お金を払ってこそ得られる経験の質とはいったい何だろうか?
あるいは、そもそもそのようなものはあるのだろうか?
(2013/10/05)
【 はじめに 】
「身銭を切って得た体験こそが自分の血肉になるのだ」という主張が時折提起されるが、それは本当だろうか。いや、そういう側面があり得ることは否定しないし、高い金を払って得る体験には一定の意義があるのは確かだが、それは上記の文言どおりの意味で本当なのだろうか? 半年後のディスクレンタルではなく封切り直後の映画館で。図書館で済ませるのではなく書店できちんと買って。ウェブ上で無料視聴するのではなくCDを購入して。あるいは違法DLではなく正規購入で。最後のものは法的正当性の問題が関わるため余計な考慮が入ってしまうが、その観点はひとまず脇に置いたうえで考えてみよう。
【 1. 映像作品のばあい 】
映画館と自宅での違いは、それぞれごく一般的な状況を想定するかぎり、そして最も即物的に捉えるならば、まず第一に再生環境の質的相違である。重要なのはクオリティであり、レンタル300円とチケット1500円の相違は、財布の痛む度合いや家計の圧迫の度合いではなく、そのクオリティ(の、基本的には上積み)に対しての投資だろう。また、その時間的な早さにも価値はある。ある作品をその「旬」の時期に経験することには意味があるし、映画館封切りの時点はその「旬」(の一つ)である蓋然性は十分に高い。さらに、映画館で視聴した後も、その経験は当然ながら自分の中に残り続ける。仮にDVD/BDの発売が半年後だったとして、その半年の間にその視聴経験を蓄積し反芻し活用することの意味は大きい。
【 2. 音楽作品のばあい 】
CD購入はどうか。この場合も、もちろん品質(音質)の違いはきわめて大きい。また、特定の一曲だけを聴くのではなく他の曲に触れる新たな機会を得ること、そしてそれらが一定の企図の下に順序立てられたその編集を通じて――つまり、ただ虚空に存在する作品単体としてはではなく、一定の文脈や関連づけによって方向づけられた多層的意味作用を伴いつつ――受容すること。物理的にパッケージングされたCDを手に入れて聴くことには、そのような意義もある。
【 3. 書籍のばあい 】
書籍をただ借りて済ませるか、それとも自費で購入するか。当然ながら、借りた本は一時的にしか手許に置いておけないし、書き込みも許されない。それに対して、自分のものとして購入した書籍は、好きなように書き込みをしたり持ち歩いたりすることができるし、一度読了した後もずっと書棚からその存在を主張して所有者と対面し続ける(――蔵書を持つことの意義、すなわち個々の具体的知識のための手掛かりとして物理的に視覚化され整理されたリストとしての書棚を常時持っておくことのメリット、そのようにして個々の著作の具体的形姿と向き合い続けることの効用は、多くの人が経験上分かっている筈だ。ただし、その一方で「死蔵」という恐ろしい言葉があることも、意識されてしかるべきだが)。また、読み返したいと思った時は(きちんと配架されておりかつ自室にいさえすれば)瞬時かつ確実に手に取ることができるし、そしてそれはまさに自分が読んだ一冊であって、そこには――書き込みをしていなくても、その重みから表紙の微細な傷から開き方の癖に至るまで――自分の経験と記憶の痕跡が無数に残っている筈だ。「お金を払って購入したこと」をわざわざ神秘化するのでなくても、書籍を購入し所有することには、「書き込みできる」「いつでも再読できる」「その本のことを常時意識させられる」「自分にとってよりいっそう身近なものになる」といったいくつもの大きなメリットがある。もちろん他人に貸して読ませることもできる。また、これらのことからして、買った本を(古書店などに売って)処分することがおすすめできないという結論も導かれるだろう。
