2023/04/04

『異世界のんびり農家』アニメ版の雑感

 『異世界のんびり農家』アニメ版を巡る雑感(※twitterに書いたことの再掲)。

 ※順次、加筆していく予定。

 【 物語としての構成原理 】
 小説『のんびり農家』は、見た目の進行はいかにも経営SLG的であり、叙述のスタイルは史書ふうでもあるが、物語を展開していくアプローチの根っこはPBM(プレイバイメール)かもしれない。すなわち、多数の登場人物をキャラメイクしては、大状況にどんどん突っ込んでいって、それらをゲームマスター(ライター)の手腕できれいに捌いていく感じが。作中のキャラクターたちはそれぞれ独自の行動原理を確立しているので、それらに基づいて進行していけば(つまりキャラを動かしていけば)そのまま物語が進行していく。つまり、「○○は××をやりたがっている」→「××を試みていったらこうなった」→「じゃあその次は……」という感じ。もちろん、それらを筋の通った形で思考させ、キャラクター間に発生するであろう相互作用もしっかり把握し、それらを軽快&明晰な文章として形にしていくのは、やはり並々ならぬ構成力と筆力が必要になる。そうそう誰にでも出来るものではない。そしてそれらの技巧を、ひたすら「のんびり」の快適で和やかなムードに奉仕させ続ける。なんとも贅沢な趣味の世界だ。
 内藤氏は「蓬萊学園」に参加していたようだし、後に(遊演体経由の)Liar-softとも交流があったようだ。つまり、キャリアの上でも人間関係の上でも、PBM文化とは深い関わりを持っているクリエイターだと見るべきだろう(※ちなみに、「すたじおみりす」も、おそらく関わりがあった。紅涙氏は亡くなってしまったが)。

 マクロレベルの生態系的合理性とともに、ミクロレベルでの登場人物の行動原理も、きわめて機能的-合理的に出来ている。例えば、ヒロインたちが夜の男性主人公を求めるのも、パーソナルな恋愛感情はほとんど介在していない(※十分に好意的ではあるが、それが第一目的とは言いがたい)。「村内で安定した地位を保つため」という社会関係上の考慮がストレートに提示される。純愛ゼロのそういうクールな割り切りっぷりは珍しい。
 ガジェットのレベルでも、例えば魔狼や万能農具の強さは、パワーを誇示する面白さのためというよりは、魔王や竜族といった特殊な立場の者と対等に交流/交易できる(そういうファンタジー的交流状況を空想して楽しむ)ために与えられた設定だと言える。基本的には、そのための装置に過ぎない。
 そういった意味で、『農家』の設計と描写はきわめて道具的な発想で出来ている。穏やか(スローライフ最優先)と言ってもいいし、格好を付けず大人びている(TUEEな嫌味は出さない)と言ってもいいし、物事が合理的に回りすぎていると言ってもいい。
 (そうした中で、毎年のパレードイベントだけは権力者歓呼の非合理的情緒が噴出していて、他のシーンとかなり雰囲気が違うし、いささか不気味でもある。あそこだけはどうにも受け入れにくいのよね……。)
 こうした世俗的合理主義の姿勢は、様々なところに反映されている。例えば、この作中世界には、トップダウンの「悪」は基本的に存在しない。典型的なJ-RPGや異世界小説にあるような、「どこからか唐突に生まれてきて、なぜか世界を滅ぼそうとする純粋悪の魔王」のようなものは登場しない。魔王といっても、ただ単に魔族の領地を運営する行政責任者にすぎない。「絶対的に善い存在」「本質的に悪い生物」などという価値観ベースのダイナミズムは存在せず、それぞれの登場人物が、それぞれの生態とそれぞれの生活に応じて、賢明に暮らしていく。地に足の付いた世界だ(※ただし、幼少者や酒スライムのように、特権的に我侭でいることを許されているキャラクターもいる)。


 【 作中世界の描き方。生態系的・SLG的・SF的 】
 『のんびり農家』は、作中世界の生態系的な広がりが感じ取れるのも面白い。それぞれに生物としての種族維持(つまり繁殖と存続)が言及されている。魔王や吸血鬼も、個体としていきなりその世界に存在するのではない。強大なドラゴンですら、何代にも亘って次世代を作り続けてきた系図が描かれる。ネット小説のJRPG的異世界像では、しばしば超越的存在によってゲーム的に仕組まれた作為的世界になっている(例:モブモンスターが自動的機械的にリスポーンする)が、『農家』はそうではない。その世界そのものが実在しているかのように、彼等は生物(種族)として繁殖し、そして自立的に社会を共同形成している。
 とはいえ、そんなに厳密な生物学的-生態系的な描写ではないけれど。例えば、勇者システムのような作為性の強い超-自然的ガジェットも一部に存在するし、もっと言えば、万能農具によってかなり自由に新種植物を作り出せるくらいには融通が利かされている。だが、それでもなお、異世界を再生産可能な持続的システムとして、リアリスティックに扱おうという姿勢は明らかに見て取れる。
 そういった生態系的-社会的な持続可能性への意識は、内藤氏が企画脚本で手掛けたPCゲームにも見出される(例えば『BUNNYBLACK3』)。箱庭経営SLGにおける持続可能性の意識は、古典的なSFで言う「自給自足ドームの成立可能性/存続可能性」のような関心と相通じるところがあるかもしれない。こういったSF(サイエンス・フィクション)的、生物学的なセンスも、『のんびり農家』に看取される。単なる無策の「のんびり」ではなく、強烈な個性と鋭敏な知性の所産だ。
 それから、単なる設定語りだけで満足してしまわない節制も指摘されてよいだろう。これ見よがしな生物学趣味ではなく、あくまでその世界の自然的運行を匂わせる程度に、そうした描写がさらりと取り込まれていることが多い。
 ただし、アニメ版では、そういった生態系的な側面はあまり前面に出て来ない。たかだか1クールの長さでは、長期的な生物種の動態は描けないし、アニメの媒体的性質からも、そういった世界像レヴェルのイメージを反映させるのは難しいだろう。


 【 (J-)RPG的要素の少なさ 】
 『のんびり農家』は、(J-)RPG的な要素は比較的少ない。ファンタジー的な種族(ドラゴンや魔王)や西洋中世的な文明段階は踏襲しているものの、スキルやステータスやレベルなどは一切出てこない。人工的に作られたゲーム的世界ではなく、実在する一つの世界(社会生活)そのものとして描かれている。ゲームに出てくるような超自然的ガジェットは最初の神様と万能農具くらいで、それ以外は、各自の能力および文化に照らして、その世界の中のごく常識的な発想と行動の集まりによって、物事が推移する。魔法能力や、排泄物を分解するスライムなどは特殊スキルのようなものだが、「スキル」という言い方はしておらず、あくまで彼等に備わった生得的能力として捉えている。そもそも、「なぜ魔法なるものが存在するか、なぜ使えるのか」に関する特別な設定も、何も書かれていなかったと思う。ネット小説的な「異世界」は、往々にして、それが作為された人工的空間であることを強調する。例えば神が定めたルールの制約とか、そうした設定のバグを突いたチートとか、ヴァーチャルだとか、ゲーム内世界に転生したとか……。しかし、『のんびり農家』にはそういう視点が希薄なのが、個人的には好ましい(※ただし、封印された魔神に関するところだけは、妙にもったいをつけた設定がしつこく描かれており、ものすごく作為を感じさせる。あそこは作品全体の雰囲気を崩しているし、個人的にかなり苦手)。

