2023/05/30

2023年5月の雑記

 2023年5月の雑記。(→4月6月

中央が「シアナ・アマルシア」。明るめの純色ブルーが気持ち良い。ダークブルー/ブルー/ホワイトのモノトーン色彩も、統一感があって良い。両腕の丸々としたサメパーツは、一見ユーモラスでありながら、30MS随一の異形デザインでもある。思いきり広がった後ろ髪も、細やかなウェーブを掛けつつ豊かに広がっていて開放感がある。


 05/28(Sun)

 ガールプラモの広がりを概説する章は、予想以上に伸びて8000字になった。仕方ないので、「基本パラダイム」と「多様性」の2つに分けることにする。
 現在38000字。最後まで書ききって、もう少し写真とキャプションを足したら、最終的に45000字くらいにはなるだろう。それにしても、たかだか4万字なのに……十年近くずっと考えているテーマで、なおかつ資料もだいたい揃っているのに、こんなに時間が掛かるとは……。


 今年は模型関係の支出がかなり減っている。艦船模型がひととおり落ち着いた(さしあたり作りたいものはだいたい作りきった)のと、プライズフィギュアをあまり買わなくなった(こちらは発売ペースも落ちている)のが大きな原因。その一方で漫画(商業単行本)は今年もハイペースで買っている。ゲームやCDも支出は減っているが、プレイ時間は相変わらず、ほぼ毎日それなりに取っている。


 5月31日+3日間で、ガールプラモ史の連続記事をひとまず書き上げた。最終的に49800字になったが、まあ、予想の範囲内か。最後まで書ききったとはいえ、まだまだ雑なところが多いので、折を見て加筆修正していくつもり。

 写真で登場させたプラモデルは97種類+α(※カラバリの違いや連続写真はノーカウント)。完成させたキットは100個以上あるので、手持ちのキットの9割方を写真掲載できたことになる。出していないのは、男性キャラのプラモ(セル完全体)や、発掘できなかったプラモ(ティアーシャ)、カラバリキット、小サイズキットくらい。写真は103枚。自分で制作したプラモデルの写真は、いくらでも気兼ねなく掲載できるのが良い(※ゲームのスクショだと、正当な「引用」の範囲内に収めるために枚数等の制約がある)。
 登場回数で見ると、ダイバーアヤメ(11回)、佐伯リツカ(8回)、グライフェン(7回)。そして「モビルドールサラ」「カイロス」「フェイ・イェン(HASEGAWA)」「ランサー」が各5回。アヤメはBANDAIキットのサイズ見本、佐伯はKOTOBUKIYAキットのサイズ見本として、あえて多用した。「サラ」「フェイ・イェン」も説明のために必要だった。なので、本当に私の好みで優先したのは「グライフェン」と「カイロス」ということになる。

 30MS「シアナ」も入手できたので、さっそく撮影して組み込んだ。サメキャラ可愛い。
 ただし、30MSシリーズの中で見ると、「頭髪が干渉するのでパーツ盛り付けやポージングの制約が大きい(脚部なども可動域が狭い)」、「サメパーツは個性が強すぎ、おそらくミキシングしにくい」、「武装脚部も、自立できない形状なのでスタンド必須」と、かなり異例のデザインに見える。メーカー側も分かってやっているだろうから、これからは「従来のような無難な武装キャラから、強い個性を持った多様なキットたち」への道を開いていくつもりかもしれない。

 ガールプラモで個人的に気に入ったキャラは、「グライフェン」「ドゥルガーI」「ランチャー(Hell Blazeを含む)」「赤ずきん」「ダイバーアヤメ」「アルテミス」あたり。今回の「シアナ」も間違いなく上位に入ってくる。……なんだろう、この能天気そうな顔触れは。



 05/19(Fri)

 覚悟を決めて、ガールプラモ史の記事に着手する。おおまかな枠組は、
0: 前史と隣接領域(figmaなど)
1: HASEGAWAの先進性(2007-)
2: KOTOBUKIYAの挑戦と躍進(2009-2016)
3: BANDAIの様々な実験(10年代半ばから)
4: 国内各社の追随(2017-)
(5: 海外のガールプラモ:2020-)
6: 多様性(ロボ、SD、固定ポーズ、大型キット、ドールなど)
といった構成になる見込み。一章あたり3000字として、全部で2万字くらいになると思う。

 紹介写真については、例えば「リボルテック」の綾波レイなども持っている筈だが、自宅のオタクマウンテンから掘り出すことはほぼ不可能になっている。

 半日がかりで、9500字。KOTOBUKIYAラインアップの詳細に踏み込むのは大変なので回避した。BANDAIの章は、撮影のために持ち出せるキットが少ないので(※どこかに仕舞い込んでいて、取り出せない)、たぶん短めになると思う。
 2017年以降の各社の動向は、どのような視点で書くか迷っている。流行史の中に位置づけるようにするか、それとも技術史的発展のプロセスとして描いていくか、あるいは各メーカーの個性を際立たせるような各論的叙述で収めるか、はたまた、大きな歴史的展望の一部として簡単に通り過ぎるか……うーん、難しい。
 このペースだと、BANDAIに3000字弱、各社シリーズの紹介に4000~5000字、多様性(テーマ的各論)について6000字前後で、原稿全体としては23000字くらいでまとめられたらと思うが、私のことだから、下手をしたら加筆に加筆を重ねて3万字くらいまで行ってしまう可能性もある。

