2023/04/30

2023年4月の雑記

 2023年4月の雑記。(→5月1-3月

今月の一枚は、これにしておこう。Eastern Model「フランケンシュタイン」。買おうかなと迷っていたら、ちょうど近隣の模型店で5000円に値下げされていたので喜んで購入した。ただし、ボリュームはかなりのもので、組み立てに丸2日掛かった。詳しい紹介は別掲記事にて。


 04/27(Thu)

 Twilogを遡ると、次は海外ガールプラモ概観の話になるところだが、準備作業が大変なので手を拱いている。各メーカーについて、大量の撮影写真を見直して取捨選択しつつ、さらに現在(2023年4月時点)での評価にアップデートして記述しなければいけないので。しかも、中途半端で止めると非常に不格好になってしまうので、短期間で一気に、一定のクオリティまで仕上げなければいけない。
 こういうところで手が止まるのよね……。仕方ないことだけど。

 この一年の海外ガールプラモ。これまで精力的に新作をリリースしてきたEastern Modelが、いきなり新作ペースが落ち込み、その間にNuke Matrix、MS General(将魂姫)、SUYATAが飛躍してきたという感じかな。
 Eastern Model(御模道)は、新作「フランケンシュタイン(日本版:エリザベス)」も作ってみたが、パーツ精度は低いままで、設計面でも進歩が見られなかった(関節構造はいかにもKOTOBUKIYAもどきっぽい)。腹部のメカ露出も、明らかにNuke Matrixの後追いだし。2020-2021年頃(?)は頑張っていてたのに、この落ち込みっぷりは勿体ない。
 Nuke Matrixは、やや寡作ながら堅実にガールプラモをリリースし続けて、近作のハーピー型と人魚型は意欲的なデザインだし、次作もケンタウロス型になるようだ。当初はサイバーなメカガール路線かと思いきや、最近はZOIDS風のヒロイックなガールプラモを目指しているように見受けられる。
 将魂姫は、ここ2年で最も新作ペースが早く、Eastern Modelをほとんど逆転しつつある。フェイスパーツの可愛さではKOTOBUKIYAに一歩譲るものの、それ以外では「デザインの独自性」「パーツ精度」「ボリュームと価格」「キットの豊富さ(引き出しの多さ)」のいずれも優秀なブランドだと言ってよいだろう。
 SUYATAはどうなるかな……。ちょっと不安定なところも見えるが、期待できそうなメーカーだと思う。私が買って組んだ中では、特に「アルテミス(Artemis)」が素晴らしかった。ボリューム感もすごいし、キャラデザもオリジナリティがあり、そしてパーツ構成もきれいに整理されていて、パーツ精度も高い。

 
 先月発売の『YU-NO』(win10対応版ディスク)を買いそびれていたので、それも買ってきた。それと一緒に『黎明記』新作も。月末発売日は明日だから、もう一度買いに行くことになるけど。


 余暇時間はそれなりに確保してあるし、あんまりダラけずにしっかり遊んでいるつもりだが、それ以上にやりたいことが多すぎて時間が足りない。漫画も、昨年までは買ってきた単行本の98%は即日読了していたが、今年に入ったあたりから十数冊の未読が常時溜まっている状態が続いている。もちろん、できる限り読んでいるのだが、読む端からさらに買った新刊が積み重なっていって、なかなか全消化まで行かない。ゲームもほぼ毎日、それなりにプレイしているが、買ってきたパッケージがどんどん積まれていく。もちろん、これまでの積みも大量にある。


 twitterは、ログインしていないと検索すら使えないというひどい場になっているようだ。あそこに情報を出すことが、どんどん無駄になってきている。あんな滅茶苦茶なプラットフォームからは、みんなも早く撤退したらいいのに……。
 1) 特にオタク系では、代替的ソーシャルメディアもいろいろ育ちつつあるし、
 2) 一般的な情報収集という観点でも、あれに頼らなくてもなんとでもなるし、
 3) 人的なつながりを確保するのも、他に手段はいろいろあるし、
 4) デマやプロパガンダや争いごとに晒されずに済むというメリットもある。
 
 まあ、「匿名で自由に参加しつつ」+「それなりに公共性のある場」として、2010年代のネットの重要なアリーナの一つではあったけど、あんな愚かな暴君の乱雑で強欲な運営の下に居続けるのは、少なくとも私には、もう無理だった。


 『黎明記:紅葉の章』で、アイテム管理をページ送り方式に変えたのは改悪だなあ。上下に長くなる一ページ形態の方が、位置を適宜調整して閲覧できるのだが、ページ送り方式だと前後を見落としやすくなる。
 敵キャラはぬらりひょん、天狗、鵺と、いかにも強敵っぽい妖怪が揃っているわりに、難易度は低めだった。頑丈な敵が少なくて、状態異常もきつくないのが原因だろうか。睡眠と鈍足に対策しておけば、かなり安全に行動できる。ラスボスでは冷気耐性も付いているとなお良い。
 直近10作で登場0回なのは垢舐め、イソツビ、火車、蛞蝓、野衾、山地乳。動物系が多いのは偶然だろうか。ぬりかべ、ハンザキ、一つ目入道も、『初花の章』以来、9作品で欠席中。鬼や餓鬼も、『ナツ』以来、8作連続で不在。逆に油すまし(10作中5作)、鵺(ボスを含む4連続)、ヒダル神(4作)、枕返し(4作)、疫病神(4作)は登場回数が多い。味方側専用を含めると、大蜘蛛(味方4+敵2)、古狸(味方3+敵3)、鎌鼬(味方4+敵1)、木霊(味方7)も多い。ゲームバランスの考慮なのか、ダブりを避けているのか、ユーザー人気を考慮しているのか、よく分からない。


 「1/12 フランケンシュタイン」については、日本語での紹介記事が見当たらないので、自分で書くことにした。「無いものは自分で作る」というオタクの美徳に忠実でありたい。


 「カリオーキ」がカラオケのことだったり、「オクリーナ」がオカリナだったり、やっぱり英語ネイティヴの発音は難しい。「オクリーノターイ(ocarina of time)」が『(ゼルダ:)時のオカリナ』のことだと気づくのにかなり時間が掛かった。


 最近の3Dアクションゲームに見られるような、やたらどんより重たいBGMでドカドカ叩き続けるようなものはかなり苦手。実況配信で見ていても、ものすごく退屈する。暗くて濃い雰囲気を表現するにはそうなりがちとはいえ、他にもやりようはあるのでは……。
 振り返ってみれば、SFC時代に名曲が多いと言われるのは、電子音楽の軽みと音質の豊かさがちょうどバランス良く両立していたのもあるだろう。清らかな電子音に、楽器ごとのトーンが微妙に反映されていて、そしてRPGのバトルシーンでも重低音をガンガン利かせるのではなく、見通しの良いメロディが快適に流れ続ける。「遊び(ゲームパート)を楽しませる」、「グラフィクスを楽しませる」とともに、「その都度の音楽を楽しませる」ことも率直に行われていた、そういう視聴覚的ゲーム体験が、とても好きだった。
 最近だと、インディー系ゲームにそういう音響が見られがちだろうか。90年代以来の美少女ゲーム(特に白箱系)も、メロディアスで気持ち良くハイクオリティなBGMを積極的に提示していくものが主流で、そういうところもこのジャンルに親しめる大きな要因だった。ただし、黒箱系(ダーク系)はまたちょっと違ってくるけど。黒箱系はしばしば低品質の音で、荒々しいBGMが延々続くので、プレイしていて疲労する。


 関西紹介記事をちょこちょこ手直ししていたら、いつの間にか9000字を超えていた。
 趣旨としては、「関西に引越してきた方を念頭に、ひとまず地理的な広がりを把握できるようにすること」。つまり、1)主要な交通機関の動き方と、2)各エリアのメジャーな名所とそれらへのアクセス手段、3)ついでにオタク的なポイントを把握できることを目指した。それによって、「関西で何かをしてみたい場合の、検討のためのひとまずの手掛かり」になればと思った。何かしらご参考になれば幸い。
 
 これらは、既存の観光案内に対する不満の裏返しでもある。つまり、1) ごちゃごちゃした網羅的な交通機関路線図だけでは、情報の取捨選択が難しいし、観光案内との連動も欠けている。2) バラバラの観光地紹介や、モデルコース型の観光案内だと、融通が利かないし、各エリアの雰囲気や移動経路のイメージも湧かない。3) オタク向けの関西紹介は、一面的だったり、すでに情報が古かったりする。こういう考えから、「ひとまず主要な観光地とオタク街だけに絞り込みつつ、そこに行くための経路が見て取れるようにマッピングする」という形になった。さらに、4) 観光案内の記事は基本的に良いことばかり書いているので、混雑具合や治安状況やアクセスのしにくさなどの注意点も適宜盛り込んだ。
 もっとも、京都と神戸は書きすぎて冗長になったかもしれないし、その一方で、大阪と奈良は詳しくないので中途半端な記述で終わっている。しかし結局のところは、各自が「自分で選んで自分で体験する」べきものなので、まずは大まかなマッピングを提供して、最初の手掛かりの一つにでもなれば、記事の目的は十分果たされるだろう。
 どうぞ、いろいろ楽しんで下さい。



 04/23(Sun)

 『のんびり農家』上巻ディスクをじっくり鑑賞している。
 私としては、内藤氏のお仕事はPCゲームの企画&脚本が一番好きだが、小説もこちらはこちらで良いものだし、そして内藤氏が描いてきた創作世界がこうして映像表現を付けられて多くの人々に届けられるようになったのは、本当に素晴らしいことだと思う。


 創作物の世界は美しいが、現実の日本はもう終わりだ。政治的-社会的にもひどくなっていくばかりだし、経済的にも文化的にも、状況が上向くことはもはや無いだろう。少なくとも今後50年、おそらく私が生きているうちは、今後ひたすら後退と衰亡と崩壊の道を進み続けるのだろう。そう考えざるを得ないくらい、経済的活力も技術的蓄積も社会的紐帯も政治的健全さも教育的理想も文化的資源も人口的構成も精神的価値も、すべてが滅茶苦茶に破壊されてしまった。
 おそらく二十年前くらいには、まだ最後の機会があったのだろうけど、その貴重な時間も空費されて、価値のあるものを捨て去り、人材を食い潰し、残されたものを切り売りして、合理的な判断も腹を括った決断もできず、差別と搾取を初めとする大量の不幸を撒き散らしながらここまで生き延びてきたが、もはや切り売りできるほどの資産すらろくに残っていないだろう。価値あるものを創出できる基盤そのものが致命的に毀傷されている以上、日本社会が良いものを作り出して上向きになることは望めないだろう。この30年間の間に全てが蚕食されて空洞化して、最後の資産である観光資源の魅力も擦り切れて、生産力が最後まで払底したら(※すでに貿易赤字国だ)、そこにあるのはただの老いた貧困国だろう。
 問題なのは、情報の遅れだ。特にリーダーシップを執っている既存勢力が、国際的情勢や時流の把握、新技術の動向、価値観の変動に対してあまりにも無知なままでいることだ。同性婚などのホットな問題で先進国からツッコミまれているのが典型的だが、それ以外のあらゆる分野で、同様の致命的な遅れが生じている。ものすごくやばい、というか、もう見放されるレベルで致命的に古い。なまじ一国の規模(人口規模/経済規模)が大きかったばかりに、内向きの関心と体制だけで何十年もやってきたことが、この深刻な欠落を生んだのだろう。
 ちなみに、現代のいわゆる「ベンチャー」型リーダーシップと古臭い日本企業(JTC)の硬直性は、正反対のようでいて、その実かなり似通っている。すなわち、個々人の能力を発揮させるような仕組みを持たず、上意下達構造のままで、情報が必要なところに伝わらず、まっとうな議論によってもの後を改善することもできず、非合理的な決定プロセスが基本になっているという意味で。それがリーダー1人の運頼みの挑戦であるか、それとも無責任なヒエラルキーの中から形成される決定であるかは、たいした違いではない。
 現在でもすでに経済的沈滞や将来展望の無さ、政治的社会的な閉塞状況は明らかだが、これからはもっと、目に見える悲惨が至るところにどんどん増えていくのだろうね……。今後20年ほどの間は、目に見える悲惨がどんどん増えていき、そして最終的には小さな観光独裁国になるか、あるいは、50年後くらいに人口ピラミッドが上手く落ち着けば、現在のタイやベトナムくらいの中規模国家には収まれるかもしれない。
 人々には、もっと幸せでいてほしかった。そういう社会を作ることも可能だった筈なのに……。

