2024年6月の雑記。
06/29(Sat)
オウム事件のインパクトは、サブカル(オタク)界隈にも影響していたのだろうか? 以前にも、「90年代半ばまでは、漫画ゲーム界隈にもアジア系のネタがごく普通に存在していたが、それ以降は急激に少なくなっていった」という話を書いたが、オウムの一連の事件は、そうした変化をもたらした一因だったのかもしれない。当時の空気はよく分からないが、フィクションで取り上げるヒンドゥー教ネタや仏教ネタが、中小カルト宗教の教義に当たってしまう可能性もあったわけで、そうした考慮から消極的になっていったということは考えられる。
もちろん、もう一つの大きな要因としては、00年代以降のネット(オタク界隈)の反中/反韓ムーヴメントの影響があったと思うが、それはまた別の(現在まで続いている深刻な)問題として。
いずれにしても、アジア系(大陸系)伝奇趣味は、SF小説『百億の昼と千億の夜』(1965)や特撮『レインボーマン』(1972-73)、漫画『3×3 EYES』(1987-2002)や『ふしぎ遊戯』(1992-96)、『封神演義』(1996-2002)や小説『十二国記』(1992-)など、ずっと展開されていたのが、今世紀に入る頃にふっつり途絶えていったのは、不思議な現象だし、もったいないとも思う(※ただし、小説『彩雲国物語』[2003-2012]や漫画『暁のヨナ』[2009-]はメディアミックス展開されたし、さらに近年では女性向けの後宮ものの興隆とともに、近世の中国宮廷を舞台にした作品も再び増加した)。
00年代以降のオタクたちの「美少女萌え」文化が、気宇壮大な世界観的ガジェットとは相性が悪かったという側面も考えられる。それについては美少女PCゲームの無国籍的な享楽空間も、間違いなくその一翼を担っていた。いや、これはけっして悪いというわけではないが、00年代~10年代の学園恋愛系は、キャラクターの背景設定に観念的-社会的-文化的な特徴を盛り込むのではなく、舞台設定に趣向を凝らしたうえで、それとは別に、個々のキャラクターについては萌え要素を自由に盛り付けるというアプローチが主流だった(例えば離島の学園、学生自治の強い学園、神様に見守られた学園、ファンタジー世界と交流する学園、モンスターに対抗するための人材育成学園、等々)。
湿度が高いのは、もちろん快くはないけれど、そんなに嫌いでもない。衣服がベタついたりするのを割り切ってしまえば、雨天の雰囲気は好きだし、真夏の酷暑や冬の乾燥よりはマシだと思う。自宅にいる分には、エアコンや扇風機でなんとでも対処できるし、シャワーを浴びればすぐにすっきりする。どちらかと言えば、湿気の問題よりも、外出時に傘で片手が塞がってしまう方がストレスかも。
ガールプラモの肩回転については様々な試行錯誤が為されてきたが、私見ではVOLKS「ルピナス」方式がベストだと考えている。「もう全部あれでいいんじゃないかな」と思ってしまうくらいには。いや、もちろん実際には、服飾デザインが特定の形状に制約されてしまうので、けっして汎用的とは言えないけれど、しかし今のところ最も洗練された構成だと言ってよいだろう。
KOTOBUKIYAの新作BDシリーズもちょっと似たような見せ方だが、構成の割り切りが中途半端だし、例の肩甲骨パーツを残しているのも不格好だ(※そのパーツを小さくしすぎているのも問題。あの肩甲骨パーツは、可動時の隙間を隠すためじゃなかったのか?)。
ILLGAMESの新作『サマバケ!すくらんぶる』(8月発売)は、ああ、これは『ジンコウガクエン』のシステムっぽい。服装のヴァラエティも増えて、髪型も総じてまともなようだ(※『ジンコウガクエン』では、着衣は制服と体操着の色替えだけだったし、髪型も珍妙なものが多かった)。
不安要因は、DL専売(パッケージでは売らない?)ではないという危惧が……。実際、第1作『ハニカム』はDL販売のみだったし、今作もgetchuなどに載っていないので、残念ながらDLオンリーと思われる。
それからキャスト陣も、残念ながら特筆すべきところが無い。『ジンコウガクエン』1作目(2011)と2作目(2014)は、10年代初頭のアダルトゲーム声優界が最も充実していた時期で、文字通り最高級のキャストを揃えていたのだが、そこから丸十年を経た2024年現在では、もはやそういう情景は望むべくもない。
私の中での作品評価の軸は、「コンセプトを明確に切り出しているか、そして、それを適切な演出で形にしているか」にある。だから、ゲームでもアニメでも、これ見よがしな金満演出は(作品全体の目標からずれていれば)低く評価するし、逆に、絵そのものの物理的な描き込みの物量が少なくても、あるいはゲームシステムが多少簡素であっても、作品全体の意味づけをしっかり体現するような見せ方をしていれば、高く評価する。例えば、美少女ゲーム分野でminori作品に対して否定的な姿勢を取り続けてきたのも、このような視点ゆえだし、漫画やアニメでも、作画フェティシズムのような褒め方は私の価値観とは相容れない。
ただし、声優フェティシズムの側面は私にもあるので、絶対的に一貫しているというわけでもないが。それでも、「作品全体のトーンに対してどれだけ彩りを付け加えているか、どのようなして作品全体の雰囲気を体現しているか」という視点で見ているので、声優による芝居の造形は、上記の定式化で言えば「演出」の一部として扱っていると言える。
私が尊敬する声優さんはたくさんいるが、それらはあくまで「表現技術が卓越している」、「芝居そのものに独自の魅力がある」からであって、外見や言動からファンになったり「(アイドルとして)推し」たりするという意識はほとんど無い。実際、立ち居振舞いがやたら控えめだったり、芝居に全人生を賭けているような方だったり、う○こ発言をSNSで連発していたり、ファンとの交流(ファンクラブやSNS)をしていなかったり、表に露出したがらない裏方志向の方だったりするが、芝居そのものは強烈なエネルギーと、際立った個性と、明晰な台本掘り下げで演じられているという声優さんばかりだ(※最もアイドルに近いのは、写真集を出した井澤氏くらいだが、この方も基本的には「アイドル声優」路線には分類されない職人気質の方だろう)。