 想定する読者像は、「プラモデルは一応知っているが、ガールプラモはよく知らないという普通のオタク」と、「ガールプラモ分野の全体展望を持ちたいor整理したいという(ガール系)モデラー」。前者に対しては、「模型界でこんな流行が起きてきたんだなあ」という知識を提供すること。後者に対しては、歴史的整理と技術的分類の枠組を提供すること。要するに、教科書的な概説を書くこと。

 今回は、過去に撮影した写真を掘り返すのではなく、プラモ実物を取り出してきて並べて撮り直すことにした。やってみるとその方が早いし、テキストの趣旨にあったものが取れる。ただし、プラモを掘り出せない場合もあるけど……。

 BANDAIの章は、半日でテキスト4600字、写真13枚。キットを取り出して撮影して回るのが大変だった。執筆時間よりも撮影に費やした時間(+キットを掘り返す時間)の方が長かったくらいかもしれない。部屋の発掘作業で疲労したので、今日はこれで切り上げて他の遊びをしよう。
 こうやって丁寧に時系列的に跡付けていくと、BANDAIのガールプラモはかなり着手が遅かったということに気づく。10年代前半からいろいろやっていたように見えて、実態はSDの小さなキットや中途半端な胸像モデルばかりで、あまり誉められたものではない。むしろ、男性プラモデルであれだけ頑張っているのに(蓄積もある筈なのに)、ガールプラモへの取り組みについてずいぶん腰が重かったのは何故だろうかと訝りたくなるくらいだ。

 次章は、VOLKSやchitoceriumのバックグラウンドを辿ることから、それぞれの位置づけを定めていくアプローチにするつもり。VOLKSはドールとミキシング、chitoreciumとDark Adventは浅井氏の関与。AOSHIMAは何なんだろうなあ。

 VOLKSとAOSHIMAについて書いたら、約5000字になった。やはり予想どおりに、「予想の7割増し」になりつつある。全体では3万字を超えそうだ。……まあ、論文1本分にもならない程度のボリュームだし、このくらいなら許容範囲だろう、たぶん。(だれがきょようしてくれるというのか)
 写真一枚につき100文字のキャプションを付ければ、10枚分で1000字、30枚で3000字になるからなあ……。どうしても文字数は増えてしまう。とりあえず、5000字を超えたら新しいページに移行していくようにする。一つのwebページが1万字になったりするのは、閲覧者にとって読みづらいだろうから。

 Dark Advent以降は、浅めに書き流した。ここまで来ると最新の同時代だし、今まさに動いている現代を歴史的に確定的に位置づけるのは無理があるので。次の章の、ジャンル的多様性の議論に力を入れていきたい。


 tw: 1660661801388736517 ……この『To Heart』説明は、いろいろとおかしい。
 「前作の複雑な作風と違い純愛や泣きを導入する」:意味不明。『雫』『痕』の方がミドルプライスでコンパクトだし、特に『雫』はかなりストレートなオカルトミステリもの。フラグ体系もけっして難しくない。むしろ『TH』の方は、対決フラグなどの難しい要素もあった。
 ストーリー面でも、『TH』はけっして「泣き」重視ではない。むしろ『雫』『痕』の方が、タブーの恋愛や前世から続く悲恋を大きく取り上げている。ただし、「(ナンパではなく)純愛」のはしりであるという点は、それなりに妥当だろう。
 「既存ファンだけでなく一般にも受け一躍業界トップにのし上がりました」:かなり一面的で、誇張しすぎ。既存ファンの間でも、「シリアスな『雫』『痕』路線を捨ててキャッチーに走った」という批判も強かった。また、「一般にも受け」というほど売れてはいなかった筈。PS版なども含めればかなり良いセールスになった筈だが。当時はalicesoft、elf、F&Cなどがまだまだトップブランドだった。トップセールスも、elf『鬼作』シリーズには全然及んでいなかった筈。
 「業界に与えた影響も大きくこの作品がなければ今のエロゲという物は存在しなかったでしょう」:この点は妥当だろう。つまり、「真面目な恋愛もの」+「SLGではなく読み物AVG」という形式を普及させたのは本作が画期的だった。「恋愛+SLG」は『同級生』シリーズなどがあったし、「ミステリ+AVG」は『かまいたちの夜』などがあったが、「恋愛+AVG」を確立させたのは『TH』だと言ってよいだろう。
 