【 4. デジタルゲーム作品のばあい 】
デジタル媒体たるPCゲームの場合は、少々状況が難しい。PCゲーム業界もながらく――そしてインターネット利用の社会的普及の比較的早い段階から――不正プレイヤーに悩まされてきているが、それは、例えば「経済的基盤も弱くそしてモラルが相対的に低いと不当に見做されがちな若年層がネット利用の多数を占めていたから」といったような事情だけでなく、違法コンテンツと正規購入コンテンツとの間で内容的質的な相違が基本的には存在しないという点もおそらく関わっていただろう。つまりここでは対価の支払とクオリティの向上との間には関係が無い(――もちろんここには無数の細かな考慮が関わってくるので一概に言えるものではないが。違法行為のリスク、購入特典、入手容易性、等々)。ならば正規購入者はその支出によって何を購っているかということをあえて問い直すなら、例えば以下のような側面が挙げられるだろう。すなわち:法的正当性(――まっとうな市民にとって、犯罪行為はそもそも選択肢ではない。そもそも比較の俎上に上げるべきものではないのだ)。経済的寄与(――好きなものに金を出していれば、それだけ、自分の好みのものが再生産される見込みが高まる。市場規模が小さければ小さいほど、個々人のその影響力は大きくなる)。入手確実性(――基本的には、予約すれば確実に、完全かつ安全なコンテンツが入手できる)。財産としての確保(――DL販売でない場合だが。ディスクメディアとして確保される)。付随的利益(――特典やDLコンテンツなど)。等々。
【 金銭的支払の意義をめぐって(1)――消極的説明 】
個別分野で簡単な検討をすることをつうじて再確認された私の結論は、以下のように要約できるだろう。すなわち:芸術的/学問的作品に接する経験を意義あるものにするうえで、対価としての金銭的支払は、その支払行為自体に価値があるというよりも、あるいはそれだけではなく、クオリティや時期的適切性や処分権獲得といった、もっと具体的で実際的な効用(見返り)が存在するのであって、金銭的支出それ自体を持ち上げる必要は無い、と。
そもそも、様々な情報が無数に提供されるこの時代にあって、買ったものがすぐに消費される(消費できる)とは限らない。そこにはしばしば大きな時間的懸隔が生じ、そしてそれゆえ、商品購入行為と作品受容行為とは必ずしも直結されはしない。「身銭を切って得た体験こそが自分の血肉になる」という主張は、まずそうした経験的次元で著しく説得力を欠いている。「身銭を切って得た体験こそが自分の血肉になる」という主張する者は、経済的行為や作品受容行為について(またはそれらの間の関係について)なにか誤解をしているか、あるいは別のことを主張したいのに的外れな表現をとってしまっているか、いずれかの誤りを犯しているのではなかろうか。
くりかえすが、体験を意義あらしめるのは、過去の金銭的支出の事実などではない。作品への集中こそが、それをもたらす(あるいは、自らの体験として形成する)のだ。もしも、金銭的支出のある体験のみが価値ある体験なのだというなら、「無料」で得られる体験のすべては――友人との会話であれ、知人から借りた本やCDであれ、web上での経験であれ――無意味で無価値で空疎な偽りの体験だということになってしまうが、まさかそのような主張を肯定する者はいないだろう。最初に言及した主張は「金を払う行為に芸術的価値がある」あるいは「金を払ったからその作品享受には価値がある(価値を増す)」といったような主張を自動的に含意するが、そのようなオカルト的発想に自分の価値観を委ねる必要など無い。
