いわゆる「伏線」と「ネタバレ」に関する私見。
物語の面白さはどこにあるのか。その伝達や共有の望ましいあり方について。
【 はじめに:伏線に対する評価の仕方 】
言われた後から該当部分を読み返して、「本当だ、確かにそうだった!」と驚かされるようなのが上手い伏線……なのだろうか??? 私には、そうは思えない。そういう価値観は共有できない。物語の面白さは、びっくり箱の面白さではない。あるいは、少なくとも、物語が持ちうる面白さはそういう種類のものだけではない。それは、ミステリが自己の特有の面白さの一つとして持つものだが、全ジャンルに普遍的なものとは限らない。それは、元々はミステリのごく限定的で特殊な文脈の中で成立していたものだろう。すなわち、謎が存在し、それが最後には理に適ったかたちで解明されるという筋道があるのだという前提が、あらかじめ読者との間で共有されており、そして、その謎を先んじて解いてやろうとする読者の姿勢にもかかわらず、なかなか見通すことが難しいように、その理に適った解のヒントがきちんと提示されているという、そういう技量が高く評価されるのだという文脈があればこそのものだ。つまりそれは、物語の面白さというよりは、(言葉による)パズルの面白さだ。
面白さには、あるいは、「伏線の面白さ」の中だけで見ても、「ゼロからの驚き」だけでなく、「その箇所で明確な訝りを持っていたが、具体的な影響や帰結はまだ分からなかった」というサスペンスの面白さもあり得るし、そして、「そこからどうなるかが読者にもある程度予測できるが、それがどのような成り行きでそれが実現されていくのかという点が、興味を持たせる誘因になっている」という期待感の面白さも、確かにあるのだ。そしてとりわけこの後者が、上記のような狭苦しい伏線過褒の風潮の中で、現在では不当にも追いに軽んじられているように思われる。
話をもう一歩広げよう。いわゆるネタバレ。ネタバレの過剰な忌避について。「他人にネタバレをしてはいけない」という見解が、現在では普及しているようだが、私はそれに対して疑問を、異論を投げかけたい。ネタバレをしてはいけないのはどの範囲のことなのか? 何故してはいけないというのか? そして、はたしてそれは本当にしてはいけないことなのか? 今考えられるだけでも無数の論点が出てくるので、とりあえずは雑多な論述になるかもしれないが、いろいろな角度から検討していきたい。
【 作品について語るということ 】
たしかに、「ネタバレをされたくない」という気持ちを(事前的または事後的に)持つことはあるだろう。当人が望まないことをしないというのは、それ自体としては正しいモラルだ。しかし、創作物について語るという状況は、一般的世間的なモラルのみが問題になる通常どおりの社会的関係ではない。作品を語るということは、もちろん、当該作品の内容を語ろうとすることであり、内容を語るものだという前提がすでに合意されているはずだ。そして、内容を語ろうとするとき、内容をより良く語ろうとすることは、それは内容についてできるだけ広く、できるだけ深く、できるだけ正確に、作品の中で描かれた事象に即して語ることだろう。これを受け入れない人がいるとしたら、その人は、作品を知的に誠実に語ろうとしていない。あるいは、作品の内容を語るのではなく、聞き手を作品へ誘導するために宣伝文句を述べようとしているに過ぎない。それは、「作品(の中味)を語る」という行為を殺すことであり、「作品を語る」という場を不当に制約するものであり、その作品について語る(あるいは語り合う)ことを拒絶することに他ならない。内容に言及することを避けつつ作品について語ろうとするならば、迂遠なほのめかしになるか、宣伝文句になるか、あるいはせいぜい内容をすでに知っている者同士の訳知り顔の頷き合いになるしかない(――しかも、実際には、お互いがその作品についてどのような点に注目してどのような捉え方をしているかすら、ほとんど分からないというのに!)。ネタバレ忌避に対する私の反発は、まずもって、作品への内容的言及全般を抑圧しかねないその息苦しさに対する反発としてある。
