2016/09/07

創造性、多様性、現実性

  創作と多様性についての雑感。


  LNであれアニメであれ、ある分野が一時的に特定のネタに集中することそれ自体は、べつに悪いこと(不毛なこと)ではない。ある(新奇性のある)ネタに対して、多くのクリエイターが面白さを見出して、それに積極的に取り組むことによって、そのネタはどんどん開拓され発展させられ深められていく。そのような状況は、普通は「活況」と呼ぶべきものだろう。共通性の高いネタが、外部からちょっと見ただけでは単なるコピペのように見えたとしても、実際には一つ一つの作品にユニークな特徴が見出されるものだ。人間の創造性はそんなに浅いものではないし、(商業)創作物の価値は「他の作品とどれほど違っているか」にあるわけではない。そして、そのネタのポテンシャルが最後まで掘り尽くされるか、あるいは市場に十分飽和して受け手から食傷されるまでには、何年もかかるだろう。美術史や音楽史を見ても、そうしたほんの数年乃至十数年程度の流行はけっして珍しいものではないし、それは停滞でもなんでもない。また、アダルトゲームにおける学園恋愛もののように、特定のスタイルが長期的に行われるとしても、そのジャンルの存立の急所に触れる「王道」であるならば、それはもはや良いも悪いもない。

  多様性確保という観点では、(商業)漫画はたいへん好都合な条件を持っている。一つには、多数の連作作品を同時収録する雑誌媒体がベースにあるため、読者獲得のために様々なジャンルの作品を併存させるインセンティヴがある。中には特定ジャンルに特化した雑誌もあるし、雑誌毎のおおまかな傾向もあったりするが、それでも恋愛、バトル、スポーツ、伝奇、スリラー、エロコメ、四コマ、等々を同時展開できるのは、漫画誌のアドヴァンテージだろう。共時的観点だけでなく通時的観点でも、つまり長期戦略の観点からも、現在売れている作品(売れるための看板作品)だけでなく、新分野に挑戦する実験的な作品を載せるインセンティヴがある。そして、数百ページのサイズをほんの数百円で売る漫画誌には、そうした実験作をいくつか掲載する紙面上の余裕もある。LN誌にも、原理上は同じことが言えるが、漫画誌ほどの多様性は無いようだ。これは文字媒体で連載を追う難しさのせいかもしれない。その一方、これが単発のアニメ会社やゲーム会社であれば、連作化(分割販売)や並列進行が難しいため、新作タイトル一本がコケれば即座に会社が傾く危険があり、実験作に挑むリスクが相対的に高い。



  私が懸念するとすれば、1)長期化、2)資金の集中、3)現実への逃避だろう。

  1) 特定のネタがあまりに長期化することは、さすがにマンネリになるだろう。マンネリ化した分野は縮小するが、当事者もただ手を拱いているわけがないので、市場縮小を回避するために新機軸の開拓が試みられるだろう。現在のアダルトゲーム分野(とりわけ学園恋愛系)は、その性質上、新機軸(代わりになるネタ)の開拓が難しいため、もっぱらクオリティアップによるユーザー確保という方策に出ている(そうせざるを得ない)ようだ。

  2) 中長期的に見れば、クリエイターたちが(自発的に)特定のネタに集中して取り組むことよりも、ユーザーが特定のタイトルや特定の企業のみにお金を落とすことの方が、その分野全体の多様性や活力を失わせる危険が高い。供給側の独占や寡占は市場から多様性を失わせる。また、それ以外のアクターは、収入を得られなければ消滅(撤退)していくので、その分野から才能ある人材が消えていく。多様性の喪失は、多くのアクターが「儲かるネタ」に集中することによって生じるのではなく、「儲かるコンテンツ」の選択肢が狭まることによって生じる、あるいは「儲かるコンテンツ」を特定のアクターが独占/寡占することによってこそ生じる。
  もちろん、上で述べたようにクリエイターの創造性を信じるならば、大きな利益を上げた会社のスタッフがその潤沢な資金と経済的余裕を活用して新たな表現にチャレンジしてくれることも期待してよいだろう。しかし、そうなる前に、ユーザーがその分野を離れてしまう(市場縮小する)ことや、クリエイターの裾野が狭まることの方が、ダメージとして大きいだろう。

  3) 現実への逃避。とりわけ00年代以降、キャラデザ、メカデザイン、世界設定などで、現実に存在する歴史上の人物や兵器、あるいは現実のロケーションをそのまま利用することが増えているが、忌憚なく言えば、これは危険な退嬰的傾向だと思う。
  たしかに、史実の兵器を使えば、非常に緻密なディテールが表現できるし、それはまさに現実にそのような形で存在したのだという事実によって、強い説得力を持つ。また、私たちがすでにあらかじめ共有している歴史上の人物の知識を手掛かりにすることで、そのキャラクターのイメージは非常に受け入れやすいものになる。現実の様々な土地をロケハンすることで、美しい風景のイメージを確立することができるし、舞台探訪という形でユーザーの興味を刺激することもできる。BGMにクラシックなどの既成有名曲を使うのも同じだ。SFに至っては、まさに既存(実在)科学の認識を踏まえることにその存立の基盤を置いている。マニア的な知識欲を満足させることもできるし、タイアップ企画の余地も広がるし、クオリティも上がるし、場合によっては制作コストも削減できる。表面上は良いことづくめだ。
  しかし、そうしたメリットと引き換えに、新しいものが生まれなくなっている。荒唐無稽だが大胆な面白さのあるメカデザイン、既存のイメージにまとわりつかれていない新鮮なキャラクター、誰も見たことも無いような架空世界の都市風景、そうしたものが生まれにくくなっていくのではないか。それは、作り手側の怠惰の結果でもあるが、それと同時に、設定の不整合や細部のミスの粗探しをしてきた受け手の罪科の帰結でもある。