『DAISOUNAN』(2009)以降のソフトハウスキャラ作品についての、ごくおおまかな感想。
『王賊』(2007)以前については、別サイトの「ソフトハウスキャラ作品史小論」を参照。
『Wizard's Climber』(2008)については、別サイトの『少女魔法学LWRep』との比較論を参照。
『DAISOUNAN』(2009)は、AIの実験をしたかったのではないかと推測している。ただし、実験は常に成功するとは限らないが。ゲーム終盤が絶え間ないモンスター襲撃による大混乱の焼き畑世界になってしまったのは、一つのシステムを長時間進めていくことの問題でもあった。私にとっての最大の価値は松永雪希主演作であること。
『忍流』(2009)の核心部分は、人材管理ゲームだった、あるいは(もっと卑俗にいえば)人材派遣ゲームだったと思う。大枠のシステムデザインに関しては、『Wizard's Climber』以降のSHCとしては最も成功した作品だろう。すなわち、その中で様々な物語(テキスト基軸のAVGパートイベント)を展開させていくためのフラグ制御&ゲーム進行の基礎的枠組としての(SLG)システムという観点で、フラグ体系の幅広さと柔軟さ、そしてそれに基づく物語展開のポテンシャルを兼ね備えており、そして実際にそのポテンシャルが十分に開拓されたという意味で。
ゲームの終着点が「全国統一」という一点に収斂せざるを得ないことからエンディング分岐に関しては穏健なものになったが、しかしそれはゲーム進行(ゲーム展開)の目のくらむような自由度を前にしては十分に割の合う取引だったと言える。ストレスフルな里防衛を初めとして、爽快感に欠けた点は惜しまれるが、私としては本当に長く長く、いろいろなプレイを試して楽しんだ。登場人物たちの「キャラ立ち」も、ここ数作では抜群の出来。
『雪鬼屋温泉記』(2011)も、基本的なアプローチは『忍流』と同じ、つまりいつものソフトハウスキャラ、あるいはほとんどソフトハウスキャラしか試みていないような、一つのシステム(ターン制ルーチン)の中にそれぞれ細かくフラグを設定された個別イベントを大量に投入していき、その自動性と偶然性にプレイヤーを参加させることによってその都度の物語を形作っていく、AVG+SLG複合表現の試み。ただし、そのわりに、残念ながら、キャラクター要素は非常に弱かったが。
本作では、そのシミュレーション世界は、一つの分厚いミクロコスモスのような経済関係として成立していた。プレイヤーに無数の設定項目が与えられているが、そのシステムの濃い霧の中では、それら個々の設定を変化させることがどのような作用をもたらすかはほとんど検証できないほど曖昧なままにされている。
基本システムは同一ながら初期配置やフラグや目的の異なる複数のモードを順番にプレイさせていくという周回システムは、『Dancing Crazies』(2005)や『グリンスヴァールの森の中』(2006)以来のものだが、さらに『門を守るお仕事』でも再度試みられた。
『門を守るお仕事』(2012)は、端的にいえば政治のゲームだという当初の予想はおおむね当たっていたと思う。その発想は非常に興味深く、そしてそれをプレイヤーとして運用するのは非常に刺激的だった。ただし、息の短い周回プレイと、掘り下げの浅いキャラクター描写が、その射程を限られたものにしてしまったという点は、『雪鬼屋』の轍を踏んでいた。
なお、「『門を守るお仕事』のシステムデザイン」も参照。
『BUNNYBLACK』シリーズ(2010/2012/2013)については、何が目指されているのか、何が実現されてきたのかの評価は、難しい。シリーズ全体を通してのおおまかな印象としては、RPGというオーソドックスなシステムを基盤としつつ、アタッチメントとしての新規システムや続編としてのリソース再利用を試みたのであろうかと考えている。紅村氏の描く魔族キャラたちの生活感は第一作から一貫しているし、第二作での天界との直接的衝突の劇的な物語、第三作ではさらに豊かさを増したヴィジュアルイメージと、それぞれに見所がある。