【】(2018/06/22)
ワインのことをいちいち「ぶどうジュース」にしなくても、とモヤモヤするのだけど。アニメなどのフィクション作品の中でもそういった事実上の言い換えは行われているし、ましてやストーリーも設定も存在しないようなフィギュアの付属品にまで――つまり彼女がそれを飲む描写など一切存在しないのに――、酒類としての表示を忌避するというのは、異様な状態だ。いったいどうして、こんなにまで(自主)規制が蔓延してしまっているのだろう。ぶどうジュースに目の色を変えるマニアとか、ぶどうジュースで乾杯するとか、ぶどうジュースをグラスに注いで格好を付けるとか、ぶどうジュースを飲み過ぎて上機嫌になるといったあからさまな欺瞞的描写を、どうして我々は受け入れねばならないのか。
しかも、こうした禁忌化は、過去の作品にまで遡行してくる。過去に存在した作品までもが封殺されてしまう。もっとも、芸術作品を初めとするあらゆる表現物は社会に向けて発信されるものであり、それゆえそれらを受け止める社会の側にも、個々の表現(物)を受け入れるかどうか――社会の中で当該表現が流通し続けるかどうか――を判断する資格がある。その中で、特定の表現を特定の社会が受け入れることができないとか、あるいはそしの社会で受け入れることが著しく正義に反すると考えられる場合が出てくることは、あり得る。ただしそれは、極力慎重に(謙抑的に)、なおかつ十分な根拠(排除せねばならないほど有害であるという根拠)があると認められた場合のみに限定されるべきだろう。その都度の社会が芸術表現の受容限界を判断するということは、換言すれば、その一つの社会の判断は普遍的に正しいわけではないということを意味する。それゆえ、ある社会が特定の芸術作品の生命を完全に失わせてしまうことを認めると、その芸術作品を受け入れるキャパシティを持ちえたはずの後世の社会が、その芸術作品にアクセスする可能性をも、致命的に奪い去ってしまう。明白で直接的で具体的で深刻な社会的害悪を生じるのでないかぎり、あるいは、一見そのような害悪があるように見える場合ですら、芸術作品やその他の表現物や表現可能性を抹殺することは極力差し控えなければいけない。実際、発表当時には不道徳だとか反体制的だとか不敬だとか冒涜的だとして禁圧された作品が、現代では高い芸術的(文芸的)価値を認められている例は無数にある。また、作品の描写がその都度の時代の価値観の下でむざんに改竄されていく(そしてオリジナルが失われる)歴史も、しばしば生じている。まさに「赤ずきん」も、そうした歴史を経てきた筈だ。
先日の隣国ヘイトフィクションの件にしても、そうした危険性について十分意識的であったはずの人たちまでもが、作品それ自体をきちんと読むことをせぬまま、雰囲気に流されるかのように、出版停止や改稿といった対処をブッ通しで当然視してしまっていた。上記の意味できわめて危険な橋を渡ってしまったと思う。
「キューポッシュ フレンズ」シリーズの「赤ずきん」。オオカミ耳のカチューシャもよく似合っていて、たいへん可愛らしい(※ケモ耳内部の色分けは、塗装ではなく別パーツ)。頭髪色はかなり明るめのブラウンで、適度なウェーブが立体的に造形されている。
上のフィギュアでも、たしかに「こんなに幼げで可愛らしいキャラならば、ワインよりもジュースを持たせた方が似合っているだろう」と言えてしまう。だが、そのような「妥当性」「自然さ」「健全さ」「常識」「無邪気さ」「かわいさ(外見的魅力)」「それらしさ」「本来性」「純粋さ」といった観念はきわめて恣意的なものであり、さらには暴力的な抑圧の道具にも容易に転化する。
【 芸術作品の認識乃至評価の「主観性」とは 】(2018/05/01)
芸術作品や娯楽作品の評価が「主観的である」とよく言われるが、それにはいろいろな場合がある。例えば:
1) 文化依存的な相対性。鑑賞者が属する時代や地域や文化によって、理解できる要素が異なり、また、評価の前提となる価値観が大きく変化する。例えば、ある時代に高い人気を博した作品が、後の時代にはまったく顧みられなくなるといったことはある。この意味における主観性を調停するには、歴史的に俯瞰する視座に立つ必要があるのだが、しかし鑑賞者自身がそこに到達するのは難しい。
2) 価値基準の選択。ひとによって、評価基準が異なる。当該作品について、あるいは当該ジャンルの中で、どのような要素を重視するかによって作品評価が異なる。これは、評価の前提となる価値基準を明らかにしたうえであれば、作品評価を他人との間で客観的に議論することは可能であるし、実際有益でもある。そもそも芸術作品は複合的多面的なものであり、作品の受容および評価に際してもこのような多様性が生まれるのは、むしろ当然である。
