2013年9月の雑記。(→2013年10月/2013年8月)
09/30(Mon)
『エスカレイヤー』はキャスト非公開だったので、自分の耳では判断しきれなかった当時の私は感謝すべき名宛人を探して何度も何度もweb検索をしていたものでした。主演が鷹月氏だろうというのは大方の一致した意見だったが、FM77については曖昧な推測のコメントくらいしか無かったし、マドカはAYA氏だという主張も結局私には真偽のほどは分からずじまいだった。
そういえば、(2001年当時の)非加熱製剤ネタは今だったらどうするのだろうか。
「シュバリエ」(="騎士")という単語を目にする度に、映画『バリー・リンドン』ナレーションの「シュバ~リエ・ド・バリバリぃ~」という声が脳裏をよぎるようになりました。……ってこの原画、織澤あきふみ氏なのか!? 見ただけでは気付かなかった……。
新記事:「同作異演の可能性」。
『エスカレイヤー』リメイクだって、声優を変えたっていいじゃない、という思いから。
以前の雑記でもどこかで言及していた筈だが、自分が書いた文章の筈なのに、どこにあったか見つけられない……。部分的には2012/08/10、2013/01/17、2013/05/22の記述があった。
特に二次創作同人に関して、その時々の流行についていく人のことを悪し様に罵る人たちがいるようだが、それのどこが悪いというんだろう?
1)一つの作品に長く深く忠実を尽くすのは、それはそれで美しいことだとは思うし、特に「二次創作同人」(≒ファン活動)の世界ではそれが望ましいという文化的価値が幅広く浸透していることは認める。しかし、その忠実は、個人の創作の創造性にとって必要なものだろうか? 原作なんて、キャラクターなんて、単なる道具あるいは単なるきっかけであったって構わないじゃないか。
2)その都度の流行に、最先端のセンスに、自身の感性を浸していくこと、そしてその中で創作行為を通じて自身の感性を試していくことは、それはそれでオタクとしての一つの正しいあり方だろう。視聴して熟考したうえで言葉で評価を下すといったような観想的な取り組み方ばかりが作品受容ではない。手を動かせる人の場合は、まず作品を見たら実際に自分の手でそのキャラをその世界を描いてみて、その実践を通じて対象作品の強度や魅力を測り確かめていくということもあるのだ。そして、
3)そのように自身のセンスを試す行為としての二次創作公表行為は、もちろん対外的なものでもあるが、対内的な(自分自身のための)行為でもある。おそらく批判者たちが想定するであろう、「ただ売るためだけ、ただ儲けるためだけの目的で機械的にその都度の流行に沿った元ネタの二次創作同人を描く」などという、そんなつまらないことを継続する人が、はたしてそんなにいるだろうか? "道徳的"な批判者たちは、創作行為の意義と楽しさをあまりにも低く見積もりすぎているのではなかろうか。
ここに独り言として書くしかないのだけど……以前からtwなどでのご発言を敬服しながら拝見している方が、ここ最近、本当につまらない言葉の取り違えや非常にチープな術語誤用――以前のその方だったらけっしてしなかったであろうような――をされるようになったり、あるいは以前のその方だったら鼻で笑って無視したであろうような陳腐なゴシップや下品な話題などに対してわりとストレートに反応されるようになっていて、ひそかに心配している。いや、どうしようもないんだけど。
09/29(Sun)
個人的には、アニメーションの使い方が好きなOPムービーは一番が『聖剣のフェアリース』で、その次に『ジブリール4』。動きの楽しさでは『恋神』も良い。
つい勢いで書いてしまった:新記事「あるキャラクター類型について」。
【 眼鏡の自由 】
ヒロインたちに付与されるヘアスタイルや口調といった特徴が、一つのキャラクターの固有性を表して他のものから識別させるための記号的表現であるのと同じ仕方で、眼鏡もまたそのキャラクターを表示する外形的符牒であることがあり得る(そして実際にしばしばそのように使用されている)のは確かだが、そのような地位はけっして絶対的必然的なものではない。物語の成り行きの中でヘアスタイルや口調が変化することがあり得るのと同様に、眼鏡もまた、「眼鏡キャラ」のアイデンティティを保持するためにあらゆる場面で着用していなければならないというようなものではなく、場面毎に着脱されてもよい。眼鏡はキャラクター個性そのものに属する記号的特徴であることもできるが、もっとカジュアルに小道具の一つとして物語の中で使用することもできる。例えばRPG作品の中で眼鏡を装備させたり装備解除させたりすることができるように、あるいは例えば本格SLG作品の中で「読書」コマンドを実行させた時に(その時だけは)キャラクターが一枚絵で眼鏡着用するように、場面に応じた着脱変化は、小道具としての眼鏡の使用をよりいっそう自由なものにし、キャラクター個性との関係で眼鏡キャラを導入するための敷居を引き下げ、そしてその多様性と場面即応性は眼鏡と眼鏡キャラの魅力を増すことになるだろう。この見地でいえば、眼鏡を外すキャラクターや眼鏡を着脱できるコンフィグも、けっして嫌うべきではない。
……ということを、公開されたでぼ新作の香澄ヴォイスキャラを見ながら再確認した。眼鏡の着脱が物語の主線に深く関わる『ToHeart2』や、一部のCG(SLGパートの勉強シーンなど)でヒロインが眼鏡を掛ける『Wizard's Climber』のような眼鏡表現のあり方は、妥協や撤退戦などではなく、眼鏡表現の可能性を広げるものとして称揚されるべきだと考えている。
09/28(Sat)
[ fudegaki.jp/saimin3/graphics/evcg/18a.jpg ]※左記urlはアダルトゲーム画像につき注意。
「『よっ、ゆみこ屋!』」(※『夢幻廻廊2』ネタ)
何がきっかけで書いたのだったか、自分でも忘れてしまった:新記事「PCゲーム画面の錯覚」
発売日当日にきちんと買うオタクのみなさんは真面目な方ばかりだなあと感心しつつも、私は列に並ぶのが好きではないので当日を避けて買いに行くようになりました。金曜日の退勤後に行くと関西のショップでもたいてい十数人(あるいはもっと多く)のアダルトゲーマーたちがレジ前にずらっと並んでいて閉店まで途切れることが無かったりするのだけど、翌日(土曜)に行けばかなり空いていてスムーズに購入することができる(――他の地域、要するに関東では、土日も混雑するらしいが)。ただしその分、休日なので交通機関が平日とは異なる混み方だったり休日ダイヤだったりするし、店頭に来ても新作が(予約していなかった場合に)すでに品切れになってしまっている可能性も高まるし、そしてもちろんスケジュール全体の問題もあって、紙袋を持ったまま歩き回るわけにはいかないので行動が制限されてしまうし、土曜日にあらかじめ別の予定が入っている場合――実際、月末土曜は研究会などの公的用事が入りやすい――には金曜か日曜に買いに行くしかなくなるが。
「おまちゃん」……それはTV番組じゃなくて声優だ(――ただし、これでggl検索しても、あちらのドラマの方が検索トップになるが。しかし、関連検索に「おまちゃん あらすじ」というのが出るのは、間違って憶えている人が多いからだろうか。)
こんなことを書いていたらちょうどSTP#371で同じネタが……。
昔聴いていたWEBラジオのデータが、ファイル破損かcodec等の不具合か何かで、再生音声がとびとびになってしまっていた。がっくり。残念ながら、動画(ゲームのOPムービー)でも似たようなことはたまに発生している。こういう事態に遭遇する度に、ゲームは早くプレイしなければと思う。これが書籍であれば、社会的な意味で「鮮度が落ちる」ことはあれども、メディア側の物理的環境的要因によって読めなくなるということは基本的に生じない(――ただし、水濡れなどによる物理的破損の可能性が無いわけではないし、特にコピー紙などでは経年によって読みにくくなったり貼りついてしまったりすることはあるが)。
