2017/08/10

本職声優の意義と素人吹き替えの困難

  素人声当てに対する本職声優の意義について。


  1)本職声優の「技術」とは
  プロフェッショナルな声優は、音声表現の様々な技術を知悉している専門家であり、そしてそれゆえ、現場での自らの表現を調整(コントロール)することができる。私見では、この点こそが本職声優を使うべき最大の理由だ。 

  アニメであれ実写吹き替えであれ、映像作品は全体設計の芸術であり、監督を中心として視覚的表現(カメラワーク、大道具や小道具、色彩設計など)、音響表現(BGM、効果音、環境音など)、言語表現(主に科白)を特定のコンセプトの下に組み立てていく営みだ。それゆえ、音声収録の現場でも、音響監督を中心として、演出指示、意見交換、録り直しといった調整作業が当然行われている。そうした現場にあって、技術のある本職声優は、みずから台本の意味をきちんと解釈しつつ、その場面の意味を把握しつつ、その場にいる共演者たちの表現も視野に入れつつ、そして演出指示の意味を理解しつつ、それらに合わせて自らの音声表現をチューニングすることができる。そうしたプロフェッショナルな仕事によって、優れた作品は生まれてくる。

  「声優のプロフェッショナルなスキルとはどういうものか分からない」とか「素人でも大差ないんじゃないか」といった意見に対しては、こうした点を指摘することができるだろう。本職声優の意義とは、ただ単に声色が耳心地良いというだけではないし、きれいに言葉を聞かせる発声だけでもない。作品の意味作用がどのようなものになるかを理解し、そして自分なりの解釈としてそれを作り上げることに参与できるためのあらゆる技術を備えていることにある。プロの声優は専門職としてそうした技術を持っているものだし、そして、受け手の側は(社会全体は)そうした専門技術を尊重し、それに対して正当な評価を認めなければならない。


  2)素人の声当ての問題
  それに対して、たまたま存在感のある発声をしているとか、あるいは際立った美声の持ち主であるとかいった天与の偶然的な性質を備えた者は、もちろん本職声優以外にも――例えば芸人やモデルにも――いるだろう。しかし、そうした人々は、基本的には音声表現のテクニックに関しては「素人(非専門家)」であり、表現効果を考慮したうえでのコントロールをすることが出来ない。例えばリップシンク(口パク合わせ)一つ取っても、素人はその正確性において劣る。

  例えば、ごくおおまかな演出指示の例として、「今の科白をもう少し穏やかに」、「ここでは声を張りすぎないように」といった指示を音響監督から受けたとして、それを適切に自分の声に反映させることが出来るだろうか。少なくとも私には出来ない、もしくは何十回と録り直しを続けて最善と思われるものを音響監督に選び取ってもらうことしかできないだろう。あるいは、自分が担当する役を、90分なり120分なりの長さに亘って最初から最後まで、一人のキャラクターとしてそのアイデンティティを自力で保持し続けることができるだろうか。役を作り込むということを行わずにただ声を出しても、そのキャラクターの芝居は科白毎、シーン毎にブレブレになってしまうだろう。

  つまり、素人とは自身の表現をみずからコントロールすることができない者であり、そうした者は表現者として自立していないし、制作過程において融通が利かないのだ。素人を起用することの最大の問題はこの点だと思う。技術のない素人には、「こういう表現をするか、それともこんな表現にしてみるか」といった取捨選択の可能性(水平的選択)が見えていないし、また、特定のアプローチを選び取ったうえでそれをより良いものに洗練させていくためのノウハウ(垂直的選択)も存在しないし、そもそも特定の選択を一貫したかたちで保持すること(選択の責任帰属可能性)すら出来ない。それが問題なのだ。

  例えば、本職声優に見本となる芝居をさせて、それを聞かせたうえで当該素人にアフレコをさせるということもあるようだ。その場合は、台本の解釈を踏まえた具体的な発声のガイドが一応存在するわけだから、ある程度は上記の問題を解消する。ただし、それは弥縫策に過ぎないし、細部に至るまでのチューニングが出来るとは限らないし、見本を聞いたからといってその表現の仕方を素人が再現できるという保障も無いし、そこまでするならばその本職声優にそのまま本番として演じさせてしまえばいいだろう。声のみで役を演じるというのは非常に特殊な営みであり、ノウハウのない者にはほとんど不可能だろう。素人が上手く演じているとしたら、それはおそらく、周囲の制作スタッフがうまく聞こえるように追加的な労力を掛けることによってようやくそうなっているのだ。

  現代の声優はいまや非常に激しい競争状態にあり、オーディションに候補として挙がってこられるくらいの本職声優であればほとんど誰でも、基礎となる音声表現技術を幅広く修得しているだけでなく、いわゆる「存在感」「美声」「個性」といった側面でも、しばしば高い要求をクリアしてきている人ばかりだろう。その意味でも、現在大量にプールされている本職声優の人材を外してわざわざ素人から起用するのは、よほど特定の声を作品の色合いとして取り込みたいという場合でもなければ、意味が無い。