声優に注目するきっかけが、アダルトPCゲームだったのは、とても良い入り口だったと思う。つまり、美少女ゲーム声優たちはいわゆる「裏名義」の存在であって、公然と表に出ることが事実上皆無だったし(個人としても無いし、イベントも無かった)、18禁ジャンルは「ものの分かった大人の世界」なので、偶像(アイドル)的に持ち上げるような気風は乏しかった。そして、肝の据わったゲーム声優たちの入念な芝居に向き合ってじっくり聴き込めるのがノヴェルゲームの美質だった。こうして私は、「アイドル声優」文化とは徹底的に無縁なまま、声優の芝居そのものを聴くという姿勢を維持してきた。今後も、アイドル文化や「推し」スタンスに接近することは無いだろう(※せいぜいのところ、Vtuberとしての活動をひそかに視聴するくらいだ)。
アダルトゲーム声優は、90年代後半に形成された新たな職種領域だったので、不公正な業界慣行や年輩声優からの圧力も無く、当時の若手声優たちがかなり伸び伸びと仕事をされていたようだ。さすがに完全にクリーンというわけではないが、むしろアダルト業界だからこそ、おかしなことが起こらないようにと事務所側も気をつけていたようだし、声優たちの側からも北都氏らの努力もあって、比較的まっとうな形で維持されてきたようだ。「アイドル」的な持ち上げが無かったのも、職人肌の声優たちによる技術最優先の真面目な仕事につながっていただろうし、ゲームならではの「一人ずつの個別収録で、キャラクター台詞を長時間ひたすらじっくり演じ続ける(喉が保てば、半日以上演じ続けることもあるらしい)」という収録形式も、芝居そのものへの集中を促しているだろう。
00年代半ば頃からは、当時のアイマス声優たちが参入してきて多少雰囲気が変わったが、それでも彼女らがアイドルとして振舞うことは無かった。ゲームと関連したwebラジオも人気だったが、それらもファンとの関係はあくまでクールなものだった(お題に沿ったメールを投稿しては、ラジオ内で読まれるという程度)。ただし20年代になると、美少女ゲーム声優たちがY/Vtuberとして自ら配信活動をすることが増えている。それらは、昔風に言えばヴァーチャルなアイドル活動そのものだと言ってもよいが、しかし同時に、古典的なwebラジオの延長線上にあるとも言える。
早川書房が、有名SF/ミステリ作品のコミカライズ配信サイトを開設するとのこと。
上手くいってほしいが、難しさもあるだろう。一つは「優秀な漫画家を起用できるか」。オリジナリティのあるSF世界の背景を描ききれる人材を探すのは、かなり難しいだろう。海外ミステリなどでも、ディテールの描き込みには、かなりの下調べが必要になる。考証スタッフや作画サポートスタッフの調達を含めて、クリエイターサイドとの人脈を早川書房が確保しているかどうか、いささか不安がある。ただでさえ、ここ十年以来、ネット小説のコミカライズ分野が大きく拡大していて、実力のある漫画家は取り合いになっていると思われるだけに。現時点で公開されている範囲だと、一定の実績/実力のある漫画家さんをしっかり起用しているようなので、おそらく大丈夫だろう。
既存のSF/ミステリ小説は、取り組みやすいネタではある。小説の単行本1冊は、漫画にすれば2~5冊程度(連載期間にして2~3年程度?)なので、良くも悪くも無難に結末まで連載しきれるだろう。ストーリーそれ自体は高い評価が定まっているし、知名度によるブーストもある。
ただし、大作SFの場合は、かなりの長寿連載が求められるし、思弁的性格の強い作品では、台詞だらけで漫画媒体ならではの面白味を作り出すのが難しいという場合もあるだろう。ミステリでも、ものによってはヴィジュアライズしづらいネタもあるだろう。出版社のスタッフについても、小説作品を別媒体に翻案する際の特殊なスキル/ノウハウをどこまで理解しているかが分からないが、なんとか上手くやっていってほしい(※「ただ絵にしただけ」のような、本当につまらないコミカライズも存在するからね……)。
前世紀だと、有名SFは漫画化よりむしろ実写(映画)化されることも多かったと思うが(とりわけ小松左京作品など)、2020年代になって国内出版社によるコミカライズシリーズが始まったというのは興味深い(※将来的には、CGによる映像制作がさらにリーズナブルになって、映像化作品がまた増えていくかもしれない)。
あの醜悪なヒマ界隈の蛮行については、「あんなのオタクじゃねえよ」「オタク文化とは無関係の輩だ」と言いたくはあるが、しかし、あれらがまさにオタクたちのここ二十年来の慣行を母体として生み出されたものであることは否定しがたい……まことに遺憾ながら。具体的には:
・陰謀論的性格 ← トレスパクリ検証のように、「俺たちが真実を発見できる」という信念。
・ミソジニー ← ヒロインの処女性を要求して暴走。「俺の嫁」宣言。女性に対する支配欲の噴出。
・マイノリティ差別 ← 中国や韓国に対するヘイト(実際、中韓系キャラが激減した)。
・体制迎合的性格 ← 「大人の事情」忖度ごっこや「推し」文化によって従順化した。
・内輪で固まって他者を攻撃する ← 集団で何かを楽しもうとする現代型オタクの行動。
・私利ベースの思考 ← 「楽しければ何をしてもいい」「えろ最優先」という放恣な姿勢。
結局のところ、この二十数年のオタク文化の悪いところや危なっかしいところを煮詰めて、邪悪な目的に全力で振り向けてしまったらどうなるかという、悲惨な実例になっている。
私は、ひとまずオタク文化の末席にいる一人として、「あんな奴等は私とは何一つ共有していない、何の関係も無い」と言いたいし、上記のようなトレパク糾弾運動にも処女ヒロイン要求にも差別的冗談にもアイドル推しにも集団的オタク活動にもエロ要素開き直りにも、一切関わってこなかった。しかしそれでもまた同時に、上記のようなオタク文化の負の側面を認識しつつそれらを看過してきたことについて、大きな疚しさがある。いや、何が出来たか、何か出来たかというと、分からないのだが……。
2010年代以来のSNSでご縁があったアカウントさんたちの中でも、私が特に親近感と敬意を持っていた方々は、幸いにして現在でも、社会的スタンスに関しても健全でいらっしゃるようで、それはたいへんありがたいことだと思っている。しかし、そこをほんの一歩出れば、プロフィールに「天安門」と書いていたり、あれやこれやの差別的投稿をシェアしまくっている人々がおり、それについてはとても悲しく感じている。
