2016/01/09

漫画雑話

  漫画関連の雑多なメモ(2015年~)。


  11/16
  木々津氏の「らぶさん」。筋書きはずいぶん古典的で、なんだか「波風を立たせず一話で完結した『School Days』みたいだ」と思ってしまった。主人公は、いつもの「独自の価値観を持っているが、頼まれると断れず面倒を見てしまう、私欲を優先しない公平な人物」。ゆりかちゃんみたいな悪友(邪悪な友人)キャラとの距離感も面白い。



  11/09
  【 『少年ラケット 7巻』 】
  掛丸氏、今回(第7巻)もすごい。例えば45ページでは、齣の枠線を消している。これはおそらく、複数の齣の間の時間経過をぎりぎりまで切り詰めるための演出技巧で、これによって文字通り「間を置かない」打ち合いの速度感が表現されている。漫画で枠線そのものを消すというのは、非常にレアな表現だ。この大胆なアイデアを週刊連載のペースでやらかすのか……凄まじい。
  21ページの「吸い込まれる」から「爆発する!」の流れも、個々の絵だけではなく、齣組みによって運動性を表現しているのが面白い。時間及び力の圧縮と解放、そして多角形状の齣配置による視覚的な楽しさ。
  59ページでは、齣と齣の間の余白化した部分にモノローグ台詞を置いている。齣の中には入れられない逸脱的な台詞は、正式な発言にすることのできず絶対に他人には聞かせられない内面の独白に、頼りなさと苦しさの色合いをも帯びさせている。主に少女漫画が開拓してきた技法だが、ここではスポーツ漫画の中にそっと活かしている。

  そしてさらなるご褒美に、苦労しつつ頑張る優秀な眼鏡ショタくん。最高の決めゴマ、見開きページが凛々しくて格好良すぎる……。さらにさらに、おっとり眼鏡ママ……ありがとうございます。

  物語の面白さとは関係ない話をすると、リーグ戦(総当たり戦)での順位の決め方は少々難しい。3人での三竦みはもちろん、4人でも「2勝1敗が3人、0勝3敗が1人」という形になる場合がありうる。5人以上でも、勝敗だけではトップの一人を確定したり上位/下位を分けたりすることができない場合が出てくるだろう(偶数と奇数で場合分けすればよいか)。作中のランク戦システムだと、「直接の勝者を優先」「元上位ランクの生徒を優先」だけでは決められない可能性がある。例えば4人での入れ替え戦で、「元上位の1人が3敗、残りの3人が三竦み」だと、上位2人と下位2人を決定できない。そういう場合は、追加的に「取ったゲーム数や得点数」で比較することになるだろう。
  ただし、「2人の総当たり戦」は、要するに2人が1回(あるいは奇数回)試合をするだけなので、引き分けルールが無ければ必ず上下が確定する。



  09/03
  ああ、そうか、関崎俊三作品が好きな人が、木々津克久作品を好きになったのは、わりと自然なことだったのか。現代社会に棲まう人々の特殊な情念や奇妙な精神構造を取り上げつつ、情緒に溺れず理知的でクールな手つきで、切れ味のよい短編~中編に仕立て上げていく手腕。両者がともに、医学ベースの状況設定をくりかえし手掛けて人間存在の基礎に触れようとしたり、有能で現実感覚を備えた非英雄的な探偵を主人公にしたり、超常の感覚を持つヒロインをデリカシーのあるネームで描いたり、現代人の心の機微に触れるオリジナリティのあるオカルト話を展開したりしてきたのは、単なる偶然の一致ではなく、その底にある双方のストーリーテリングのアプローチに相通ずるところがあったからだろう。仮に関崎氏がマッドサイエンティスト主人公の漫画を描いたり、木々津氏が映画制作現場の物語を描き始めたりしたとしても、私は驚かないだろう。
  ただし、漫画作品としての齣組構築はずいぶん違っていて、関崎氏の場合は一つ一つの齣絵はわりと映像的な動きを見せつつも、最終的なアウトプットとしての紙面のスタティックな表現効果が気持ち良くコントロールされており、それに対して木々津氏の場合は、要所の見せゴマのコントロールはもちろん絶妙だが、全体としては絵コンテのような生き生きとした連続性が強く感じられる。ごく大雑把に言うなら、関崎氏はどちらかといえば美術寄り、木々津氏は底流としては映像寄りの漫画作りのように見受けられる。