 私自身も、なんとか生きていけるところまでは、人生を楽しんでいきたいね……。

 まっとうでなければいけない大学も、無惨に落ちぶれている。世界大学ランキングは指標の一つにすぎないとはいえ(ex. 日本語論文はさすがに引用されにくい)、日本の大学が軒並みガタ落ちなのは誤魔化しようのない事実だ。もちろん、個人個人としては全力で踏ん張っている方も少なくないし、国際的水準に伍して活躍している優秀な方も(まだ)いらして、そういう方々には敬服するが、全体としてはやはり、日本の大学(教育/研究)は能力も低く、成果に乏しい存在になっている。世界全体は、どんどん発展しているのに、日本の大学は足踏みどころか後退しているのだから。
 基礎研究部門をごっそり喪失して薄っぺらになっているし、駄目学者の比率も高まっている。「重要な国際学会に、日本人が全然参加していない」というのも、ごくありふれた(情けない)風景だ。つまりそれは、「日本(の大学)が最新の情報から明白に落伍している」ということなのだが。さらには研究不正も頻発するようになっていて、学会全体/大学全体で不正が罷り通るようになっているところすらある。
 SNSでトンチキ発言をする研究者も度々現れていて、周囲の学者たちはそれをあくまで「例外的なバカにすぎない、俺たちはまだまともだ」と思っているだろうが、実のところ、均してみればもはや研究者全体がろくでもない水準になっている。2023年現在で40~50歳の中堅研究者は、大学院以来の研究キャリアを2005年/1995年から開始している計算になるが、それはまさに日本の大学の研究教育環境が悪化してきた時代のど真ん中であり、研究者たちの質も下がっているのだ。「頂点の高さ」もすでに無く、「層の厚み」も手放して、要するに「何もない」「全てが駄目」になっているのだ。
 どうしようもない外的事情があるのは確かだ。資金的困難による研究の遅滞。少子化による苦境。雑務による研究時間の喪失。ガバナンスの崩壊による不正義の噴出。研究者個々人にはあまり責任のない要因もあるとはいえ、結果論として、現在の日本の大学の研究者たちは恵まれない環境にあり、そして研究成果が乏しい集団になり果てているというのは否定できない。
 実のところ、大学によってはかなり怪しい人物を(実務家教員や非常勤で)採用していて、「現場を離れたロートル実務家が昔の自慢話ばかりを15回駄弁り続ける」といった講義()もあったりする。問題発言で昨年注目された早稲田&吉野家の特別講義はけっして例外などではなく、全国の大学で似たようなものが繰り返されているのだ。
 ノーマスクで学内をフラフラしている教員も多い。つまり、合理的な思考のできない、情報を適切に摂取することのできない、自立した判断のできない、つまり、「ろくにものを考えていない人」「頭を使っていない人」「ちっとも知的でない人々」が大学にも溢れているのだ。運営レベルで見ても、私大は旧弊的な一族経営のままで自爆的に失敗していくところ(これまでの財産を切り売りするくらいしか能が無い)と、とにかく悪辣貪欲にサバイバルする大学(その皺寄せは教職員に対する成果要求の締め付けと負担増加になる)に二極化しているし、国公立大もニュースになるほど貧困な状況にある。

 大学教員たちは、もっとアグレッシヴにロビーイングなどをしていくべきだったと思う。全国に10万人以上いるのだし、官僚たちも在学当時はどこかの教員のゼミ生だったわけで、大学崩壊にいくらかなりとも抵抗することは出来た筈なのだが、まあ、見ないふりをしたり、SNSで愚痴るだけだったり、逃げ切りを目指すだけだったりして、ろくなことをしてこなかった。そういう当事者たちの怠惰さ(とりわけ現在60歳以上の、当時発言力を持っていた教授たち)にも、責任はあると言わねばならない。



 04/22(Sat)

 今日は、昨年12月頃にtwにいろいろ書いていたことの再掲。

 【 バニー広告に関する私見 】
 (cf. tw: 1606190610016337920 , 1606252044578279424 )。

 1)前提。漫画などの作品中での表現とは異なって、駅広告として露出する際には、表現物の意味づけは社会の一般的文脈によって強く規定されざるを得ない。つまり、社会的評価に強く服する。
 2)バニー姿は、一般的な社会的意味づけとしては「遊興施設でのお飾りとしての女性」を表すコードなので、そうしたイメージを公共の場に出すのは深刻な問題があると思う(※ちなみに、【現実の】レースクイーン、雑誌グラビア、ラウンドガールなどにも同様の問題があると思う)。
 3)飲酒表現に関しては、黒寄りのグレー? アニメなどの作品中で(つまり、フィクション上の行為だという明確な文脈が成立している場合には)飲酒させても構わないと考えているが、駅広告ではそうしたフィクションとしての保護が成立しないので、問題とされる余地が大きくなる。ただし、「どこまで制限すべきか(※未成年『に見える』範囲の判断とか)」、「飲酒の瞬間ではない併置描写をどこまで問題視するか」、「違反した場合にどのような社会的責任が生じるか」といった論点については、まとまった合意を得るのは難しいだろう。
 4)風営法に抵触するような状況を描いたイラストという点については、これもアウト寄りのグレーかなと思う。違法行為を肯定的に描いたイラストを駅広告として出すのは相当まずい。フィクションという皮膜が機能しない、ストレートな社会的メッセージそのものとして作用してしまうから。
 5)いわゆるちちぶくろについては、批判/擁護のいずれにしても、私の中できちんとした理路を立てられていない。特定の美術的表現の社会的意味づけを定めるのは難しすぎる。女性の胸部を性的に強調したと言われれば確かにそうだけど、絶対的にそういう解釈になると断言するのは躊躇せざるを得ない。補足としておくと、個人的にはちちぶくろはまったく好きではないし、下品だし、社会的にも駄目だと思うが、現実にもそれにきわめて近い状態になる人は実在するからねえ……。(※ちなみに私個人としては、この種の表現に性的魅力はまったく見出せないが、それはともかくとして)
 
 以上、私としては、「性的である」という論点には素直に賛成しにくいが、駅広告という公共の場で違法行為を肯定的に描いている点は問題があるし、そしてとりわけ、「バニー姿」は女性を道具的に扱う慣行を強く示唆してしまうが故に、擁護しがたい。
 
 「(二次元系)オタク」と、「リアルにセクハラをしたり性差別をしたりする人々」がイコールで結ばれてしまうようなことは、なんとしても避けたいのだが、あの駅広告は「オタクのkawaiiイラスト」を「リアルセクハラ男性の醜悪な振舞い」と同一地平に置いてしまいかねない。それを危惧する。これは「モラル」「風紀」の問題ではない。現代でも明白に存在している、社会的構造的な侵害に加担してしまっていないか(それはあらゆる考慮に優先すべきだろう)という問題だ。そしてこれは、オタクか非-オタクかに関わらない、社会一般の問題だ。……私なりに書くと、だいたいこんな感じかなあ。
 模型界隈は、作者が表に出る必要が無くて、ただ技術的開拓と作品の完成度だけが問題になる公平な領域……でありうるのだが、実際には若年女性グラビアを載せていたり(※ノーズアートという体だったりするが)、あるいはモデルガン雑誌が若年女性をポスターや表紙にしていたり……良いことではない。AFV系の模型誌でも、女性フィギュアの塗装ノウハウ特集に「じょせいへんれき」云々とキャッチコピーを付けたものがあったりして……そういうリアルセクハラ男性めいたゲスい感性が、模型界隈(の一部)にも存在することは、残念ながら事実だ。個人的に、そういう雑誌は買わないことにしている。


 【 社会の中のオタク 】
 表現の自由に対するオタク(私たち)の関心が、煽動を招き入れる一種のセキュリティホールにもなっているように見える。「こいつはこんなことを言っているから表現の自由の敵だよ」と煽られると、それが事実に基づかないデマでも、素直に乗ってしまってその対象を敵視するという光景を見かける。表現の自由はきわめて重要な人権の一つだし、それに対する関心は茶化したり軽侮したりされてはならないが、しかしオタク(私たち)の側も、それに引っかけた誘導や煽動やデマに対してもう少し警戒した方が良いのではないかなあ。かなり危なっかしいバックドアとして利用されつつあるように見える。
 最近までは、「オタクの中にも不正義な社会的行動(差別発言など)をする者が一定数存在するが、それはあくまで人口全体と同じくらいの比率で存在するにすぎない。だからオタクという属性や行態や集団そのものに社会的な問題があるわけではない」と考えてきた。これまでは。しかし、最近になって、考えが変化してきた。不正義な煽動に乗ってしまう人が、平均よりも有意に多いのではないかと。そのように、考えを変えることを検討せざるを得ないほど、オタクたちの中に、なおかつオタクアイデンティティと絡めた形で、過激な発言が大量に見出されるようになった。
 もちろん、「オタク イコール 悪」と単純に結びつけてはならないし、実際にも「オタク」は十分に多様で雑多なカテゴリーであって、一括りにはできない。「オタク」というのは、まさにそういった偏見や攻撃や抑圧を受けてきた社会的属性の一つでもある。だが、あるカテゴリーの社会集団が特有の文化や気風を持つこともあり得る。そして、それがよろしくない方向に傾きつつあるように見えるときは、警戒したり注意喚起したり諫めたりする方が良い。
 実際、オタク的な活動が、集団的傾向的に不正義を生み出す事例が、存在しないわけではない。善良なインドア派趣味人としての活動だけでなく、例えばアイドルに過剰な執着(婉曲)をしたり、フィクションのアジア系外国人キャラを攻撃したりする風潮は、90年代から存在した。そして現代でも、様々な形で、様々な局面で、社会正義(のなんらかの価値)とオタク文化が衝突する事例は起きている。そうした中で、どちらかへ振り切れて不倶戴天の対立をするのではなく、社会的公正と趣味の豊かさをベターな形で両立するように、対話と説得をしていけるようでありたい。もちろんそれは、それなりに苦痛とストレスを伴うプロセスであり、しかも、唯一の正解が定まることは無く、その都度の社会意識全体の中で揺れ動き続けるものになるのだろうけど……。

