2023/07/12

2023年7月の雑記

  2023年7月の雑記。

プライズフィギュア:SEGA「グレイ(ロード・エルメロイII世)」。モノトーンのフード&コートは布地感のある垂れ具合がゆったりと心地良く、それに対してチェック柄のスカートが若やいだ雰囲気を漂わせ、さらに右手のカンテラ(鳥籠?)がワンポイントとして引き締めている。


 07/26(Wed)

 『のんびり農家』は、原作版ではフローラが好き。村内では重視されている立場なのに、あんまりヒロインっぽくない位置づけで(おそらく主人公ともベタベタしていない)、自由に行動しているところが新鮮だった。内藤氏の描くヒロインとしては、ちょっと珍しいタイプ。
 アニメ版で一番気に入ったのは、竜娘のラスティ。巨大なドラゴン尻尾を振り回しながら村内を走り回っている描写は異種族ヒロインとして抜群のインパクトだし、礼儀正しく有能に仕事をしながら人生を楽しんでいるところも好印象。「お酒はだめー!」とか「がおー、がおがおー」のようなユーモラスなシーンがきちんと作られていたのも良い。演じた日岡なつみ氏も、つややかでクリアカットな芝居で、アニメ版のキャラクターに大きな魅力を与えている。

 原作-漫画版-アニメ版の照合も、夏休みのうちにやっておきたい。アニメ版独自にどのような表現、どのような演出が創出されているのかを適切に評価するためにも、しっかり調べておくべきだろう。

 今年の夏は、何をして過ごそうかな……。
 アダルトPCゲームも、プレイしておきたいタイトルが(相変わらず)たくさん詰まっているし、「胃~之煮」バックナンバーの聴き返し(概要記事作成)もしておきたい。映画のディスクがそこそこ溜まっていて、まとめて消化しておきたいというのもある。いずれにせよ、極力自宅に籠もって安全に(なおかつ楽しく)過ごしたい。


 『ナツの章2』。
 第2ダンジョンでは、人魚の攻撃が痛かった。
 第2ボスの水妖増殖(+雨天)に押し負けたのでやり直し。簡単なのは雷連発かな。
 続いて第3ダンジョンでは、いきなり妖怪の巣に落ちたので即リセット。ひどい……。
 ……ナツ様は強い筈なのに、道中でかなり苦労した。ラスボスは楽だったけど。

 アイテム売買で、Ctrlキーを押しながらアイテム選択すると同種アイテムを全数選択した状態になることに、初めて気づいた。これまでは、愚かにもホイールをぐるぐる回して個数選択していた。

 ナツ様の「弐」が発売されたということは、桂香さんと初花ちゃんも「弐」が制作される筈。
 大いに期待して待ちたい。


 ルー=大波こなみ
 ティア=海原エレナ
 リア=萌花ちょこ
 アン=青山ゆかり
 フローラ=桜川未央
 こんなキャストのゲーム版『のんびり農家』は、今でも夢想することがある。
 セナは綾音氏、ドノバンorダガに蝦押氏、ラスティは春日氏か北都氏、ハクレンは……いや、こちらが海原氏かなあ。桜川氏も、ヤー役兼任くらいだとちょうど良さそう。一条氏はグラッツ役で確定しているが。


 8月は夏休みとはいえ、月頭は採点作業でかなりの時間を取られ(精神的にも落ち着かず)、なんとなくだらけてしまいがち。もっと生産的に過ごしたいのだが……。


 【 mastodon(vivaldiサーバー)について 】
 日常の書き流しをしたい時は、mstdnアカウント[ https://social.vivaldi.net/@cactus4554 ]でいいかな。それに対して、ある程度まとまった情報は、従来どおりこのブログに書いていく。しかし、話題の使い分けがなかなか難しい。

 vivaldiサーバーのおおまかな特徴は:
- 北欧の団体が主催しているが、投稿は日本人が過半数っぽい(※アクセス元に応じて傾斜配分されているのかもしれないけど)。英独仏中韓語なども混じっていて、程々にインターナショナルな雰囲気が楽しい。
- 運用方針もEU基準なので厳しめ。例えば水着画像の投稿もNGになるらしい。また、mstdn.jpやpowooなどは、倫理的な問題があると判断されているため、アクセス制限されている。だから、powooアカウントのアイコンや投稿画像は、vivaldi上では表示されない(※もちろん、相手方サーバーに移動すれば閲覧可能だが、自分のTL上では画像が見えない)。
- アカウント作成にはvivaldiサーヴィスそれ自体のアカウントも求められる。これはmstdnとしてはちょっと特殊。アイコン画像も、基本的にはvivaldiアカウント本体のアイコンと同じになる。ちなみに、vivaldiサーヴィス全体としてブログ機能やメール機能も付いてくるので、そちらも使える。
 
