2023/06/23

2023年6月の雑記

 2023年6月の雑記。(→5月7月

肌の成形色が同一であることに気づいて組み替えてみたら、やたら可愛らしいキャラが出来た。頭部はBANDAI「シアナ・アマルシア」、胴体は「スレッタ・マーキュリー」。

 6/25(Sun)

 『のんびり農家』下巻。初回視聴時は、人の出入りばかりで散漫な進行だと感じたが、くりかえし見ているうちに、これはこれでありかなと思えるようになってきた。声優陣に、明らかに実力の低いものが混じってきたのは残念だけど。
 自分の中で評価がまとまってきたら、感想ページに書いていくつもり。


 twログの残りは約2000投稿になった。早いうちに処理しておきたい。
 とはいえ、読み返していくと「この話を今更ここに書くのもどうかなあ」というのも多々あり、その都度いろいろと躊躇してしまう。しかも厄介なことに、時間が経てば経つほど、その躊躇の比率や強さはいよいよ大きくなる。


 ガールプラモも、今年に入ってからはあんまり買っていない。2022年10月の大物「シタラ」、それから11月は「ミオリネ」「ヴェルルッタ」はどちらも完成度が高かった。BANDAI流のよく整理されたキットの「ミオリネ」と、塗装済みパーツ多数で手の掛かった「ヴェルルッタ」、それぞれにメーカーの個性を出しつつもクオリティを上げていたが、小さくまとまってしまったという印象もある。市場全体がマンネリ化しつつあるのよね……。
 年内で買ってみたいのは、ちょうど今月発売の「宝多六花」くらいかなあ。「アサルトリリィ」ガールプラモや「MODEROID レーシングミク」も、どんな構成のキットになっているのかが気になる。


 昨年末からのゲーム『GFC』とアニメ版『農家』で、この20年間のソフトハウスキャラファンとしての長い時間が一区切りついてしまったように感じる。今後、私はどのようにしていったらいいのだろうか。これまでの趣味をもっと掘り下げていくのが良いだろうか。それとも、また新たな趣味を開拓していく方が良いだろうか。今年の下半期は多少時間の余裕が取れそうだが、うーん、どうしようかな……。

 模型関係では、艦船の新規キットがほとんど出なくなっているのが悲しい。元々、ユーザー人口はそれほど大きくなかったようだが、一時期の盛り上がりからずいぶん萎んでしまったようだ。裏を返せば、00年代末から10年代後半の大きな流行に乗って艦船模型が最も充実していた時期を楽しむことができたと言うこともできるが(――そしてその期間のうちに、めぼしいものをだいたい制作することができた)。もちろん、今でも楽しい趣味の一つであることは確かだし、自宅に未制作のキットが30隻以上あるので、まだ当分楽しんでいける筈。


 ネットで大学教員たちの発言を見ていても、急激に体制化していく人をよく見かける。だいたい50歳前後の世代で、その傾向が強いように見える。以前は個人の自由と尊厳をきちんと重視していた人も、「自由も大事だけど、でもね……」「平等は前提だけど、こういうことも弁えて……」といった具合に、秩序寄りで若者の頭を上から押さえつけるような発言をするようになっていくのは、見ていてつらい。傲慢な権力志向というよりは、上の顔色を窺う小役人的な抑圧加担であるところも悲しい。これが年齢の問題なのか、世代的傾向なのか、それとも観察の誤りなのかどうかは分からないが。私は今のところ17歳のままだが、そうなってしまわないよう自戒していきたい。


 Escu:de新作『戦巫』のシステムは、マップ進行型。同社過去作で言えば、『ヒメゴト・マスカレイド』と『Re;Lord』を組み合わせたような感じなのかな。育成パートも、いつものEscu:deという印象。『姫と穢欲のサクリファイス』のような感じになりそう。メインヒロインは青葉りんご氏だし、CGも良さそうなので、大いに期待している。
 そういえば、『姫と婬欲のテスタメント』は未購入だったが、シナリオも含めて評価が高いようだ。やはりプレイしておくべきだったか……。