  08/19

  【 木々津氏新作読み切り 】
  木々津氏の新作「WILDロア」は、『兄妹』を短編にサイズダウンしたような感じ。「幽霊や妖怪が見える」だと、怪異の性質などに関する説明がいろいろと必要になってくるが、「動物の声が聞こえる」ならば、日常の常識的認識から比較的素直に理解できる。また、問題解決に際しても、特殊な(霊的な)手段をいちいち導入する必要が無く、現実的な対処を考えるだけでよい。「動物の声が聞こえる」というだけで空想的な魅力はすでに十分与えられているし、そもそも30ページ程度の短編なので大掛かりな仕掛けを展開しても仕方ない。
  タイトルの「ロア」は、もちろん主人公の名前だが、扉絵にROAR(鳴き声)と英語ルビがあるのでダブルミーニングになっている。さらに言えば、wild-lore、つまり「野生生物たちの間で有名な便利屋さん」になってくれたらなあとも思った。

  ちなみに、『ふらん』だと主人公の基本的特性が「人間だろうが怪物だろうが自由に機能改変できる」だったし、『ヘレンESP』だと「何も見えないし聞こえないし喋れないが、特殊な超常能力がある」になり、そうした機能的な仕掛けを梃子にしつつ主人公をいろいろなシチュエーションに放り込んでいけば、それだけで木々津氏の力量ならばいくらでも短編/中編サイズの魅力的なお話を作り出すことができた。
  『チャンピオン』誌は、読み切り短編を(人気次第で)連載化することはあるのかなあ。あったらいいなあ。動物相手だと、『マーニー』とは違って完全なボランティア行為になるが、この主人公の性格ならばそれでも問題無さそうだ。相棒キャラ(コーコー)やサポートキャラ(オジサン)もすでに出てきているし。187ページの動物たちを順番にネタにしていくだけでも単行本数冊分くらいの話はすぐに出てくるだろうし(――しかし、少女がキツネやサルやクマと日常的に接するとは、いったいどういう環境なんだろう。北海道?)。



  05/30
  読みたい漫画が3本も載っていれば、その雑誌を購読するのに何の躊躇も無いけれど、しかしそれが一気に0本になると……ね……。誌面がどうなっているのか、代わりの新連載群がどんな内容なのかもまったく知らないが、それを自ら悲しむべきなのか、悲しんでよいのかも分からない。



  05/06
  単行本完結を機に、『スメラギドレッサーズ』への言及は別ページに集約した。

  『兄妹』最終巻も購入。最後のシーンの「電話を取らない」演出は、読み返してもやはり絶品。おまけ漫画の距離を置いたシニックな視点も(そしてその側面を本編では強調せず、「おまけ」にそっと押しやっておく姿勢も)、実にクールで格好良い。「次はまた新しい気持ちでがんばろう」と書かれているのも、ファンとして一安堵。


  横2門の連装砲塔戦車とは……。



  04/08(Fri)
  南瓜漫画。このハンクス大尉にはあんまり活躍してほしくないなあ。


  『イカ娘』は、読んでいてすごい面白いというわけではなかったけれど、雑誌に載っているととても心地良い気分になっていた。けっして読み飛ばさずにいたのは、キャラ萌えのせいだけではない。言うなれば座敷童みたいなもので、直接役に立つわけではないけれど、いるとなんとなく全体の雰囲気が良くなるというタイプの作品も、雑誌のラインアップにいる意味は確かにあったのだ。
  この作品を含めて、お気に入りの3本が同時期に一気に連載終了してしまったので、それ以来、あの雑誌を読むのはやめてしまった。また彼等が新連載を持たれれば、読者として復帰することもあるかもしれないが。



