2023/05/11

「萌え」と「推し」について

 00年代的な「萌え」と、10年代以降の「推し」の異同について。
 「オタクは消費者なのか」という問についても。
 (2022年11月、tw: 1591274922256793600 )


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 00年代風の「萌え」が、10年代以降は「推し」に取って代わられたというのは事実だろうけど、しかし、「萌えは受動的」「推しは能動的」という位置づけは首肯しがたい。
 00年代的な「萌え」も、自ら主体的に価値を発見し、あるいは選択してそれを表現するものだった。「萌え」が個別的なキャラ萌えだけでなく、しばしばマイナーでマニアックなフェティシズムと結びついていたことはその証左だろう。けっして「価値を受け取って終わる」だけではなかった。
 他方で、「推し」という用語法は、おそらくリアルアイドル選挙界隈から普及したものと思われる(※違ったらごめん)。つまり、仕掛けられた枠組の中で、振舞い方を操作されたうえでの、それほど主体的ではない活動だと言うこともできる。また、「自分がアクション出来ることに価値を感じる」というが、多くの人がそんなに特別で立派で能動的な「アクション」を日々行なっているかというと、これまた疑問がある。
 結局のところ前記の議論は、「萌え」の主体性を過剰に矮小化しつつ、「推し」の主体性を過度に理想化して、実態と懸け離れた対比枠組を設けているように見える。

 「推し」という捉え方は、1)自分の趣味活動に第三者を介在させていること、2)自分の趣味が商業的枠組に取り込まれていること、この2点で個人的に受け入れがたい。いや、「推し」アプローチの趣味活動をする人たちは、それはそれで好きにしてくれてよい(彼等を批判はしない)けれど。
 1) 自分が何を好きであるかは、他人に見せびらかす必要は無いし、他人と共有することも望んでいない。まあ、共有や共感があればあったで嬉しいし、同好の士が多ければ多いほど、その趣味嗜好が持続される可能性が高まるという意味ではありがたいが。ただそれだけだ。そういうわけで、今後とも「推す」という言葉は、私はけっして使わないだろう。かといって「萌え」も擦り切れていて使いにくい……かと思いきや、前記のデータを見るかぎりでは、今でも使っている人はわりといるのかな?
 2) 自分の趣味の活動が商業的に操作されたり、道具的に搾取されたり、趣味に関して特定の行動を要求されたりするのは大嫌いだ。自分の趣味の自律性、主体性は極力確保したい。「アイドル選挙で投票し合って盛り上がったり、売上で競い合ったりしようぜ」というのは、私の趣味活動の対極にある。
 
 補論:趣味と商業主義について。おそらく90年代までは、ごく限られた刊行点数の漫画雑誌や、ごく限られた放映枠のアニメで、オタク系趣味は成立し、存続していた(※もちろん、もっとマニアックでマイナー趣味活動もいろいろ存在したが)。しかし00年代以降、状況は一変する。
 90年代末から00年代以降には、新たな漫画雑誌が続々と現れ、また、近年ではオンライン連載漫画も増加してきた。アニメも、深夜枠が1997年頃から急増し、さらにはネットオンリーのアニメも出現した。つまり、提供媒体が拡大するとともに、作品の数も爆発的に増加した。作品数の増加と比べて、オタク市場全体も拡大したとされるが、そのキャパシティ増加は、作品数の増加率に遠く及ばない(※さらには長期的な不況の影響もある)。ということは、個々の作品が安定して存続することが、経済的に困難になっているということだ。ここに、競争の契機が生まれる。つまり、「売れない作品は市場から消えていく」という構造が、受け手側の前にも剥き出しで提示されるようになった。漫画作品の「推し」なり、オンラインゲームのキャラクター「推し」なりによって、私たちは自分が好むものを市場的に確保するように行動しなければならなくなった。「推し」の実態(の一側面)には、このような考慮が存在するように思う。好きなものを「推し」て仲間を増やそうとするのは、自分自身の趣味のために合理的ではあるが、しかし、そのベースにはきわめて不幸な淘汰の構造がある。逃れがたい構造ではあるが、なんら喜ばしいものではない。その意味でも、私はそういう生存競争のための「推し」には乗りたくない(※いや、それは短期的には自分自身の趣味にとって不利になるのだけど)。好きな作品をSNSで宣伝し続けるボランティア的商業活動の構造に巻き込まれるのは御免蒙りたい。そうした活動それ自体を楽しめる人も多いのだろうけど。
 さらに補足すると、10年代以降はSNS文化の影響もあるだろう。人的-社会的なネットワークが、趣味活動のメインフィールドになっているかのようだ。そうした「ネットワーク」の場では、趣味の営みが、周囲の人々への働きかけという色合いを強く帯びるようになるのは、無理からぬことだろう。続
人間の活動は、媒体のありようから強く影響されるということの、典型的な実例だ。その影響に馴染んでいってもよい。でも、趣味に関する振舞い方は、今いる媒体から規定される以外の形を取ることもできる。そうした自由の可能性も、忘れずにいたい。