09/25(Wed)
蔵書のデフラグ――たしかに蔵書整理というよりもただのデフラグだなあ――はかなり進捗した。特に漫画で、ダブり買いをいくつも発見したり途中の巻がどうしても見つからなかったりして、何度か落ち込んだが。そして「ああそうそう、これも買わねば」という候補がまた大量に追加されるのも、よくあること。
最近は、ドラマCDも良いものだと思えるようになってきた。というか、以前はほとんど聴いていなかったというだけだが。ディスクを掘り起こしてみたら中身をチェックするし、チェックしてみたらキャストがああだったりこうだったりするし、キャストがそうであれば聴かずにはいられないし、そして聴いてみればもちろん幸せになれるわけだから。声を聴くという観点であれば一人の声優による独演ものも良いものだが、しかし、せっかくゲームとは異なる時間感覚に基づく芝居なのだから、多人数によるにぎやかで幅広いドラマ空間になっているものも聴き甲斐がある。
ドラマCDでは、出演者たちが一堂に会しての同時収録と思われるものもあり、また、一人ずつの個別収録を後から編集で合わせた可能性が高いと思われる体裁のものもある。単独リリースされるようなドラマCDの場合は集合収録が通例となっているようだし、webラジオの中での(なおかつその回のラジオ出演者たちのみで構成されている)ミニドラマであればまず間違いなく同時収録であろうと考えられるが、初回特典や店舗特典でのドラマCDの場合は、別録り編集とおぼしきものもたまにある。単独収録に慣れているPCゲーム声優諸氏にとっては後者の形態だからといって不利になるということは無いだろうが、しかし他方で「普段が個別収録ばかりだからこそ、ドラマCD収録はその場での呼吸を合わせつつ多人数で演じることのできるという点で、たいへん貴重で楽しい機会になる」という側面もあるらしい(――こうした証言は、声優インタヴューなどで実際に見かける)。
また『桜吹雪』や『とっぱら』についていろいろ書いてみたいが、どこから話したものか。どちらも本当に楽しい作品だったし、そのことをなんとか言葉にして書き残しておきたいのだが。
佐本氏は、これで丸一年、新作が無いんだなあ……。いや、PS3/Vita版『るいは~』があったか。せめてもの慰めとして買っておこうか……。
[ www.rosebleu.jp/blog/wp-content/uploads/2013/09/R1_014.jpg ]
一行45文字って……Rosebleuは本当にセンスが無いな! この数字はPCゲーム史上最多(すなわち最悪)である可能性がある。同じくテキスト表示幅への配慮が欠如しているminoriやnitro+(どちらも35文字)と比べてもさらに多いとは……(cf. 2012/03/31付日記)。画面下部のゴテッとして過剰に目を引く巨大なアイコン群も、非常に見苦しい。ここではできるだけ個別ゲームタイトルの悪口は書かないつもりでいるが、さすがにこれは……。
よく見ると上の画像の左側の立ち絵、首と頭のつながりがおかしくてろくろ首化しかけている……首がもげそうで怖い。
09/24(Tue)
ここでの名前も、それからアイコンも、まだきちんと決めてはいなかった。このブログはコメント機能を閉じてあり、誰かから呼びかけられることも無いので、このまま「(仮)」付きのままでも構わないのだし、命名によって今更自分自身のアイデンティティが変化するということも無いのだが。しかし、アイコン画像は何か一つ作っておきたい。とりあえずこのblggrデフォルトの味気ないオレンジ色の「B」画像に差し替えてファビコンに使うためだけでも。デザインの目標は例によって、できるだけシンプルであること(縮小表示にも耐えられるように)、そして他のものとカブらないようなデザインであること(容易かつ明確に識別できるように)。以前のあのアイコンは、この二つの要求を完全に満たしており本当に愛着があったのだけど……それを捨てるというのはそれだけ大きなことだったのだし、そして大きな価値のあるものだからこそ放棄する行為が(少なくとも私自身の納得のために)意味を持つことになったのだった。さしあたり想定する最低限の目標は、「四色以下のフラットな塗り分けであること(できればweb216カラーであると良いが、そこまではあまり過度には拘らない)、そして水平と垂直の直線のみで構成されること(縮小表示のためにも)」。
実はこのブログは、前のと同じアカウントで作成している。それゆえ、ここで投稿者欄を表示させようとするとおそらく以前の名前がそのままこちらに出て来てしまう。かといって、アカウントレベルでユーザー名を変えてしまうと今度はそれにつられて向こうのブログで投稿者欄の名前も変わってしまう虞が……。このブログで投稿者欄やラベルなどの付帯情報欄を全て非表示にしてあるのは、そのせいでもある。
↓
いろいろ考えた結果、襲の色目から「撫子」を選んでみた(――画像は、画像素材を使用自由とされているウェブサイト「有職装束【綺陽装束研究所】」から拝借して、サイズやファイル形式を少しだけ変更しました)。「撫子」の襲にしたのは、このブログの基調色である緑色を使っていることと、二つの色のコントラストがはっきりしていることもあるが、最大の理由はもちろん七草の一つだから。もっとも、ナデシコは秋の七草であって、残念ながらゴギョウやナズナの含まれる春の七草ではないが。
とりあえずファビコンに設定してみる。きれい!
firefoxのブックマークに登録し直したのに、ブックマークリスト上では新ファビコンが反映されず、「B」マークのままになっている。小さなことだが、やはり残念だ(――ちなみに、IEで試してみたら、「お気に入り」にはきちんと反映されたがタブ上では「B」マークのままという、firefoxとは逆の状態になった)。どうしたものか。キャッシュを消したうえで再登録するというだけではいけないのかもしれない。日を置いてあらためて試してみよう。
余談ながら、このサイトの背景カラー(濃い緑=常磐色)とリンクカラーの茶色(檜皮色?)の取り合わせに比較的近いのは「蝉の羽」「竜胆」の襲色目。また背景カラーと選択済みカラーの水色(縹色)だと、牽強付会的に言えば「海松色」(「みる色」、ではない)にやや近い。背景カラーとサイトタイトルのフォントカラー(紺色)はどちらも暗い色なので近い取り合わせは無いが、緑-青の組み合わせだけを見てあえて言うなら「杜若」「桜萌木」「虫青」だろうか。竜胆とか常磐とか木賊とか言っているとどうしてもゆずソフトの『天神乱漫』のことが思い出されてしまうが。
ゆずとどみるは似たような位置づけのブランドとして比較されることも間々あるようだが、個人的には両者は比べものにならないと思っている。美術面の洗練と個性においても、技術面での挑戦と達成においても、ゆずの通俗性では風車の足下にも及ばない。後者には独自の「趣味(taste)」がはっきりと現れているが、前者にはそのような「趣味」の次元が感じられず、ひたすら下品だ。
多数のゲーマーに注目されるようなタイトルは、キャラクターデザインの細部にまで趣向を懲らしそして新機軸の挑戦も行っているものであり、言い換えれば、マンネリに安住するばかりではなく現在の趣味の最先端へのアップデートを怠らず新機軸への野心的挑戦を行っている(あるいはそれらを十分に期待させる)からこそゲーマーたちは――けっしてただ単に受動的に広告に踊らされるだけでなくして――その輝きに注目するものなのだなあ、ということをあらためて確信しながら書いた:新記事「イヤリング/ピアスをするキャラクターたち」。もちろん、いわゆる「人気タイトル」だけでなくあらゆる作品の制作者たちが不断に趣味のキャッチアップと挑戦を試みているということを疑うものではないが。