 参加人数は少ないが、ローカルTLは程良く流れている。日常、食事、趣味(音楽とか)、社会の話題などが適度に混在している。ローカルTLを見ている人も多いのか、緩やかな話題共有も時折見られる。オタク系投稿は少なく、あんまりオタク向きではないが(※そちら目的の人は最初から別のサーバーにアカウントを作っているだろう)、萌えキャラアイコンの人もそれなりにいるのでオタク系のネタも大丈夫そうだ。全体として、居心地の良いサーバーだと思う。
 参加者の属性(年齢/性別/居住地/etc.)は様々だが、穏健なリベラル寄りか。攻撃的な投稿や宣伝投稿は事実上皆無で、精神的に成熟した落ち着きのある人が多いようだ。わざわざmstdnのマイナーなサーバーに来て日々投稿しているくらいだから、「デジタル技術にかなり強い人」、「周囲に流されず、自立した判断ができる人」、「知的訓練の出来ている人」が多いのだろう。目立ちたがりの騒々しい投稿や欲望剥き出しの投稿がほぼ皆無で、節度のある場になっているのが嬉しい。

 vivaldiサーバー独自の強みというのは、あんまり無い。しかし、リラックスした雰囲気でmstdnを眺めるにはちょうど良いというのは確かだ。
 私がこのサーバーを選んだ理由は:
- 個人運営ではなく団体運営なので、存続の見込みが高い。
- 国際色のあるサーバーである(※日本語だけのサーバーに閉じ籠もるのは嫌だった)。
- 他のサーバーからアクセス制限されていない健全運営である(※ただし、逆に日本のいくつかのサーバーを制限しているけど)。
- 運用ポリシーも、あまり色が付いていない。反Big-Techの姿勢は、私も好意的に見ている。
- フォントやレイアウトが見やすい(※わりと大事。サーバーによって結構異なる)。

 mstdn全般の機能としては、ローカルTLが面白い。要するに、フォローしなくてもそのサーバー上での新規投稿をざっと眺めることができる。先述のように、このvivaldiは常駐発言者の見分けが付く(なんとなく覚わる)くらいのサイズ感なので、話題が緩くシェアされている様子も見て取れて微笑ましい。もっと騒々しいサーバーであれば、ローカルTLの流れを把握できないだろう。

 まあ、「そもそもSNSなんて、べつにやらなくてもいいよね」ということになるのだが。



 07/17(Mon)

 現代の恋愛漫画では、伝統的な「ラブコメ」と「ロマンティックな恋愛ドラマ」だけでなく、「お互いを思いやるデリケートなお付き合い」路線が増えてきているように見受けられる。個人的には、これはたいへん好ましい傾向だ。周囲の様々な事態によって振り回されたり、カップルの熱狂的な恋愛感情で突っ走ったりするのは苦手だったので……。
 成人同士の二人が、お互いの職業生活の事情にきちんと配慮し合いつつ、敬意と慈しみを持って穏やかに、誠実に、思慮深く交流していく。一方的な理想像のままのパートナーとの間の恋愛を描くのではなく、相手の人格や感情を丁寧に掬い取っていくような真面目な付き合いの物語だ。往々にして共働きだったりするのも現代的だし、カップルが同性同士だったり、婚姻届に際して別姓を検討するシーンがあったりするのもいかにも今風だ。2023年現代に作られた漫画は、2023年に生きる人々に向けて投げかけられるものであり、それが現在の社会状況や、そこで強く意識されている問題関心と絡み合う作劇になるのは、当然のことだし、創作的にも健全なことだし、そして実際、そういったところにも漫画としての面白味がある。