 アニメ版『のんびり農家』は、やはり前半6話が良かった。脚本面でもきれいに一貫した流れで整理されていたし、演出面でも適度に遊びが入っていて、個性と面白味があった。
 後半6話は、絵がわずかに崩れ気味だし、ストーリーを追うばかりで場面の情趣に欠ける。脚本進行にもまとまりが無い。キャラクターの行動原理がブレているところも多かった(特に三バカや魔王国四天王)。原作からしてやむを得ないとはいえ、山エルフが終盤に登場したっきりで何も役割を果たさないまま終わってしまったのも残念だ。キャスト面でも、かなり質の低いものが増えた。……とはいえ、後半は後半で、下地氏(ルー役)は終盤の大事なシーンを素晴らしく演じられていたし、日笠氏や小野氏などのスポット登場キャラも絶妙の芝居だったし、人数が増えた賑やかなシーンでは原作の内藤節に近付いたところもあるし、ラスティの「がおーがおー」のような独自の味付けもあって、局所的に良いところもいろいろある。
 1話だけ挙げるなら、やはり第6話が良い。一番好きなところは、4話の「カチーン!」かな。メイン3人以外のキャストで聴きごたえがあるのは、速水氏(創造神)の巧さはもちろんとして、上田燿司氏(ビーゼル/神殿長)もたいへん面白いし、龍田氏(マイケル)も厚みのある芝居だし、小野氏(始祖)も細やかさと暖かみのある芝居が絶妙。


 あらためて正面から認めて受け止めよう。そう、私は純白メカ肌のロボガールが大好きになってしまったということを。ほとんど冒瀆的なまでに妖しいこの魅力に、私はもはや抵抗することができないということを。ドロッセル、アーシー、ディア(※ワーフリ:未プレイだが)、モビルドールサラ、レイキャシール、どれも素晴らしい。


 アクリルスタンドって、意外とお高いのね……。グッズ類にはこれまで全然興味が無く、知的好奇心からどんなものかと店頭でいろいろ見てみたら、印刷済みプレートたった一枚なのに税込1650円が標準価格とは……。漠然とした印象で、せいぜい500円から800円くらいだろうと思っていたら、その2倍の値段に驚いた。うーん、これだと気軽に買うには躊躇するし、シリーズを買い揃えたりするのも大変になる。学生たちにはかなり辛い価格ではなかろうか。
 1650円といったら、プライズフィギュア1個、あるいは安めのガンプラ1個、キャラソンCDや主題歌CDでも1枚、漫画や文庫本だと2冊は買える金額だ。うーん、アクスタ+印刷に、そんなにコストが掛かるんだろうか……。



 06/16(Fri)

 来週は『のんびり農家』ディスク下巻が発売される。当初の予定から1ヵ月延期していたのは何故だろうか。オーディオコメンタリーも付いていないし、本編の映像もそんなに大崩れしない(=修正箇所も無さそう)と思うのだが。いずれにせよ、またじっくり視聴していきたい。
 上巻もたいへん気持ちの良い映像作品で、もう10回近くリピートしている。内藤氏原作の作品が、こんなに楽しくユーモアに満ちた映像になっているのが、とても嬉しい。


 最近は、空いた時間にミステリをよく読んでいる。主に「新本格」の有名作品で、なかには全体構成の精緻さに感心させられた作品もあるが、都合の良すぎる偶然に頼ったものは、あんまり好きになれない。
 歴史小説(時代小説)も久しぶりに読んだが……いわば歴史LNだよね。すなわち、キャラクター中心のエンタメ小説で、登場人物たちの行動の面白さそれ自体に魅力があり、たまにお色気描写もあったりするというのは、ライトノヴェルと呼んでしまっても良いんじゃなかろうか。



 06/05(Mon)

 6月5日! ろくがつごんち! 特に出せるネタがあるわけではないけど、この日付はできるだけ忘れずにいたい(※去年とかは忘れていたけど……ごめんなさい)。

 tw: a_ya_ka_kimura
 いつの間にかSNSアカウントも作っておられたようで。周囲の声優さんたちの反応からしてご本人なのは間違いない(なりすましではない)ので、ひそかにフォローしておいた(1800人目くらい)。