 それと関連して、(tw: 1660936389670629378 )「SLG的なフラグを持っていたのは『To Heart』が最後だった」という主張があるけど、これも、うーん、そこまで断言してよいかどうかは疑問がある。調教AVGにはそういう相互作用的な複合フラグシステムがあった筈だし、恋愛AVGに限って見ても、それっぽいものは90年代末頃まではあったんじゃないかなあ……。もはや曖昧にしか憶えていないが、『days innocent』とか『Dearest Vampire』『葵屋まっしぐら』『行殺新撰組』あたりまでは、「事実上、ターン制(日数パラメータ)のようなものが存在するイベントフラグチェック」とか、「ヒロインAの好感度が一定以上、なおかつ、ヒロインBの好感度が一定以上で発生するイベント(あるいは、一つのイベント内部での細かなフラグ差分変化)」はあったと思う。攻略サイトの「最適化攻略」が成立したのも、単純な樹形図分岐フラグだけではなく、イベント間の複雑な絡み合いや、複合的なフラグで発生するイベントなどが存在したからこそなのだし。もっと言えば、『ワンダリング・リペア!』(Escu:de、2008)や『Festa!!』(Lass、2005)、『Sugar+Spice!』(Chuablesoft、2007)は明確にAVGを名乗っているけれど、かなり複雑なフラグ体系が存在した。00年代後半でも、そういうタイトルは確かに存在した。
 「ゲームにしなくてもいいんだ」(読み物であっていいんだ)というのも、もうちょっと時期がずれるんじゃないかなあ。00年代前半までは、わりと複雑な選択肢フラグを持つタイトルもそこそこあったと思うし、そもそも各社が社内プログラマーを雇っていて、ファンディスクでは凝ったミニゲームを展開するといったようなこともあった。美少女PCゲーム分野が本当に読み物に開き直ったのは、00年代半ば以降のことじゃないかなあ……。


『黒岩メダカに私の可愛いが通じない』9巻75話より。気まぐれに買ったこの作品だが、スカートの描き込みが凄かった。プリーツスカートの襞々にきちんと沿うように、縦横のチェック柄が立体的に描かれている。大抵の漫画であれば、どんな立体的な衣服でも、トーンをそのままべったり貼り付けて「これはチェック柄を表しているのです」という記号的表現に留めるものだが、本作は複雑な折り返しにぴったり合わせて縞を描き込んでいる。凄い。さすがに手書きではなく、定型ブラシでなぞっているものと思われるが、それでも相当の手間が掛かっている筈だ。フルカラーの一枚イラストであれば、布地に合わせて柄をきちんと描くことも多いが、ストーリー漫画で何十枚もののコマ絵一つ一つでスカートの柄を立体的に描くのは、並大抵のことではない。一応、類例が皆無というわけではないが。例えば、今月発売の新刊だと『リ・ペア この世界は持続可能ですか?(1)』『虚構推理(19)』も、簡素ながら立体的なチェック柄表現を施している。しかしそれらに比しても、『黒岩メダカ』のスカート描写の丹念さと異例のものと言わねばならないし、そして、この描き込みはたしかに本作のファッショナブルな雰囲気や、若々しい躍動感、そしてフェティッシュな魅力を強力に演出している。
 ちなみに、裾からわずかに覗くフリルもなかなか色っぽい。頭髪の髪筋も、繊細かつ濃密に描き込まれている。ヒロイン(モノローグ)の関西弁表現も、程良くこなれていて上手い。ただし、筋立てや画面演出はわりと通俗的で、心情変化の描写もぎこちないし、コマ組みもかなり無難。しかしやはり、この細やかで入念なスカート描写が、あらゆるコマで様々に流れ、浮き、垂れ、はためき、踊るありさまは、現代の漫画表現の中でも強烈なインパクトを持っている。

 つくづく私は、ストーリーやキャラクターばかりを語るのが嫌なんだな……。そういうのは世間にありふれているし、妄想的な空中戦になりやすいし、そして何より、表現物そのものを熟視していないことがある。そういうのではなくて、漫画の描き方を注視して、そこから表現技術の特徴を見出したり、あるいはイベントフラグをきちんと調査してそれをゲームシステムのコンセプチュアルな展望に結びつけていったりする方が落ち着く。つまりは、「実証を大事にする」ということだが。


 ガールプラモ展望は、6日間で3万字。うーん、遅い。
 ひとまず時系列の広がりは書ききったので、最後の章ではジャンルの広がりについてざっくり概観して終わりとする予定。できれば7000文字くらいに収めたいところ。



 05/15(Mon)

 次は日本国内のガールプラモ史について、おおまかな展望記事を書いておきたい。すでに頭の中では、議論の枠組が出来ているので、後は多少の時間を取って書くだけなのだが。
 このblggrでは、未公開状態の記事は、編集するたびに自動保存が入るのが鬱陶しい。かといって、いったん公開状態にしてしまうと、書きかけの草稿を全世界に向けて晒すことになり、それはそれで閲覧者に申し訳ない。ならば、Wordなどに書いて完成させてから投稿すればいいということになるが、それはそれで味気ない。……こういう、しよーもない事情で更新の筆が止まることがよくある。