【 金銭的支払の意義をめぐって(2)――積極的側面 】
しかし、それでは、支出それ自体にまったく意味は無いのだろうか。それはただ単に経験の内容的価値を高め、あるいは経験機会を確保するための手段の問題に過ぎないのか。「そうだ」と述べてしまってもいいが、少しだけ補足しておこう。
たいていの人にとって、自分がしたい活動のために用意できる可処分所得は、その全てを実行できるほど十分なものではないだろう。それゆえ、有限の財をどこに投入するかを選択し決断する必要がある。その判断を下すための熟考の時間とその決定を下す決断の経験は、当人のセンスを磨くうえで意味のあるものだ。ひとは、限られた資金の中でいずれかを選択しなければならないという時、通常、「《より良い》ものを買いたい」と考えて行動するだろうし、そしてその際に、「どれが《より良い》ものであるか」を真剣に考えるだろう。どれを買うかの判断、あるいはそれを買うか否かの判断は、その都度自分自身のセンスを賭けてなされる行為だ。芸術作品の「目利き」が骨董品を買い漁り、そのために借財をしたり時には大損をしたりする中でセンスを磨くといったような先鋭化した状況までは行かずとも、そうでなくともごく普通のオタクやただの読者家や平凡な好事家の場合でも、何を買うかを選び取る際には常に自分自身の感性や価値観に照らして、そして同時に自分自身の感性と価値観を試しつつ、《より良い》ものを目指して、つまり自らの美的判断力を活性化させつつ、行動している(――もちろん、経済的制約が緩い者、要するに裕福な者には、そのような真剣な選択と決断の機会が無いからセンスを研ぎ澄ませることができないというようなことはないが)。このような意味で、身銭を切ることには、意識レベルで一定の効用はあるだろう。
ただし、ある物にお金を払ったことの単なる満足感の度合いを、その対象物に接することで得られた体験そのものの意義の度合いと混同すべきではない。また、芸術的経験や専門的知識の価値を、経済道徳への合致の度合いによって(そのような人格的乃至道徳的要素を混入して)測定しようとするのは、まったくお門違いであるか、あるいは少なくとも迂遠すぎて測定基準としては役立たずであろう。
そしてもう一つ、先にも述べたように、ユーザーの支出は制作者に還元されるという側面がある。そのような経済的寄与は、制作者が活動を継続することを助け、またそのユーザー自身にとって望ましいものが市場で力をつけることに役立つ。そうしたことがあまり当てはまらない分野もあるが、大量消費される商業作品のほとんどは、市場の枠組と無関係ではあり得ず、そしてそれゆえ対価の支払はその作品を好ましく思う作り手と受け手の双方にとって状況を良くすることにつながる。「資本主義社会だからこそ、金を惜しむべきだ」ではない。「資本主義社会だからこそ、金を払う者の意見は重視される」のだ。
(2015/07/14)
わりと知的な人でも、たまに精神論的自腹主義を唱えているのを見かけるが、その立場はやはり私には受け入れがたい。これについては以前も書いた(上記)が、もう少し別の角度から考え直してみよう。
検討の対象とする主張は、「自分の懐から金を出して、買うかどうかを決めるからこそ、選別の目が養われるし、買ったものに対して本気で取り組めるようになる」というものだ。つまり、事前的にも教育的効果があり、事後的にも効用を増すことになる筈だという主張だとして検討しよう。
1)「身銭を切ることで、ものを見る目が養われる」か?