06/24(Mon)
モルモットを飼いたい欲求が再燃している。いや、モルモットでなくてもいい(ウサギやネコも飼ってみたい)のだけど、一人で飼うにはモルモットがちょうど良いのよな……。大きさも寿命も程々だし、エサの選り好みなどもしないし、性質は温和で大人しいし(=うるさく鳴かないし、噛んだりもしない)、飼育スペースもあまり要らないし、マイペースで過ごしてくれるので手間も掛からない。頭は良くない(躾は一切出来ない)が、なんとなく人間に慣れて多少のコミュニケーションを取ることはできる。高校生の頃に実家で飼っていたが、今ならもっと可愛がってあげられそう。
もちろん、飼育環境には気を遣う必要がある。温度管理も重要だし、排泄物もかなり出る。匂いは控えめだが、それでも狭い部屋で飼っていると獣臭がついてしまう可能性もある。また、つがいで飼うと繁殖してしまいやすい。オス同士は、喧嘩してしまう場合もあるようだ(縄張り争い)。しかしそれでも、それほど特別な設備が求められるわけではない。大型のウサギや、デリケートな爬虫類(ヘビとか)を飼うよりは、はるかに易しい筈だ。
齧歯類の一種だが、警戒心は低めだし、動作も速すぎず遅すぎずで愛嬌がある(逃げ回ったりもしないし、のろますぎたりもしない)。体毛もつややかで、明るいブラウンと黒白が大きく混じり合っていて、カラフルさと清潔感がある。臆病だとは言われているが、ある程度環境に慣れてくると物怖じしなくなり、かなり自由に寛いだ菅を見せてくれる。ぽっちゃりした胴体と短い四肢でトコトコ歩き回ったり、「なんかくれ」と鼻先を向けてフンフンしてきたり、たまに後肢で耳のあたりを掻いたりするのが愛らしい。
モルモットの飼育コストは、初期費用2~3万円程度(生体+ケージ+給水器など)で、維持費はフードと床材交換(+作業時間のコスト)でせいぜい月額数千円と思われる。哺乳類のペットとしてはかなりリーズナブルな部類だろう。
それでも結局、「模型制作をする(=どうしても有機溶剤が漏れる)空間」なので、ペットを飼うことはできない。残念だが、仕方ない。十分な換気と隔離をすれば、もしかしたら大丈夫なのかもしれないが、なにしろ生き物の命に関わる事柄なので、安易には試みない方がよいだろう。
多少近い種類のペットとしてウサギもいる。ただし、ウサギほどのサイズになると「獣だなあ」という印象がかなり強くなってくるし(※良し悪しだが)、飼育スペースも広めに取ってやる必要がある。それと、ウサギの眼はなんとなく猜疑心が強そうに見えて、ちょっと苦手に感じることがある(※野生動物が警戒心を持つのは当然なのだが)。その点、モルモットはあくまで小さなペットとして飼えるし(※もちろん生命に対して持つべき責任感は同じだが)、見た目もかなり能天気な表情に感じられる。
ハムスターだと、モルモット以上にコミュニケーションが取れないし、寿命も2-3年と短いのが悲しい。リスは、元気に跳ね回るので音がうるさいかも。
本当はネコを飼ってみたいのだけど、いろいろと大変そうなので、私には無理かな。
鳥類はそれなりに好きだが、鳴き声がうるさそうなので敬遠。犬は以前飼っていたことがある。爬虫類、魚類、昆虫などは、飼ったら面白いのかもしれないが、飼育管理に汲々とすることになりそうで、熱意を持てない。植物は、以前に観葉植物などを育てていた(増えた株を近隣の研究室にお裾分けしまくっていたくらい)が、飽きて久しい。サボテンも研究室の机の上にずっと置いていた(※SNSで使っている「cactus」も、ここから来ている。カクタスという発音から、もしかしたら本名は「角田」さんなのかと勘繰られていたかもしれないが、まったく何の関係も無い)。
ナコルル人気云々の話題を目にしたけど、そもそも前世紀(90年代当時)は、「萌え」と「エロ(お色気)」がけっしてイコールではなかった筈だ。
現代のオタクたちは双方をほぼ直結してしまうが、昔の「萌え」(という言葉が使われていた)は、「可憐なものに対する愛着、心惹かれる動き」を指していて、むしろそこにはセクシャルなアピールは含まれていなかった。どちらかと言えば、「非-エロス」な独自の心情的愛着として定義される方が適切だったくらいだ。そして、だからこそ、00年代前半の美少女ゲームで「萌えエロ」、つまりキャラクターに対する精神的な萌え要素と肉体的なエロス要素を結びつけた作品が、新鮮な衝撃をもって受け止められていた(※主に『フローラリア』シリーズ[2002-]がその道を開拓していったとされ、さらにそのアプローチは、00年代半ば以降のWhrilpool/ゆずソフトによって再編成された学園恋愛系に引き継がれていた……というのが私なりの歴史展望)。
そういった時代精神は、当時としては自明だったのだが、なかなか言語化されず、歴史に残りにくいので、現在の目からすると、「肉感的で露出の多いキャラよりも、清楚(※少なくとも外見上)で凜々しいナコルルの方が人気だった」という状況が理解できなくなってしまう。土萠ほたる、綾波レイ、マルチ(HMX-12)、岩倉 玲音(lain)なども同様で、当時のオタクたちの庇護欲を掻き立てるようなキャラクターや、ミステリアスな「ダウナー」キャラたちが人気を博していた。それに対して、露骨にマッシヴなお色気ヒロインたちは、かなり敬遠されていたと思う。
もちろん、二次創作などでは、萌えキャラに激しいベッドシーンを担わせるものも存在したが、それはストレートな結びつきではなく、「ギャップによる逆説的な刺激」という性格が多分に含まれていた。そういうデリカシー(?)の感覚も、おそらくほとんど消え去っているのだろう。
現代は現代で、「キャラクター間の関係のありように情趣を見出す精神的姿勢(典型的には百合関係)」と、「キャラクターの外見、とりわけ素肌露出や肉感性によるアピールを求める姿勢」が並行して存在しているが、こういった二元的な享受の構造も、あくまで現代に特有の文化であるにすぎず、何十年か経てば、何かしらの新たなキャラクター享受姿勢に上書きされて、過去のものとして消えていく可能性がある。あるいは、例えば、現代の過度に肉感的なキャラクター表現――巨大バストや腹部の肉付き表現や太腿ボリューム――は、後代には「珍奇でエキセントリックで古臭くて理解困難な趣味嗜好」と見做される可能性が十分にあるのだ。