 里好氏の新作単行本『かくして!マキナさん!!』(第1巻)が出ていた。アンドロイド少女メカバレコメディという、「これぞ里好」という言わんばかりの趣向が素晴らしい。『ディス魔トピア』では小癪ガールたちによるハイパーサイバーヴァーチャルSFを描ききり、『踏切時間』では踏切前限定というシチュエーションで切れ味の良いオムニバスコメディ短編連作を続けた漫画家が、その両方の蓄積を生かしつつ新境地に向かっているのがはっきりと見て取れる。
 表面的には、ただのメカバレお色気コメディなのだが……いや待て、そもそもメカバレはかなりマニアックな趣向だし、内部メカもリアリスティックに描かれていて只事ではない。キャラクターの名前も、マキナ=machina(マシーン)だし、男性主人公も「阿久津栄太(=アクチュエーター)」と、オーソドックスに凝っている。もちろん、メカ首がもげて取れるデュラハン状態のシーンもある(嬉しい!)。
 メカバレ表現の側面が『ディス魔トピア』のSF精神を継承しているとすれば、お色気コメディの側面は『踏切時間』で培われた演出テクニックを継承している。ヒロインは「セクサロイドなのに性的な知識が無い」という設定で、ここから硬軟取り混ぜた自由闊達なコメディが展開される。ヒロインの苦境をサポートするコメディというアプローチの作品は現代でも多いが(例えば『履いてください、鷹峰さん』)、その中でも本作の趣向は、「ありそうで無かった」ものの一つだし、マニアックなネタなのにポップな仕上げで受け入れやすくなっているというのも面白い。
 しかも、電子書籍版はフルカラーらしい。そこまでやるか……。


 漫画は今年も500冊ペース。買っては読み、読む端からまた買いまくるのを繰り返して、未読単行本が常時10冊前後ある状態が続いている。しかしこれは、「自宅でいつでも読める本の選択肢が、常に10冊程度キープされている」と捉えることもできて、そう考えればこれはこれで便利なものかもしれない。
 これでも、書店店頭に出ている新刊単行本のうち、せいぜい2~3%(つまり50冊に1冊か、30冊に1冊程度)しか買っていないわけで、そう考えると漫画の刊行点数はすごいなあ。

 ただし、異世界ものの漫画はそろそろ飽きてきた。この2~3年は、異世界ものの漫画も店頭で気になったものはバンバン買っていたが、最近は底が見えてきた感じ。四コマ漫画やラブコメもあんまり受け付けなくなったし、バトル漫画やスポーツ漫画も基本的に対象外。いろいろ読んでいるつもりでも、やっぱり私の漫画経験はまだまだ浅くて狭くて短い。せかいはこうだいだわ……。


 ドラゴンのような太い爬虫類尻尾の(女性)キャラクターは、どのあたりまで遡れるか。さしあたり思い出せる範囲では、ドラコケンタウロス(1989年の『魔導物語』が初出?)とか、化蛇キャラの綾小路ぱい(『3×3 EYES』、1987年開始)とか、寺沢武一『ゴクウ』(単行本1989年)のキメラキャラあたり。80年代以前の伝奇系作品でも、いろいろ描かれていた可能性がある。
 「かわいいドラゴン」というと鳥山明が思い浮かぶが、人型キャラのドラゴン尻尾を描いたことがあったかどうかは知らない(※フリーザやセルなど、男性キャラには長い尻尾がある。長い尻尾の男性キャラというと、ボンドルドもいる)。
 00年代アダルトゲームだと、alicesoftやEushullyにいくつか実例があったと思う。ソフトハウスキャラは、異種族(魔族)ヒロインをたくさん描いてきたが、ドラゴン尻尾キャラは一人もいなかった筈だ。内藤氏は『葵屋まっしぐら』の龍族ヒロイン「月池小姫」や、『巣作りドラゴン』の最強ドラゴン「リュミスベルン」など、何人ものドラゴンキャラを手掛けてきたが、本格的な尻尾付きのキャラは『のんびり農家』のドラゴンヒロインが初めてだったと思う。でぼの巣製作所には、ドラゴン少女がメインヒロインの『空を仰ぎて雲たかく』(2010)があるけど、尻尾は出さなかったかな。
 ドラゴンのような異種族をヒロイン(萌えキャラ)にするのは、オタク界隈でも10年代半ば以降のことだと思う。00年代末から10年代前半にかけて、モンスター娘(もんむす)が次第に花開いていき、その過程でサキュバスキャラの浸透やエルフキャラの変容も起きたが、その中でもドラゴンキャラの擬人化は比較的遅かったと記憶する。
 アニメ分野だと、『メイドラゴン』(原作2013年-、アニメ版2017/2021年)と、『邪神ちゃん』(原作2012年-、アニメ版2018/2020/2022年)の影響が大きいと思われる。ちなみに、クッパ姫が盛り上がったのも同時期(2018年)。
 いずれにせよ、ラミアや人魚キャラにも通じる美意識なので、特定のどこかが震源地ということは無さそう。