そもそも、購入前にアクセスできる事前情報は、往々にして限定的なものだ。CDやシュリンク書籍のように、内容を一切確認できないという場合も多いし、そうした場合には「見る目が養われる」というのはオカルトめいた直感崇拝にしかならないだろう。そのような不確かな状況におけるあやふやな決断を、安易に持ち上げるべきではない。それよりも、実際に中身としっかり向き合うことの方がはるかに大事だ。
非シュリンクで書籍が店頭に並べられているように、全体を事前確認できる場合は、「これを買うべきかどうか」を真剣に考えることによって、「ものを見る目」が研ぎ澄まされるようになるという側面は、それなりにはあるかもしれない。ただししかし、悩むべきはその段階だろうか? 時間を掛けるべきは、その段階だろうか? 頭と時間を使うべきは、内容そのものだろう。書店でパラパラと立ち読みして購入判断のためにチェックするくらいならば、さっさと買うなり図書館で借りるなりして自宅でゆっくり読み、そしてその内容と格闘すべきだろう。少なくとも私は、そういう優先順位、そういう価値観を持っている。
皮肉な言い方をすると、「これを買うべきかどうか」を真剣に考えることによって養われるのは、その分野の「ものを見る目」ではなく、経済感覚(というか、節約するスキル)だけではないかとも思っている。
もう一つ、自腹主義が陥っている陥穽がある。無料(or安価)で入手することを否定している、あるいは否定しているように見えるという点だ。自腹で買えない場合に、ただ指をくわえて我慢していても何も知識は増えない。図書館などで(つまり無料で)調達して、さっさと読むべきだ。「購入検討する時間+買わずに我慢する禁欲訓練」の効用が、「実際に対象と向き合って様々なものを得ること」の効用を上回ることは、――よほど無内容なものでないかぎり――まずあり得ない。我慢せず、量をこなすことだ。真の見識は、店頭で財布と相談することから得られるものではなく、実際に大量に読みこなすことから得られるものだ。貧困への自縛を肯定すべきではない。
過去の文章(上記2013/10/5執筆部分)では、自身の美的センスを賭ける意識的行為としての意味もあるという旨、「補足」した。しかしそれはあくまで「補足」にすぎないし、現在の私はその効用をきわめて小さいものと見積もるようになっている。
2)「自腹で買ったものの方が、真剣に取り組めるようになる」か?
一言でいえば、そんなことは無いし、そんな取り組み方は評価に値しない。
「これだけお金を払ったのだから、その分『元』を取らなければ」という意識がモティベーションになる人は、おそらく非常に稀だ。むしろ、お金を払って買えたことに満足して、そのまま倉庫や棚に眠らせてしまうというのが、(残念ながら)人間の常だろう。自腹購入が体験の真剣さを保障することは、おそらくほとんど無い。
たしかに、「無料で手にしたものは、ちゃんと読まずにいい加減にしてしまう」という人はそれなりにいるかもしれない。しかしそれは、当人の怠惰それ自体の問題だ。借りたのであれ買ったのであれ、ひとたび自分が手にしたものに真剣に取り組めないというのは、本人の愚かさ、あるいは不誠実さこそが問題なのだ。それは自腹購入との比較で善し悪しを論じるべき筋合いの問題ではないし、自腹購入によって症状の改善を試みるのは治療法としてもきわめて非効率だろう。
また、「元を取る」ということを考えながら対象に取り組むのは、摂取過程を非効率なものにするように思われる。「余計なことを考えて、集中をみずから乱している」という意味でもあるし、また、とりわけ趣味領域の場合にも、「元を取るなどという意識に邪魔されずに、ひたすら対象を楽しみたい」。私だったら、こう思う。
さらに、「元を取る」という意識は、サンクコストへの執着を引き起こす虞がある。手にした本を実際に読んでみたらひどい内容だったという場合、最善の対応は「すぐに諦めて、次の有益なことをする」ことだ。しかし、人の感情として、高額な支出をしたものには執着してしまう傾向がある。つまり、つまらないと判った後でも「もったいないから」と読み進めてしまう可能性があるが、それは完全に間違った行為(得にならない行為)なのだ。対象分野に関して(いまだ)見る目が無い人であればあるほど、つまり、ひどい内容のものを買ってしまう確率が高い人ほど、この自腹主義の陥穽にはまる危険が高い(――他方で、見る目が十分に養われている人については、こちらはこちらで、その見識を磨くうえで自腹主義などに頼る必要は無い)。
自腹購入することで、多少の覚悟は得られるかもしれない。しかし、私見ではそれはきわめて瑣末だし、その一方で弊害もある。自腹購入を肯定する場合でも、その論拠は、精神論的部分ではなく、先に述べた(2013/10/5執筆部分)ような、実質的効用の次元で考えるべきだろう。すなわち、自分の所有物として書き込みできるとか、あるいはハイクオリティのものをより早く体験できるといったような効用こそが、その主要な意義だというべきだろう。