  03/03(Thu)
  自転車漫画は、地面のうねり表現が絵に迫力を与えている。しばしば走行中のキャラクターたちを、意外なほど小さくロングショットで描いているのは、位置関係が重要な意味を持つ集団競技であるせいだけでなく、そうした表現効果のためでもあるだろう。


  定期購読するようになったのは『マジカロマジカル』連載開始の頃からだった――第1話は素晴らしかった――から、丸一年と少々か。読むもの、読みたいもの、本当に好きなものが、立て続けに連載終了してしまうとなると、毎週購読のご縁も終わりになってしまうだろう。もっとも、面白さを提供できなくなった媒体が読者(つまり金を出す者)から顧みられなくなるというのは、 まさにそれらの連載が続けられなくなった事情そのものでもあるのだが。単行本のセールスがむにゃむにゃだったのだろうからね……。


  『兄妹』6巻表紙の絵が、なんだかとても懐かしい感じ。何だろう? 何故だろう?



  02/25(Thu)
  うーむ、醍醐さん、今時こんな臆面もない正統派(のヒールっぷり)で来るとは。

  今回の「悪の華流」云々のコマは、すごく良い絵だった。見せゴマに相応しい色気と迫力がある。物語に合わせて荒々しい筆致を残した画風や、ロングショット気味の小さすぎるコマ絵のせいで、絵の面白さを見過ごしてしまいがちだったけど、よく見てみると、例えば今週の宜野座投球のコマも腕の動きが一目見てよく分かるような絵になっているし、キャラデザもヴァリエーションの幅が広いし、漫画として十分面白い。ただ、状況設定とネームが特殊すぎるというだけのことで。


  『兄妹』は、ここ数回の間に結末の方向性をあらかじめはっきり見せておいて読者がちゃんとピントの合った期待感を持てるように導きつつ、最終回ではそれをきちんと上回り、しかも端正なネームで完璧に遂行しきった。木々津漫画の終わり方はいつもハイレベルな王道を選んできたが、今回は『ふらん』のような幻想的なものでもなく『マーニー』のような皮肉と捻りを利かせたものでもなく、一見穏やかな足取りで過不足無くきれいに穏やかに、そしてデリカシーをもって描ききってくれた。一話完結型ミステリの『マーニー』の頃から、小技を利かせたネームワークが抜群に上手い作家さんだったが、今回もその練達の手腕が存分に活かされていた。
  『アーサー・ピューティーは夜の魔女』という継続中の漫画があるらしい(未入手)ので、せっかくだからそちらを再開して、ついでに第1巻も増刷していただけないものだろうか。


  『実は私は』に対して「なんとなく読みにくい」という印象を持っているのは、紙面の中途半端な灰色っぽさのせいとか、人物を描くサイズが伸縮しすぎるせいとか、表情表現が個人的に馴染めないせいとかもあるようだが、人物を背面から描いたコマが多すぎるせいもあるかもしれないと思った。状況設定からしてもキャラクターの心理描写に少なからぬ屈折を持たせざるを得ない作品として、そのアプローチは作品コンセプトに沿ったものでもあるのだろうけれど。
  とても良い漫画だと思うけど、気軽には読めないのは、そんなあたりだろうか。


  イカ娘さん、ありがとう。


  『浦安』は、無台詞回。浜岡氏の空間作画の正確さが十二分に活かされている。


  弁当漫画は、絵とネームのどちらもディテールがきちんとしているので安定感と説得力がある。



  02/18(Thu)
  インパラ死んだ!?
  (ラグボールかよ)

  「バントやってみよう! バントッ!!」「だからバント~~」の連呼といい、野人くん、かわいいな。


  まあ、ほんの20ページもあれば、木々津氏ならば、何でもできるし……。

  とはいえ、読者にとっては「付き合い方がよく分からない漫画」だったと思うし、それゆえ人気が出にくかったであろうことも想像に難くない。『ふらん』のような怪奇趣味を前面に出すわけでもなく、かといって『マーニー』のような一話完結の技巧とアイデアを楽しめるわけでもなく、『ヘレン』のようなデリケートさがあるわけでもなかった。オカルトものとしての発想力は確かだったが全体としては終始クールに進めてしまっていたし、作中の人間関係も、『マーニー』のように広がっていきそうな気配はありつつも、今一つ落ち着きが無かった。結局、面白い話はたくさんあったし、連載はずっとついていくことができたが、読み手としては軸足を定めにくい作品だったように思う。
  もったいなくはあるが、木々津漫画の面白さは今回の連載よりももっと優れた高みに行くことができることは間違いないので、いったん仕切り直しをされてまた別のアプローチを試してみられるのも良いんじゃないかと思う。