 今風と言えば、感染症問題も現代漫画シーンに影響を及ぼしている。日常シーンの中にマスク配慮の描写を入れる(それがキャラクター同士の細やかな関係の描写にもなっている)という作品もあるし、フィクショナルな感染症状況を極端にクローズアップした漫画や、あるいはパンデミック下での移動困難を所与としたヴァーチャルな旅行文化が存在するというSF漫画も現れている。


 PC美少女ゲーム分野でも、素朴な作家論一辺倒の「批評」たちに大きな問題があることを私は指摘して、脱-人格的な分析のオルタナティヴとしての演出論やゲームシステム論の道筋をきちんと提示してきたつもりだけどな……。文芸(小説)だけの話じゃなくて、アニメやゲームにも当てはまる問題なのよ。
 作家論的な安易さに流れがちなのは、受け手の読解姿勢そのものではなく、創作物が社会関係の中に存在することそのものに由来する問題であり、もっと言えば過度に商業化してしまった現代のエンタメ創作――オタク系もまさに含まれる――が陥ってしまった歪みと言うべきで、それを解きほぐしていくのはテクスト論そのものの目標を外れた作業になる(つまり、メタ-テクスト論の仕事になるわけで、テクスト論それ自体の責任ではない)。
 そういう見地からも、アイドル産業の「推し」文化(受け手を商業的競争の中に取り込んで奴隷化してしまった)や、過度なソーシャル化(ボランティア的宣伝合戦の不毛さ)は、現代の芸術作品享受を致命的に歪めてしまったと思うし、そして、私には受け入れがたいものだ。そして、そういった創作物を取り巻く社会的経済的文化的な状況についても、私は批判してきたつもりだが……みんな「推し」やギャンブル(オンラインゲーム/リアルギャンブル)に行ってしまったよね……。

 
 ……あっ。
 あっ、しまったー! 今日購入した美少女フィギュアを詰め込んだ袋を、近所のスーパーに置き忘れてきた!!! これは、取りに行くのが恥ずかしいぞ……。
 (追記:お店に行って、受け取ってきました。中身は見られていなかった模様。)

中にはこんな逸品も含まれていたので、取り返さないわけにはいかなかった。POP UP PARADE「ファプタ」。


 映画でも漫画でも何でも、私は「初見の衝撃」とか「まっさらな状態での鑑賞」といったものに、たいした価値を見出していない。芸術作品享受の醍醐味は、くりかえし作品に触れて咀嚼し続けることで理解と解釈を深めていくことに存するからだ。その見地では、何も分からない状態での初見の鑑賞というのは、最も無内容で、最も浅薄で、そしてそれゆえ最も価値の低いものになる。
 自分なりの固有の体験を形成することは、それはそれで重要だ。しかしそれとても、まったくの目隠し状態からいきなり作品にぶつかるという形で押しつけられるものではあるまい。時間を掛けて作品のディテールに向き合いつつ、自分自身の感性と知性を用いて作品の意味づけを見出していき、それによって自分なりの意見を形成していくことこそが、真に「自分独自の作品享受」になる。
 他者の解釈に触れたうえで作品を鑑賞するのは、他者の見方に影響されるという意見もあるだろう。しかし、それらもまた作品を形成する環境の一部だ。例えば、「どんなクリエイターが制作した作品であるか」、「公式の宣伝でどのようなものとして紹介されてきたか」だって、私たちの作品鑑賞に対して大きな影響を与える事前情報になっている筈だ。それらは受け入れてよいのか? それとも、そういったものも全て拒否して、あらゆる事前情報を持たずに、(何なのかまったく分からない)作品にいきなり接することを称揚するのだろうか? 私はそういった「無知の純粋性」のような考えはちっとも信用しない。それに、どのような事前情報を得ていても、自分の目で作品と向き合っていく中で、結局は自分なりの見方が出てくるものだ。自分を信じよう。



 07/12(Wed)