これは、作品についての議論が本格的なものになればなるほど、分析と検討を深めようとすればするほど、作品を多角的により良く理解しようとすればするほど、そうなるだろう。シェークスピアを論じるのに、ドストエフスキーを論じるのに、どの文学者がネタバレを気にしているというのか。同様に、現代のアニメ作品を、漫画を、(物語性のある)ゲームについて、私たちがもっと立ち入った検討をし、もっと多面的に楽しみ、よりいっそう多くのものをその作品から取り出したいというときに、 ネタバレ忌避などは無益有害な妨げでしかない。
もちろん、状況や場所によっては、そもそも「作品を語る」のに相応しくないということはあり得る。例えば、日常的な雑談と交流の舞台としてのSNSでは、参加者全員がある特定の作品について語り合うという前提が合意されていないことが多い。だから、twなどでは、作品内容に踏み込んだ言及はせずにおこうと考える人がいるのは、それはそれで理に適った一つの姿勢だ。しかし、それはけっして必然的絶対的普遍的な規範ではない。いろいろな作品についてひたすら言葉のかぎり語り尽くしたい、語ることで自分の作品体験を反芻したいという人もいるし、いても一向に構わない。とりわけ、即時性と同時性のあるアニメ実況感想などでは、制約の無い内容的言及がなされている――地域的な放映時間格差への配慮を無視するほどに――が、それと同じことを、既発表の漫画やゲームについて行ってはいけないなどとする理由は無い。さすがに、雑誌の発売日よりも早くネタバレをするのは、ディーセントな振る舞いではないと思うが、そのような特殊な悪意ある行動は、ごく例外的なものであって、けっして一般化できるものではない。
【 作品の価値はどこにあるのか 】
ネタバレ忌避という、内容も根拠も不明瞭な要求は、作品を語ることをできなくさせる。作品の内容を語ることを禁じようとする。それは、作品にとって良いことだろうか? 逆に言えば、ネタバレによって作品の意義や面白さは殺されるのだろうか?
これは「伏線」に関して言及した論点にも関わる。そもそも作品の面白さは、私たちが作品享受体験から受け取るものは、真相解明のびっくり箱的衝撃だけではない。例えば漫画では、描線の躍動感、キャラクターの可愛さや凛々しさ、齣組みの造形的快感、あるいはカラーのめざましさ、台詞のリズムやレトリック、フォント変化やフキダシ形状変化などの隠微な演出、等々、あらゆる要素の無数の側面を、意識的または無意識的に私たちは受け止めて楽しんでいるはずだ。漫画の良さは、漫画の面白さは、筋書きを追ってその決着の仕方を知ることだけではない。私たちは、紙面に定着された作品の手触りをあらゆる角度から享受しているし、そしてその全体を経験させうることがまさに漫画作品の意義だ。例えば映像作品では、カメラワークのダイナミズムから、登場人物たちの表情の細やかなニュアンス、そしてカメラ(またはアニメの映像でもいいが)を通して伝わってくる――あるいはカメラによる画面切り取りによって構成される――雰囲気、画面の色調とテイスト、個々の台詞からその都度発せられる複雑な音響的感触、劇伴のタイミングとムード、そしてカット切り替え(編集)のコントロールに至るまで、あらゆるものを私たちは目と耳と頭(台詞=言葉)で受け止めているし、その全てが、その全体こそが、一つの映像作品を形作っているのだ。漫画や映像作品だけでなく、ゲーム(囲碁将棋などは別論として、物語性のあるもの)でも、演劇作品でも、あるいはネタバレに関係しないと見做されている美術/音楽/書/詩/写真/造形/建築などの分野でも、創作物から私たちが受け取るのは、そういう全体に他ならない。
