2019/01/07

擬人化を巡る雑感

  オタク界隈の擬人化や女体化に関する雑感。


  【 アダルトゲームにおけるキャラクター利用雑感 】(2018/09/04)

  ソシャゲが何でも彼でも十把一絡げに擬人化して大量の若年女性キャラクターを登場させているのは、ゲーム構成の都合(籤引きとカード収集)もあるが、オタク系の精神文化のありようとも結びついているのかもしれない。
  1) ただ単に「多数のヒロインがいれば、ユーザーの好みのキャラクターに出会える(=ユーザーを捕まえられる)機会が増える」というだけではない。
  2) 「二次創作文化の普及に伴って、キャラクターの掘り下げが、制作者からの一方的なものだけでなく、双方向的な活動によって拡充されていくようになった」という状況も、下地としてあるだろう。
  3) 「ゲームの中で実際に、多数のキャラクターたちが姿を見せて行き来していること、そして彼女等の活動を見ていられること」に、プレイヤーにとって大きな価値になっているのかもしれない。
  4) さらには、「ヒロインたちの中からユーザー個々人が行うヒロインの選択は、恋愛AVGのような排他的択一的なものではなく、ゲーム活動の中で多用するかどうかという、割合的、動態的な重み付けの連続である」という要素も、プレイヤーにとっては安心できるものかもしれない。

  ふりかえって見れば、00年代後半からのアダルトゲーム(特に白箱系)は、ヒロイン人数を3~4人に減らして密度とクオリティを高める戦略に出ていたが、それは10年代に掛けての時代の変化にそぐわないものであったのかもしれない……どうなのだろうか。
  際限なく高まるクオリティ要求に対して、ヒロインの人数を絞って、キャラクター造形を綿密に行い、シナリオを充実させ、アダルトシーンもできるだけ増量する。そういうハイエンド志向は、10年代初頭に掛けてのアダルトゲーム文化の爛熟をもたらしたが、それとともに寡占傾向も強め、さらにはメディアミックス時代への乗り遅れも招いた。高品質志向のゲーム制作は、当然ながらコストも嵩むし、長期間制作になるからだ。
  とはいえ、『Piaキャロ』や『Maple Colors』シリーズやSLG系タイトルのように、ただ大量の美少女キャラクターを登場させるというだけでは、問題の解決にはならなかっただろう。ゲーム作品はどうしても「攻略」要素――プレイヤーの主体的選択によって何かを選択し追求するという側面――を含まざるを得ず、どれほどハーレム志向を強めても、排他的択一性の気配は払拭できなかったであろう。また、ヒロイン増量のためにクオリティを下げることは、アダルトゲーム特有の美質を損なうことになったかもしれない。さらには、それらを解決してもなお、状況が今よりも良くなったかどうかは分からない。とりわけ黒箱系では、GuiltyやBISHOPのようにヒロイン増量スタイルを採用するブランドもあるが、それらが特に成功しているのかどうか、寡聞にして聞き及ばない。
  見応えのある一枚絵をもっと増やせば(もっと頻繁に一枚絵をユーザーに見せるようにすれば)よかったのかもしれないが、実際にはPC環境の高解像度化潮流を真正面から受け止めたアダルトゲーム業界は、「枚数を減らして一枚のクオリティを上げる」という路線を選んだ。それが良かったのかどうかは分からない。

  ちなみに、オタク的美少女趣味も、00年代初頭あたりには、アダルトゲームがほぼ独占的に扱っていた。フルカラーのグラフィックで提示される、最先端の美少女イラストは、アダルトゲーム(および全年齢ギャルゲー)にしか無かった。漫画分野はまだ「萌え四コマ」が出てきたばかりの頃だし、アニメも深夜枠が成立する前の時代で、本数も少なかったし内容面でも制約が大きかった。LNも90年代からずっと沈滞していた(※00年代初頭の『イリヤの空』『シャナ』『ハルヒ』などが、いずれもアダルトゲームorギャルゲーのイラストレーターとともに開始したのは象徴的だ)。同人文化も、00年代初頭には――急速に拡大しつつあったものの――まだ未開拓&未整備であり、キャラ萌え需要や性表現需要を引き受けられるほどの規模になってはいなかった。00年代のアダルトゲームが享受した幸福は、そのような時代的条件の下にあった。

  こつえー氏がどの分野の出自かというのは、判断しづらい。LN『まぶらほ』(2000年8月連載開始)の挿絵担当と、アダルトゲーム『POWDER SNOW』(2000年12月発売)はほぼ同時期であり、その後も『イリヤの空』などのLNイラストの仕事と、『トリスティア』『魔女アラ』『planetarian』などのゲーム原画の仕事は、どちらも平行して続けられていったからだ。しかし、初期の主要業績はゲーム原画の比重がきわめて大きいし、彼の画風も明らかに美少女ゲーム風のもの――とりわけCARNELIAN氏を男性オタク向けにしたような感じ――なので、上の文章ではさしあたりゲーム系イラストレーターにカテゴライズしている。