Guilty Princessは、初期の使い回し連発からイージーな下着キャラ連発を経て、ようやく完全新規キットを出してきたようだ(来年1月発売の「グリムリンデ」)。
しかし、相変わらずこのシリーズは、何を目指しているのかが分からない。キャラ単体としての可愛らしさを目指しているのか、シリーズとしての広がりや雰囲気を構築しようとしているのか(例:chitocerium)、完成品フィギュアの代替的商品を目指しているのか(グッスマ)、組み替えやアレンジの楽しさを提供しようとしているのか(例:MD、FIORE)、既存キャラを使ってプラモデル市場に顧客を誘導しようとしているのか(例:BANDAI)……そういったコンセプチュアルな企図が見えてこない。おそらくは、「TONYデザインによる可愛らしいキャラを売り物にしてガールプラモ市場に進出する」ということなのだろうし、それはそれでシリーズとしての一貫した雰囲気があるし、やや大きめのサイズなのもプラモ単体としての存在感を増しているのだけど、それにしては武装も含めた造形が浅いし、頭髪造形のダルさや可動範囲の狭さやラインアップの貧弱さが大きく足を引っ張っている。
数年前に、一度twitterに復帰してみたことがあったが、フォロワー界隈では、何かしらのキャラクターイラストやどこかの政治的意見のRTばかりが大量に流れてきて、個人の生(なま)の息づかいが非常に見て取りづらい状況になっていた。正直に言うと、あれはたいへん悲しかった。いや、もちろん、自分自身の知性および感性と誠実に向き合いつつ、個人としての様々な意見を日々淡々と書き流していく方々も、依然として何人もいらっしゃったのだが、それはかなりの少数派になり、そうした言葉が埋もれるほどに、kawaiiイラストシェアRTや激しい争いのRTが吹き荒れていた。もちろん、フォロー関係を一歩出れば、さらに攻撃的な投稿や、無責任なぶら下がりリプライ、宣伝投稿などが溢れていた。
だから、mastodonサーバーに入ってみたら、メディアシェアが極端に少なくて、一人一人が他者のコンテンツに依存せずに、自分自身の言葉を堂々と発しておられるのが、とても嬉しかった(※ただし、pawooとかmisskeyのようにコンテンツシェアサーヴィスとしての性格が比較的強いところもあるけど)。
結局、そこからも離脱して、今はこうして再び個人ブログに引き籠もっているわけだが。ソーシャルメディアはたまに見るだけにして、自分自身の思考を定期的に言語化し整理し展開していくというのが、私の性に合っているようだ。誰の目も気にしないで延々と再編集(加筆/推敲)ができるのも良いし、リアクション通知にストレスを感じることも無い(※ごく簡単なアクセス解析がbloggerサーヴィスに実装されているが、具体的な情報はほとんど得られないし、そもそもアクセス数が非常に少ないので……)。
「木村あやかさん出演情報」の御方は、もう活動していらっしゃらないのかな……。
Vtuberとしての出演は、もちろん「出演」(表に出て何かしらを演じる)ではあるのだが、出演歴としてはなかなか記録しにくい部類の活動だ。
今回の創彩「小石川エマ」の新機軸は、スカートの白ラインをパーツ分割で構成しているところかな。新機軸というほどのものではないが、「佐伯リツカ」では塗装済みワンパーツだったのが構造変更されている。コスト面では、パーツ分割の方がリーズナブルだが(※フリルパーツも同じランナーに入っており、ラインだけのためのランナーではない)、しかしパーツ精度によっては組んだときに凸凹が目立ってしまうデメリットもある。ランナー数を減らした「ライト版」を同時発売したことや、腹部ボタンが無塗装になっていることに鑑みても、コストダウンを最優先にしたパーツ設計という印象。
ちなみにフル版には、「ドン引き顔(フェイスパーツ)」「しゃがみ下半身」「捻り胴体」の追加パーツがあるのだが、税抜7000円と5800円でわざわざ2種類発売した意味があったかどうかは、いささか疑問がある。ちなみに個人的には、フル版のパッケージアートよりもライト版の立ち絵イラストの方が好み。
プロポーションについて見ると、小柄キャラだとしても頭部が大きすぎる。最近のガールプラモでは、全身が寸詰まりなわりに頭部だけは大きいままというのが散見され、個人的にはあまり好みではない(30MSとかも同様)。
しかし、「創彩」シリーズでは頭部の規格を統一している(というか、フェイスパーツの互換性を確保している)都合上、どうしても頭部サイズに制約が生じてしまう。キットごとの完成度を取るか、それともシリーズ全体としての拡張性を確保するかは、構造上なかなか両立しきれない問題なので、ある程度は仕方ないのだが……。
頭部だけの問題ではなく、肩幅や首の長さ、頭髪の広がり、さらには色彩効果(膨張色/収縮色)なども影響して総合的な印象が形作られるし、さらにガールプラモ(立体物)の場合は、見る角度によっても印象が変化するので、サイズ感やシルエットバランスをコントロールしきるのはきわめて困難だろう。
交換可能なヘアアクセサリーパーツが5種類も入っているのは面白い。たしかに、つけかえ自由な小物をたくさん入れるのは、ローコストでかなりの印象変化を提供できるので、かなり有効なアプローチだろう。完成品フィギュア(figmaなど)では、以前から行なわれていたテクニックだと思うが、ガールプラモ分野としてはかなり珍しい。ただし、PVCと比べて、PS/ABSでは極小アクセサリーパーツは外れてしまいやすいので、いささかリスキーな手法ではある。
同様に、30MSの場合は、頭頂部で様々な装飾パーツを付け替えられるようにしているが、あれはあれで作為的に過ぎるし、ラインアップも乏しいし、穴埋めパーツを紛失しやすいので、あんまり好みではない。スマートな解決法は、なかなか出てこない。
アニメのPVは、どうしてああも乱雑に、作中の印象的っぽい台詞音声をベタベタ貼り付けまくるのかねえ……。取捨選択と美意識を欠如しているという意味では、「細かな情報を詰め込みまくり敷き詰めまくる日本の雑誌表紙や映画ポスター」と同種の下品さに思える。映像面でも、本編からのつぎはぎだけで面白味も乏しいし、まとまった流れもなくて非常に安っぽい。それでいて、オタクショップなどで延々流れているし……。