 最近読んできた有名ミステリ作品の雑感。
 『異邦の騎士』:筋書きはやや強引ながら、シチュエーション設定に特異なアイデアがあり、たいへん印象的。『占星術殺人事件』:トリックのコア(謎解き)そのものよりも、トリックを成立させている細かな設計(ボディ分散の理由など)が興味深い。『斜め屋敷の犯罪』:それで命中させるのは無理があるのでは。トリック以外の面白味(文章や状況設定)も乏しい。
 『Xの悲劇』:以前からトリック(の一部)は知っていたが、読んでみるとなかなか面白い。状況がダイナミックに進行していくのも楽しい。『Yの悲劇』:展開にもトリックにも驚かされるし、トリックが分かれば全体がクリアに見通せるのも良い。
 『十角館の犯罪』は、トリックをバラす瞬間の演出が上手い(※地下の死者などに粗はあるが)。しかし、同じ著者の『水車館の殺人』などはそういった驚きを演出する意識に乏しく、真相を淡々と説明して終わるだけというのがイージーに感じた。『水車館』は、デビュー2作目でいきなりこんなに保守的な作品を書いたのかという意味でも落胆した。『迷路館』は、個別のトリックがみみっちく、隠し扉もがっかりだし、せっかく一流ミステリ作家が集まっているのに素人探偵一人に議論を仕切られているというのがチープに感じる。真犯人に関しても、いわば著者が共犯になって読者から犯人を意図的に隠蔽していたようなもので不誠実に感じるし、6人を殺害した真犯人が公的に断罪されないまま終わるというのも非常に印象が悪い。『黒猫館』は、殺人のプロセスそれ自体よりも、シチュエーションに仕掛けられたトリックに大きな比重があるというユニークな作品で、わりと好き。それら複数の仕掛けが相互にきちんと連動しているのも良い。それに対して『時計館』は、トリックの中核にある大ネタは意欲的だが、それがアリバイとの関係で本格的に機能してくるのは終盤になってからのことで、事実上、謎解きパートに入ってからいきなりアリバイ問題が浮上してくるのは、かなりバランスが悪く、謎解きのカタルシスに欠ける。共謀ネタ(しかも複数)も安易に感じるし、相変わらず隠し通路を多用するのも興醒め。謎解きというよりは連続殺人サスペンスとして受け止める方が楽しめるかもしれない。『殺人方程式』も、建物の配置や事故目撃の偶然性が作為的に過ぎて、ご都合主義に強い不満がある。トリックの説得力を欠いた失敗作と言うべきではなかろうか。
 『すべてがFになる』:1996年刊とのことで、おそらくコンピュータを本格的に用いたトリックとして最初期のミステリ作品だろう。「同時代の一般的な知識を外れた特殊なトリック」であるという問題があるかもしれないが、むしろ2020年代現在の目で見るとストレートで上手いトリックだと思える。

 電車移動の最中などに毎日1~2冊読んでいるが、ミステリは500ページくらいの比較的厚めの文庫が多いし、読解がほぼ一意に定まる(しかも懇切丁寧な解説をしてくれる)ので、ストレスのないエンタメとしてたいへん都合が良い。しかし、一口に「ミステリ(推理小説)」と言ってもいろいろあって、刺激に満ちた作品もあれば、世評は高いのに不満を覚えるという作品も多い。
 知的な謎解きパズルとして見ると、トリックはしばしば強引だし、数百ページの長さが非効率でもある(※シンプルに知的刺激だけを求めるなら、数学の問題を解いている方がよっぽど楽しいし、多様なアイデアを高速大量に浴びることができる)。かといって小説(文章芸術)として見ると、冗長で面白味の無い行動描写ばかりが延々続いていて退屈する。そして、パズルと小説を組み合わせたことによる相乗効果があるわけでもない。謎解きをドラマティックに演出する表現技巧があるならば良かったのだが……。そろそろ飽きてきた。

 ミステリは、はたして小説媒体である必要があるのだろうか? 建物の構造や、その場に居合わせている人物など、その都度の状況説明はむしろ実写や漫画でやる方がスムーズかつスマートであるように思える。現代では配信型ドラマも増えているので、物語の尺もかなり自由に調整できるだろう。ミステリ作家たちは、昔ながらの小説媒体に留まるだけでなく、映像脚本家や漫画原作者に活躍の場を広げていくのも一つの考えではなかろうか(※実際、そういう活動をしているミステリ作家もいる)。
 もちろん、言語媒体であることに特有のトリックもある。例えば、モノローグに仕掛けを入れて読者を誤誘導するのは、小説の方がやりやすいだろう。あるいは、例えば入れ替わりトリックは、視覚表現にしてしまうと誤魔化しが利きにくくなる。また、読者が個々のシーンの描写を確認するために、途中で読み返すうえでも、書籍形態の方がありがたい(※映像や漫画だと巻き戻して見返すのがかなり非効率になる)。