  芸術作品の形成にとって全体設計と相互作用が重要であるということは、素人起用は他の共演者に対しても悪影響を及ぼしているということだ。現在では、わざわざ素人起用される非声優は、ほとんどの場合、モデルや芸人などの本業で活躍している有名人であり、その多忙さと技術的落差のゆえにその者だけが別録りされるのが通例であるようだ。通常のアニメ収録や吹き替え収録は全員同時収録であるところ、その一人だけが同時収録に参加していない――その部分だけ音声表現する共演者が欠落する――というのは、収録現場にとっては負担になるだろう。通常の本職声優収録でも、場合によって別録りになることは時折生じているようだし、本職声優であればそうしたイレギュラーにも容易に対処できると思われるが、素人別録りは少なくともマイナスの効果はもたらしうるとしてもプラスの作用を及ぼすことはまず無いだろう。


  3)まとめ
  要するに、技術の無い素人の声優起用は、1)全体の演出に合わせた表現が困難であり、2)他の共演者たちに対しても負担を強いている可能性が高い、という理由からして、好意的に見ることはできない。もちろん、個別タイトルでたまたま(あるいは制作者たちの尽力のおかげで)優れた作品になったという事例はあるだろうが、アプローチそれ自体としては首肯できないのだ。自分の力で音声表現をコントロールすることもできないし、プロから演出指示を受けてもそれに即した表現が実現できる保障すら無い、そのような非専門家を起用することは、作品の音響的クオリティを実現するうえで妨げになるだろう。

  実際、素人声当て作品に対する視聴者の感想として、「○○さんの声だけが浮いている」「○○さんの顔が浮かんでしまう」といったコメントを、頻繁に目にするだろう。それはまさに、「その素人が、そのシーンと台本の意味作用を解釈した視聴覚的形成に乗れていない状況」や、「その素人が、素のままで声を出しているだけであって、ろくに役作りをしていない状況」だということであり、しかもそのことが視聴者にもはっきり露呈しているということに他ならない。それは、部分的には、a)そうした問題を解決させられなかった音響監督の責任であるが、b)役作りや台本解釈がろくに出来ていないにもかかわらずアフレコ仕事を希望乃至承諾してしまった素人当人の責任であり、そしてc)門外漢が「声優挑戦」するという実例を企図し実行させてきた人々の責任でもある。


  4)非声優起用のポテンシャル
  もちろん、芸術表現にあっては、あらゆる要素が人為の所産であって自然の要素が存在する余地など無いというのは、それはそれで説得力の低い極論になる。実際、例えば「存在感があるが融通の利かない素人」について、その特質と使いどころを音声表現の専門家が適切に把握したうえで配役するならば、それはそれで表現全体の中での効果を予期して一人の才能を全体設計の中に組み込んでいると言うことができるだろう。映画吹き替え音声における素人起用がそのくらいには慎重に為されていることを祈りたい。

  また、声優ではなくとも、舞台や実写映像の分野で活躍している俳優であれば、台本の解釈や共演者との協働表現については理解している筈だから、それはそれでお互いに刺激になることも十分見込めるだろう。「本職声優」と一口に言ってもその表現技術は時代によって変化するし、基礎乃至目標となる価値観も多様であるから、隣接分野からも摂取しつつ声優表現の可能性をよりいっそう広げていくことには(その過程において生じうるリスクや負担や非効率性にもかかわらず)一定の意義があると思われる。ただし、先に述べたように、そうしたドラマ俳優たちはしばしば別録りをしており、それゆえ共演者たちと芝居の瞬間を共有しているわけではないが。



  ……私なりの立場を言葉にしてみると、だいたいこんな感じだろうか。

  他にも論点は多々あるし、それらにどのようなウェイトを与えるかによっても賛否の姿勢は異なるだろう。例えば、「有名人起用による話題性とそれによる収益上積みの見込みが十分高いならば、短期的個別的に見ても一つの作品を恵まれた形で成立させられるし、長期的に見てもアニメ業界/映画業界を社会の中でより強固に定着存続させることに寄与する」といったように、企画および業界にとっての経済上の効果の側面を重視する議論もあり得るだろう。そこでは、「素人の参加によって、クオリティが低下する(という可能性が生じる)ことと、それを改善するための労力の消耗」というデメリットと、「高い収益が見込まれることにより、潤沢な予算を確保することができ、それは全体のクオリティアップにつながる」というメリットの間の差引勘定が最終的にプラスになるかどうかという問題になるだろう。

  単独記事にするかどうかは迷った。ゲームの話題ではないし。
  幸いにもゲーム分野には、今のところこうした例はほとんど無い……そういえば中川翔子氏のような例はあるが、その方が声優としてまっとうな基礎的スキルをお持ちなのかは知らない。『デスクリムゾン』のあの一連の音声も、社員が演じたものらしいが、これは話題性のためというよりはコスト削減のため(あるいは制作ノウハウ不足)のための処方にすぎまい。ほんのちょっとしたモブキャラの声を制作スタッフが当てているという例もある(――アダルトゲーム分野では、思い浮かぶのは例えば籐太氏。他にもそういうクレジットを見た憶えがあるが、思い出せない)。