2014/02/27

天使;『さよならを教えて』

  美少女ゲームにおける「天使もの」。『さよならを教えて』について。


  天使もの……『ねがぽじ』(2001)、『さよならを教えて』(2001)、『黒と黒と黒の祭壇』(2002)、『らくえん』(2004)……。現在では中世西洋風ファンタジーの一要素として日常化した存在だが、00年代初頭には、今とは随分違った形で、妙な「天使」流行があったかのように思える。いや、これは実際には恣意的な抽出でしかないが、この時期に現れたPCゲーム史上の刺激的なマイルストーンのいくつかが「天使」モティーフとともにあったという偶然はちょっと面白い。『ねがぽじ』においてはセンチメンタルな象徴的イメージと超自然的な身体的特質の表現として。『さよならを教えて』においては狂気に溺れる主人公の意識をリードする諸観念(妄想)の中心的存在として。『黒と黒と黒の祭壇』においては朱門氏らしい物語の柄の大きさを受け止めるイマジネーションの基盤として。そして『らくえん』においては焦燥感に満ちた作中作とキッチュなコスプレ(作中登場人物たちが実際にそのコスプレをする)の双方を架橋するものとして。
  もう一つ、魔法少女に対する呼称の一種として頻繁に使われてきたという流れもあるか。タイトルで明示されているだけでも、『流聖天使プリマヴェール』(2000)を皮切りに、『超昂天使エスカレイヤー』(2002)、『魔法天使ミサキ』シリーズ(2003-)、『魔界天使ジブリール』シリーズ(2004-)、『光臨天使エンシェルレナ』(2005)、『夢幻天使エクスシア』(2006)、『聖炎天使エレアノール』(2007)、『触装天使セリカ』シリーズ(2008-)、等々。
  ちなみに『黒と~』の脚本家朱門氏は、のちにふたたび『天使の羽根を踏まないでっ』(2011)というタイトルを制作主導した。


  『さよならを教えて』は、当時は『逸脱』や『好き好き大好き!』と並べて変態主人公ものの一つとして語られていたと思うが、最近では「電波」だとかなんとかいって妙な方向に神格化(あるいは神秘化)されてしまっているようで、どうも居心地が悪い。たいへんな傑作であることに異を唱えるつもりは無いが。狂った主人公というコンセプトをAVGで実践する面白さだけでなく、むしろその設定のおかげで実現できたと思われる様々な表現――橙色に染まりきったゲーム画面(美術設計)、饒舌かつ詩的なモノローグ(文体設計)、複数台詞の同時多重進行演出(の最初期のもの)、ゲーム進行の大胆な飛躍(進行管理)、テキスト表示の時間的推移や選択肢遊戯といったゲーム媒体ならではの仕掛け(デジタルゲーム的ギミック)、なまめかしいクローズアップ演出と鮮烈なフラッシュバック演出(視覚的演出)、「天使」という特定の視覚的イメージによって導かれる物語(ストーリーの視覚的象徴化)、重々しさと浮遊感を行き来するBGM群の妙趣(分厚い雨音やチャイム音の歪みをも含む音響表現)、等々――の方が、私にとっては貴重だった。「主人公の狂気」というコンセプトがあればこそ、これらの演出を、このゲーム空間全体のこの手触りとこの奥行きとこの色鮮やかさとこの美しさを、そしてこの豊かなロマンティシズムを、プレイヤーに対して十二分に説得することができたのだ。
  しばしば引用される「そうです。あのコが僕の畏敬する天使様なのです」は、主人公の深刻な狂気を(作中の他のキャラクターに対しても、そしてプレイヤーに対しても)誤魔化しようのない形で初めて明確に具体化させた瞬間の台詞。三択の選択肢場面で、彼女が天使であることを否定しようとする選択肢のいずれをプレイヤーが選んでも、主人公の口はそれに逆らってこう述べるという(作中状況としてもゲームの挙動としても逸脱的な)異常行動。この生硬な文それ自体はけっして好きではないが、作品にとっては重要なパラグラフである。