そうした中で、終盤の決着の仕方に関する情報や、途中の大事件に関する知識は、本当に瑣末なものでしかない。あるいは、瑣末ではないとしても、ネタバレの有無ばかりを気にしていると、それ以外の無数の要素の重要性を見逃してしまうことにもなりかねない(――まあ、これはお節介だが)。作品にとって大事なのは、「○○が××になる」といったようにワンフレーズで手際よくまとめられてしまう抽象的な情報ではなく、作品がどのような具体的形姿をとって、どのような経緯で展開されていくか、そうした具体的なプロセス全体にこそある。ワンフレーズのネタバレによって作品の急所が代表され代弁され要約されきってしまうことなど、通常は無い。そんな一言のネタバレで作品全体の面白さが失われてしまうことは無い。あるいは、もしもそんなことがあるとしたら、それは、ある特定の「ネタ」(種)に作品の意義を賭けた特殊な文法の下にある作品――つまり典型的にはミステリ――であるか、あるいはそこにしか面白さを見出せないような痩せた作品だろう。
逆の方向から考えてみようか。作品の面白さを事前に致命的に毀損できるほどのことを、私たちは出来るのだろうか? 作品の面白さを、ネタバレによって(あるいはネタバレを含めても)代弁しきることができるのだろうか? 仮に、私たちが本当に面白いと思っている任意の一作品について、他人に対して言葉でその面白さを語ってみるという状況を想像してみよう。可能なかぎりネタバレをして、作品の面白さをすべて先取りしてしまうつもりで、語ってみるとしよう。さて、私たちは、聞き手に対してその作品の面白さを、作品自身よりも面白そうに伝えることができるだろうか? 作品の中に(あるいは作品のネタバレ部分に)面白さの核心部分があるとして、それを述べることによって聞き手を面白がらせることができるだろうか? 出来ないだろう。少なくとも私には、そんなことができる自信は全然無い。どんなに言葉を尽くしても、どんなに内容に言及しても、作品の面白さを伝えきることはできないのだ(――これは、作品に中立的客観的な価値があるかどうかという受容及び解釈の問題でもあるが、ここでは立ち入らない)。そうであるならば、何故、わざわざ作品の内容について語れることを「ネタバレ忌避」としてさらに制約しようとするのか。無意味で余計な、邪魔なだけの制約なのではないか。
ここまでの暫定的な結論。ネタバレ忌避が気にするような、ストーリー上の展開に関する(しばしば抽象的で断片的な)情報は、作品にとってはそんなに大きなものではない。むしろ、ネタバレ如何を気に掛けすぎることで、「ネタ」以外の無数の側面を看過してしまうようでは、本末転倒だ。作品を語ろう。ストーリー上のネタバレに触れるかどうかを気にしなくても、作品内容について語れることは無数にある。キャラクターの魅力を、BGMの魅力を、台詞回しの面白さを、戦闘エフェクトの快感を、大胆な長回しの緊張感を、CGの塗りの圧倒的な迫力を、それら相互の絶妙の絡み合いを、あらゆることを語ろう。そしてその中で、ストーリー上の展開との照応関係の妙味についても、忌憚なく語ろう。
【 作品を生き続けさせるために 】
作品は、芸術作品は、創作物は、それ単体として鑑賞者と一対一で向き合われるべき存在だが、それと同時に、人間社会の中に存在するものでもある。仮に、ある作品を鑑賞したのが私一人だけであり、そして私がその作品について何も言及しないままであるならば、その作品はそこまでだ。それ以上何も残さずに、それ以上誰にも知られずに、人の世からただ消えていく。ある作品のことを知った私が、その作品の面白さを語れば、それを知らなかった人に、関心を持たせることができるかもしれないが、それをしなければ、その可能性は摘まれたままで終わる。