  しかし、イカ漫画と骨漫画に続いて、もしも着替え漫画まで終わってしまったら、もう本当にチャンピオンは読まなくなるぞ……。『ふらん』を後から知ったのがきっかけで雑誌に興味を持って、『マーニー』と『マジカロ』で定着して、『スメラギ』で完全にファンになり、毎週イカを愛でていたのに……。
(ずいぶんオタっぽいチョイスだな)(言うなよ)
  いやまあ、弁当漫画や卓球漫画の程良いショタ感も良いし、暗黒地下野球賭博もなんだかんだで読んでいるし、相撲漫画も結構楽しいしで、楽しい雑誌ではあるのだけど。

  まあ、ネタ切れの心配の要らない作家さんだと思うし、正直にいえば、連載継続如何については心配なんかしなくていいと思っている。


  もしもイカが、あんな開放的なワンピース少女ではなく、コロッサル・スクイッド(※閲覧注意)のような真っ赤でギョロ目な外見だったら……。超ホラー。


  [ ddnavi.com/news/47800/a/ ]
  石黒氏のゲスト出演。熱の籠もった語り口で新本格を論じられるとは。



  02/10(Wed)
  「目羅」さんって、『マーニー』にも登場していなかったっけ。どういう設定なんだろう。
  青の前座トーク、桃のサードアイ、骸骨の耳打ちと黄のリアクション、赤の霊感消滅(?)、そして緑の決意と、面白いネタが大量に投入されていて、それらを楽しんでいるうちに本筋の十二人委員の話題がするすると進んでしまっている。もっと大袈裟にデコボコしてみせてもいいのに……とお節介なことを考えてしまうが、この贅沢なひねくれぶりも、木々津作品の手触りを形作っていたりするもので。


  イカが自分の体重を軽くしているって、そんなことができるのか。


  【 『ドカベン』の浮きキャラと画面構成 】
  『ドカベン』は、融通無碍のコンテが絶品。244-245頁の見開きも、一見無茶苦茶なところにキャラを描いているようでいて、投手と打者の対峙している様子が見事に表されている。投手の側は、外野スタンド全体を魚眼風に捉えた見開き大ゴマの上(紙面左上)に直接重ねてキャラクターの全身を描き、その一方で打者の側は、見開きの右下にバットを構えた堂々たるバストアップで描かれている。同様の趣向は251頁でも行われており、ただしここでは逆に、投手がコマの中に収まっている一方で、バットを前に構える打者は、4段コマ割りの下3段にオーバーラップする形で全身を描かれている。その全身には、影を表すスクリーントーンが薄く掛けられており、その恰幅の良い姿をいやがうえにも重厚なものに見せている。しかも、このページは、決めゴマではなく、投球前の待ち時間にすぎないというのがまた凄い。
  このように、コマの枠を離れてキャラクターを自由に配置するのは、どうやらこの作家の得意とする手法のようだ。コマとして切り取られた絵にならないということから、様々なメリットが生じている。1)コマの内部に通常存在すると見做される空間的縛り付けを離れられること。2)スポーツものに相応しく、全身運動を表現するのに適していること。3)コマ絵の上に別のキャラを重ねることで同時性や速度感を表現したり(今回では、例えば248頁の1-2コマ目、257頁の1コマ目)、あるいは逆に複数のコマに一人のキャラをオーバーラップさせることで連続性や時間の長さを表現したり(例:251頁)することができること。4)コマ割り進行の限界を超えて、紙面全体を視覚的に構築できること。等々。
  それらは、基本的にはコマ割りの順序に即しているので自然に読み進められるし、いわゆる「三段ぶち抜き」のような硬直性からも解放されている。さらに付言すると、たっぷりとインクを含んだ描線は、キャラクターを背後の絵から際立たせつつ、シンプルながら愛嬌のあるデフォルメを匂わせることで、このような浮きキャラにアイキャッチのような親しみやすさの印象を与え、コマ割りからの離脱に自然な説得力をもたらしている。そして、この練達の漫画家は、当然ながら、この浮きキャラ手法の意味作用を正確に把握して使っている。ただ単に「格好良いキャラを大きくぶち抜きで描いている」というだけではなく、上記のように、それぞれ明確かつ具体的な表現効果が読み取れるような使い方をしている。
  このような表現が成立しているのは、野球という人口に膾炙したスポーツのおかげという側面や、個々のキャラクターが十分に浸透した長寿連載のおかげという側面もあるかもしれない。つまり、例えば大きなキャッチャーミットをばんばん叩いていれば、それはあの捕手キャラクターが気炎を上げているところだとすぐに分かるし、ピッチャーマウンドを描かずとも、このキャラクターが投球準備をしている投手であることはほぼ自明に理解される。