 個人的には、キラキラのソフ倫シールの背後に包まれた性的放逸というやり方は、現在でも一定の意義があると思う。しかし、駅広告に出すべきでないものも、やはりある。18禁マーク等による注意喚起の無い状態、つまりコンテキストを限定されない表現は、剥き出しの差別となってしまいかねないから。趣味は趣味として楽しみつつも、「虚構(フィクション)だから」というエクスキューズが通用しなくなってしまう場面では、過激な表現を一定程度控えておくのは、やむを得ないことだと思う。オタク(我々)自らが差別や不正義に加担してしまうことは避けたい。私自身、ダーク系アダルトPCゲームをそれなりに嗜んでいるが、そこには性的支配欲だけでなく無惨美や堕落のカタルシスといった刺激的な精神的姿勢が見出されるし、そういったものへの挑戦が社会の中で試みられることにも意義はあると思う。ただし、あくまで18禁シールの背後での話だ。ゲームを起動した時に表示される、「あくまでこれはフィクションですよ」という注意書きとその社会的意味をお互いに了承したうえでの話でなければならない。剥き出しの(リアルな)差別や性的迫害とは、なんとしてでも手を切っておかなければならない。
 その見地では、たわわは現実のセクハラ的視線と虚構的なイマジネーションの間の境界をかなり曖昧にしていたように見え、その懸念からしてどうにも乗れなかった。尊敬すべきクリエイターたる声優たちに対して心ない発言をする人々も、けっして私の同類ではない。

 いわゆるアイドル商売に対してはずっと距離を取ってきたが、距離を取ってきた(内部文化に深く接することが無かった)がゆえに、それらに対する態度決定をしかねていたという事情はある。当事者たちが納得しているのであれば――本当にそうならば――部外者がどうこう言うべきではないのかと。だから、声優事務所などが役者を守るためにきちんとした声明を出してくれるならば喜んで賛成するつもりだったが、私は当事者ではないので、結局何も言わずにいた。しかし、明らかに侵害的なものに対しては、ユニヴァーサルに不当だと声を上げるべきだったのかもしれない。忸怩たるものはある。
 じょせいせいゆうのせいりしゅうきをさぐろうとするどうじんしとかもあったよね……。人の身体と尊厳を傷つけるものは許容されるべきではあるまいし、直接批判するか、あるいは少なくとも、自分がそれと同類ではないことを示すようにした方がよい。うんざりするような悪行は世の中に溢れていて、それら一つ一つに批判の声を上げるのは現実的ではないし、それらは私の身近ではなかったが、……一声優オタクでもある私は、どうすれば良かったのだろうか。


 【 オタクの中の(不)寛容 】
 女性(の一部)がぎゃくかぷに強く反発するのは、男性(の一部)がねとられネタや非ヴァージンヒロインに強く反発するのと似たようなものだと考えれば……対象が違うだけで、そのくらい強烈に受け入れがたいと感じるフィクション上の表現やキャラ造形は、男女問わず誰でも持つ可能性がある。
 00年代アダルトゲームで、ヴァージンではないヒロインキャラに対して理不尽なまでに風当たりが強かったことを想起すれば、男性オタクはキャラ造形に関する耐性が高いと言われても、「いやいや、そんなことは無いよなあ」と思ってしまう。サブキャラ同士がカップルになることにまで文句をつけるのもあったし。
 男性向け(男性ユーザー)の傾向として、単体での属性嗜好や主人公(≒プレーヤー)との関係のありようが注目されがちだったのに対して、女性向けではキャラクター間の関係が注目されがちだという相違は、ひとまずあると思う。そこから、そこから、女性向けジャンルはカップリング選択という見地で、ユーザー間の嗜好の違いがどうしても可視化されやすい。しかもそれはしばしば、両立困難な選択にならざるを得ない。つまり、ユーザーの嗜好の間で不倶戴天の衝突状況になってしまいやすい。それに対して、90年代以来の男性向けが旨としてきた「キャラ単体での属性嗜好」や「主人公との(恋愛)関係」という側面では、ユーザー間の衝突は、その性質上、おそらくかなり起きにくい。そういう違いのせいも大きいんじゃないかなあ。


 【 デジタルイラストのサイズ感とは? 】
 デジタルイラストは、フルサイズ/標準(各自のディスプレイサイズ)/サムネイルで見え方が大きく異なるので、自分が良いと思ったものも、他人に紹介したりするのは気が引ける。「見え方が違う」=「私が見出している美質が伝わらない可能性がある」ということなので。
 そもそもデジタルイラストには、原寸というものは存在しない。油絵などの物理媒体に定着された美術作品ではないからだ。画集やイラストレーター展示も、「それが本当に正統な状態だ」と言ったよいかは疑わしい。色調にかんしては、イラストレーターの意思が反映されている可能性は高かろうけれど。
 実のところ、オタクイラストレーターなどのデジタルアーティストたちは、自分の絵がどのように――どのような表示環境で――見られることを期待しているのか。あるいは、どのような表示環境を想定してチューニングしているのか。そのあたりはわりと不思議。どのように考えているんだろう? 平均的なPCディスプレイなどのサイズと解像度を念頭に置いてデジタルイラストを制作しているという人もいるだろうし、スマホサイズに最適化したディテール調整をしている人もいるだろう。どうせコントロールしきれないから、ただひたすらその都度最大限の表現を投入するという人もいるだろうし……。最大サイズは、あくまで制作過程での最大限の表示であって、閲覧環境としての最善とイコールというわけではあるまいし。「正しいサイズ」「標準的な表示環境」「原寸」といったものが存在しない中で、イラストレーターたちは、どのようなサイズを想定して自作のクオリティを調整しているのだろうか?


 【 趣味を語る際のトーンについて 】
 社会的政治的な不正義に対する糾弾は、ある程度強い言葉を採用することもあるけれど、趣味の話題で攻撃的な姿勢ばっかりの人は、さすがにいかがなものかと思う。もっとも、趣味の問題でも、当人の人生やアイデンティティや自尊心の核心部分に関わることはあり得るけれど。あるいは、趣味の問題であろうが何であろうが、真偽をゆるがせにしたくないという意識で、明らかに誤っている(と考える)議論に対して厳しく当たる人というのも、まあ、いてもいいと思うけれど(※私自身も、時としてそうなりがちなところは否めない)。そういう姿勢も自由ではあるけれど、議論に際しては、内容的な真偽のレベルと並んで、手続の公正さというレベルもある。つまり、冷静で生産的な話し合いのフォーラムを維持すること。公正な公共的言論の前提を破壊しないこと。攻撃的な発言は、それを突き崩すのではないかなあと思うし、そういう言論姿勢を噴出させないように各々自制した方がよいし、そういう発言が現れたら周囲の参加者たちが諫めたり宥めたりする方がよい。そういったリアクションが無いままだと、そのフォーラムに危険を感じて逃げ出す人も出てくるだろう。
 
 趣味の問題でも、「これは良くない」というネガティヴな側面の発言は避けられない。「これは良い」という趣味の判断は、往々にして「良いもの/良くないもの」の線引きであり、それゆえ、「良くない」ものについての判断も伴うことになるからだ。「こういう技巧のゆえにこの作品は優れている」「こういうのが私は好きなんだよ!」という意識は、「この作品はこういう考慮が足りないなあ」「こういう趣向は受け付けないなあ」という認識も生むだろう。それを無理に否定するものではない。とりわけ技術的な視点を採用するときは、特定のテクニックに関する巧/拙という基準を提起することになり、そうした中で、マイナス面への言及や検討が封じられてしまうとしたら、その言論は大きく歪み、あるいは一面的になり、あるいは極度に非効率的なものになってしまうのではないか。真理として世上しばしば主張される「好きなものだけを語れ」というのは、実のところ対象領域に関する我々の展望を歪めたり遮蔽したりしかねないし、また、それ自体として非合理的な抑圧になりかねない。だから、私は、「良くない」と思う箇所を指摘することも、あまり躊躇わない(かもしれない)。
 ただし、それを好む人たちにとっては歓迎されないものになるだろう。だから、せめて、何がどのように「良くない」と考えるかを、理屈や根拠をもって提示できるようには務めている。そうすれば、欠点の指摘も生産的な展望(改善の可能性や、価値基準の再検討)に結びつけられることが期待できるから。もっとも、そうした場合でも、相互尊重を破壊しない程度にはトゲを丸める方がよい。「○○なのはもったいないなあ」とか「○○だったらもっときれいに見えたかも」とか……。そして、自分の考えとは異なる形態の世界認識や価値体系も存在する(成立しうる)ということは忘れずにいたい。
 例えばガールプラモでも、島田氏のキャラデザはかなり苦手で、そこには一連の明確な理由もあるのだが(色彩感の欠如、前髪の重たさと表情の暗さ、躍動感の乏しい四肢造形など)、その一方でそれらを魅力的だと捉える感性や志向(ミリタリー的武骨さや退廃的フェティシズム)もあるのだと理解している。少なくともこのくらいまで客観的な形でいったん言語化したうえでは、そこから好き嫌いの価値選択をする自由があらためて公平に開かれるし、そして、自分と異なる立場との間でも平和的に共存できるようになるだろう(と信じたい。はたして言語と理性は、趣味間の平和的共存を提供しうるものか)。
 あるいは、例えば「眼鏡はキャラクターの顔面造形にクールな立体感と知的なムードと金属的な質感と彩り豊かなファッション感覚を与えるところが素晴らしいんだよ!」と説明すれば、眼鏡がそれほどお好きでない人にもいくらかは理解してもらえるだろうし、逆に、眼鏡の素晴らしき魅力に理解を示すことにあまり積極的でいらっしゃらない方々の側についても、「眼鏡があると頬のスッキリした輪郭や眉毛周りの雰囲気や目元の表情が見て取りづらくなる」「眼鏡デザインのチョイスによっては、ミスマッチになったり野暮ったくなったりする」と言われれば、納得はする。自分が好きなものの素晴らしさを強固に信じていればこそ、多少の欠点を指摘されたくらいでは何のダメージにもならない……という側面はあるけれど。眼鏡の魅力は、私の主観の中では疑いようもなく実在しているのだから。
 しかし、まあ、「自分が好きなものは完全無欠に素晴らしくあってほしい」とか、「自分の耽溺を、他人からわずかでも傷つけられたくない」とか、「欠点は分かっているが、お前(例:部外者)に言われたくはない」といった意識も、理解できる。いつ誰とつながってしまうか分からないSNS上では尚更だ。
 自分が好きなもの(自分が関心を持っている対象)は、美点も欠点も含めてその全てを知り尽くしたい。欠点を知り尽くしたうえでもなお、それ愛し続けられる姿勢こそは最もうるわしく、最も深く、そして最も強固なものになる……というのだったらいいなあ。なかなかそこまでは難しかろうが。



 04/19(Wed)