 そういう観点で見ると、例えばalicesoftの『Rance』シリーズも、神によって作為されたデジタルゲーム風の世界だが(例えばレベル制度が典型)、神自身がその世界の一部でもあり、あれはあれで、今風の人工的異世界とはまた違った趣を湛えていると言える。
 アダルトPCゲーム分野は、歴史的には「異世界」よりも「ヴァーチャル世界」の発想に立脚しているので、ネット小説的な気風とはかなり異なる。もちろん、異世界もののアダルトゲームも存在するが、そうした場合でも一方的な転移/転生ではなく、異世界との接触(双方向的交流)の形を取ることが多い。異世界(交流)もののアダルトゲームについては、記事「異種族、異文化、異世界との交流」でおおまかにまとめた。主人公が異世界に行くのではなく、異世界から現代世界にファンタジーキャラ(ヒロインたち)が来るというのが主流だ。主人公が現代世界から異世界へ行くというパターンでも、虚構世界だったり(『ヤミ帽』『黒の図書館』)、実在の古代世界や未来世界だったり(『恋姫†無双』『うたわれ』)、SF的パラレルワールドだったりする(『マブラヴ』)。昨年末の『ガルフラ』も、典型的異世界もの+ヴァーチャルという形。そういう観点では、『英雄*戦姫』(2012)は、今風の典型的な異世界転移ものを取り上げた、アダルトゲーム分野でのかなり早い時期の作品だと言えそうだ。世界設計以外にも野心的な試みがいろいろあって、個人的にもわりと好きな作品。


 【 キャラクターたちの行動原理:合理性と自発性 】
 『のんびり農家』は、各キャラクターが賢明に行動しているところが良い。作劇の都合等で突飛な行動を取ることが稀で、どのキャラも周囲――つまりその場の状況や人間関係――を踏まえた、まっとうな社会的行動をする。だから、状況進行もスムーズだし、シミュレータ的小説としても説得力がある(※もっとも、そうした合理性のゆえに、「主人公の強大なパワーの前にあっさりひれ伏す」というイージーさもあるけど。また、毎年のパレード描写だけは奇妙に非合理的に見える。あそこだけは、全員歓呼の独裁者パレードみたいで不気味なのよね……)。
 しかも、ただ単に合理的なだけではない。それぞれに自分なりの価値観や行動原理を確立していて、それに基づいて自律的に行動している。例えば実験が趣味だったり、種族特性としての嗜好があったり、食文化を追求したり。そういう多元性も、社会状況のシミュレータ小説として深く織り込まれている。
 これらは、内藤氏がソフトハウスキャラで広汎な社会状況シミュレータ的なSLGをずっと作り続けていたことの延長上に捉えられるだろう。初期の『海賊王冠』(2001)の頃から、近年の『領地貴族』(2017)まで、そのアプローチはずっと継続され、そして目覚ましい成果を挙げてきた。各アクターが、「自身の利害」と「周囲の状況」をまっとうに把握しつつ相互作用するからこそ、シミュレータは単なるカオスではなく、意味のある社会関係(の描写)になっていく。それはSLG作品のテキストにおいても、巨大農村小説の執筆においても、当てはまっている。それが内藤作品の手応えだ。
 内藤氏は蓬莱学園の卒業生であるらしく、精神的-文化的なルーツの一端は、たぶんそのあたりにあるのだろう。実際、内藤氏は『グリンスヴァールの森の中』(ソフトハウスキャラ、2006年)という巨大学園ものも手掛けている。そうした作品でも、キャラクターたちは「自身の趣味を楽しむ自律性」と「周囲の環境に対してまっとうに反応する合理性」の双方を備えており、それが作品総体として「地に足の付いた社会性の手応え」として結実している。内藤氏の美質の一つは、こういう点にあると思う。

 
 【 なぜ「農家」なのか 】
 『のんびり農家』が、何故「農業」を基礎に据えているのか。私見ではおそらく、「スローライフものを描く」というのが最初にあって、そこから様々な考慮で「農業」が選択されたと思われる。
 1) 一人でも完結できる(農作物は自分一人で消費できる)。
 2) 田園はスローライフの典型的なイメージである。
 3) ただの趣味ではなく、ポジティヴな生産活動として描ける。
 4) 農産物は拡張性もある(料理や交易や季節[時間経過]などに話を広げられる)。
 5) 農業は、異世界での文明段階のギャップを生じさせないように扱うことができる。
 6) 大規模な組織的生産活動として描ける(料理人や鍛冶職人とは異なる)。
だいたいこのあたりだろうか? 元々、内藤氏は経済学的-経営学的な視点でSLGを構築するのを得意としてきたので、「主人公個人の楽しみの表現(ネット小説的)」+「組織的な生産活動(ゲーム的)」の双方の側面を持つ農業ネタは、非常に好都合だったと思われる。
 ただし、内藤氏のパーソナルな好みもあるのかもしれない。これまでも、彼が企画&脚本を担当してきたSLG作品の中で、農作業シーンのあるイベントを頻繁に描き込んできた。思い出せるだけでも『Wizard's Climber』、『BUNNYBLACK』、『悪魔娘』、『領地貴族』には一枚絵があった。『グリンスヴァール』と『DAISOUNAN』にもあったかも。
 いずれにせよ、農作業の試行錯誤の技術的ディテールを掘り下げることにはあまり関心を示してこず、むしろ「豊饒な収穫の喜び」「農作物をベースとした持続的社会の構築」「農作物を用いた交易(経済活動)」を描くことに力を入れてきたのは、いかにも内藤氏らしいと思う。
 農作業のリアリズムに近い(二次元オタク系)作品といえば、『のうりん』(小説→アニメ化)が代表的だろうか。あれはあれで、「結婚願望が満たされない下品なセクハラ中年女性」のような、作者の見識を疑うようなサムい造形のキャラを出していたりして、いささか薦めにくいが。

『BUNNYBLACK3』(ソフトハウスキャラ、2013年)。魔王となった主人公が、新たな村を開拓していくSLGで、配下のモンスターたちとともにダンジョン内で資源採取しては、村内施設を拡充していく。
『悪魔娘の看板料理』(ソフトハウスキャラ、2015年)。本作は料理屋経営がメインなのだが、SLGパートで菜園を設置することができ、ADVパートでも一枚絵付きのイベントがある。