  今週の見どころは、『鮫島』の11ページにわたる台詞無し進行のダイナミズム。そもそもが相撲漫画なので、立ち会っている二人がずっと喋っていない(フキダシ台詞を喋っていない)のは当然といえば当然だが、漫画表現としての迫力はそれのみにとどまらない。
  ところで、このタイトル、いつも『ヒトラー 最期の12日間』を連想してしまう。似たようなタイトルはよくあるけれど。


  「新恐怖ルール」……なんだろう、この言語感覚は。藤井氏(原作)の手掛けた作品はこれまで読んだことが無いし、意図的なのか天然なのかまったく分からない。



  02/04(Thu)
  南瓜鋏漫画の方は、今月はついに本編ですらなくなったぞ……。ここまでしっかり積み重ねてきているので、ネタ切れということは無いと思うのだが、もしかしてスランプなのだろうか? もしもそうだとしても、カルッセル編のあの忘れがたい陰惨さと美しさがある以上、岩永氏の連載はひたすら期待してついていくしかないに決まっている。



  01/28(Thu)
  『兄妹』は、シンプルにして大胆なページ間の転換(と間接的なつなぎ)が、素晴らしい効果を挙げている。それは、前向きな希望と、真相に触れた絶望との対比でもある。


  新連載は、ずいぶん読みづらいなあ……。そもそもコマ割りのリズムが悪いのもあるが、コマの大きさや位置関係が内容の重要度に合っていないのも問題だし、人物の顔(頭部)を正面から映したコマ――非常に幼稚な構図だ――ばかりが連続するのも、紙面を平板で退屈なものにしている一因だろう。まるで「下手な漫画」「下手なコンテ(ネーム)」の見本のようだ。


  イカ娘かわいい。



  01/14(Thu)

  【 幽霊兄貴の消滅? 】
  ああ……木々津氏が急所を突いてきたなあ……。
  努力家の思春期主人公の前に、ある日突然、普通の人には見えないキャラクターが姿を現し、それとともに、主人公は謎に満ちた奇妙な状況の中に放り込まれる。主人公は、その幻の朋友と力を合わせて、様々な苦難を解決していく。そうした中でついに、主人公には現実の友人が生まれ、そしてそれと同時に、幻影の仲間は主人公の前から姿を消す。
  日本のサブカルチャーで喩えればおそらく藤子的――ドラえもんであれオバQであれ――と呼んでよさそうな、あるいは世界的に見ればおそらく精神的には『ピーターパン』あたりまで遡れそうな、そういうインドア派的なイマジネーション/ファンタジーの王道を持ってきたのだと思う。
  ただし、今回のこのシーンの演出は、単なる最終回的な別離の感傷ではない。この主人公の性格、これまで描写されてきたあらゆる活動、幻影キャラクターの側が表明してきた思い、等々、それら全ての積み重ねが、このシーンの意味づけに直結している。
 (※翌週追記: うわああん! 思いっきり騙されたー! 兄貴、しれっと復帰してるー! ……さすが木々津氏。)