 「胃~之煮」記事について。未記入のままリンクだけでは申し訳ないので、せめて参加者だけでも、最初の視聴時に書いておくようにする。内容面での概要は、追々やっていく。


 【 解釈の営みについて 】
 「テクスト解釈はその文言全体に照らして筋が通っていさえすればよい」という単純な整合説的姿勢は受け入れがたい。
 1) 意味の確定性に照らして。そもそも文言の意味それ自体が一義的に確定できるものではない以上、テクスト整合性はそれほど強固な「解釈の正しさ/適切さ」を保障する根拠たり得ない。
 2) 社会的な妥当性との関わりで。複数の整合的解釈が成立し併存しうることはもちろん認められるが、それは完全な「なんでもあり」を意味するとは限らない。中には不当な解釈、不適切な解釈もあり得る。そしてそれを判断するメタ解釈の基準もまた、社会の中に多元的に存在する。例えば、「差別助長的な解釈は肯定されない」といった社会的基準も、考慮に入ってくることがあり得る。芸術作品の解釈は、法律解釈のようにその現実的帰結をその正しさの基準とすることは少なかろうが、それでもけっして皆無(つまり、社会とは無関係)というわけでもない。実際、差別的なイメージをそのまま投影して作品解釈だと称する最低なアニメ批評を見かけることがあり、そういうものに対しては「批評としても駄目だ」と言わねばならない。
 3) 「妥当性」という発想それ自体の危険性。批評それ自体が、単なるモノローグではなく表現行為だ。他者に向けて投げかけ合い、検討し合うことだ。解釈それ自体が相対的であればこそ、そうしたプロセスの段階が求められる。ただし、それが解釈の「妥当性」を問うものかと言われると、疑問がある。「妥当性」とは何だろう? 例えば実定法解釈の場面であれば、様々な現実的な利害や権利の調整をより良く行いうるような解釈(運用)を指して、総合的に「この解釈が『妥当』だ」と述べることは出来るだろうけど、芸術作品の解釈では、そういった信頼できる外部参照基準が存在しない。むしろ、それを求めるのは危険ですらある。例えば、「現実に照らして妥当」を求めると、常識優位、マジョリティ優位の格差を持ち込んでしまうかもしれない(※つまり、少数派の解釈が、「多数派ではない=普通ではない=妥当ではない」と、不当に抑圧されてしまう危険がある)。また、「現代社会の問題意識に照らして考える」のは(それはそれで重要だけど)、あまり恣意的な抽出解釈にならないように留意したい。そういった多面的な配慮も必要だ。
 
 個人的には、a)作品に新たな光を当て、作品理解を深めるという積極的価値を伴っており、なおかつ、b)差別などの不当性を伴わないかぎり、c)作品解釈は多面的/多元的であってよいと思うけど。ここでa)は個々の解釈の意義を問い、b)は悪しき解釈を排除し、c)は不当な排除を強く戒める。「妥当性」という曖昧な判断基準をもって、複数の解釈の間で優劣を決しようとするのは、賛同しない。ただし、ある解釈を提起する際に、妥当――有意義、または「テクストにひとまず忠実」等々――であるように務めるという意味であれば、ひとまず理解できるけれど。
 素人なりに言うと、このあたりのスタンスで良いのではないかなあ。唯一の正解でもなく、相対主義の無秩序でもなく、作品からより多くの豊かなインプリケーションを引き出していくのは、作品を生かしていくことでもある。そして、ある作品を受け止めて、自分なりに解釈し、(批評の言葉として)公開しあうのは、当該作品を「現在の」「我々が」読む意味は何かということと、不可避的に関わってくるだろう。(cf. tw: 1615360071311196165 , 1615366218353119233)


 ネットのアニメ批評を見て、危険だなと感じることがある。登場人物の社会的属性や身体的特徴を、なんらかの反価値的な性質と安易に結びつけて論じるというのが、わりと平然と行われているからだ。
 アニメ作品の表現は多分に記号化されており、そこに一定のメタファーやシンボル化が介在するのは確かだ。だが、「このキャラはこういう外見だから○○な心理的歪みを持っているのだ」とか「このキャラはこういう社会的立場だから、○○な危険性を表している」といった認識をそこに持ち込んでよいか? あるいは、「このキャラはそういう出自だから××な邪悪な性質があるんだ」といった形で、特定の社会的性質を、一括りにして特定の悪と結びつけてしまってよいか? それは、作品解釈の中だけに留まらず、社会的発言それ自体として不当ではないか? 例えば、ある身体的障碍を持つキャラについて、そこから歪んだコンプレックスを読み込んでしまうのは正しいか? ある社会的境遇にいるキャラを、それだけで社会的に危険な人物であることの表現だと読み取ってしまうことは、適切か? キャラクターがある地域(実在の地名)に住んでいるという描写から、そのまま特定の悪徳に結びつけてしまうことは、フィクション作品の批評であっても、はたして適切な接続と言えるのか? そういう形で不当な偏見をベタに再生産しているものが、アニメ批評にしばしば見られる。
 むしろ批評は、アニメ作品がそのようなナイーヴな偏見に寄り掛かっていると解釈せざるを得ない場合には、それを作品の瑕疵として批判するくらいでなければいけないのではないか? アニメ作品の中に、自分の偏見と対応するものを見出して喜んでいるようではいけないのではないか? 地域差別。ジェンダー的偏見。心身の障碍に対するネガティヴなイメージ強化。キャラクターの属性をそういったものと直結させるものが、ネット界隈の「アニメ批評」を名乗るものの中に散見されることに対して、ここ十年来ずっと、大きな懸念を抱いている。
 今の説明だと伝わりにくいかもしれないけど、実例を見ると本当にやばいからね。ある身体的特徴(現実に存在し、なおかつ当人にはどうしようもないもの)を、歪んだ精神状態の表現だと断言したり。ある社会的立場(なにも悪くない、むしろ社会的に恵まれない立場)を犯罪者予備軍と同一視したり……。そうやって現実の固定観念を創作物に対して無邪気に適用する偏見連想ゲームは、批評としても粗悪な代物だし、社会における発言それ自体としても不当なものだ。アニメに関する言論を良いものにしたい人たちは、そういうものをきちんと批判して(自浄して)ほしい。アニメ作品に対して作品外の認識――熟慮された意見であれ素朴な偏見であれ――を持ち込んでみると、作品に新たな光が当てられ、新たな面白味が見出せる(かもしれない)。しかし、そうした見え方がスリリングだとしても、それは作品解釈の内的/外的な妥当性を保障するものではない。

 
 アニメでも私は「機能主義的(一部は経済的)」+「演出論」がやりやすい。つまり、歴史的なアプローチや思想的なものではなく、また、ストーリーやキャラに集中するのでもない。このスタンスは、「技術論は一般化可能である」という前提に一部立脚しているが、これにも問題もある。機能的な一般化可能性、つまり、形式化された技術論の分野横断(文化横断)的な適用可能性。これは下手をすると「映画論のパラダイムで、アニメ文化を一方的に評価する」「漫画論で確立された技法を、無邪気にゲーム演出に適用しようとする」といった過ちを犯しかねない。
 かといって、単なる素人観察の印象批評に留まっているだけでは、議論にも蓄積にもならない。それゆえ、先行隣接分野に対向する後発分野では(例:美術に対する漫画分野;漫画に対するゲーム分野)、分野内在的な(道具的)体系をひとまずは確立させようとした。それが上手く行ったかどうかは分からない。特にアニメ演出論に関しては国際的な蓄積がすでに膨大なので、それをほとんど利用できていないのは恥じ入るしかない。今のところ、「使えるかもしれないアイデアの手掛かりを出す」くらいしか出来ていないと思う。理論的/文化的な負荷の小さな概念群のうち、シンプルで応用が利くものについては、他分野の作品を論じる際にも積極的に使っていく(試してみる)のは、オタク界隈ではまだまだ有効だと思われる。
 ただし、これはいわゆる「第2世代」的姿勢どっぷりでもある。孤独超然のマニアでもなければ、皆で共感をシェアしあう文化でもない。90年代~00年代初頭のネット界隈(理工系院生が多かった)の知的でクールで公平でブリリアントなオタク精神の「未完のプロジェクト」の幻を追っているような気もする。

 あるゲームのシステムをどのように捉えるかは、それ自体、作品解釈の営みの一種だと言える。文芸作品の意味解釈やアートの意味解釈と同様に、ゲームの「システム」として具体化されたメカニズムについても、どのような視点からどのような意味づけや意義を見出すかを思考することは、可能だし、必要だ。そしてゲームシステムの解釈の原理や方法論も、基本的には文芸的な解釈やアートの解釈と通底するだろう。テクストそれ自体の客観化。特定の理論を基礎にした視点とそれらの多元的併存。そこから最善の意味(豊かで新たな示唆)を引き出そうとすること。等々。ゲームの作品は、文芸や美術のような確定的-固定的な対象ではない。それ自体としては、未決定の浮動的な枠組として存在するマテリアルにすぎない。鑑賞者(ユーザー)の参与によって初めて成立し、その都度の体験的性格を強く伴うという点では、インスタレーションに近い。


 プーチンが当初からアレだったというのは、当時からみんな分かっていたよね……。プーチンをネタ化していたのは、「何も知らないでいたからそんな遊びができてた」(tw: 1640674250037288960)というのではなく、「知っていたけどやった」「知っていたからこそ、ブラックジョーク的にネタ化した」のでは。要は、ヒトラーをネタ化するのと同じもので、危険な火遊びだからこそ楽しんでいたと言うべきではないかな。もちろんそれは、「何も知らないでいたからそんな遊びができてた」よりも、もっと深刻に罪深いのだが。無知を反省するのではなく、火遊びの愚かさをこそ反省すべきでは……。「いまさら無知だったふりをして己らの火遊びの邪悪さを誤魔化すなよ」と言いたい。上記主張は、ほとんど歴史改竄のように見える。ローマ教皇のコラージュとか独裁者萌えキャラ化書籍とかも含めて、分かっていながら不謹慎な遊びに耽っていたんだよね。ベネディクトゥス16世の就任が2005年で、その当時の日本の(アングラ寄りの)ネットにはコラージュネタが出回っていた。『にょたいか!! 世界の独裁者列伝』の刊行は2012年。ほんの11年前でも、こんな愚かな火遊びがまだ存在していた(※この件で私は、イカロス出版をずっと不買している)。


 ちょっと時間を取って、twitterに書いていた文章を改稿再掲していく。あちらでは「しょせん書き流しだから」と画像引用を多めにしていたが、ブログでは真面目な基準に戻して、画像数は少なめにした。向こう(tw: 1613006254506668032 )では木村あやか祭を挙行していたのだが、残念ながらブログ版では消えてしまった。


 奈良旅行をしたのはいつだったかなと調べたら、2014年の秋だった。観光中の写真はほとんど撮らない(自分の目と心に刻みつけるつもりで行く)ので、旅の外形的記録として残っているのは現地で買った土産品や施設入場の半券くらいのものだが、風景や仏像群の印象は今でも自分の中に明確な手応えがある。コロナ以降、必要の無い遠出は極力避けているのだが、心情としては、「もう一度行って、あの土地の文物をもっと味わいたい」という気持ちもある。