その他、月間雑記欄に書いてあったいくつかの文章を単独記事化(つまり新規独立のページに)した。いきなり単独記事として仰々しく書き出すのではなく、まずは雑記欄で試し書きをしてから適宜加筆し、毎月末くらいに適当に取捨選択してた切り出しを行っていくというのが、おそらく私の性格に合ったやり方だと思われる。これまでの習慣からして、単独記事として書き出すと、心情的に「ちゃんとした論説を書かねば」という雰囲気になってしまい、緊張してかえって筆の伸びが悪くなってしまう危険がある。もっとお気楽にいきたい。
【 木村氏の非-人間キャラクター 】
最近、「あやかる(肖る)」と書くと胸が高鳴る。『あやかしびと』というタイトルもなんだか怖い。記憶のかぎりでは、木村氏がゾンビキャラや人工生命体キャラを演じられたことは……triangle作品のオートマータ(?)キャラクター「リリクス」があった。『朝凪のアクアノーツ』のヒロインも、人魚の肉を口にして身体が不死化したキャラクターだった。『天巫女姫』でも、「比良坂菊里」という危険な名前のキャラクターを演じられたことがあったが……。『神咒』の登場人物も、設定上はいろいろとあれでこれがそれなのだとか聞き及ぶが、詳しいことは知らない。『アザナエル』も未プレイだが、この「ノーコ」はちゃんと血の通った人間なのだろうか? ゾンビとはやや異なるが、吸血鬼キャラクターとしては『MinDeaD BlooD』がある。基本的には吸血鬼らしくサディスティックな性格なのだが、それだけではない複雑さがあって、非常に興味深いキャラクターだったと記憶している。
これを機会にと、いくつかサンプルヴォイス等を聴いて回ってきたが、人間味を完全に殺しきった演技や、人間的な時間感覚をきれいに払拭してしまった芝居も、本当に真に迫ったものになっている。役者ってこわい。木村あやかこわい。こわい。そしてさらに怖いのは、そのような役を演じる声優が同時に、甘露の粋のような可憐で愛らしい芝居を披露されるという事実だが。
【 桐谷氏のこと 】
ここ最近では桐谷氏が非常な人気と好評を博しているらしいのだけど、出演作に出会ったことがまだほとんど無い――あってもサブキャラ出演ばかり――ので、ずいぶんもどかしい思いをしている。主演の『ご機嫌ナナメ』を開封すべきか、それとも今週末のSEVEN WONDER新作を早めにプレイすべきか……。
『まじの~』の「和」役などで拝聴したかぎりでは、アーティスティックで表現技巧をふんだんに凝らした表情豊かな芝居とお見受けする。表現の大胆さと突き詰めぶり、そしてそれらを完璧にコントロールしながらキャラクターの個性をクリアに造形してみせる完成度という点では、いわば一色氏に近いスタイル――つまり、最高水準――だと言ってよいかもしれない。たしかに、「ああ、これだけの表現力の水準と密度と明瞭さをどの作品でも発揮していれば、誰だって圧倒され惹きつけられるに決まっている」と思えるものだった。
「同人以外のいわゆるインディーズ」というのもずいぶん妙な表現だが、このような言い回しがさらりと流通している事実は、日本のとりすましたゲーム関係者たちが同人ゲームを隠微に差別してきたことの反映であるようにも思える。用語法としては、非企業系のゲーム開発者(個人であれ集団であれ)によるもの全体が「インディーズゲーム」であり、その中でも「1)即売会や特定のオンライン販売サービスなど、特定の流通形態に乗っており」、「2)原則として無償頒布ではなく」、「3)ファン活動乃至二次創作としてのゲームも含む」ようなものを「同人ゲーム」と呼んでいる――つまり「同人」は「インディーズ」の下位概念であるか、あるいは広義の「インディーズ」の中で「同人ゲーム」を除外した残余として狭義の「インディーズ」概念がある――ように思われる。しかし、そうした文化的特殊性の下にある「同人」を殊更に区別しようとする振舞には、いささかいかがわしさを覚えないではない。ちょうど、一部のゲーム関係者たちがPCアダルトゲーム制作者/会社を無視したがるのと同じように。
まことに遺憾ながら、「関羽」の時と同じように、いまやもはや「バステト」のggl画像検索結果はことほどさようにご覧のごとく……。もっとも、カタカナでこの語を検索するのはたいていが日本人のオタクの筈で、諸外国であれば自国語またはせいぜい英語"Bastet"で検索するだろう(そしてその場合には、件の宙に浮いている褐色肌のケモ少女イラストはほぼ皆無になる)から、実害はほとんど無いようなものではあるけれど。
確認のために「関羽」で画像検索してみたら、あれ……髭面率がずいぶん上がってる……。以前は塩崎漫画のミニセーラー服関羽と『恋姫†無双』の愛紗関羽が半々だったのに、今検索してみたら、どういう事情か愛紗関羽のイラストが検索結果からほぼ消滅しており、その影響でまとも(笑)な関羽の画像が検索上位に現れるようになっている。おそらくgglが、例によって例のとおりの余計なお節介でサーチ基準に影響を与えるようなシステマティックな変更を行ったのだろうね。
09/23(Mon)
『歩理のヤまないおねだり』。先月発売だが買っていなかった(不覚にも、気付いていなかった)。これ、もしかしてヒロインが全てのシーンでヘッドフォンを装着したままなのだろうか。見た目がかなり奇抜なものになっているので、実際にプレイしてみたくなった。
それにしても、脚本家の坂元氏は、相変わらずとんでもない発売ペースだ。低価格タイトル中心とはいえ、ほぼ月一本のペースで、2012年7月には「一月に3本の新作タイトルに名を連ねる」という記録的な(もしかしたら本当に最高記録かもしれない)ことまでやっている。『トマランナーズ』(サブ)とかも面白かった憶えがある。
『獣ノ躾』も『淫刻の虜姫』も、sealのSLGか……怖い物見たさで買ってみるかも。
まき氏は、声優としてはもちろんラジオパーソナリティとしてもイベントコーディネーターとしても人間的求心力においても非常に優れた資質の持ち主だと思う(※後の二点は間接的な推測でしかないが)のだけれど、ギャグセンスがあれなところだけが……。たとえば『ピリらじ』かどこかで「丸刈りなの。マルゲリータなの」とか仰っていたような、そういう感じ。いや、そういえば、galgeラジオかどこかでも、危なっかしい包丁捌きで周囲を恐れ戦かせていたか。
要するに「Escu:deとでぼを忘れるな」という話?:新記事「SLG系ブランドそれぞれのイメージ」
以前に探していた小ネタのあるタイトルが見つかった。『規制不可』(ALL-TiME、2011)の「真理科学統一学会」だ。うーむ、実にひどい。
今日が祝日だということをすっかり失念していた。うぐぅ。
09/22(Sun)
galgeラジオ第62回を聴いて唖然としているところ。涼宮さん、気弱病弱キャラなのかよ!w
(番組内で紹介されている出演作のキャラクターに合わせているのは分かるのだけど……)
galgeラジオのことを今でも話題にしている人はどのくらいいるのだろうかと思い立ってtw内検索してみたら、月1回くらいは誰かが言及している様子だった。消費しきれないほど大量の娯楽に溢れている時代にあって、もう何年も前のコンテンツであっても、忘れずにいる方は多いんだなあ。
松永氏の穏やかでなだらかな喋りを聴いていると、おもわず涙が出そうに……。