 【 異世界小説としての特質:ジャンル論的に 】
 『のんびり農家』原作小説の特徴や位置づけは:
1)スローライフ路線のかなり初期のタイトル。
2)大規模組織の経営者スタンスの主人公は珍しい。
3)時間経過が早い(四季がどんどん進んでいく)。
4)男女関係もはっきり示唆する(子供もたくさん)。
5)ただし、トップダウンのハーレムにはならない。
 このあたりだろうか。大量のキャラクターが登場するわりに、個々のキャラクターの自立性がきちんと維持されている(それぞれの価値観や行動原理が確立されている)。多数のキャラを差配できる手腕は、PBM(メールゲーム)風でもあり、また、ソフトハウスキャラ時代の継続的なSLG制作にも直結している。
 ネット異世界小説は「JRPG風に進行するキャラクター小説」のアプローチが主流と思われるが、それとは大きく異なって「経営SLGのシナリオライター風の叙述(三人称小説に近い距離感)」というのは、新鮮に映ったのかもしれない。主人公視点にあまり寄り添わず、周囲の社会状況の推移を述べていくことに主眼がある。それは「バトルなどの劇的な起伏にウェイトを置かず、穏やかな快適さのムードを前面に押し出す」という手法とも結びついている。つまり、作品コンセプトと、叙述スタイルと、キャラコントロール技術(=社会関係を構成し描写する技術)と、作品の長所(スローライフの雰囲気を楽しめる)が噛み合っている。そういう意味で、やはり上手い作品であり、上手い作家さんなのだと思う。

 「主人公が傑出した能力を与えられている」という設定乃至状況は、異世界小説では当時からありふれていた。ただ単にスムーズに異世界生活を営めるというだけでなく、成り上がりの快感や、周囲から称賛される快楽を描くためにも、そうした状況設定が好んで用いられてきた。ただし、本作では、主人公がその特別な能力を積極的に披露することは稀だ。普段の公称やトラブルに際しては、周囲の実力者たちが対応するからだ。もちろん、間接的に「それほどの実力者たちを易々と従えている主人公が、さらに畏怖される」ということでもあるが。
 これは、受動的-認知的な側面で言えば、「主人公がずば抜けた能力を持っており、周囲からも高く評価されているが、自分ではその機微に気づいていない」というアプローチでもある。能力を嫌味ったらしく誇示することを避け、また、周囲から過剰にちやほやされる描写を避けるという意味で、賢明なバランス感覚だと思う(※ただし、毎年のパレードのように、主人公讃仰が行き過ぎるように見られる箇所も、無いわけではないが)。同じような無自覚アプローチについては、例えば『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』(原作小説版)も、このスタイルを採っている。


 【アニメ版の座組について】 
 監督の倉谷氏は、『つぐもも』等で実績あり。制作会社のゼロジーは倉谷氏も所属しており、意思疎通は大丈夫な筈(※ゼロジー制作の作品は見たことが無いのでクオリティは判断できないが)。
 シリーズ構成の待田氏は、ゼロジー→『ピアシェ』→桜井監督→『GA』『猫神やおよろず』あたりのご縁だろうか。待田氏は『いなり、こんこん、恋いろは。』等でもシリーズ構成を担当されてきたし、座組は総じて和風ファンタジー路線にしっかりした実績がある。『のんびり農家』も「のどかな農業風景+ファンタジーキャラバトル」なので、スタッフ編成としては適任っぽい。
 劇伴の高梨氏は、元々は派手な作風のようだが、『モノノ怪』『つぐもも』『我が家のお稲荷さま。』等でも楽曲制作されているので、和風やカントリー調もいけるようだ。ニルソン氏は、『回復術士』(※総作監が今回の齊藤氏)など。よく分からない。
 私はアニメ系オタクではないから最近の動向はさっぱり分からないが、主要スタッフのキャリアを見るかぎりでは、それぞれしっかりした実績があり、原作の方向性にも合っているように見受けられる。とりあえず大丈夫そうかな。
 
 以前も書いたが、1クールで切り上げるなら、原作単行本2巻の終わりまでがちょうど良い(漫画版だと5巻まで)。主要キャラが出揃い、周辺状況も見えてきて、武闘会で盛り上がり、最後は新しい3村の住人が入植するという希望のある形で終われるので。
 小説(文字媒体)では曖昧なままにできるところも、映像化すると固定化されてしまうという問題がある。例えば創造神に音声が付くと、性別や年齢感や性格が絞られてしまう。良いことかどうかは分からない。もちろん長所にもなり得るけど。魔狼たちのサイズ感は、今回のティザーを見るかぎりでは、大型犬レベルのようだ。漫画版もだいたいそのくらいのサイズだったか。


 【 アニメ版の全体構成について 】
 アニメ版『のんびり農家』は、1クール12話できれいに完結させることを目指した脚本構成のようだ。出来事の順序などを原作からアレンジしているのは、そのためだろう。
 ただし、原作の内容からして、2期以降も作ろうと思えば作れる種類のタイトルではある。仮に13話目以降を構成するなら、最初に「それなりに発展してきた村内風景」を描いて(13話で再導入)、そのうえで「新しく入植した住人で、追加の分村3つを作っていく」(14-17話くらい)、それから中盤に「武闘大会」を入れて(準備部分も含めて18-20話)、温泉探索は短めに切り上げ(21話)、そして村長主導で港町への出店や魔王国との交易を描いていく(22-24話)、といった感じでまとめられるだろうか。洞窟探索は映像では扱いにくいのでカットした方が良さそう(※後から必要になってきたら、モノローグ一つで経緯の説明を済ませてしまって構わない)。村内の日常風景として、毎季の収穫作業などを適宜挿入していけば、タイトルの「農家」部分も表現していけるだろう。

 メインヒロインが妊娠出産したのは、現代日本のアニメとしては珍しいのだろうか。演じた声優たちも、わりと驚いていたのが意外だった(※オンライン配信イベントでの発言)。その点でも『農家』は、特殊な位置づけの作品なのかもしれない。実のところ、
 1) 作中の時間経過が数年にわたる長さであり、出産までの時間が十分カバーされる。
 2) 一対一の恋人関係だけで終わる作品ではなく、村内の社会を描いていく作品である。
 3) 未成年ではなく、30代男性と、異種族(長命な吸血鬼)の女性という成熟した当事者同士。
これらのような条件がある。なので、普通の作品とは異なって出産が描かれてもおかしくないし、むしろ「出産まで含まれるのは、本作ならではの特徴だ」と言ってもよいくらいだ。


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 『のんびり農家』劇伴への作曲者コメント。ケルト風は分かるけど、スウェーデン風ヒーリング音楽も入っているのか。スウェーデンはニルソン氏の出身国で、その蓄積も今回の作品群で上手く活用されているのだろう。ケルティック~ノルディックなヨーロッパ民族音楽風の劇伴を用いたアニメとしては、『ソラノヲト』や『終末のイゼッタ』も印象的だった。南欧(スペイン)風の音楽だと『シムーン』とかも。