 さらに京都マップをちまちまいじって改良した。……改良になったのだろうか。位置関係の誤解を避けるように修正した(伏見をかなり南に下げた)が、駅が多すぎてゴチャゴチャになってきたかも。JR嵯峨野線とかも書き入れたいが、これ以上は無理だろう。
 これはいわば「オタク版」京都マップだが、これをアレンジすれば「ファッション版」とか「グルメ版」とか、寺社観光版とか自然観光版とか文化体験版(そういう体験的な施設もいろいろある)とかも自由に作れる。まあ、そこまではしなくていいだろうけど、こうやって説明のベースを一度作っておくと、低コストでいろいろ応用が利くようになる。
 いずれにしても、見て下さった方に、何かちょっとでもご参考になれば幸甚。

 感染症のリスクに関しては、「移動だけなら、普段の通勤と大差ない」と言うこともできるが、しかし、「長距離移動する際に、リスクは通常よりも高まる」+「観光地は、人が密集しているので感染しやすい」+「様々な人が来ているので、新たな感染の危険が高い」+「レストランなどの滞在も、リスクを高める」というのも確かだろう。つまり、「いつもの通勤経路で、決まった顔触れの十数人だけと一緒に仕事をして帰る」というのと比べて、かなりリスクは高い。私自身、この3年間は基本的に観光旅行は一切しておらず、長距離の旅行をするのも、どうしてもやむを得ない場合だけに限定している。


 「知性的」、「反-知性的」という言葉は好きではない。
 知に関係すること(様態)は、シンプルに「知的」と書けばよいというのもある。
 また、ある個人またはその行動を指して「知性的だ」「反知性的だ」と呼ぶことに対する警戒感もある。「知的」と呼ぶのと比べて、「性」の言葉が入っているぶん、当人に備わった性質のように見えてしまうのはまずい。「知」とは万人が扱えるものであり、それを属人的な性質として扱うのはそれ自体、知を捉え損なっているからだ。
 さらに、ただ単に物事を知的に処理するだけでは駄目だというのもある。誰かを「反知性的だ」と形容して批判されることがあるが、往々にして問題なのは、知的であるか否かではない。つまり、知(情報)に即しているかではなく、知を正しく(適切に)使っているかどうかが問われている場合のことだ。そうした場合には、それは単なる「知(性)的」という捉え方ではなく、もっと具体的に「知的誠実」「知的廉直」と言う方がよい。知を用いて邪悪な作用をもたらそうとすることも、問題だからだ。
 ただし、「反知性主義」という姿勢を指す場合には、確立された概念としてこのように述べることはある。また、それは基本的に、特定の「知」に反発する姿勢ではなく、「知に即して行動すること」全体に対する反発――非合理主義や偏見への開き直り――を指すという意味でも、ここでは反知「性」主義と述べる方が実情をより良く表すだろう。



 04/16(Sun)

 【 ライトノヴェルの挿絵について 】
 2010年頃のラノベ実験小説時代は、挿絵と絡めた演出にも凝った作品が現れていた。当時は「これでLNの挿絵表現に大きなパラダイム転換が起きて、LNのあり方がもっと面白くなるかも」と期待していたのだが……結局、あのようなアプローチはほとんど定着しなかったようだ。最近のLNを読んでも、大半は適当な挿絵を、ほんの数枚程度、たいして効果的でもないところに挟んでいるばかりだった。面白い挿絵レイアウトもたまにあるが、全体としてはかなり雑なままのように見える。もったいない。せっかくイラスト(視覚情報)を使えるのだから、もっといろいろやっても良さそうなのに……せいぜいが、重要キャラの登場の叙述に合わせてちょうど良いところに挿絵を置くくらいで、面白味のあるイラストは非常に少ない。
 事情は分からないではないけれど……。というのは、テキストと密接に連動するように挿絵を適切に挟み込むには、版面のレイアウトを小説家自身が正確にコントロールできている必要があるし、なおかつ、視覚的演出を行う知識も求められ、そしてイラストレーターとの意思疎通のために〆切も早められるから。挿絵演出の実行難度は非常に高いだろう。

 挿絵演出が話題になった『のうりん』は、第1-2巻が2011年発売だった。
しかし、それ以降(10年代半ば以降)は、ネット発の小説が大量流入して、「前提了解を共有したうえでのネタ勝負」+「スピーディーに大量に読ませる」という路線に塗り替えられていき、実験小説の気風は目立たなくなっていった……というのが私なりの時代認識。
 ちなみに、『のうりん』の挿絵演出は面白かったし、農業高校というネタの個性など、良いところもあるけれど、作品全体としては褒められない。同性愛者いじりや高齢独身女性いじりは、2010年当時でもすでに顰蹙ものだったと思う。


 【 アダルトゲームとオタク産業(雑感) 】
 日本オタク文化の中でのアダルトゲーム分野は、同人分野との関わり方がかなり特殊だったように思う。売り手側としては、00年代から10年代を通じてゲーム原画家による大手イラストレーターサークルが大量に存在したにもかかわらず、受け手側には二次創作活動や商業作品購入への誘引がなかなか生じなかったという二面性があった。アダルトゲームメーカーの企業ブースがたくさん出ていたことも含めて、強力なアドヴァンテージを持っていた筈だが、同人文化/同人市場はアダルトゲーム市場を広げることにはほとんど寄与してこなかった。そのあたりは、もったいなかったと思う。
 
 結論から言うと、10年代以降のオタク文化はメディアミックス産業の世界であって、「アダルト(18禁)」ゲームメーカーはそれに乗り損ねたのだと思う。
 00年代後半以降のSNS環境下では、TV放映の同時視聴という形で、アニメ中心の文化が隆盛した。これは一見すると不思議な現象だった。大量の情報が溢れかえって、誰もが好きなものを自由に取捨選択できる現代にあって、アニメ媒体は「コンテンツの枠数が限定される」+「視聴時間が拘束される」という不利を背負っているにもかかわらず、そうした支配的な地位を獲得したのだから。しかし実際には、「メディアミックスにおける話題性確保」、「数が比較的限定されるが故の、付いていきやすさ」、「バラバラに孤立した古典的オタク(マニア)ではなく、皆で楽しみを共有し合う現代オタクたちにとって好都合だった」といった事情が、おそらくアニメにとって有利に作用したのだろう。10年代後半以降、ネット配信を含むタイトル総数の増加によってその構造は多少後退したかに見えるが、それでも、テレビなる媒体が2020年代の現在でも(!)大きなプレゼンスを持ち続けているのは、やはり不思議な状況だと思う。そして、同人やSNSでのファン活動の広がりも、まったくの自由な趣味関心の噴出というわけではない。あくまで、公式サイドからのメディアミックス的コンテンツ提供があって、初めて成立するものだと言うべきだろう。

 そうした状況下で、(商業)アダルトゲームにもまだまだ可能性はあった筈だ。例えば、「月末に一斉発売される明快さ」。あるいは、「買い切りスタンドアロンのデジタルゲームで、せいぜい二十数時間で作品全体を完全に把握しきれるという軽みは、オンラインゲームやネット小説がどんどん重厚長大化していくのに対して、アドヴァンテージとして機能し得た」。また、「オンラインDL手段とデジタル支払手段が整備されて、人々がネット購入に慣れた時代に対して、デジタルゲームのオンライン販売はマッチしている」。店舗売り場の縮小やPC所持率の低下といった不利を考慮しても、媒体の形式それ自体としては十分に見込みがある。もちろん内容面でも、「美少女もの」+「性的なコンテンツ」をストレートに追求する路線は、ネットイラストや同人誌のそれときわめて親和的だ。
 にもかかわらず、同人誌即売会やSNSのファンアート文化は、アダルトゲーム界隈に対して、奇妙に冷淡な関係を保ち続けてきた。原画家たちの大手サークルや企業参加が活況なうちに、同人文化(ファンアート文化)と手を取り合いつつ美少女ゲーム分野が豊かであり続ける道を模索することも出来たのではないかと思うのだが、結局はそういう道は広がらなかった。考えられる事情としては、「1)中小企業がほとんどで、宣伝力が乏しく、起爆剤を提供しきれなかった」。「2)オタク層の中でも、性的なものを避ける傾向が強まってきた」。「3)オタクは一つの作品に集中沈潜するのではなく、イラストや連載やオンラインゲームを、ただ散発的に楽しむようになっている」。「4)SNS等でのファンアート文化が原作のセールスを後押しするというのは、アニメやオンラインゲームでも極々一部のタイトルのみが享受する例外的な現象にすぎない」。等々。

 内藤氏が『のんびり農家』のファンアートをたくさんRTされているのを見て、「そういえば、SHC時代はファンアートもほとんど無かったからねえ……」と、しんみりしてしまう。制作者にとっては、ファンからのリアクションが生まれ、そしてそれらが広がっていくのは、いろいろな意味で嬉しいんだろうなあ。

 同人市場の存在は、個々の商業タイトルのセールスを高めるというよりも、クリエイターの人材を大量にプールするという社会的役割の方が重要かもしれない。特に商業漫画雑誌の席取りが限られている以上、漫画家やイラストレーターがそこ以外で生きられる場は非常に大きな意義がある。
 漫画分野でも、ここ5年内外で「異世界ものネット小説のコミカライズ」というチャンスを得て大量の商業新人が現れた。それらは新人にもかかわらず、作画も精緻、コマ組みも意欲的、演出も巧みで、独自の個性もあり、原作の読みも的確だ。そんな一流のスーパー「新人」たちが、いったいどこにいたのか。「デジタル技術の進展」「教本や専門学校の充実」「アシスタント制による訓練機会」「アダルトコミック分野での(時として別名義での)活動」などもあるだろう。だが、それだけでなく、ネットや即売会のインディー創作の場が支えてきた人材も多いだろう。
 00年代のアダルトゲーム分野も、「資金や知名度の裏付けの無いクリエイターたちが、小規模で気ままに制作することで、それなりに売れていた(創作によって生きることが可能だった)」。そういうハードルの低さ、間口の広さによって多くの人材がプールされていた。しかし、そういう場をうまく維持し、うまく循環させていくのは、まあ、大変だよね……。


 アニメ版『おしまい!』には、アダルトゲーマーとしてやけに既視感(親近感)を覚えたのだが、具体的にどのタイトルが……というのは思い浮かばない。CAGE(ぷに百合)、XERO系(XANADU:ショタ)、ミルククラウン(TSもの)あたりのエートスを掬い上げて20年代風にブラッシュアップしたような感じ。
 『ひめしょ!』(XANADU、2005)は、ショタ主人公もの。下品なスラップスティックも激しいが、デリケートでしっとりした情緒のニュアンスもきれいに表現されていて、両者の混ざり具合がたいへん印象的だった。さすがの藤崎竜太氏(脚本)。
 もう一つ挙げるなら、TSものの『らぶKISS!アンカー』(ミルククラウン、2007)。魔法で女体化した(元男性)主人公が下着を初めてつけるシーンもしっかり一枚絵で描かれているし、スカートを初めて履いて「すーすーする」と述懐するイベントもある。ちなみに、フェイスアイコンを多用した視覚演出も特徴的。原画は「もりたん」氏。
 キャラクターや色彩感覚は『はじるす』『はじいしゃ』(2001/2002)、同居のムードは都築真紀氏、彩度低めな色彩はういんどみるも連想する。まあ、「似たもの探し」をしても仕方ないが、全体に瀰漫する美意識はそれらと通底しているように思われる。

