同作異演の可能性:アニメ版におけるキャスト変更をめぐって。
はじめに
1. 過剰なオリジナル絶対視
2. キャラクターの同一性との関係
3. 分野文化的特性をめぐって
おわりに
【 はじめに:同作異演の可能性 】
以前にも述べたことの部分的なくりかえしであり、そして名義に関するデリケートな話題に触れてしまうことになるが……。「ゲームのアニメ化」のような場合に、元作品のキャストがアニメ版に際してもある種の"同一性"を継承すべきことが縷々問題とされるが、私はその特有の文化現象乃至文化的価値観に対して常に違和感を持ち続けている。これは、複数の観点からアプローチすることができる。
【 1.過剰なオリジナル絶対視 】
一つには、アニメ版も元作品のキャストのまま(あるいはそれに準ずると言えるようなある特殊な形で対応するようなキャスト)でなければならないという主張は、その役を――当て書きの場合もありはするが――たまたま最初に演じた人物の演技のみが唯一正しく(最初の演者としての外形上手続上の権威的正統性があるというだけでなく、内容的実質的な意味での正当性乃至正確性があるのだとという意味で)、あるいはそれこそが永遠絶対に最高の解釈である(そして二番目以降の役者たちが演じるものはすべて、いわば偽物である)という主張を含意するが、それは「原作(オリジナル)尊重」という範疇を超えて、元作品のキャストをただ「それが元作品のキャストだったからだ」という事実のみによって絶対化してしまう、外面だけの硬直的な評価ではなかろうか。
他分野の実践を見れば判るように、戯曲作品の舞台上演であれ、小説の実写化であれ、クラシック音楽の同曲異演であれ、あるいは既存映像作品を別の監督と新たなキャストによってリメイクする場合であれ、完全な複製的再現を目指す復刻でないかぎり、ある所与の創作的素材を基にしつつそれとは媒体と時間と環境を異にして新たに試みられる新たな創作物乃至創作行為の価値は、けっして「元作品にどれだけ近似しているか」を基準として測られるものではない(――ただし、例えば外国文献の翻訳のように、創作性よりも忠実性乃至正確性が重視される局面はあり得る)。にもかかわらず、ゲーム作品のアニメ化の場合に限っては、元キャストの維持ということがユーザーの間で(あるいは時として、ゲーム制作者自身の声によってすら)まるで当然のことのように語られることがある。これはいったい何故だろうか、そしてその姿勢はいかにして正しくあるいはいかにして不当なのだろうか?
【 2.キャラクターの同一性との関係 】
第二に、表現物と表現者との間の関係に関する一般的問題として、ゲーム版とアニメ版との間でキャラクターの同一性(アイデンティティ)が期待されているのだとして、その同一性は声のみによって維持できるのかという問が提起されうる。キャラクターの同一性を確保するために、声優の(特殊な形でそう見做されたものとしての)同一性は、必要条件でもなければ十分条件でもないのではなかろうか? アニメ作品の中であるキャラクターがキャラクターとして造形され存立する際には、当然、声優だけがその過程に関わっているわけではない。台詞を構成する脚本家は変わっているし、そのキャラクターを視覚的に造形する責任者(作画監督)も原作の原画家とは別人であり、それらを動かすコンテもさらなる第三者であり、それら全体を指揮するディレクター/監督も別人であるが、しかし声優の変化が咎められるのと引き比べてそれらが不問に付されているのは、評価姿勢として均衡を失してはいないだろうか? もちろん、私はここで「原作ゲームの原画家がアニメ版の原画も描くべきだ」などと主張したいわけではない。むしろそれどころか、もしも仮に脚本家や原画家=作画監督が同一人物であった場合ですら、原作ゲームの制作から何年も経って作風も変化させてきた彼等がアニメ版の脚本や作画を手掛けたならば、それは自動的に正統かつ正当にそのキャラクターの唯一正しい姿を描いていることになると信じることははたして出来るのだろうかと問いたいのだ。そして、脚本家や作画担当者やディレクターあるいは中割の一枚一枚を作画するアニメーターたちについては同一性を要求しない人たちが、声優については無遠慮に同一性を自明視する時、その人たちは声優の活動については創造性や創作性を認めていないのではないかという疑念を抱かざるを得ない。何故なら、上記のようにキャストの同一性を主張する人たちは、前提として「声優が同一人物であれば、ありさえすれば、ただそうあるだけで、音声的表現の層においては自動的かつ絶対的に元作品のままの、元作品とまったく同一の成果が得られる筈だ」と信じているのだと考えざるを得ない(そうでなければ彼等の主張は意味を成さなくなる)からであり、そして前提として想定されるそのような評価は、声優の芝居とは常にまったく同じままの――すなわち創造性や解釈の変化といったダイナミズムをまったく伴わない――ものだと見做していることになるからだ。それは、マルチメディア創作物の中で声優が果たしている業績の評価方法として正しいと言えるだろうか?
