2023/04/19

『魔法使い黎明期』と倫理

 『魔法使い黎明期』(著:虎走かける/漫画版:タツヲ)について。


 創作物は、ひとまずは同時代の一般的な受け手に向けて表現される。同じ時代に生きる人々に伝わるように制作される。それゆえ、架空世界や未来世界や歴史的過去を扱っている作品でも、作品を発表する同時代の社会の価値観、関心、用語法を取り込むことが多い。例えば、90年代から00年代前半頃までは、物語の結末に環境問題への示唆――自然環境を含めた地球全体の長期的存続――への言及を持ってくることは、エンタメ作品でもごく普通に行われ、受け入れられていた(※そういった示唆が20年代現在では難しくなっているのは、まさに時代精神の違いがあるからだろう。そういう状況が良いことかどうかはともかく……)。
 あるいは、例えばフィクションの中で復讐の正当性や因果応報が問題になっているときに、下記引用画像のような論点設定、モラリティ、言葉遣い、ロジックがさらりと用いられているのを読むと、いかにも今風だなあと感慨深い。

『魔法使い黎明期』漫画版5巻(2022年)、126-127頁。
 
 上記シーンの議論が、なぜ今風なのか。一つには、善悪の属人的判断を否定している点がある。悪事を犯していたならば、その行為は悪であると言わねばならない。仲間であっても、そこは誤魔化してはならない。このトカゲ君の主張は、そういう姿勢を前提としている。善悪の判断は、敵か味方かではなく、行為それ自体に基づかねばならない。そして、自分の敵か味方かによってその判断基準を都合良く変えてはならず、公平に同じ基準で判断しなければならない。そういう倫理観を踏まえてこそ、このトカゲ君の言葉が出てくるし、そして、それが共有されているからこそ、少女にもその主張が明確に伝わっている。 
 そして、これが今風だというのは、敵か味方かの判断で全てを色分けしようとする党派性ベースの争いが吹き荒れている現代だからこそだ。そして、そういった党派的分断を超えようと、あらためて平等や公平(impartiality)や人道や相互性の価値を物語の中で捉えようとしているからだ。
 
 このシーンは、大切な仲間の命を奪った暴虐の戦士を捕虜にしたところで、その処遇を決めようとする場面だ。つまり、ほぼ絶対的な「敵」を目の前にしつつ、善悪の判断が、正しい根拠を持って一貫して行えるかが問われている。悪しき行為は、仲間の行為であっても悪い行為だと認められるか。仲間の悪しき行為を赦すならば、敵が同じ悪行をしていても、同様に赦すことができるか(赦すべきか)。同じ判断基準を、敵と味方のどちらにも平等に適用することに耐えられるか。そういうシーンだ。
 しかも、そういった問を、トップダウンの価値提示によって解決するのではなく、また、相対主義に逃げ込んで解決を放棄するのでもなく、対話と説得によって解決しようとする。そういうところが、いかにも今風の誠実な倫理的討議の描写に見える。
 
 ちなみに、前後の議論では、「危害を加えられたら復讐してよいか」、「社会的に危険な人物を、危険だからという理由で排除してよいか(命を奪ってよいか)」、「人の生命に関わる議論を、同調圧力で決めてよいか」といった論点にも触れられている。そういうところも今風。
 
 このシーンだけではない。この『魔法使い黎明期』も、同じ著者による前作『ゼロから始める魔法の書』も、登場人物たちが生命の選択や、種族差別や、社会の搾取構造、過ちの償い方、プライヴァシーへの配慮、等々について真摯に悩み、誠実な言葉で語り合い、そして正論であれば認めて受け入れようとする。興味深い対話的な作品だ。
 
 補足しておくと、けっしてしかつめらしい議論ばかりというわけではない。漫画表現としても、リズムの良いコマ組み、背景までしっかり描いた絵作り、華やかで説得力のある魔法描写など、見どころは多い。元気の良い横顔ツッコミも楽しい(画像は4巻69頁、6巻108頁)。
 
『魔法使い黎明期』漫画版、第4巻69頁より。

 というわけで、現代でも「あいつらは悪い奴等だから」という判断を先行させてしまう人が大半だし、SNSはそのことを可視化させてしまっている。そして、そういう現代社会のありようを踏まえると、この作品が提起している倫理的な問はとても誠実なものだと思う次第。