  『マジカロ~』の第1話も、これと同じような趣向ではあった(かもしれなかった)のだけど……。



  2016/01/08

  『兄妹』も、いきなり状況が一変した。
  こういう早業があるのも、木々津作品から目が離せない理由の一つだ。
  (ごめんなさいごめんなさい途中までは「ククク……したたかに立ち回りつづけてきたこの悪人さんも、ついに年貢の納め時か」などと品のない捉え方をしてました。最後の見開きで一気にひっくり返されてアッと驚きつつ反省しました。)

  これで正式に5色が揃ったけど、仮にそれぞれ旧作キャラになぞらえてみると、「ゆりか(+マーニーの一部スキル)→赤」「マーニー(ヴェロニカ風味)→緑」「ゆりか(の一部性格等)→桃」「天/波峰→黄(ガブリール)」「枯野(ふらん風味)→青」といった感じだろうか。組み合わせ/組み替えはかなり自由だけど、キャライメージのルーツはなんとなく通じそうな感じ。


  切り札のはずの宜野座を、いきなり打たせてしまった。なんという思い切りの良さ。


  なんだか寂しいと思ったら……そうか、もう『マジカロ~』は載ってないんだな……。



  2015/12/25
  迷走ぶりが激しすぎて連載の途中から見放しかけていたけど、最終回は端正な情趣を美しい齣割りで表現した素晴らしい出来だったので、とりあえず最終巻まで買おうかという気分になった。たぶんこの作者は、ぎこちない魔法少女コメディバトルよりも、本来はこんなふうにやわらかな漫画を描くことにこそ適性があったのだろう。

  それにしても、好みの作品が毎週々々、雑誌掲載順の末尾に貼り付いたままというのは、どうも精神衛生上よろしくない。木々津氏の方は、一話完結、またはほんの2話程度の短さでヴァラエティに富んだ話をどんどん出してくる手腕は相変わらずすごいのだが、オカルト要素を含んでいる分、前作のようなミステリとしての切れ味の分かりやすさに欠けており、いささか華のない印象を与えてしまっているのが惜しい。松本氏の方は、第1巻の羞恥バトルものから頭脳戦系のバトルものにはっきり転轍したのは当初から予定されていたものだろうし、これはこれで成功していると思うが、個人的には少々ウェルメイドな作りになりすぎているようにも感じる……が、これは贅沢を言いすぎだろうか。



  11/19
  「侵略マン参上!」にクスリとしてしまった。不覚なり。

  今週の『兄妹』の怪物に、さすが『ふらん』の作者だなと再確認した。最近は、ストーリーを1-2話で手際よくまとめすぎるきらいがあって、それはそれでたいへんな発想力と技術的練達なのだが、いささか食べ足りなさを感じることがある。もったいない。



  10/30
  文月作品恒例の全力の背景作画に加えて、力作絵画までもが毎回拝めるとは、なんと素晴らしい。許嫁恋愛ネタや離島伝奇ネタと比べても、今回の美術家少女ネタはこの漫画家の特質をより良く活かしてくれる筈だと確信できる。美術ものの漫画でも、作中人物が描いた絵がコマに描かれることは案外少ないものだが、この作家ならば、安んじて期待していられる。



  10/23
  そろそろ週刊漫画関係の話題は別ページに分けた方がよいかもしれない。


  高校という小規模かつ持続的なコミュニティですら周囲から孤立してしまうような緑川さんが、探偵をやれるのだろうかという疑問が。面識もなく、自分に対して好意的でもないような人々からうまく話を聞き出せなければ調査も進められないと思うのだが。その点、マーニーと赤木さんは、初対面の他人と打ち解けるスキルが抜群に高くて安心。緑川さんについても、可能性としては、「同年代とは興味関心や精神年齢が合わないが、大人からは好かれている(ありそうだ……)」とか「クラス内で何かやらかしたせいで、最近になって孤立するようになった」とかいった特殊な背景事情があるかもしれない。
  赤と緑は色相環でもほとんど反対の位置だし、キャラクターも対照的にしているのかな。
  ちなみに、今回は「黄」さんの顔見せイベントのようだ。