美少女ゲームのデモムービーでは、そういう台詞をオーバーラップさせることは稀で、楽曲と映像をしっかり見せつつ、最後に一言二言入れるだけで済ませている。もちろん映像それ自体も、音楽と歩調を合わせるようにチューニングされている(※その最も有名なものがAC-Promenadeの一連の業績だが、もちろんそれ以外の制作者も当然ながら、楽曲と合わせるように既存素材を丁寧にコラージュしている)。女性向けゲームなどのPVも、洗練されたものが多い。
こんなふうに、アニメ分野は、大金が掛かっているわりに、美術的クオリティには不満を覚えることが非常に多い。最近では、VFX制作のコストが下がったためか、緻密なデジタルVFXをよく見かけるが、それとともに集合体恐怖(※グロいので絶対に検索しないように!)を引き起こしかねないほどのブツブツエフェクト乱舞もかなり増えてきて、そういう映像的デリカシーの欠如には嘆息している。
ちなみに私自身は、集合体のダメージはほとんど無い。ただし、そういうアニメ演出を見て、「あっ、これは集合体のキモいやつだ、人によってはきついだろうなあ」と気づくくらいには反応できる。
行きつけの模型店で、ガールプラモを含む作品コンテストが開かれるので、たまには参加してみようかと考えている。普段お世話になっているお返しとして、店舗イベントを盛り上げるのに多少なりとも貢献したい。とはいえ、最近はしっかりした制作をしていないから……見栄えがするのは、昨年制作の「金潟すぐみ(臥薪)」あたりまで遡ってしまうかも。
こういう時は、VOLKSキットや海外キットを使うのはちょっと気が引ける。もちろん、NGということは無いのだが、競合店の商品を使ったり、国内メーカーのセールスに結びつかないキットを使ったりするのは、店舗側としても嬉しくないだろうから。もっとも、こういう配慮はドメスティックな排外的意識につながってしまいかねない危険性もあるので、あえて海外キットでエントリーするという選択肢も考えておきたい。
06/13(Thu)
最近、ちょっと空いた時間にオンラインで「ナンプレ」ゲームを遊ぶことがある。しかしこれは、一定の解法を把握した後は、特別な知性の働きをなんら必要としない、徹頭徹尾単なる手すさびの時間潰しにすぎないとも思っている。
例えばワードパズル(クロスワードやWordle系)であれば、大量の単語を思い浮かべるプロセスが知的刺激になるし、自分が使える語彙も増えるだろう。また、高校数学などの問題であれば、本当に実用性と一般性のある公式に習熟していく練習になる。しかし「ナンプレ」は根本的には、パズルとしての深みや知的発展性は皆無だ。手軽ではあるし、歯応えのある問題もあるのだが、そこで使われるロジックそれ自体はごく単純なので、こういうのに一問10分も使うのは人生の無駄だと思ってしまう。とはいえそれでも、ちょっと空いた時間などについつい手を出してしまうのだが(※ちなみに、解法を理解していれば、高難度問題でも10分少々でノーヒントクリアできる。最高難度だとさすがに20分以上掛かるが)。
もちろん、趣味として堂々と取り組める人ならば、それはそれで良いと思う。ジグソーパズルに打ち込んだり、知恵の輪を楽しんだり、ルービックキューブの早解きを追求したり、あるいはそれこそ模型制作をするのだって、ダラダラやるだけでなく、人生の趣味として楽しむこともできる筈だ。私の場合、ここ一週間のナンプレ遊びは、間違いなく「ダラダラの娯楽」になっているのが問題なのだ。というわけで、そろそろ切り上げるつもり。
私自身は、孤独に耐えられる部類の性質だと思うが、それでも「人寂しさ」の情動は持っている筈だ。しかしそれが表面化しないのは、毎週の講義があるおかげなのかもしれない。
要するに、「こちらが一定の主体性を持ってコミュニケーションしつつ(つまり、受け身のストレスフルな会話ではなく)」、「(少なくとも私自身の主観および姿勢としては)ポジティヴな精神的活力をもって話題を掘り下げて伝えようとする会話を(つまり、単なる上っ面の冷たいやりとりではなく)」、「それなりに多様であり、なおかつ毎年きれいに更新される相手たちと(つまり、マンネリにならない)」、毎週繰り返しているから。
中には、会話が成立しにくい受講者もいるし、○○な学生もごく稀にいるけれど。しかし全体としては、あまりストレスにならない相手だ。私の側としても、授業の雰囲気はギスギスしないように気を遣っているから、かれらの側としてもトゲトゲしたりダラけたりストレスを感じたりはしにくい筈だ。
年内(下半期)のガールプラモは、何を買おうかな。
○6月:創彩「小石川エマ」。着衣キャラの構造に進歩があるか?(胴体捻り?) 買えたら買う。
△7月:FRS「ルナマリア・ホーク」。たまにはFRS新作をチェックしておきたい。買えたら買う。
◎7月:PLUM「ずんだもん」。新メーカーの技術確認(※厳密には、以前にSDキットがあった)。
△8月:annulus「新条アカネ(N.O.)」。これまでの出来が良かったので、買えたら買う。
○8月:VFG「フレイア・ヴィオン」。VFGには最近ご無沙汰していたので、買えたら(以下略)。
△9月:PLAMATEA「初音ミク(16th.)」。新ブランド……だが、レーシングミク(2023)もあったし。
これら以外も、店頭等でのカジュアル買いやキャラ買いなどをすると思うが、市場的-コンセプト的に気になるのはこのあたりかな。海外メーカーも、だいたいの傾向が固まってきて、新機軸や挑戦要素がなかなか見えてこない感じ。ガールプラモ(女性型の組み立てプラモデル)という形式が市場的に定着して、ただ単に「ガールプラモの新作」というだけでは訴求力を持ちにくくなり、製品の特質を際立たせるようにいくつかのアプローチを追求するようになってきているようだ。すなわち:
1: キャラグッズ化。具体的には、既存キャラのメディアミックス的プラモデル化)。BANDAIやグッスマ、そしてAOSHIMAのVFGも既存アニメキャラを連続投入するようになっている。