今はもちろん一昔前だって、自身の筆一本の力だけで絶大な集客力を持つPCゲーム脚本家なんていうのはほとんどいなかったと思うのだけど。売上げへの寄与という不明瞭かつ一面的な視点をとることの妥当性はともかくとして、少なくともその観点に絞って見る限りでは、「シナリオライターの時代(があった)」なんていうのは非常に嘘臭く聞こえる。例えば『腐り姫』も『CANNONBALL』も『Forest』もリリースした後での『SEVEN-BRIDGE』は何本売れたか、あるいは『リアライズ』はどれだけ売れ(なかっ)たか、『続・ジャンゴ』はどうだったか、『CLANNAD』のセールスをブランドイメージ全体やVA本体の強力なバックアップやあの当時の――主題歌をアメリカへ収録に行ったとかなんとか喧しかったよね――宣伝を抜きにして説明できるかどうか。もちろん、優れた実績を挙げた脚本家がその次の新作のセールスに対して千本単位で好影響を与えることはあっただろうし、四桁の影響は(当時も現在でも)十分に大きい数字だろうし、そしてそれは脚本主導/脚本優位のタイトルにかぎらず学園恋愛系でも黒箱系でも生じていることだろう(例えば宮蔵氏、籐太氏、神無月氏、丸谷氏、さいろー氏、秋華氏、とり氏、保住氏、伊藤氏、西田氏、なかひろ氏、NATORI氏、藤崎氏、しげた氏、等々のお名前は、それぞれ一定範囲のユーザーを信頼させあるいは注目させるネームバリューを持っている筈だ。ダーク系のライターさんで最近どなたが人気なのかは私はあまり分からないが)し、そのくらいには脚本家の優れた達成はユーザーに対して確かな影響を及ぼすものであろうが、それがPCアダルトゲーム業界を動かしていた最大の/第一義的な/支配的な要因であったかのように語られるとさすがに……。
最近目にしたある新聞記事に寄稿されたある学者の文章の一節で、「喧しい」に「喧(やかま)しい」とルビが振られていてげんなりさせられたことがあった。おそらく無知な記者が誤ったルビを付け足してしまったのだろうし、字面だけからは「喧(かまびす)しい」なのか「喧(やかま)しい」なのかは区別できないし、「かまびすしい」という古い言葉も「やかましい」とおおむね等しい意味を持つものではあるけれど。しかし、学者の書くディーセントな文章で「喧(かまびす)しい」と書かれる場合、それは通常「やかましい」というネガティヴな意味合いではなく、「活発な言論が交わされている」といった程度の中立的な意味なのだが。上の段落で私が書いた箇所も、もちろん「かまびすしい」と読んでいただきたい。
ついカッとなって書いた:新記事「クリエイターに対する敬称についてのもやもや」
09/21(Sat)
【 猫になりたい 】
長時間睡眠すると、起きてからずっと頭痛がするようになった。寝ること自体は大好きで、大学生の頃は18時間連続睡眠とかも平気でやっていたし、ゆっくり寝るために一日28時間サイクルの生活(つまり一週間24h*7dを6日に分けて28h*6dで過ごす)をしていた時期すらあったのだが、最近では長時間熟睡できるだけの体力が無くなってきた。ゲームの眠り姫キャラたちに嫉妬しかねないくらい。
何度でも書くが、『あかときっ!』は素晴らしい。プログラム(システムとインターフェイス)と音楽と物語構成と美術設計による、洗練された享楽的雰囲気とプリミティヴな熱気と深く長い劇的カタルシスとそして美しく静かなエンディング。その豊饒にして痛快な体験は、いわば「ゲーム自身が見た夢」を眼前に映し出されていたかのようにすら思える。
「あるこっとないこっとラジオ」を聴きながら:新記事「十周年ブランド」
09/20(Fri)
新記事:「波奈束氏のこと」
「リベリオンズ」ラジオは紹介ページだけは残っているけど、残念ながら音声は聴けなくなっているんだよね……と惜しみながらOnsenサイトを訪れてみたら、月城氏&鷹月氏の「みなこい☆らじお」の情報が目に入ってきて欣喜雀躍。10月第1週から開始とのこと。
スクリーンショットを保存してある一隅に「o_crisis」という名前のフォルダがあって、「あれ……私は『オトメクライシス』はプレイしていないのに……」と訝りつつフォルダを開いたら、『大阪CRISIS』のだった。その間違いようもさりながら、内容のギャップに笑いが漏れてしまった。
そういえば、『まお~っ娘クライシス』というタイトルもあった。プレイしてないけど。
某アニメを観ていてちょっと思ったこと:新記事「ありがちなイベント」
部屋の整理って大変よね、という話:新記事「引越をする夢はしばらく見ない」
09/18(Wed)
「哲学者」を「(抽象性や一般性の名の下に)浅薄で大雑把なことを適当に吹聴する素人」と見做すのはやめてくれないか……。「自分の専門以外の話題に口を挟んでいいかげんなことを吹かす人々」の集合の中には、たまたま哲学者を名乗っている人物もいくらかは含まれる(実在する)としても、そんなふうに一般化されたらまともな哲学者は悲しむぞ……。
ふと目に入った『君を仰ぎ~』がとても面白そうに見えた。声優陣の配役がわりとユニーク。
実際にはあのブランドなので残念ながらおそらくアレなのだろうけど。
というか、あんころもち系(ねこねこ系)のあのむにっとした頬がすごく苦手。
09/17(Tue)
【 00年代後半のwebラジオを回顧する 】
箱を開けては開けて、本やCDや紙箱を棚に詰めては詰めて、そしてようやく、旧PCで使っていた外付けHDDをようやく掘り出してみたらケーブルを紛失していて、そして代替品を購入してきてそしてついにデータを取り戻せた。昔のゲーム画面スクリーンショットも整理していきたいが、とりあえず聴くのは、ぷらてぃあ放送局の桜川氏ゲスト回や大波氏ゲスト回(ピリらじの直後なので「エロ娘」と紹介されていた)とか、galgeラジオ(松永氏ゲスト回や井村屋氏ゲスト回は何度も聴いていたが、今聴き返したら他の回ももっと楽しめる筈だ)、曲芸ラジオやないあるやピリらじやプリっちラジオ、STPの膨大なバックナンバー、コマキの木曜日(現在でも公式サイトに過去回が残っているようだが)、江ノ島ラジオ(これもまだ一部残っている模様)、奈々転抜刀の逢川氏の淀みなく明晰な素晴らしいパーソナリティぶり、伝説的とすら言える濃密なモンキーパーク、door☆pi☆chuラジオの酒飲みトーク、そしてなによりも、アトランティス帰りの西田氏がゲスト出演されたリラリラ23回は本当に貴重で美しい記録だった。そういえば『ひのまるっ』も、ゲーム本編は未プレイだが金松氏のwebラジオだけは聴いていたのだった。
こうしてみると、2006~08年頃のPCゲーム系webラジオ界隈は凄かったんだなあ。金田氏、まき氏、民安氏が話題の中心にいた時代と言ってもいい。
【 西田氏のこと 】
今でも西田氏のことを忘れられないのは、そのいくつもの作品の中で非常に素晴らしい芝居を披露されていたにもかかわらず、もう一歩上の境地を聴かせてくれたのではないかという思いが私の中にあるからなのだろう。
『だぶるまいんど』や『黒の図書館』の芝居がどのようなものだったかはもはや遠い記憶の中に消えつつあるが、『腐り姫』の闊達なキャラクターや、『ONE2』の悲哀漂うシチュエーション、あるいは『裏入学』の印象的な芝居、『巣作り』の苦みのあるユーモア、『Danzing Crazies』で重要な役どころを堂々と演じきったその瞬間、『南国ドミニオン』の深みのある柔和なナレーション、そして代表作とされるであろう『DMF』『もしも明日が~』の悲劇的な主演キャラクター、『少女魔法学』の愛らしいカヤ役、『アトリ』の複雑な造形、その出演歴の最後の一群に含まれる『あい☆きゃん』、そして(私見では)西田こむぎのポテンシャルを底の底まで汲み尽くした『ひめしょ!』に至るまで、思い返せばやはりどれも本当に高い水準に達していたのは確かなのだが。