  一応ここはアダルトゲームのブログなので、全年齢コンテンツのタイトルはしばしば検索避けの呼称をしています。猥褻な画像の掲載とかはしていないけれど、性表現に関する言及や、年齢制限コンテンツへのリンクも含まれるブログなので、念のため……。音楽や模型については、呼称を誤魔化しようもないのでそのままにしているけれど。



  10/17
  相変わらず木々津ワールドは日常生活の中に大小無数の犯罪が横行する荒んだ社会だ……。ヒロインたちは能力が高いおかげで毎回難を免れているけれど、普通の人々(とりわけ女性たち)が普段からいったいどんなひどい目にあっているんだろうかと心配になるくらい。というか、警察に知り合いがいるという程度のただの一高校生が探偵を自称して所構わず(それどころか怪しそうなところばかりに)首を突っ込んでいけば、危険な目に遭う可能性は非常に高いわけで、今まで無事でいられたのがむしろ不思議なくらいなのだが。

  『かつて神~』の最新話も、たいへん良い絵でした。

  以前はこういうローティーンボーイズ向けの漫画は全然読まなかったのだけど、こういう方向性のものにも感性のチューニングが出来るようになってきたようだ。



  09/20
  「犯罪のにおいがしたら」っていうだけで勝手に他人のプライヴァシーに首を突っ込んでくる探偵さんは、隣人としてはそうとうイヤな存在ですし、それは「探偵としてのプライド」なんかじゃないと思いますよ、緑川さん……。



  09/15
  あっ……今の今まで、「『霞外籠逗留記』の原画を担当した人」と、「『アムネジア』『神だった獣たち』等の漫画家」と、「読んだこともないのに何故か名前を憶えているアダルト漫画家」が、頭の中でつながっていなかった。そうか、そうだ、同一人物じゃないか! さらに言えば、『花魁艶紅』の原画家さんでもある(これも今まで見過ごしていた)し、また、「銀閣寺」を冠したサークル名にも見覚えがあった。私自身の迂闊さはともかく、よし、今日からファンになろう。



  08/31
    緑川さん、こんなにへっぽこだっけ? 疑うことを知らないのは、探偵としてはちょっと……。
  赤木さんは赤木さんで、最初はクールすぎてよく分からないキャラだったけど、単行本で読み進めていくうちに血の通ったキャラとして受け止められるようになってきた。



  08/20
  このところ、漫画の横広コマに注目している。縦(上下)は非常に狭いが、紙面の横一杯に広がっているコマ。口元や目元のみを大きく描くカットイン風の置き方をされることも多いが、複数の人物のやりとりを描くのにも使われている。人物(二人)は対向レイアウトで小さく描かれ、そして左右に背景を描く余裕もあるので、その場の状況が掴みやすいし、複数の台詞(フキダシ)が置かれることが多いため、会話がかなりテンポ良く進行するという利点もある。場合によっては、上端に置いて風景だけを描けば、場面転換を表すエスタブリッシングショットとしても機能する。一見するとかなり極端な形状のコマだが、これをうまく使っている作家さんを見ると、「おお、いいなあ」となんとなく好意と評価が上がる。
  つまり木々津作品の話。



  07/30
  緑川さんは、スキルはマーニー並に優秀そうなのに、ここ数話の展開を見ると性格面がヴェロニカ風になりつつあるような……。長所もあるけど不器用な性格で精神面が弱点だらけというキャラに萌えるのはわりと危険な傾向なので、木々津氏もっとやれとは言いにくい。



  07/09
  直前のエピソードでは頭部流血のうえ、磔+火炙りの危機に晒し、そして今回は牧村美樹的末路を想像させるとは、なんと怖ろしい……。腹部に一撃入れておきながら「骨は折れてない」と声を掛けるのも、つい見逃しそうだけど十分おかしいよね……。