【 3.分野文化的特性をめぐって 】
ただし、他分野の場合とは異なって、特にPCゲーム(なかんずく男性向け-アダルト-アドヴェンチャーゲーム)の領域においては、キャラクターの同一性を全体として非常に強く求める傾向があるというのは、確かだろう。例えば、一般的なフルプライスPCゲームは、20時間あるいはそれ以上の長さでプレイヤーをその作品世界に、そしてその作中キャラクターたちに付き合わせる。これは、地上波アニメで言えば一年分以上(20*60/23=52.17回分=4クール分)にも相当する規模であり、その長さ(すなわちその声を聴き続けた長さ)に応じてそのキャラクターのアイデンティティをその音声上のアイデンティティとより強く一体化させるだろう。また、AVGに対して――疑問の余地はあるものの――「感情移入」テーゼが縷々唱えられているとおり、PCゲームの参加体験はアニメ鑑賞体験と比べてより強くより深くそのキャラクターのアイデンティティに触れる(あるいはそうであるかのように感じさせる)ことを可能にする。これらの「強さ」は、そのプレイヤーが認識したそのキャラクターのアイデンティティが変更乃至改変に晒される時、反発の「強さ」へと転化するであろうという可能性は容易に想像できる。実際にも、アダルトPCゲーム原作のアニメ化は、おそらくは原作ゲームユーザーたちの上記のような主張を汲んで、00年代後半には新規キャスティング志向から原作尊重キャスティングへの舵を切ってきたが、それはPCゲーム側の、すなわちPCアダルトゲームの構造的文化的な特質に由来するところが大きく、必ずしもゲーマーたちが原作を絶対視する固陋な芸術観に立っていたからであるとは限らない。ただし、そのような分野文化的特性がPCゲームの側にあるとしても、そしてPCゲームのアニメ化作品の主要ターゲットはまさに原作ゲームプレイヤーであるという意味で彼等の要望を無視することが経済的見地から困難であったとしても、それは原作準拠のアニメ版キャスティングの芸術的価値を保障するものではないし、また、原作のキャスティングを無視した新規キャストによるアニメ版を無価値だと断じさせるためのなんらの理由も提供するものではない。
【 おわりに:ゲーマーの見る夢、アニメが持つべき自律性 】
このように考える時、原作キャストに対する原作ゲーマーや原作制作者たちの愛着は、単なる隣人としての善意としては尊重される価値があるかもしれないとしても、それは芸術的価値とは無関係の次元に存在する事実的要素の一つに過ぎず、そして、原作キャストとは異なるアニメ版キャストとその新たな創造性を無視したり貶めたりすることを許す理由にはならないと言わねばならない。もちろん、原作AVGの原画や脚本をそのままアニメ版に持ち込むのは事実上不可能だ――手塚治虫の時代ならいざ知らず、ここ二十年内外でそのような例が存在しただろうか?――としても、せめて原作のキャストだけでもできるかぎり原作のままの姿を保持したまま、ゲーム版の彼女たちが自由闊達に動き回る姿を目にしたいという希望は、私にも理解できるものだし、そして私の中にも時として生まれる夢だが、しかしアニメ制作者たちが目指すの原作の単なる模倣的再現ではないし、そしてアニメが目指すのはあくまでアニメとしての価値であり、そしてアニメが追求するアニメとしての価値があくまでアニメの領分の出来事である以上、ゲーマーたちはそれはそれとして尊重しなければならない。
事実的商業的次元の考慮とは別に、芸術内部で考慮される一つの基準として、「原典尊重」というアイデアは確かに存在し、例えばクラシック音楽におけるオリジナル再現や翻訳(現代語訳を含む)における他言語への置き換えといった場面でそれは妥当すべきものとして提起されることがある。しかしながら、「アニメ化に際しての(またはその他の別メディアへの移植に際しての)」、「登場人物を演じる音声キャストの同一性」という側面が、はたして原典尊重の妥当すべき事項であるか否かは必ずしも自明ではない。この問題について立ち入った検討をすることはできないが、私見では、アニメ版をゲーム版の動画的再現のための存在とのみ見做すこと(そしてそのためのキャスティングの原典尊重を要求すること)は、アニメ作品の芸術的価値及び創造性の射程を著しく狭めるがゆえに、採用されるべきではない。