とりわけ、人々の言葉が検索可能なかたちで共有されうるようになったこの時代にあっては、書かれなかったものの地位は、言及されなかったものの存在感は、急速かつ致命的に失われていく。そんな状況で、「ネタ」を保護せんがために、言うべきことを言わなければ、ネタどころか作品そのものが先に死ぬ。もちろん、その「ネタ」の面白さも、隠蔽されたままただ失われてしまうだろう。それでもまだネタバレを忌避したがるのは、私には不合理な行動としか思えない。この作品にはこんなことがあった、この作品にはこんな面白い場面があった、この作品にはこんなドラマティックな展開をした……そうしたことを、誰かが書き残されなければ、その作品は、その魅力は、その場面は、その展開は、それ以上知られる機会が無いままに終わってしまう。それは、その作品が知られていく可能性を著しく狭め、その作品の寿命を致命的に短くする。ネタバレ配慮こそが、ネタを殺すのだ。
むしろ作品の内容に踏み込んで、その面白さを語ることこそが――先述のようにその全てを伝えることなどは出来ないとしても――、その作品の寿命を延ばし、作品の力を強め、作品の影響を広げる。念仏のように、ただ「○○はいいぞ」とタイトルへの言及を繰り返すだけで、知らない人を惹きつけられるのだろうか? こんな面白さがあるのだと、具体的にその魅力を語ってこそ、興味を持たせられるのではないか? むしろ内容を語ることこそが、人々を作品へ誘導するための手掛かりを増やすことになるのではないか? 『さよならを教えて』のネタバレに一切触れずに、その面白さを汲み尽くせるだろうか? あるいは、そのネタバレの断片的な情報からでも、作品本体に興味を持つようになることが、まったく無いと思うだろうか? 実際、あの仕掛けは、その作中状況の大前提または枠組ではあるが、あの作品全体の魅力の中では、そんなに大事なものではない。壊されないように保護しなければならないようなものではない。プレイした人なら、この見解に同意してくれるだろう。それなら、そのネタを語ってでも、もっと多くの人に、作品への興味を持たせたいではないか。それがめったに成功しない試みだとしても。
過剰な隠蔽は、作品の寿命を削りとる行為だ。人々の間で作品が生き続けることを阻害するものだ。人々に関心を持たせる手掛かりとしても、そして歴史的観点でのアーカイヴとしても。迂遠なほのめかしや密儀的な隠蔽によってではなく、その内容そのものを具体的に取り上げて語ってこそ、その魅力は人々に知られていくし、書き残されていくのだ。
補足的に、もう一つ、思考実験をしてみよう。仮に、誰もがネタバレ忌避を一切しなくなった世界を想像してみよう。誰もが、あらゆる作品のあらゆる細部について、一切の制限なく自由に語り合う世界を(――ただし、せめて、発売前のリークだけは、ビジネスのルールとしてNGだとしておこうか)。そのような世界は、不幸な世界だろうか? 不快な世界だろうか? 作品を楽しめない世界だろうか? 未知の作品(ここでは、ネタバレをされているかどうかにかかわらず、自分自身が実物を実際に体験していないという意味だ)への興味をかき立てられない世界になっているのだろうか? あるいは、ネタバレ配慮という考えを失ったら、人々が悪意を持って他人の楽しみを奪おうとネタバレをしだすだろうか? そもそも人は、ネタバレをされるだけで、その作品に関してだいたい満足してしまうものだろうか? 人々がなんの遠慮もなく作品について語り合う世界は、ネタバレについて一定の(ただし私には、すでに受け入れがたいほど過剰だと思えるが)自粛をし合ったり、ネタバレ行為に対して公然たる非難が向けられたりするこの現状と比べて、はたしてそんな悪い状況なのだろうか? いや、そもそもそれは悪い状況なのだろうか?