 【 放映/配信前時点での雑感 】
 『農家』はアニメ版でもしっかり飲酒してくれるようで、なんとなく安心した。ファンタジーキャラだからと、年齢等の問題をクリアできたおかげもあるのだろうか。原作ではどのキャラも飲酒しまくりで、宴会も頻繁に開催されているので、そういう楽しげな様子がアニメ版でも上手く表されていたらと思う。
 それ以外も、作品の特質を上手く掬い上げるには、「そこらを走り回る大蜘蛛や狼たちが可愛く描けていけなければいけない」とか「野菜や果物がおいしそうに描かれていなければ」とか「やたら大量のモブキャラが常時出入りしなければ」とか、普通のアニメとはかなり異なった特殊な要求ポイントが多そう。裏を返せば、「登場人物のバストアップ止め絵を連発してクオリティを確保する」という手法が、非常に通用しにくいタイプの作品だということでもある。1話では、ロングショットもきちんと使いながら、しっかり動いている(誠実にアニメーションさせている)ようで、その点も安心。ありがたい。SDシーンもたまに出てくるようだけど、絵にしづらい経営的側面や技術的描写に関しては、思いきってデフォルメにしておく方が、視聴者側も受け止めやすいし、コスト配分としても妥当だろう。
 村の雰囲気それ自体に魅力があるという路線のアニメになるだろうから、個別キャラのファンアートはあんまり描かれないかも。どのキャラも地に足の付いた性格造形で、飛び道具的な設定とか決め台詞とかはほとんど出てこないし(※アニメオリジナルでいろいろアレンジされる可能性もあるけど)。
原作の設定に準拠するなら、日本アニメ史上でも最多のヒロイン人数になりそう(※単行本2巻/漫画版5巻まででも、妻妾がモブ含めて30人くらいになっていたような……)。まあ、内藤作品は昔からこの傾向が強くて、『BUNNYBLACK』シリーズでも子供が1000人を超えていたくらいだ。
 キャスト面では、しっかりした技量のある方々を揃えている様子。最初の創造神が速水氏というのは、たいへんな贅沢だろう。これなら円盤を買っても大丈夫かな(最後までクオリティ維持できるだろうという意味で)。


 【 第1話「万能農具」感想 】
 『のんびり農家』は、冒頭の転生会話シーンをアニメにしたら退屈しそうだと懸念していた(漫画版も黒背景で苦労していた)が、アニメは「声優の力」で解決していた……なるほど。なにしろあの速水奨氏だ。一流声優の卓越した芝居ならば、ただの会話でも間が保つ。アニメ媒体ならではの解決法だろう。会話シーンそれ自体も、約2分にきれいに圧縮して、映像面でも多少手を加えつつ、冗長にならないように処理されている。スムーズに視聴できるように、手の込んだ配慮が施されている。
 声優の力は、本編部分でも発揮されている。20分弱をただ一人で、ずっとモノローグで語り続けているのだが、阿部敦氏がきちんと台本を汲み取って、人物の意志、感情、人格、状況を巧みに表現している。喋りのリズムも良い。
 アニメ単話の見事な独演というと、『ジョジョ』(38-39話)の福圓美里氏はとんでもない凄味のある名演だった(※犬キャラ[!]を演じて、怪鳥とバトルする)。阿部氏のモノローグ独演も、それとは異なった「のんびり」路線ながら、銘記されるべき優れた記録になると思う。

 主人公役の声優さんが大量の台詞を喋るのは、たしかにその場では大変だろうけど、1)演技をしたくて役者になっている筈だし、2)圧倒的な主演は誇らしく目立てる役どころだし、3)作品外でも熱演が注目されやすくなる(=今後の仕事につながる可能性)。その意味では、むしろ「おいしいチャンス」かも。近年のキャラ大量アニメだと、一つの回でほんの1~2台詞だけというのも、たまに生じていたようだ。省エネ仕事で稼げるのはそれはそれでラッキーかもしれないが、役者としては物足りないだろう。
 ちなみに、主演キャラたちの芝居で場が盛り上がっているところに、サブキャラ/モブキャラ役でいきなり台詞を突っ込んでいくのは、けっこう胆力が要るらしい。また、サブキャラは台詞が少ないぶん、役作りの手掛かりが乏しくて演技が難しいという側面もあるようだ。

 『のんびり農家』では、時間経過を表す「高速な雲の流れ」の3Dも、上手い使い方だと思った。現代アニメでも、流れる水や立ち上る煙の3Dアニメーションは依然としてミスマッチ(周囲から浮く)のきらいがあるが、今作の使い方はアニメーション全体の雰囲気を崩さずに効果的な動画表現になっていた。
 ウルフや大蜘蛛が大量に登場してそこらじゅうを往来している作品なので、作画が大変だろうと心配していたが、「SDを多用する」という解決法で、なるほどと膝を打った。適度に省力しつつ、「のんびり」の演出にもなるわけで、なかなかのアイデアだ(※放映前は、3D多用になるかもと懸念していた)。マップ表示や倍速進行なども含め、SLGのような演出でもある。
 大樹の下で開拓して居住地を広げていくのは、やはり、ソフトハウスキャラの『グリンスヴァールの森の中』『BUNNYBLACK3』を思い出す。どちらも気持ち良く豊かな雰囲気の経営SLG。『農家』を気に入ったらこれらも是非……と薦めたいところだが、残念ながらメーカー解散しているので、当時の作り手たちには還元されない(※今でもDL販売はあるようだが)。
 Cパートはアニメオリジナル、ヒロインサイドのシーンだが、これも上手い。「メインヒロインの登場」、「次回へのヒキ」、「他者視点で彩りを与える」、「外部の目から状況説明する」、「危険な死の森であるというオチ」。これらの複合的な役割を担っている秀逸なシーン。
 ところで、やたら可愛いショタ獣人トリオは、この先本編に登場してくれるのだろうか?

 細かい話だが、冒頭の神との会話では、「異世界」またはそれを示唆する言葉は出ていない。しかし、主人公自身は、これが典型的な異世界転生現象であることを理解している。もちろん、作品名として「異世界」を謳っているのだが。現代アニメで「異世界もの」が、完全に説明不要なものとして定着していることの現れと言えるだろう。

『グリンスヴァールの森の中』(ソフトハウスキャラ、2006年)。大樹の精霊がメインヒロインで、その周囲にファンタジー学園を展開していく経営SLG。ヒロインたちも異種族(天使や悪魔族)ばかりなので、1年=1ターンでゲーム期間は100年に及ぶ。「百年続く恋など 今まであったでしょうか♪」


 【 第2話「第一村人」感想 】
 時間経過は、1年目の越冬と2年目。物語としては生活水準の向上と同居人たち。

 後半の描写は、ユーモアを湛えつつも非常に美しい。優しい情緒と率直な感情表現。正直で誠実な人々どうしの交わり合い。昔の「日常系」とも違った、堅実な社会関係形成。そういったものを、きれいな映像表現に定着させている。
 穏やかで融和的なムードは、SD演出にも典型的に表れているが、原作者内藤氏が手掛けたゲーム『ブラウン通り三番目』も思い起こさせる。名作劇場路線を現代オタク向けにチューニングするとこうなるのかという感じ。声優の芝居も素晴らしい。この回の出演者は5人(事実上3人)という精鋭キャストで、冒頭の速水氏(神様キャラ)も朴訥なユーモアを滲ませているし、主演阿部氏の芝居も適度に抑揚が利いてしっかりと聴かせてくれる。下地氏は、体格に応じた表現の変化もさりながら、キャラクターの感情――嬉しさや驚き――を鮮やかに反映させる芝居で、物語に豊かな彩りを与えている。
 それにしても、メインヒロインとのお付き合いが2話目で早々に成立し、しかも異種族(ヴァンパイア)というのは、現代でもかなり珍しいのではなかろうか。このヴァンパイアという設定はなかなか巧妙で、吸血行為は「キス」あるいは「体液提供」を連想させ、2人の交わりを強く意識させる。この点は、文字だけで描写される原作小説よりも、アニメ版の視覚表現でそれが明確に描かれることによって、プロポーズに至る流れが説得力を高めている。原作時点ではそこまで意識されていなかったかもしれないが、映像として描写されたおかげで鮮明な意味を持つようになっている。

