2017/07/04

ディストピアとアダルトゲーム

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  この人物が掲げている定義も、ほとんど間違いと言っていいほど偏っていると思うのだけど、それに対するツッコミがほとんど入っていないのが不思議。以下、私見をば。


  【 「ディストピア」と「ポスト・アポカリプス」の語義再検討 】
  ディストピア(DT)は悪夢的な高度管理社会に限定されない。それは典型例の一つではあるが、それ以外のさまざまなタイプもこの言葉の一般的用法に含まれる。
  語の成り立ちからしても、「否定的な(dis)-場所(topia)」を幅広く指しているに過ぎない。日本でも「○○トピア」という独自のネーミングを見かけるが、元々「トピア(topia=topos)」は価値中立的に「場所」という意味しか持っておらず、「幸せな場所」という含意は無い。
  したがって、意味合いとしては、「ユートピア(どこにもない[理想的な幸福の]場所)」の対義語として、「きわめて悲惨な社会」を広く指す言葉と捉えるのが妥当だろう。表面上の理想郷的状態という条件は定義を過度に狭めている。一見平和な抑圧的社会のみならず、あからさまな暴力的抑圧の社会もまた、ディストピアと呼ばれうるはずだし、実際そのような趣旨での用例も十分多い。
  私見では、「ディス」という否定の価値観を含む言葉なので、おそらくはそうした評価を帰属させる対象としての人類が(悲惨なかたちで)生存していることは最低限前提になると思われる。また、主にフィクションや思考実験の場面で用いられる言葉であり、過去または現在の実在の抑圧的政治体制をディストピアと呼ぶことは稀だろう。
  とはいえ、単なる無目的的な自然環境よりも継続的な人為乃至文化としての社会制度、慣習、政治体制のレベルの方が、人々が生活している「場」のありようとして注目されがちであるかもしれず、その意味では、「歪な社会制度」「邪悪な共同体慣習」「抑圧的な政治体制」こそが最も皮肉な悲惨であり、したがって最もディストピアらしいディストピアであるという捉え方は、それはそれで一理ある。

  一方、ポスト・アポカリプス(PA)も、言葉の意味からして「大災害後(の世界)」をおおまかに指す、外延の広い概念だ。人類絶滅後状況に限定するのは、むしろ一般的な用法を大きく外れているように思われる。
  この言葉が用いられる時は、巨大な厄災によって生活環境が極限状況にまで追いやられるというプロセス(またはその事件それ自体の描写)こそが主眼なのであって、人類が絶滅しているか、それとも近代文明を喪失するほど後退しているか、それとも曲がりなりにもその厳しい環境下で従前の文明を維持しているかについては、いずれの場合も含みうる。また、近代文明がほとんど維持できなくなるほどの大災害が、自然現象(例えば隕石落下)によるものか、それとも人為的な事態(例えば全面的核戦争)によるものかも問わない。ただし、アポカリプス(=黙示録)の語義からして、長期的漸次的な衰亡ではなく、特定の大きなカタストロフを経験した世界を指すのが、おそらくSF分野における一般的な用法だろう。
  いずれにせよ、少なくとも現代科学文明の危機乃至崩壊は(概念上あるいは事実上の)必須条件であると思われる。しかし、上記発言のいう「生命が死んだあとの楽園のような平和」という条件は、不必要に状況を限定しすぎており、かえって不適切な定義になっている。人類絶滅後状況のみに限定するのは、むしろ非常に珍奇な理解であるように思われる。人類がまだ生存しており過酷で悲惨な世界でサバイバルする状況が描かれる作品の方がはるかに多いだろうし、それらをPAと呼ぶ用例乃至認識は十分に多い。

  PAに類するジャンル概念乃至シチュエーション認識として、いわゆる「終末もの」という言葉もあるが、そちらは大災害が起きたか否かにかかわらず(人類の緩やかな衰亡のパターンも含めて)、人類が終末に瀕した状況を描いている作品を広く指して使われるので、やや意味合いは異なる。双方は、ほぼ同義(互換的)に使える場合もあるだろうし、PAであるが終末的ではない状況(例えば大災害後の世界でも人類が高度文明と安定的社会を維持しつつしたたかに生き延びている)という場合もあり、逆に非PAな終末状況(例えば『タイムマシン』のような、大災害が描写されないままの緩やかな衰亡)もある。
  なお、終末もののフィクションにおいては、その語義からして人類は近いうちに滅亡する(あるいは作中で実際に滅亡する)ため、DTとは相性が悪いと思われる。DTは、過酷環境におけるライフスタイルを主題化しており、そのような社会が確立され固定化され永続していくことこそがまさに悲劇のドラマになるからだ。