2: 組み立てプラモデルそのものとしてのポテンシャル掘り下げ。具体的には武装盛り付けや組み替えの楽しみを提供する。BANDAIとKOTOBUKIYA。VOLKSも頑張ってはいるが……。
3: 低価格化による市場席巻の試みと、高価格&高付加価値によるハイエンド志向の二極化。各社ともに、価格抑制に心を砕いているのが見て取れるが、あんまり小さくまとまっても面白くはないので、たまには派手なキットを出してほしい。
構造面では、BANDAIの『水星』制服シリーズ(2022-)のように、着衣キャラで肘関節のぎこちなさを解消する試みがあり、annulus「宝多六花」も頑張ってはいた。
プラモを安定して立たせられる接地確保手段については、KOTOBIKUYA(Buster Dollシリーズ)が足元を補助する小型の簡易スタンドを提供した。一部のプライズフィギュアなどでも採用されている方式だが、ガールプラモでも、まあ、ありかなと思える。
BD「タンク」は、かなり人気が高いキットだったのかな。ちょっと意外だ。年上(姉属性)キャラは、これまでの国内キットには少なかったのだが、その稀少性が奏功したのか、それとも、潜在的には需要が存在していたのを掘り起こせたのか。
年上っぽい雰囲気のキットは、KOTOBUKIYAの「カタクラ・ソフィア」(長身で面長)、BANDAIの「ローエングリン子」(娘のいるキャラ)、VOLKSの「ローズ」「リリィ」(かなりのスレンダー路線)くらいで、かなり少ない。ただし、広く取ればKOTOBUKIYA「KOS-MOS」「シキ(朱鬼姫/藍鬼姫)」、FAG「ドゥルガー」、「ルーデンス」、MD「ロードランナー」、MD「弓兵」、MD「グランマ」(ただし外見はそれほどでもない)、chitocerium「platinum」、VOLKS「ドラセナ」「ルピナス」、30MS「ネヴァリア」、AOSHIMA「ムサシ」、それから固定ポーズキットの「血の魔人 パワー」「マリリン・モンロー」なども20歳以上のように見えるけど。基本的には、高校生以下の年齢感のキャラクターがほとんどなのは、いかにも日本オタクの「美少女」文化らしい。それに対して中国メーカーのガールプラモが年上キャラ優勢なのは、文化的な違いがはっきり見えて面白い。
06/07(Fri)
美少女ゲームの話もしたいけれど、こちらは「買うタイミング」と「プレイするタイミング」がバラバラなので、まとまった形でテキストにするのが難しい。
先月(5月)発売だと、『スカイコード』はMELLOWらしい、痛みのある幻想的な恋愛物語になりそう。『淫魔淫姦』はシルキーズSAKURAで触手もの。『義妹・実奈美』は綾風氏原画。『小悪魔ナース』はモグぽん氏原画で、楽しそうではある。この「とこはな」ブランドはWiLL系列で、現在も順調に新作リリースしている。そして、とこはな作品でも原画をしていた蒼都かりん氏は、今月のアパタイト『彼女の妹の』でも原画を務めている(※アパタイトでは5作目になる)。しかしアパタイトは脚本が玉石混淆で、ハズレを引くとたいへん悲しい。そしてTriangle『魔法閃士フェアリーバレット』もある。妙なアクティベーションを付けているのでずっと購入を躊躇してきたが……。ともあれ、この月は、蒼乃むすび氏が大活躍。
と、こういった感じで、事前の見通しや注目点(検討要素)を書くことはできるのだが、すぐにプレイして内容的な感想を書くことはできないし、こういうメモだけを書き残していくのも……うーん。
ガールプラモ年表(≠発売予定表)も、ずっと更新し続けているが、独力ではいつまで続けられるか分からないので、どこかで引き取って続けていってくれたらなあ……。これまでの情報はまとめてwikiに移植しておいて、あとは匿名の人々が更新してくれることを期待する(私自身もwikiをできるかぎり更新していく)という手もあるけど。
年表データとしては、海外メーカー製品を組み込めないのがつらい(というのは、海外キットは正確な発売月を特定するのが難しいし、日本での発売時期も不明瞭なので)。
私は徹底して、「群れないオタク」、「孤独のオタク」であり続けてきたなあ……。いや、もちろん個人的に尊敬するオタクな方はたくさんいるし、「オタクである友人」もいるけど、肩を組んで一緒の活動をすることは事実上皆無だった。
あえて言えば、かなり以前に一度だけコミケットの共同買い出しをしたとか、それと関連してオタク街を一緒に買い歩いたとか、漫画ファンサイトの掲示板で定期的に発言していたとか、ほんの数回だけ模型展示会に参加したとか、まあ、そのくらいはあるけれど。そして、即売会の会場設営などの参加的活動も、機会があればしたかったけれど。SNSでも、同好の士に積極的に話しかけていくことは、ほぼ絶無だった。
アイドルイベントに参加してみんなで盛り上がるのも(現代型の)オタクの一形態だけど、私はそういうのは苦手かな……。共同体験を楽しむよりも、クールな情報のやりとりだけに終始する、いわば「マニア」寄りの趣味人スタイルの方が、私の性に合っている。もっとも、同好の士から話しかけてこられた場合には、ちゃんとフレンドリーに応答するくらいの心積もりはあるけど、こういう寡黙なオタクにまでわざわざ話しかけてこられる方は――幸いにも?――ほとんどいないので、ずっと一人静かな趣味生活を送っている。
好きな作品はアニメ化してほしくないというのが私の原則的な立場。その宣伝力のせいで、そのコンテンツに関する多くのものがアニメ版準拠にされてしまうし、検索結果などもそちらに圧倒されてしまい、原作の情報が埋もれてしまう。絵素材それ自体としても、アニメの絵はゲームのイベントCGやアクスタのイラストと比べて数段落ちるわけで、キャラの(外見上の)魅力という意味ではそんなに面白いわけではない。
それと引き換えに、原作の知名度も上がり、原作者の懐も潤い、コンテンツ(連載)存続の可能性も上がるというメリットはあるが、しかし、アニメ化されるのはすでに十分な人気を博しているものばかりなので、一読者としてはそれほど嬉しいわけではない。例えば、「単行本5巻くらいで細々と続いているが、内容面ではとても優れている」というようなマイナーな作品を、アニメ産業の目利きが取り上げてくれるならばありがたいけれど、実際にはそういうことはほとんどしてくれず、すでに一定の人気のある堅実な作品に後から食いついてくるのが大半なようだ。そういうところが、「後から来て出しゃばる」ように見えてしまう。