 原作ではテキストだけでかいつまんで説明されているところが、アニメーション表現によって具体的な手触りを与えられつつ、さらに描写のニュアンスが掘り下げられている。この回では、例えば手押し一輪車を走らせるシーンや、ルーと収穫する一連のカットで、アニメ版ならではの楽しさが追加されている。
 アニメーション表現それ自体について言うと、基本的にはモノローグとイメージ映像の連なりで表現されている。これは原作小説の日記風スタイルを映像表現へ転換するものとして、妥当なアプローチだろう。動かすところと止め絵で進めるところの取捨選択も的確で、「コミカルさや説明部分を引き受けるSD表現」と、「美しく印象に残る止め絵カット」、「情緒と迫真性のあるアニメーションシーン」の三者が巧みに使い分けられている。農作業で一息ついて汗を拭く動作のアニメーションは、一仕事終えた気持ち良さを演出するし、ウルフとフリスビー遊びをするシーンでキャラを大きく動かすのも、映像進行のちょうど良いアクセントになっている。

 最後の住人カウンターが「ポロロロッ」と回るところは、まるでSLGのような演出だが、ユーモラスでもあり、効果音も気持ち良い。

 SLG的といえば、音楽もそうだ。ゲームBGMのようにはっきりしたメロディの楽曲が堂々と、しかもたっぷりと時間を取って流れる。一般的なアニメ劇伴と比べても、非常に存在感のあるBGM使用だと思う。しかも、それでいて、コンテに合わせた楽曲進行、つまり視聴覚的マッチングも行き届いている。こういうところも上手い。楽曲の抑揚とシチュエーションの抑揚がぴったりタイミングを合わせているし、シーン終わりの切り替わりも楽曲の節目ときれいに合わせてある。本作の劇伴音楽はメロディアス&リズミカルで自己主張が強めだが、それを前面に出しても鬱陶しくならないのは、楽曲のリズムと画面進行(コンテ)が上手く対応するようにコントロールされているからだ。画面と音楽が歩調を合わせて、アニメの視聴覚的進行のリズムを作り上げているからだ。
 そしてこのアプローチは、原作のスタイルとも調和している。原作小説の内藤騎之介氏は、軽妙洒脱な語り口に大きな魅力があり、アニメ版でも主人公のモノローグが基盤にある。キャラクターたちの奇行で笑わせるタイプのコメディではなく、とぼけたユーモアを滲ませた主人公ののんびりした語りが、的確な劇伴によってそのニュアンスを掬い上げられ、さらに生き生きした動きを与えられている。原作小説の美質を最大限に引き出すような、巧みな劇伴演出をじっくり味わえることに、このアニメ版の大きな価値がある。


 【 第3話「同居人 続々」感想 】
 やはり作画の配分バランスが良い。止め絵では緑の深い森や瑞々しい野菜をしっかり見せ、その一方で、子犬たちがコロコロとじゃれ合うカットは丁寧にアニメーションさせている。通常のアニメではなかなか見られない珍しい配分だが、この作品(原作)の個性をしっかり掬い上げるための大胆な判断だ。さすがに大蜘蛛は、挨拶で手を動かすくらいで、基本的には簡略作画だが。
 その一方で、屋敷建設のシーンは止め絵で押し通す。さすがに、複雑な建設プロセスはアニメーションさせるのが大変だし、長期間の工事だという意味でもアニメーションには不向きだ。だから、止め絵+モノローグという形にして、画面には建設作業中のエルフたちをたくさん描き込むことで説得力を確保している。こういう割り切りが、実に興味深い(――予算全体としては、おそらく「中の中」くらいで、けっして大作規模の企画ではなさそうだが)。
 頻出するSD絵も、抜群に良い。ユーモラスで温かな雰囲気に溢れているし、それでいてけっしてチープにならず、状況表現としても大きな効果を上げている。

 ストーリー面では、エルフたちが住人になって状況が一変する。具体的には、1)社会関係が大きく広がる。2)画面上も、登場人物が増えて賑やかになる。3)彼女たちの「安住の地」となるために、ここで定住を続ける意味(目的)が生まれる。
 原作小説のセンシュアルな要素は、このアニメ版では包み隠していくアプローチのようだ。とはいえ、性的関係に関するぎりぎりの示唆は残っているし、また、ティアが村に住みつく過程がかなり唐突なものになってしまった。
 ルー役の下地氏は、穏やかなペースで幸福感に満ちた芝居を披露している。それでいて、台本をしっかり咀嚼した芝居で、細やかなニュアンスもきちんと表現している。わずかにざらつきのある声色が、程良い引っかかりにもなって、主演としての存在感にもつながっている。これは良いキャスティングだと感心する。もちろん、主演の阿部氏も素晴らしい。穏やかさ、善良さ、正直さ、誠実さ、そして世間知らずなところやユーモラスなところも含めて、役を見事に造形している。声色そのものはあまり変えず、モノクロ寄りだが、折り目正しく落ち着きのある語りで、キャラクターの台詞とナレーション説明の両方の性質を含む特殊な役柄を、絶妙のバランスで演じきっている。

 農作業シーンが定期的に描かれることによって、牧歌的なムードが維持される。基本的に村内だけで話が進行しているので、ロケーションも把握しやすい。場所移動が乏しいぶん、時刻変化によって画面の味付けを変えている(夕方や夜間など)。
 茶葉のくだりだけは浮いているが、今後につながるのだろうか?

 EDの黄色いチューリップは、おそらくアニメ版独自(※原作小説や漫画版には無かったと思う)。なぜ黄色のチューリップを選んで、毎回強調しているのだろう? 花言葉ではポジティヴなものもネガティヴなものも示唆されている花だし、趣旨がよく分からない。明るくて清らかそうで、幸せを感じさせるという感じなのだろうか。

第3話Aパートから、アスパラガスと大豆の煮込み。もしかして、これが「アスパラガスの変わった食べ方」なのだろうか。(そうじゃない)


 【 第4話「水路は暮らしを充実させる」感想 】
 水周りの建設。腰を据えた村内施設発展の回であり、「農家」要素を前面に押し出した回であり、そしてリア回でもある。リアはエルフたち(建設チーム)の代表であり、建設作業に関しては主人公と対等に近い姿勢で、どんどん意見を言い合っていく。話の通じる優秀なパートナーとして、物語に心地良い推進力を与えている。それに対してティアは、驚き役だったり(蜂を怖れる)、紹介役だったり(スライムを持ってくる)、ストーリーテリングの便利屋に収まっているようだ。ここに多芸多才な洲崎氏を配したのは、まさに適役だろう。
 知的で優秀な働き者たちが揃って、物事はスムーズに進んでいく。その進行を、原作譲りのユーモアが柔らかく軽やかに彩っていく(冬で凍結など)。強引なギャグに頼るのではなく、ストレートな理屈と想像力の中から立ち現れてくる、上品で節制の利いたウィットだ。氷結イメージの「カチーン!」も、本作らしいユーモラスなイマジネーションに満ちた表現になっている。
 ストーリー面でも、「水路開設→水田→おにぎり」、「水田→泥汚れ→風呂」という形で、SLG的な合理的思考がきれいに筋道立っているし、それと同時に村内の文化的充実の描写にもなっており、そのプロセスでエルフたちの活躍もきちんと描写されている。上手い。Aパート終わりのエルフ追加も、「放浪から定住へ」を示唆することで、Bパートにつなげている(音楽的にも、笛の音がそれをひそかに予告している)。