3) 個人的な好悪。明確かつ理論的に整備された価値基準とは別に、あるいは、当人にも言語化できないようなデリケートなところで、個人的な好き嫌いが生まれることはあり、そしてその好き嫌いは同一の作品でもひとによってほとんどランダムに変化する。この意味での主観性は、鑑賞者個々人のパーソナルな芸術体験と結びついているため、他人との間で折り合いをつけることはおそらくあまり意味が無い。もちろん、言語化できる範囲であれば、語りあうことによって、上記2)の客観的な議論に接近していくことが出来るし、そこから作品に対する新たな視点を得られることもあるだろう。
例えばゲーム作品についても、「当時はとても面白かったが、現在ではその作品の意義はプログラミング技術の発達によって完全に乗り越えられてしまった」という場合(歴史的相対性)もあるし、あるいは、「この作品が試みているゲームシステムは、アイデアそれ自体は挑戦的であり、大きなポテンシャルがあると考えられるが、さしあたりこの作品はUIのまずさやプラットフォームのスペック不足もあって、完全に失敗している」(評価基準の多面性)とか、「非常に完成度の高い作品であることは理解できるが、たまたま私の精神状態では楽しめなかった」(個人的な体験上の好悪)といった場合がある。
いずれにせよ、「アートは主観的だから」の紋切り型で思考停止してはいけない。
【 デジタルアートにおけるサイズ認識の問題 】
そういえば、ちょうど今日電車の中で考えていたことも、上の話題と部分的に関連する。
複製芸術の極致たる現代のデジタルイラストは、「絵のサイズ」の問題に関して非常に難しい立場にあるのかもしれない。
まったく同一の絵であっても、見る時の大きさによって、作品の印象はおそろしく変化する。そして、ネットで公開されるイラストやデジタルコミックの齣絵、PCゲームの一枚絵などは、鑑賞者(受け手)の環境によっていくらでも変化してしまう。スマートフォンで見る場合と、ノートPCで見る場合と、大画面のPCモニタで見る場合と、自室でプロジェクタ表示する場合とでは、作品の見え方はまるで別物になるし、そして作品の意味も、そしてその評価も異なってしまう(※表示環境による色味の変化は、ここでは論じないことにする)。そして作者は、自分の作品がどのようなサイズで見られるかをコントロールすることができない。つまり、作品のサイズを定めることが出来ない。ここでの芸術的困難は、以下の3点にある。
1) 作品が表示されるサイズが、鑑賞者によって様々に異なる。
2) それら様々なサイズの中で、そもそも「本当のサイズ」というものも存在しない。
3) 作品のサイズを、作者が決定することもできない。
作者の手許には、たしかに「オリジナルサイズ」の画像データは存在する。しかしそれは基本的には、画像処理ソフト上で操作するために引き延ばされた、最大サイズのデータであるに過ぎないし、そもそもpixel基準でのサイズは現実のサイズと何も対応していない。それは、「完成状態として見せるためのサイズ」や「このサイズで鑑賞されることを想定したサイズ」ではない。そのサイズが最も正しいと言うことはできないだろうし、イラストレーターたちもそのような見解には首肯しないだろう。それはいわば、写植前の、レイアウトも何も決まっていない生原稿に等しいのだから。また、データとしてのサイズが確定されたとしても、表示環境(閲覧されるサイズ)が異なる以上、依然として解決の指針は何も与えられていない。デジタルイラストに関しては、そもそも「何が正しいサイズであるか」という問に対しては、「答えは無い」というしかない。そして、同一の画像が、たとえば新作アニメのキービジュアル画像が、何メートルにも及ぶサイズで印刷されて巨大な看板広告として使われる一方で、ほんの十数センチのスマホ画面上で見られもする。
伝統的な美術作品は、(版画を除けば)基本的には一品物であり、そして当然ながらサイズは完全に確定されている。そしてそのサイズを、画家はあらかじめ作品の設計に折り込んだうえで描くのだ(――どのようなサイズの絵を描くかの事前的選択については、パトロンからの指定があったりするし、場合によっては完成後にトリミングすることもあるが、それはともかく)。
サイズの違いは絵の印象や意味を決定的に左右するし、画家はそれを考慮したうえで構図や色彩や筆致をコントロールして、最善と思われる形に仕上げる。例えば、鑑賞者が一目で絵の全体を視野に入れることのできる小ぶりな風景画であったり、あるいは、ちょうど現実の人間と同じくらいに人体を描くことによって強烈な迫真性を生む宗教画であったり、あるいは、横幅数メートルの巨大なカンバス上に展開されることによって細部のリズムを見えやすくしている抽象画であったり。もしもそのサイズが変わってしまったら、作品の構成上の意味も変わってしまうだろう。個々の作品を論じる際にも、当然ながら、カンバスのサイズとその意味に関する言及は現れる。