 05/05(Fri)

 プラモデル制作(完成)が300個に達した。模型制作を再開してから10年でもある。
 その節目の300個目は、キットの出来が良くないこともあって、かなり滅茶苦茶な制作になってしまった。今後の戒めになる経験ができたと、ポジティヴに捉えよう。というか、十年もやっていながらこの程度の技量というのに、忸怩たる思いも……。

Academy社「1/35 AH-64A(アパッチ)」。全長約50cmの大物キットで、1/350艦船と遜色ないボリューム。

 『ブラックホーク・ダウン』のUH-60(MH-60)とか、『プレデター』のUH-1(イロコイ)とか、『フルメタルジャケット』のS-58を作っても良かったかも。後知恵だが。
 ヘリは、騒音がうるさいのもあるが、やはり生々しく攻撃的な凶悪さがあるのがきつい。戦争映画の軍用ヘリも、しばしばそういう描写がされるし。上のキットは、晴れやかなスモークブルーなので、そういう陰惨さの印象をいくらか免れている(※このキットを選んだ理由の一つでもある)。


 さて、ようやく海外ガールプラモ概観記事をひとまず書けた(4時間で9000字)。とはいえ、これまで書いてきたことの切り貼りにすぎないし、さらにここから写真を多数選別して掲載していかなければいけないので、記事を完成させるにはまだまだ大変なのだけど……。模型界隈は、個別キットの紹介や完成作品紹介はたくさんあるものの、歴史的な展望をきちんと語るテクストがほとんど存在しないので、誰かがこういう横断的な記事を書いておくべきだと思う次第。
 ここからもう一歩進んで、日本のガールプラモ史についても、ひととおりの見通しを文章にしておきたい。web上の言論を見ても、「フェイ・イェン」に始まるメカガール路線が無視されがちで、どうしてもKOTOBUKIYA中心に偏った見方になってしまいやすいようだから。そういう偏りを、多少なりとも相対化するようなものを書いておきたい。

 画像掲載は28枚になった。映っているキャラクターは30種。キャプションも加筆したら文字数も13000字に。まあ、個々のメーカーについてコメントを羅列しているだけで、ロジカルに複雑な展開があるわけではないから、長さは問題にならないだろう。それぞれにじっくり丁寧に書いておく必要のある、大事な話でもあるのだし。


 Twilog再開の件は良かったね。tgttrはけっして好きではないけど、このアクションに関しては良いことをしたと思う。少なくとも、「サーヴィスが維持される(=これまでのログも当分維持される)」というだけでも十分大きな意義がある。
 しかし、twitterの運営と経営そのものに深刻な問題があると思うので、私自身はもうけっしてあちらで活動するつもりは無い。

 引き続き、twitterに書いていたものを再読しつつ整形転記していく。
 csvファイルを見ると、残り3700行(3700投稿)もあるけど……ちょっとずつでも進めていこう。
 ……いくつかの連続投稿を切り出して、余計な投稿(=時事ネタなど、残す意味の無い投稿)をどんどん削っていったら、2900投稿まで減らせた。ここからが大変だけど。


 【 18禁コンテンツそれ自体と、制作者の現実の差別的活動は分離できるか? 】
 男性向け18禁系のイラストレーターや漫画家やゲーム脚本家――あるいは映像表現者や舞台関係者とかでも――が、性差別的な煽動に乗っているのを見ると、その人の作品を買うのがかなり苦しくなる。作者と作品は別だとは言っても、「りょーじょく描写があるけど、あくまでフィクションでの妄想だからね」という建前を守っている作者の作品をプレイするのと、リアルな性差別にもコミットしている作者のダーク系作品を購入するのとでは、社会的な文脈と意味づけはクリティカルに異なってくるので。LOのキャッチコピーのようなものは、いささか欺瞞的ではあるけれど、あのような宣言でも、無いよりはあった方がマシではあるのだよね……。
 作品解釈をするうえで作者自身の意見を括弧に入れるアプローチはあり得るが、作者がどのような人物であるかは、当該作品が世の中に投げ入れられた社会的コンテクストを形成する一部分として、必ずしも無関係ではない。その意味で、例えばダーク系のアダルトゲームライターやえろどーじん作家は、平均以上に道徳的な人物であることまで要求されるべきではない(かもしれない)が、【現実の】女性の地位に関して一般人以下の差別的見解を表明するのは、職業的にどうなの?とは言いたくなる。いろいろと難しいよね……。
 「差別的な発想や抑圧的な思考を持つ人が、現実ではそれを実行しないがフィクションとしてその欲望を公表して昇華する」というのは、うーん、まあ、それはそれで一定程度許容されるべきだとは思うが、良いかどうかで言えば、ずいぶんよろしくない代物ではある。
 