 コンテのリズムも良い(例えば巨大魚がいきなり出てくるところ)。劇伴の置き方、動かし方も絶妙にコントロールされていて気持ち良い。空の広さを感じさせる笛の音、カントリー調のアコーディオン、リズミカルなギター、豊かな弦楽器の響きなど、音色も多彩で楽しい。『グリンスヴァールの森の中』を連想したり。ルーが繰り返す困惑の「えぇ……」台詞も細やかな表情があって味わい深い。
 視覚表現では、一気に増えたエルフたちが画面を賑わせ、華やかにしている。肉感的な太腿や、フェティッシュな土汚れなども、ぎりぎり嫌味にならない程度に盛り込まれている。絵を動かす部分も、会話シーンの何気ない所作などにコストを投入しており、それが村内の住人たちの生き生きした暮らしぶりをよく表している。
 火楽がイメージするエルフが、有名なディードリットのカラーリングなのも芸が細かい。シックなインディゴブルーの外套(マント)に、着衣は柔らかな萌黄色、そして手袋などは落ち着きのある赤褐色、そして額のリングに、金髪は清らかなライムライトイエロー。クラシックな「エルフ」像であることを明快に表現した、アニメ版スタッフの優れた見識の所産だ。
 「野菜デザイン」担当がいるアニメというのも珍しいかもしれない。SDキャラたちも抜群に可愛いのだが、どなたの絵なのだろうか。総作画監督(連名)の齊藤佳子氏、五十内裕輔氏、中原清隆氏が共同で作り上げられたSDデザインということだろうか。

 後半はクロ視点。木内秀信氏の渋い芝居で、これまでとは違って悲壮で硬質な手触りのあるパートを入れることで、作品のムードを引き締めている。また、村に集まってくる人々が、それぞれ独自のバックグラウンドを持っているのだという事実を伝える重要な部分でもある。それによって作品世界が重層的な奥深さを獲得しているが、そういった背景語りを引き受けるのが、人間型ではなくウルフキャラであるという距離感も気が利いている。
 そして最後のオチは、彼等が「インフェルノウルフ」という、周囲から怖れられる魔獣であることをこっそり語って、原作の基本路線――世界を脅かすほどの強大な生物たちが集っているが主人公はそれに気づかない――を示唆する。


 【 第5話「カレーと越冬」感想 】
 前回と合わせて、村内文化充実の回であり、また、現代文化再現の回でもある。作中時間としては2回目(?)の越冬。
 カレー作りはさすがに冗長だし、インドアでのゲームも散漫なつまみ食いで、あまり面白くない。しかし、カレー作りは主人公が積極性を発揮して、自分の望みを意欲的に追求していく場面であり、主人公の活動に焦点を当てるという点では、この回を描いた意味があるだろう。
 後半のインドア遊戯パートも同様。小説では楽しく読み進められる描写も、アニメーションで一々再現するのは重たすぎる。住人たちがゲームをもっと楽しんでいるように描いていたら、「生活の楽しさ」という観点で、この回にも意味が生まれたのではないかと思うが、「ルーの敗北連発」というあからさまなコメディ進行にしたのは、はたして良かったのかどうか……。とはいえ、個々のキャラクターの性格描写(ティアの知性や、ゲーム巧者のウルフ)や、キャラクター間の関係(ルーとティアの対決)も掘り下げる役割を担っており、この回を描く意義はあったと思える。また、「大きな家が完成した」→「屋内での生活風景」という観点で、きれいに筋の通ったストーリー構成になっている。
 大人状態のルーとのしっとりした会話シーンも印象に残る。原作小説とは異なって、役者による音声芝居があってこそ成立する、情緒のある一場面。


 【 第6話「村です」感想 】
 ワイバーン撃退から、大樹の村が正式に発足するまで。
 冒頭では本作唯一(?)の、緊張感のあるバトルシーンが描かれる。勝利のパーティーに続いて、「大樹の村」発足を祝する酒宴と、村内では華やかな祝いごとが続く。その一方、村外の様々な社会勢力が動き出す。前半の節目に位置するだけあって、視聴覚表現でも盛り上がり、ストーリー面でも大きな動きが発生する。クール制の枠組を前提とした、きれいな構成だと思う。
 ポジティヴな華やかさを代表するのが、ワイン作りシーンでの「葡萄踏みの唄」だ。ヨハネス・ニルソン氏作曲のBGMは、これまでもケルト風~北欧風の民族音楽のテイストを取り入れて土俗的な香りの強い音楽になっており、この「農家」のムードを音楽的に支えてきたが、その頂点となるのがワイン作りの合唱だ。歌詞はなんとなく北欧風に聞こえるが、詳細は不明。
 その一方で、魔王国サイドのシリアスなシーンでは、笹沼晃氏が出演されている。いろいろと馴染みの深い声優さんだが、真面目さの中にも愛嬌が香り立つキャラクターで、たいへん良い配役、良い芝居になっている。四天王ランダン役の高橋伸也氏は、第1話ラストでは宿の主人を演じていた。この方も上手い。さらに、「フローラ」役の富田美憂氏も出演された。今世紀の傑出した声優の一人である富田氏が本作に参加されているのは、たいへんありがたい。こうして音響的にも声優陣が充実し、視覚的にも派手なアクションシーンがあり、力の入った回になっている。
 フローラは、原作と比べてかなり賑やかなコミカル路線のキャラクターになっている。いささか意外なアレンジだが、キャラクター配置としてはなかなか上手い。というのは、ルーはメインヒロインとして行動に制限があるし、ティアはルーに対抗する存在としてワンセットだし、それ以外は作業中心のエルフ、家事の鬼人族、それから人語を喋れないウルフ&スパイダーばかりなので、コメディシーンの厚みを増すために自由に動けるキャラクターとしてフローラを起用するのは作劇上、理に適っているように思える。ヒロイン間の関係としても、後輩(妹分)キャラというのはちょうど空いたニッチポジションになっており、メインヒロインのルーを適度にサポートさせつつ、自由人として任意の場面に登場させられるのはたいへん都合が良い。今後とも、出番の多さに期待したい。
 キャラクター描写としては、ヒロインたちの優秀さが際立つ。「ルーさん、防御!」「みんな、消火を!」と、躊躇なく最適な行動を取れる判断の速さが素晴らしい。事後報告の明晰さや、ワイバーン襲撃の推測も含めて、とにかく状況理解と行動選択がスマートなのは、本作の進行をクリアでスムーズなものにしている。その意味で、非常に知的に作られた作品だ(もちろん原作由来の美質だが)。魔族たちの会議も、「今年度の予算を通したばかりなのに」「辞職しよう」といったように、地に足の付いた社会性と、個人単位での合理的な行動が描かれている。