実物を観るために美術館に足を運ぶのも、あるいは、わざわざ遠い外国から大金を投じて美術作品の現物を持ってきて美術展を開催するのも、実物を実物のサイズで鑑賞することに決定的な意味があるからだ。画集だけではけっして分からないことが分かるし、そもそも画集を見るのとはまったく別種の体験だと言ってよい。
もちろん、そうした実物の絵でも、完全に同一の体験になるというわけではない。見る距離によって見え方は変わってしまうし、あるいは、どのような額縁に入れるか、どのようなインテリアの部屋で見るかによっても変わるだろう。例えば「聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光」のような壮麗な教会天井画が、仮に横置きされてしまったら、どうなってしまうだろうか。落ち着きのない錯視画像のように見えてしまうかもしれない。……しかし、作品が実際にどのようなサイズであるかは完全に確定されているわけだし、そしてサイズの如何は作品解釈の一助にもなる。美術の画集でも縦横のサイズが必ず記載されているのは、そういう事情だ(※それに対してCGの画集では、サイズは記載されていない)。
私はここで、価値判断を下そうとしているのではない。たとえば、サイズに関して「真の正解」があることが望ましいとか、あるいは「本当のサイズ」なるものが存在し(得)ないからデジタルイラストは駄目だなどと主張するものではない。
また、デジタルイラストレーターたちの間でも、当然ながら、サイズに関する意識は伴われている。個々のイラストをどのような場面に露出させるかを理解したうえで、ディテールや色彩や構成を調整している。SNSで公開するのか、単行本の表紙に使うのか、画集に入れるのか、抱き枕を作るのか、「百人展」のようなイベントのために大きくプリントするのか、同人誌即売会のノボリ旗に使うのか、等々。それぞれ、用途とサイズを理解したうえで、アイキャッチ効果の高い配色をしたり、細部の描き込みを追求したり(あるいは省略したり)、素肌の質感に凝ったりしているだろう。
しかしいずれにせよ、現代のデジタルアートの多くは、サイズの問題に関して明確な示唆を与えていない。この作品はどのような大きさで鑑賞すればよいのかという問には、誰も答えてくれない。作者すら、それに関して示唆を与えることが出来ない。「良いサイズ」、「正しいサイズ」、「本当のサイズ」などというものが存在しない。そもそも「実物」はこれだと言うことも難しい。デジタルアートに向き合う私たちは、このような条件を所与としている。
映画はどうだろうか。どちらとは言い切れず、かなり中間的なところにあるようだ。ディスク媒体として自宅で視聴するのと、映画館で観るのとでは、シネマ環境の方がおそらく作品設計上の構想に近いものだろう。ただし、映画館といっても一概には言えず、巨大なサイズのスクリーンもあれば、比較的小ぶりなホールもある。音響や画質も異なる。また、シアター環境の方が制作者に想定されていたとしても、「ディスクでの視聴体験は単なるフェイクだ」と言うこともできないだろう。聖なる一回性などというものは、映画においては制作サイドのみならず視聴サイドでも存在しない。
【 芸術作品に、正統な制作や正統な解釈権を認めてよいのか? 】
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えー……本職声優たちですら、リメイクに対してこんな認識なのか。がっかり。
作品は、それを最初に演じた人たちや、そのキャストを最初に決定した人たちだけの専有物ではないと思うのだけど。あるクリエイター(声優)はそんな解釈で演じたけれど、別のクリエイター(声優)は別様の解釈で役を作ることができるのだし、作り手たちはそういった多様な解釈をぶつけ合うことができるし、受け手はそれを通じて作品のテキストを多面的に掘り下げていくことができるようになる。それが豊かさというものであり、それが「作品が生きていく(生成変化していく)」ということだろう。舞台芸術や音楽演奏であれ、あるいは文芸作品の外国語翻訳であれ、ある一つの解釈だけが絶対的に正統的なものになるということはあり得ない。解釈を固定化し、特定の解釈(パフォーマンス)または解釈者のみを権威化した瞬間から、作品は死ぬ。
実質的な問題としても、30年前(!)のキャストに拘ることに何の意味があるのだろう。役者だって、その20年間のうちに変化している筈だ。例えば、30年前に「30歳の役者が30歳の役を演じた」として、それが現在になって「60歳の役者が30歳の役を再演する」としたら、それは本当に良いキャスティングになっているだろうか? ただ単に「同じ人物だ」という外形的事実のみに寄り掛かって、2018年現在なりの最良のキャストを選び出すことを放棄していないだろうか?