それに加えて、アニメ産業の(主にアニメーターに対する)搾取構造も、けっして好意的に見ることはできない。せめて、もうちょっとフェアな経済関係になっていってくれたらとは思うが……。
もちろん、個別に見れば優れたアニメ版作品はたくさんあるし、それらの芸術的価値は高く評価しているが、それを作り出している産業構造に対する評価(批判)は、また別問題だ。
公的機関(コラボ宣伝事業)や赤十字(献血ポスター)なども、既存の有名コンテンツに乗っかるものが大半に見える。定量的な判断は難しいが、間違いなくその傾向は強いだろう。そういうのは、再分配機能としても、文化振興としても、けっして良いことだとは思えない。
もっとも、マイナーな作品やマイナーな個人Vtuberといきなりコラボしたら、それはそれで不公正な何かではないかと疑われてしまいそうなのが、なんとも難しいところだが。
『第七王子』のページが長くなりすぎたので、魔術一覧を切り分けた。
「Mr.セメントSP」が、ここ半年ほどずっと品切れ状態なのは何故だろう? プラを即時&強固に接着してくれる流し込み式接着剤で、とりわけスケールモデルのデリケートな極小パーツを、点付けでしっかり固定してくれるのがありがたいのだが、ずっと在庫切れが続いている。
常用するのでストックを多めに持っていたから、現時点でも2瓶ぶんほど手許にあるし、どうやら今月くらいからリニューアル販売されるらしいので、あまり心配していないのだが、それでも店頭で品切れなのを見る度に、どうしてもヤキモキしてしまう。
特にHASEGAWAの航空機の極小パーツや、カーモデルのサイドミラーなどは、接着面積が小さいので、通常の接着剤では取り付けが難しい。艦船模型の船体パーツをがっちり接着する際にも、Mr.セメントSPの溶解力=接着力はたいへんありがたい存在だったし、戦車モデルの履帯パーツを組み合わせていく際にも、接着速度のおかげでスムーズに作業進行できた。もしもこれが無かったから、制作効率に10%かそこらの違いがあっただろう。そのくらい高性能な接着剤だ。
(※他社製品にも、良い接着剤はあるのかもしれないが、あまり調べていない)
SNS上でのモデラーたちの行動もよく分からない。ちょっとした話題に大量のマニアさんたちが出てくることもあるし、その一方で、かなり大きな市場的変化(目立った新商品など)があっても、それに関する言及がほぼ皆無で、まるで誰も買っていないように見えるという場合もある。
06/02(Sun)
今年1月からの雑記欄は、2ヵ月ごとに一ページにまとめているが、平均すると月間15000文字程度は書いている。これなら月単位でページを分けてしまっても良かったかもしれない。しかし、分量やペースには波があって、あまりに中身が少ない月があるのも居心地がよろしくないので、さしあたりは「2ヵ月で1ページ」にしていく予定。
波があるとはいえ、平均すると一日に500文字程度(SNS投稿であれば100文字×5投稿相当)だから、それなりには継続的な活動実態があると言えるだろう。
夏アニメは、視聴予定はゼロ。
[ https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=5806 ]の一覧を見る限りでは、
・恋愛:12本
・洋風ファンタジー:10 + 異世界:8
・SF:5
・動物:5
・歴史/和風ファンタジー:4
・アイドル:1+ チア:1 + Youtuber:2
といった感じ(※掲載されているのは58本。再放送等を除く。カウントは大雑把で、間違いがあるかも)。2010年代風の魔法少女もの(1本だけ)やグルメもの(1本?)はほぼ消滅している。ロボットものは今期1本だけ、スポーツものはゼロ。VRものも無い。その一方で、恋愛もの(現代日本舞台の思春期もの)が増加している、アイドルものも、一ジャンルとして定着したようだ。
出演声優については、早見沙織8本、沢城みゆき6本、悠木碧3本、日笠陽子/小清水亜美/ファイルーズあい各2本、福原綾香/富田美憂/戸松遥/藤田咲/赤﨑千夏/田村睦心/ゆかな/種﨑敦美/小林ゆう/長縄まりあ/桃山いおん各1本(※全体ランキングではなく、私が注目している声優さんのみを抽出。既発表以外のサブキャラや後半登場キャラでカウントが増える可能性あり)。
監督で見ると、神戸守(『小市民シリーズ』)、岸誠二(『ケンガンアシュラ Season2 Part2』)、錦織博(『デリコズ・ナーサリー』)がある。
シリーズものや2期以降は10本。内訳はシリーズものが5本、2期目が3本、3クール目が2本。原作の無い(先行するメディアミックスコンテンツが無い)オリジナルアニメは、『現代誤訳』『菜なれ花なれ』の2本だけで、かなり寂しい。
2023年秋クールでは、[ https://social.vivaldi.net/@cactus4554/111043772095194606 ]こんな様子だったから、かなり変動が激しい。というか、各作品の成立事情が様々だし、公開タイミングもまちまちなので、ちょっとした事情でクールごとのラインアップが大きく異なり、単純な比較はできないと言うべきだろう。
視聴するとしたら、キャストの充実している『SHY』2期(※1期は未視聴)と『ばいばい、アース』、藤田氏出演の『しかのこ』、小清水氏レギュラーの『ハズレ枠』、神戸守監督のミステリもの『小市民シリーズ』、オリジナルアニメ『菜なれ花なれ』あたりが候補になるかな。『逃げ上手』『負けヒロイン』は原作/漫画を読んでいるが、アニメで観たいとは思わない。
Jochumという文字列は、どうしても「ヨッフム」と読んでしまう(※そういう名前のドイツ系指揮者がいた)。今期アニメのタイトルとしては「ジェオチャム」と読むらしい。
漫画版『第七王子』の石沢庸介氏は、普段の連載がほぼカラー漫画になっている(!)おかげで、第168話は「あえてモノクロページにすることによって、特別な演出効果をもたらしている」という状況に……。常人(通常のモノクロ漫画)には真似できない神技的演出じゃないか……。