ブドウ踏みは、内藤氏が企画&脚本を手掛けたPCゲーム『領地貴族』(ソフトハウスキャラ、2017年)でも描かれている。静止画ならではの描き込みの精緻さや、下着(ドロワーズ)のデザインなど、見応えのあるCGになっている。


 【 第7話「おもてなしの心」感想 】
 住人が一気に増加したところで、ここからは村外との交渉イベントが増えていく。
 作画は、わずかに崩れ気味。コンテ面でも、会話の中に内省カットが挟まってきてテンポが停滞したり、過剰な顔面アップがあったりして、あまり上手くない。例えば、初登場のドライムが背中ばかり映しているのも不可解。ランダン辞職ネタなど、天丼シーンも多いが、これは好みの問題か。SDキャラが落ち着きなくフワフワするのも、セナの汗演出も、イージーで品のない演出だと思う(※後の「ほめて ほめて」書き文字にも同様の問題がある)。キャストも、あまり上手くない役者たちが入ってくるようになった。
 アニメ版ならではの味付けとしては、魔王国からの手土産を受け取って喜ぶルーは可愛らしい。フローラのアホ毛がうねうね揺れるのも、アニメ版独自の表現だろう。アンの長髪が柔らかく揺れるアニメーションも、雰囲気があってなかなか良い。

 脚本は、3つの対外交渉が順を追って展開されていく。すなわち、
 1: 魔王国:大上段の政治的従属、
 2: ドラゴン:パーソナルな歓待、
 3: 獣人村:経済的な交流(交易活動や人的交流)、
この見地では、きれいに整理されたシナリオ構成になっている。ただし、個別描写としては、ドラゴンの世間的なプレゼンスの大きさに比してドライム接受シーンがあまり短く端折りすぎて、いささか収まりが良くないように感じる(※魔王国に対しては従属するのに、ドラゴンからは下手に出られているのは、いかにもバランスが悪い)。ハウリン村人たちの台詞も、つぎはぎめいて引っかかる。

 キャラクター面では、前回登場の鬼人族たちが出番を増やされている。アンが天然寄りのおっとりキャラになっていたのは意外。原作小説では、キビキビしたしっかり者だったと思う。しかし、このアニメ版全体の雰囲気で考えると、これは上手いアレンジだろう。
 セナとともにショタ獣人たちも正式登場した。村の経営体制が安定したところで、人的持続可能性も意識されるようになっている。グッチ役の浦田わたる氏も、艶のある芝居が魅力的。主人ドライムよりも存在感があると言っていいほどだ。
 EDムービーでは、新規登場キャラが出てくるようになっている(最後にルーが振り返った後)。
 
 
 【 第8話「研究者と二人のお嬢さま」感想 】
 おおまかに言えば、前半はフローラをフィーチャーしつつ村内の安定を描き、後半は外部の視点(ドワーフ、ドラゴン、魔王国)から、村に対する評価を見定めていく。原作ではフローラの目立った活躍は稀なので、貴重な回と言える。
 スパイダーに遭遇して気絶するのは、アニメ版の描写だけでは意味が分からないだろう。説明不足なので、スパイダー(やウルフ)が脅威的な存在であることを明示しておくべきではなかったか。ドラゴン族に対するスタンスも一貫しない。ドライム来訪に対して村人たちが平然としていたのに、ラスティに対してはビーゼルが恐懼しているというのは、どうにもおかしい。

 ラスティスムーンの「がおー」は、アニメ版独自だろうか(※漫画版から持ち込まれた可能性もあるが未確認)。SDキャラともども、強く印象に残る。原作小説ではラスティの出番は少なめだったが(※原作では明らかにハクレンが厚遇されている)、このアニメ版ではラスティの出番が多い。大きなドラゴン尻尾と、日岡なつみ氏の端正な芝居とともに、輝かしい魅力を発揮している。このアニメ版で大きく魅力を増したキャラクターの一人だろう。グラッファルーン役の日笠氏も聴きものだが、登場はこの回(と次回の一言)だけ。
 フラウレムイベントの方は、描写が作為的。魔王国の四天王は、結局3人しか登場していないが、いずれも腕利きの声優さんなので楽しく聴ける。

 天使族や鬼人族が増えた一方、モブキャラのウルフやエルフたちの登場機会が激減。 
 AパートとBパートの間に、独自アイキャッチが入っている。中間のアイキャッチ画像は、第1話:無し(マップ表示)、2話:無し、3話:休憩する火楽とルー、4話:マップ表示、5話:住人たちと果物、6話:無し。7話:無し。8話:セナとウルフたち。9話:無し。10話:入浴中の魔族娘たち。11話:花畑にいる火楽とルー。12話:無し。


 【 第9話「商人とドラゴン」感想 】
 アニメ版では3回目(?)の秋。住人が増えてきて、あらためて村内の楽しげなシーンが描かれる。アバンタイトルからしてガヤ台詞が多くてたいへん賑やかだし、Aパートの会話シーンもいかにも内藤騎之介節の小気味良いスピード感があり、それが実力派声優たちの応酬によってさらに生き生きしたものになっている。
 ただし、映像演出としては、面白味に欠ける。第7~9話でバラバラに3回(3頭)もドラゴンが来訪するのもダレる。脚本進行も、原作の描写からしてやむを得ないのだが終盤(11-12話)に時間を確保するために、このあたりで早めにイベントを回していると思われるが、どうしても散漫になる。ストーリー上の位置づけとしては、「村内のほのぼのシーンと村外からの畏怖の目のギャップ」になるだろうか。前半は商人マイケルの視点から、後半は魔王国サイドから。


 【 第10話「王姫ユーリ」感想 】
 フラウレムとユーリの回。三バカ娘の言動がフラフラと落ち着かない。「死ぬ気で」と泣きそうなほど怯えていたシーンの直後に、「この村が手には入っていたら」と鈍感な危険発言をしていたり、ユーリを見捨てて逃げ出したり、かと思えばスパイダーに遭遇しただけで心を入れ替えたり、自発的に村に居残る姿勢を見せたり。
 シリーズ構成としては、「素朴な外部の視点から、村の楽しさを味わう」という位置づけだろうか。村内での仕事を持たない自由な観察者としてはハクレンがすでに登場しているが、ハクレンほどふてぶてしくなく、純朴なユーリの視点から村内風景を素描している。フラウレムとユーリの関係を大きく取り上げているのは、珍しく主人公(火楽)抜きだが、村内には主人公以外の人間関係も様々に存在していることを示唆するものと捉えれば、これはこれで良いものだろう。
 魔王ガルガルドは、このアニメ版では、結局「大樹の村」とは無関係のまま。山エルフたちも、登場が遅くて活躍の機会がほとんど無い。Bパートはまとまりの無いイベントが続き、かなり散漫だが、最後にルーの懐妊確認シーンがある。