氏が演じたキャラクターたちは、しばしば死の運命や裏切りといった受難の境遇に置かれていたが、その悲劇的な造形を引き受けてキャラクター芝居としての劇的な高みへまっすぐ引き上げていきつつ、その柔らかな明るさによってそこに不思議なやさしみをももたらしていた。いや、それがまさに西田氏の境地だった。
もしもLittlewitchのあの作品に出演されていたなら、あるいは、もしもソフトハウスキャラに常連参加し続けていたなら、あるいは、ぱれっとの新作にキャストされていたら、Liar-softのあの役やこの役が西田氏だったら、という考えはその甘美さのゆえに押しとどめることの難しい夢想だ。
09/16(Mon)
声優さんのブログやtwアカウントを見に行くことはあまりしていない。しかし、たまに見に行った時などに、非常に忙しくされているご様子なのに、私はその方が最近どんなお仕事されているかをまったく知らない(私がアクセスできるような、アニメやゲームの出演作の情報がまったく知られていない)という状況になることがある。それらを聴けていないことが、と て も 悔 し い。
もちろん声優の仕事は多岐に亘るものであって、一般に公表される創作物のキャラクター芝居だけでなく、様々なナレーションの仕事や司会業や練習中の舞台などが、そしてそれらに隣接する差様々な仕事――それらはしばしば一般には名前の出ない仕事だったりする――が無数に存在するということは理解しているが。
【 SAGA PLANETS新作をめぐる雑感 】
「今回SAGA PLANETSの新作はずいぶんキャラデザが魅力的だなあ」と思っていたが、もしかしたらそれはただ単に私がそのツリ目比率の高さに喜んでいるだけだったのかもしれない。ブランドカラーや作品の方向性や原画家の個人的嗜好によって影響されるとはいえ、ヒロイン4人中3人がツリ目(っぽい)というのは、かなり珍しいバランスだ。先月の同系統タイトルを見ると、例えば『星ノ音』はヒロイン級の中にツリ目系キャラは0人、『PriministAr』はたった1人、『にゃんカフェ』は0人(見方によっては1人)、 『~ストライプ』は7人中2人、『聖ブリュンヒルデ学園』は6人中2人、といった具合。SP自身の旧作を見ても、『はつゆき』は5人中2人、『キサラギ』は4人中3人、『ナツユメ』も5人中2人、『CH』も6人中2人と、伝統的にツリ目(気味)キャラがアピールされてきたことが見て取れる。……しかし、そうなると「今回のが以前の作品と比べて特に良くなっている」と感じた理由をツリ目以外の要因に求めなければならなくなるが、目の前のキャラクターの魅力の前ではそんなことは最早どうでもいいので、いずれにせよ、このブランドにはできるだけついていくことにしよう。
ただし、ただし一つ重大な懸案事項が。作品公式サイトのトップページでは夏野キャラが赤眼鏡を手にしているのだが、本編中でちゃんとこの眼鏡を掛けてくれるのだろうか。現在公開されている一枚絵には、眼鏡を掛けている絵が一枚も無いので、気掛かりではある。まさかせっかくの「夏野氏の眼鏡キャラ」の機会を無駄にはすまいな(――ちょうど先月の『ラブesエム』でも夏野氏は赤眼鏡キャラを演じられたばかりだが)。
ちなみに、この観点でいうと『ハピメア』も素晴らしい……けれどまだプレイできていない。
あ、あれ……この、陽月氏って……。
SD画像は、文字通り「デフォルメ」画像なのだし、ましてやAVGにおいては非正格の崩れた(雰囲気を柔らかく崩すための)画像として用いられるのだから、もっともっと自由に描いてもいいと常々思っている。大胆に余白を置いたり、遠近法を極端に誇張したり、普通ならとても描かれないような表情を描いてみせたり、なんでもしていい筈だ。これまで私は、SDに対してはそれほど好意的ではなかったが、AVGの画面構成に対するそのような攪乱者に、新機軸への突破口になってくれるなら、あるいはそういう時は、SDも良いものだと思える。
おもちゃや小道具を持っているキャラクターって可愛いよね。扇子、水鉄砲、指し棒、書籍、etc.。余計な物をわざわざ手に持っているというところに、遊び心が感じられるのが良いのだし、そしてそういうところから「キャラクター」の輪郭と感触が浮かび上がってくる。さらに言えば、例えばスカートの裾を指先でつまんでいるというだけでもいい。それだけでも、キャラクターをめぐる情趣が立ち現れてくる。
川原氏の参加作品は『SWAN SONG』一本しかプレイしたことが無いので、新作を見ても川原氏がどのキャラを描いていて、たけや氏がどのキャラなのかが、ちょっと見ただけでは分からない。やはりここは眉毛の太さで判断するしかないのか。
で、そのキャラクターの一人、九帖さんは、男装して片目を閉じたその姿を一目見た瞬間から大好きになった。もう一つの袴姿もこれはこれでたいへん魅力的なのだけど、男装姿の凛々しく個性的なその印象と引き比べては、そのもったいなさに嘆息が抑えられない。
『夏の幼馴染~』は予約しそびれていた。
かぐやHTPの新作は、タイトルに横溢するその言語感覚を受け入れることを私の脳が拒絶しているらしく、何度見てもどうしても憶えられない。
毎度、softhouse-sealのくノ一ACTも買う。……って、佐倉氏が出演されているじゃないか!
一河氏のファンになったので、新作も買う(――未予約なので、月末まで残っていればいいが)。
来月は、延期してきた(予約済み)タイトルはともかくとして、ルネ山氏主演の『EA』をどうしようか、いまだに悩んでいる。『あねいもNeo+』も買ってしまおうかという気分になりつつある。ミスリルSWの新作は、キャストを早く公開してくれれば、考えないでもないのだが。『ミライ』パックは、最新OSにも対応しているし、買っておきたくはあるが、しかしおそらくプレイしきれないだろうと思うと……。『戦場デ』廉価版も、一応確保しておきたい。『館』には春日ヴォイスの和装メイドキャラがいるし、『冷淫』も飯野氏が主演だし……。そしてわるきゅ~れは、今回はいったいどこへ行くつもりなのか。
09/14(Sat)
サイトの方に載せている『少女魔法学ep』の記事も、SHC作品全作(旧作)の総括レヴュー記事も、今だったらスクリーンショットを何枚も貼り付けながら紹介していただろう。というか、今からでも加筆する意義はあると思う。当時のそれらのタイトルのゲーム画面がどのようなものであったかは、今となってはアクセスしにくい情報だし。
【 モノクローマと声優 】
モノクローマは、以前の作品で起用した声優さんのことを忘れない律儀なメーカーだという印象を持っており、2012年の『英雄*戦姫』はその集大成のようにすら見える。この作品のキャスティングは本当に面白くて、他ではなかなか聴けそうにない独創的な配役が数多く、しかもどの配役にもこのうえない説得力がある。「このキャラクターなら、確かにこの声優さんしかない」と思わせるだけの魅力があり、私の中で各声優のイメージを再規定してしまったと言っても過言ではない。出番が多くて立場も微妙な「ランスロット」役に鈴田氏を大胆にも抜擢し(そして成功を収め)たり、あの佐本氏に「ジャンヌ・ダルク」の怪演をさせたり、「ビリー」や「アレキサンダー」のような外連味のある台詞にあえて西野氏や沢村氏といった生きの良いキャストを宛がってみせたり、そして大役「ナポレオン」「アーサー」は豊高氏と木村氏に任せて物語を引き締めたり。ストーリーの終盤に入ろうとするとば口で、榊氏(「ノストラダムス」役)と桃井氏(「マーリン」役)を立て続けに出してくるのも、電波がちりちりと利いていて実に刺激的だった。
『少女魔法学ep』の主演、野神氏と西田氏が出演されていないのは残念だが、しかし、かといって、『英雄*戦姫』の完璧な配役に対してそれ以上の説得力を持つように入れ替える案など思いつけない。
STARGAZERの新作、このキャストなら買う、絶対に買います!