役者個人としても、たしかに自分が演じてきた役には愛着があったりするものだろうし、それが人気キャラであれば誇らしくもあるだろう。しかし、特定のキャラクターと特定の役者が一対一で結びつけられることは、キャラクターの側でイメージを固定化することになるし、そして役者自身のイメージを固定化することにもなってしまうのではないか。ご期待どおりの名文句を繰り返して喜び、喜ばせる、それは創造的なクリエイターの意識なのだろうか?
声優は、素の言論ではなく、あくまで芝居そのものの説得力によって聴衆や視聴者やプレイヤーを唸らせて下さればよいのであって、だから、この発言をもって即座に榎本氏の役者としての力量に疑念を差し挟むつもりは無いけれど、役者の創造性や芝居の多様性(可能性)に関してそのような認識なのかと思うとモヤモヤするなあ。
以前から述べているように、メディアミックス時代においては、複数の媒体(アニメ版やゲーム版やCDドラマ版など)に亘ってキャラクターの同一性が強く要請されており、その同一性確保の中に声優の同一性も含まれている。それはそれで私も認めている。しかし、昔の作品のリメイクという場面では、そのような特殊な条件には当たらない。
作り直すならば、全てをゼロから構築し直して、新作は新作で現代的なセンスと独自のコンセプトで統一する。そのくらいでなければ、わざわざリメイクする意味は無いのではないか。旧作要素を中途半端に引きずるのは、むしろ作品を不純なものにするのではないか。旧作の模倣的再現などというのは、最も非生産的な活動ではないのか。
役者は、抽象的な「役者たる存在」であるだけではなく、現実の役者業界に属する存在でもあり、そしてそこでは、「あの役はあの役者さんが演じた(演じる)キャラだから」といったような暗黙のマナーのようなものがあったりするかもしれない。当事者たちがそういう縄張りを意識して行動するのは仕方ないけれど、しかしそれが芸術的に正しい行動であるとは限らない。
クラシック音楽でも、作曲者自身による自作自演こそが最高の演奏だ、などということは無い。一般論として、作者本人の解釈のみが唯一絶対に正しいなどということは無い。また、作者こそが、作者のみが、必ず最も正しい解釈ができるという保障があるわけでもない。初演者の演奏こそが最高の規範であるなどということは一切無いし、作品を献呈された人物の解釈こそが正統的だなどということもけっして無い(※そもそも作品献呈相手は王侯貴族だったりする)。
舞台芸術でも、初演のパフォーマンスこそが最良のものだなどということは無い。脚本や楽譜をベースとしつつ、新たな解釈と再創造を、不断に無限に開拓していくというのが、実演芸術の基礎であり、そして実演芸術を最も豊かにしていく途であるはずだ。
【 芸術作品を政治的に評価してしまうこと 】(2018/04/11)
芸術作品の価値と、芸術作品に含まれる社会的政治的な(あるいは科学的な)含意の正しさ如何については、基本的には連動しないが、しかし常に完全に無関係というわけでもない。ただし、その境界線をどこに引くか、そしてその線引きはどのようにして根拠づけられるのかについては、さらに人によって見解が異なるところもあるだろう。
芸術作品の価値は、まずもって「芸術的価値」つまり芸術としての価値、芸術的観点における価値、当該芸術分野の内的基準に照らして評価される価値、芸術史上の意義に関する価値だ。それに対して、ある芸術作品の中になんらかの仕方で芸術作品の中に反映されている政治的社会的な妥当性は、それ自体が自明に当該作品の芸術的意義を左右するものではない。