 「自分自身のために自分一人の趣味を楽しむ振舞い」と、「自分の趣味のために他人に宣伝する振舞い」(=自他のために好きなものをお薦めしあう関係でもある)と、どちらがエゴイストなのだろうか……どちらも利己的要素を含み、なおかつ、どちらも自らの趣味の価値を高める行為だと言うべきか。いずれにせよ、「萌え」と「推し」は、単なる言い換えではなく、そこには振舞いそれ自体の大きな転換が生じていると言うべきだろう。そして、後者に埋め込まれている諸要素(とりわけ商業主義的思考の侵入と、趣味表現経路の組織的コントロール)を、私は好んでいない。
 人が、自分の趣味に関する見識や判断力や審美眼を信じられるならば、そして自分が好きになった作品は他人(フォロワー)にとっても良い作品になり得ると信じられるならば、それをTLに向けて好意的に紹介することには積極的な意義があるだろう。それを否定するものではない。ででも、それはお節介なり押しつけなり宣伝なりの側面を持ちうることも確かだ。そして、社会的ネットワークがひたすら宣伝の場になっていくことには強く警戒している。狭義のSNSでなくても、web検索(例えばggl)やwebサーヴィス(Youtube)もいよいよ売り込みとユーザー操縦の場になっているのだから。
 幸いにも、SNSなどで私が拝見している方々は、衒いなく正直に趣味の話をされている方がとても多く、たいへんありがたく感じている。私もそうありたいと思っているが、どのような振舞いが良いのか、そのあたりのバランスがいまだに分からない。

 結局のところ「萌え→推し」の変化は、「商業化(コンテンツ提供が側によるコントロール)」、「オンラインでの作品数の増大と経済的不況」、「アイドルものの再興」、「キャラ単体の属性萌えからキャラクター間の関係描写へ」、「SNSの普及とレコメンド文化」等が複合的に影響している時代的趨勢だと思う。中には、どちらが原因でどちらが結果かの判断が難しいものもあるが。いずれにせよ、こうした巨大な構造的変化に伴われている現象なので、単なる「萌え/推し」の言葉の違いだけでなく、オタクたちの実質的な行動態様そのものも大きく変化していると考えるのが妥当だろう。

 私見では、「推し」というのはボランティア的感情労働の一種に他ならないし、自己実現過程がそうした無償労働の形をとって収奪されている――換言すれば奉仕労働が「自己実現」や「自己表現」の美名の下に覆い隠されている――とも言える。やはり「推し」文化が全面化していくのは危険だと思う。ただし、どの趣味分野も市場のキャパシティに対して供給過多傾向で、不可避的に生存競争を強いられる(=それゆえ自分の好きなものが売上を増すように、ファンがボランティア的に宣伝して回るのが合理的な行動になる)という事情があることも、また否定しがたくはある。



 (2022年12月、tw: 1598863836043673600)
 よくある「オタク=消費者」論は、過度に一面的であるように思える。オタクは、単なる受け身の消費者であるかというと、必ずしもそうではない。また、受け身の消費者的性質を持つことが必ずしも悪いわけではない。他の趣味にも受動的な側面はあるし、それらは悪いことだとは考えられていない。

 1) オタク活動は受動的なのだろうか? 実際には即売会開催、ファンアート作成、模型制作など、当事者的/主体的/創造的な活動はむしろ非常に多いし、受け手から作り手側(商業クリエイター)になるハードルも比較的低い(※例えばネット小説家やイラストレーターや漫画家が大成していく例は、非常に多い)。
 2) また、大抵の趣味は経済的成立によって持続可能性を得ている。つまり、その業界にお金を落としてくれる層がいることによって、そのジャンルは商業的に存続し得ている。そして、大抵の趣味は、参加者の大多数が消費者側に分類されるか、あるいは少なくとも、一定の意味で消費者的側面を持っている。いわゆる「オタク」以外の多くの趣味領域も、参加アクターのほとんどは消費者なわけで、オタク分野が特別に受動的だとは言えないだろう。

 そもそも、「オタク」という大雑把なカテゴリーではなくもっと細かく分類しなければ、まともな分析にならない。例えば、アニメやアイドルファンやスポーツ鑑戦や音楽鑑賞は受動的-消費者的傾向が強いかもしれないが、イラストや写真や料理やペット飼育は当事者的-主体的-創造的傾向が(少なくとも外形的には)強いだろう。
 しかも、個々の趣味についても、けっして受動的なばかりではない。例えばアイドルファン活動にしても、彼等(オーディエンスとしてコンサートを盛り上げる側)がいてこそイベントの「場」が成り立っているわけで、そこには主体的-参加的-共同形成的な側面が存在する。それを無視するのは、公平を欠いた一面的な評価だろう。ただ単に黙々とグッズを購入しているだけではない筈だ。

 というわけで、「オタク=消費者」論の方向性にはちょっと乗れないし、とりわけ、それをもってオタク文化が他と異なる特性を持つという「オタク特殊性」論や、「オタクは非生産的な活動だ」という偏見や、「最近のオタク」批判になったりするときは、どうしても警戒せざるを得ない。