……しかし、これ、発売日はいったいいつなんだ。
(それと、このスタッフ情報欄[ stargazer-gamesoft.com/star001/staff.html ]、悪い意味ですごい。各スタッフの公式サイトのurlやバナーが、わざわざご苦労なことに一枚の大きなベタ画像にされてしまっている。ゲーム公式サイトでスタッフ個人サイトの情報を出すのはそれはそれで良いことなのだが、しかしurlを表示していながらハイパーリンクになっていないばかりか、画像形式であるためコピペでアクセスすることすらできず、ユーザーはurl手打ちしなければいけないという……いったいどこの官公庁サイトだよ、と言いたくなるほど不親切だ。バナー画像までこの画像の中に取り入れられてしまっているのも、いや増しておかしみを漂わせている。)
【 現代文化財の有効利用 】
先日も書いたように、そして多くのオタクがそうであるように、自室には大量のディスクや書籍やその他諸々の現代文化財があるが、それらの中にはまだ開封していないもの、きちんと読み込んでいないもの、ほんの数回しか再生していないもの、ゆっくりと観賞し尽くしていないもの、コンプリートしていないものが一定割合存在し、しかもそれらに高い価値があることを信じており、それらを読む/プレイすることがあれば優れた知的/感覚的な経験を得られることを確信しつつも、自分の人生の中でそれらの中の特定のあれやこれやはおそらく二度と再生することが無いであろうというものや、あるいはそれらの中の何割かはインストールすらせずに終わってしまうであろうことを考えるにつけ、それら価値あるものを自分一人で占有死蔵したままにせずその不可避的余剰分をせめて他人に有効利用できるようにできたら、という思いが度々湧き上がってくる。もちろん違法共有の話をしているのではない。例えば、自分が楽しんだ漫画を知り合いに貸すとか、来室した知人に(自分がおそらくプレイしないであろう)ゲームをあげてしまうとか、そういうことができる可能性を、たまに想像することがある。
その背景として、社会人と学生の間の経済力の落差を、最近しばしば意識している。落差それ自体を咎めているわけではない。それらが構造的に解決されて平等化されるべきだと主張するつもりも無い。しかし、上の世代が持つ余剰を下の世代に少しでも回すことができるなら、それは全体として非常に大きな利得になる。例えば、一人暮らしでバイトに勤しむ大学生が、月に数万円ずつでもオタク趣味に使える余裕が増えたら、その成長がどれだけ促進されることだろうか。
私自身、学生時代はそこそこの支援を受けてはいたがそれでも部屋は狭く収入にも限界があり、望むことと実行できることとの間に少なからず落差があった。安価に大量の文献に触れることのできる場として、図書館(主として大学図書館)やビデオ店(特に「ワールドビデオ」)には随分お世話になった。あるいは、サークル室に置かれていた雑多な書籍や漫画だって、入学したばかりの若く未熟な学生にとっては貴重で有用な情報源だった。いずれにせよ、一流の、あるいは価値も分からぬ、あるいは最先端の、あるいは古くから吟味されつつ継承されてきた、大量の文献を自由に手にとってそれらの力を浴びることは、人の知識を深め視野を広げるうえで絶大な効果があるということは、多くの人が知っていることだろう。
私が考えているのは、そういうことだ。 このままだと死蔵されかねない――それでなくとも、とりわけPCゲームの場合は、OS対応その他のプレイ環境が失われることによってプレイできなくなる可能性がどんどん高まっていく――大量の資料を、意欲のある新人に機会を与えることになら活用できるなら、そうしてみたい。べつに具体的ななにかを(例えば個別的な評価や方法論を)教えるというつもりは無いが、後進を育てること、いや、後進は勝手に育っていくものだが、それに機会を与えること。……実際には具体性をまったく伴わない夢想だが、しかし実際にそれと似たようなこと(大量のCDを長期間貸し預けること)をしたことはあり、そしてそれは幸いにもその人にとってわりと良い経験になってくれたようだった。
なお、限られた文献を、あるいは今目の前にある文献を、自力で可能なかぎり精読するという経験もとても重要なものであるということは、確認するまでもないだろう。対象に触れる精度と深度を、それがどのくらい遠くまで行けるのか、どれほどのポテンシャルが内包されているものなのかを、知っておくことは重要だ。
個人的なことを言えば、実のところ、PCゲームに限っていえば、プレイするペースの倍以上の速度で購入本数が増えていくというのは、精神衛生上、あまり良いことではない。そして、しかし、趣味はPCゲームだけではないし、人生は趣味だけではないのだし。
あるいは、書棚を整理していて、「このCDは、とても素晴らしい演奏の記録で、当時は何回も何回も聴ていたけれど、今後自分の人生の中ではもう二度と聴かないだろうな」と考えながら棚の奥にしまい込む時、そこに惜しむ気持ちが出てこない筈はない。
09/12(Thu)
昨日の話。「なんかもう、『カルマルカ』買わなくてもいいんじゃ?」と血迷いかけたが、 しかし澤田氏主演であることを思い出して迷いを振り切った。「富呂尾李杏」(いすゞフローリアン?)というお名前の声優さんも、まず間違いなくあの方なのだろうし。
【 書籍やパッケージの収納手段について 】
棚を一つしか組み立てられず力尽きる。手袋は大事だ。
棚の素材選択については、スチールパイプによる組み立て式ワイヤーラックがベストだという見解は変わっていない(cf. [tw: 9569312517 , 9569351133 ])。
もしも、その建物に永住し、かつその家具を動かさないという場合――要するに自宅住まいの場合――ならば、壁一面に作り付けの木製書棚を組み込むように専門家に依頼するのが、美観の点でも安全性の点でも耐久性の点でも(そしてそれらを考慮に入れた費用対効果の点でも)最善だろう。しかし、そうでない場合には、ワイヤーラックがあらゆる面で大きなアドヴァンテージを持っていると思う。すなわち:
1)軽量――位置移動のしやすさ。倒壊時の安全性にも関係する。
2)組み立て容易――腕力も技術も工具も組立スペースも要らず、組立失敗の危険も低い。
3)改変容易――パーツ規格が共通化されているので、サイズを自由にアレンジできる。
4)解体容易――主に引越時/廃棄時に影響する。パーツ交換や組み直しも容易。
5)衛生面――金属製。木製家具のようにGが入り込む余地も無い。
6)頑健性――なまじの木製やスチール板よりも頑丈で、大量の書籍を積んでも大丈夫。
7)耐久性――金属製なので、非常に長持ちする。
8)通気性――特に湿度の高い環境では、大きな意味を持つと思われる。
9)価格――極端な廉価というわけではないが、一般的な用途では十分に安上がり。
といったメリットがある。木製棚は総じて高価なうえ非常に重いし、繊維板の擬似木造ラックは組み立てがたいへんなうえ重量もあり耐久性もけっして高くない。スチール棚はネジが固いし外見がいかにも野暮ったいし、安いものだと重い物体を下手に乗せれば棚板は簡単に撓んでしまう(――業務用のものは棚板も頑丈だが、値段や重量にはね返ってくる)。
ワイヤーラックの欠点をあえて挙げるなら、(木製に比べれば)見た目が冷たいこと、密閉できないこと(フィギュアやプラモの防塵はやはりガラス棚でなければ)、鍵を掛けられないこと(機密性に欠けるという点)、超大型サイズのものが存在しない(?)こと、そして極端な荷重には耐えられないこと(画集などを思い切り詰め込むなら、頑丈な業務用スチールラックを買うべき)だろうか。
いずれにせよ、賃貸住まいで物持ちな若年オタクにとっては、大量のグッズを安価かつ安全に収納するうえで、最もリーズナブルな選択肢だろう。棚の背面は壁に密着させてしまえばいいし、側面は大判書籍を置くかあるいはブックエンドを置いておけば物を落とさずに済む。棚板は粗い網目状だが書籍程度は落下しないような作りになっているし、小物を置きたいならば表面にコルクマットやビニールマットを敷けばよい。画鋲を刺すことこそできないが、代わりにマグネットでいろいろな物を固定できるし、百円ショップなどでS字型フックを買ってくればいろいろな物を引っ掛けておくこともできる。フルカラー雑誌や原画集のような重たいものを積んでも平気なのが嬉しい。
大量の資料を本格的に収納したいという場合は、事務用の大型スチールラック(要するに大学の研究室に設置されているようなあれ)を発注するというのも一つの手だろう。堅牢な作りで、書籍収納に好都合な形に出来ている。ただし、一般的な賃貸住宅のサイズでは扱いに難渋する可能性がある。組み立て/解体にも大きなスペースが必要になるので。
業務用家具を扱っている専門店(ネットを含む)に行けば、多少値段が張る――1架あたり6000円のところが、15000円になったり18000円になったりする程度――ことさえ理解していれば、もっと良いものを、あるいは目的に合った最適なものを買うことができる。しかし、あくまでホームセンターレベルの選択肢で言えば、私は上記のような結論に辿り着いた。
「501st JFW. OA」をちゃんと聴いてこなかったことが悔やまれてならない。
[ http://www.r-banana.com/if/ ](#250)
こ、これって、瑞沢氏の歌だったのか! 200回も聴いていながら全然気付かなかった!