 女性向けの雰囲気は総じて好きなのだけど、ものすごく苦手なタイプの作品も多いので、なかなか付き合いにくい。例えば、傲慢で我が侭な超然美形ヒーローが「お前は俺だけのものだ」と支配欲丸出しで迫ってくるのは、ものすごくDV男じみていて、フィクションとしてもきついのだよね……。「冴えない私が聖女の力を見出されて、皇帝陛下や騎士団長から見初められる」とか「鬼の一族だったり龍の力を持っていたりする美形男性の『嫁』にされて」云々というのも、見ると落ち込む。もっとも、そういった都合の良い受け身のドリームは、男性向けで言えば「冴えないボクのところに可愛いサキュバスや可愛いドS路理キャラが来てくれて」というのと同じようなものではある。しかし女性向けは、なまじ描写の社会性が発達しているだけに、「上流層向け学校の生徒会長」とか「娼館の楼主様」といった現実的な権力関係がストレートに出てくることが多く、いかにフィクションとはいえ、やっぱりきつい。高貴で傲慢な美形貴族様に囲い込まれるとかね……。むしろ男性向けの方が、徹底的にファンタジーである分、安心して読むことができるくらい。


 アダルトゲームでは、St. VDイベントはかなり稀かも。「前半の共通パートで、生活科(家庭科)でお菓子を作ったのをもらえる」とか、「個別シナリオの最初の方で、付き合い始めでデートをしてアクセサリーを買ってあげる」くらいだろうか。
 フルプライス学園恋愛系では、複数のヒロインの間の選択可能性を持たせなければいけないので、特定のヒロインからの重たいアクションを取り込みにくいというのもある。言い換えれば、近年のロープライス単一ヒロインAVG(例:あざらしそふと)では、たまに描かれているかな。
 作中時期がちょうど2月中旬でなければいけないという制約もある。それに、付き合いはじめたら、お菓子がどうこうというイベントを入れている余裕が無くて、急いでベッドシーンの回数をこなしていかなければいけないという事情もある。
 そう考えると、年間を通じてずっとプレイされるオンラインゲームは、こういう季節イベントを取り込みやすいというのも(当然の話だが)あらためて実感される。オタクたちも、世間の季節行事にはけっこう敏感だよね。ハロウィンイラストとか新年挨拶イラストとか、えほーまき(えろ)イラストとか……。


 【 ゲーム批評のアプローチいろいろ 】
 うーん……美少女ゲームについて論じるのに、2023年にもなって旧弊的な「読むだけ批評」は辛いなあ。映像論やゲーム分析がこれほど発達しているのに、視聴覚表現やシステム表現を無視してテキストだけでゲーム批評が成立するのだろうか? それは20年前のアダルトゲーム批評たちの失敗の轍を踏むことにしかならないのでは……。現代では、オンラインゲーム(ソシャゲー)のゲームパートを中心として、ゲーム(システム)要素への意識が非常に高くなっているのに、読み物要素だけに注目するというのは、内容的にもすでに終わっている袋小路だし、戦略的にも美少女ゲームを魅力的に見せることに失敗するだろう。20年も経ったら、もっと先へ進んだ挑戦的な議論が、新しい世代から生まれてきてくれることを期待していたのだが……。ジャンルの歴史を調べ、現代(隣接諸分野)を知っておかないと、車輪の再発明どころかパンジャンドラムの再発明で終わってしまうのに……。もったいないなあ。
 しかし、あんまり言うと、年上世代からの抑圧になってしまいかねないというのもある。「趣味分野だったら年齢もキャリアも関係無い、あくまで対等性をベースにして自由に議論すべきだ」というのも一つの姿勢だが、実際にはなかなかそうもいかない。とはいえ、地雷に突っ込んでいくのを看過するのも……。
 アダルトゲーム/美少女ゲーム/ノヴェルゲームは、他のゲーム分野と比べても、文芸モデルの批評が適用できる余地は大きい……形式上は。だが、その路線は00年代に一通り試みられて終わった道だし、10-20年代の作品群も、それに適した内容ではない(あまり生産的にはならない)ように思う。そういう文芸モデルが機能するような作品は、00年代でも20年代でも例外的な極少数のタイトルのみだった。その意味で、美少女ゲーム分野全体を掬い上げたい場合には、けっして良い戦略とは言いがたい。
 ただし、文芸モデルの批評を前面に押し出すことによって、美少女ゲームの分野的固有性や、そこで発揮されている特有の魅力をハイライトしようと試みるのは、ありかもしれない。ただ、どこまで上手く行くかは分からないし、ライトノヴェルという巨大な競争相手も出てくるけど。
 現代のゲーム論としては、最寄りの隣接分野(美少女ブラウザSLGなり萌え系オープンワールドRPGなり)を視野に入れて、それらと通じ合えるような枠組を構築していく方が、おそらく生産的だし、ふりかえって美少女ゲーム(パッケージ売り切りのPCアダルトAVG)への関心を喚起することにも寄与すると思う。より広い文脈の下でパッケージアダルトPCゲームの位置づけを試みていくためには、文芸モデルの批評よりも映像批評や美術批評を参考にしていく方がポテンシャルが大きいだろうし、また、ゲームシステム分析(=その作品/分野がどのような構成原理の下に成り立っているか)を提示するのも有益だろう。分岐フラグ分析とかも絡めたシステマティックな作品論をやったら面白いと思うのだけど、昔の人たちはそこまで踏み込まずに選択肢論とかループ論だけで終わっていたからね……。せめて、「真ヒロインのルートロックを正確に指摘して、その内的意義を明らかにする」くらいはしても良いだろう。
 というわけで、批評はあくまで技術(道具)であって、それをどのように使用するか、何に対して使用するか、何を目指して使用するか、あるいはどのような理論的道具立てを選んで使用するかという方法論的再考は、文芸的批評の中でも、あるいは様々な分野的批評の間でも、あった方が良いと思う。
 「作品の中から意味を取り出す営み」くらいのつもりで自由にやるなら、文芸的アプローチも、まあ、ありかなと思うけど。例えば、一作品の中での各ルートの位置づけと全体構成を展望するとか、作品コンセプトを明確化して当該作品の分野的意義を論じるとか、主題(テーマ)論的批評とかは、文芸的蓄積を活用しやすいだろう。例えばブログ記事「鬼キャラ今昔」は、10年代の鬼キャラの「角」デザインの新傾向を指摘しつつ、その中でアダルトゲーム分野の先進性を指摘することができたかなと思う。個々の表現技術に注目しつつ、幅広い文脈の中で位置づける路線というのは、こういうのを想定している。あらゆる領域の作品数が膨大になっていて、しかも活発に相互交流している現代では、個別的な作家論よりもそういう作品横断的な各論ネタの方が、おそらく扱いやすいし、個々の作品の特質を抽出しやすいし、求められがちじゃないかなあ。まあ、書き手としては「自分が書きたいものを書く」で良いけど。
 例えば、ゆずソフトのオフショット的なイベントCGの柔らかさと実在感がどのように構築されているかを、美術批評の道具立てを援用しつつ仔細に分析するとか。あるいは(10年代後半以降の?)逆光イラストがいかに取り込まれているかを、一つのブランドの作品群を取り上げて実証するとか。きっと面白い。ゲームシステムに関しても、Escu:deがマウス操作をゲームパートに巧みに取り込んでいる――マウス移動による線引きバトルや、ホイールによるリボルバー操作――のは、現代の他分野(オンラインゲームの操作演出)に勝るとも劣らない。そういうことを指摘するのも、批評が担い得る仕事だ。