 棚に並んでいる漫画群は明らかに実在の作品のもじりだが、壁に貼られているアダルトゲームのポスターは(私の知識の範囲では)おそらく全て架空のもの。せっかく主人公がアダルトゲーマー設定なのだから、実在タイトルに寄せても面白かったのでは……と思ったり。
 ちなみに『俺妹』(アニメ版:2010年)のときに問題視されたのは、「18歳未満のキャラがアダルトゲームをプレイしている描写があり、にもかかわらずアダルトゲームメーカーが正式に(クレジット付きで)協力してしまった」という点にあったと記憶する。今回の主人公は18歳以上なので、状況は大きく異なる。
 もっとも、そこかしこに置かれている美少女フィギュアも、(管見の限りでは)実在のフィギュアを連想させるものは無さそうだ。漫画のタイトルや表紙デザインとは異なって、ポスターやフィギュアのような視覚的表現物を真似るとストレートに著作権上の問題になりやすいという懸念もあるのかもしれない。

 アニメ第1話を視聴してみたかぎりでは、空間表現や色彩設計を初めとした映像演出それ自体も上手かったのだが、あっという間につまらないアニメになってしまった。特に5話あたりは、物語進行も原作を適当に切り貼りしたようにバラバラで、視覚的演出もずいぶん雑になっているのに落胆して、そのまま視聴を止めてしまった。


 商業アダルトコミック分野でキャリアを重ねている漫画家は、「限られた枚数の中で一本一本の短編をきれいにまとめ上げる訓練を積みまくっている」ということでもある。スピード感とアイデアと構成力が高度に鍛えられているので、四コマ漫画や一般紙連載でも十分通用するし、ネタの方向性が上手く噛み合えば人気作を作り出すこともできるというわけか。なるほどなあ……。


 どんなプラットフォームでも、どんなソーシャルメディアでも、現代のオンライン-デジタル-メディアは徹底的に情報とそのつながりによって価値を持つ。少なくともその「情報」に関しては、本来の所有者がそれを扱えるようにすることが必要だ。プラットフォームに投稿してしまったコンテンツをそこから取り出せる――エクスポートできる――ことが必要なのだ。それによってユーザーは、自分がプラットフォームに預けたいた情報を自らのものとして取り返すことができるし、また、駄目になったプラットフォームから離脱することができるようになる。きわめて重要な、情報化時代における「権利」と言ってよいほど重要な機能だ。
 日常の書き捨て(つぶやき)という形で始まったtwitterが、「つぶやき」という建前に影に隠れて、十分なエクスポート機能をついぞ提供しないままできたことは、ユーザーの離脱を防ぐことに寄与していただろう……狡いことに。私がnoteサーヴィスを批判的に見ている(基本的にnoteコンテンツはクリックしない)のも、記事提供サーヴィスであるにもかかわらずエクスポート機能を実装していないままだからだ。
 ユーザーの情報から自由を奪い、プラットフォームからの離脱を困難にし、そしてその囲い込まれたメディアの中だけで生きていくように仕向けるITメガ企業のやり方は、ggl/YTからFBからtwからamznまで、どれも同じだ。プラットフォーム内に囲い込まれて、そこでひたすら様々な情報の提供(投稿)を求められるのは、そのプラットフォームの養分にさせられるということだ。ソーシャルメディアの奴隷として囲い込まれないように、脱出の可能性は常に意識しておくべきだし、何かあったときは躊躇なく離脱できるようでありたい。
 (※このbloggerも、まさにgglによるサーヴィスなのだが、エクスポート機能は提供されている)



 04/11(Tue)

 【 声優による歌唱の重要性 】
 「キャラソンCD」ジャンルの重要性を、改めて痛感している。つまり、そのキャラクターを演じている声優自身による歌のことだ。
 そもそも声優は、言葉によって意味とニュアンスを表現する専門家だ。そのスキルは台本芝居だけでなく、歌唱でも発揮される。すなわち、正確なタイミングと訓練された発声をベースとして、歌詞の意味と状況を深く掘り下げて解釈し、それが最善の形で伝わるように、言葉の流れとそのムードを緻密にコントロールして表現する。本職声優による歌を聴くと、「音響としての歌」とともに、「言葉としての歌」「メッセージとしての歌」の側面も、鮮やかに前景化される。歌詞の意味合いがクリアに伝わってくるし、歌に豊かな感情表現が乗ってくるし、その場面の状況までもが伝わってくる(その点では、朗読表現と共通している)。曲ごとの雰囲気に合わせたヴァリエーションも柔軟に対応できる。これらは声優ならではの強みだ。
 キャラソンや主題歌を声優自身が歌うことの意義は、ただ単に「声が同じ」「ファンサービス」というだけではない。役を掘り下げてそれを言葉の表現につなげ、作品全体のコンセプトを汲みつつその中で適切な位置に収まるようにチューニングできる。音声表現の一つとしての歌は、声優の言語表現芸術の中でも重要なジャンルの一つだし、「歌」一般の中でも際立って優れたものの一つだと言える。
 個人的には、これまで古典的なアニメ系キャラソンや、声優のオリジナルソングCDには目を向けていたが、オンラインゲーム系のキャラソンのことはまるで意識していなかった。また、近年では「アニメ主演声優自身がその作品の主題歌をも歌う」という状況も時折現れている。現代ではメディアミックスCDが大量にリリースされており、「声優による歌」、「主演声優たちによる主題歌」、「キャラソンCD」は、枚数としても豊かだし、内容面でも実り多いジャンルの一つになっている。また、「声優の仕事」という観点でも、音声によるリズミカル-メロディアスな芝居表現の一種という見地から、きわめて大きな意義がある。声優の歌は、けっして余技などではない。卓越した音声表現を聴ける重要な機会だと言わねばならない。
 ただし、声優のイベント出演や声優ダンスは、個人的にはまったく求めていない。イベントに行くことも、今後ともしないだろう。もちろん、古典的には声優は俳優(役者)の一部であって、声だけでなく全身で役を表現すること(舞台芸術)にも大きな意義があるのだが、ダンスパフォーマンスはまたずいぶん違う要求であるように思う。


 「dynazenon(ダイナゼノン)」という文字列を見ると、いつも「daizaemon(だいざえもん)」と誤認してしまう。そちらの作品も知らない(視聴したことは無い)ので、どうしてこんな誤読が起きてしまうのか見当も付かないのだが。……「胃~之煮」がきっかけだったような気もする。


 【 ソーシャルメディアあれこれ 】
 mstdnの弱点は、検索機能が極端に弱いところかな。どんな検索ワードでも、ろくにヒットしない。これは意図的な設計らしいのだが、ユーザー側としては、「同好の士から発見してもらえない」ということを意味するので。趣味であれ、政治的主張であれ、何かアウトプットしてそれを共有してもらいたいという人にとっては、mstdnの検索の緩さは深刻な欠点になるだろう。また、SNSへの投稿を「自分のための記録」として捉えたい人にとっても、検索機能によってログを掘り返せないのは、致命的な問題となる。だからmstdnは、人々の重要な情報を預けるプラットフォームとしては完全に失格であり、そしてそれゆえ、重要な情報や有益な投稿が集まることは無く、結局のところ、失敗に終わるのだろう。
 第二のtwitterとしてのBlueskyは、いまだ全貌も先行きはまったく分からないが、大きな期待が寄せられているようだ。BSはmstdnなどとも連携できるようになるらしいという情報もあり、そういった広がりをキープできるならば、これからユーザー数が伸張していくかもしれない。

 ただし、明らかにtwitterもどきのような見た目のBlueSkyが期待されているのを見て、むしろがっかりした。現在のtwitter利用者層は、こんなにも保守的な人々なのかと。つまり、新しい媒体を望まない、新しい技術についていけない、新しい世界に飛び込んでいかない、そしてただ現状をちょっと良くしたようなものを望んでいるだけなのかと。twitterが始まってから十数年も経つというのに、その十数年の間に無数の技術的進歩と社会的変化があったのに、いまだにtwitterっぽいものばかりが求められているのか。そういう意味で、「twitterに留まっているような人々は、古い世界にしがみついていて新しい物事を試そうとしない、ものすごい守旧層なのでは?」という疑念が湧いてきた。しかも、あんなひどいCEOから仕様を滅茶苦茶にされても離脱せずに留まっているなんて……うーん。怠惰で、変化を望まず、新しいものを受け入れられないというのは、あんまりよろしくない傾向だよね。
 もっと言えば、twitterが良かったのは、「twitterのあのレイアウトや機能性が良かったから」ではない。あの世界的なアリーナの中に、研究者から企業からオタクから知人まで、あらゆる人々がそこに居たからだ。そして、自分が楽しめるように、時間を掛けてTLを良いものにしてきたからだ。ただ単にインターフェイスが同じというだけでは意味が無いのだ。そう考えると、twitterのようなレイアウトだからというだけで現時点で軽率にBlueSkyに期待を寄せるような人々は、何が大事なのかが分かっていないように見える。
 制作サイドについても、「十数年も経って今更twitterコピーのようなアイデアしか出て来なかったのか」と考えると、かなりがっかりする。もっと新しい驚きと、新しいアイデアと、新しい技術と、新しい魅力のあるソーシャルメディアに出会うことはできないのか……。現状のtwitterが深刻に嫌悪されつつある現状はたいへんな好機なので、それに後押しされてひとまずは上手く行くかもしれないが、全体としては、おそらく大多数の人々は「第二twitterみたいなのに移住してゼロから始めるくらいなら、すでに蓄積のオリジナルtwitterに居続ける方が楽だ」と考えるのではなかろうか。
 いずれにしても、こんな古臭いデザインで今更改めてゼロからやり直せと言われても、私としてはまったく気が進まないし、そもそも私自身は完全にこのブログに引き籠もるつもりだが。(もっと古いじゃないか、とか言わない)


 新記事:「オタク寄りの関西紹介」。
 観光中は写真はほとんど撮らないので、あんまり良い写真が無い。
 日付を確認していて気づいたが、現在の住まいに引越してきてちょうど10年になっていた。長いような、それほどでもないような……。
 
十年前の引越荷造りの最中。最低限の分類をしつつ様々な資料を詰め込んでいた。
最終的に、箱の数がどのくらいになったかは憶えていない。現在では、ここからさらに増えているわけで、どれだけの分量になっているかは想像したくもない。

 京都市内の観光写真は、ほとんどが昔の携帯で撮影していた。当時の折り畳み携帯も、使いやすくて好きだったのだけどね……。入力インターフェイスとディスプレイが完全に分離しているので邪魔にならないし、誤入力も起きないし、コンパクトなので片手だけで操作できる(※電車内などでも扱いやすいし、落下しにくい)。スマートフォンは重たいし、片手では操作困難だし、画面タッチで誤操作が暴発しやすいし、それでいて余計なお節介が多い。もちろん高性能、多機能ではあるし、移行しないわけにはいかなかったわけだが、いまだに折り畳み携帯への愛着と懐かしみはある。もとより外出時(電車内など)では大した作業をするつもりは無かったし、速度や拡張性が求められる場合はパソコンできちんと作業するので、スマートフォンの役割はどうしても中途半端に感じる。