  【 女体化の対象とされる人物の時代 】(2018/09/06)

  第二次大戦期の軍用機やパイロットを女体化or擬人化したという点で、『SW』シリーズは商業レベルで、最も下った時代の実在個人を萌えキャラ化した実例になるのかな(※個人的には、あのシリーズのそういう側面はべつに好きではないけれど)。『大帝国』などもWWIIをモデルにした美少女ものだが、やはりこのあたりが時代的下限だろう。ざっと60年前だから、関係者(さらにはモデルにされた当人)がまだ存命という場合もある。
  日本史でいえば、幕末から明治初期にかけては、すでに『行殺新撰組』の頃から女体化されていたが、それよりも新しい時代――現代史の範疇――の史実上の個人をモデルにしたものは、まだなかなか無いのかな。もっとも、「実在個人の」「萌えキャラ化(女体化)」という枠を外れれば、現代国家の擬人化から政治家パロディまで、無数の創作物が存在する。
  『世界の独裁者列伝』のようなしよーもない女体化イラスト付き解説本もあったが、しょせんイラスト(本文を補足するための画像)にすぎないから、キャラクター化したとは言いがたい。

  話がズレるが、中国土産で「歴代皇帝の肖像画をプリントしたトランプカード」というものを見たことがある。たしか始皇帝がジョーカーで、名君たちが良いナンバーをもらっているという割り振り。似たようなネタで、ロシア歴代政治指導者のマトリョーシカも見たことがある。たしか一番外側がゴルバチョフで、一番小さいものはニコライ2世だった。私が見たのは00年代初頭の中古雑貨屋の店頭だったが、web検索するとプーチンまでアップデートされた最新版も出ているようだ。

  ん? プーチン、プーちん……そうだ! 『幼なじみは大統領』があったじゃないか。2009年当時のオバマ(米大統領)やプーチン(当時はロシア首相)をヒロイン化した怪作は、同時代の実在人物を女体化していた。もっとも、モデルとなった人物を自由にアレンジしたキャラクターであって、けっして同一人物などではないが、「女体化もの」と呼べると思う。

  忌憚なく言えば、過去の偉人の精神が甦るって、なんだか悪名高い例の「霊言」みたいだなあ、と思うことはある。どちらも、実在の人物をネタにして食っているわけだし。実在の人物に寄り掛かった女体化ネタ全般に私が馴染めないのは、そういう点に如何わしさを感じているせいもある。
  ただし、その一方で、そういった「本来のもの」「本物」「元ネタ」の存在を明確に意識しつつも、そこから各々が自由な想像力を展開して創作し、それらを交換&共有して楽しむというのは、まさに二次創作同人の姿でもある。つまり、元ネタのある女体化や擬人化は、現代の二次元系オタクの精神文化ときわめて親和的なアプローチであり、そしてその創造性の根幹に触れるものでもあるのだろう。その意味では、「女体化ネタをあまり無下に否定するべきではない」と思う。もちろん、その裏面として、「同人文化やオタク文化全体における元ネタ依存体質は、そのポジティヴな面とネガティヴな面の双方を意識しておくべきだ」という話でもある。

  たまたま「ガルフレ」ラジオ(#145)を聴いたついでにweb検索していたら、「大山真由里」というキャラクターが大山倍達のイメージを下敷きにしているのだとか。1923年生、1994年没の人物だから、現代史上の存在と言っていいだろう。この作品はよく知らないが、web上の情報を瞥見するかぎりでは、女体化版と呼べるほど忠実なものではないようだ(※名前の元ネタと、格闘に興味を持っているという程度?)。





  【擬人化がはらむ問題】(2019/01/07)
  10年代のオタク界隈では、いよいよ「○○の擬人化」シリーズが蔓延している。しかし、カテゴリアルな擬人化は、創作にとって危険が大きいと思う。また、それに類する女体化や国代表キャラも、同様に大きな問題を抱え込んでいる。