ところで、ラジオの中で瑞沢氏が前田氏を「前田君」と呼んでおられるのでためしにggってみたら、前田氏と同い年らしい(1975年生。前田氏は早生まれなので学年は違うが)。ふぇぇ……。75年生まれというと、聞き及ぶところでは、あの声優さんもあの声優さんもあの方もそうらしい。いぶし銀の名匠揃いの世代。
ここ数年だと、アニメ『I.S.』第9話に「クラリッサ」役で出演されていた時は、1.5秒でその声に気付くことができた(――ただし残念ながら作品自体は、映像作品として全然好みではなかったが。主人公の後ろの座席にいる眼鏡っ娘の岸原さんの存在だけが救いだった)。
【 他言語の使用 】
英語以外の言語を使っているタイトルというと、PCゲームの中では『L'Heure Bleue』(フランス語で「青の時間」。英語で言えば"the hour of blue"に相当する。ちなみに作品の舞台も1920年代のフランスのある地方)と、『CAFE SOURIRE』(フランス語。作中の固有名詞[店名]だが)くらいしか思いつかない。『さよならを教えて』の副題"comment te dire adieu"(フランス語)とか。
いや、探してみればわりとあるか。『バルバロイ』(元はギリシア語だ!)、『ソレイユ』シリーズ(フランス語で「太陽」)、『D.C.』シリーズ(音楽用語は多くがイタリア語。「最初に戻る」を意味するのは、この膨大なシリーズ展開タイトルとしても意味深)、『Crescendo』(これも音楽用語)、『Dies irae』(ラテン語「怒りの日」)、『キリエ・エレイソン(PCDX)』(ラテン語、キリスト教祈祷文のよく知られた一節)、『あるすまぐな!』(ラテン語)、『Quartett!』("t"が二個続いているので英語ではなくイタリア語)、『Chanter.』(フランス語で「歌う(=sing)」の意味)、『ジブリール』(アラビア語、人名「ガブリエル(Gabriel)」と同義)、『サルバとーれ!』("Salvatore"はイタリア語の「救世主」。英語"savior"に相当」)、『ガッデーム&ジュテーム』(ジュテーム"Je t'aime"はフランス語)、『シェル・クレイル』(タイトルロゴに見て取れるとおり、"Les Chairs Cruelles"はフランス語。英語だと"the cruel chairs"に相当する意味らしい)とか。『パティシエ(なにゃんこ)』もフランス語。『ショコラ』『パルフェ』もフランス語。『H(アッシュ)』もフランス語でのアルファベット"H"の読み。副題も視野に入れればもっと増える(例:『仏蘭西少女 ~Une fille blanche~』)。『クラインハーゼ』("Klein Hase"=「小さな野ウサギ」)も『(さくら)シュトラッセ』("Strasse"=「道路」)も『Zwei Worter』もドイツ語。『PINK PANZER』は英独まぜこぜ。それにしても『やきにくくりぷうぴ』とはいったい。
09/11(Wed)
【 ゲームの収納とプレイ数 】
ゆきちカードn枚の力を開放して大型書棚7架を新たに召喚!(れりーず)
配架したからといって未プレイゲームや未読書籍の数が減るわけではないが、積んだままあるいは箱の中に詰め込んだままにしておくよりもはるかに手に取りやすくなる――物理的な意味でも、そして着手しやすくなるという意味でも――ので、やはりこれは良いことだと思う。
広めの部屋に引越ししてからしばらくはスペースに余裕があったのだけど、しかし部屋がこうして手狭になるのは本当にすぐだったなあ……。本業の文献、趣味の読書、オタ趣味(ゲームから漫画までいろいろ)、そして同人誌にも手を出している某知人などは私の倍以上の物持ちで、そろそろ床が抜けてしまわないかと本気で心配しているらしいが。
たまには具体的な数字を書き残しておこう。今年に入ってから、購入したPCアダルトゲームは71本。そのうち、約8割が新作(つまり一年以内に発売されたタイトルを新作商品として購入したもの)、約2割が旧作(その多くが中古商品)。それに対してプレイした本数は新作旧作合わせて33本。このぶんだと、年内に50本は難しい。
しかし、win98時代のPCゲームについては、そろそろ諦めていくことになるかもしれない。F&Cの名作群とか、elf/シルキーズのとか、C's wareとか、あるいは『化石の歌』とか『痕』(オリジナル版)とかは今からでもプレイする価値はあると信じるが。
ただし、この時期のタイトルについては、残念ながら、体系的に整理された記録がなかなか残っていない。当時の個人レヴューサイトや攻略サイトも、今ではかなりの割合で閉鎖(消滅)してしまっており、当時の雰囲気の痕跡を見つけ出すこともいよいよ困難になっている。私自身も、PCゲーマーとしては90年代の状況はほとんど知らない。同人誌についても、2001年(C60/C61)頃に少しばかり即売会に参加してみたことがあったが、結局続かなかった。
【 泉氏の参加作品の傾向について 】
lightは泉氏を燃え燃えーな方向性から解放して、また気楽な萌えゲーに原画起用してくれないものだろうか。いや、『まるめる』(他メーカーだが)も買っていない私に苦情を申し述べる資格は無いのかもしれないし、またlight自身もながらく"お気楽な萌えゲー"を作らなくなっており(おそらく意識的に)そういう方向性に舵を切っているブランドだが。ふりかえってみると、ブランドとしては2008年の『あるすまぐな!』がフルプライス白箱系では今のところ最後で、その前年の『Dies』が明らかにブランドとしての転機になっている。『SE』(2010)、『Vermilion』(2011)、『ZI』(2012)、そして今年の最新作『EA』に至るまでの泉氏の継続的な業績は、敬服すべきものではあるのだが、そちらの趣向のタイトルばかりがこうも続くと……。
ASa ProjectとSAGA PLANETSをたまに混同する。実際、今日の今日まで『カルマルカ~』のことを「きっとバカゲーなんだろう」と思い込んでいた。違うよね……。ちなみに、APは比較的若いブランドだが、SPは90年代からのキャリアのある老舗だったりする(――今回の新作が17本目)。
09/10(Tue)
【 飯野氏のブレスコントロール 】
飯野汐里氏の出演作をプレイしていると、ただただ粛然とさせられて最早声も出ない。凝然として、そして内心では深く感激しながら、ただ静かに聴き、聴き、聴き続けるしかない。
現代のコンピュータAVGでは、一クリック分のテキストも、しばしば2つの文、あるいは3つ以上の文でできているものだが、そのような台詞を演じる時でも、木村氏の芝居においては、一クリック分の一まとまりの台詞としてのつながりが堅牢に確立されている。技術的な細部はよく分からないが、聴いている限りでは、それは一つにはおそらく、吸気と呼気のコントロールが芝居の流れの中にしっかりと組み込まれているからであるように思われる。文と文の間のスペースが、単なる息継ぎのための小休止には終わらず、その言語的内容を捉えつつ物理的(音響的)抑揚のタイミングをつなぐ「息遣い」のための時間になる。そして、そうすることによって、複数の文のつらなりが有機的な結びつきを発揮するようになる。
もちろん、文と文の間にブレスを置いていない箇所も多い(――実際、飯野氏は読点「、」が複数挿入されているフレーズでも台詞を止めずに一呼吸で、一つの長い呼吸で、言いきってしまう場面が非常に多い)。そうした箇所では、時にはそれらの言葉のつらなりが凝集力に満ちた芝居へと結実し、また時には完全に息の止まったその刹那の停止が強烈な緊張感と迫真性を生む。そして聴く者も息をのむ。言葉も無い。
【 softhouse-sealとともに 】
そんなこんなで、いろいろあったけど、これからはsofthouse-sealファンとしての自分を受け入れて生きていくことにします。バカゲー好きだし(――Liar-softは天野氏企画ラインが一番好きでした)。クラシカルな低等身萌えキャラデザインでわりとハードな蹂躙シーンを描いているのは昨今珍しい方向性だし(――他にはKAIくらいしか思いつかない。NEXTON系列、e.go!/でぼ、たぬき、往時のかぐやBY、Waffleあたりもそこそこ近いけれど)。原画も脚本も、他ではなかなか見かけないクリエイターさんを引っ張ってきてくれているので新鮮味があるし。横スクACTから3Dアニメまで、推理ものからくノ一ものまで、いろいろやってくれているし。そしてなにより、飯野汐里氏を継続的に起用してくれているし。これからは堂々と、恥じることなく、softhouse-seal好きだと認めていきます。
鉢巻姿のミィちゃん写真を見て、「なめんなよ」というフレーズが脳裏をよぎり……いや、当時のブームのことはまったく知らないが。
09/07(Sat)
PULLTOPさん、ありがとう、今回もありがとう、ありがとうございます!