 そもそも「当事者性」と「消費者性」は、必ずしも相反的なものではない。論理的にも現実的にも、双方の間には連関があるかどうかは、かなり疑問がある。その意味で、このお二人の話も(tw: 1598754472276430849 ,  1598824370344198145)、噛み合っていないように見える。
 「非-当事者性 =消費者性 =現代オタクは駄目」というよりはむしろ逆に、現代社会では「消費者として現れることと、当事者(参加者)の地位を得ることが、イデオロギー的に結びつけられてしまっている(当事者性が、消費者性によって塗り替えられてしまっている)」という方が問題であるように思える。典型的には、アイドルファンがアイドル選挙イベントで、投票によって1等賞を決めうる立場に立たされているように、あくまで仕組まれた当事者性、擬制的な能動性、仮象的な主体性にすぎないということもあるのだ。そこでは、あくまで主催者から与えられた道筋でファンたちが行動することが期待されている。当事者性が、仮構されている。能動性が、操作されている。主体性が、管理されている。そういった当事者性、能動性、主体性は、はたして素朴に称揚してよいものだろうか? そうしたいかがわしさが最も典型的に現れているのがアイドル選挙であり、そして近年の「推し」思考もそういった欺瞞に浸されているように思える。
 オタク界隈全般も、00年代以降のメディアミックス進行や経済的困難(市場のパイの縮小)の下で、現代社会全体の新自由主義的「当事者性」称揚の一部に巻き込まれていると見ることができるだろう。そうした観点を採るなら、例えば、無償のファンアートをSNSでシェアしあうことについても、「消費者性を免れた主体的な趣味活動」としての側面と、「ボランティア的な宣伝活動という搾取」の側面という二重性が見出されるようになる。どちらか一面だけではない筈なのだ。

 そして、そこまで見たうえで、「現代オタクはやはり主体性が無い消費者だ(=当事者性の美名の下に主体性の機会を奪われ経済的にも支配されている不幸な存在になっているのだ)」と述べられるならば、それは社会分析としても、オタク行動分析としても、現代文化論としても意味を持つ可能性があるのだが……。こういった諸々の考えもあって、00年代(以降)に流行したヴァージョンの一連のオタク文化論に対しては、かなり冷淡な目で見ている。

 オタク界隈以外の様々な趣味活動についても、同様の見方を適用することができる。例えば、素人料理やペット飼育は、確かに当事者的な固有性の下に置かれているし、能動的なアクションも伴っているけれど、そういった当事者性や能動性それ自体になんらかの積極的価値が見出せるかというと……そういうアプローチでは、あんまりポジティヴな結論には結びつけられないだろう。
 また、食材選別や調味料購入やペット遊び道具や美容フード等を含めれば、消費者的側面も不可避的に強く伴われている。そうした側面を無視すべきではないし、そして、しかも、消費者だからといってネガティヴな評価を帰結するとは限らない。そのあたりの複雑なデリケートさを無視して単純化する議論は、やはりいただけない。

 多少関連する論点で、「(オタクは)情報を食べているだけ」という例の議論も、かなり一面的だと思う。既存の通念や企業の宣伝に囚われずに、自分なりに好きなものを自由に見つけて、そしてそれらを自ら体験していくというのが、オタク(とりわけ、いわゆる第二世代くらいまでの?)の美質の一つなのだから。そういった姿勢こそは、価値選択の主体性があり、体験の当事者的意欲があり、そして活動の能動性を備えていると言えるだろう。
 オタク界隈におけるそうした自由の気風は、90年代後半から00年代前半に掛けて花開いた。深夜枠アニメの拡大な漫画雑誌の新規創刊などが相次ぎ、「選択肢が増える」、「マイナーなものも楽しめる」、「メディア宣伝の圧力がまだ小さかった」、「SNSの組織化もまだまだ」という幸福な環境だったと思う。そうした恵まれた環境が、オタクの独立自由の気風を支えてきたという構造については、けっして悪く言うべきではないだろう。環境にまったく依存しない完全な自由意志などという観念にまで飛躍しなくてもいい。このくらいまでは肯定的に捉えてよいだろう。
 ただしそうした幸福な環境も、先述のように00年代後半以降、失われていった。すなわち、「選択肢が増えすぎたことによる競争激化」、「マジョリティ志向の強まり」、「ユーザーをメディア的にコントロールする圧力の増大」によって、そうした自由の『らくえん』は力を弱めていった。2022年現在の状況も、その延長上にある。そうした不幸な競争的環境下で、「推し」の発想が支配的になっていることは、きわめて遺憾ながら、自然な流れなのだろう。すなわち、趣味の対象にひたすら沈潜し耽溺する喜びよりも、宣伝活動に勤しんで市場的競争における勝利を目的とするという、明らかに倒錯した思想だ。そこでは価値選択の主体性や当事者的な体験の喜びといったものが正当な居場所を見出すのは、きわめて難しくなっている。