律家、非実務家――の大半は、「してよい"引用"」と「してはいけない"引用"」とを誤解などはしていないと思うし、そうした状況下で法律学的用語法の絶対的な「正しさ」を自明視して他人を批判するのは、不必要であり、そして行き過ぎであるように見受けられる。

  ある特定の集団の中で形成された共通了解(定義)が、彼等以外の人々に対しても幅広く――あるいは「普遍的に」――通用することを要求しうるためには十分な理由が無ければならないというのは、当然のことであろうが、そのような特定及び理由づけの過程がスキップされてしまう場面は、残念ながら、少なくない。そして、この問題は、先日述べたこと(上記2014/03/25)にも関連する。科学的な正しさ――特定の仕方で明確化された概念的定式化――が、理論内在的限界の次元とは別に、そのプラグマティックな使用の次元で、自らの正当性と強制性を主張することができる範囲乃至領分は、必ずしも自明ではない。