  「残り九十九人!」 『百足』は『斬り介』みたいな方向性になるのだろうか。



  05/21
  「…腕? …足? …胸? …腹?」のシーンに深い満足を得た私はKAIファンです。
  少年漫画だから、ちゃんと助けが来るのですが。



  05/01
  大百足怖いっていうどころじゃなかった。(某南瓜漫画の感想)



  03/24
  第7話。怪物側は、今回のようなデフォルメ志向のケモ系デザインよりも、第1話のようなグロテスク志向のクリーチャー系デザインにした方が映えるのではなかろうか。というか、この作品に興味を持つことになったきっかけの一つは、第1話の怪物デザインの秀逸さだった。

  そして今回も、ページまたぎを意識しすぎた齣割りが気になる。



  03/19
  第6話。この漫画を読んでいて特に強く意識してしまうのが、ページの区切り。紙面という物理的条件(紙媒体のみならずwebコミックにおいても)に制約された漫画では、ページの区切りが齣割り進行を決定的に規定している。典型的には、一つのページの最後で「溜め」を置いて、次のページで大齣の見せ場を展開するといったものがあり、これはこれで確かに華やかで効果的な配置と言えるのだが、このような見せ場作りを意識しすぎると、その大駒の直前のページがまだるっこしいものになってしまうことがある。実際、ページをめくったところに大駒を置くようにするために、その直前2ページにかなりどうでもいい(そしてまだるっこしい)シークエンスを描写していると感じられた箇所がある。例えば、前回であれば、犬君が窓から落下するのにあれだけのコマ数と紙幅を費やすことに、どれだけの意味があったか、あるいは何故そんなアクションをわざわざ描写しているのか。その冗長さはいささか漫画の速度感と説得力を欠くと感じられ、そしてそうなった原因として上記のような想定を私は考えずにはいられなかった。全体としては、齣割りが非常に面白い作家さんだとは思うのだが。

  同じように、ページをめくった見開きで勢いのある大駒を展開する漫画家としては、関﨑俊三氏がいるが、この方の作品では、大駒直前のページでの作為的な遅滞を感じたことは(皆無というわけではないが)あまり無い。それは、1)端的な「齣割り構成の上手さ」であるのみならず、2)十分に(連載をそれなりに読みつけている読者であればはっきり分かるくらいに)大駒演出が様式化されているため、溜めが溜めとして適切に機能しているという事情もあるだろうし、さらに3)極端な小齣の多用も含めて齣割りの柔軟性をあらかじめ全体的に高めてあるため、直前ページの扱いにも裁量余地が大きい(そして間と溜めをコントロールできる)ということもあるだろう。このように、関﨑氏の場合は文体上の前提と技術上の前提を確保することによって大駒演出を成立させているところ、一方で、この漫画家の長所である筈の齣割りの妙趣をむしろしばしば犠牲にすることによって強引に大駒挿入を行っている(ように見える)のが、鈍速氏の困難だろう。

  それはそうと(春日一族)、言葉の使い方が繊細なのもこの漫画家の長所だろう。言い回しの選択という意味ではなくて、「言葉」を漫画の中でどのように使うかということに非常に意識的であるようだ。第1話から頻出していたダブルミーニング表現(あるいは瞬間的な誤読を誘う台詞)がまさにそうだが、今回は発せられた言葉と発せられなかった言葉の二重性を大胆な横割り積み重ねの齣割りで扱ってみせた(――ちなみに、それとともに、これまた大胆きわまりないダイナミックな縦割り配列の齣割りも今回使用している)。言葉の使い方と、齣割りの使い方、双方に十分長じた漫画家さんだと思うので、今後にも期待している。もっとも、連載が進むにつれて、私も当初の印象から、[tw: 570748284240732160 → 575991458924081152 ]:この方と同じような、受け止め方の変化を辿ることにはなったが。



  03/14
  第5話。良い眼鏡でした。学園でこぢんまりとせず、世界を拡げてほしいところだが。
  それから、不登校児を云々というのくだりで、つい『BE FREE!』を思い出した。



  03/06
  第4話。サブタイトル「初夜」……え? 不必要に脱がしたあたり、たしかにエロ桜さんだ。



  02/26
  第3話はハードケモに同居に触手……話が早いな!