  非人間的な管理社会もディストピアだが、大災害後の世界(ポスト・アポカリプス)もディストピアの一種だ。二つの概念は相互排他的ではなく、むしろしばしば包含関係に立つほど密接に絡み合っている。例えば「核戦争で近代文明が崩壊した過酷な世界で、極度に暴力的な支配体制が行われるようになっている」のであればDTかつPAである。それをDTと呼ぶかPAと呼ぶかは、正誤択一の問題ではなく、視点の置き方の違いにすぎない。なお、「科学技術の順当な進歩の結果として行き着いた、非人間的な高度管理社会」であればDTかつ非PAであるし、「大災害後に、生き残った人類が細々と寄り添い合って曲がりなりにも落ち着いて暮らしている世界」であれば非DTかつPAだろう。もちろん非DTかつ非PAもある。



  【 言葉の用法をどのように考えるべきか 】
  ただし、これらの言葉は近代以降の造語であり、しかも特定分野で多用される術語としての性格を強く帯びている。そうした場合に、一般的用法や歴史的文脈を無視して語義を語るのは一面的であろう。SFなどで「ディストピア」と言う場合、たしかに多くの場合、未来または架空の抑圧的管理社会が代表的なイメージとして共有されてきた。また、個別の文脈では、それらの言葉を使用しようとする者がその場での限定的な定義を提示しても構わない(――「本日の講演では○○という側面に焦点を当てて論じます」といったように)。しかしそれでもなお、あるいはその場合にはむしろ、上記発言は一般的用法から外れた歪な理解だと言えるだろう。SF関係の書物で使われている用法も、あるいはweb検索でヒットする用例傾向も、「一見平和的である」という条件に該当しない作品がDTジャンルで数多く取り上げられているし、PAを「人類絶滅後の平穏」という状況に限定しているものはむしろきわめて稀だ。

  いずれにせよ、正誤の問題として言葉の定義問題を提起する際には、「主張を提起する者自身が正確な定義を提示していること」および「その定義が当該事例に対して厳密なものとして排他的に適用可能であること」が必要になる。前者の要件が充足されていないならば、主張者自身が誤っているのだから論外だし、後者が満たされていないならば、正誤の問題として扱うことができない。上記発言はどちらも満たしていないので、主張としては失格。双方の指すところが似通っていて混同しやすいという指摘それ自体は注意喚起として有意義なものだが、その指摘のために誤った定義を持ち出してしまうようでは本末転倒だろう。

  このように十分な議論の蓄積が存在しているところに不用意な発言をすべきではない。自説を提起する前にまずは少しでも調べることだ。それはべつに既成の権威に従えという話ではない。「信頼できる蓄積が存在するかどうかを確かめる知的誠実」、「信頼できる蓄積があれば利用するという効率」、「既存の主張を再吟味することになるという効用」、「実際にその言葉を用いている他の人々の立場(認識)を尊重する姿勢」、「自分一人の思い込みに閉じこもったり他人のデマに踊らされたりしないための保障」の全てに関わる重要なプロセスだ。



  【 筆者なりの理解 】
  定義というほどではないが、筆者なりの理解(用法)をもう一度整理しておこう。
  「ディストピア」とは、人類が非人間的なライフスタイルを強いられている架空の状況を指す。非人間的状況が、邪悪な社会制度によるものか、それとも主として自然環境の過酷さなどに起因するかは問わない。また、非人間的であるかどうかの判断は、当事者の認識によるのではなく、読者(当該架空状況を想像する者)の価値観による。
  「ポスト・アポカリプス」とは、近代文明が危機に瀕するほどの全世界的厄災に見舞われた後の架空状況を指す。原因となった厄災は、巨大自然災害に発した状況であってもよいし、人為的原因や超自然的存在の介入による場合もこう呼ぶことができる。また、近代文明のみならず人類の生存そのものが終末的危機に晒されている場合も含む。
  もちろんこれと違った理解をする人もいると思うが、私はおおむねこのような意味合いでこれらの言葉を使用するだろう。ただし、DTは非人間的生活という具体性のある状況を指す言葉なのでわりと頓着なく使うが、PAは内容がきわめて不明瞭であるためほとんど使わない。意味が広汎かつ多義的にすぎるので、たいていの場合、わざわざこの言葉を持ち出す意味が無い。
  著名な古典SFでいえば、例えば『1984年』は管理社会型DTの典型例であるが、PA要素は伴っていない(※本編時点の数十年前に核戦争が発生したということになっているが、本筋にはあまり影響しない)。また、『渚にて』は第三次世界大戦(全面核戦争)というPA状況であるが、その後の社会体制の歪みが主題化されているわけではなく、そのまま人類が滅亡に向かうであろうことを示唆しているため、DTとは言いがたい。