 30年昔の漫画が描いている社会像や政治家像について、「現代の社会状況(政治状況)に照らして著しく説得力を失ってしまっている」と感じてしまう可能性もあるが、現状がどうであれ、フィクションはフィクションとして、あるいは「あり得る架空状況の話」として捉えていく方が良いのではないかなあ。
 ただし、現代の我々が過去の作品に触れる意義については――芸術的意義にせよ社会的意義にせよ――、その都度きちんと現在なりに思考していくべきだろう。作品が時代を超えるというのは、単なる「懸隔」や「克服」だけでなく、受け手たちが「架橋」しつつ新たな光を当てていくことにも存するのだから。そして、新たな翻案作品を制作することそれ自体も、そうした意味創出活動の一つだ。その観点からして、原作の個別描写に忠実であることは、あまり重要ではない。過去の演劇作品を現代的演出で上演するように、アニメや実写でもそうした現代化は行われてよいと思う。
 ただし、その一方で、創作物は我々の社会的現実を説明してくれる真理の源泉などではない(※ヒントにはなりうるかもしれないが、それ以上のものではない)。そしてまた、古典創作物に対して、我々の目下の社会的現実とのストレートな一致を求めることも、誤った要求(本来要求する資格の無い、的外れの想定)だろう。


 弱者を切り捨てることによってコロナを「克服」するというのは(tw: 1615505796275798022)、感染症の性質からして失敗するほかなく、、全体が不幸になるだけだろうなあ……。仮に感染した弱者を見捨てても、彼等が即時消滅するわけではなく、社会の中にウイルスを培養し続けるだけだし、感染者の完全隔離も不可能なほど大規模に蔓延してしまっている。そして、この社会に遍在してしまっている以上、「コロナ禍から脱出」など出来ない。誰でもいつでも罹患しうるのだから。「健康な人々」がその健康を喪失していくのがまさに感染症なのだし、そして(いまだ未解明な)後遺症もあるので、十分な安全は得られない(脳機能障害などを来す可能性もある)。つまり、「弱者を切り捨てることで大多数が幸福を維持しよう」という戦略は、そもそも感染症――「うつる」病気――というものの性質上、失敗する他ないだろう。「万人の感染を抑制することで、全体の安全性を向上させていく」というアプローチしか採り得ない筈では……。公的な医療費負担という目の前のコストをケチることによって、むしろ全体がリスクを増大させ、問題解決を遅らせる。このことは3年前の発生当初から、すでに論じられて認識共有されていた筈では……。純経済的な発想では「不採算部門(≒弱者)を切り捨てて黒字部門(≒健康な人々)だけにすれば健全化する」のは合理的に見える――ひどくはある――が、人類社会としては「切り捨ては不可能」+「不健康(ウイルス)が健康な部分をどんどん侵蝕していく」という性質上、感染症では上記の戦略は無理だろう。
 さらに言えば、マラリア等と比べても変異が急速かつ多様に発生しうるので、長引けば長引くほど「予測困難(安全性喪失)」+「リスク増大」+「対応困難&解決困難」になっていく。弱者感染者を放置するのは、そうした長期化を助長することになるだろう。これでは誰も得をしない。じんるいっておろかだわ!