 来週(4/19)には『のんびり農家』(上巻)ディスクが発売される。下巻は6月に延期したようだけど。購入したら、あらためて最初からじっくり鑑賞して記事に反映させたい。


 関西紹介記事に、ちょこちょこと加筆。長く住んでいる/いたのもあるけど、受け入れ留学生の観光案内などでいろいろ調べたり同行したりする機会があったので、出不精の私でもそれなりに知識が付いている。しかし、加筆しすぎて散漫になりつつあるので、そろそろ切り上げよう。
 そういえば、ポンバに行くとメイドカフェ(の客引き)をよく見かけたが、京都や神戸ではメイド喫茶は全然見かけない。web検索してみたら、それぞれ数軒はあるようだけど、街中ではまったく見ない。むしろ日本橋が特殊なだけなのかも(※京都太秦もコスプレ空間ではあるけど、さすがに方向性が違うからね……)。

 オタク系を紹介すると、どうしてもベタなショップリストになってしまう。「animateなんか、どこにでもあるよ! 特に独自性は無いんだから、わざわざ紹介しなくてもいいじゃん!」ということになってしまう。いや、animateの全国展開はたいへんありがたく素晴らしいことだけど。オタク界が、あくまで「物を売る産業」であることが、改めて意識される。その意味で、「この土地にしかないような特別な名所」となると、ロケハン舞台を別とすれば、京都だと「漫画ミュージアム」とゲーセン「a-cho」くらいかも。

 いずれにしても、観光旅行をするのであれば、気持ちが新鮮なうちにどんどん回ってみるのが良いと思う。一年も経つとその土地に慣れた気分になってしまい、どうしても腰が重くなるので。



 04/07(Fri)

 今後はしばらく、Twilogを遡りながら、これまで書いてきたことを取捨選択して丁寧な文章にまとめ直していく予定。
 ここ一年ほどのtwの投稿数は、4000以上になっていた。これらを最後まで回収(改稿転記)していって、ソフトハウスキャラ作品評を完成させるところまで行きたい。
 時間はどのくらい掛かるだろうか。一投稿あたり平均100文字として、内容面で取り上げる意味のあるものが1/4だとすれば、10万字。あ、案外少ないかも。3000字の記事に換算すればせいぜい30本、5000字の記事ならば20本。先日の「ダンジョン防衛系ゲーム」のテキストが5000字なので、たいした分量ではない。
 内容面では、せいぜい一年前かそこらなので、時代感覚も私自身の思想もほとんど同じままの筈で、改稿にはあまり手間が掛からないと思う。もしも5年も10年も昔の文章だったら、情報が古すぎたり時代的に通用しなくなっていたり、あるいは私自身の考えが変化したりしていて、「改稿するよりはゼロから書き直した方が早い」とか、「改稿もできず、破棄するしかない」となってしまう可能性がある。
 「胃~之煮」概要記事も2年分以上溜まっているが、こちらは15分番組くらいに縮小されているので、そんなに時間は掛からない筈(※50回×15分×1.5倍と計算すると、1年分を19時間程度で処理できる見込み)。


 mstdnはVivialdiサーバに入ってみた( https://social.vivaldi.net/@cactus4554 )。主催者はVivaldiブラウザも開発しているノルウェー/アイスランドの団体のようで、かなり新しいサーバーのようだが、「ビッグテックの支配から逃れて、Vivaldi と共に自由を手にしよう!(Get away from Big Tech and have fun doing it.)」という宣言が、微笑ましくも頼もしい。
 ローカルタイムラインを見るに、海外ユーザーもそれなりにいる(日本時間だと夜間に海外投稿が増える)が、日本語投稿が多い(※閲覧アクセスによって表示される投稿を変えているのかもしれないが)。現状では、積極的な投稿活動をしている者が少ないので、投稿するとかなり目立つかも。ユーザーたちの雰囲気は、それなりに知的で穏健な感じ? 趣味の話題や社会的な話題に触れている人はいるが、やんちゃをする人や過激な投稿をする人は少なそう。あからさまなオタク系も少なめ(※オタク用途だと、もっと適したサーバーが他にいくつもあり、そちらに流れているのだろう)。私自身は、mstdnを常用するつもりは無いが、そちらの動向を肌触りで感じられるくらいには、定期的に見に行く予定。

 それ以外にもいろいろな小規模SNSが乱立しており、それはそれで健全ではあるのだが、リスクもある。つまり、主に「セキュリティ上のリスク(=個人運営等によるものはプライヴァシーが漏れる危険性が高い)」と、「存続可能性のリスク(=機械的なトラブルや経済的困難により、サーヴィスが消滅したりログがいきなり失われたりするリスク)」がある。ユーザーサイドの合理的な対処としては、「SNSは、ただ流れていくだけのものと割り切って付き合う」か、そうでなければ「ある程度確立されたSNSに加入するという保守的選択」のどちらかになると思われる。
 とはいえ、「匿名で参加できる」+「公的機関や企業PRが大量に存在する」+「趣味の話題も豊かに流れてくる」という条件を考えると、うーん、twitterに対抗できる存在はなかなか現れそうにない。もっとも、twitterには財務上の困難や運営上の問題があり、遠からずして急激に縮小衰退していくか、あるいは破綻してサーヴィス終了することになりそうだけど。安住の地は、おそらく、もはやどこにも無いのだよね……。


 庵野氏については、劇場版『エヴァ』(1997)まではずいぶん楽しんだし、そこから遡って『トップ』(1988)と『ナディア』(1990)もひととおり視聴して面白かったし、実写『ラブ&ポップ』(1998)あたりも観たけど、そこまでだったかな。『破』(2009)の演出がなんとなくつまらなくて、そこからは興味が続かなかった。そして『ゴジラ』(2016)以降は、伝聞のかぎりでは明らかに私の好みに合わなそうな雰囲気で、完全にnot for me枠になった。まあ、有名なクリエイターさんだし、「多くの人々が視聴して語り残してくれるだろうから、私が見なくても大丈夫かな」と思っている。


 新記事「フィクションの舞台設定とその諸傾向について」(4700字)。ごく簡単な素描のつもりだったが、執筆にかなり時間が掛かってしまった。
 追記:補論を加筆したら、テキスト量が2倍(1万字超)になってしまった。まあ、言いたいことはだいたい書ききれたので良しとしよう。しかし、3000字を超えるくらいの文章だと、目次は要るよね……。何が書かれているのかをあらかじめ読者に示すことは重要だ。
 『夜明け前より瑠璃色な』をまたプレイしたくなってきたけど、うーん、自宅のどこかから掘り出せるだろうか……。キャストも素晴らしいし、良い作品だと思う。



 04/05(Wed)

 このブログのレイアウトは、PCブラウザ閲覧を前提にして構成しているのだが、モバイル閲覧だと背景色等の美術的効果も消えるし、画像配置のレイアウトも滅茶苦茶になって、非常に読みづらい悲惨な体裁になってしまう。モバイル上で「webヴァージョン」にして表示してみても、レイアウトの崩れは解決されないままだ。……どうしたものか。画像サイズは小さめにした方がマシなのだろうか? うーん。


 【 オタク今昔 】
 「オタクは妄説に引っかかりにくい」というのは、20年前くらいには、そう考えられる余地があったかもしれない。当時はまだ、マニア気質(マイナー好み、自立的な趣味人精神)がそれなりに強かったし、当時は「ベタではなくネタ」という気風もあった。つまり、物事を愚直に鵜呑みにしたり、言われたことを真に受けたりする(=ベタ)のではなく、シニックに距離を置いて観察する(=ネタ)、つまり「変なものを変なものだと理解したうえで、間違ったものを間違ったものとして認めたうえで、あえて楽しむ」という姿勢があった。いわゆる「共産趣味者」や『ムー』読者などが典型的だろう。その意味では、突飛な陰謀論などに対して多少の抵抗力があったかもしれない。しかし、この20年間で、1)世間的な状況は大きく変わったし、2)オタク内部の文化も変化してきた。
 1) 前者は、ベタな妄説が蔓延しすぎて、シニックに相対化しきれなくなったこと。そして、距離を置いたノンポリ的姿勢を取ることは、それらの深刻な妄説を放置し存続させることになってしまうことになった。
 2a) また、オタク的シニシズムそれ自体の内的問題もあったと思われる。全方位の冷笑的姿勢は、危険な妄説に対抗するためのまっとうな武器をも手放すことになってしまったし、そういう対他的冷笑は、異なる意見と向き合わない内輪的独善にも繋がっていったように見える。そうした中で、例えば「一般人は役に立たないが、俺たちオタクの力でトレパクの証拠を見つけ出してやった」のような形で内輪の成功体験を積み重ねていったことは、けっして良いことではなかったと思う(→さらにそうした内輪的先鋭化が、SNSのエコーチェンバーによって強化された)。
 2b) また、間違ったものを弄ぶ露悪的姿勢も、差別を温存したり助長したり、それどころか自ら挑発的な差別発言の火遊びをする姿勢をもたらしてしまった。「俺たちは分かってやっているから大丈夫だ、あくまで冗談としてやっているだけだ」という姿勢は、独裁者を萌えキャラ化する書籍のごとき、一線を越えた不正義にまで踏み入ってしまったのだ。そういう姿勢は、おそらくアングラ寄りのネット(掲示板等)で広まっていったと思われるが、2010年代に入ってもその傾向は続いていた。
 そういった経緯が、20年代の現在の「世の中の既成権威(マスメディアとか○○学者とか)は信じられないが、俺たちオタクのしゅうごうち()は正しいものを見抜ける」といった、非常に危険な集団的暴走を準備してしまった。
 私としては、90年代末くらいのオタクたちの方が、はるかに好ましい存在だった。つまり、――やや理想化して述べるなら――自立した趣味人として、自分の価値観を賭けて、ひたすら良いもの(優れたコンテンツ)を追求し、そしてそれらに関して掘り下げられた知見を、善意に基づいて公共の場に提供しあっていく。言い換えれば、何かを絶対的に信じ込んだりする極論でもなく、あるいは逆に、全てを疑い続ける停滞でもない。周囲に流されたり、集団的活動にのめり込むのでもない。あくまで個人単位で、孤立してでも趣味を追求して自己実現(満足)を図っていく。しかし、昔のマニアのような独善に浸ることも良しとしない。例えば、「STGのスコアアタックや格ゲーの戦術をひたすら突き詰めて、余人の真似できないスーパープレイの境地に達するが、ノウハウを過剰に秘匿するわけではなく、初心者にも優しい」といった感じ。そのくらいのバランスの取れたオタクが、最も美しいと思う。