  【 アダルトゲーム分野における実例検討 】
  アダルトPCゲーム分野の中で、「DTかつPA」、「DTかつ非PA」、「PAかつ非DT」の三つのパターンについて、それぞれいくつかのタイトルを紹介しておこう。

  1) DTかつPA(大災害後の過酷状況)

  アダルトゲーム分野にも、DTかつPAな世界はある。例えば『MERI+DIA』(ぱれっと、2005)は、まさに全地球的大災害後の近未来世界である。謎の壊滅的厄災により、多くの都市が崩壊し、また海面上昇によって標高の低い地域は水中に没している。社会的経済的にも、格差が拡大して各地にスラムが出来ており、その一方で私設軍隊を備えた大企業もある。さらに、違法な人体改造も横行している。そうした世界にあって、主人公たちは賞金稼ぎとして活動しており、街中での銃撃戦も行う。ただし、全体として見れば近代文明とその秩序は健在であり、犯罪は一応取り締まられるし、ネットインフラもなんとか維持されている。

  『リヴォルバーガール☆ハンマーレディ』(KAI、2012)も、大災害後の荒廃したアナーキーな世界である。遺伝子改変を来した新種の人類(?)も存在する世界である。環境の過酷さのみならず、それに対応するための社会生活の歪みも、時折言及されている。ただし、大災害それ自体はクローズアップされておらず、謎めいた枠組設定の次元にとどまっている。

  『マブラヴ』シリーズ(âge、2003-)は、攻撃的異星人が大量襲来した世界であり、人類全体の生存が脅かされている。DT的性格はそれほど前景化されていないが、異星人との全面戦争のために各国の政治体制は軍国的傾向を強めている。『終末少女幻想アリスマチック』(キャラメルBOX、2006)も、謎の厄災に襲われた後の世界を描いているが、SFだけでなく学園もの、バトルもの、伝奇ものの側面も持つ、複雑精妙な物語である。まさに『Apocalypse』(NEXTON、2003)と題された作品は、遠未来世界を舞台としているが、生きている人類がほとんど存在しないので、DT的性格は希薄である。

  『SWAN SONG』(Le Chocolat.、2005)は大地震に見舞われた人々の物語であり、作中の描写は局地的なものだが、いつまで経っても救助が来ないことから、他の地域も壊滅的な被害を蒙っている可能性が高い。何日も、何ヶ月も経つにつれて、生き残った人々のコミュニティは武闘組織によって暴力的に支配されるようになり、また他の地域では宗教団体によって強固に意思統一された生存者共同体も現れる。超自然的要素をほぼ含まないDT&PAストーリーの一例である。

  ポルノゲームらしい状況設定としては、例えば『世界に男は自分だけ、全世界の女性を妊娠させて人類を救え!』(MBS TRUTH、2009)は、タイトルどおりの状況であり、主人公以外の男性はすべて新型インフルエンザで死んでいる(パンデミック=大災害)。そして男性主人公は、「人類保存計画」「世界有性生殖推進協会」の下、与えられるがままに性交を繰り返していく。当事者たちが幸せと感じているかどうかはともかく、プレイヤーの多くはこれを悲惨な社会状況を描いた悲喜劇と認識するであろう。

『MERI+DIA』 (c)2005 ぱれっと
「悪夢の木曜日」と呼ばれる大災害により、海面上昇や社会的混乱に見舞われている。人口は激減し、政治的経済的格差により各地にはスラムが生まれ、違法医療などが蔓延しているが、そうした中でヒロインたちは賞金稼ぎとしてしぶとく生き抜いている。
『リヴォルバーガール☆ハンマーレディ』
(c)2012 KAI
大災害によって荒廃しきった地球。デッドヘッズと呼ばれる攻撃的な新種人類が徘徊している。普通(?)の人類も、赤外線認識能力や帯電能力といった特殊な体質乃至能力を持つものが現れている。