 【 第11話「日々と始祖さまと」感想 】
 前半は村長の一日。入植者イベントもひととおり済んで、村内の体制が確立したところでもあり、結末に向けて村内生活全体を振り返る役割も果たしている。
 黄色いチューリップは、EDムービーに出ていたものだが、本編では初登場。村の文化的な彩りと豊かさ、そして安定した幸福の象徴と捉えてよいだろう。
 妊娠中の女性の姿(しかもメインヒロイン)を2話に亘って丁寧に描くのは、現代アニメとしても比較的珍しいのではなかろうか。このように、地に足の付いた描写をきちんと掬い上げる姿勢は、本作の(原作ともども)大きな特徴だろう。
 いくつか問題もある。「害虫(仮)」の外見はかなり気持ち悪く、戦闘訓練の汗濡れ描写もかなり下品。就寝前のシーンも、アニメ版では「緊張感」云々のくだりが意味不明。原作の性的関係への示唆を中途半端に残しているシーンは、総じて失敗している。アニメ単体で見て、脚本の筋が通っていないのは明らかにまずい。
 後半は、ドノバンイベントから、始祖ヴァルグライフとのイベント。演者の小野大輔氏は、聞く者を安心させるような、思慮深く穏やかで温かな芝居をされている。ルーの親族に当たる立場として、ルーの結婚と妊娠を祝福する役割を担いつつ、同時に創造神との遭遇を語ることによって、主人公がこの世界に来ることになった由来もあらためて想起させている。


 【 第12話「誕生」感想 】
 アニメ版の進行では、おそらく4年目の初夏。ルーはずっと大人状態のまま。氷魔法を出すシーンは、夫婦が生活をともにしてきた蓄積を感じさせる。ルーを気遣う村人たちの様子も、彼等の善良さと有能さ、そして村内の融和的雰囲気をやわらかに描いている。
 演出面では、第1話との照応が丁寧に作られている。すなわち、出産(ウルフ/ルー)、そして一人で暮らし始めた大樹の洞、そして第1話冒頭シーンからのつながり。独力で村を開拓しはじめた主人公が、人々との共同生活の中で子供を持つに至った物語として、このアニメ版はきれいに構成されている。
 ただし、褒賞メダルや魔王国のシーンは、やや冗長に感じた。前者については村の経済体制が発達していく描写として受け止めることもできるが、後者は結局、魔王が役立たずの部外者のまま終わったわけで、いささか据わりが悪い。


 【 視覚表現の特異なアプローチ 】
 アニメ版『のんびり農家』は、コストが掛かっているのかいないのか、よく分からない。スタッフ編成やキャスティングを見るかぎりでは、せいぜい「中の中」~「中の上」くらいの制作規模かという印象だが、私は普段アニメを見ないので、現代のクール制アニメの平均的クオリティが分からない。ただ、コスト配分と状況説明の整理は、非常に上手くやっているように見える。
 典型的なのがSD画像や説明的アイキャッチ。例えば、モブモンスター(兎や猪)を倒すところも、真面目に作画するとかなり大変だが、たいして重要なシーンではないから、手間を掛けても割に合わない。SD処理にしたのは上手い。状況説明のマップを出したり、長期間の活動描写をSD+高速表示にしたりするのも同じく。正面から、普通のアニメらしい描写にしていたら、きりがない(※3Dマップを用意して、大袈裟に周囲をぐるりと俯瞰させたり、畝の一掘り一掘りを延々アニメーション描写するのは、相当重たくなってしまう)。
 普通のアニメ描写を生真面目に維持することには拘らず、それを自由に逸脱しているのは、『のんびり農家』の長所の一つと言えそうだ。それによって、
 1) 状況説明を効率化 +
 2) コスト面の濃淡をコントロール +
 3) のんびりほのぼのムードを強化
という複数の効果を担っている。こういうのは好き。さらに言えば、原作の内藤氏の出自である「4) 経営SLGっぽさをアニメに反映させる」という側面も見出せるかもしれない。ただし、この4点目はあくまで作品外の事情だし、アニメ版スタッフがどこまで意識して行なっているかは分からない。いずれにしても、アニメとしては非常にユニークなアプローチで、上手くクオリティと演出をコントロールしている。
 そして省力した分の余裕は、細部の演出を充実させるのに使われる。例えば、村内の広場でヒロイン(ルー)が、弧を描くように斜めに近寄ってくるカットがある(第1話)。わりと手間の掛かった作画と思われるが、こういうところに村の広がりやヒロインの存在感が形作られている。そういうところに、きちんと描写のコストを掛けている。良い判断だと思う。

 『農家』原作小説の売れ行きや漫画版の掲載雑誌での厚遇からして、アニメ版は多額の資金を投じた企画になるか……と思いきや、どうやらそれほど大規模な企画ではないようだ。公式サイトの作りもずいぶん簡素だし、広報展開もイマイチのように見えるので、ビッグプロジェクトではなさそうだというのは伝わってくる。キャスティングに関しては、コロナ下のここ数年で状況が激変しているようなので、「どのくらいの水準か」「どのくらい力を入れているか」は判断が難しいが、名有りキャラに関しては相当の実力派声優を揃えていて、ずいぶん驚かされた。
 
 (※ちなみに、10年代の日本アニメは大根若手を主演起用しまくっていて、それはそれで「若手に機会を与える」「新たな才能を発掘する」という作用もあっただろうけど、一視聴者としては「未熟な芝居が多すぎて聴くのがつらい」という経験が多かった。私がアニメを離れた理由の一つ。かといって、前世紀のように「どのアニメも似たり寄ったりの声優ばかり」というのも苦手だけど。00年代後半~10年代初頭のアニメは、実力と個性のある若手声優たち[主に80年代生まれ]が大きく花開いて、アニメ最盛期という感じだった。)
 
 『錬金3級 まじかる?ぽか〜ん』(2006)が好きだったので、『のんびり農家』の雰囲気も水に合う。吸血鬼キャラや人狼キャラが同居していて、「日本語を喋ってはいけないゲーム」をするだけだったり、D/Aコンバータを買いにいくだけの話だったり、出オチの巨大ロボ出撃を延々天丼したり……。


 【 今後の展望に関して 】
 アニメ版『農家』は、出来事の順序や年単位の時間経過をいろいろアレンジしているようだ。これは、1クール12話だけできれいに完結させることを目指した構成だろうか。メインヒロイン=ルーを軸として、第1話と最終話が出産ネタでシンメトリーにしているのも、12話の範囲内でまとめきるための設計だと考えれば、腑に落ちる。アニメ版の筋書きは、おおまかに言えば、原作小説では単行本第2巻の途中(漫画版では第4巻の途中)までの進行に対応している。ここから先は、原作準拠だと武闘会を開催したり分村を作ったり洞窟探検したり温泉に入ったりするので、そのまま2期を作るとおそろしく散漫な進行になってしまうし。12話だけでの完成度を目指したのは賢明だと思う。
 
 ただし、明確な起伏が無くてもいくらでも続けられるというのが原作の特質でもあったわけで、アニメ版も「阿部敦をひたすら堪能できるお気楽アニメ」として延々続けていくこともおそらく可能だろう(※内容面でも、コンテンツ展開としても)。