 【 趣味と社会の不可避的な関わりあい 】
 『幼なじみは大統領』(2009)は、オバマもどきのヒロイン(桜濱)やプーチンもどきのヒロインが登場する。同年の『大阪CRISIS』には、柿本という知事が登場する。政治を無邪気に冗談に出来た最後の時代というか、あるいは冗談にならなくなった事態を用意してしまった迂闊な時代の産物というか……。ただし、このあたりは論点が多くてややこしい。1)政治家にも個人としての尊厳がある、2)公人の言動に対する批判は広く認められるべきである、3)政治家を茶化すことすらできない社会は危険だ、4)風刺やパロディ化は公共的言論や政治的評価をイメージ優先に流れさせてしまう、といった複数の次元の考慮があって難しい。
 模型趣味にも、社会的現実との関わりを考えざるを得ない場面はある。昨年の開戦以降は、「ロシア戦車かっこいい!」とナイーヴに公言することは、いかにプラモデルであっても、もはやきわめて困難だろう。実際、ロシアものの展示を取りやめたところもあると聞き及ぶ。も例それ自体には罪は無いのだが。模型や模型制作趣味それ自体には罪が無いとしても、「それをどのようなTPOで展示するか」、あるいは「モデル元となっている戦車実物にどのように言及するか」は、それ自体が社会的に特有の意味を作り出す行為であり、それゆえ、良い/良くないという社会的判断と関わることになる。ただし、その判断は完全な白黒二分法ではなく、濃淡のグラデーションとして存在するだろう。2022年以降はロシア戦車ものがNGだとして、それなら2014年当時(クリミア)ははたして良かったのか、80年代(アフガン)当時はどうか、WWIIものはどのような展示が望ましいかとか……。模型展示会のように「目的が明確であり」「参加者が限定されており」、なおかつ「戦争当事国の兵器であることについて明確なエクスキューズがある」のであれば、展示しても良いとは思う。展示会や博物館や研究機関のような場は、そういった保護的機能と、公平な社会的機能があると思う。
 大学院の共同研究室に、旧日本軍の戦車だか航空機だかのプラモデルを置いているモデラー院生がいて、そして同じ部屋に中国籍留学生も在籍していたので、「そういうプラモを置くのは良くないのではないか」という話になったことがある(※断っておくが、私は当事者ではない)。その話を知人経由で聞いた時は「そこまで重大な意味を発揮するものではないから、いいんじゃないか」という考えだった。しかし、それは確かに兵器であり、そしてシンボリックに侵略行為と結びつきうる側面はあって、それは日本人である私(たち)が軽々に否認してよいものではない。


 【 キャストとキャラクターの同一性? 】
 原作(例えば小説)の情報と、それを別媒体にした作品の情報(例えばアニメ版のキャスト)は、基本的には別物の筈だというのは同意できる。しかし、現代のメディアミックス展開の下では実質的に強固な連動があるので、「そこにはそういう連結的文化が存在するのだ」と見るしかないのかもしれない。だから、wkpdで個々の登場人物の説明をする際に、「原作小説では~~、漫画版では~~」とまとめて併記されていたり、アニメ版やドラマCD版のキャストが付記されていたりするのも、当該作品の提供形態の実情を反映したものとして、まあ、やむを得ないんじゃないかなあ。
 もちろん、アート一般の原則的な捉え方としては、「別媒体で制作された作品はそれぞれ別個のものとして捉えるべきだ」というのが妥当だろう。ただ、それを超える特殊事情があるのだと言うしかない。個人的には、こういう現代オタク系メディアミックスはあまり好きではないけれど……。
 漫画/LN/アニメなど複数の媒体で外伝的なストーリーを幅広く展開して、受け手に対して「これらは全体としてつながりがあるので、そういう前提でそれぞれを楽しんでね」というシェアドワールド的な提示方法も、そういった複数媒体連動プロジェクトを推し進めたものと言える。『ストライクウィッチーズ』シリーズが典型的だったと思うが、そういう一連のプロジェクトの下では、同一キャラクターが別媒体(別作品)に登場する場合も、アイデンティティの同一性が強く前提とされる。されてしまう。良い悪いではなく、「このコンテンツでは、そういう作りになっているのだ」と言うしかない。

 (→4月6月