  2) DTかつ非PA(大災害は描かれていないが、人類は過酷な環境下にある)

  DTかつ非PAだと、『ぜったい遵守☆強制子作り許可証!!』(softhouse-seal GRANDEE、2010)では、極端な少子化社会の下で性交が強制されている。背景設定が異なる以外は、上記『世界に男は自分だけ』と同じようなシチュエーションである。個人の身体の自由や性的自己決定が大きく制限されているという意味で、現代人の感性からするとDT的性格が強い。

  SF的性格の強いタイトルとしては、たとえば『R.U.R.U.R』(light、2007)は、遠未来の巨大宇宙船の中でコールドスリープから目覚めた少年主人公の話。ヒロインたちは全員ロボットであり、また中央コンピュータが行政府としてあらゆる決定を行っている。ごく小規模であるが、隠微な管理社会型のDTと言ってよいだろう。戯画の『BALDR』シリーズも、未来の電子的管理社会であり、人々の電脳支配を目論む電子企業の陰謀も関わってくる。小説『時計仕掛けのオレンジ』のネタなども取り込みつつ、典型的なディストピアSFのシチュエーションを踏襲している。

  『わんことくらそう』(ivory、2006)、『ワンコとリリー』(CUFFS、2006)、『さくら色カルテット』(アトリエかぐや、2011)のように、人間型ペット――耳や尻尾によってヒトと区別されている――を飼育するのが普通になっている社会は、見ようによってはきわめておぞましいDTである。このペットたちは、飼い主から愛されて幸せに生きているが、人類と酷似した外見を備えて言語的意志疎通すら成立している生物がペットとして扱われている状況は、素朴に楽しむことはできまい。とりわけ前二者においては、作中の主人公自身も、この人型ペットたちのことを対等の人間的存在とは見ておらず、あくまでペットとして扱っている(――ただし、これらのペットとも性交をするのだが)。そして、主人公と結ばれるヒロイン役は、ホモ・サピエンスのキャラクターが別途用意されている。

  黒箱系の戦闘ヒロインものなどでは、主人公が悪の組織に加担して地域支配や世界征服を目論む場合がある。現代世界であれ、前近代的な架空世界であれ、主人公サイドにとってのハッピーエンディングでは、しばしば民主的正統性を持たない暴力的支配が確立される。ただし、一足飛びに世界征服にまで突き進んでしまい、DT的描写は重きを置かれないことが多い。また、いわゆる「田舎の性的な因習」をモティーフにした一連の作品では、その小さなコミュニティの中で非常に抑圧的な(しばしば若年女性の性的尊厳を踏みにじるような)支配が成立している。

  いずれも大災害などの破滅的カタストロフは起きていないので、PAシチュエーションではない。

『BALDR FORCE』 (c)2003 戯画
高度に電脳化された近未来世界。 巨大電子企業や私設軍隊が力を付けており、人々の電脳意識支配を企んでいる。その一方で、陰謀を知った抵抗勢力がゲリラ的攻撃を続けており、また経済的格差により荒廃したビル街にスラムが出来ている。

『ワンコとリリー』 (c)2006 CUFFS
人型のペットを飼育するのが常識となっている世界。それらを売買する専用ペットショップも存在する。その点以外は、おおむね現実の現代日本と同じである。人型ペットの詳細は本編でほとんど語られないが、その外見は人間に酷似しているため、我々プレイヤーの現実感覚からすると作中の状況はきわめてグロテスクに映る。


  3) PAかつ非DT(大災害が起き[てい]るが、人類の生活条件は致命的には悪化していない)

  PAかつ非DTだと、 例えば『ひめしょ!』(XANADU、2005)は、大災害後の近未来世界であり、遺伝子改造された人類がいる。既存の政治体制は崩壊したようで、各地に王権的支配が成立しているが、DTというほど過酷なものではなく、主人公たちも安穏と近代的な学園生活を営んでいる。『斬死刃留』(Amolphas、2009)は、第二次大戦中の日本に古代の魑魅魍魎が大量発生したというPA的背景設定のある世界であり、東京は魔物の穢れに汚染された魔都になっているが、人類の近代文明および社会体制はおおむね現実(現代)の水準を維持しており、DTとは言いがたい。『沙耶の唄』(nitro+、2003)のように、人類が絶滅するエンディングを含む作品もあり、この場合はもちろんDTを一足飛びに超えてしまっている。

