声優の技能に関する「演じ分け」「聞き分け」の論点についても、世上よく言われる主張には、まったく同意できない(ただし、同時に、それを全面的に否定する意見にも与しない)。
ある一人の声優による、異なったキャラクターの演技が、それぞれまるで別人のように聞こえるということをもって、その声優の卓越を示す根拠乃至指標であると見做す主張をしばしば見かけるが、それははたして正しい判断基準だろうか。
1)第一に、これを声色変化芝居の次元での主張として捉えるならば、さらに「a)局所的能力/全体的能力」「b)個別的評価/包括的評価」の二つの点で考えられるべきだろう。1a)複数のトーンでそれぞれ十分に優れた表現力を保持できるというのは、表現の幅を示す一つの現れであることはたしかだ。それは声優の優れた力量の現れの一つではあるが、しかし全てではない。音声芝居の表現上の意義も、声優のトータルな技量も、けっしてそれのみにとどまらないし、それを超える地点こそが芝居にとって重要なのだ。1b)もう一つの問題は、それが技術的基盤の評価にすぎないという点にある。それは、当該声優の力量を測る一つの手掛かりであり得るかもしれないが、そもそも聞き手は、そのようなことをする必要があるのだろうか。私見では、私たち聞き手が、声優の力量を判定する思い込みの試験官になろうとする必要は無い。あくまで個別作品における瞬間瞬間の演技とそれらの全体的なコントロールのあり方をこそ評価すべきなのであり、個々の声優の名前は、それらの評価を帰属させるべき仮設的概念以上のものである必要は無い。そして、そうであるならば、演じ分けの評価などというものは、あくまで技術的基盤の評価であって、個別演技のクオリティの評価と同一視(混同)されてはならない。つまり、演じ分けを評価する通俗的見解に反して、聞き手は演じ分けのごとき局所的な要素のみに拘泥してはならず、なおかつ、声優そのものを包括的に捉えようなどとはすべきではないと考える。それは、個々の作品における個別の表現を徹底的に注視することによってなされる。一つの作品におけるひとまとまりの芝居を鑑賞している時に、他作品での演技との比較などといった余計なことに意識を向けるべきではなく、そしてまた、声優全体の評価などという手に余ることに意識を向けるべきでもない。作品の中のその都度のその場の表現にとどまり続けることだ。
2) しかしながら、それぞれまったく別物であるキャラクターを適切に演じるならば、それぞれまったく異なったキャラクターとして演じるのは当然であり、それゆえ、それぞれが適切に掘り下げて演じられているならば、(声色の違いであれ、それ以外のなんらかの意味においてであれ)やはりまったく違ったもののように聞こえることになるだろう、ということもまた自然な議論だろう。それは、その声優の演技の幅の広さの問題(外的な比較上の質の問題)でもあるが、同時に――そしてそれ以上に――演技の掘り下げの問題(内的な解釈上の質の問題)でもある。2a)その声優が、より多くの役柄に対してより高度に適応することができ、それらをそれぞれ適切に展開する技量を持っていること(外的な比較の問題)は、声優の技量の一つであり、それ自体としては寿ぐべきことだが、しかしそれを専門家でもない聞き手が評価しようとすることは、先述のとおり、ただの思い上がったお節介か、あるいはせいぜい余技であるにすぎない。2b)そして、ここでも再び、音声演技の表現上の意義乃至巧拙は、声色だけの問題ではないと言うべきだろう。演技の質を構成しているのは、テンポ、リズム、トーン(明るさや硬さ)、そして細部の無数無限の言語化困難なニュアンス、等々の様々な要素だ。もちろんここにはいわゆる「声色」の違いも含まれうるが、そんな大雑把な違いの認識だけでは個別演技の質やそれぞれの特有の形姿を捉えていくことはできない。ある一人の声優によって、異なった役が、それぞれどのように異なって造形されているか、「何故」「どのように」違って聞こえるのか、そのためにどのような音声表現上の技術技法が投入されているかを自分の耳で捉えていく作業は、もっと慎重で困難なものだ。「なるほどたしかにこのキャラとあのキャラとでは、違って聞こえる」という認識は、せいぜいのところ、そうした営みのための出発点にすぎない。
ここから、聞き手側のいわゆる「聞き分け」スキルの位置づけも導出される。もしもそれが、同一の声優の様々な声色の変化に追従してその同一性を認識できるという意味であるならば、それはいわばお座敷芸のようなものであって、役者の創造性を捉える営みとはなんの関係も無い。しかしながら、その声優が芝居をどのように造形してきているか、役作りとしてどのようなアプローチをしているか、その声優の美質が奈辺にあるか、といったそうした特質を深く理解しているならば、これまで聴いたことのない芝居を耳にしても、その芝居の中からその声優らしい個性を聞き取って、演者が誰であるかに気づくことができるようになるかもしれない。ただし、そのような次元での聞き分けは――その次元であっても――、声優の芝居をより良く、より深く、より精密に、より幅広く享受しようとする者がわざわざ「目的」(目指すべき価値)とすべきものではない。それは、声の演技を聞き込んでいく営みに、ただ「結果」としてついてくる(かもしれない)だけのものであり、出来るからといって別段誇るべきことではない。ただししかし逆に、「あまりにもまざまざといかにもこの声優らしい造形の芝居をしている、その明白な刻印が一台詞一台詞のあらゆる箇所に現れているのに、それにまったく気づけないでいるようでは恥ずかしい」といったことはあるかもしれない。例えば、一つの作品で何十もの台詞を聴き続けながら、ほとんど北都南にしかできないようなあの澄明勁烈な芝居が識別できないとしたら、あるいは一色ヒカルに特有のあの精密雄渾にして自在闊達な表現を聴きながら何も感じられないとしたら、あるいは秋野花のまろやかさを、桜川未央の驚くべき鮮やかさを、榊るなのあらゆる怪演を、杏子御津のあの声を、耳にしながらその特有のクオリティを聞き取れずにいるとしたら、やはりそれはアダルトPCゲーマーとしてのキャリアの長さに応じて、それなりに恥ずべきではあるだろう。
もちろん、言うは易しで、私自身なかなかちっともたいしたことはできていないのだが、それでも、何を目指すべきか、何に意味があるのかを枠組だけでもきちんと再考して把握しておくことには意味があると思う。
聞き手の側は、「同一人物が演じているのに、このキャラとあのキャラが全然違って聞こえる」という経験は、たしかに大きな驚きであるのかもしれない。しかし、本職の声優は、おそらくそんなことは気にしていない。webラジオなどの発言を見ても、あるいはそもそも芝居ということの意味からしても、「以前演じたあの役とは差別化して演じよう」などとは考えていない。あくまで重要なのは、今この役をどのように造形するか、その機微をどのように捉えるか、そしてそれをどのように作品に乗せるかだろう。以前にたまたま演じたことのある別の役と、表面上違ったように聞こえるかどうかなどというのは、役作りにおいては瑣末どころかほとんど無関係の事柄だ。声色芝居に関しては、もはやあらためて言うまでもない。