 そしてこのブログも丸十年になった。ページ数(記事数)は、現時点で535ページ。
 
 
 高性能な対話型AIは、今後我々の社会生活の中にごく普通に存在する一部になっていくのだろう。放送技術が、航空技術が、通信技術がすでに我々の生活にごく普通に存在しているように。だから、学問各分野にとっても、活動支援ツールとしてのAIを無視することはできない(ましてや、排除することなど出来ない)。今後の教育現場では、「○○学を正しく効率的に学んでいくための、対話型AIの正しく適切な使い方を教えること」が重要になっていくのだろう。だから、各分野の教育者たちは、自らそれらを使いこなし、その正しい使い方(誤りに陥らない使い方、振り回されない使い方、違法とならない使い方、etc.)を教えることができなければならない。対話型AIは、ただ単に「不可避的なツール」であるばかりではなく、今後いよいよ「必須的なまでに便利なツール」になっていくだろう。そうなっていけばいくほど、その効果的な使い方や適切な使い方を教えるというメタレヴェルの教育スキルは、今後ともヒューマン教育者の必要性として存続していくだろう。


 ガールプラモ記事は55000字、写真115枚(キットは123種類)になった。それなりに見通しの良い枠組をいったん書き上げれば、それをベースにして、いくらでも加筆していける。あまり無茶をすると全体構成がぼやけたり破綻したり、あるいはそうでなくとも冗長になりすぎてしまうので、程々に留めるべきなのだが、細かなネタをちょこちょこ加筆していくのは楽しくて、ついついやりすぎてしまう。


 海外(英語圏)VTberは、聴いている時間が激減してきた。荒々しいバトルゲームの実況配信ばかり何日も続けられると、さすがに飽きるし、聴いていて面白くない。というわけで最近は映画DVDやクラシック音楽を流している。……ああ、やっぱりこちらの豊かさは素晴らしい。


 Escu:de新作『戦巫』の主演は、なんと、青葉りんご氏。これは買える。いや、元から買うつもりだったけど。近年のEscu:deは、桃組揃いのキャストでも主演だけはきちんとした実力派を起用してくれているのが、たいへんありがたい。


 えっ……ネットゲーム(ソーシャルゲーム)って、今どき禁則処理すら出来ていないのか……びっくり。行末から折り返した行頭に、読点「、」や句点「。」が来ないように表示するのは当然だと思っていたけど。


 しばらくの間、twに書いたものから適当に抽出して再編再掲していく。


 【 20年代のアダルトゲーム 】
 現在の商業アダルトゲームCGは、残念ながらオタク系グラフィックの最先端ではなくなっている。近年では、いわゆる「えろげ塗り」路線ではなく、イラストレーター自身の塗りを最大限活かしたCGワークの作品もそれなりにリリースされている。これはこれで活路と言えるだろう。低価格=小規模制作のタイトルでは、CG全部をイラストレーター主導で作りきったり、CGをチューニングしきることも、比較的容易になったと思われる。アダルトゲームとしては、素肌の着彩に大きく個性が出せるというのもある。
 90年代には原画家/グラフィッカーが分業化していなかったようだし(有名なところだと『スタープラチナ』とか)、00年代にもキリヤマ太一氏や瑞井鹿央氏(『宵待姫』)はそういうアプローチだったし、八宝備仁氏の『美少女万華鏡』シリーズ(画像2枚目)も有名だろう。 例えばWaffleの最新作でも、Waffleの社内塗りのCG(※もちろんこれはこれで最高級品質)と、イラストレーター柾見氏の「本来の魅力を楽しめる」CGを、ゲーム内で切り替えられるという機能を提供している(cf. http://www.waffle1999.com/game/99alchemist/ )。
 脚本面でも、近年のMORE系列(→MELLOW)は、痛みと苦みのある恋愛関係に挑戦し続けているし、ぱちぱちそふともストレートな恋愛関係だけではない男女の機微を、アダルトゲームらしく踏み込んで描いている。10年代後半から20年代に入っても、こういった18禁フィールドの強みを活かした作品が意欲的にリリースされていることは、きちんと指摘しておきたい。昔で言えば『WHITE ALBUM』シリーズのような路線が好きな人には、気に入る作品が結構多いかもしれない。そういう観点では、『白昼夢の青写真』(2020)もけっして異端児というわけではなく、むしろ20年代のアダルトゲームらしい雰囲気の中にあるのかもしれない。90年代的なナンパでもなく、00年代的な純愛看板でもなく、10年代的な屈折したヒロイズムでもなく、キャラクターと感情の機微を掘り下げるSF路線。