 現代型の「みんなでイベントで盛り上がるオタク」も、シャイな私には馴染めないけれど、大昔の「孤独で偉大なマニア」像も、あんまり好きではない。もちろん、自分の手で新しいものを作り出していく(独力で調べ上げて膨大な情報を己のうちに蓄積していく)のは素晴らしいことだし、「無いものは自分で作る」という美徳は90年代くらいまでは意識されていた。ただし、そういう「マニア」的スタンスは一歩間違うと、「自分でやることが良いんだ」という体験崇拝や「とにかく自力でやれ! 他人に頼るな!」という拒絶的マチズモに流れかねない。また、自分が調べたものは自分一人のものとして秘匿する傾向があったらしく、そういうのはまったく褒められない(※貴重資料などが死蔵/散逸することになる)。
 現代では関連情報の広がりや作品数の蓄積があまりにも膨大になっていて、独力では問題解決がきわめて難しいという事情もある。昔ながらの「マニア」スタイルは、社会的次元の問題性だけでなく、そういった技術面でもいよいよ困難になっている。
 現代のオンラインゲームの攻略では、多数のユーザーがwiki上で協力してゲームの内実を解明していくという流儀も定着している。そういった匿名的な善意の協力関係くらいが、まあ、ちょうど良いのではないかなあ。自分が調べた知の成果を公開しあって、お互い自由に使えるようにするという公共精神は、いわゆる第2世代くらいのオタクを象徴する、良きエートスだったと思う。個人的欲望(自己実現)と社会性(互酬性)の間のバランスとしては、そのあたりが良い着地点だろうと考えている。


 「1/350 プリンス・オブ・ウェールズ」や「1/350 ドレッドノート」など、艦船模型関連のページをいくつか公開。……最近の更新だけを見るとまるで英国艦大好きブログみたいだが、本来はゲーマーブログの筈。

 模型記事など、コンテンツ紹介を目的とする記事では、情報量のバランスを意識している。つまり、少なすぎず多すぎずということだ。
 「少なすぎない」というのは、来訪者(閲覧者)にとって有益な情報を提供すること。無内容な書き散らしや、個人的な話(購入時のエピソードなど)は避ける。例えば、模型制作記事であれば、キットの全体を正確に把握できるように掲載写真を選んでいるつもりだ。
 逆に、「多すぎない」というのは、冗長さを避けるということだ。オンラインの模型記事でも、似たり寄ったりの決めポーズ写真ばかりをベタベタ貼ったり、パッケージの外観写真をあらゆる角度で何枚も載せたりするのは、いかにも無駄が多い。
 こういった意味で、とりわけ写真掲載に関しては、「選別を通じて、品質&密度を確保すること」を常に意識している。……うまく出来ているかどうかは分からないが。

 というわけで、「フェリルナビット・ロッサ」についても紹介的な記事を作成。実験的に、写真枚数はぎりぎりまで多くしてみた。私の中では、このくらいが限界(※これ以上はやりすぎになる)。



 04/03(Mon)

 新年度になったので頑張る(?)。

 先月中は、英国戦艦のプラモデルをいろいろ作っていた。仕上げの8隻目は、個人的に好きな艦のウォースパイト(1/350縮尺)を、手抜き無しで完成させた。1/350スケールでの迷彩塗装は初めてだし、手摺まで工作したのも久しぶりだが、色調のコントロールも含めてわりと上手く行ったと思う。
 というわけで、紹介記事「Academy『1/350 ウォースパイト』について」。必要なことはできるかぎり紹介しつつ、画像はなんとか20枚以下に抑えることができた。

Acedemy「1/350 ウォースパイト」。ライトグレーはCreos「バーリーグレー」、濃いグレーはTAMIYA「NATOブラック」を使った。

 こういう記事を書きながら、せっかくだからと戦時中の国策映画『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)も視聴してみた。大本営海軍報道部が企画して東宝に作らせた国策映画ではあるものの、物語は意外なほど静かで慎ましやかな雰囲気をまとっていた。損傷した航空機が煙を吐きつつ孤独にフラフラと飛び、そして無言のまま物悲しく墜落していくところなど、印象的なシーンもある(※もちろん、ロマンティックな叙情的悲壮とファシズム的プロパガンダの熱狂は両立し得るのだが)。
 真珠湾攻撃をリアリスティックに再現した特撮技術も面白いし、終盤のマレー戦では「ワルキューレの騎行」を連想させるBGMが流れていて微笑ましくなったり(※もちろん『地獄の黙示録』よりもこちらの方が先に制作されているのだが)、ラストは当時の実艦による勇ましい砲撃映像(おそらく本物の実写映像)を釣瓶打ちにしていて苦笑させられたり。

 それと前後して、SNSで見かけた昔の映画『(秘)色情めす市場』という作品もオンラインで観た。いわゆる日活ロマンポルノの一作で、(現在でいうと15禁くらいの)ポルノジャンルではあるが、あいりん地区で売春して生きる女性主人公の心の動き――反抗、自立と挫折――を描いており、映像表現としても面白く、やけに印象に残る作品だった。実際、昨年には海外の映画祭に出されたのだそうで、そのくらい高く評価されている作品のようだ。
 知的障害を持つ弟の支え。指名手配殺人犯によく似た男性。主体性を失っていくサブヒロインとその死。母親との対立と、その決定的な破綻(主人公は自身の祝福されない生まれを母親当人から突きつけられつつ、母親は母親で窃盗で収監される)。そして、それらを次々に失っていき、最終的に自らを「ゴム人形」(=当時の安っぽいラブドール)のようなものだと見做すところまで行き着く、主人公の魂(の死)の実存……一種の故郷喪失の物語。そういった過程が、空を飛べない鳥や、荒々しくも空しい売春シーン、頻出する通天閣(※おそらくは豊かさの象徴/男性性の象徴としての)、そして鐘の音(葬式への示唆)とともに描かれていく。
 映像表現としても、中庭を挟んだ母娘の会話シーンは面白いレイアウトだし、投げつけたハサミのカットも効果的(※現代の目で見ればさすがにベタだが)。道ばたの水道でサック(コンドーム)を洗っている男性がいるようなスラム街だが、撮影された映像それ自体は静かで硬質な手触りのある都市風景として現れてくるのも不思議な気分になる。さらに終盤では、絶望的なまでに無人になったシャッター街で、女性主人公と男性の間で決定的な会話が行われていく最中に、周りのシャッターが風でカタカタ鳴っているのも、無情な空虚感を際立たせる演出として上手い。性行為の最中などに、日本酒やマヨネーズなどの液体を浴びせられる描写がやたら多いのも、男性からそういうものを浴びせられることを強調したものだろうか(よく分からないけど。最後に主人公の側は、タバコの煙を吐きかけるという形でわずかながら反撃している)。
 これまでは、タイトルを聞いたことがあるだけだったが、実際に視聴してみるといろいろ感心させられた。なるほど、こういう作品なのか……。

 
 当面は、twitterに書いていた話を改稿転記していく予定。同じ話を繰り返すのは好きではないのだが、しかしそれでも、「まとまった情報を、記録としてきちんと参照できるように整理しておくこと」も重要だと考えているので。優れたコンテンツに関しては、SNSでの書き流しの言及だけで済ませておくのは勿体ない。

 bloggerのやりにくさも、いくつかある。例えば、記事の日付設定が柔軟性に欠ける。将来の日付にすることができないので、ブログトップに雑記ページを置いておくことができない(※以前は出来たのだが……)。ピン留め機能も無い。
 また、画像アップロードがちょっと面倒なのもある。ドラッグ&ドロップでは上手くいかないし、数枚まとめてアップロードすると画像の順番がバラバラで、いちいち入れ替えるのに手間が掛かる。十年以上前から存在する古いサーヴィスだから仕方ないところもあるが、使いづらさは否めない。


 CEOお気に入りのお犬さまに支配されたtwitter、だっせえ……。先月のうちに撤退宣言しておいて良かったと思う。いずれにしても、あんな恥ずかしい場所で発言し続けるのは、私には耐えられなかっただろうけど。もちろん、ユーザーの方々はけっして悪くないのだけど(――悪いのは、愚かで専断的なCEOだ)、あそこにまだ留まって頑張っている方々は大変だろうなあ。嫌な場所からは、駄目な場所からは、ひどい場所からは、自由に逃げ出していいんだよ……。


 【 2022年回顧-2023年展望 】
 2022年に制作したプラモデルで印象深かったのは、艦船模型ではREVELL「UボートXXI型(U2540, 1/144)」、ガールプラモではSUYATA「ARTEMIS」、SF関連ではGSC「MODEROID : パワーローダー(1/12)」、それ以外だとFUJIMI「薬師寺東塔(1/100)」かな。 様々な新しいジャンルに取り組んでみて、それぞれ一定の成果があった。視野を広げた一年に対して、2023年は腰を落ち着けて、1/350艦船模型やインテリア(内部再現)AFVにしっかり向き合おうかなと考えている。
 プライズフィギュア界隈は、ここ1~2年は落ち着いてきた感じかも。「ラム/レム the great spirit pack」はフード表現と顔立ちのクールさが魅力的。「七草ナズナ ナース服」は両手の表情づけが凄い。「ナナチ」は塗装も凝っている。「シオン Relax time」は、胸部が不思議なパーツ構成になっている。プライズフィギュアは、限られたコストの中で様々な実験を試みているのが面白い。ピンポイントでインパクトのある塗装表現を入れたり、パーツ構成が凝っていたり、成形色や表面処理で質感表現を披露していたり。そういった技巧が素人目にも見て取りやすいという意味でも、気楽に楽しめる分野だと思う。
 趣味関連の支出は、ここ5年来、同じような感じで推移している。2022年の特徴としては、漫画支出がやや増えて(例年+100冊)、映像/音楽CD関連の支出がやや少なかったくらいか。特にクラシックCDは、楽曲単位で見ると手持ちがそれなりに充実しているので(全集ものBOXもいろいろ)、あんまり新しく買わなくてもいいかなという気分に……。最先端の動向を把握しておくのも重要なのだろうけど、サボりぎみ。演奏会も、ここ3年間、一度も行っていない(感染症のせいも大きい)。漫画は、既刊3巻以下で面白そうなものを挙げておくと、歴史系だと19世紀パリの『河畔の街のセリーヌ』、現代ものだと義肢高飛び『アンダードッグ』、異世界ものだとコマ組みがスタイリッシュな『欠けた月のメルセデス』、ループSF『新しいきみへ』、虐待的異能バトル『エクソシストを~』あたりかな。
 2022年のアダルトPCゲームだと、SLG系は戯画『ガルフラ』。AVG全般だとMELLOW『2045、月より。』が印象深い。ダーク系フルプライスはGuilty『虜ノ翼』くらいかな。ヒロイン間の関係を扱っているのも良い。低価格だと、ぱちぱちそふと『清楚系双子アイドルの裏事情』が、うまくち醤油氏原画で可愛い。2023年は、どうしようかな。所持している旧作群は、OS非対応だったり(というか、実際に動作不能になっていたり)、メーカー解散で修正パッチを入手できなかったり認証システムが消滅していたりするので、早めにプレイしておきたい。
 インドア派生活の範囲内で楽しめるものはいろいろ楽しんでいるつもりだが、2023年は、そうだなあ、あらためて実写映画(ディスク)にも目を向けていこうかな。ここ3年ほどは、新作もほとんど追わずにいたので。大阪(日本橋)にも定期的に行けるようだったら、もっと出来ることが増えるのだけど……。感染症拡大の下で、ここ3年間で一度しか訪れていない。ちなみに外食も、この3年間まったくしていない。それでも、罹るときは罹るのだろうけど、できるかぎりその確率を下げたいので。