一人称を「漫画家は~」と書くほどの、漫画創作に一途な漫画バカクリエイターさんが、魔術探究に一途な魔術バカキャラクターの物語(原作)に巡り会えたのはきっと幸せだと思うが、それにしてもここまで自由闊達に漫画表現の楽しさを展開し続けておられるとは……。
石沢氏は、ご自身が描いた作品(描写)のことをなおざりにせず、しっかりと記憶(把握)し続けているようだ。以前に使われた台詞や構図を巧みに転用しているのも、それを証立てるものだ。例えば、「お前にそんな選択肢はない」(第4巻30話→5巻47話)や、「戦力は十分の一?」(103話→137話)、「モヤモヤした」(115話→129話)などの台詞は、時にはユーモラスに、時には心情の重ね合わせとして、優れた演出効果を挙げている。レイアウトの面でも、黒竜砲のポーズ再現(79話→104話)や、ディガーディアに着座するロイドの姿(104話→137話)など、繊細な二重写しのレイアウトを織り込んでいる。山を消し飛ばす絵(38話→117話)も、おそらく意識的なもの。こうしたところにも、漫画(家)としての掘り下げと卓越が見出される。
絵のコントロールに関しても、例えば手塚治虫、水木しげる等の古典漫画へのオマージュとおぼしき演出的なタッチも散見される。そういう点でも、漫画一途、漫画バカ、つまり純粋で徹底的な漫画家なのだと思う。
2020年代になっても、いまだにオタク文化は、「未成熟な少女を愛でるロリコン」という形で語られてしまうのか。00年代に石恵氏が進出してきた頃からずっと、(男性)オタク文化は前世紀的なそういう風土とは手を切る方向に進んできたと思うのだが。
それは、イラストとしてはマッシヴな肉感性の強調(素肌の立体的な着彩やバスト巨大化)として現れ、ストーリー面では男性(主人公)の存在をもはや必要としないヒロインたちの関係描写を当然のものとして受容してきたし(とりわけ百合ものが典型的)、キャラクター表現としても、自立的に活動する女性キャラクターたち(の楽しげな様子を読者が鑑賞すること)が、ごく普通のものになっている。主人公を支える控えめな「奥さん」「家内」スタイルのヒロインは、かなりマージナルな趣向であり続けている(※というのは、それではヒロインの魅力や個性が表現できないし、ストーリー面でもキャラが動いてくれないから)。こうした意味で、オタク文化を巡って発生した現代の(社会的)諸問題をロリコン文化に還元して説明しようとする試みは、ほとんどが見当外れの空論であるように思われる。
ただし、上記のような路線変更は逆説的に、「可憐な少女を大切に扱う」という側面を切り捨てたことをも意味している。18禁同人分野が典型的であるように、現代の(主に男性の)オタク文化は、セクシャルなイメージを若年女性キャラクターたちに無遠慮にぶつけまくるようにもなっている。それは、個人的には、けっして良いことだとは思わない。
「虚像としてのヒロインたちの活躍を、外部から鑑賞する(ただしその派生として、セクシャルな視線を作品の外部から無責任に読み込む)」という現代的な姿勢と、「可憐で従属的なヒロインの前で雄々しく振舞ってみせるフィクショナルな体験享受(つまり、作品内部に性差別が織り込まれている)」という前世紀的な姿勢は、どちらも大きな問題含みなのだが。
木村あやか氏がVTuberデビュー。Ch登録者は6月3日現時点で1300人超。
私も、できるかぎり配信に付き合っていきたい。幸いにも、アーカイヴ視聴できるようだし。
イチゴ&コーヒーとは、ちょっと不思議な取り合わせだが、「ストロベリーカフェ」とか「コーヒースポンジのショートケーキ」だと考えれば、それもありかなと思える。
配信第2回。
北見さんがフラミンゴで、北都さんがカンガルー……?
私が木村氏の芝居を意識するようになったのは、いつ頃だったかな。00年代半ばに、Black CYC(2004年の『MinDeaD BlooD』)や、Purple Software(2005年『秋色恋華』)、studio e.go!(2005年『鬼神楽』)、Whirlpool(2006年『いな☆こい!』)などのブランドに繰り返し出演されていたのがきっかけだったかと思うが、決定的だったのは2007年かな。『夏めろ』『Chu×Chuアイドる』『ツナガル★バングル』、それから『明日君』(沢野みりか名義)。2008年頃になると、木村氏自身も個性を確立して、『朝凪のアクアノーツ』『とっぱら』などで優れた演技を披露されていた。
配信コメント欄に、『ヤミ帽』(2002)や『Maple Colors』(2003)の頃からの超古参ファンが何人もいらっしゃるのが凄い……。
『第七王子』アニメ版の第10回は、内容面でもクライマックスに入っているので、作画の面でもたいへん力の入った回になっている。個人的には、360度カメラのカットよりも、不意打ちをしてきた魔人が高速で跳ね回るところが好き。これ見よがしな作画披露的アニメーションよりも、速度感や力感を演出するためにアニメーションの機能性を活用している方が、私の趣味に合う。
キャスト面では、今回の上田燿司氏が圧巻の出来。魔人キャラらしく、人間味のない底知れぬ妖しさと、言動の非人道的な邪悪さ、腕利き剣士としての強キャラらしい迫力、そしてわずかに愛嬌を滲ませるところも含めて(※なにしろキャラクターの外見は、まるでハンプティ・ダンプティのようなタマゴ型なので)。台詞の発声もきわめて明晰で、言葉にきちんと意味の乗った説得力がある。これは良い芝居。
漫画版の独自サブキャラ追加は、この8級魔人から始まったと言える。次の教会編でも、ラスボスとともに何体もの中ボスキャラたちが登場して、味方側キャラクターたちと激戦を繰り広げるし、現在web連載中の魔物大暴走編も同じような構成になっている。迫力のあるバトルシーンを描きつつ、それ通じて各キャラクターたちの心情を丁寧に掘り下げているのが魅力だ。ただ戦うだけでなく、味方側キャラクターの志操や責任感や目的意識を描いたり(例えばタオ×リッチ)、敵側キャラクターについてもかれら自身の人生の経緯と鬱屈を掬い上げようとしている(例えばシビル・ウォーやブラックドラゴン)。もちろん主役のロイドについても、魔術研究に専心するその特異な価値観と、そこから立ち現れる世界観の美しさが、原作小説にも増して鮮やかに描かれている。