2016/01/11

大量のキャラクターたち

  何十人ものキャラクター(ヒロイン)を含む作品。


  ヒロインを何十人も登場させる、キャラクター大増量スタイルは、いつ頃から流行してきたのだろうか。2001年の「どきどきすいこでん」ネタの時点では、まったく非現実的だと見做されていたと思う。すなわち、大量のキャラクターをデザインするのはあまりにも高コストであり、かつ、それらをゲーム進行/ストーリー進行の中で適切に配置し活用していくのは困難を極めるだろう、という見解が基礎にあっただろう(――少なくとも私は、そう考えていた)。しかし、潮目が変わってきた。漫画では、2003年開始の『ネギま!』からだと言っていいだろうか。アダルトゲーム分野では、『恋姫†無双』(2007)以前には何かあっただろうか?(――『鬼畜王』や『マブラヴ』シリーズは、過去作品からのキャラクター再利用が大量にあったので、新規タイトルとは言いがたい。ただし、似たような趣向の全年齢ゲーム『SRW』シリーズ[1991-]は、明らかにこの潮流を形成し先導してきた重要タイトルであるが)。この観点で、上記『ネギま!』と同時期の――そして奇しくもほぼ同一の手法を採った――『Maple Colors』(2003)は慧眼であったと言うべきだが、残念ながら当時はそれほど広汎に燃(萌)え広がったわけではなかった。SLG系ブランドの大作や、『Sacrifice』(Rateblack、2001)、『まじれす!!』(すたじおみりす、2004)、『鉄腕がっちゅ』(すたじおみりす、2004)も、この方向性の先鞭を付けた作品だったと言えるかしもしれないが、しかしこれらは、ヒロイン毎に使い切りの単発イベントがある程度だったり(SLG/黒箱系)、あるいはいくつかの束にまとめられてルート分岐するため最初から最後まで全てのキャラが居合わせているわけではなかったりした。

  いずれにせよ、多種多様な大量のキャラクターを登場させて、「少なくとも誰か一人はお気に入りキャラが見つかる筈」という戦略で、それを手掛かりにして大量のユーザー(ファン、購入者、参加者など)を引き入れようとするアプローチは、00年代後半からこの10年代にかけて、大いに普及してきた。もちろん、それは不可避的に高コストの大作として制作されることになり、したがってタイトル数としてはそれほど多いわけではなく、ましてや成功したタイトルとなると依然としてきわめて少ないのだが、一つ一つのタイトルの売れ行きやユーザー数が大きくなるため、全体としてのプレゼンスは非常に大きい。

  この手法は、キャラクター優位文化が支配的地位を獲得するのと歩調を合わせ、さらに、社交性と射幸性の強い携帯ゲーム/ソーシャルゲーム/オンラインゲームと親和的なものであることが明らかになってからは、詳細かつ大規模なストーリーを提供せずとも大量のキャラクターたちを(それぞれに特有の仕方で)捌ききれるゲームデザインが成立した。この方向性はおそらく、今世紀のオタク文化を特徴づける重要なモード(の一つ)であり続けていくのだろう。

  もちろん、それ以前からも、連載長期化などの事情によって後発的に大量のキャラクターを抱えることになった作品はいくつもあるが、とりわけ近年のアプローチでは、大量のキャラクターたちが最初から提供されている(すぐに出会えるのであれ、存在が告知されているのみであれ)か、あるいは少なくともじきに大量に登場していくであろうことが予定されているという違いがある。

  どうしてこのようなことが可能になったのだろうか。さしあたり考えられる要因としては: 1)上記のキャラクター基軸享受の普及。あるいはその裏面として、キャラデザの飽和(あるいは属性の浸透と拡散)により、ごく少数のキャラクターの一点突破が困難になってきたこと。2)web利用の普及に伴う、(潜在的な)クリエイターの増加による、キャラデザのコストダウン。3)多数のキャラクターを同時に扱えるようなゲームデザインの普及や、大量のデータを保存/管理したり高速通信したりできるような、インフラや技術的容量の整備。このあたりだろうか。

  漫画でも、アニメでも、ゲームでも、大量のキャラクター(とりわけ萌えキャラ)を大規模に展開しつつストーリーをゆるやかに進めていくスタイルは、すべてのクリエイターや企業が採りうるわけではないが、高さ収益の見込みのある路線として、おそらく今後も活発に試みられていくのだろう。個人的には、そういうスタイルにはなかなかちっとも馴染めないのだが、理念レベルでは、特定のキャラクターの特殊な行動――いかにもらしい物語になってしまうような――ばかりが注目されるのではなく、キャラクターたちがいる場そのものを楽しむという流儀が普及しているのは、歓迎すべきことだと考えている。