それでは、現状の「ネタバレ忌避」状況では、実際には何が共有されているか。無難なもの。たまたま多くの人々に既知となった事柄。既知の者同士の頷き合い。悪意にによってネタバレ忌避を無視するコピペ。そして、笑いのために恣意的に歪められたネタ紹介。ネタバレ忌避では、そうしたものを押しとどめることはできない。歪曲的な情報に対抗できるのは、ネタバレ禁止の強化ではなく、正しい情報を提示することであり、作品内容に即した詳細かつ正確な紹介を――そしてそれとともに、よりいっそう適切な評価を、よりいっそう慎重に深められた分析を――提供することでしかない。その作品について人々が持つ知識を、より良いものにしていくためにも、そのためにこそ、ネタバレ忌避などということはやめるべきなのだ。
【ネタバレ忌避の曖昧さという問題点】
ネタバレ忌避には、禁止規範としても問題がある。その範囲がきわめて曖昧なまま、「ネタバレはいけないことだ」という主張ばかりが流通しつつあるという点だ。仮に「(なんらかの範囲での)ネタバレ禁止」が正しいことだとしても、作品についての内容的言及の中で、どこまでは語る(他人に知らせる)ことが許され、どこからは言ってはいけないことになるのだろうか? 万人が同意できるような基準はおそらくけっして作れないだろうし、ある範囲まではゆるやかに合意できるかもしれないとしても、少なくとも今のところ、そのような合意はまったく形になっていない(――そして、もちろん、私のように、そもそもネタバレを禁止規範として認めない者もいる)。もちろんこれは、作品内容(の一部)を語らないということをその定義に含むネタバレ忌避という行為そのものに内在する、おそらくは不可避的な曖昧さでもあるが、その逃れがたい困難は、ネタバレ忌避をする実践そのものを正当化するわけではない。
かようにNG範囲が不明瞭なまま、大上段にネタバレ忌避(あるいはネタバレ禁止)だけが声高に主張されることは、当然ながら、作品についての内容的言及全般を萎縮させてしまうだろう。ネタバレ忌避を声にする人たちには、そのような危険な抑圧的効果が生じていることを意識してほしい。ネタバレに対する「怒り」が、自明の正当な非難であるかのように、まるで重大なタブーに触れる行為であるかのように、公然と主張されつつある現状では、本当にこれは危険なのだ。ネタバレ抑圧に対する制約原理が、今のところ一般レベルではほとんど提起されていないように見える現状では、このままでは、作品について内容的に語ることをひたすら際限なく抑圧する方向にしか事態は動かないだろう。「○○はいいぞ」とタイトルを連呼するしかできない世界。内容について言及すると非難されかねないコミュニティ。そして、それをなんとも思わず、ネタバレ配慮した婉曲的な語り口をもはや自然なものとして身につけてしまい、それ以上の言及を誰もしなくなった言論空間。そんな状況を、私たちは、「ネタバレに気を使ったマナーのよいコミュニケーション」だとして称揚していいのだろうか? そこで失われていくものを、私は怖れる。
【 むすびにかえて 】
「ネタバレはしてはいけない」、「ネタバレトークは差し控えるべきだ」、「ネタバレをしないの賢明で配慮ある振舞いだ」……それは本当に正しいのだろうかと振り返ってみるとき、私の考えは、以上のようになる。
私はあらゆる作品のあらゆる側面をいくらでも語りたい。そして、人々があらゆる作品のあらゆる魅力について楽しく語るのを見たい、聴きたい、読みたい。人々がお気に入りの作品について存分に語っているのは、聞いていて本当に楽しそうだ。そして同時に、そのような楽しげな言論に触れることによってこそ、私は、私が知らなかった作品の存在と、その魅力の可能性に、気づくことができるのだ。あらゆる作品のあらゆるディテールを、あの瞬間のあの雰囲気を、誰もが躊躇せず語り合えるような、そしてそれがお互いの楽しみ(のきっかけ)を増していくような世界であってほしい。
以前にも、「『ネタバレ配慮』が持つ問題」(別掲記事)を書いていた。本稿は、それを一般化したものとして位置づけられ、また、私自身の演出論的志向にも議論を接続している。また、2015年5月雑記(5月8日付)でも、このに関連する議論をしている。
なお、これらと同様に、現代の(オタク的)創作受容において深刻化しつつある病弊として、「現実的な正確性に依拠して、作中の描写のあり方を批判すること」と、「常識的な感性に依拠して、違和感のある描写を笑いものにすること」もまた、創作(及び文化)を退屈で痩せたものにしてしまう重大な問題だと考えている。これらについては、以前から何度もいろいろな形で言及してきたが、いずれあらためてもう一度丁寧に自説を論じるかもしれない。