  遠い過去に近代文明がいったん滅んだ後に、前近代めいた牧歌的世界になっているという状況設定も、オタクには親しいものだろう。アダルトゲームでは、例えば『うたわれるもの』(Leaf、2002)や『シュガーコートフリークス』(Littlewitch、2010)が、このような世界設定の下でストーリーを展開している(拙稿「近未来もののアダルトゲーム」を参照)。『パンドラの夢』(pajamas soft、2001)も、似たような状況設定だったと思う。

  『はるかぜどりに、とまりぎを。』シリーズ(Skyfish、2007/2010)は、一時的な大災害ではないが温暖化による気候変化や海面上昇に晒されており、ただし市井は人々は案外のんびりと暮らしている。『しすたぁエンジェル』(Terralunar、2002)や『青と蒼のしずく』(Lass、2003)でも、悲劇性とロマンティシズムと併せ持った海面上昇シチュエーションが採用されている。どちらかといえば「終末もの」の雰囲気が強い。

  終末的危機が今まさに訪れようとする直前のひとときを取り上げた佳品、『終末の過ごし方』(abogadopowers、1999)も、作品全体のトーンは穏やかであり、学園に集った人々はその最後の一週間のうちに、思い思いに自身の生の意味を求めて彷徨い、互いに交流する。すなわち、「――次の週末に人類は滅亡だ」(abogadopowers公式サイトより引用)。ポストならぬプレ・アポカリプスの一刹那をミニマルに描いて1999年に発売された印象的なタイトルである。

『沙耶の唄』 (c)2003 nitro+
異次元からの超自然的存在の侵入により、エンディングによっては人類がほぼ完全に死滅する。緻密に造形されたビル群の無機的な質感と、それを覆う内臓のような奇怪な生命体群との間のコントラストが印象的である。

『はるかぜどりに、とまりぎを。2nd story』 
(c)2010 SkyFish
海面上昇によって多くの都市が水没した世界。本シリーズや上記『MERI+DIA』のほか、『しすたぁエンジェル』『青と蒼のしずく』『ひめしょ!』でも同種の趣向が扱われており、いずれもカタストロフを経験し衰亡に瀕した人類文明とその美しさを懐古的に描いている。
『うたわれるもの』 (c)2002 Leaf
超自然的存在の暴走により現代文明が滅び、人類が遺伝子操作で作り上げていた亜人たちが地表に逃げ出して数千年(?)が経過したのが、本編開始時点の状況である(ただし、冷凍睡眠していた主人公も含め、登場人物たちはこのことを知らない)。古代並の文明水準であるため、生活はけっして楽ではないが、のどかに暮らしている。


  こうして実例に即して検討し直してみると、これらの概念は非常に多義的でデリケートなものであって、安易に切り取って論じることは出来ないということが再認識される。ここで紹介してきたタイトルの多くは、最初に言及したDTおよびPAの(誤った)定義に合致しないが、それでも大多数の者はこれをDTまたはPAと呼ぶだろう。



  【 アダルトゲームの分野的、媒体的特質との関わりにおいて 】
  アダルトゲームの分野的特性との関わりでいえば、 この分野はDT/PAのような悲惨な状況の描写をさまざまな形で取り込むことができるし、実際こうした状況設定をさまざまな形で活用してきている。簡単な展望を試みておこう。


  1)アダルトゲームは、「ゲーム」である。すなわち、参加的メディアであり、ユーザー(プレイヤー)は選択肢をはじめとする様々な手段によって物語の展開に介入していく。そのため、ハッピーエンド以外にも、アンハッピーな結末を包含することのできる余地が大きい。それは、一つには、古典的な「挑戦的遊戯としてのゲーム」観の下で、プレイヤーのプレイイングの失敗の帰結としてのバッドエンドが描かれることもあれば、物語の多様な展開のワンオブゼムとして提供されたものである場合もある(マルチストーリー、マルチエンディング)。これは、通常のアニメや漫画が単線的かつ確定的な単一の物語展開しか持たないのと比べて、ゲーム媒体が有するアドヴァンテージの一つである。

  たとえば、上で言及した『沙耶の唄』では、プレイヤーの選択肢によって、一応は問題を解決した(人類は滅亡の危機を回避した)が主人公は病院生活を送る羽目になるという苦いエンディングもあれば、異形の超自然生命体が地球全体を覆い尽くして人類が事実上滅亡するというエンディングもある。システムから提供されている物語の振れ幅の中に、DT/PA展開の可能性もまた豊かに息づいている。