  一つは単純な知識優位の姿勢と、現実性優位の価値観。
  つまり、実在の元ネタに対する忠実性が過度に重視されるし、また、創作物に対して現実という真偽基準を作ってしまうことになる。例えば、漫画で描かれる銃器や弓の構え方が誤っていたとしても、それらの本来、作品の意義や美質を左右するものではない筈だ。あるいは、現実に存在するものを参照することにより、安易なショートカットが行われてしまったり、迫真性のある描写をしたいがために、ただ単に現実に存在するようなものばかりになってしまうという可能性。それは、創作の自由、イマジネーションの自由を奪う危険がある。
  ハードSFや、厳格なミステリ、あるいはシミュレータ系ゲームであれば、その分野の基本的性質からしてそうした現実的正確性が優位に置かれるのは納得できる。しかし、そうではない表現分野にまで、過度の現実性チェックが入るのは、創作を縮こまらせてしまうのではないか、「面白さよりも正しさを優先してしまうのではないか」という懸念がある。


  もう一つは、誤った本質主義。
  つまり、○○なものはこういうものといったような一面的な属性的認識が、無批判に通されてしまう。しかも、描写が薄くなればなるほど、ステレオタイプの度合いが強まる。

  例えば、90年代初頭のゲーム『STREET FIGHTER II』の頃には、「インド人キャラクターだからヨガで戦う」「日本人キャラだから、歌舞伎風の隈取りをした相撲取り」といったような、明らかにバカバカしい戯画的表現であって、そうしたステレオタイプ化はきちんと解毒されていたと思う。
  ただし、アニメ『Gガンダム』のあたりでは、「オランダ代表のロボットだから風車が付いている」や「メキシコ代表のロボットだから肩にサボテン状のトゲが付いている」といったようなベタな表現が反復されており、作品全体のトーンが熱血パロディであった分、国民性などに対する固定観念の反復という点は看過されがちだったように思う。
  今世紀の作品では、例えば『ヘタリア』も明らかにステレオタイプな国民性イメージに寄り掛かっている。ただし、そうした一面性は、BL二次創作を含む描写の豊かさによって、ある程度は脱臭されているように思う。
  2019年現在でも依然として、しかも大人が楽しむコンテンツですら、そうした古臭く一面的な偏見に乗っかったキャラ作りが反復され受容されているという状況には、心底がっかりさせられる。アメリカ人だから陽気で楽天的、ドイツ人だから謹厳実直、etc……。国民性だけではない。「女性らしさ/男性らしさ」、「白人らしさ/黒人らしさ」、「九州人らしさ/東北人らしさ」、あるいは「○○好きだから××」、「△△な人だから¥¥」、etc……。そういう型に嵌まった捉え方は、ただ単に通俗的なイメージであるというだけでなく、社会的な偏見や抑圧にも結びついている。第一印象でなんらかの(一面的な)イメージを持つことは、人間的認識において不可避的であるし、また、対象のカテゴリアルな認識はそこからさらに知識を拡充していくための手掛かりになる場合もあるし、当事者の文化的アイデンティティと強く結びついている場合もあるのだが、それ以上に害悪が大きいと考える。ましてや、上述のように、それが実在の対象に関する正しいとされる知識を下敷きとしつつ、素朴な現実忠実性称揚と結びつくとき、いよいよ危険なものになる。
  現在のオタク界隈は、表現物の爆発的な増加とその無秩序な混在のおかげで、ステレオタイプ表現の毒は薄められている。ただし、偏見の流通量それ自体は、やはり増加していると言わざるを得ない。偏見というのは、意識されにくいことが問題なので、フィクションだからと無邪気に笑っているべきではない。ましてや、潮が引いた時に偏見の毒がどれだけ露呈してくるかと考えると、現代のオタク界隈に見出される――もちろんそれ以外の領域にも存在するが――ステレオタイプ表現には、けっして肯定的であることはできない。

  私はオタクの一人だが、しかしオタク系諸分野の中でも、肯定できない要素については、口を濁さずはっきり批判していくつもりだ。「オタクである」というのは、特定の価値観への党派的コミットメントではなく、あくまで趣味選択の事柄なのだし、また、一定のコミットメントが不可避的に含まれるとしても、その中でも現実社会に生きる個人としての側面が失われるわけではなく、そしてそれゆえ、社会的に妥当/不当な物事に対する判断を放棄すべきではないからだ。

  ちなみに、アダルトゲームは、半ば偶然によって、そうした害悪を免れてきた。『行殺新撰組』『恋姫†無双』が取り上げてきたキャラクターたちは、あくまで歴史上の個人だったからだ。つまり、「○○人」や「○○を好きな人」といったようなカテゴリー単位での擬人化や女体化ではなかったため、社会的な偏見との結びつきはほとんど生じなかった。それは部分的には、アダルトゲーム制作が総じて小規模であり、現代のソーシャルゲームのような大量のキャラクターを作る必要が無かったという事情のおかげでもあり、また、アダルトゲームであるがゆえに実在の企業等とのコンテンツ提携を結ぶのが難しかったという事情もあるだろう。