 【 キャラクターの言葉遣い:役割語の当否 】 
 役割語は、ステレオタイプ化や差別性と結びつきやすいところもあって、フィクションでも扱いの難しいところだ。例えば、ヒスパニックや黒人の台詞を書いたり訳したりする際に、いかにも柄が悪そうな口調にさせてしまうのは、はたして良いことかどうか。ステレオタイプ的なイメージ(しかもネガティヴなイメージ)をフィクションが再生産してしまうのは、けっして良いことではない。
 とはいえ、個人の性格表現レベルにせよ文化的なレベルにせよ、フィクションの人物造形は一定程度「モデル化」「類型化」「記号化」の側面が不可避的に現れる。口癖や決め台詞もその一部だ。そしてそれとともに、ステレオタイプな役割語めいた表現を取り込むことにもなりやすい。
 例えば、女性の台詞を「~わよ」と訳すのは、さすがに現今では少ない……かと思いきや、いまだに存在する。ライトノヴェルでも「~だわ」「~わよ」台詞はわりと多いように思う。特に小説(文字媒体)の場合は、話者識別のための符丁という機能的側面もあるため、一概に否定もしづらいが。
 他方で、役割語を抑制するものもある。例えば『あずまんが大王』は、「~わよ」台詞を、おそらく意識的に減らしている先駆的な作品の一つだったと記憶する。そのアプローチは、現代的な日本女子学生の日常の言語的リアリティを掬い上げる繊細さ、真面目さという意味で、のちの『よつばと!』にも通じている。
 フィクションのキャラクター造形では、モデル化、理念化、類型化に服するところもあるが、ノンフィクションの文章でも、とりわけ翻訳(例えば英文エッセイの邦訳)に際しては、役割語の当否に対するデリカシーが問われることになる。例えば、男性の台詞で一人称"I"を、俺/オレ/僕/ぼく/私/わたし等のいずれに訳すか、そして訳し分けるとしたら何故なのか、それは正しいのか――訳者によるその使い分けに偏見が入ってはいないか――ということが、読者から咎められる可能性はある。そのあたりも含めて、翻訳は難しい。
 アダルトゲームでも、00年代末までは女性的な「~わよ」「~だわ」台詞はかなり多かった。LNやアニメと比べても、その度合いは強かったように思う。もっとも、赤髪キャラや青髪キャラが居並ぶ虚構性満々の世界では、そういう時代がかった台詞回しの方がフィットした……のかもしれないけど。
 要するに役割語は、「情報の安定的伝達」や「キャラ造形の創造性」というポジティヴな機能も持ちうるが、その一方で、悪くするとステレオタイプ的偏見の再生産になってしまいかねないというネガティヴな側面もあり、まあ、是々非々ではあるものの、難しいよね……。


 waffle公式サイトへのリンクを貼ったら、余計な警告が出るようになった。リンク先に飛んだらいきなり18禁ページになるという可能性もあるから、うーん、一定程度は理解できなくもないが、gglに合わせてリンク削除などをするつもりは無い。

 
 私としては、ギャンブルを推進したり好意的に言及したりすることはできない。オタク界隈でも、競馬への言及や、実際の競馬に金を賭ける人が近時激増しているが、私はそれらを良いことだとは思えない。成人個人の自己決定の問題として賭博をすることそれ自体は非難できないが、しかし、私の意見としては「それは良くないよ」と思うし、競馬(ギャンブル)への言及はアダルト関連と同じか、それ以上に慎まれるべきものだと思う。昨年頃から、ソーシャルメディアのオタクたちもリアルギャンブルの話題だらけになっているが、私はギャンブル全般を好意的に捉えることはできないし、リアル競馬(※ゲームではない、本物の賭博行為)の話題が日常化している状況はよろしくないと思う。少なくとも私は、そういう状況に対して異を唱えたい。オタクたちも、ほんの数年前までは「ギャンブルなんてNGでしょ」だったと思うのだが……風向きは悪い方へ変わったよね。