  2)アダルトゲームは、「アダルト(成人向け)」のゲームとしての側面も持っている。それは、性表現における自由さだけではない。苦いユーモアや隠微な皮肉、厳しいジレンマ、過激なバトルシーン、そうしたものを遠慮なく表現できるのも、この18禁分野の強みである。実際、地上波TVアニメや雑誌掲載漫画と比べても、血生臭いゴア表現(例えばCYC)や、ヒロインの人格を踏みにじるような蹂躙表現(例えばCLOCKUP)を存分に展開してきた。そして、作中世界における人類の生存状況全般に関わるようなDT/PAシチュエーションの悲劇も、アダルトゲーム分野は得意としてきた。そうしたエキセントリックで刺激的な表現の可能性を享受している分野の一つである。

  たとえば、上記『わんことくらそう』『ワンコとリリー』のようなデミヒューマン飼育が常識となっているというブラックユーモアめいたい社会状況を丁寧に描き出していくのは、他の分野でも実行可能であるが、アダルトゲーム分野がこうした表現にも意欲的に取り組んできた分野の一つであることは確かだろう。


  3)DT/PA表現にとっては、アダルトPCゲームには、表現媒体としての長所もあるだろう。すなわち、静止画ベースであるため非常に高品質なCG(視覚表現)と、長い制作期間の中で十分に練り込まれたBGM(音響表現)、そして1MB~2MBにも及ぶ長大なテキスト(文字表現)のキャパシティ。これらがすべて揃っているアダルトゲーム分野は、特殊な架空状況を描き出すうえでも非常に好都合な条件を持っていると言える。

  背景画像は、日常の学園風景であろうと、SF的な架空状況であろうと、同じクオリティで精密に描き出すことができる(――実のところ、制作コストはあまり変わらないようだ)。特殊なシチュエーションであればあるほど、それを全画面静止画として十分に見せることのできるアダルトゲーム(とりわけAVG形式)は、DT/PAストーリーにとってたいへんな利点となる。

  さらに、アダルトゲームで現在支配的なAVG形式は、テキスト進行を基礎としている。複雑精妙かつ多面的な視聴覚演出を豊かに展開している一方で、依然としてゲーム進行の基盤はテキスト(文章)を読み進めることにある。DTやPAのように特殊な社会体制や世界的な環境変動を伴う物語を描き出すうえでは、絵や音楽だけでは説明が難しい。例えばアニメで背景設定をナレーションで何分も説明し続けることは難しいだろうし、漫画作品が複雑な架空社会体制を言葉(ネーム)で説明していくのにも限界があるだろう。それに対して、アダルトゲームの媒体は、長大なテキストを扱うのに適している。しかも、LN以上に大規模なテキストを、視聴覚表現と協働して展開することができる。フィクショナルな状況を丹念に説明するテキストの饒舌に開かれているという点で、SF的架空シチュエーション全般に対して、アダルトゲーム分野にはメディア的な適性がある。

  アダルトゲーム作品には、注釈機能や辞書機能を備えているタイトルもいくつか存在する。例えば『終末少女幻想アリスマチック』では、通常のメッセージウィンドウに表示されるテキストの中に、キーワードに設定されているものがあり、それをクリックすると注釈テキストのミニボックスがポップアップするというものである。また、『斬死刃留』には、キーワードを集めて解説した辞書機能があり、本編進行中にプレイヤーはいつでも確認できる。このように、拡張的なテキスト管理メカニズムを持って、本編進行外で補足的情報を提供することも行われている(――なお、このようなシステマティックなキーワードリンク機能を最大限活用してみせた個性的なタイトルとして、『最果てのイマ』[xuse、2005]がある)。実例については、演出技術論Ⅳ-4-3-αでも紹介した。


  要するに、アダルトゲームは、視覚表現+聴覚表現+文字表現+進行制御機能を備えたインタラクティヴなアダルトジャンルのマルチメディア表現であり、そこでは子供向けの配慮を振り捨てて、柄の大きな物語を腰を据えてゆったり語りつつ、それを豊かな視聴覚表現によって、提示していくことができる。この特性は、DTやPAのような過酷な架空状況をモティーフとして取り上げるうえでも、分野文化的、技術的、費用的なアドヴァンテージとして働いているし、実際にDTやPAの要素を取り込んだ優れた作品が数多く現れている。