2014/02/22

政治的対立、民族紛争、差別的社会関係

  美少女ゲームの中で描かれている政治的対立、民族紛争、差別的社会関係等について。


  【 はじめに(?) 】
  特定個人を指弾したいわけではないが、うーん、今時「『Tactics Ogre』みたいなストーリーを~」なんて言っちゃう人がいるのか……。もちろん、あのタイトルの脚本面に固有の美質として、民族間の対立や差別がゲーム作品の劇的状況を構成するネタになるという着眼点の秀逸さはあるし、そしてそれを露悪的に(しかも全年齢タイトルで)強調してみせた野心的挑戦は称賛されるべきだと思うし、それがシステム面でも味方側ユニットと他勢力ユニットが完全に同等に扱われている(だから「説得」によってそのまま自軍ユニットに編入できる)という点にまで徹底されているところは素晴らしいし、ゲームシステム全般についても単一の全体マップを4章掛けて歩き回る面白さもありはしたのだが。しかしながら、そのような具体性を欠いたまま権威的な見本として特定作品の名前を挙げて「~っぽいもの」を追い求めようとする姿勢は、肯定できない。ましてや、「~みたいなものが○○(ジャンル)には無い」というような大雑把で保守的で受動的で無知な発言はできない。パロディというエンターテインメント要素を媒介させることすらせずに、特定作品の模倣的再現を他の作品に求めるようなナイーヴな発言を創作物(のジャンル)に向けるセンスは、耐えがたい。

  批判ばかりでは仕方ない。構成要素を多少具体化しつつ一般化して、「政治的対立」「民族的対立」「民族的差別」のそれぞれについて、そのようなモティーフを取り扱っているゲーム作品が本当に存在しないのかどうか、試しにアダルトゲームの中で概観してみよう。

  【 1. 美少女ゲームにおける政治的関係のゲーム的表現 】
  政治的文化的な溝や対立に関しては、主としてSLG系タイトルがその表現を得意としてきた。『鬼畜王ランス』(1996)を初めとするalicesoftのいくつものタイトルが即座に挙げられるだろうし、『英雄×魔王』(2005)や『神採りアルケミーマイスター』(2011)のような大柄なSLG作品もあるが、個人的には『海賊王冠』(2001)を推したい。近世の黒海周辺をモデルにしたと思われる地域で、ロシア的な大国連邦とトルコ的なアジア国家が政治的軍事的に対立しているその間隙を縫って小さな海賊集団が利益を掠め取ろうとするピカレスクストーリーが、商船襲撃SLGパートシステムとウィットの利いたAVGパートテキストの共同作業によって、劇的緊張感に満ちたかたちで進行していく。この『海賊王冠』だけでなく、『巣作りドラゴン』(2004)、『グリンスヴァールの森の中』(2006)、『門を守るお仕事』(2012)などでソフトハウスキャラは、複数(多数)の政治的集団がそれぞれ固有の利害関心を持ちつつ独立のアクターとして関わってくる大状況を展開する「政治のゲーム」を、くりかえし表現してきた。

  【 2. 民族その他の種族的な文化的特性の物語的表現 】
  民族的な溝や対立については、一群の吸血鬼ものや妖怪ものが典型的に主題化してきている。初期の『恋姫』(1995/1999)、『Dearest Vampire』(1999)、『とらいあんぐるハート』(1999)から、『屍姫と羊と嗤う月』(2003)、『ドラクリウス』(2007)、『とっぱら』(2008)、『エインズワースの魔物たち』(2008)、『紅蓮華』(2012)、『ひなたのつき』(2013)に至るまで、固有の文化、価値観の相違や体質の相違、寿命の致命的な相違といった種族間のギャップ、そしてそれらを機縁とする集団的な反目関係がしばしばドラマの焦点となってきた。私見では、種族的差異に由来する不調和が個人的関係を超えてより大きな社会関係の中で問題化されるという点では、とりわけ『ドラクリウス』『ひなたのつき』は注目に値する。その他、ファンタジー作品の中でも、民族紛争や種族間ギャップはドラマのスパイスとして時折用いられてきた(――例えば『うたわれるもの』[2002]、『夜明け前より瑠璃色な』[2005]、『シュガーコートフリークス』[2010]など。『女装山脈』[2011]も、このブランドに特有の、妊娠可能な生理的機能を備えた「男の娘」なるものを、社会化された身体的特性の一つと捉えるならば、この議論の視野に入ってくる)。

  【 3. 社会関係の差別的側面に着目する創作表現 】
  民族や種族にかかる差別性については、黒箱系タイトル群が得意としてきた。なかでも『はなマルッ!2』(2008)は、「幽玄種」と呼ばれる異世界種族が移住してきた世界であるが、この作品に含まれる性的蹂躙シーンのテキストは「この下等な幽玄種め!」といったムードで描かれており、それは単なる性的蹂躙だけではなく、明らかに種族間差別意識を媒介させた深刻なものになっている。同種の表現は、例えば『民族淫嬢』(2008)のあからさまなオリエンタリズム、『蒼海のヴァルキュリア』(2009)の敵国者蹂躙、『リヴォルバーガール☆ハンマーレディ』(2012)の多種族同居世界のほか、おそらくLiLiTHやLiquidといったダーク系ブランドで頻繁に扱われている。ダーク系以外でも、『プリンセス小夜曲』(2005)、『わんことくらそう』(2006)、『ワンコとリリー』(2006)などのように、ケモキャラ趣味の下にそうした種族差別モティーフを忍び込ませている作品も存在する。性的少数者差別としては、『ねがぽじ』(2001)は、表面上は「いじめ」の体裁を取っているが、女装男性のアイデンティティを巡るシリアスな物語としての側面もある。また、『セイレムの魔女たち』(2003)や『魔女の贖罪』(2004)のように、宗教差別乃至宗教迫害を作品の中心的モティーフとして扱っている作品も存在する。その他、匿名的に象徴化されたオタクや中年男性をモブ蹂躙役として――不当にも「気持ち悪い」存在の典型的な像として――描いている数多の黒箱系タイトルも、美少女ゲーム文化の中にいると意識されにくくなっているが、当然ながらそれらの属性に対する差別感覚の認識を梃子にした表現であると言わざるを得ない。

  【 おわりに 】
  如上の実例に鑑みて、一例として美少女ゲームという一つのサブジャンルを見ても、『TO』にただ追従したような退屈な作品はもちろん存在しないが、しかしそこで提起されたアイデアやモティーフは、数多くのゲーム作品の中でさまざまに再考され実験され展開され、そしていくつもの作品の中でよりいっそう先鋭的な表現をも実現してきた。これらすべてが1995年発売の『TO』の功績に帰するというわけではないが、しかしこの作品が大胆に切り開いた可能性は、その後のゲーム文化の中で確かに豊かな創作的果実を産んできたと述べることができるだろう。


  ※慎重を期して注意を喚起しておきたいのは、これらは現実の紛争や差別(及びそれらに対する態度決定)とは無関係だということだ。そうではなくて、あくまでドラマを構成する素材(モティーフ)としての地位において、これらを取り扱っているのであって、これら以外の現実的問題――様々な政治的、社会的、倫理的、文化的な(あるいはその他の任意の人文的、科学的な)諸問題――がフィクションの「ネタ(種)」として取り上げられ得ることとの間に違いは無い。