 ゲームも同様だ。現金を賭けさせる籤引き要素のある(オンライン)ゲームは、個人的な信条として一切プレイしないことにしている。ギャンブル全般に対する道徳(価値観)でもあるが、また、自分の精神衛生にとって非常にダメージが大きそうだからというのもある(※思い通りの結果にならないなども含めて)。
 ギャンブルを楽しむこと。
 セクハラ的表現にも好意的であること。
 イベントで一緒に盛り上がること。
 アイドルに心奪われること。
 マジョリティかどうかを気にすること。
10年代以降の現代オタクの特徴と(しばしば雑に、しばしば誤って)見做されがちな諸要素を、私はまったく受け入れていない。私自身はギャンブルが大嫌いだし、TLでも賭博の話は見たくないが、私以外の人が成人の判断でギャンブルを娯楽とすることを否定するつもりは無い。アイドルについても、私自身はちっとも興味を持てないが、現代のポピュラーな趣味の一つなのだとは認識している。さすがに性差別は肯定できないけど。
 
 大量のキャラクターを登場させる(オンラインギャンブル系)タイトルだと、往々にして美的統一が放棄されているのも傍目につらそうなのだけど、プレイヤーたちは気にならないのだろうか? キャラデザも玉石混淆で、着彩すらバラバラのタイトルに対して、作品としてのインテグリティを見出せるのだろうか? 種々雑多なキャラデザが交じり合っているタイトルを楽しむのは、単一の作品を享受するというよりは、雑誌のいろいろな連載作品をつまみ食いするようなものかもしれないけれど。
 あるいは、「グラフィクスの美的デザインは重視せず、ゲームパートを楽しんだり、気に入った特定のキャラに注意を向けたりする」という人が多いのかもしれない。それはそれで、00年代のPC美少女ゲームでも、「キャラデザは今一つでも大目に見て、ゲームパートを楽しむ」というのはあったわけだし……。
 00年代以降の美少女ゲームでは、少なくとも着彩の次元では統一が図られていたし、複数の原画家を併用する際も、それほど落差が無いようにはなっていた。そして、有名原画家や塗りの魅力といった、視覚的-美的な側面への注目が非常に大きかった。分野的価値を主導すらしていたと思う。もちろん、趣の大きく異なる複数の画風をあえて併用する例もあった。作中の国ごとに原画家の分担を分けたり、本編と作中作で分けたり。そうした演出も、前提としての美的統一の観念があってこそのものだ。そうした審美性優位の分野に馴染んできた――あるいは、そうした受け止め方をしてきた――ためもあり、原画どころか着彩までマチマチという混成タイトルの風景は、たいへん不思議なものに見える。
 もっとも、キャラクター大量のオンライン籤引き系タイトルがメディアミックス展開されると、例えば「アニメ版の美術監督(総作画監督)の下で美的な統一が与えられる」といった風景に出会えることもある。そこには「本来性の混沌(原作の地位)を手放したところに、新たな美的統一性が作られる」という奇妙なダイナミズムがある。受け手の側も心が広く、原作ファンと派生作品のファンはたいていの場合、どちらも仲良く共存し得ているようだが。
 いずれにせよ、90年代以来のPC美少女ゲーム(アダルトゲーム)が、「もえ」「えろ」だけでなく、その都度の時代の最先端のCGワークを享受できる場であったこと、そういう美的な側面にも大きなウェイトがあったことは、そろそろ忘れられつつあるような気もする。