例えば、政治的に正しいがゆえに広く好まれて成功する作品があるかもしれないし、同時代の悪しき偏見を免れているがゆえに時代を超えて広く通用するポテンシャルを獲得した作品があるかもしれない。その一方で、その時点での支配的な良識の観念にとっては不道徳とされるような側面をあえて突き詰めることによって、新たな時代の開明的な刺激を提供する作品があるかもしれない。そもそも、芸術表現における社会的表現は、必ずしもストレートな主張そのものではない以上、多面的な考慮の下で慎重に解釈しなければその社会的意義を適切に評価することはできない。社会的不正義の描写が、「社会的な不正義だと考えられるにもかかわらず、作者はそれを肯定的に評価しているのか」、それとも「不正義のイメージを扱っているがゆえに、それは芸術的-社会的な表現としての新規性を獲得しているのか」、「正不正に関する因習的理解を打破して、新たな価値観を提示しようとしているのか」、「不正義を糾弾するストレートな社会的メッセージであるのか」、「不正義や不幸のはびこる人の世のままならなさを、距離を置いてシニックに描いているのか」、「センセーショナリズムとして、過激な不正義を描いているのか」、「不正義の描写は、当該作品のコンセプトにとってはほとんど意味を持たない、偶然的な筆の滑りにすぎないのか」、そうした無数の可能性がある。さらに、そもそも政治的社会的な正しさの基準すら、時代と地域によって大きく変化するものだ。
ただし、そもそも表現行為というものが、プライヴェートな日記などとは異なって、自分以外の人々に対してなんらかの新たな認識や精神的な影響をもたらすために為される営みである以上、芸術作品や芸術的表現行為に対して、社会性の観点を完全に排除することはできない。一概に「芸術作品の芸術的価値」と「芸術作品の社会的妥当性」をイコールで結びつけることは出来ないのだが、しかしまったく無関係に断絶しているというわけでもない。ポジティヴな連関を持つ例としては、その時代の社会的問題のデリケートな部分を取り上げて、それを芸術的仮構ならではの洗練された形で扱って表現することに成功したならば、それは文化史全般において意義があるだけでなく、芸術史においても意義のあるものになるだろう。そこでは、その社会的問題に対する意識が当該作品の成立の前提になっており、そして当該作品の受容過程においてきわめて大きな役割を果たしている。ネガティヴな関わりの方は、もっと理解しやすいだろう。例えば、深刻な犯罪的手段によって制作された芸術作品は、その結果として得られた表現物がいかに斬新であり、いかに優れた技術的達成を伴っていたとしても、そもそも芸術作品としての資格を認められることは無いだろう。あるいは、個人の具体的権利や尊厳を深刻に侵害することになるような表現も、芸術作品(他人に見せることのできる表現物)としての資格を失うことはあり得る。典型的には、特定個人に対する名誉毀損を含むような表現は、法的に(つまり社会的に)差止められるし、芸術(対他的表現行為)としても致命的に問題があるとされるだろう(――ただし、それは本当に禁圧されるべきなのかは自明ではない。その社会の常識は普遍的に正しいとは限らないということもあり得るのだが)。
およそ芸術作品は、成立の経緯やその受容の過程といった文脈を抜きにして評価することができない以上、社会的表現としての側面を捨象して論じるのは難しい。ただし、社会的(あるいは政治的、科学的)な正しさの評価を持ち出すことによって、社会的受容に関する結論を先取りすることはできないし、ましてや社会的/政治的/科学的な正しさの評価をそのまま芸術作品の全面的な評価尺度に置き換えることは出来ない。
正しいがゆえに、独自の美的価値を持つ。
正しいが、芸術的にはろくな意味が見出されない。
正しいが、それとは関係無しに、芸術的価値があるor無い。
正しくないが、それとは関係無しに、芸術的価値があるor無い。
正しくないものを描いているがゆえに、芸術的な独自の意義を持つ。
正しくないがゆえに、芸術(表現)としての資格を失う。