(新作のキャスト情報を見ながら)
softhouse-sealさんにも、ありがとう、たくさんありがとう、ありがとうございます!
(上に同じく)
PCゲームの公式サイトを見ていて常々不思議なんだけど、どうして発売日をもっとしっかり強調してくれないんだろうか。ユーザーにとっては非常に重要な情報なのに、トップページ等に大書することもせず、製品仕様欄にちょろっと書いてあるだけ、というのを良く見かける。発売前人気投票だのPV公開だのといったコンテンツよりもよほど大事だと思うんだけど……。
まあ、実際には、ある時点で発売日告知がそれなりに大きく扱われることも多いし、小売店内の予約コーナーや通販サイトの発売情報などで発売日を確認する機会も多いし、発売日を待ち望んで毎週or毎日公式サイトを訪問するようなユーザーがおそらく多くて、それらを通じて発売日情報は十分に浸透されるものなのだろうけれど。
日本橋に買い物に行ってきた。せいぜい数ヶ月に一回くらいの頻度だが、関西圏では店頭商品が最も充実している地域だし、そうした店舗内で商品ラインアップを見て回るのは様々な情報を摂取整理するのに役立つ。例えばだが、(二次創作系の)同人誌書店で、並んでいる表紙を見て何割に元ネタ作品の判別がつくか/つかないかは、自分がその界隈の流行にどれだけキャッチアップできているか/いないかの指標にもなるだろう。
そういえば、アニメイトが移転していたんだね。一つの建物にアニメイト(1F/2F)-らしんばん(3F)-メロンブックス(4F)という状況。cf. [ http://nippon-bashi.biz/news/20130603_animate.html ]:どうやら7月に移転していたらしい。
今回の目当てはSHC公式同人誌――残念ながらコミトレに参加されていなかった――だったが、それ以外もいろいろ買い漁ってきた。最近では、財布の中身が尽きるより前に体力と気力が尽きてしまう(長時間歩いていると足が痛くなってしまうし、持てる量にも限界がある。店頭でそのまま荷物発送してもらうこともできるが)ので、結果的に買い過ぎにブレーキが掛かるようになっている。悔しくもあるが。
【 個人を表す視覚的イメージ 】
アニメの話でもゲームのでも漫画でも何でもいいけど、twなどで知り合った方が、私の知らない作品のキャラクターをアイコンに使っておられた場合、その元作品を後から観賞すると、そのキャラクターが(当然ながら)まったく別の人格で、そして予想外の声色で、その方がけっして言わないであろうような台詞を真顔で発していて、面白すぎて抱腹絶倒が止まらなくなる、ということはある。要するに、そのキャラクター画像のイメージが、そのアイコン使用者のお方の人柄のイメージと先に結びついてしまって、それが元作品との間で落差を生じるということなのだけど、私以外の方々も同じようなギャップ経験をされているのだろうか。
私の中では金田氏のイメージは、金田氏ご自身が描かれた「少女騎士ラジオ」のあのふにふにした雪緒イラストで定着している。galge.comラジオではまひる朕ウサギとかもあったし、「もげすて」でも自画像イラストを披露されていたのだが、やはり金田まひるというとあの画像がまっさきに脳裏に浮かぶ。
このラジオでも大波氏は楽しいキャラでした。「分かってるよね?」(第1回)とか「おぼえてなさい」(第2回)とか「教えなーい」(第9回)とか「ふざけんな……」(第9回、11回)とか、控えめながらサービス精神旺盛な台詞を挟んでこられるところもいつも通り。
09/06(Fri)
【 立ち絵芸いろいろ/スクリーンショットの活用 】
私の中では、「立ち絵が斜めに傾いているキャラ」というと『Signal Heart』の氷上渚、『かしまし~』の木住野純、そして『白銀のソレイユ』の浅海澪璃がトップ3、いや、なんのトップだ。いずれにせよ、体を傾斜させるというのは、時としてキャラクターの可愛らしさにつながる。『アッチむいて恋』の妹とか『ラブラブル』の須賀原さんとか『With Ribbon』の娘キャラとかも。
体躯全体の傾斜と並んで、あるいはそれ以上に素晴らしいものとして、「小首をかしげる動作」がある。『すてぃーるMyはぁと』(ぱれっと、2010)の桃知あえかさんは、立ち絵に小首かしげ差分があり、その差分変化はそのキャラクターのリアクションの表現として実に愛らしいものだった。
『すてぃーるMyはぁと』は、小首差分以外にも、「両の掌を合わせて、所在無げに人差指どうしをパタパタさせる動作」や「拳骨からピンと人差指を突き出す動作」や「指先をくるくる回す動作」などを(擬似)アニメーションさせて、状況表現/感情表現/キャラクター性表現を豊かなものにしていた。「中指を立てる立ち絵差分」は他の作品でも見かけたことはあるが、「ハリセンツッコミの立ち絵差分と、ハリセンではたかれた立ち絵差分の組み合わせ」はなかなか無いだろう。
奇抜立ち絵については、[ twilog.org/cactus4554/date-110412 ]:このあたりでも書いたことがあった。いずれ、気が向いたらスクリーンショットを集めてネタ記事として書いてみたい。
先日の『あかときっ!』記事の引用記事構成があまりうまくいかなかったことが、スクリーンショットを多用するスタイルを考え直させる機縁になっている。前のブログで私が試みたのは、1)単なる画面サンプルとしてではなく、検討の対象として十分に意味を持つようにスクリーンショットを用い、2)個別作品紹介のために単一タイトルのSSを掲載するのではなく、複数(多数)のタイトルのSSを並べつつ検討や紹介を行うという作品横断的な議論展開を目指すというもので、それは(掲示板まとめサイトのような、法的にはかなり色の濃いグレーゾーンのものを別とすれば)これまでほとんど試みられていなかったが、とりわけ3)PCゲーム(というかAVG)のイベントCGではなく通常画面のレイアウトに焦点を当てるやり方とともに、その挑戦は一定の成果を挙げることができたのではないかと思う。しかしそれは、スタティックなAVG画面についてはそれなりに対応できるものの、ダイナミックなゲームパートや、近年いよいよ動きを増してきたAVGの立ち絵振り付けに対しては、非常に無力なものであるということが実感されてきた。このblggrでは動画アップロードも可能なようなので、静止画ではなく動画を――といってもここで考えているのはせいぜいほんの数秒程度のものだが――利用することも今後は視野に入れていきたい。本心をいえば気の進まない方向性ではあるのだが、ゲームの実際のあり方を見せるうえで効果的なのは確かだし……。
【 旧作をプレイすること 】
たまたま2012年初頭のバックアップデータを掘り起こしたので見返して(現在のデータと比較して)みたら、所持タイトル中の既プレイ率がいよいよ低下しているのに気付いて愕然。それなりのペースでプレイしているつもりだが、明らかに「月毎購入本数>プレイ本数」なので、数字が下がるのは仕方ない。
しかし、見方を変えてみることもできる。プレイ済みのタイトルは、当然ながら本数それ自体に意味があるのであって、未プレイタイトルの多寡によってその価値が変化するというのはおかしい。だから、プレイ済みタイトル数については、ただ単純に増やしていくことを目指せば良いのだし、そして増えていくのを喜べばよい。他方で、未プレイタイトルについては、それらをまだプレイできていないのは残念だが、しかしプレイ済みタイトル数に加えて購入済みタイトル数がどんどん上積みされているのだと思えば、それもけっして悪いことではない。
要するに既プレイ率とは、投資(購入)した金額に対して、そこから実際のゲームの楽しみをどのくらい得ることができたかの度合いを、経済的観点から(擬似的に)推測するための一つの指標に過ぎない。そう考えよう。そうしよう。
旧PCでなければ起動できないタイトルからスクリーンショットを取ってきたいのだが、いろいろな手間と障害があって果たせずにいる。財産というものは、貯めておくだけで価値を発揮していると考えることもできるが、使いたい時に(あるいは有効利用できるタイミングで)実際に使うことができなければ意味が無いという側面もあるのだが。うぐぅ。