 【 SFCゲームの好きな演出 】
 『DRAGON QUEST V』の印象的なシーン。主人公の子供時代には妖精が見えていて、一緒に冒険をしたイベントもあった。しかし、大人時代に「妖精の森」を再訪すると、主人公(プレイヤー)の目にはもはや妖精の姿は見えない。しかし、同行している娘/息子たちには、妖精が見えているようだ。その落差の物悲しい視覚的演出。子供たちには妖精の姿が見えるが、大人には見えない。主人公の子供時代は「見える」側だったのが、大人時代は「見えない」側に立ってしまっている。大人になること(得たものと失ったもの)、時間と世代が移り変わっていることの表現。そして、静かだが鮮烈な視覚演出。
 大昔(前世紀)のゲームでも、こういった切れ味の良い演出はいくつも見出せる。『DQV』の場合は、「沈黙した主人公」+「記号的なドット絵」という表現形態も相俟って、このシーンの「大人になるという喪失体験」の悲惨さを、突き放した演出によってむしろ優しく溶かし込んでいる。この『DQV』の妖精の森のシーンは、前世紀(90年代まで)のあらゆるデジタルゲームの演出の中で、最も好きなものの一つだ。
 ちなみに久美氏の小説版では、主人公が大人になっても妖精の姿は見えている(エニックス文庫版、1994年、195頁以下)。そこはちょっと惜しい。というか、ゲーム版の演出があまりにも何気なく、そして上手すぎたと言うべきだろう。小説版でここをしつこく描写するとバランスが崩れてしまったろうし、扱いの難しいデリケートなシーンなのだと思う。

 FFシリーズだと、『FF VI』の断崖シーンが良い。物語前半のオペラパートで、ヒロイン(セリス)が城壁から花束を投げる場面(最もロマンティックなシーン)と、物語後半でセリスが世界崩壊の絶望で断崖から身投げをするシークエンス(最も悲惨なシーン)で、レイアウトが一致しているという皮肉。『FF VI』は、他にも二重写しの演出を取り入れている。例えば、主人公格の「ロック」は、過去に恋人を崖から墜落させてしまった(回想シーン)が、エンディングシーンではまったく同じ構図で、今度は現在のヒロインが落ちそうになるのをしっかりと掴まえる。「絶対離さないぞ! 絶対に!」
 
 『Romancing Sa・ga 2』のコッペリアも上手い。本作は、ある国の王様が転生を繰り返しつつ(つまり魂を維持したまま)何百年、何千年もかけて領地を拡張していき、力を付けて悪役モンスター7人を撃破するというRPGだが、その中に自律動作する機械人形キャラクター「コッペリア」が登場する。当初は仲間の一人として同行させることができるが、戦闘時に行動指示することが一切できないというわがままユニットだった。しかし、当代の王の寿命が尽きたとき、魂を継承する相手としてこのコッペリアを選ぶことができる(※それ以外の通常の人間キャラクターを指定することもできる)。そうすると、人形のコッペリアに魂が宿り、本当に生きた存在になる(そしてプレイヤーキャラとして自由に動かせるようになる)。世代継承のゲームシステムの枠組に巧みに組み込まれた、ロマンティックなキャラクター。ちなみに、王としてのコッペリアも寿命が尽きるので、次世代に魂を継承することになる。その後、王国の倉庫には、もはや動かなくなったコッペリアのボディがずっと置かれている。このひそかな哀感も素晴らしい。

 SFC時代の演出。格好良さだけで言えば、『悪魔城ドラキュラ』のシャンデリア渡りのシーンかな。巨大なシャンデリアが左右に揺れるとともに、ギシギシSEもちゃんと左右に振れていた……と思う、たしか。STGにも、ダイナミックな演出が多かった。
 
 PS時代になると、3Dアニメーションが本格的に導入されて、もっと細やかな振り付けの視覚演出を実現できるようになる。例えば「あるキャラクターと、あるキャラクターの小さなモーション(癖のようなちょっとした手の動き)が一致していることで、同一人物だと察せられる」といったような。
 そして00年代に入る頃には、ご存じのとおり、美少女ゲームを中心としたアドヴェンチャーゲームが普及して、ゲームは「遊ぶメディア」だけでなく「語られるメディア」としての側面も大きく広げていく。家庭用でも、例えば『MGS』シリーズのように、長丁場の会話シーンが入るようになる。
 「視(聴)覚的演出と言語的表現」と言ってしまうのは大雑把にすぎようが、それら双方が絡み合いながら個々のジャンルで様々に発展してきたことは、その都度丁寧に見返していく意義があるだろう。

 (→5月7月